『永遠の楽園』
Update:2000.03.14





第12章「約束」

 足下に感じる、かすかな圧迫感。
 包み込むように足首から下を覆っていたのは、見渡す限り一面に広がる水面だった。
 視界はあまり効かなかった。
 墨を流したみたいに黒一色に染まる空には星も月もなく、暗闇が広がるばかり。
 そもそもいま見えているのがすぐ目の前の闇にすぎないのか、それともずっと遠くにある闇なのかすら、判然としなかった。
 辺りに視線を巡らせてみる。
 でもそこにあるのは、やはり黒い世界ばかりだった。
 ここは……どこだ?
 少しずつ戻ってきた思考が、当然とも言える疑問を胸中に浮かび上がらせ、同時に俺の中の記憶を掘り起こす。
 確か俺は、学校にいたはずだった。
 夜の学校に。
 舞の仇――「魔」と戦うために。
「行ってきます」
 笑顔と共にその一言を残して、買い物に出かけた佐祐理さん。
 壁にもたれかかったままの俺は、ようやくのことで持ち上げた左手をゆっくりと左右に振って、彼女を見送った。
 全身を支配する痛みを堪え、できる限りの笑顔を浮かべながら。
 ぱたぱたと、少しずつ小さくなってゆく彼女の足音。
 それが途絶えた頃合いを見計らって、
「さて……と」
 小声でつぶやいた俺は、壁に立てかけておいた戟に手を伸ばした。
 柄を掴んだ掌が、ぬるりと水気のような何かで滑る。
 それは、俺の血だった。
 ヤツらと戦っている間に流れ出た血が、掴んだ手を伝って柄の方にまで伝い流れたに違いなかった。
 手を滑らせないようしっかりと握り、戟を支えに立ち上がる。
 その途端、全身に激痛を覚えた。
「痛っ!」
 あれだけの無茶をしたのだから、ちょっとやそっと休んだくらいでどうにかなるとは思わなかった。
 実際身体のあちこちに、かなりガタがきてるのは間違いない。
 特に左足に至っては、まるで自分の足じゃないみたいに感覚そのものがほとんど感じられなかった。
 身体を動かすたび、全身を貫くように走る痛みに耐えてどうにか立ち上がった俺は、抱きかかえるように肩にかけた戟を杖代わりに廊下に向かってゆっくりと歩き出した。
 この場を離れるために。
 佐祐理さんが、ここに戻ってくる前に。
 そして残る一体の「魔」と、今度こそ決着をつけなければならなかった。
 彼女には黙っていたけれど、俺は知っていた。
 すべて倒したはずの「魔」に、まだ生き残りがいることを。
 逃げるヤツを追って佐祐理さんが廊下の先に姿を消した後、その場で相対した「魔」――左足にこの深手を負わせてくれたヤツは、まだ死んではいなかった。
 左足と引き替えに、相手にもかなりの手傷を負わせた自信はあった。
 でも、それじゃダメなのだ。
 倒さなければ。
 その存在自体を消し去らない限り、本当の意味での終わりにはならないのだ。
 無理をしたせいで傷口が再び開いてしまったのか、包帯代わりに巻いてあったリボンからにじみ出た血が、ぽつぽつと雨だれのように床に小さな染みを作る。
 引きずるように足を動かし続けた俺は、ようやく廊下へ出た。
「どこ……だ」
 荒い呼吸の中、絞り出すようにつぶやきながら、暗がりの中をゆっくりと歩き出す。
 ヤツは、この闇の中のどこかにいるはずだった。
 傷つけられた身体を痛みにもだえ苦しませながら、待ち続けているのだ。
 俺の来訪を。
 それからどれくらい経っただろう、廊下の角を幾つも曲がり、階段を上って下りて――ひたすら「魔」の姿だけを追い続けていた俺の意識からは、既に時間の感覚が失われていた。
 同時に怪我のせいで神経も麻痺し始めているのか、少しずつだったけれど身体の痛みを感じなくなってきていた。
 そして……ヤツは、そこにいた。
 昨晩の戦いで砕け散り、吹きさらしとなった窓が立ち並ぶその先、昇降口近くの廊下にそいつは静かにたたずんでいた。
 ゆらゆらと、時々不安定に揺れ動くシルエット。
 白いワンピースに身を包み、吹き込む風に長い髪を揺らしている小柄な女の子を象ったその姿は、初めて目の当たりにする「魔」の姿だった。
 見えないはずの、形を持たないはずの「魔」が、いま俺の前にいる。
 これが……あの「魔」なのか?
 舞を傷つけ。
 佐祐理さんを苦しめ。
 そして俺に耐え難い苦痛を味合わせてくれた……夜の学校に巣くう「魔」の、本当の姿だと言うのか。
 想像もしなかった、あまりに幼い姿に思わずそんな疑問を抱いてしまうが、でも疑問はすぐに確信へと変わる。
 目の前の女の子を、俺が「魔」に違いないと確信できたその理由。
 それは彼女が、見るも無惨な怪我をしていたからだった。
 肩口から胸元に向かって、ばっさりと穿たれた刀傷。
 そこからとめどなく流れ出ている血が、本当なら染みひとつなかったはずの服を赤黒く染め上げていた。
 間違いなくそれは、俺がつけた傷に違いなかった。
 からん……手から離れた戟が、金属音を周囲に飛散させながら床を転がる。
 廊下の先で静かにたたずむ「魔」に向かって一歩、足を踏み出す。
 支えにしていた戟を失ったせいで、うまく歩くことができない。
 それでも手を壁に当ててかろうじてバランスを保った俺は、よろよろと少女に向かって足を動かし続けた。

 ――ゆういち……ゆういち……

 数歩分距離を縮めたところで、俺は初めてささやくような小さな声を耳にする。
 少女の声。
 何かにすがるような、そんな弱々しい音色。
 その声は、どうしてか俺の名前を繰り返し呼び続けていた。
 佐祐理さんを、そして舞を傷つけた「魔」のものとはとても思えない、ひどくか細い声が鼓膜を震わせる。
 そのことをはっきりと意識しながら、俺はその場に膝をついた。
 限界だった。
 崩れそうになる身体を気力だけで必死に保ち、顔を数メートル先の少女へと向けながら、俺は口を開いた。
「……おまえ……は……」

                  §

「キミは、なにをしにきたの?」
 回想に身を任せる俺の意識を現実に引き戻したのは、横合いから不意に発せられたそんな一言だった。
 年端も行かない男の子がひとり、そこにたたずんでいた。
「ここは、ぼくの場所だよ」
「ぼく……の?」
 ようやくそれだけを口にした俺は、改めてそいつに視線を向ける。
 距離にしておよそ五メートル、どこまでも広がる水面を背景にまっすぐ俺のことを見据える澄んだ瞳。
 このままずっと見つめてたら、吸い込まれてしまうんじゃないか――そんな悲しみとも寂しさともつかない色が、瞳に見え隠れしていた。
「そう。ぼくの場所。キミがいる場所じゃない」
 わずかな沈黙の後うなずいたそいつは、穏やかな声で言い放つ。
「俺は、ここがどこなのか分からない。それにおまえが誰なのかも」
「そうだろうね。キミがここを知っているはずがないもの。だいいち知っていたら、来るはずなんてないしね」
「なに?」
 訳知り顔で語る落ち着いたその声が、何も知らない俺のことを嘲っているように思えてしまい、つい声を荒げてしまう。
 でも俺のそんな態度を気にもせずに、
「ここはね、最初からぼくしかいなかったんだ」
 両手を広げながらそいつは、ゆっくりと首を周囲に巡らせてみせた。
「初めから。たぶん……終わりまで」
「どういうことだ?」
「そのままだよ。ここはぼくのために作られた場所で、だからぼく以外の人にはひつようのない場所だから」
 腹の底に、言葉にし難い苛立ちがつのってくる。
 さっきからこいつの言うことは曖昧な上に抽象的で、まるでわざと俺を苛立たせようとしている風に思えなくもなかった。
「ここは、キミのいる場所じゃない」
「だからさっきから言ってるだろ。俺はここがどこなのかも知らないし、大体どうやってきたのかすら分からないんだよ」
 吐き捨てるようにそう言ってから俺は一歩、足を踏み出す。
 その途端、水面が足の動きに合わせて揺れ動き、幾つもの小さな波紋を広げ始めた。
 円を描きながら広がっていった波は、やがてその先にあるそいつの足に当たり……その時になって俺は、初めて気がついた。
 まるで地面に立っているみたいに、そいつの足が水面を踏みしめていることに。
 さざ波は、何ごともなかったようにそいつの足下を通り過ぎ、去っていった。
「おまえ……」
「そっか。キミは女の子に会ったんだね」
「え?」
 俺の言葉を遮るように放たれた問いかけは、唐突なものだった。
「だから、ここにきちゃったんだね」
「言ってる意味が……分からない」
 さっきより少しだけ大きく映るそいつの瞳を見据えながら、小さく首を振る。
「ね、雪はすき?」
 まただ。
 脈絡のない言葉が、またその口から紡がれる。
「……嫌いだよ」
 苛つく心を抑えつつ、吐き捨てるようにそれだけを答える。
「どうして?」
 一瞬、返答をためらってしまう。
 でも次の瞬間、俺は答えを口にしていた。
「悲しいから」
「どうして悲しいの?」
「さぁ、どうしてだろうな。でも俺は、雪を見るとなんでか悲しくなっちまうんだよ」
 それは本当のことだった。
 深々と雪が降りしきる学校からの帰り道、いつだったか佐祐理さんにも同じ質問をされた覚えがあった。
 その時の答えも、やっぱりいまと同じだった。
 悲しいけれど、でもどうして悲しいのかは分からない。
 雪を見ているだけで、心の中のどこかが締めつけられるような、そんな悲しい思いに満たされてしまうのだ。
 大切なものを守れなかった悲しさ。
 大切なものを失ってしまった悲しさ。
 俺の心に覆い被さってくる、幾つもの感情の糸が折り重なって紡がれた悲しみのベール。
「じゃあ、夕焼けは? 夕焼けは好き?」
「好きじゃない」
 俺の返答に、同意とも否定とも判別し難い曖昧な表情でうなずいたそいつは、
「こんどは聞かないよ。『どうして?』って。だってぼくは知ってるから。そのわけを」
 そう言って、両手を左右に広げてみせた。
 ふわり。
 それを待っていたように、そいつの手の上に小さな粒が空から降り立つ。
 頭上を見上げる。
 すると漆黒に塗り固められた空から、数え切れないほどの白い粒が途切れることなく舞い落ち始めていた。
 幾つも、幾つも。
 とめどなく降り落ちてくる、白く小さな粒。
 頬に当たったそれは、冷たかった。
「……雪?」
「そう。つめたくて、とってもかなしい雪。ぼくは知っているよ。どうして雪を見るとかなしくなってしまうのかを。ぼくは知っているよ。どうして雪がきらいなのかを。ぼくは知ってい
るよ。どうして夕焼けが好きじゃないのかを」
 広げた両手で降り落ちてくる雪を受け止めながら、そいつは滔々と言葉を紡ぎ出す。
「なんで、おまえがそんなことを知ってるんだ?」
「分からない?」
「ああ、分からないね。赤の他人のおまえに、どうして俺の心が分かるんだ。どうして俺の過去が分かるってんだ」
「じゃあ……キミは自分の過去を知ってるんだ」
「え?」
 その問いかけに、俺は口を閉ざすしかなかった。
 何故なら、俺は知らないから。
 過去を。
 俺がこの街に住んでいたまだ幼かった頃の思い出から、最後にこの街を離れた七年前までのそのほとんどを。
 何もかも、すべて忘れてしまったわけじゃない。
 覚えていることだってある。
 でも俺の中に残っているのは、大半のピースが失われてしまったパズルのように、断片的で曖昧模糊とした記憶のかけらばかりだった。
「それにね、赤の他人なんかじゃないよ、ぼくは」
 そこで言葉を切って、目を閉じたそいつは、次の言葉を探すみたいに何秒かの合間を置いてから、
「だってぼくは、そのためにここにいるんだから。ぼくにとってここは、らくえんなんだ」
「楽園?」
「そ。えいえんのね」
「永遠の……楽園」
 俺のつぶやきに反応するように、こくりとうなずくそいつ。
 そして無色だった表情に、初めて悲しげとも寂しげともつかない微妙な感情の色を浮かべながら、
「でもね、ぼくにとってのらくえんは、キミにとってはそうじゃない」
「……?」
 言ってる意味が分からなかった。
 こいつにとっての楽園。
 でも、俺にとってそれは……一体何だと言うのか。
「分からないよね。だったら、見せてあげるよ。ぼくのらくえんを」
「見せる? おまえの?」
「そう。そしてキミにとっての……じごくを」

                  §

「祐一君、遅刻だよっ」
 頭上から突然聞こえてきた、女の子の声。
 約束の時間に遅れてしまい、道なき道をかき分けてやっとたどり着いた――うっそうと生い茂る樹々と降り積もった雪に囲まれた、誰も知らない俺たちふたりだけの学校。
 顔を上げる。
 すると晴れ渡った真っ青な空を背景に、大きな樹の枝の上にちょこんと腰かけながらこちらを見下ろしている少女の姿が飛び込んできた。
 冬空に柔らかにたなびかせている長い髪がとてもよく似合っている……そんな女の子。
 怒られるだろうとは思っていた。
 約束した時間に、思いっきり遅れてしまったから。
 でも俺は知っていた。
 ああは言っていたけれど、でも本当は女の子が少しも怒っていないんだってことを。
 俺が来たことを、内心で喜んでくれていることを。
 そうして、すぐに始まるのだ。
 あの温かで、穏やかで、楽しい……何があっても変わることのない、俺と彼女のふたりきりで過ごす時間が。
「祐一く――」
 笑顔と共に途中まで紡がれた、俺の名前。
 でも……その瞬間、風が吹いた。
 一陣の風。
 冬の北風。
 強い風。
 樹々の梢が風に煽られて大きく揺れ動き、枝に降り積もった雪が白い絵の具を撒き散らしたみたいに青空の上を舞い踊る。
 そして……空を舞ったのは、雪だけじゃなかった。
 止まった時。
 凍りついた世界。
 コマ送りの映像みたいにゆっくりと変化してゆく光景を、俺はまばたきひとつできないまま見つめているしかなかった。
 ごとんっ。
 石を落としたみたいな、大地をたたく低く鈍い音が聞こえたのは、永遠とも思える長い時間が過ぎてからだった。
 たったそれだけのこと。
 風が吹き。
 枝が揺れ。
 雪が舞い。
 たったそれだけで……大切だった世界のすべてが、砕け散ってしまう。
 赤い雪。
 夕焼け空みたいな、本当なら真綿のように白いはずの雪を赤く染めてゆく何か。
 俺は、知っていた。
 雪を紅に染めるそれが、何なのかを。
 じわじわと広がってゆく、真紅の絨毯。
 それは……血。
 彼女の身体からこぼれ落ちた命のかけらを染料に、真っ赤な雪のベッドを形作ってゆく。
 無力だった。
 どうしようもなく、俺は無力だった。
 彼女の痛みをやわらげてあげることも、傷を癒してあげることもできない、ただ無力な存在にすぎなかった。
 その時の俺にできたこと。
 抱き上げた彼女の手を握り、何の意味もない励ましの言葉を、瞳から涙をこぼし続ける少女に向かって紡ぎ続ける。
 それがすべてだった。
「……祐一君……また……ボクと遊んでくれる……?」
 かすれるような弱々しい声音。
「…………」
 返事をしてやりたかった。
 うなずいてやりたかった。
 一緒に遊ぼう、ずっとずっといつまでもふたりで一緒に遊ぼうと、笑顔を浮かべながらそう言ってやりたかった。
 でも俺の口からは、言葉を失ったみたいに声ひとつ出てこなかった。
 だから俺は、返事の代わりに彼女の小さな手をぎゅっと強く握りしめる。
 糸の切れた人形みたいに、雪の上に力なく投げ出されたままの、柔らかく温かな手を。
「……嬉しいよ」
 俺を見つめる瞳が、かすかに揺れる。
 そして開かれる口。
「……約束……してくれる?」
 泣きたかった。
 いま目の前の少女がそうしているみたいに、瞳から涙をあふれさせて泣きたかった。
「……っと探してたんだよ……」
 その時だった。
 不意にどこからか、別の誰かの声が折り重なるように聞こえてくる。
 誰だろう。
 そんなことを思う間もなく、再び聞こえてくる声。
「ほら……これって、雪うさぎって言うんだよ……」
 気がつくと腕の中の少女の姿が空気の中に溶けていくように薄れ、別の光景が重なり合うように瞳に浮かび上がってくる。
 雪。
 鉛色に染め尽くされた空から降り落ちてくる、真っ白な雪。
 彼女はその中にひとり、たたずんでいた。
 小さな身体の頭上に、真っ白な雪うさぎを掲げながら。
「わたしヘタだから、時間がかかっちゃったけど……一生懸命作ったんだよ」
 ぽつぽつと、たどたどしさすら感じさせる幼い声はどこまでも穏やかで、でもだからこそ俺の中にある悲しみをより一層強く、深いものにしていった。
「……だったら、指切り」
 そして、もうひとりの少女の声。
 瞳からは涙をこぼしながら、でも彼女はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。
 俺の大好きな、大好きだった笑顔がそこにあった。
「……えっと」
 つぶやきと共に笑顔が歪み、どこか悲しげな色を宿す。
「あはは……手が動かないよ……」
 返事の代わりに、握った手に力を込める俺。
「……これ……受け取ってもらえるかな……?」
 交互に見え隠れするふたつの声と姿は、やがて最初からひとつだったみたいに折り重なり、途切れることなく心を揺さぶり続ける。
「動かないと、指切りできないね……」
「でも、春になって、夏が来て……秋が訪れて……またこの街に雪が降り始めた時……」
「ボク……馬鹿だよね……」
「また、会いに来てくれるよね?」
「……約束だから」
 絡まった小指。
 振り払った俺の手で、無惨に壊された雪うさぎ。
 ただそうすることしかできなかった、その時の俺の悲しみ。
 無力だった俺。
 心のすべてを埋め尽くしていた絶望。
 できもしないと分かっている約束を、傷つけるに決まっている行為を、でもそうするしかなかった七年前の俺。
「うん……」
 小さくうなずいた少女は、弱々しく口を動かす。
 それは俺の耳に届いた、大切で大好きだった女の子の……最後の言葉だった。
「……約束、だよ」

                  §

「嘘……だ」
 俺の口を突いて出たのは、そんな一言だった。
「うそじゃないよ」
「嘘だっ!」
 目の前のそいつを睨みつけながら、俺は声を張り上げる。
「俺はあの子にプレゼントを渡した。商店街で何時間もかかって一生懸命探して決めた、赤いカチューシャだった。あの子はすごく喜んでた。今度俺と会う時には、それをつけて来てくれるって……そう言ったんだ!」
 そのはずだった。
 少なくとも、俺の中に残っている記憶が正しいなら。
 俺は知らない。
 こんな辛く、悲しい思い出の存在なんて。
 どうしようもなく自らの無力さを悔やみ、心が押し潰されそうなくらいに痛んだ、そんな出来事の存在を。
「それは、まぼろしだよ」
「どうしておまえに、そんなことが言えるんだっ!」
 叫び返しながら、でも俺はその言葉を否定しきることができなかった。
 曖昧な過去の記憶しか持っていない俺に、どうして「違う」と言い切れるのか。
 心の片隅を占めるその思いが、俺に戸惑いにも似た何かを抱かせていた。
「だって、ぼくはそのために生まれたんだから」
「……どういうことだ?」
「ぼくは、キミの『願い』から生まれたんだよ。現実をみとめたくない、いまにもこわれちゃいそうな弱い心をまもるためにね」
「…………」
「キミはまぼろしをうけ入れ、かわりに現実をぼくといっしょにここに残していった」
「現実……」
「ここにあるのは、キミが生まれてから十年分の――いまから七年前までの思い出。楽しかったことも、うれしかったことも、つらかったことも、悲しかったことも、そのすべてがここにあるんだ」
 そう言ってから、水面の上に置かれた足を持ち上げたそいつは、つま先でちょんとそれを突いてみせる。
 小さな波紋が円を描きながら広がり、その中にうっすらと何かの像が結ばれる。
 雪。
 深々と降り続く、雪。
 大きな建物と、その前にある木のベンチ。
 人気の絶えたそこに座り込んだまま、泣き続けるひとりの男の子。
「これが、ぼくが持っているさいごの思い出」
「泣きじゃくるぼくの前に現れたひとりの女の子。ぜつぼうと悲しみに打ちひしがれていたぼくの前に現れた、三つ編みの女の子。手には、ぼくにプレゼントするためにいっしょうけんめい作った雪うさぎ」
「…………」
「でも、ぼくはそれをはねのけた。だって、悲しかったから。どうしようもないくらいの悲しみが、その時のぼくの中にはあったから」
 視線を落とし、足下の映像に見つめながら淡々と語るそいつ。
「でもね……ぼくにとってここは、やっぱりらくえんなんだ」
「楽園? こんな悲しい思い出しかない場所のどこが……楽園なんだよっ!」
 俺は叫ばずにはいられなかった。
 ただ悲しいばかりの思い出。
 従姉妹の女の子。
 街中のベンチで、誰かを待つようにひとり寂しく座っていた少女。
 それは、確かに俺の記憶だった。
 どうしてそう言えるのか。
 俺の意識ではなく身体と、そして心が「俺のものだ」と叫んでいたから。
 幸せだった日々。
 笑って、怒って、泣いて……そして、また笑って。
 繰り返される毎日に、積み重なってゆく思いに、素直に自分が幸せだったと信じることができた頃。
 でも、そのすべては失われてしまった。
 いともたやすく。
 海辺に作った砂の城が、波にさらわれて壊されてしまうのと同じくらい簡単に、それは俺の手をすり抜けて消えていってしまった。
 悲しみと絶望だけを残して。
 そんな記憶の、一体どこが楽園だっていうのだ。
 こんなものは楽園じゃない。
 地獄だ。
「だって――」
 少しだけためらいに似た色を顔に宿したそいつは、ぽつりとつぶやく。
「ぼくには、これしかないから」
「え?」
「――ぼくの思い出は、いつだってここで終わりだから。それいがいの思い出を、ぼくは知らないんだ。ぼくはキミがここに置いていった、十年分の思い出だけをなん度もなん度もくり返し見ながら、ずっとここですごしつづけるんだよ。たぶん、えいえんにね」
 思い出だけの世界。
 十年の歳月を経たその先に待っているのは、心が押し潰されるくらいの辛く悲しい思い出。
 それを作り出したのは、他ならぬこの俺。
「それじゃあ、おまえは……俺なのか?」
「あ、やっと分かってくれたんだね。そうだよ。ぼくはキミ。七年前のあの日、この思い出たちとすごしつづけるために生みだされた、もうひとりのキミ」
「もうひとりの……俺」
「だから言ったでしょ。あかの他人なんかじゃないよ、って」
 その瞬間、俺は気がつく。
 どうして俺の中で、七年以上前の記憶が曖昧なものになっていたのかを。
 どうして長い時を過ごしたはずのこの街での出来事を、思い出せなかったのかを。
 簡単なことだった。
 最初から、俺の中にそんなものは存在していなかったのだ。
 俺はそれを目の前のこいつ――もうひとりの「俺」に押しつけて、何ごともなかったように日々の生活を送り続けていたのだ。
 悲しいことなんて、最初からなかったと思いこみながら。
 俺が俺であり続けるために。
 現在と未来を守るために。
「ぼくには、過去しかないんだ」
「ああ」
 静かに紡がれる言葉に、うなずく俺。
「そして未来は、キミの手の中にある。でもね、ぼくはそれでいいと思うんだ」
「本当に……そう思ってるのか?」
「うん。だってここにあるのは、悲しい思い出ばかりじゃないから。楽しかったことやうれしかったことも、悲しかったりつらかったりしたのと同じくらい、たくさんあるから」
「楽しかった……嬉しかった……」
 つぶやく俺。
 確かに、そうかもしれない。
 子どもの頃の楽しかった、嬉しかった思い出。
 はっきりと思い出すことはできなかったけれど、でもそんな思い出もたくさんあったような気がした。
 仲のいい友だちと、日が暮れるまで走り回った野原。
 どこへ行くにも一緒だった、従姉妹の女の子。
 放課後、お小遣いを握りしめて通いつめた駄菓子屋。
 薄野原で出会った、うさぎが大好きだった女の子。
 誕生日を祝ってくれた、たくさんの人たち。
 そして……夕暮れ時の薄野原の中で、一緒にチョコレートを食べた大きなリボンの似合う女の子。
「ね、彼女との約束はまもれた?」
「彼女?」
「だってあの時、ゆびきりをしたよね」
 指切りをした相手。
 見かけによらず元気でおっちょこちょいで……変な言葉が口癖な同い年の女の子。
 そして思い出す。
 彼女の頭にあった、赤色のカチューシャ。
 それはあの日、俺が彼女にあげた――あげるはずだったプレゼントに違いなかった。
 いつか、また一緒に遊ぶ約束。
 果たして俺は、それを守れたのだろうか。
「ああ……守れたよ」
 いまになって気がつく。
 約束を果たした彼女が、もう行ってしまったんだってことを。
 夕陽の赤に埋め尽くされた商店街で、ずっと探していたものを見つけることができたらしい彼女と交わした、別れの言葉。
 それが、本当の意味での別離の言葉だったことに気づかないまま俺は……
 視線を落とす。
 そして拳を固く握りしめながら、次の言葉を口にする。
「あと従姉妹の子とも、再会できたよ。俺の大嫌いな、雪が降りしきる中でな」
「そう。ならいいんだ」
 何ごともなかったようにうなずくそいつ。
 少しもよくなかった。
 そう言い返してやりたかった俺は……でも結局そうしなかった。
 愚かで情けなくて不甲斐ない自分自身に、どうしようもなく腹が立っていたから。
 何も覚えていなかった俺。
 目の前のこいつにすべてを押しつけて、何ごともなかったようにのうのうと今日まで過ごし続けてきた俺。
 そんな俺を、彼女たちはどう思っただろう。
 俺はようやく理解した。
 笑顔に満ちた彼女たちの表情に時折見え隠れしていた、どこか悲しげな色の意味を。
 それは俺の愚かさの、同時に弱さの証に他ならなかった。
「だけどね……ぼくには、まだ気になってることがあるんだ」
「……?」
 ゆっくりと顔を上げる。
 未だに心の中は、自己嫌悪でいっぱいだった。
 でも俺は、これ以上自らの過去から逃げるような無様な真似はしたくなかった。
「おぼえてないかな? ぼくの持ってる思い出だけじゃ、それからどうなったのか分からない約束がまだいくつかあるんだ」
「約束?」
「うん。ぼくとちがって未来を持っているキミなら、知ってるんじゃないかな。約束がまもられたのか、それともまもられないまま終わってしまったのかを。教えてほしいんだ」
「未来……」
 俺のつぶやきにうなずいたそいつは、まっすぐに俺の瞳を見据えながら口を開いた。
「そう。キミだけが知ってる、ふたりの女の子の未来を……」

                  §

 鳴り響く、電話のベル。
 どうしてだろう、相手が誰なのかなんて分かるはずがないのに、その電話は俺にかけられた気がして仕方がなかった。
 少し背伸びをして受話器を取る。
『ねぇ、助けてほしいのっ』
 突然飛び込んできた声。
 聞き覚えのある声。
 女の子の声。
「どうしたの?」
 教えた覚えのないこの電話番号にどうして……そんな風に思いながらも、俺はごく普通の声で問い返した。
 理由はあった。
 少女は、不思議な子だったから。
 道に迷った先で偶然出会い、それから毎日一緒に薄野原を駆け回った彼女だったから。
『……魔物がくるのっ』
 でも、かすかに聞こえてくる雑音を通して少女が次に口にした言葉は、そんな俺にも意外に思えてしまう一言だった。
「魔物?」
『いつもの遊び場所にっ……』
 野原。
 黄昏に映える薄野原。
 俺たちの姿をすっぽりと覆い隠し、風が吹くたびにさわさわと柔らかな音を立てる、見渡す限り一面の薄たち。
 それが俺たちの遊び場所。
 ふたりだけが知っている、誰からも邪魔されることのない秘密の場所だった。
『だから守らなくちゃっ……ふたりで守ろうよっ。あたしたちの遊び場所で、もう遊べなくなるよっ』
 とても嘘や冗談を言ってるとは思えない真剣な声に、心臓がどきりと高鳴ってしまう。
 でも……
「昨日は言えなかったけど、いまから実家に帰るんだ」
 それは本当のこと。
 別れは済ませたつもりだった。
 紅に染まる空が少しずつ紫色に変わってゆき、じき夜が訪れようとする野原の中でお互いに向き合いながら交わした言葉。
 つい昨日の出来事。
「さようなら」
「さようなら」
 でも、彼女は俺を呼んでいた。
 いるかどうかすら分からない魔物。
 そんな存在から、ふたりの世界を守るために一緒に戦ってほしいと。
 それだけを言うために番号さえ知らないはずの電話を彼女は、こうしてかけてきている。
「だから、またいつか遊ぼうよ」
 それが精一杯。
 あの頃の俺が返すことのできた、たったひとつの答え。
『ウソじゃないよっ……ほんとだよっ』
「魔物なんてどこにもいないよ」
『ほんとうにくるんだよっ……あたしひとりじゃ守れないよっ……』
 泣きそうな、すがるような声。
 電話越しでは確かめることはできなかったけれど、きっと彼女はあの小さな身体を精一杯伸ばして、受話器にかじりついているに違いなかった。
 俺からの、たったひとつの返事を求めて。
 うなずき返してくれる、俺の姿を求めて。
『一緒に守ってよっ……ふたりの遊び場所だよっ……』
 俺の次の言葉を待たずに、少女は自らの心の裡に宿した決意を口にする。
『待ってるからっ……ひとりで戦ってるからっ……』
 ぷつりと途切れる電話。
 空電音。
 ゆっくりと元に戻される受話器。
 それは思い出。
 本当に遠い遠い昔の、思い出。
 十年前、この北の街に訪れた短かい夏の日々に紡がれた、女の子との間の出来事。
 忘れていた記憶。
 ずっとずっと、置き去りにしたままだった思い。
 俺は理解する。
 あの時、ひとりで戦い続けると言い放った女の子が誰だったのかを。
 長い髪。
 軽やかな身のこなし。
 うさぎの耳のついた、ヘアバンド。
 彼女が魔物から守り続けようとしていたふたりの遊び場所――薄野原は、果たしてどこだったのか。
 答えはひとつだった。
 黄昏に映える、野原の向こうに遠く見えていた木造の校舎。
 それは、この街に戻ってきた俺が通っている高校の……旧校舎に間違いなかった。

                  §

「あのさ、これ食べなよ」
 そう言って俺が差し出したのは、小さなチョコレートの包みだった。
 駄菓子屋で一個十円で売っていたその包装紙には、犬をモチーフにしたレトロな絵柄のキャラクターが描かれている。
「……?」
 女の子は口を閉ざしたまま、じっと俺のことを見つめるばかりだった。
 従姉妹の女の子――名雪と一緒に、秋子さんに連れられていった駄菓子屋。
 たったいま貰ったばかりの小遣いのすべてを投じて、山のように駄菓子とおもちゃの類を買い込んだ俺は、意気揚々と店を後にした。
 その時だった。
 少し離れた曲がり角のところにたたずむ、ひとりの女の子と目があったのは。
 俺と同じくらいの年格好の、腰まで届く長い髪と大きなリボンが印象的な少女。
 目があったのは、ほんの一瞬のことだった。
 女の子はすぐに踵を返して、逃げるみたいに角の向こうに歩み去ってしまったから。
 遠目だったから、もしかしたらただの勘違いかもしれない。
 でもとても悲しくて、寂しそうな目をしていたような、そんな気がしてならなかった。
 それが、どうしてか気になって仕方がなかった。
 少しの間その場で腕を組んで考え込んだ俺は、秋子さんの許に駆け寄る。
「ねぇ秋子おばちゃん。ぼく、ちょっと寄り道していきたいんだ。だから、名雪と一緒に先に帰っててくれない?」
「寄り道?」
「ダメ……かな」
 名雪と手をつないで店から俺が戻るのを待ってくれていた秋子さんは、小首を傾げてさっき女の子が曲がっていった角に視線を向ける。
 でもすぐ俺の方に向き直ると、
「じゃあ、あまり遅くならないようにね」
 穏やかにそう言って、俺の寄り道を許してくれた。
「うん、分かった」
 たったいま駄菓子屋で買ってきたばかりの品物の大半を名雪に預けてから俺は、勢いよく駆けだした。
「ゆういちーっ。こんなにたくさん、わたし持ちきれないよぉ」
 背中を、困ったように俺の名前を呼ぶ名雪の声が追いかけてきたけれど、それを完全に無視して走り続けた。
 角を曲がる。
 でも、さっきの女の子の姿はどこにも見あたらなかった。
「どこ行っちゃったのかな……」
 きょろきょろと辺りを見渡しながら、勘だけを頼りに求める姿を追いかける。
 どれくらい走り続けただろう、気がつくと空が少しずつ赤く染まり始めていた。
 目の前に広がる風景。
 一面に薄の穂が揺れ動く野原と、その先に遠く見える建物。
 見覚えのある景色。
「ここは……」
 その場に立ち尽くしたまま、辺りを見渡す。
 もしかしたら……心の片隅にずっとしまったままだった記憶が、期待にも似た思いを抱かせてくれた。
 同時にちくりと、心が痛む。
 ひとりの小さな女の子。
 跳ねるたび、大きく揺れ動くうさぎの耳のヘアバンドがよく似合った、元気な女の子。
 戦い続けると、守り続けるとそう言っていた女の子。
 でも、俺がそこに見出したのは別の女の子の姿だった。
 大きなリボンで結わえられた、長い髪。
 夕暮れ時の涼しげな風に吹かれて揺れ動いている薄の間からそれが、ちらちらと見え隠れしていた。
 乱暴に薄をかき分けながら、近づいてゆく。
「……見つけた」
 俺が口を開くと同時に、俯きがちに地面をじっと見つめていた少女の顔が、ゆっくりと持ち上がる。
「ずっと探してたんだ」
「……ふぇ?」
 それが初めて耳にした、女の子の声だった。
 それきり言葉の接ぎ穂を見出せないまま、黙り込んでしまう俺。
 何を言えばいいんだろう。
 少女の瞳の裡に見出した何かが気になって、こんなところまで追いかけてきてしまったけれど、いざ目の前にすると話すことなんて何も思いつかなかった。
「あのさ……」
 どれくらい経っただろう、ポケットに手を入れた俺は中にあったものを彼女に差し出す。
 ぽかんと口を開けながら少女は俺の顔と、手の上のそれを交互に見比べていた。
 もしかしたら、どうすればいいのか分からないのかもしれない。
 だから俺は、ためらいがちな表情を浮かべている女の子に、できる限りの笑顔を浮かべながら小さくうなずくと、
「あのさ、これ食べなよ」
 それだけを口にした。
 相手の返事を待たずに手の上にそれを乗せ、そのまま彼女の横に腰を下ろす。
 それからポケットを探り、同じ物をもうひとつ取りだす。
 かさかさ……包み紙を解き、四角いチョコをそのままぽいと口の中に放り込む。
 一連の俺の行動を横で黙ってみていた少女は、やがて丁寧な動作で包みを解くとチョコを口に含んだ。
 何かを確かめるみたいに目を閉じながら、ゆっくり咀嚼していく口の動き。
 そしてうっすらと目を見開くと、
「おいしい……です」
 ささやくような小声で、それだけを口にした。
「ああ、おいしいよね。大好きなんだ、これ」
「そうですか。でも……どうして?」
 少女は小首を傾げながら、不思議そうな様子で訊ねてくる。
「さぁ、どうしてかな? よく分からないや。でもさっき見た時、キミがなんとなく元気なさそうだったから……それでかな」
「ふぇ……たったそれだけで、ですか?」
「それにほら、もしかしたらお金を持ってなかったからお菓子が買えなかったのかなって、そう思ったから」
「そうですね。お金は持っていませんでした。買い食いをしてはいけないと、お父さまから申しつけられていましたから」
 女の子は、相変わらず寂しそうな様子でそう言う。
「元気だしなよ。チョコも食べられたんだしさ」
「はい。少しだけ……元気が出ました」
 口元をかすかにほころばせながら、女の子が答える。
「少しだけ?」
「……とても……悲しいことがありましたから」
 しばらく続いた静寂の後、つっと視線を俺からそらした少女は、そのまま薄の間からのぞく黄昏の空を見上げながら、ぽつりとつぶやいた。
「ずっと『正しい』と思ってしていたことが、本当は少しも『正しい』ことではなくて……そのせいで大切なものを無くしてしまったんです。大切な、とても大切なものを……」
 俺は少女の言葉に耳を傾け続けた。
 正直それがどれくらい悲しいことなのか、俺にはよく分からない。
 黄昏の空を見上げる少女の横顔は、夕陽に照らされて髪も肌も赤く染め尽くされて、とてもきれいだった。
 でもそれと同時に、いまにも泣き出してしまうんじゃないかと思えるくらい、悲しげで痛々しいものにも感じられた。
「こうして生き続ける限り、その罪を償うことはできないんだと思います。それにこんな『悪い子』が生きていても仕方ないですし、生きていく意味もないでしょうから。だから……」
「ダメだよっ!」
 自分でもびっくりするぐらいの声だった。
 女の子も同じだったのだろう、驚いたようにそのつぶらな瞳を見開きながら、言葉を失ったまま俺の顔を見つめている。
 でも俺は、構わず言葉を続けた。
「そんなこと言ったら、ぼくの方がずっと『悪い子』だよ。だって宿題はしないしそうじもサボるし、それにケンカだってするし寄り道はするし買い食いはするし従姉妹の女の子にいじわるしたりもしてるんだよ」
「…………」
「でも、ぼくはこうして生きてるよ」
「…………」
「本当のこと言えば、キミの悲しさがどれくらいのものなのか、ぼくには分からない。ぼくがもっと大人になったら分かるのかもしれないけど……でも、世の中辛いことや悲しいことばっかりじゃないと思うよ」
 この頃の俺は、まだ何も知らなかった。
 大切なものを失うこと。
 それがどれくらい悲しいものなのか。
 それがどれくらい辛いものなのか。
 記憶を閉ざしてしまうくらいの、弱い自分の心を守るために現実を拒絶して幻を受け入れてしまうくらいの悲しみを俺が味わったのは、それから数年後のことだったから。
 だからかもしれない、あんな無茶を言えたのは。
 守れると思った約束。
 守るつもりだった約束。
 俺は少女と、それを交わしたのだ。
「でも……」
 何か言いかけた少女の言葉を遮り、彼女の手を取った俺は有無を言わせず互いの小指同士を絡ませる。
「意味がないなら作ればいい。目的がないなら、いまぼくが……俺が作ってあげるよ。俺とキミは三年……いや五年後の冬にここでまた会う。そしてもう一度、一緒に遊ぶんだ」
「…………」
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。はい、指切った」
 絡ませた時と同様、今度も強引に指を切ってしまう。
「ふぇー……」
 びっくりした様子で女の子は切られた自分の小指と、俺の顔を交互に見やる。
「約束だからね」
「……約束」
「五年後の冬休み、ぼくは必ずここに来るから。だから……」
 言葉を切り、そして少女に目を向ける。
 顔には驚きを。
 ふたつの瞳には悲しみを。
 そして口元には、かすかな微笑みを宿しながら少女は、
「約束……ですね」
 そう、小さくうなずいてみせた。

                  §

 部屋の奥にしまい込んであった段ボールの中から偶然見つけ出した、子どもの頃の日記を読んだ時のような、そんな感じだった。
 忘れていたこと。
 悲しくて、辛くて、寂しくて、悔しくて、痛くて……そんな様々なものがない交ぜになった思いと共に、心の奥底に封じ込めていた遠い昔の記憶が、いま目の前にあった。
 どうして忘れてしまっていたのか。
 小さな約束。
 小さな決意。
 薄野原の中で、ずっと戦い続けてきた女の子。
 たった一度の出会いと指切りを忘れず、長い長い時の中を過ごし続けてきた女の子。
「思い出せた?」
 すぐ側からかけられる声。
 俺は「ああ……」と、うなずきながら返事を口にする。
「だったらぼくに、キミの持っている未来を教えてくれないかな。この子たちが、あれからどうなったのかを」
 そして小首を傾げながら、
「女の子はいまも戦いつづけているのかな? もうひとりの女の子は約束どおり待っていてくれたのかな? ぼくはそれを知りたいんだ」
「知って……それでどうする?」
「別に、どうもしないよ」
 それは、少し意外な返答だった。
「だってぼくは、キミの過去を見つづけるためにキミの『願い』から生まれて、思い出といっしょにここにいるんだから。いままでも、これからもそれは変わらないよ」
「…………」
「でもね、あの女の子たちの未来を知ることができたら、いままでよりすこしだけ安心してここにいられるような気がするんだ。思い出といっしょに、キミが悲しんだり、苦しんだりしないように、かわりにぼくがそれを見つづけてあげるから」
 もうひとりの俺。
 まだ子どもだった、あの頃の俺が受け入れるには辛すぎる過去を、俺の前から覆い隠すためだけに生み出された俺。
 それは俺の心の弱さの産物。
 現実を受け入れることを拒み、偽りの現実をその代わりに見続けたいと望み、願った俺の思いが生み出した存在。
「だから教えてほしいんだ。女の子はいまも戦ってるの、それとももう戦うのはやめてしまったの? 女の子とはもういちど会えたの、それとも会えなかったの?」
「……嫌だ」
「え?」
「教えて……やらない」
 俺の言葉に、そいつは少しだけ困ったような表情を浮かべる。
「どうして、どうして教えてくれないの? ぼくは過去だけを見てなくちゃいけない存在だから? ここにいなくちゃいけないぼくには、そんなものは必要ないの?」
 悲しそうな声。
 そんなもうひとりの小さな俺をじっと見据えながら、やがてゆっくりと口を開く。
「そんなに知りたかったら、自分の目で確かめればいいだろ」
「え? それって……」
「来いよ。一緒に行こうぜ」
 言いながら俺は、そいつに向かって手を差しのべた。
 どう返事をしたものか分からなくて困っているみたいな、そんな表情がそいつの顔に浮かんでいる。
「でも……」
「俺だって、もうあの頃の俺じゃない。悲しいことはやっぱり悲しいし、嫌いだけど……でもそこから逃げるのはもっと嫌だ。情けないじゃないか。俺なんかよりもっと悲しくて、辛い思いをしてる人がいるってのに……」
 脳裏に浮かぶ姿。
 舞と……そして佐祐理さん。
 彼女たちは、俺なんかよりもっと辛く、悲しい出来事を経験してきてるに違いないのだ。
 でも、彼女たちは逃げたりしなかった。
 その記憶を心の中にしっかりと宿しながら、いままでの時を生きてきた。
 俺はようやく理解した。
 いつだったか佐祐理さんが、俺たち三人の背負ってるものが似てるって、そう言った言葉の本当の意味を。
 彼女の言うとおり、確かに俺たちは似ていたのだ。
 背負っているものの重さが。
 そして守るべき、小さな約束の存在が。
 な、そうだよな?
 誰に言うでもなく、心の中でつぶやく俺。
 それは俺の中に戻ってきた……でも、もう二度と会うことはかなわないだろう少女に向けて紡がれた言葉。
 いますぐには無理かもしれない。
 でもいつかそれを乗り越えていきたいと、そう思っていた。
 彼女たちのように。
 沈黙が流れる。
 どれくらいそうしていただろう、閉ざしたままの口をゆっくりと開いた俺は、
「それに」
「それに?」
 一度そこで言葉を切った俺は、笑顔を宿しながら最後の言葉を紡ぎ出した。
「同じ……『俺』だろ。過去とか未来とかそんなこと言ってないで、一緒に見に行こうぜ」
 改めて、そいつに向かって手を差しのべる俺。
「さ、お姫さまたちを迎えに行こう」
 少しの間、差し出された手をじっと見つめていたそいつは、やがておずおずと右手を上げると、その小さな指で俺の手をぎゅっと握り返してくる。
 そして次の瞬間、
「うんっ」
 目を細めながら、大きくうなずいた。
 そこにあったのは、俺の中から失われて久しい――懐かしさと照れくささを共に抱かせてくれる、間違いなく七年前の俺の笑顔だった。
第13章に続く

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