『永遠の楽園』
Update:2000.04.11
ゆるやかな勾配の坂を一気に駆け上る。
まだ冬の色合いを濃く残している空気は、息を吸い込むたびに喉や気管にちくちくと、小さな痛みを覚えさせてくれた。
「はぁ……はぁ……」
でも足を止めることなく、ひたすら走り続ける俺。
いまでさえ、予定の時間から大幅に遅れているのだ。
これ以上遅れた日には、何を言われるか分かったものじゃなかった。
左腕に抱えた紙袋の中身が、足を動かすたびにがちゃがちゃと不協和音とも悲鳴ともつかない音を発する。
「あー、うるさいっ」
切れ切れな息の合間から、思わずそんな悪態が口を突いて出てきた。
そもそも俺がいまこうして全力で坂道を走り続けているのは、こいつを買いに寄り道をしたからで、そう思うと改めてやり場のない怒りを覚えそうになってしまう。
そうこうするうち、ようやく目的地が見えてくる。
いつもと同じ風景。
でも、いつもと少しだけ違う一日。
最後の角を曲がり、校門をくぐり抜けて校内に一歩足を踏み入れた俺の目に映し出されたのは、文字通りの人の海だった。
「うわ……ここから探すのかよっ……」
思わずそんな、泣き言に近い言葉を口にしてしまう。
一瞬目眩にも似た思いを抱き、それから小さくため息をついた俺は、校庭のあちこちにできている人垣をかき分け、首を左右に巡らせながら求める姿を探し始めた。
ぽかっ。
後頭部を誰かのチョップが襲ったのは、その時だった。
いきなりこんなことをしてくれるヤツは、知る限りひとりしかいなかった。
「……遅い」
振り向きざま、放たれる言葉。
普段と少しも変わらない、ぶっきらぼうな口調。
「悪ぃ」
拝むように顔の前で手を立てながら、俺は謝罪の言葉を口にする。
我ながらあまり誠意のない態度だと思いつつ、でも彼女――舞は何ごともなかったように、俺の言葉を受け入れてくれた。
「とりあえず間に合ったんだから、まぁいいだろ?」
「…………」
「ほーら、本日の主役がそんな顔するなってば。せっかくの晴れの舞台が台無しだぞ、そんなこっちゃ」
「……主役」
「ああ、そうだ」
俺の言葉に、ちょっと意外そうな顔をする舞。
卒業。
いつか訪れる旅立ちの――別れの時。
舞も佐祐理さんも俺よりひとつ上の学年だったから、当然ながら卒業も一年早い。
そんなわけで今日が、その日なのだった。
「お、もう貰ったんだな。卒業証書」
ちらりと手許の筒に視線を落としながら、こくりとうなずく舞。
卒業式とはいえ、学生である彼女が身にまとっているのはいつもと同じ制服。
でも今日だけは何かが少しだけ違うような、そんな気がした。
「しっかしおまえ、よく卒業できたよなぁ」
「…………」
「改めて考えたら、おまえってすごい素行不良な生徒だもんな」
「…………」
「窓ガラスは割るわ、舞踏会は滅茶苦茶にするわ、バケツとタライはボコボコにするわで、あれだけのことしたら普通留年の一年くらいしてても、おかしくないぜ」
「…………」
「ま、まさかおまえ、卒業のために……」
ぽかっ。
皆まで言わせず、舞のチョップが炸裂する。
「……祐一、人聞きが悪い」
「冗談だって」
苦笑いを浮かべながら、気分を害したように眉根を寄せる舞の頭を、軽くたたいてやる。
そう、こいつはいつだってこうなんだ。
無表情で。
ぶっきらぼうで。
無口で。
その上、思いの外世間知らずで……
でもだからこそ、舞はどんな時でも舞のままなんだろうと思えるわけで。
そんなことを思ってしまう自分が、ついおかしくなってしまう。
「……?」
「あ、いや。なんでもない。そういや佐祐理さんは……」
「あーっ、舞! それに祐一さんも、やっと見つけましたーっ」
俺の言葉を遮るように、横合いから発せられる楽しげな声。
待つほどもなく器用に人混みをかき分けながら、にこやかな笑顔と共に佐祐理さんが俺たちの前に姿を現した。
「お、これでお姫さまの揃い踏みだな」
「あははーっ、佐祐理たちがお姫さまですか。少し恥ずかしいです。ねーっ、舞?」
こくりと、問われるまま無言でうなずく舞。
舞と目を合わせ、ちょっと恥ずかしそうに頬を染めながら照れ笑いを浮かべる佐祐理さん。
雪が溶け、暦では長かった冬に終わりを告げる三月。
でもこの北の街の春の訪れは遅く、青空に向かって枝を張り巡らせている桜の樹々も、ようやくぽつぽつと蕾と花を見せている程度。
それでも俺はいま、確かに春の訪れをこの身に感じ取っていた。
大切な存在である彼女たちの、卒業を前にして。
「ところで祐一さん、それはなんですか?」
「ん、これか?」
話が一段落したところで、俺が抱えている紙袋の存在に気づいたらしい佐祐理さんが、小首を傾げながら訊ねてくる。
俺は袋をふたりの前に掲げながら、
「これはだな、とてもいいものだ」
「ふぇー……そうなんですか」
「……食べ物」
約一名、かなり勝手な想像をしているみたいだが、とりあえず害はないので放っておく。
こほんと一度咳払いをした俺は、
「あー、時に佐祐理さんと舞は、これから時間はあるかな?」
「あははーっ。佐祐理は特に予定はありませんから、祐一さんにおつき合いしますよーっ」
「……私も暇」
予想通りの答え。
そんなふたりに向かって悪戯っぽい笑みを浮かべた俺は、改めて目の前で掲げたままの紙袋に視線を送ると、
「じゃあ、行こう」
それだけを言って、歩き出す。
「行くって、どちらに行かれるんですか、祐一さん?」
背後からかけられる、佐祐理さんの質問。
周囲の人波を避けるように、校舎に向かって歩き出していた俺は足を止める。
そしてふたりの方を振り返りながら、
「目指すは……中庭だ」
§
「さーて、お立ち会い。ここに取り出したりますは……」
屋台の実演販売の売り子よろしく、景気のいい台詞と共に紙袋の中に手を入れる俺。
佐祐理さんと舞は興味津々といった様子で、俺の手を見ていた。
人混みを抜け、やがてたどり着いた中庭。
さすがにこの辺りまで来ると人影もほとんど見あたらず、中庭は普段と変わらぬ落ち着いた空気に満たされていた。
そんな中、俺はふたりの顔を交互に見比べながら、
「じゃん」
おもむろに、それを取りだしてみせる。
「はぇー……」
「…………」
む、何か反応がイマイチだ。
もう少し好意的なリアクションがあるかと思ったが、ここはやはりもっと演出に凝った方がよかったのだろうか。
そうか、いっそのことクイズ形式にするという手もあったな。
いや待てよ……
などと俺が内心で客商売に関する難しさを実感しつつ、次なる機会に備えての反省などをしていると、
「あははーっ。水鉄砲ですねーっ」
楽しげな笑みを浮かべた佐祐理さんが、ようやく求めていた反応を示してくれた。
それで言葉の接ぎ穂を見出すことができた俺は、
「ああ。来る途中、駄菓子屋に寄って買ってきたんだ。もう売ってないんじゃないかって諦め半分で行ったんだけど、まだあったんでびっくりしたよ」
「あ、もしかしてあの角の駄菓子屋さんですか?」
「そうそう……って。舞、どうした?」
気がつくと舞が、物珍しげな様子で水鉄砲をしげしげと眺めていた。
「なぁ舞。おまえ、もしかして初めて見たのか、これ?」
こくり。
「……どうやって使うの」
「ん? これはだな、こうやって……」
言いながら、舞の顔に向かって銃口を向け、引き金を引く。
本来なら水が出るところだが、当然ながらまだ水を入れていない現状では、ポンプで押し出された空気が舞の顔に当たるばかり。
肌に覚えるその感触に、くすぐったそうに目を細める舞。
「とまぁ、理屈は至って簡単だ」
穴が開くように水鉄砲を凝視し続けている舞に、それを手渡す。
素直に受け取った舞は、見るからに興味深そうな顔つきであっちを握ったりこっちを握ったりを繰り返していた。
そんな彼女の様子に口元をゆるめながら、俺は袋から取りだしたもう一丁の水鉄砲を、今度は佐祐理さんの手に乗せてあげる。
「ふぇ……」
小さくつぶやき、じっと手の中のそれを見つめ続ける佐祐理さん。
そんな彼女を俺は、黙って見つめ続けた。
いま何が、佐祐理さんの中を去来してるかを知っていたから。
彼女の思いが分かるから。
いつだったか、夕焼けの下で聞いた彼女の思い出。
弟と水鉄砲で遊んだ、楽しくて悲しい記憶。
しばしの沈黙の後、伏せていた顔をゆっくりと持ち上げた佐祐理さんは、
「……楽しいですね」
穏やかな声音で、そう言った。
何かを懐かしんでいるみたいに儚げで、でも楽しげな笑顔がそこにあった。
俺に向けられた微笑み。
同時に、いまも彼女の中にいるはずの弟へと向けられた微笑み。
しばらくの間、少しだけ目を細めながらしゅこしゅこと水鉄砲から吐き出される空気を頬に感じ続けていた俺は、やがて小さくうなずくと、
「ああ、楽しいな」
それだけで十分だった。
少なくとも、いまの俺と佐祐理さんにとっては。
くぃくぃ……
「ん?」
袖を引かれる感触に、反射的にそちらに目を向ける。
「……舞?」
水鉄砲に夢中になっていたはずの舞が、いつの間にか俺のすぐ側に来ていた。
「どした?」
「……ひとつ聞いてもいい」
「ああ、いいけど」
「……祐一は、佐祐理のことが好き」
何かまた、えらく唐突だな。
舞が突然口にした質問に少しだけ戸惑ってしまった俺は、でもすぐに気を取り直すと、
「そりゃあ、好きに決まってるだろ。大好きだぜ」
「……そう」
小さくうなずいてから、次に佐祐理さんの方に向き直った舞は、
「……佐祐理は、祐一のことが好き」
「あははーっ、もちろんだよ。佐祐理はね、舞が思ってるのと同じくらい祐一さんのことが大好きだよーっ」
「……そう」
それきり口を閉ざした舞は、何か考え込むように視線を落としてしまう。
ますますもって、理解不能だった。
舞が何を考えているのか。
一体、何を言おうとしているのか。
内心のそんな疑問を俺が口にしかけた時、顔を上げた舞が口を開く。
「……じゃあ、祐一は佐祐理に譲る」
「は?」
「……でもその代わり、佐祐理は私が貰う」
「へ?」
そう言うや否や、佐祐理さんをぎゅっと抱きしめる舞。
「あははーっ。ちょっと……恥ずかしいですねーっ」
舞に抱きしめられながら、ほんのりと頬を染める佐祐理さん。
ことの成り行きについていけずに、固まってしまう俺。
でもすぐに我を取り戻すと、
「待て待て待てっ。こら舞、俺には一体なにがどうしてどうなってるのかが、さっぱり分からないぞっ」
「……祐一、頭悪い」
「違うっ。俺が理解できないのは、ただ単におまえの説明が足りないからだよっ!」
「……祐一、うるさい」
「おまえのせいだ、おまえのっ」
「…………」
「あははーっ。でも舞、佐祐理にもよく分からないよ」
これ以上険悪な空気にしないためだろう、うまい具合に佐祐理さんが合いの手を入れて、やんわりと舞に説明を促してくれる。
「……こうすれば、公平」
本気で言ってるのだろうか。
怒る以前に、思い切り力が抜けてしまった。
がっくりと肩を落として大きなため息をついた俺だったが、でもすぐに顔を上げると、
「なぁ、舞」
「……?」
「おまえ、俺と佐祐理さんのこと好きか?」
「…………」
こくり。
「佐祐理も祐一も、大切な友だち」
「それで……佐祐理さんは、舞のこと好きだよな?」
「あははーっ。もちろんですよ。祐一さんが思われてるのと同じくらい、佐祐理は舞のことが好きですからーっ」
当然のようにそう、にこやかな笑みと共に答える佐祐理さん。
彼女の返答に、俺はうんうんとうなずきながら、
「じゃあ……舞のことは佐祐理さんに譲ろう」
「…………」
「その代わり、佐祐理さんは俺が貰った」
しばしの沈黙。
暖かな陽射しと、少しずつ春めいた温もりをまとい始めた微風が俺たちを包み込む。
「……祐一、ずるい」
「ずるくないっ。おまえが言ったまんまを、繰り返しただけだろうがっ」
「……困った」
「困るなっ」
「……難しい」
「難しくないっ」
「あははーっ。このままだと、大岡裁きになってしまいますねーっ」
何かわけが分からなくなってきたけれど、とりあえず丸く収まった気がするので、これでよしとしておく。
「あれ……そこにいるのって、祐一? そんなとこで、なにしてるの」
その時横合いから、誰かが俺に声をかけてくる。
見れば校舎の入り口近くから、見慣れた姿がこちらに顔を向けながらたたずんでいた。
「名雪? それに香里と……北川か?」
もしかして、彼女たちも卒業生の見送りに来ていたのだろうか。
「あれは、名雪さんですね」
「思うに部活関係の見送り……だろうな」
「ええ、きっとそうですね。そうだ、祐一さん。せっかくですから、名雪さんたちもお誘いしたらどうでしょう?」
名案を思いついたように、手を合わせながらそう言う佐祐理さん。
「お誘い……って、これ?」
言いながら、袋から取りだした水鉄砲の引き金を引く。
しゅこしゅこと、空気の抜ける音。
「ええ、これです」
「まぁ別にいいんじゃないか。こんなこともあろうかと、多めに買ってきてあるし。それにこういうのって、人数が多い方が楽しいだろうしな」
「はい。それじゃあ佐祐理、ちょっと行って来ますねーっ」
微笑みながらそう言い残して、名雪たちのいる場所へと駆けてゆく佐祐理さん。
その後を追うように、俺も歩き出す。
「ほら舞、俺たちも行こうぜ」
こくり。
うなずき、俺に並んで舞も歩き出す。
「……祐一」
「ん?」
ぽつりと、不意に紡がれた言葉。
足の動きはそのままに、視線だけを舞の方に向けながら彼女の次の言葉を待つ。
地面を踏みしめる、ふたり分の足音。
その足音に重なるように耳に届いた、つぶやくような声。
「……ありがとう」
「なにがだ?」
「……佐祐理を、助けてくれて」
「…………」
「……それから私を、迎えに来てくれて」
一瞬、返答に詰まる。
でも次の瞬間、
「おぅ」
そう一言、俺は大きくうなずき返していた。
冬の終わり。
すべてを凍てつかせる北風が吹き去り。
大地のすべてを覆い尽くしていた雪も、日に日に温もりを増してゆく陽射しの中に溶けて消えてゆく。
「えーっ……この時期にそんなことしたら、風邪引いちゃわないですか?」
「あら。でもそうなったら、水も滴るいい女になれるわよ、名雪」
「そんなの、少しも嬉しくないよ」
「銃撃戦は男のロマンだ。ふふふ……腕が鳴るぜ」
そして訪れる、春。
空はまだ、冬の余韻を残すようにどこまでも高くて。
肌に触れる空気も、刺すような冷たさを未だに残している。
でも……
「あははーっ。祐一さん、早く来てくださいーっ」
彼女がいるから。
大切だと思える人。
大好きだと思える人。
そんな人と肩を並べ、迎えることのできた新しい季節の中を、俺はこれから歩いてゆこうとしている。
それに……
ちらりと、視線を横に向ける。
「…………」
そこにある姿。
のぞき込むように銃口を顔に向け、何が楽しいのか水鉄砲の引き金を引いてはくすぐったそうに目を細めている舞。
こいつもいることだし、飽きるってことだけはないに違いなかった。
そう、俺たちは三人なのだ。
悲しい時も。
嬉しい時も。
辛い時も。
楽しい時も。
これから紡がれてゆくだろう、俺たちの物語。
戦い、傷つき、悩み、苦しみ――そんな様々なものを乗り越えて、三人で一生懸命に幸せになるための物語。
あるかどうかすら分からない楽園を、永遠の楽園を目指して。
「佐祐理さん!」
その中を、俺と一緒に歩いてゆく相棒が……
大切で、大好きな人が……
「ふぇ……?」
彼女だ。