『永遠の楽園』
Update:2000.04.11





第14章「楽園」

 真っ赤になった手のひら。
 吐き出される息は真っ白で、目に映る雪の白さと混ざり合って世界のすべてを白一色に染め上げていた。
 近くにある雪を集める。
 両手を使って、それを小さな山に固める。
「よいしょ、よいしょ……」
 手が痛かった。
 指先に雪の存在を感じてはいたけれど、でもいつからか真綿に触れているみたいに何の冷たさも感じなくなっていた。
 どれくらいの間、そうしていたか分からない。
 でも私は、雪を集め続けた。
 他に、何も思いつかなかったから。
 その時の私にできることは、それしかなかったから。
 雪を集める。
 りんごみたいに真っ赤になった、かじかんで感覚を失ってしまった手に「はーっ」と息を吐きかけて暖めながら。
 小さな雪の山に指で穴を空け、そこに小石をはめ込む。
 近くに生えていた樹からできるだけ細長い葉っぱを探してきてそれを二枚、てっぺんより少し前のところに差し込む。
 これでできあがり。
 真っ白な、雪うさぎさんのできあがり。
 くぅーん……
 横で私のすることを横で見ていた犬さんが、小さな鳴き声を上げる。
 顔を上げた私は、じっとこっちを見ている犬さんの頭を優しく撫でてあげる。
 ふさふさの毛がとても暖かかった。
 ずきずきと痛かった手が、ほんの少しだけ痛くなくなったような、そんな気がした。
 犬さんも、私に撫でられて気持ちよさそうに目を細めている。
「もうすこしだから、待っててね」
 くぅーん。
 うなずくように、犬さんがまた小さな声を上げる。
 私は、また雪を集め始めた。
 さらさら。
 ぎゅっぎゅっ。
 ぺたぺた。
 さくさく。
 私と犬さんの口から吐き出される息の音以外は何の音もしない世界で、雪を集め、固め、形を整え続ける。
 少しずつ、数を増やしてゆく雪うさぎさん。
 小さな小さな……でもたくさんの、大好きなうさぎさんたち。
 どれくらい経った頃だろう、うさぎさんたちを前に小さくうなずいた私は、その場から立ち上がり、すぐ近くにあるベンチに駆け寄る。
 そこでさっきからずっと眠ったままの、お母さんの許に。
「ね、おかあさん……」
 そっと、お母さんの肩をゆする。
「…………」
 返事はない。
 お母さんは苦しそうな顔で、口の周りを息でほんの少しだけ白くしながら眠り続けていた。
「おかあさん……」
 もう一度、今度はゆっくりと、でもさっきより大きめに肩をゆすってみる。
「……ん」
 かすれるような、小さな声。
「ごめんね、舞……寝てたみたい……」
 うっすらと見開かれる、お母さんの瞳。
「ううん、いいよ……でも、ほら……」
 ふるふると首を振りながら私は、目の前の雪に向かって手を差し出しながらお母さんに見てもらう。
 動物園を。
 一生懸命に作った、大好きなうさぎさんでいっぱいの動物園を。
 ずっと病気だったお母さん。
 身体が弱くて、毎日病院のベッドで寝たきりだったお母さんとの、初めてのお出かけ。
 動物園に行くのだ。
 お母さんと一緒に。
 お母さんと手をつなぎながら。
 そしてお弁当に持ってきたバナナを、ふたりで一緒に食べるのだ。
「……動物えんだよ」
「素敵な……動物園」
 お母さんは苦しそうな顔で……小さな声でそう言いながら、でも私の作った動物園をほめてくれた。
 ゆっくりと持ち上げた手で、私の髪を撫でてくれる。
 嬉しかった。
 お母さんにほめてもらえたことが。
 嬉しかった。
 お母さんに喜んでもらえたことが。
 たったそれだけのこと。
 お母さんと私と、犬さんの三人だけで行った、私が作った雪の中の動物園。
 誰も知らない動物園。
 うさぎさんしかいない、一面の雪に包まれた動物園。
 吐き出される息は真っ白で、手は雪の冷たさのせいで真っ赤。
 空気は凍りついたみたいに冷たくて、それに触れる肌は痛いくらい。
 でも……私は幸せだった。
 一緒にいられたから。
 お母さんと。
 大好きなお母さんと、初めてお出かけができたから。
 だから、私は祈った。
 もうお母さんが、目を覚ますことがないと知った時。
 もうお母さんが、私の髪を撫でてくれないと知った時。
 もうお母さんが、笑ってくれないと知った時。
 私はお母さんが目を覚ましてくれることだけを、もう一度私の名前を呼んでくれることだけを願い、祈った。
 それが始まり。
 私がその「能力」と――彼女と出会い、ひとりの男の子と出会うためのすべての始まり。

                  §

「ね、遊ぼっ」
 不意に袖を引っぱられた私が振り向いた先にあったのは、女の子の笑顔だった。
「…………」
「遊ぼうよ」
 黙り込んだままの私に、もう一度繰り返される言葉。
「……ここは、どこ」
 女の子に訊ねながら、ゆっくりと辺りを見渡す。
 黄昏。
 目に映るものすべてが、紅に染め尽くされた世界。
 どこなのかも分からない私と彼女のふたりだけが立ち尽くす世界は、見渡す限り一面の薄に覆われていた。
 風が吹くたびに、さわさわと草たちが奏でる小さく優しい音色が、途切れることなく耳に流れ込んでくる。
 でも彼女は、口を閉ざしたまま。
 にこにこと、私の顔をまっすぐに見つめながら、嬉しそうに微笑むばかりだった。
 改めて彼女の姿を確かめる。
 小学生くらいの、小さな身体。
 黄色の薄手のワンピースを身にまとい、腰まで届くような長い髪が可愛らしかった。
 何より印象的だったのが、風が吹くたびにゆらゆらと揺れ動く、彼女の頭の上に乗っかっているピンクのうさぎさんの耳だった。
 見覚えのある姿。
 遠い昔に、いつかどこかで見たことがあるような、そんな気がする姿。
 そして……
 女の子は傷ついていた。
 刀で切り裂かれたような傷を肩口に刻み、そこから血を流していた。
 痛々しい姿。
 でも彼女は、自分が怪我をしていることにまったく気がついてないように、何ごともない様子で笑っていた。
「……誰」
「くすすっ。わからないかな、あたしだよっ」
 含み笑いをもらしながら女の子は、大きく手を広げると軽やかな身のこなしでくるりと一回転してみせる。
 ふわりと浮き上がるスカートの裾。
 ゆらゆらと上下を繰り返す、うさぎさんの耳。
「…………」
 私は黙って、その姿を見つめ続けた。
 心のどこかから浮かび上がってくる、言葉にし難い違和感のようなものを感じながら。
 じっと、その場に立ち尽くしたまま。
「ね、ホントにおぼえてないの?」
 何も答えない私に困ったように眉根を寄せ、後ろ手を組んで小首を傾げながら女の子が顔をのぞき込んでくる。
「……誰」
 同じ問いかけ。
「あたしだよ、あたし」
 同じ答え。
「あたし……それが名前?」
「もぅ、ちがうよ」
 口をとがらせ、怒ったように口を開く。
「忘れちゃったんだね、ずっとずっといっしょだったのに。じゃあ教えてあげる。あたしの名前はね――『まい』だよ」
「……まい? それは私」
「そうだよ。あなたも舞。でもあたしも、あなたと同じ『まい』なんだよ」
 女の子の言うことが分からなかった。
 彼女の名前は「まい」。
 私の名前も舞。
 同じ名前。
 それは、単なる偶然の一致なのだろうか。
 心の片隅でそんなことを考えていると、まるで私のその思いが聞こえていたみたいに、女の子は悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。
「ぐうぜんなんかじゃないよ」
「……?」
「あたしたちは、初めからいっしょだったんだから」
「一緒……」
「そう。あたしはね、あなたの中から生まれたの。舞の『願い』から生まれた、もうひとりのあなた」
 もうひとりの……私。
 そして、願い。
 何かが記憶の片隅で、形を取り始めていた。
 それは、思い出。
 ずっと昔、まだ私がお母さんと一緒にこの街に来る前の、冬の日の記憶。
 眠ったままになってしまったお母さん。
 もう一度会いたくて、お母さんに目を覚ましてほしくて、そのことだけを祈り続けた私。
 もしこの世に神さまがいるなら、その願いはきっと通じたに違いなかった。
 何故なら、お母さんは目を覚ましてくれたから。
 うっすらと目を開いたお母さんは、私に向かって「舞……おはよう」そう、微笑みを浮かべながら名前を呼んでくれたから。
 でも……だからこそ私は生まれ住んだその街を離れ、新しい街に引っ越さなくてはならなくなってしまった。
 悪魔の子。
 それが、私に与えられた名前。
 二度と見られなくなってしまったお母さんの笑顔を見るために、そしてお母さんの目を覚ますことのできた私の払った代償がそれだった。
 私の……能力。
 新しい街に越して来て、そこでもずっとひとりぼっちだった私と一緒にいてくれた、もうひとりの私。
「思いだしてくれた?」
 うなずく私。
 そう、彼女は私だった。
 小さかった頃、いつだって一緒にいてくれた「能力」という名の、「まい」という名前の私だった。
「……でも、いまの私にそんな能力はない。私にあるのは――」
 言いながら、右手を見る。
 そこにあるはずの、今日まで私が頼ることのできた唯一の力は、でもいま私の手の中にはなかった。
「……剣だけだったから」
 それは事実。
 私はずっと、剣だけを頼りに生き続けてきた。
 闘い続けてきた。
 桜散る、春も。
 星降る、夏も。
 枯葉舞う、秋も。
 雪積もる、冬も。
 ただひたすら、夜の学校に巣くう「魔」という名の存在を相手に。
「ちがうよ」
 でも女の子――「まい」は、私の言葉に首を振る。
「舞のちからはなくなってなんかいないよ。だってあたしは、いまもこうしているんだから。あたしがいるかぎり、舞のちからはなくなったりしないよ」
 ぴょんと、私の前から一歩後ずさる。
 口を閉ざしたまま、その姿を見つめる私。
 そんな私に「まい」は、くすりと小さく笑みをもらしながら、次の言葉を私に向かって紡ぎ出した。
「ずっとね、あたしたちはいっしょだったよ」
「……分からない」
「さっきも言ったよね。あたしは、あなたの『願い』から生まれたの。だからいつだってずっといっしょだったんだよ」
「…………」
「それにね、あたしは遊んでほしかっただけなの。大好きな人たちと、あなたが大好きなたいせつな人たちと」
「…………」
「だから楽しかったよ、あたしは」
 風が吹く。
 私たちを取り囲んでいる薄がゆらゆらと揺れ、それに合わせて彼女の髪もうさぎさんの耳と一緒にたなびく。
「……もしかして」
 私のその言葉を遮るように大きくうなずいた「まい」は、目を細めながら満面の笑みを浮かべると、
「そうだよ。あたしたちは、ずっといっしょだったんだよ、この野原で。野原がなくなった後も、作りかけのたてものの中で」
「…………」
「それから、夜の学校でもね」

                  §

 鋭利な刃が、鈍い輝きを発しながら私に向かって振り下ろされる。
 すんでのところでそれを避けた私は、一旦その場をやりすごしてから体勢を立て直し、改めて相手の懐に飛び込む。
 薄暗闇の中、瞳に飛び込んでくる相手の表情。
 憎悪。
 そこに宿っていたのは、ただそれだけだった。
 背筋が寒くなるほどの殺意。
 でもそれを恐いと感じる前に、私は楽しさにも似た思いを心の裡に見出していた。
 誰かに遊んでもらっているみたいな、そんな思い。
 怒り、悲しみ、憎しみ……幾つもの感情を肌に感じながら、でも私はそのことを少しも気にしていなかった。
 大好きだったから。
 距離を取るべくその場から飛び退こうとする相手の動きの機先を制するように、さらに一歩踏み込んだ私は、膝を落とし気味に一閃。
 鈍い感触。
 肉を切り裂く、確かな手応え。
 私の中で、言葉にならない歓喜の声が上がる。
「……ぐっ」
 すぐ側から聞こえてくる、痛みに耐えるうめき声。
 勢いに任せて横をすり抜け、振り返る。
 その瞬間。
 肩口を、固く鋭い何かでたたきつけられたような強い衝撃を覚え、同時に神経が悲鳴と共に激しい痛みを発する。
 斬られた。
 最初に脳裏に浮かんだのは、その一言だった。
 一方的に押しまくることができたかとも思ったが、どうやら最後の最後で相打ちに持ち込まれてしまったらしい。
 心の片隅でそんなことを思ううちに、視界が暗転した。

                  §

「跳べっ!」
 叫び声。
 剣を片手に、スカートの裾を揺らしながら廊下を駆ける人影を追い続け、一瞬遅れて角を曲がった矢先に飛び込んできた声。
 すっと、目の前にあったはずの影が消える。
 ……どこ?
 言葉にならない声が、私の中を走る。
 次の瞬間私が視界の中にとらえたのは、こちらに向かってまっすぐに突き出された、鋭い剣先だった。
 力の象徴。
 明確な殺意の発露。
 間に合わない。
 そう思った途端覚える、身体の奥深くまで貫かれる感触。
 身を引き裂かんばかりの激痛。
 急速に薄れてゆく意識の中で最後に私が見たもの、それは暗がりの中で憎悪の炎を宿す瞳の輝きだった。
 再びの……暗転。

                  §

 階段を踏みしめる足。
 一歩一歩、ゆっくりと何かを確かめるように階段を上ってゆく。
 その先に求める姿があることを、私は知っていた。
 大切な人たち。
 大好きな人たち。
 やがて瞳が見出す、ふたつの影。
 影のひとつが宙を舞ったのは、私が次の行動を起こすよりほんの少しだけ早かった。
「ダメです、祐一さんっ!」
 叫び声。
 次の瞬間背中に、固く鋭利な刃が打ち据えられる。
 勢いが弱かったのか、それとも角度がよくなかったのか、その一撃は私を傷つけることなくはじき返されてしまった。
 床を転がる影。
 それに駆け寄る、もうひとつの影。
 一歩下がり、その姿を見据える。
 話し声が聞こえた。
 でも私には、何を話しているのかまでは分からなかった。
 時間にして十秒もなかっただろう、再び動き出した影は私の横を走り抜けざま、剣を一閃させる。
 鋭い痛み。
 影はそのまま一気に、階段を下の階に向かって駆け下りてゆく。
 斬られたという事実に、そして逃げてゆくという現実に、私は反射的にその影を追って駆けだしていた。
 それきり、ぷつりと意識が途切れた。

                  §

 白と黒のコントラストに支配された世界。
 白は雪。
 黒は夜空。
 その中に、彼女はいた。
 あちこちに切り裂いたような破れ目ができた服を身にまとい、服と同じくらい顔や手足に傷を作っている女の子。
 本当なら周りの雪よりも真っ白なはずの肌と、傷口から染み出した血のコントラストが見た目にとても鮮やかだった。
 もう走る力も残ってないのか雪の上に座り込み、私を見上げている双瞳。
 長い髪はこれまでの闘いと、ここにたどり着くまでに何度も転んだせいで、すっかり乱れてしまっていた。
 そして気がつく。
 彼女がいつもつけていた、大きなリボンがどこにもないことを。
 どこかで落としてしまったのだろうか。
 とても似合っていたのに。
 とても可愛かったのに。
 心のどこかから、そんな言葉が浮かび上がってくる。
 誰よりも大切な人だった。
 誰よりも大好きな人だった。
 だから……
 殺してしまいたいほど大好き。
 壊してしまいたいほど大好き。
 同じことを思っているはずなのに、でもどこかで歯車の狂ってしまった思いが私の心をかき乱す。
 それが私の願いなのだろうか。
 そんなことを私は、祈り続けていたのだろうか。
 求め続けていたのだろうか。
「ざ……」
 空気を通して、遠くかすかに流れてくる声。
 でも吹き抜ける風にかき消されてしまって、何を言ってるかまでは分からない。
「……せぃっ!」
 裂帛の気合いと共に、背中にたたきつけるような衝撃を受けた私は、痛みを感じるよりも先にその身が真っ二つに切り裂かれてゆくことを自覚する。
 意識を失う瞬間、私が見たもの。
 それは私の背後に広がる空に視線を向け、驚きに大きく目を見開く女の子の顔だった。
 何が起こったのか。
 私はどうなってしまったのか。
 すべての答えを誰からも聞かされることのないまま、私の意識は漆黒の深い闇の中へと落ち込んでいった。

                  §

「……魔物」
 口にした事実は、でも別段驚くには値しないことだった。
 想像はしていたから。
 ずっとずっと、長い間戦い続けてきた魔物。
 私が魔物に傷つけられることもあれば、逆に魔物が私に傷を負わされることもあった。
 そんなことを繰り返すうちに、気づいたこと。
 魔が傷つけば、一緒に私も傷ついてゆく。
 私が傷つけば、一緒に魔も傷ついてゆく。
 そこから導き出される結論は、ひとつだけだった。
 目には見えないどこかで私たちはつながり、それ故に終わることのない戦いをずっと続けてきたのだ。
「そう。あたしは魔物なんだ」
 にっこりと笑みを浮かべながら、うなずく彼女。
 その笑顔は――いま見せられた映像から判断する限り、私の大切な人たちを傷つけたということに何の呵責も感じていないらしい、無垢なものだった。
「……どうして」
「なにが?」
「……傷つける。大好きな人たちを――佐祐理と祐一を」
「傷つけてなんかいないよ」
「…………」
 その言葉は、本心から発せられたものらしかった。
 何故なら嘘や誤魔化しを感じさせる色を、彼女の瞳のどこからも見出すことができなかったから。
「だって、あたしは遊んでもらってただけなんだよ」
「……遊ぶ」
「うん、そうだよ。あたしは佐祐理と祐一のふたりと、学校の中でいっしょに遊んでただけだもん」
「でも……ふたりとも怪我をした」
「そうだね」
 当然といった様子で、うなずき返してくる。
「でもね、それはあたしも同じだよ。ほら……」
 そう言って両手を広げてみせた彼女の身体には、肩口から胸元にかけて穿たれた大きな刀傷があった。
 流れ出た血で、服に真っ赤な帯ができている。
「かけっこしててころんだら、足をすりむいてけがしちゃうかもしれないよね。たんけんごっこしてて森の中を歩いてたら、木の枝で服がやぶけたり手にけがしちゃうかもしれないよね。ちゃんばらごっこしてて枝でたたいたら、顔にきりきずができちゃうかもしれないよね」
「…………」
「それと、なにがちがうのかな? あたしには、よく分からないよ」
「……子ども同士の遊びで死ぬことは、滅多にない。でも私たちのこれは、真剣を使った殺し合い」
 そう言いながら、右腕を持ち上げる。
 空っぽのままの手の中に、私は視線を落とす。
 そこにあるはずのもの。
 夜、ヤツと闘うために学校に足を踏み入れた時には片時たりとも手放すことのなかった、両刃の洋剣。
 でもいま、それは私の許から失われていた。
 祐一と佐祐理の手の中にある。
 戦うために。
 「魔」という名の、もうひとりの私と戦うために。
「……私たちだけなら、死なないかもしれない。相手の死は、自分の死に直結しているから」
「うん、そうだね。それで?」
「でも佐祐理と祐一は別。ふたりは関係ない。ふたりが傷ついても、私たちの身体は傷ついたりしない。そしていつか……」
 傷ついてゆく佐祐理と祐一。
 大切な友だち。
 三年前の春の日、お腹を空かせていた犬さんに自分のお弁当を分けてくれた佐祐理。
 それから、ずっと私のせいで傷つき続けてきた佐祐理。
 でも、佐祐理は何も言わない。
 泣き言も。
 恨み言も。
 いつだって私の側にいてくれて、尽きることのない優しく暖かな笑みをずっと浮かべ続けてくれた。
 廊下で「魔」を待ち続けていた時に出会った祐一。
 次の日から毎晩私のいる学校に来て、持ってきた食べ物を分けてくれた祐一。
 いつの頃からか、私と並んで戦ってくれもした。
 腕も未熟。
 経験も足りない。
 でも、それでも祐一は怒ったり、笑ったり、困ったりしながら、ずっと私の側に居続けてくれた。
 大切なふたり。
 大好きなふたり。
 そのふたりが傷つき、倒れてゆく。
 他ならぬ私の――もうひとりの「まい」のせいで。
「でもね……」
 私の思考を遮るように、彼女が口を開く。
 顔を上げる私。
 目が合う。
 それを待っていたように、彼女は再び言葉を継いだ。
「それを望んだのは、舞なんだよ。舞の『願い』があたしを、そんな風にさせてるんだよ」
「…………」
「おぼえてないんだね、あの日のこと。あなたが『願い』、それがげんじつになった日のことを?」
「……あの日」
「そうだよ。ずっとずっと昔、男の子とお別れするのがいやで、男の子がまたふたりだけの遊び場所に来てくれるようにって祈った『願い』のこと、もう忘れちゃった?」
 男の子。
 ふたりだけの……遊び場所。
「あたしはね、あの日あの場所で生まれたんだよ。あなたの『願い』の中から。あなたの『願い』をかなえるために」
 忘れてはいなかった。
 まだ小さかった頃。
 佐祐理と出会うより、ずっとずっと昔。
 この街に来て間もなくの、ひとりぼっちだった夏の終わり。
 私たちだけの遊び場所――学校の近くにあった薄野原で偶然出会い、毎日一緒に遊んでくれた男の子。
 楽しかった時。
 ずっと続くと信じた時。
 でも……
「さようなら」
 北の町の短い夏が終わりを告げると共に、男の子も私の前から去っていった。
 その一言を残して。
 でも、私は諦めることができなかった。
 だから受話器を握りしめながら私は、男の子に一生懸命に話しかけた。
「……魔物がくるのっ」
 男の子は、私のその言葉を信じてくれなかった。
 当然だった。
 それは嘘だったのだから。
 ただ男の子をこの街に引き留めるために、もう一度あの場所で一緒に遊ぶためについた、小さな嘘にすぎなかったから。
「ウソじゃないよっ……ほんとだよっ」
『魔物なんてどこにもいないよ』
「ほんとうにくるんだよっ……あたしひとりじゃ守れないよっ……」
 思い出す。
 あの時、自分が何を考えていたかを。
 男の子の声を耳に響かせながら、同時に私は祈り続けていた。
 魔物の存在を。
 本当に魔物がこの世に存在して、私たちの遊び場所――あの薄野原にいてくれることを。
「一緒に守ってよっ……ふたりの遊び場所だよっ……」
 ただそれだけを信じて。
 ひたすらに『願い』続けて。
「待ってるからっ……ひとりで戦ってるからっ……」
 そして私の『願い』は、現実のものとなった。
 お母さんの時がそうだったように。
 起こるはずのないことを、ありえないはずの出来事を、私の『願い』は現実のものとしてくれた。
 風に揺れる薄野原に、建築中の新校舎の中に、そして夜の廊下に彼女は――もうひとりの私である「魔」は、ずっとその姿を現し続けた。
 戦って。
 守って。
 傷つけて。
 傷ついて。
 何年もの間、夜毎の「魔」との戦いの日々を過ごすうち、その本来の目的を見失ってしまった私。
 いつしか、戦うことが目的だと思うようになってしまった私。
 本当は違うのに。
 本当は、一緒に遊んでほしかっただけなのに。
 心から信じることのできる大切な人たちと、同じ時を過ごすことを、私は望んでいたはずなのに。
 佐祐理。
 祐一。
 そう……大切な人たちを傷つけてきたのは私自身。
 幼かった頃の私の『願い』が佐祐理を、祐一を、そして私自身を苛み、悲しみの淵に追い落としていたのだ。

                  §

「よかった。思いだしてくれたんだね」
「…………」
 無言でうなずく。
「だったら……ね、遊ぼ」
「…………」
 応えない私。
 初めは笑顔を浮かべていた彼女も、やがて私の沈黙に合わせるように口を閉ざし、黙り込んでしまう。
 静寂が広がる。
 風に揺れる薄の音だけが、遠く小さく鼓膜を震わせていた。
「ねぇ。どうしてなにも言ってくれないの」
 終わりのない沈黙に我慢できなくなったのか、不安そうな色を浮かべながら「まい」が訊ねてくる。
「もしかして、怒ってる?」
 うなずく私。
 そう、私は怒っていた。
 でもそれは、彼女に対してじゃない。
 私自身――川澄舞という名の存在、そのものに対してだった。
 目の前の「魔」でもある彼女と戦い続けてきた私。
 本来の目的を見失い、手段であるはずの戦いを目的にすり替え、長い長い日々を過ごしてきた私。
 佐祐理を傷つけてきた私。
 祐一を傷つけてきた私。
 そして……自らを自らの手をもって傷つけてきた私。
 そのすべてが許せなかった。
 どうして気づくことができなかったのか。
 こんな簡単なことを。
 こんな大切なことを。
 だから私は、自分自身に対して怒っていた。
「ねぇ、怒らないで。あたしが悪いのなら、ごめんなさいするから。だから、怒らないで」
 困ったように、いまにも泣き出しそうな顔をする彼女。
「……違う」
 言いながら私は、彼女と同じ視線になるまで膝を折る。
 それからゆっくりと、目の前の女の子の髪を撫でてあげた。
「……悪いのは私」
「え?」
「……だから、泣かなくてもいい」
 その途端私の袖をぎゅっと掴んだ女の子は、抱きついてくるようにその小さな身体を預けてきた。
 軽く、柔らかな感触。
 動きを封じられた腕はそのまま、私は残るもう一方の手で彼女の頭を撫で続けた。
 思い出す。
 小さかった頃、お母さんによくこうしてもらっていたことを。
 悲しい時や困った時、私の前で膝をついたお母さんはいつだって、こうして私の髪を撫でてくれた。
 そうするうちに少しずつ心の痛みが薄らぎ、嫌なことなんか全部忘れて幸せな気持ちになれるのだ。
 そう言えば佐祐理も、時々こうやって私の頭を撫でてくれた。
 困った時。
 悲しい時。
 私と同じくらい悲しく、辛い時でも佐祐理は、
「あははーっ。いーこいーこしてあげるねーっ、舞」
 笑顔を浮かべながらそう言って、いつだって私の髪を優しく撫でてくれた。
 そして私はいま、彼女の髪を撫でている。
 泣き出さないように。
 悲しい思いをしないように。
 あの頃の私が持っていた、でもいまの私からは失われてしまった笑顔が消えてしまわないように。
 ずっと、彼女と一緒にあることを願いつつ。
 どれくらいそうしていただろう、ようやく私の腕から顔を上げた彼女は、
「ねぇ」
「……?」
「あなたは……舞はさびしくないの?」
「……寂しくない」
 少しだけ考え、答える。
「どうして。だってここには、あたしたちしかいないんだよ。佐祐理も祐一もいないんだよ。それなのに……さびしくないの?」
 うなずく。
 そして言葉を紡ぐ。
「……ずっとひとりだったから、私は。でも、寂しいと思ったことはない。それが普通だったから。それに……」
「それに?」
「……私がいなくなってしまったら、今度は「まい」がひとりぼっちになってしまう」
「う……ん」
「……だから、ここにいる。ここで、一緒に遊ぶ」
「えっ、遊んでくれるの?」
 こくり。
 その途端、満面の笑みを浮かべた彼女は、
「じゃあ、いっぱいいっぱい遊ぼうよ。鬼ごっこにかくれんぼ。それからカンけりと、だるまさんがころんだも……あたしね、やりたかったこといっぱいいーっぱいあるんだ」
「……全部?」
「うんっ。だって、時間はいっぱいあるから。ここはね、あたしたちのらくえんだもん。えいえんの……らくえんだから」
「……そう」
 楽園。
 永遠の。
 私たちはここで、永遠の時を過ごすのだ。
 ふたりで、私とこの子のためだけに存在する、この場所で。
 それが自らの『願い』の結果、大切な人たちを傷つけてしまった私の、償いなのかもしれなかった。
「……だったら俺は、けんけんぱーがやりたいぞ」
 突然、背後から聞き慣れた男性の声が流れてきたのは、その時だった。

                  §

 振り返った先。
 そこに私が見出したのは、意外な姿だった。
「…………」
 驚きで言葉を失ってしまった私に向かって、笑顔と共に軽く振られるふたりの手。
 そして紡がれる言葉。
「よぅ」
「あははーっ」
 間違いない。
 そこにいるのは、夢でも幻でもなかった。
「……佐祐理。それに、祐一」
 ようやくのことで、それだけを口にする。
 すると祐一は、どうしてか不思議そうな様子で小首を傾げながら、
「なーに鳩が豆鉄砲みたいな顔してんだよ、おまえは」
「……鳩さん?」
「いや。そうじゃないんだが……でもまぁ、その通りか」
「……どうしてここに」
 事情をまったく把握できないまま訊ねる私に祐一は、がさがさと薄を踏み分けながらこちらに近づいてくると、
「どうしてって……迎えにきたんだよ」
「……誰を」
「舞のことを、に決まってるじゃないですかーっ」
 微笑みを浮かべながら、祐一の横にたたずんでいた佐祐理が当然のようにそう言う。
 私は、佐祐理と祐一の顔を交互に見比べる。
 それから傍らで、私の服の袖を掴んだままの彼女の――「まい」に顔を向ける。
 彼女の顔は、不安に揺れていた。
 理由は……言うまでもない。
 ここから、私がいなくなってしまうことを恐れているのだ。
 一緒に遊んでくれる相手を失い、この黄昏に包まれた薄野原のただ中でひとりぼっちになってしまうことを。
「……行けない」
 私は首を振って、それだけを口にする。
「舞……」
 佐祐理の悲しげな声。
「もしかして佐祐理と祐一さんのこと、嫌いになっちゃった?」
「……そんなことはない。佐祐理のことは、いまでも大好き。祐一も……大切な友だち」
「だったら……」
「……私がいると、迷惑になる」
「迷惑?」
 私の言葉に、祐一が疑問を返してくる。
 そしてどこか困った様子で、
「俺たちは、舞のことを迷惑になんて思ったことないぞ」
「…………」
「なぁ、なんで迷惑なんだよ?」
 沈黙。
 互いに視線を交わしたまま、黙り込んでしまう。
 佐祐理は、祈るような眼差しを私に向けながら、やはり口を閉ざしたままその場にたたずんでいた。
 先に静寂を破ったのは、私だった。
「……佐祐理も祐一も、私のせいでたくさん傷ついた。私がいるから傷つき、悲しい思いをした。そんな私が一緒にいたら、迷惑なだけ」
「舞、それは違うぞ」
「……?」
「別に舞のせいで傷ついたなんて、俺も佐祐理さんも少しも思ってない。俺は俺の意志で、佐祐理さんは佐祐理さんの意志で舞と一緒にいたいと思って、その結果たまたまそうなったにすぎないんだよ」
「……同じこと」
 祐一が言ってるのは、結局同じことだった。
 初めから私という存在がいなければ、祐一も佐祐理も傷つくことはなかった。
 だから私は、迷惑な存在なのだ。
 だから、ふたりと一緒には行けないのだ。
「同じじゃないよ、舞」
 今度は佐祐理が口を開く。
 薄を踏み分けてすぐ側にまで歩み寄ってきた佐祐理は、その場に膝をつくと穏やかな笑みを口元に宿しながら、
「佐祐理はね、ずっと舞と一緒に幸せになりたかったんだ。舞と一緒に色んなことをして、色んなことを覚えて……幸せになりたかったんだよ」
「…………」
「でもね、いつだって楽しいことばかりじゃないよね。嬉しいことばかりじゃないよね。悲しいことや苦しいこと、辛いことや寂しいことだって、途中にはいっぱいあると思うんだ」
 そこで一度言葉を切る。
 まるで何かを思い出すようにゆっくりと目を閉じた佐祐理は、それから不意に小声で歌を歌い出した。
「ひとりで泣いて」
「……佐祐理?」
「ふたりで耐えて」
「……?」
「さんにんで笑う」
 そこで目を開けた佐祐理は、再び笑顔を見せると、
「これってね、祐一さんに教えてもらった歌なんだよ。佐祐理と祐一さんが笑うためには……舞がいてくれないとダメなの」
「私が……」
「そう。ひとりでもふたりでもなくて、三人一緒じゃないとダメなの」
「…………」
「だから……ね、舞。一緒に幸せになろうよ。普通の女の子みたいに、ふたりで一緒にウィンドウショッピングをしたり、途中でお茶したり……そうやって舞と少しずつ幸せになっていきたいな、佐祐理は」
 そこで言葉を切った佐祐理は、目を細めながら私からの言葉を待っていた。
 佐祐理。
 祐一。
 まい。
 三人の顔を交互に見つめ、そして私はぽつりとつぶやく。
「……どうすればいいのか分からない」
「大丈夫だよ、舞。佐祐理と、それに祐一さんだっていてくれるんだから」
「…………」
「だからね、もう刀なんて持たなくたっていいんだよ。もう、夜の学校にいなくたっていいんだよ」
「剣は捨てられない……私はずっとこれに頼って生きてきたから」
 右手を見る。
 何もない、空っぽの手を。
「もう剣はいらないよ。そんなもの、使う必要ないんだよ」
 私の思いを察したように、小さく首を振りながら佐祐理が言葉を紡ぐ。
 小首を傾げながら、訊ねる。
「……どうして」
「それはね、全部終わったから」
「全部……?」
「そう、全部」
 うなずく佐祐理。
 それから、私の横にいる「まい」に向かって微笑みかける。
 自らを傷つけた相手に。
 いつも私に浮かべてみせてくれていたのと少しも変わらない、穏やかで温かな笑みを。
「きっと舞も、佐祐理と同じでもう分かってると思うんだけどな」
「でも……剣を捨てた私は本当に弱いから」
 視線を落としながら、つぶやく私。
「……佐祐理と祐一に迷惑をかける」
「迷惑結構。大体そんなもの、俺は迷惑とも思わないぞ」
 いままで黙って私と佐祐理の会話に耳を傾けていた祐一が、そう言いながら話に割り込んでくる。
「あははーっ。佐祐理もだよーっ」
 顔を上げる。
 そこには私のことを見つめる、佐祐理と祐一の温かな眼差しがあった。
 少しだけ考える。
 色々なことを。
 剣を無くし、頼るべき何かを失った弱い私の姿を。
 無力で、守られるばかりの私の姿を。
 佐祐理と祐一に迷惑をかけるしかない私の姿を。
 どれくらい経った頃だろう、私は心の奥底から浮かび上がってきた、とりとめのない思いをそのまま口にしてみせる。
「道ばたで泣いてしまうかもしれない……」
「任せろ。その程度、泣き止むまで隣に立って待っててやる」
 祐一の声。
「ごはん食べてたら、不意に泣き出してしまうかもしれない」
「それくらい平気だよ。だったら佐祐理も一緒に食べるのを止めて、舞にいっぱいお話をしてあげるから」
 佐祐理の声。
「泣きやんだら……冷めたごはんを一緒に食べてくれるの……」
「冷めたごはんなら俺に任せろ」
「あははーっ。祐一さん、猫舌ですもんねーっ」
「そうそう」
 佐祐理と祐一の声。
「夜中に起き出して、泣いてしまうかもしれない……」
「寝る時だって、佐祐理は舞と一緒だから平気だよ」
「じゃあ俺は……舞の泣く声が聞こえたらすぐに起きて、温かいものでも入れてやる」
 嬉しかった。
 佐祐理と、祐一の言葉が。
 私と一緒にいてくれると言う、ふたりの言葉が。
 やがて佐祐理が、胸の前で手を合わせながら顔を伏せる。
 何かに祈るように。
 その様子を、じっと見つめる私。
 どれくらいそうしていただろう、ゆっくりと伏せていた顔を上げた佐祐理は、まっすぐに私の瞳を見据えながら、
「あのね、舞。本当は、卒業してからの方がいいかなって思ってたんだけれど、舞さえよかったら……佐祐理と一緒のお家に住まない?」
「……お家?」
「そう。佐祐理と舞と祐一さんの三人で。それだったら舞とずっと一緒にいられるし、きっと楽しいと佐祐理は思うんだけどなーっ」
「……アリクイさんのぬいぐるみ、持っていってもいい?」
「あははーっ。もちろんだよ。ブタさんのオルゴールも忘れずにね。舞の思い出が詰まったもの、全部持ってくればいいんだよ」
 佐祐理は楽しげに目を細めながら、私からの返答を待っていた。
 少し離れたところにいる、祐一に目を向ける。
 祐一も佐祐理と同じ様に楽しげな笑みを浮かべながら、その優しい眼差しで私の言葉を促してくれていた。
「……はちみつクマさん」
「は?」
「ふぇ?」
 ふたりとも、ちょっと驚いたような顔をしている。
 何をそんなに驚いているのだろう。
 小首を傾げながら私は、ぽかんと口を開けたまま私を見つめている祐一に訊ねる。
「……おかしくなかった」
「あ、いや。まぁ、おかしいと言うかなんというか……」
「……三人で笑う」
「え?」
「……三人で笑うんじゃないの」
「あははーっ」
「佐祐理は笑ってくれた」
「舞。それは……違うと思うぞ」
「……難しい」
 もう一度首を傾げる私の頭を、歩み寄ってきた祐一はぽんと軽くたたくと、
「まぁ……慌てずゆっくり行こうぜ」
「……分かった」
 うなずく私。
 そんな私に、祐一は少し困ったような笑みを浮かべるばかり。
 やがて表情を元に戻した祐一は、佐祐理と祐一が現れてからずっと私の横で黙り込んだままだった「まい」に視線を向ける。
「よぅ。久しぶり、ってのも変だな。また会えたな」
「え?」
 彼女はびっくりしたように表情を固くし、掴んだままの私の袖を強く握りしめる。
「気づいてやるのが遅くなっちまって、ごめんな。もっと早く俺の目にも見えてれば、もう少し違ったことができたんだろうけどさ」
「う、うん……きゃっ!」
 小さな悲鳴。
 祐一の両手が差し出されると同時に姿を消した「まい」は、次の瞬間祐一の肩の上に座らされていた。
「わぁ、高いよーっ」
「どうだ。いい見晴らしだろう?」
「うんっ。すっごく遠くまで、よく見えるよ」
 一瞬何が起こったか分からない様子だった彼女は、でも祐一が声をかけると相好を崩してうなずき返す。
 それからきゃっきゃっと、楽しげな声を上げ始めた。
「舞、行こっ」
 差し出された手。
 それは佐祐理の、私に向けて伸ばされた手だった。
 朗らかな笑み。
 私に向けられた、大切な人の……変わることのない温かな笑顔。
「おっと、もうひとりのお姫さまを忘れてた」
 肩の上の彼女はそのままに、「まい」を落とさないように器用にバランスを取りながら祐一からも手が差しのべられる。
 目の前に広げられた、ふたつの手。
 佐祐理を見る。
 そして祐一を見る。
 ふたりの口元に浮かぶ楽しげな、優しげな笑み。
「…………」
 それを確かめた私は、視線を落とす。
 まばたきするほどの合間を置いて上げた顔に、いまの私にできる限りの笑みを宿しながら両手を差し出す。
 指先に触れた佐祐理と祐一の手は、その笑顔と同じくらい温かかった。
エピローグに続く

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