『永遠の楽園』
Update:2000.03.25





第13章「鏡」

 遠く聞こえる、目覚ましの音。
 軽やかな足取りで近づいてきたそれは、眠りの国の湖畔に足をひたしていたわたしの身体を優しく揺さぶる。
「……ん」
 ゆっくりと目を開ける。
 布団から手を出して、目覚まし時計のスイッチを止めた。
 寝起きでちょっとぼんやりした頭のまま身体を起こし、夜の間に冷えきった室内の空気に肌をさらす。
 やがてベッドから抜け出して窓辺に歩み寄ったわたしは、カーテンをさっと開け放った。
 その途端、まばゆいばかりの朝の陽光が瞳を貫く。
「今日も、いいお天気ですねーっ」
 青々と澄み渡った空を少し目を細めて見上げているうちに、自然とそんな言葉が口をついて出てきてしまう。
 その場で「うーん」と大きく伸びをして、身体の中の眠気を振り払ってからわたしは、いつも通りの時間に部屋を後にした。
 ぱたぱた……スリッパが階段を踏みしめる、柔らかな音色が耳に心地よかった。
 洗面所で歯磨きと洗顔を済ませて、お気に入りのパジャマにカーディガンを肩掛けに羽織った格好のまま、家族が待つダイニングに向かう。
 居間と廊下を隔てるドアを押し開けると、暖かな空気がふんわりとわたしを包んだ。
 生活の温もり。
 日常の温もり。
 そして、家族の温もり。
「おはよう、佐祐理」
 キッチンで朝食の支度をしていたお母さまが、野菜を刻む包丁の動きを止めてわたしに目を向けていた。
「おはようございます、お母さま」
 笑顔で朝の挨拶を返したわたしは、そのままテーブルの前に座る。
 そこには、既に先客がひとりいた。
 椅子の高さがちょっと足りないのか、胸から上をテーブルの上にのぞかせながら鷲掴みにしたフォークではぐはぐと、朝食を一心不乱に食べ続けている。
 今日も元気そうだ。
 そんなことを思いながら小さく笑みをこぼしたわたしは、両手であご肘をつきながら目の前にあるその姿を見つめ続けた。
 でも食事に夢中なのか、いつまで経ってもわたしの存在に気づいてくれないその子の様子にくすりと口許をゆるめたわたしは、少し身を乗り出すようにその子に顔を近づけると、
「おはよう、一弥」
 目を細めながら、朝の挨拶を口にした。
 その途端、せわしなく動いていたフォークがぴたりと止まる。
 お皿に向けられていた顔がぱっと持ち上がり、口の周りを絵の具で塗ったみたいに目玉焼きの黄身で彩った、男の子の無邪気な笑顔が目に飛び込んできた。
「おはよう! お姉ちゃんっ!」
 大きく開かれた口からは、抜けたばかりの前歯の部分がぽっかりと穴を開けているのが見えていて、その様がいかにもやんちゃな男の子といった雰囲気を醸し出していた。
「ほーら、一弥。ダメだよ。お口のまわりが黄身だらけ」
 そう言いながら、テーブルにあった一弥用の濡れタオルで顔をごしごしと拭いてあげる。
 くすぐったそうに目を細めながら、でもわたしに顔を拭かれるままの一弥。
「はい、きれいになったよ」
「うん!」
 満足そうにうなずきながら一弥は、コップに注がれた牛乳を一気に飲み干した。
「あーあ、今度は真っ白なおひげが生えてるよ」
 笑いながらわたしは、もう一度タオルで顔を拭いてあげる。
「一弥。ごはんを食べる時くらい、もう少しお行儀よくなさい」
 いつの間に現れたのか、台所にいたはずのお母さまがわたしの朝食を手に、テーブルの側に立っていた。
 目玉焼きの乗ったお皿と、ふんわりと柔らかな湯気を立ち上らせる紅茶のカップをわたしの前に置くと、お母さまも椅子に腰を下ろす。
「ごめんなさいね、佐祐理」
「え?」
「わたしとお父さまが仕事で家を空けがちだから、一弥の面倒をほとんどあなたに任せきりにしてしまって」
 急に、どうしたのだろう。
 お父さまとお母さまのふたりとも、朝早くから夜遅くまでずっと仕事で忙しいのはいまに始まった話じゃなかった。
 でもわたしも一弥も、それを苦に思ったことは一度もなかった。
 昔からお母さまは、朝少しでも時間のある時は必ず朝食を作ってくれた。
 お父さまもたまのお休みの日には、本当はお仕事の後で疲れているはずなのに、でも嫌な顔ひとつせずわたしたちをお散歩や遊びに連れていってくれた。
 それにお父さまたちが家を留守にしていても、わたしはひとりぼっちじゃなかったから。
 弟の一弥がいつでも一緒にいてくれたから、少しも寂しくはなかった。
 大切な弟。
 大好きな弟。
「お母さん、お姉ちゃんをいじめちゃだめだよぅ」
 突然、わたしたちの会話に割り込んでくる一弥。
 手にしたフォークをぶんぶんと振り回しながら、怒ったような表情を浮かべている。
「あら、ごめんなさい。でも一弥は、本当にお姉さん思いの子ね」
「うん。だってぼく、お姉ちゃんのこと大好きだから!」
 破顔一笑、大きく口を開けて嬉しそうにそう言う一弥。
 そんな一弥に向かって、わたしは苦笑いを浮かべながら、
「違うよ、一弥。わたしとお母さんはね、一弥がもう少しお行儀よくなってくれたらいいのにねって、お話してたんだよ」
「え、そうなの?」
 びっくりしたように、一弥が訊ね返してくる。
「そうねぇ。お母さんも男の子は元気なのが一番だと思うけれど、でも一弥はちょっと元気がよすぎるかしら」
「うー……」
 わたしとお母さまの両方から同じことを言われた一弥は、今度は困ったようにフォークをくわえながら顔をしかめてみせる。
 くるくると、よく変わる表情。
 そんな一弥の顔を見ているだけで、なんだか楽しくなってきてしまう。
「あははーっ。冗談だよ、一弥。お姉さんはね、いつだって一弥が元気でいてくれるのが一番嬉しいんだよ。だから無理しないで、少しずつお行儀よくしていこうね」
「うー……うん」
「それじゃあ、一弥。ごはんを食べ終わったら、お行儀のよい子はなんて言うのかな?」
「ごちそうさま!」
 ぱっと手を上げながら、元気に叫ぶ。
「そうだね。じゃあ、一弥もちゃんとごちそうさまをしようね」
「うん。ごちそうさまでしたっ」
「はい、よくできました。一弥はやっぱりいい子だね」
「えへへ」
 そんなわたしたちのやりとりを、横で座って見ていたお母さまは何も言わずに、微笑みだけを浮かべながら見つめていた。
 それからふと思い出したように、
「あら、もうこんな時間。お母さん、そろそろ出かけないと。ふたりとも、そろそろ学校に行く時間じゃなくて?」
 時計を見ると、お母さまの言うとおりだった。
 わたしはうなずきながら、ぴょんと椅子の上から飛び降りた一弥に向かって、
「一弥、今日も途中までお姉さんと一緒に行こうね」
「うん!」
「じゃあお姉さん、急いでごはん食べちゃうから。先にお着替えして待っててくれるかな?」
「はーい」
 ぱたぱたと足音を響かせながら居間を後にする一弥の後ろ姿を見やりながら、フォークに刺した目玉焼きをぱくりと口に含む。
 卵の温かな食感が、口の中一杯に広がる。
 こうしてわたしにとっていつもと同じ、でもだからこそ幸せの存在を身近に感じることのできる一日が始まった。

                  §

 ちくりと、不意に額が痛んだ。
 ……なんだろう?
 無意識に、痛んだ場所に右手を当てあてるわたし。
 でも指先がそこに感じ取ったのは、いつもと同じ滑らかな肌触りばかり。
 怪我をしているとか、そういうわけじゃないみたいだった。
「佐祐理、今日は屋上でお昼しよっ」
 すぐ側から聞こえてきた声に顔を上げると、そこにはいつも一緒にお昼を食べているクラスの子が、楽しそうな表情を浮かべていた。
「え……あ、はい。分かりました」
 気を取り直したわたしは、持ってきたお弁当を机の上に乗せながらうなずく。
 丁寧に包まれた、三段重ねの大きなお重。
「佐祐理のお弁当ってさ、いつもおいしいからおかずの交換しがいがあるよねぇ」
「あははーっ。でも今日のお弁当を作ったのは、わたしじゃないんです」
「え? ああ、そっか。今日は佐祐理のお母さんが作ってくれたんだ」
「はい」
 普段は自分で作っているお弁当。
 でも月に一度は、わたしのために必ずお母さまが作ってくれるのだ。
 お母さまのお料理は、本当においしい。
 少しでもそれに近づこうとわたしも一生懸命練習をしているけれど、でも正直なところまだまだだった。
「佐祐理のお母さんも、すっごい料理上手だもんね。楽しみ楽しみ。さぁ、それじゃあ屋上へレッツゴー!」
 彼女は本当に嬉しそうに、跳ねるような軽やかな足取りで廊下へ出てゆく。
「まったく。あの子ったら、なーに浮かれてんだか」
「あははーっ。でも、嬉しいですよ。わたしとお母さまのお弁当を、あんなに楽しみにしてくださっているんですから」
「まぁ、さゆりんがそう言うならいいんだけどね」
 そんなたわいもない話をしながら、わたしたちも彼女の後を追って教室を後にする。
 校舎の中央にある、屋上に続く階段を上ってゆく。
「佐祐理ーっ。先行ってるからねぇ」
 一足先に屋上前のドアにたどり着いていた彼女が、踊り場の手すりから身を乗り出しながら手を振っていた。
 ドアの開く音。
 そして閉じられる音。
 でも踊り場にたどり着いた時、先に屋上に行ってるはずの彼女の姿をそこに見出した。
「ふぇ……どうしたんですか?」
「……屋上は、止めとこ」
 疲れた様子で口を開く彼女に、わたしたちは顔を見合わせながら小首を傾げる。
「屋上でお昼を食べるのに、なにか不都合があったんですか?」
「……寒い」
「はぇ?」
「あたしには、とてもこの世のものとは思えない寒さに思えたよ。あんなとこでお弁当を広げた日には、五分で風邪引いちゃうって」
 いまは二月。
 暦ではあと少しで春が来る時期だったけれど、この北の街に春が訪れるのはもう少し先のことだった。
 ようやく溶け始める、冬の間に降り積もった雪。
 咲き乱れる桜の、視界を埋め尽くすほどの花びら。
 春の到来と共に一斉に芽吹く樹々の緑。
 でも……いまはまだ冬。
 降り積もった雪は溶けるそぶりすら見せることなく、吹き抜ける北風と共に町中を白一色に染め上げていた。
「大体いま見たら屋上、雪だらけだったよ。あれじゃあお昼を食べる前に雪かきしないと、座る場所なんてどこにもないって」
「あははーっ、言われてみればそうですよね。でも困りましたね。どうしましょうーっ」
「ここでいいんじゃない?」
「ここって、この踊り場ですか?」
 言いながら、辺りを見渡す。
 この時期、屋上に足を踏み入れる人なんてほとんどいないはずだった。
 でもその割に、踊り場は埃がたまっている様子もなく、思ったよりずっときれいに片づいていた。
 彼女の言うとおりこれなら、お弁当を広げても平気だろう。
「じゃあ、わたし敷物を持ってきていますから、そこに座ってお弁当を食べましょうか」
 言いながらわたしは、四、五人は座れるだろう敷物を広げる。
「さゆりん、あんた用意いいねぇ」
「あははーっ。お母さまが、もしかしたらと仰って持たせてくれたんです」
「ふーん。じゃあ、さゆりんのお母さんに感謝、だな」
「はい」
 三々五々、広げられた敷物の上に小さな輪を作るようにわたしたちは腰を下ろす。
「さ、どうぞーっ」
 言うや否や、周りから幾つものお箸が伸びてきた。
 卵焼き、唐揚げ、煮物と、思い思いのおかずを摘んでは、そのままお箸の持ち主の口に収められてゆく。
「むぐむぐ……いつ食べてもおいしいよねぇ、佐祐理のお弁当」
「今日は佐祐理のお母さんの、だろ」
「どっちだっていいじゃない。おいしいんだから」
「ホントに」
「さゆりんには、感謝感謝だよ」
 お箸と口を動かしながら、楽しそうに言葉を紡ぐ女の子たち。
 賑やかなひととき。
 自分でもおかずを幾つか摘みながら、わたしはそんな彼女たちの会話に目を細めながら耳を傾けていた。
「でも……もうじき、これも食べられなくなっちゃうんだよね。あたしたち」
 口の中のものをごくりと呑み込んだ子が、少し名残惜しげな様子でぽつりとつぶやく。
 その途端、周りのみんなも黙り込んでしまう。
 あと何週間かで、この学校を卒業するわたしたち。
 そうしたらこの賑やかで楽しかった時間も、思い出のひとつになってしまうのだ。
 早かった三年間。
 あっという間の三年間。
 何気なく、周囲を見渡してみる。
 四周を壁と階段に囲まれた踊り場は、わたしたちの存在を何ごともなく受け入れているみたいに、静かなままだった。
 ……何だろう。
 普段なら、そんなことを思ったりしないはずなのに。
 滅多に訪れることのないこの場所に、どうしてか懐かしさにも似た思いを抱いてしまう。
 子どもの頃、毎日のように訪れていたお気に入りの遊び場所に、大きくなってから再び足を踏み入れ、言葉にし難い郷愁を覚えてしまうみたいな……そんな感覚。
 同時に、いまここにあるべき何かが欠けているような、そんな喪失感が胸の裡を漂う。
 分からなかった。
 どうして、懐かしさを覚えてしまうのか。
 不思議だった。
 どうして、寂しさを抱いてしまうのか。
 その瞬間だった。
 ちくりと、手首に痛みを覚えたのは。
 針で刺したみたいな、そんな鋭い痛み。
 まただ……
 頭の片隅でそんなことを思いながら、突然の痛みに持っていたお箸を取り落としてしまったわたしは、そのまま痛んだ左の手首を押さえる。
「……? どしたの、佐祐理?」
 不思議そうな顔で女の子のひとりが、小首を傾げながら訊ねてきた。
 慌てて顔を上げたわたしは、
「あははーっ。なんでもありません。平気ですーっ」
 笑顔を浮かべながら言葉を返す。
 彼女はお箸を口にくわえたまま「そぅ?」と返事をして、再び食事に戻っていった。
 押さえていた手を離す。
 痛んだはずの手首は別に怪我をしたような跡もなく、そこには肌の下にうっすらと浮かび上がる静脈の流れが見えているだけだった。
 でも……同時に思う。
 さっき、教室で覚えた額の痛み。
 そしていま、手首に覚えた痛み。
 怪我なんてした覚えもないのに、でも今日に限って痛みを発する身体。
 どうしてなのか。
 何が、わたしにそれを感じさせるのか。
 そんなことを思う間もわたしの周りでは、とりとめのない、でもだからこそ楽しく思える会話が冬の寒さに包まれた踊り場に小さく響き続けていた。

                  §

 雪の降り積もった道の先に見出した、後ろ姿。
 黒い大きなランドセルを背負ったその子は、そうすることを楽しんでいるみたいに、わざわざ道の端に積み上げられた雪山を踏みしだきながら、歩き続けていた。
 歩くスピードを上げて、近づいてゆく。
 視界の半ば以上がその姿で占められた頃、わたしはゆっくりと口を開いた。
「かーずやっ」
「あっ、お姉ちゃんだ!」
 振り向いた男の子――一弥は、わたしの姿を認めるとぱっと表情をほころばせ、こちらに駆け寄ってくる。
「いま帰り?」
「うんっ」
「でもいつもより、少し遅いみたいだね」
「あのねあのね、さっきまでクラスのみんなと、雪合戦してたんだ」
 にこやかにそう答える一弥。
 言われてみれば確かに、髪の毛が少し湿っている感じがした。
「そっか。楽しかった?」
「うん。すっごく楽しかったよ!」
 その笑顔を見るたび、わたしも幸せな気持ちになる。
 自分も、一弥が笑顔を浮かべているこの幸せな世界にいるんだという、そのことを実感できたから。
 その幸せに、わたし自身も関わっているんだってことを感じることができたから。
「じゃあ、一弥。お姉さんと一緒にお家に帰ろっか」
「うん、いいよ。いっしょに帰ろ」
 手をつなぎ、家路をたどるべく歩き出す。
「ねぇ、お姉ちゃん」
 一弥が口を開いたのは、歩き出して少し経ってからだった。
「どうしたの、一弥?」
「ぼく、ちょっと……より道したいな」
「寄り道?」
 冬の日暮れは早い。
 西の空は、既にその色合いを青から黄色へと少しずつ変え始めていた。
 あと一時間もしないうちに、その身を黄昏に染め尽くしてしまうに違いない。
「でもあんまり遅くなると、日が暮れちゃうよ」
「だから、ちょっとだけ」
 いま家に帰っても、お父さまもお母さまもまだ仕事で家には誰もいない。
 だからわたしと一緒なら、少しくらい帰りが遅くなっても問題ないはずだった。
「一弥はどこに行きたいのかな?」
「あのね……野原」
「野原?」
「うん。お姉ちゃんは、おぼえてないかな? ずーっと前、お姉ちゃんとふたりで水でっぽうしてあそんだ野原」
 少しだけ考えてから、思い出す。
 去年の夏休みに、一弥とふたりで遊びに行った野原。
 途中に寄った駄菓子屋さんで水鉄砲を買って、服も髪もびしょ濡れになるまでずっと撃ち合いっこをした……懐かしい場所。
「ちゃんと覚えてるよ。一弥、あそこに行きたいんだ?」
「うん。ひさしぶりに行ってみたいんだ。ね、お姉ちゃん、行こうよ」
 そう言って一弥はわたしの返事も聞かずにくるりと身を翻し、来た道を足早に戻り始める。
「そんなに急いだら転んじゃうよ、一弥ーっ」
「だいじょうぶだよ。ほら、お姉ちゃんも早く早くっ」
 降り積もった雪を踏みしめながら、傾き始めた陽射しの下を歩くわたしたち。
 空気は冷たく、吐き出される息は白い。
 でもつながれた手は――肌を通して感じる一弥の手は温かで、柔らかかった。
 それが嬉しかった。
 それが楽しかった。
 小さな幸せ。
 わたしの望んだ、本当に小さな小さな幸せがそこにあった。
 やがてたどり着いた場所。
「とうちゃーく」
 元気よくそう言いながら、つないだ手を離す一弥。
「ここは……」
 目の前で笑顔を浮かべる一弥をよそに、眼前に広がる光景をじっと見据えるわたし。
 真っ赤な太陽。
 黄昏に染め尽くされた空。
 降り積もった雪。
 そして風に吹かれて揺れ動く、枯れ薄。
 心の奥底を揺さぶられるような、そんな何かを感じさせる情景が広がっていた。
 何だろう。
 思い出せそうなのに、でも思い出すことのできないもどかしさ。
 知っているはずなのに。
 でも、知っているはずのそのことを何ひとつ思い出すことのできないわたし。
「……ちゃん。お姉ちゃん!」
 その声で、意識を現実に引き戻される。
 見れば一弥が少し困った様子で、わたしの制服の袖をぐいぐいと引っぱっていた。
「あ、一弥。どうしたの?」
「もう、お姉ちゃん。どうしたの、じゃないよっ。さっきからぼくが話しかけてるんだから、ちゃんとお返事してよ」
 ぷっと、不満そうに頬を膨らませながら言いつのる一弥。
 ゆっくりと膝を折って一弥と目線を合わせたわたしは、苦笑いを浮かべながら、
「ごめんね。お姉さん、ちょっとぼーっとしちゃったよ。それで、なにかな?」
「ね、鬼ごっこしようよ」
「鬼ごっこ?」
「うん、鬼ごっこ。だって今日は水でっぽうは持ってきてないから。お姉ちゃんが鬼で、ぼくが逃げるの」
「あははーっ。楽しそうだねーっ。でもお姉さん、こう見えても運動神経いいんだよ。一弥なんか、すぐに捕まえちゃうからねーっ」
 頭を撫でながら、そう言うわたし。
 でも一弥は、そんなわたしに向かってえっへんと誇らしげな様子で胸を張ると、
「平気だよー。だってぼく、クラスで一番かけっこが速いんだから」
「よーし。じゃあ、行くよ。用意……どん!」
 ぱっと、野原の中を駆けだす一弥。
 その後を、少し遅れて追いかけるわたし。
 小学生の一弥の小さな身体は、すぐに薄の間に隠れて見えなくなってしまう。
 草の間から聞こえる、がさがさと薄をかき分ける音だけを頼りに、わたしは一弥を追いかけ続けた。
「あははっ」
 時折聞こえてくる、楽しそうな笑い声。
「待て待てーっ」
 そんな一弥を、やっぱり笑い声を上げながら追い続けるわたし。
 楽しかった。
 姉として、こうして弟と遊んであげられることが。
 お互いに心からの笑顔を浮かべながら、流れゆく時の中を一緒に歩いてゆけることが。
 それはわたしが、ずっと望み続けていたことだった。
 ずっと『正しい』のだと信じていたことが、本当は少しも『正しくない』ことなのだと思い知らされ、その結果大切なものを失ったわたしが欲しかったもの。
 ……失った?
 一体わたしが、何を失ったというのだろう。
 わたしは幸せだった。
 穏やかな日常の中にその身を委ね、繰り返される平穏な、でもだからこそ幸せを感じることのできる日々を過ごしているわたしは……間違いなく幸せなはずだった。
 風が吹く。
 身体の芯まで冷えきらせてくれるような、凍てついた風が。
 いつの間にか、足が止まっていた。
 いままで聞こえていた一弥の足音も、気がつくと聞こえなくなっていた。
「一弥……?」
 弟の名を呼ぶわたし。
 胸の前で祈るように手を合わせ、不安げに周囲を見渡しながらようやく口にした言葉。
「なぁに、お姉ちゃん?」
 薄の合間からひょっこり顔をのぞかせながら、そんな返事が戻ってくることを信じて。
「やっぱりぼくの方が、かけっこ速かったね」
 そう言って自慢げな表情を浮かべながら、姿を見せてくれることを信じて。
 でもわたしが望んだ反応は、どこからも返ってこなかった。
 静寂だけが、わたしを包み続けていた。
 本当なら白いはずの吐き出される息は、大地へと没し始めた夕陽に照らされて周囲の世界と同じ、オレンジ色に染まっていた。
 一歩、足を踏み出すわたし。
 その時つま先に、何かが当たる感触を覚える。
 何だろう……そう思いながら足下に向けた視線の先にあったのは、水鉄砲だった。
 しゃがみ込み、それを手に取る。
「……これは?」
 駄菓子屋さんで売っているようなプラスチック製のそれは、誰かがここで遊んだ後で置き忘れていったものかもしれなかった。
 引き金に指をかけ、軽く引いてみる。
 しゅこしゅこ……
 空気が押し出される小さな音が耳を打つ。
 その音色を聞いた瞬間わたしは、ちくりと針で刺したような鋭い痛みを額と手首の両方に覚えてしまう。
 心の中のどこかが、何かを訴えかけてきていた。
 でもわたしは、それが何なのかを思い出すことができなかった。
 しゅこしゅこ……
 懐かしさと、悲しさを浮かび上がらせる音色。
 手の中のそれに視線を落としながら、胸の裡を浮かんでは消えてゆくとりとめもない思いに身を任せ続けるわたし。
 ――かさっ。
 近くで、薄が揺れる音がしたのはその時だった。
 ぱっと顔を上げ、思うよりも先に音がした方に向かって駆けだすわたし。
「一弥っ!」
 どうしようもないくらいの不安。
 胸が押し潰されそうなくらいの不安。
 行く手をふさぐように立ち並ぶ薄を必死にかき分け、心の片隅で一縷の望みを抱きながら音がした方に向かって走るわたし。
 そして、最後の薄の一束をかき分ける。
 瞳に飛び込んでくる、人影。
 夕陽を浴びて真っ赤に染まったその姿は小さく、わたしには一瞬そこにいるのが誰なのか分からなかった。
「……一弥?」
 でも、そこにいたのは一弥じゃなかった。
 わたしが来るのをずっと待っていたように、無言でこちらを見つめながらそこにたたずんでいたのは……

                  §

 女の子が、そこにいた。
 小さな女の子。
 長い髪と、この季節には似つかわしくない薄手のワンピースの裾を風に揺らしながら、わたしをじっと見据えるふたつの瞳。
 頭につけているうさぎの耳の、とても可愛らしいヘアバンド。
 でも何より印象的だったのは……女の子が、肩口から血を流していたことだった。
 決して浅い傷には見えなかった。
 傷口から流れ出た真っ赤な血が、彼女の服を血で汚している。
 吹き抜ける風。
 冷たい、冷たい風。
「こんにちは」
 紡がれた言葉。
 それはひどく日常的で、だからこそいまこの場には似つかわしくない、女の子の可愛らしい声だった。
 とても怪我をしているとは思えない、穏やかな声音。
「こんにちは」
 挨拶を返すわたし。
「楽しかった?」
 質問の不可解さと、彼女の態度に気圧されるような思いを抱きながら、それでもわたしは言葉を返す。
「なにが……ですか?」
「くすすっ。だって、ほしかったんでしょ」
「……?」
「楽しかったよ、あたしはね」
「佐祐理には分かりません。あなたが、なにを言っているのか」
 わたしは、そう返すしかなかった。
 本当に分からなかったから。
 目の前にたたずむ見覚えのない女の子が、何を言おうとしていて、わたしにどんな答えを求めているのかが。
「それより、あなたは知りませんか? 弟の一弥のことを。さっきまで一緒にいたので、きっと近くにいると思うんですけれど」
「一弥? ちがうよ、あたしはそんな名前じゃないよ」
「え?」
「ずっと、いっしょにいたのに……忘れちゃったんだね」
「……ずっと」
「そう、ずっとだよ。ここはね、あたしの遊び場所。あたしとあの子だけしか知らない……ふたりだけの秘密の遊び場所」
 あの子とは、もしかして一弥のことなのだろうか。
 女の子の言うことは曖昧で、わたしには要領を得ないことばかり。
 でも彼女は、そんなこと少しも気にした風もなく、まっすぐにそのつぶらな瞳でわたしのことを見つめ続けていた。
「あたしはね、ここでずっと戦ってるんだ」
「……?」
「ここにはね、まものがいるの。まものが、あたしたちが遊ぶのをじゃましてるの」
「でも佐祐理は、そんなものには会いませんでしたよ」
 その途端女の子は、くすくすとおかしそうに笑みをこぼす。
 それから小さくうなずくと、
「うん、そうなんだ。今日はどこにもいないんだ。とってもふしぎだよね」
 小首を傾げてみせる女の子。
 そんな仕草が、彼女にはとってもよく似合っていると――服を染める血の跡さえ忘れてしまえば――わたしには思えた。
「魔物は……もう出ないと思います、きっと」
 口にした自分の方が驚いてしまう言葉だった。
 でも不思議とそれは、何の違和感もなくわたしの口から発せられ、周囲の空気をかすかに震わせる。
「どうして?」
 小首を傾げながら、当然の返答が戻ってくる。
 その答えを……わたしは知っていた。
 理由は分からない。
 でも確かに、わたしはその理由を……知っていた。
 だから少しもためらうことなく、わたしはわたしの知っているその答えを、彼女に向かって口にする。
「倒しましたから、佐祐理が。一緒に……」
「そうなんだ」
「ええ」
 それきり会話が途切れる。
 冷たい冬の風が、黄昏に染め尽くされた薄野原を早足で駆け抜け、立ち並ぶ薄を右に左にと揺れ動かす。
 その中に立ち尽くす、わたしと女の子。
「あの……痛くありませんか?」
「なにが?」
「だって、怪我をしているみたいですから」
「痛いよ。とっても」
 何ごともなかったように平然と、女の子はそう言う。
「でもね、だからこそあたしはここにいるんだ」
 くるりとその場で身を翻し、わたしに背中を向けながら次の言葉を口にする。
「ここは、あたしたちの場所だから。ずっとずっと、あたしが大きくなってたとえそのわけを忘れちゃったとしても、それでも守りつづけなくちゃいけない、大切な場所だから」
「…………」
「いつかまた、あの子が来てくれることを信じて、あたしはこの場所を守るために戦いつづけなくちゃいけないんだ。だって……」
 そこで言葉を切った女の子はもう一度身体を回すと、再び顔を向けながら、
「だって……ここは、あたしたちのらくえんだから」
「楽園……」
「うん。えいえんの、らくえん」
 うなずく女の子の口から紡がれる、その一言。
「ね、あなたのらくえんはどこにあるのかな? あなたはあなたのらくえんをさがして、ここに来たんでしょ。あたしにとってのここがそうであるように、あなただけの、誰にもじゃまをされない、らくえんをさがして」
 まるで空気の中に溶けていくみたいに、目の前の女の子の身体が透き通り始める。
 彼女の身体を透かして、薄暗くなり始めた野原が見えていた。
 不思議な光景。
 でもわたしは、どうしてかそのことに驚きも恐れも感じなかった。
 気がつくと、輪郭をぼんやりと描き出すだけになってしまったその子は、
「もしかしたら、あなたのらくえんもここなのかもしれないね」
 その一言を最後に、空気に溶けてゆくように消えてしまった。
 ひとり、この場にわたしを置き去りにして。
 日はだいぶ傾き、紅に染まっていたはずの空はいつしかその身を紫に変え始めていた。
 遠く、星が瞬き始めている。
 頭上に広がる空を仰ぎ見ながら、女の子が最後に口にした言葉を思い出す。
 わたしの。
 わたしだけの……楽園のことを。

                  §

「思い出せましたか?」
 唐突に聞こえてきた声。
 空に向けていた視線を慌てて戻した瞳がとらえたのは、意外な人物の姿だった。
 さっきの女の子じゃなかった。
 長い髪と、チェック地の大きなリボン。
 澄んだ大きな瞳はまっすぐにわたしに向けられ、口元には寂しげとも嬉しげとも判断のつきかねる、そんな笑みが浮かんでいた。
 わたしと同じくらいの年格好の女の子。
 よく知った顔。
 どんな他人よりも、見慣れた顔がそこにあった。
 そして地面に座り込んでいる彼女の膝の上には、ひとりの男の子が頭を乗せ、薄の生い茂る地面に身体を預けながら安らかな寝顔を浮かべていた。
「一弥っ!」
 ようやく見つけることのできた弟の姿に、慌てて駆け寄ろうとするわたし。
 でもわたしは、そうすることができなかった。
 何故なら、壁があったから。
 固く、冷たい壁が。
 わたしのいる場所から数歩先――彼女と一弥のいる場所とわたしのいる場所とのちょうど真ん中に、目に見えない壁のような何かが存在していたのだ。
「これは……?」
 壁に手をつきながら、小首を傾げてしまうわたし。
「そこから先は、あなたには入れない場所なんです。ここはわたしと一弥の、ふたりだけの世界ですから」
 寂しげな色を浮かべながら、ぽつりとつぶやく彼女。
 ふたりだけの……世界?
 わたしじゃない、彼女と一弥のふたりだけの世界?
 心の中で彼女の言葉を反芻するように響かせたわたしは、でもそれを否定するように首を振りながら、
「分かりません。佐祐理には分かりません。どうして、佐祐理がそっちに行ってはいけないんですか? どうして、一弥と一緒にいてはいけないんですか? どうしてあなただけが、一弥と一緒にいられるんですか?」
 そう、そこにいたのは「わたし」だった。
 もうひとりのわたし。
 一弥を失ったあの日からずっと一緒にいて、長い長い後悔と懺悔の日々を過ごしてきたはずの、もうひとりのわたし。
 何年もの時を、等しく過ごしてきたはずの……自分自身。
「どうして、佐祐理が一弥と一緒にいてはいけないんですか?」
「…………」
「同じ佐祐理なのに。どうしてあなたには一弥がいて、佐祐理には一弥がいてはいけないんですか。分かりません、佐祐理には全然分かりませんっ!」
「同じなんかじゃ……ありませんよ」
「え?」
 それは意外な一言だった。
 同じ姿、同じ顔をしたわたしの紡いだ言葉が。
「あなたはどうして、わたしたちがふたりなのか分かりますか?」
 ふたりのわたし。
 自らの過ちで一弥を失ったわたしが、世界に何の現実感も感じることができなくなった時からずっと同じ時を過ごし続けてきた、引き裂かれた自分自身の片割れ。
 どんな時も、彼女が側にいることを感じない日はなかった。
 わたしが身体の中にいる時は、彼女は頭の上をふわふわと漂っていた。
 彼女が身体の中にいる時は、わたしが頭上から彼女を見下ろしていた。
 何年もの間、わたしたちはそうして生きてきた。
 その同じ存在であるはずの彼女が、わたしたちは同じでないと言う。
「それは同じ『倉田佐祐理』でも、わたしたちに与えられている――果たすべき役割が、少しだけ違うからです」
「……役割?」
「はい。だからこそわたしには一弥がいて、あなたにはいない」
 理解できなかった。
 理解したくなかった。
 わたしの側に一弥がいなくて、彼女の側に一弥がいるという事実を。
 決して受け入れ難い、その現実を。
 だから彼女に問いただす。
「なにが違うと言うんですか。佐祐理は……大切な弟を、ずっと正しいと思ってしてきたことが本当は少しも正しくなくて、だから弟を死なせてしまった『ヒトゴロシ』なんじゃないんですか?」
「ですから『ヒトゴロシ』なのは、わたし。わたしがそうなんです」
「ふぇ?」
「そしてあなたは……『シニゾコナイ』の佐祐理。覚えていませんか。三年前の出来事を」
 忘れるはずがなかった。
 三年前の春。
 それは、わたしが自分の手首を切った時。
 罪の意識を抱き続けることに疲れ、一弥と同じ世界に旅立とうと思い立った日の出来事。
 でも、わたしは死ねなかった。
 手首に一生消えない傷だけを残し、それからも『シニゾコナイ』としての日々を送り続けていた。
「それから間もなく、あなたは彼女と出会った」
 そう、わたしは出会った。
 一緒に幸せになろうと、そう思うことのできる存在に。
 自らの過ちで一弥を失ってからずっと忘れてしまっていたわたしに、心の温もりを思い出させてくれた大切な女の子。
 桜散る春、わたしは彼女――舞と出会ったのだ。
「どうしてだと思いますか」
「え?」
「一弥はずっとここにいました。わたしと一緒に。来年は小学六年生。一弥は姉思いの、とてもいい子に育ってくれました。でもあなたは気がつかなかった。わたしという存在に気づいていながら、一弥の存在には……」
 わたしの中の一弥。
 朝起きて、リビングに足を踏み入れると「おはよう、お姉ちゃん!」と、満面の笑顔と共に返ってくる挨拶。
 吐き出す息が真っ白になる中、でも温もりを失うことのないつないだ手。
 雪まみれの髪を払ってあげると、くすぐったそうに目を細めるその姿。
「どうしてだと思います?」
 再び紡がれる言葉。
 でもわたしは、それに答えることができなかった。
 ただ無言で、わたしたちの間を遮っている見えない壁に手をつきながら、その場にたたずむばかり。
「約束」
 ぽつりと、彼女の口から放たれた一言。
「あなたにあってわたしにないもの、それが『約束』なんです」
「……約束」
「覚えていませんか? 八年前のあの日、薄が風に揺れる野原の中で男の子と交わした指切りのことを」
「男の子……指切り……」
「ええ。それはわたしではない、あなたが交わした約束です」
 その途端、脳裏に蘇るものがあった。

『約束だからね』

 男の子の、少し高い声。
 駄菓子屋さんの前でほんの一瞬目を合わせ、たったそれだけのことでわたしを追いかけてきてくれた男の子。
 黄昏に包まれた野原での思い出。

『意味がないなら作ればいい。目的がないなら、いまぼくが……俺が作ってあげるよ』

 まっすぐな瞳でわたしを見つめながら、男の子はそう言った。
 わたしの小指に自分の小指を絡ませ、それを目の前に掲げながら、

『俺とキミは三年……いや五年後の冬にここでまた会う。そしてもう一度、一緒に遊ぶんだ』

 手渡されたチョコレート。
 絡んだ小指。
 そして、交わされた約束。
 促されるままに口に含み、心がどうしようもないほどの悲しみに満たされていた中でも、甘くおいしく感じることのできたわたし。
「約束……そう、佐祐理は約束をしました。初めて会った、名前も知らない男の子とあの日、この場所で」
 そして思い出す。
 あの日――三年前の冬、どうして手首を切ったのかを。
 いつしか記憶の中からすっかり失われてしまっていたはずの思い出を、でもそれをすぐ側で見ていたもうひとりのわたしは決して忘れていなかったのだ。
 五年後の再会。
 それは果たされることなく終わった、儚い夢だった。
 名前も知らないまま別れてしまった男の子は、結局わたしの前に現れなかった。
 忘れてしまったのかもしれない。
 都合が悪くなったのかもしれない。
 でも、ひとつだけ確かなこと。
 それは……約束は果たされることなく、終わってしまったという現実。
 意味と目的を失い、進むべき道を失ったわたしは、だからこそあの日一弥のいる場所に行こうと思い立ったのだ。
 いまある生を、終わらせようと考えたのだ。
 手首を切ることで。
 一弥がいなくなってからの五年間。
 わたしの心を死の誘惑から隔て続けていたのは、他人から見れば取るに足らない出来事に違いない、そんな小さな約束だったのだ。
「でも、あなたは死ねませんでした。約束を破られたと思いながら、忘れられてしまったのだと思いながら、それでも心の片隅では信じていましたから。きっと会えるんだ、って」
「佐祐理は……」
「だからあなたは『ヒトゴロシ』じゃなく、『シニゾコナイ』なんですよ」
 顔を上げる。
 そこにはわたしをまっすぐに見つめ続ける、もうひとりのわたしの姿があった。
「わたしたちは、鏡なんです」
「ふぇ?」
「鏡は、映された人の姿を忠実に描き出します。でも完全に同じわけじゃありません。右手を上げれば鏡の中の自分は左手を、左手を上げれば右手を上げるのが、鏡というものです」
「…………」
「そして鏡を通して『シニゾコナイ』であるあなたを映し出した姿が、『ヒトゴロシ』たるわたし、もうひとりの倉田佐祐理なんです」
 不思議な感覚。
 同じ自分と、でもまったく同じじゃない自分自身との会話。
 彼女には一弥がいる。
 心の奥底でずっと望み続けてきた、姉思いの元気な男の子に育った一弥が。
 その時、ふと気がつく。
 さっきから、彼女が自分のことを「佐祐理」でなく「わたし」と呼んでいることに。
 それは、わたしの中から失われて久しい習慣。
 自らの過ちで一弥を失い、その結果自分自身を客観的な存在としてしか見られなくなった時からできなくなってしまったこと。
 わたしは納得する。
 どうして彼女が「佐祐理」じゃなく「わたし」なのかの、その理由に。
 彼女には一弥がいたから。
 大切な弟がずっと側にいたから、そんなことをする必要なんて初めからなかったのだ。
 でも……わたしには何もなかった。
 大切な舞を傷つけ。
 大好きな祐一さんを……
 その瞬間、頭の中のどこかで、何かがぱちんと弾ける小さな音がする。
「もうすぐ……ですよ」
「なにが、ですか?」
「随分な遅刻ですけれど、でも笑って許してあげましょうね」
 くすりと、笑みをこぼしながら彼女が言う。
 その言葉をわたしは、黙って耳に響かせるばかりだった。
「わたしにとっては、ここにいる一弥こそが現在です。そして、もうひとりのわたしであるあなたにとっての現在も、きっとどこかにあるはずです。それが鏡を挟んで立つ、わたしたちの姿に他ならないんですから」
「…………」
「お邪魔だと思いますから、わたしたちはそろそろ退散します。でも、時々は思い出してくださいね。あなたの中にはいつだってわたしと、一弥がいるんだってことを」
「……はい」
 そう、わたしには分かっていた。
 彼女たちはいつだって、そこにいるんだってことを。
 同時に、彼女たちともう二度と会うことはないだろうことも。
 何故なら、わたしは生き続けなくてはならないから。
 自らの意志で生を終えようとしたその瞬間に、いつか必ず約束が果たされることを信じて生を望んだわたし。
 たったひとつのその「願い」が、いまのわたしを形作っているのだ。
 それが『シニゾコナイ』としてのわたしが選んだ道で、目の前の鏡に映し出されたもうひとりのわたし――『ヒトゴロシ』の彼女が鏡に映し出された姿なんだろうから。
「一弥……元気でね」
 彼女の膝で眠り続ける弟に向かって、別れの言葉を口にする。
 眠り続ける一弥は、何も言わない。
 でもその安らかな寝顔は、わたしにとってはどんな言葉よりも嬉しい返事だった。
「あははーっ。ほら、こっちに近づいて来ますよーっ。あなたにとっての一弥が、大好きなあの人が」
 彼女が、初めてわたしらしい笑い声を発する。
 目を細めながら、彼女を見る。
 一弥の髪を優しい仕草で撫でながら、彼女はその姿を少しずつ薄め始めていた。
 お互い口を開くことなく、相手の瞳を見つめ続ける。
 でも、それで十分だった。
 どんな人とよりも深く、わたしたちは相手の心を裡を推し量ることができるのだから。
 同じ……わたしなのだから。
 たとえ『ヒトゴロシ』と『シニゾコナイ』として果たすべき役割が違うのだとしても、それでもふたりは同じ倉田佐祐理という女の子の、間違いなくいまの姿だったから。
 視界から、ふたりの姿が失われる。
 見えない壁から手を離したわたしは、その場で身を翻した。
 待つために。
 大切な人――パートナーの来訪を、笑顔で迎えるために。

                  §

 しゅこしゅこ……
 引き金を引くたび、頬に空気が当たった。
 ひとりきりになってしまった薄野原の中でわたしは、自分の顔に水鉄砲を向けながらその行為を続けた。
 しゅこしゅこ……
 それは、思い出。
 正しくなかった姉が、弟に初めて姉として正しいことをしてあげられた、悲しい思い出。

『たのしいね……』

 くぐもった感じの、呻きにも似た声。
 それが、初めて姉弟で遊ぶことのできたわたしに与えられた報酬だった。
 初めて聞いた弟の声。
 でも、それが最後になってしまった弟の声。
 一弥は行ってしまった。
 もうひとりのわたしと一緒に。
 そしてわたしは、ここで待ち続けている。
 約束を果たすために。
 いつかきっと果たされる日が来ると信じ続けた、男の子との再会の時を迎えるために。
 かさかさと、草をかき分ける音がした。
 その音色を耳にしたわたしは水鉄砲をスカートのポケットにしまい、その場に座り込んだままじっと待ち続けた。
 少しずつ距離が縮まってゆくのが分かる。
 すぐ側で、薄をかき分けるひときわ大きな音がした。
「……見つけた」
 それが最初の一言。
 閉じたまぶたの裏に、暗闇に覆われた世界のただ中にくっきりと浮かび上がるその姿。
 一度しか会った覚えのない、男の子の姿。
「遅刻ですね。しかも……三年もです」
 背中を向けたまま紡いだ、わたしの言葉に返ってきたのは、
「悪ぃ」
 そんな、ちっとも悪びれた感じのない一言だった。
 立ち上がる。
 閉じたままの目を見開きながらくるりと身を翻して、男の子と向き合う。
「色々と立て込んでたもんで、お迎えがすっかり遅くなっちまった。ごめんな、佐祐理さん」
 頭をかきながらその人は、困ったようにそう言った。
 あの頃、わたしと同じくらいの背丈だったはずのその姿に折り重なるように、いまでは頭ひとつ分は大きくなってしまった別の姿が映し出される。
 そんな彼に向かってわたしは、できる限りの笑みを浮かべながら、
「あははーっ。佐祐理の方も色々と立て込んでましたから、別に気にしてませんよーっ、祐一さん」
「そっか」
「はい」
 うなずくわたし。
「じゃあ……行くか」
 わたしに向かって差し出される、祐一さんの手。
 その手を握り返そうと伸ばしかけた手を、でもひとつだけ気になることがあったわたしは途中で止めてしまう。
「どした、佐祐理さん?」
「あの、祐一さん……ひとつ聞いてもいいですか」
「ああ」
 どうしたんだろう、そんな感じで祐一さんは小首を傾げている。
 そんな彼を前に、わたしは一瞬だけためらった後、思い切って口を開いた。
「佐祐理は……いまここにいる佐祐理は『シニゾコナイ』の佐祐理なんです」
「……へ?」
「そんな佐祐理でも、祐一さんはよろしいですか? 一緒に、佐祐理と同じ道を歩いていってくれますか?」
「…………」
「あははーっ。おかしいですよね。『ヒトゴロシ』だとか『シニゾコナイ』だとか、こんな物騒な女の子と一緒に歩いていくのなんて、祐一さんはやっぱり嫌ですよねーっ」
 それきりわたしは上目遣いに、そして胸の前で祈るように手を合わせながら、じっと彼の次の言葉を待ち続けた。
 長い静寂。
 やがて、ゆっくりと笑顔を浮かべた祐一さんは、
「上等上等。それくらいでなくちゃ、俺の相棒は務まらないって」
「……祐一さん」
「それに」
 そう言いながら、ちょっとだけ表情を悲しげに曇らせる祐一さん。
 悲しい何かに耐えるように。
 辛い何かを思い出すように。
 でもそれは、ほんの一瞬のこと。
 すぐに穏やかな表情を取り戻した祐一さんは、そのままわたしの耳元に顔を寄せると、
「俺もさ……どうやら佐祐理さんと同じ、『ヒトゴロシ』の『シニゾコナイ』らしいんだ」
 ささやくようにそう言って顔を離すと、微笑みを浮かべたままわたしの頭をぽんぽんと軽くたたいた。
 それから伸ばしかけたままだったわたしの手を掴むと、
「さ、行こうぜ」
「ふぇ……どこに、ですか?」
 小首を傾げながら訊ね返すわたしに、
「もうひとり、迎えにいってやらなきゃいけないヤツがいるだろ」
 祐一さんは当然のことのようにさらりと、返事を口にする。
「……もうひとり?」
「ああ」
 小さくうなずきながら目を細めた祐一さんは、
「ひとりで泣いて」
 問いかけるように、それだけを口にする。
 それが何なのかすぐに理解したわたしは、口元をゆるめながら祐一さんに代わって続きを口にしてみせた。
「ふたりで耐えて」
 互いの目を見つめながら、笑顔と共に最後の言葉を斉唱する。
「さんにんで笑う!」
 そう、笑うなら三人一緒なのだ。
 だからわたしたちは、行かなくてはならない。
 迎えに。
 きっと待ってくれているに違いない、彼女を。
 一緒に幸せになろうと思うことのできる、大切な存在を。
「まったく。ガタイだけは人並みに育ってるくせに、中身はてんでお子さまだからな、あいつの場合」
「あははーっ。それはちょっとひどいと思いますよーっ、祐一さん」
「あいつのこったから、膝を抱えて泣いてるなんてことは万が一にもないだろうけど。でもあんまり遅くなると、後でなに言われるか分からんし」
「ふぇ……そうなんですか?」
「たぶんな。と言うことで――」
 そこで言葉を切って、わたしの頭にぽんと手を乗せた祐一さんは、
「ぼちぼち参りましょうか。な、相棒」
 片目をつむり、悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
 優しい仕草でゆっくりと髪を撫でる手の感触にわたしは、くすぐったさを抱きながら目を細めるばかり。
 そして一瞬の間を置いて、祐一さんの顔を見上げながらわたしはうなずき返した。
「はいっ」
第14章に続く

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