『永遠の楽園』
Update:2002.01.22
誰かに呼ばれたような、そんな気がした。
目が覚める。
光の失われた薄暗がりを通して瞳の裡にぼんやりと浮かび上がってきたのは、見慣れた部屋の天井だった。
覚めきっていない頭の片隅で自分の居場所を再確認してから枕元に手を伸ばし、指先に触れたそれを引き寄せる。
かちかちと、固い響きと共に時を刻み続ける時計。
午前二時を少し回ったところだった。
昨日は買ってきた雑誌を読みながら何をするでなしにだらだらすごしていて、寝たのは確か日付が変わる少し前くらいのはずだった。
と言うことは、寝入ってからまだ二時間しか経っていない。
珍しいな。
名雪ほどじゃないにしろ、一度寝たら滅多なことじゃ途中で起きない俺にしては、こんな時間に目が覚めるなんて年に何度もないことだった。
状況を把握したところで、さてどうしたものかと思案に暮れる。
もう一度寝直すという手もあったけれど、あれこれ考えているうちに目がすっかり覚めてしまっていた。
仕方なくベッドから抜け出した俺は窓辺に歩み寄ると、カーテンを開く。
深い眠りに落ちた町並が、そこにあった。
ぽつぽつとまばらに点る街灯を除けば、世界を照らすのは空に輝く月と星ばかり。
黒が八分に白が二分……か。
世界中から俺以外の全ての人間が消え失せてしまったような――ガラス越しに映し出される世界は、そんな静けさに満たされていた。
「なーに言ってんだか……」
浮かび上がった想像の馬鹿らしさに、ため息混じりに窓辺から離れた俺は、そのまま部屋を後にする。
季節は春。
とはいえ素足に触れる廊下は、氷の上でも歩いているみたいに冷たかった。
足音を立てないよう抜き足差し足で、ゆっくりと階段を下りてゆく。
リビングにたどり着いた俺は照明のスイッチも入れずに、勘だけを頼りに暗闇の中をキッチンへと向かう。
「確か烏龍茶があったよな。お、あったあった」
冷蔵庫から漏れる明かりの中、首尾よく目的物を発見した俺はペットボトルに手を伸ばす。
「誰か……いるの?」
背後から声がしたのは、その時だった。
突然のことに、びくりと身体を震わせてしまう俺。
慌てて振り向くと、そこには小首を傾げながらこちらを見据える秋子さんの姿があった。
「祐一さん?」
「え? あ、はい。そうです」
誰何の声に、その場から立ち上がりながらうなずき返す。
開けっ放しの冷蔵庫から漏れる光が、彼女の姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。
ぱちりと小さな音が響くと同時に、不意に視界が真っ白になる。
暗闇に慣れていた目が、急な明度の変化に声にならない小さな悲鳴を上げるが、掌で目尻を覆ううち少しずつ元通りになってゆく。
「どうしたの、こんな時間に?」
パジャマの上にカーディガンを肩掛けに羽織った秋子さんは、不思議そうな眼差しを浮かべながら、そう問いただしてきた。
「……ええと。ちょっと喉が渇いたから、なにか飲もうかと思って」
「そう」
「もしかして、驚かせちゃいました?」
その問いかけに秋子さんは肯定も否定もせずに小さく微笑むと、俺の脇を通って流しの前に立つ。
そして傍らにあったポットに水を入れると、コンロに火を付けた。
「お茶でも飲みましょうか」
「あ、はい」
彼女の言葉にうながされるように椅子に腰を下ろした俺は、手持ちぶさたなまま、ぼんやりと流しの前に立つ秋子さんの背中を見つめ続けた。
「さぁ、どうぞ」
気が付くと、目の前に湯飲みが差し出されていた。
「ども」
慌てて意識を現実に引き戻した俺は、柔らかな湯気を立てているそれを受け取り、軽く息を吹きかけてから飲み口に口をつける。
ほどよい渋みの効いた緑茶の味が、口中に広がっていった。
んまい。
心の中で満足の言葉をつぶやきながら、もう一口飲む。
テーブルを挟んで、言葉を交わすでもなしにお茶をすすり続ける俺たち。
でも不思議と気まずさを感じたりすることはなく、むしろどこか穏やかな心地を覚えたりしていた。
これが秋子さんの空気なのかな――間を取るように時折湯飲みを回しながら俺は、頭の片隅でそんなことを思ったりする。
「それにしても」
「え?」
不意に紡がれた言葉に湯飲みに落としていた視線を上げると、秋子さんは少しだけ目を細めながら、
「珍しいわね。祐一さんがこんな時間に起きてくるなんて」
「そうですか?」
「ええ。いつも、朝までぐっすり寝ていますから」
「うーん、そう言われれば俺、確かに子供の頃から寝つきは良かったかも」
「うふふ……名雪と一緒ね」
相変わらずの穏やかな眼差しで、とんでもないことを口にする。
一日の半分は寝てるようなヤツと一緒にされるのは心外だったけれど、実の母親を前にそれを口にするのはちょっとばかり気が引けた。
だから俺は、反論を口にする代わりに、
「ちぇっ」
天井を見上げながら、それだけをつぶやいた。
「名雪は寝ているのかしら?」
「そうですね」
うなずきながら、この際残るもうひとりの家族も呼び起こそうかと思いもするが、すぐにその案を放棄する。
あいつのことだ、お茶程度の誘惑で目を覚ましはしないだろう。
「しっかし……呆れるくらいよく寝ますよね、名雪のヤツ」
「明日はお休みだし、きっとお昼過ぎまで寝てるんじゃないかしら」
「腹が減ったら起きてきますよ」
「ふふっ、そうね」
目を合わせて、互いに笑みをこぼした。
「さ、そろそろ寝ましょうか」
そう言って秋子さんが静かに席を立ったのは、ちょうど俺がお茶の最後のひと口を飲んだ時だった。
空になった湯飲みを渡しながら、俺も席を立つ。
「わたしは部屋に戻りますけど、祐一さんはどうします?」
「そうですね……」
目はすっかり覚めていたから、今更部屋に戻ってもすぐには眠れそうになかった。
それに……
「俺は、ちょっと散歩にでも行ってきます」
目が覚めた時に覚えた、誰かに呼ばれたような感覚。
ふとそれが、意識の片隅によみがえった。
だからかもしれない、口にする瞬間まで考えもしなかったそんな言葉が、俺の口を突いて出てきたのは。
「そうですか。外はまだ冷えますから、身体を冷やさないよう気をつけてくださいね」
彼女のその言葉に、改めて寝間着姿の自分自身を見下ろす。
さすがに、この格好のまま外に出るのは厳しいか。
内心でそんなつぶやきを漏らしながら俺は、着替えをするために部屋に戻るべく、リビングを後にした。
§
「……あそこか」
暗がりの中に見出した、人影とおぼしき微かな陰影。
距離がまだある上に、折悪しく月が雲に隠れてしまったせいで、そこにいるのが本当に人かどうかまでは分からなかった。
静まり返った夜の町。
誰ひとり人に出くわすことなく、気の向くままに歩き続けた先にあった場所。
生い茂る木立に囲まれた公園。
「へぇ。こんなとこに、公園なんてあったんだ」
適当に歩いているうちに遭遇した初めて見る光景にいつしか俺は、物珍しさもあってそんな感慨混じりなつぶやきを口にしていた。
その時俺の目の前を、すっと小さな影が横切る。
何だろう……そう思いながら目を凝らすと、ひとひらの桜の花びらが映し出された。
どうやら公園の中から流れてきたらしい。
そっか、確かにそういう時期だよな。
ひとりごちうなずきながら宵闇を透かしてよく見れば、公園の敷地のあちこちで夜風に吹かれて舞い落ちる桜の花びらが、軽やかな演舞に興じていた。
空を見上げる。
頭上に広がる雲の大きさからして、雲間に隠れた月が再び姿を見せるには結構時間がかかりそうだった。
さすがに夜桜見物は無理かな……そう思って、きびすを返そうとした時だった。
「……〜……〜……」
風に乗って流れてきた微かな音色を、耳がとらえる。
木々のさわめきとは、明らかに異なる何か。
切れ切れに聞こえてくるその音色にどうしてだろう、俺はどこかで聞いたことがあるようなそんな違和感のような思いを抱いていた。
頭の片隅に、細い糸が絡みついてくるような感覚。
それが何なのか知っているはずなのに、でもあと少しというところで思い出せない、もどかしさにも似た思い。
気が付くと俺は、公園に足を踏み入れていた。
夜風が吹くたびに聞こえてくるその音色を聞き逃すまいと、意識を耳に集中させながらゆっくりと歩き続ける。
立ち止まっては耳を澄まし、音がする方向を確かめてからまた歩き出す。
そんなことを繰り返すうちにいつの間にか遊歩道を外れた俺は、公園の奥へ奥へと芝生を踏みしめていた。
「……すん…………ぇぐ……」
少しくぐもった感じのそれは、どうやら女の子の声のようだった。
こんな時間のこんな場所からどうして……当然とも言える疑問が、胸中にわき起こる。
「……え?」
そして、次の一歩を踏み出した瞬間だった。
所狭しと生い茂る桜の枝々に挟まれていた視界が、何の前触れもなく広がった。
ぽっかりとまるで穴が空いたみたいに木立が途切れたそこは、ちょっとした広場然とした場所だった。
半径十メートルほどの円弧を描くその空間の中央には、一本の桜の樹がぽつんと孤独にたたずんでいる。
月明かりも街灯もない視界は、相変わらず暗かった。
それでも暗がりに慣れた目を通して浮かび上がる樹の幹は、俺が一抱えしても手が届かないくらい太そうなものだった。
「……っく……っく……ぁぅ……」
間違いない。
声はその樹――古木のたもとから流れ出ていた。
ちょうど幹を挟んだ反対側にいるのか、俺の位置からでは姿を確かめることができない。
歩き出す俺。
まっすぐに近づくのではなく、広場の円周に沿って回り込むようにゆるやかなカーブを描きながらゆっくりと近づいてゆく。
一歩足を動かすごとに、声はよりはっきりと聞こえるようになった。
泣き声。
そう、それは女の子の泣き声だった。
その瞬間。
雲間に隠れていた月が、久しぶりにその姿を現した。
同時に夜の闇を打ち払うようにさっと、降り注いできた月光が周囲を穏やかな光の世界にさらけ出す。
「……あ」
桜の樹のたもとにあった姿を瞳が認めた瞬間、俺は言葉を失ってしまった。
無数の桜の舞い散る中、中天高くで輝く月を見上げる彼女の横顔が、あまりにも奇麗だったから。
流れるような艶やかな髪。
白磁のように滑らかな肌。
月明かりを受けて輝く瞳。
心を鷲掴みにされたように、俺は呆然と眼前の光景を見据え続けた。
どれくらいの間そうしていただろう、はっと我に返った俺は、初めてそこにいるのが彼女ひとりじゃないことに気が付いた。
彼女の傍らに、寄り添うようにたたずむ影。
「……っく……すん……ぐすぐす……」
俺が追いかけてきた声は、どうやらもうひとりの方が発し続けていたものらしかった。
その瞬間俺は、全ての出来事に納得していた。
夜中に不意に目が覚めたこと。
気の向くままに歩くうち、この公園にたどり着いたこと。
風に乗って聞こえた声を追って、ここまで来たこと。
つまるところ……見えざる手に導かれるように、来るべくしてここにたどり着いたってことなのだろう。
事実は小説より何とやら、ってか。
苦笑混じりにそんなことを思った俺は、軽く頭を振って気を取り直すと、すぐ先にいる彼女たちに向かってゆっくりと口を開いた。
「よっ、佐祐理さん。それに……舞」
§
「ふぇ?」
夜空に向けていた視線を、ゆっくり巡らせる佐祐理さん。
俺の姿を認めた瞬間、驚きに彼女の両の瞳が微かに揺れ動くのが、月明かりを通して見て取れた。
「えっと、あの……祐一さん、ですよね」
「ああ。祐一さんだ」
その途端、彼女の表情がふっとゆるむ。
「はぇー。こんなところでお会いするなんて、奇遇ですね」
「そりゃ、こっちの台詞だって」
「そうなんですか?」
「ああ」
うなずきながら一歩、ふたりに歩み寄る。
普通に考えれば待ち合わせの約束をしたわけでもないのに、真夜中のこんな場所でばったり出くわすなんて、確かに奇遇以外の何ものでもなかった。
「あははーっ。でも本当に奇遇だと思いますよ、佐祐理は。そう言えば祐一さんは、どうしてここに来られたんですかーっ?」
「どうしてって……」
そこまで言いかけたところで、俺は言い淀んでしまう。
たまたま夜中に目が覚めて、すぐ寝直す気にもならなかったから夜の散歩としゃれ込んでるうちにここまで来てしまった。
事実だけを述べるなら、それで十分なはずだった。
でも……
「多分呼ばれたから、かな」
呼ばれた。
そう、俺は呼ばれたのだ。
「ふぇ? こんな時間に、どなたかと約束されてたんですか?」
「違うって」
首を振る。
「どなたかじゃなくて、俺を呼んだのは佐祐理さんと舞だよ」
膝を折ってその場にしゃがみ込み、目線の高さを合わせながら微笑んでみせる。
「でも佐祐理も舞も、祐一さんにお電話を差し上げた覚えはありませんけれど」
「うーん、なんて言えばいいのかな……」
どう説明したものかと小首を傾げかけたその時、
「……祐一」
佐祐理さんの横で、俺の存在にも気付かない様子で小さくしゃくり上げていた舞が、不意に口を開いた。
小さな、弱々しい声。
舞の頬には、ずっと泣いていたのか涙の跡がはっきり刻まれていた。
月光を受けて涙の雫が、微かに輝いている。
あーあ、目が真っ赤だよ。
いまにもこぼれ落ちんばかりの涙で潤んでいる舞の瞳は、彼女が大好きなうさぎの目よろしく赤く染まっていた。
こりゃ明日の朝、大変だな。
そんなことを思いながら、でも俺は舞が泣いていることにはさほど驚いていなかった。
当然だった。
彼女のこんな姿を見るのは、今日が初めてじゃなかったから。
人気の絶えた、夜の学校。
そこで舞は、剣を手に夜ごと「魔」を待ち続けていた。
何日も、何ヶ月も、何年も。
俺が舞と出会ったのも、彼女が魔物を待ち続けていた冬のある日のことだった。
舞と出会い、そして佐祐理さんと知り合い……気が付くと俺は、いつの間にか彼女の戦いに手を貸すようになっていた。
舞が深手を負わされ。
佐祐理さんが夜の学校に来るようになり。
相棒として、俺の背中を守ってくれて。
そして何年もの間舞が戦い続けてきたそれは、この街をまだ雪が覆っていた二月ほど前を境に、その姿を消した。
倒したわけじゃない。
そう、魔物は――彼女は、還っていったのだ。
本来あるべき場所、舞の中に。
その頃からだった。
夜になると、小さな子供がむずかるように舞が泣き出すようになったのは。
いつだってそれは、何の前触れもなく始まった。
普段と変わらぬ様子の舞が、瞬きをした次の瞬間には小さな嗚咽を漏らしながら、ぽろぽろと涙をこぼし始めるのだ。
最初にそんな彼女を見たのは、いつだっただろう。
あれは確か、佐祐理さんと舞が新居への引っ越しを終えてから間もなく、三人で晩飯を食べていた時のこと。
「ホント、いつ食べても佐祐理さんの料理は絶品だな」
「あははーっ。お世辞でも、そう言ってもらえると嬉しいですねーっ」
手ずからの料理に舌鼓を打つ俺に、嬉しそうに表情をほころばせる佐祐理さん。
「お世辞じゃないって。これならいつ嫁に出しても大丈夫。な、舞もそう思うだろ?」
冗談交じりにそう言いながら俺は、隣で黙々と箸を動かし続けていた舞に話を振った。
ここで舞のツッコミが入ることを期待して。
ボケた俺に舞がツッコミを入れて、佐祐理さんが楽しげに目を細める……それが、俺たちにとっての当たり前の光景だったから。
からん。
でも俺の耳に返ってきたのは、舞の声じゃなかった。
何かがテーブルを打つ、小さな音。
「……舞?」
彼女からの期待した反応がなかったことに、いぶかしげな視線を向けた俺は、次の瞬間言葉を失ってしまった。
「……っく……」
舞が泣いていた。
小さな嗚咽と共に、瞳から涙をぽろぽろとこぼれ落としながら。
「いいっ! え、あっと……」
想像もしなかった現実を前に気が動転してしまい、俺の口からは言葉にならない間の抜けた声しか出てこない。
「……ぁぅ……ぐすぐす……」
「ま、舞?」
相変わらず泣きじゃくる舞にどうしていいか分からず、助けを求めるように佐祐理さんに顔を向ける。
佐祐理さんも舞の突然の豹変に、ぽかんと呆気に取られた表情を浮かべていた。
でも、それはほんの一瞬のこと。
すぐに表情を戻して席を立った佐祐理さんは、舞の横に歩み寄ると彼女の髪を優しくなで始めたのだ。
「舞……いーこいーこ……」
むずかる子供を母親があやすみたいな、優しい仕草。
「……っく……っく……ぁぅ……ぐすん……」
舞は、なおも泣き続けた。
そんな彼女を、目を細めながら何度も何度も髪をなで続ける佐祐理さんと、呆然と見つめるばかりの俺。
結局舞が泣きやんだのは、それから三十分ほど経ってからだった。
それが最初。
でも……それは始まりに過ぎなかった。
それから毎日のように舞は、前触れもなしに突然泣き出すようになった。
食事中の食卓。
買い物の道すがら。
眠りに落ちたはずのベッド。
団らん中のリビング。
時と所を選ばず、何かの発作にでも襲われたかのように。
普段の寡黙で冷静な舞を見慣れていた俺は、そんな彼女の豹変に最初のうちこそ戸惑いを覚えることもしばしばだった。
でも何度かその光景を目の当たりにするうち、いつしか慣れっこになっていた。
そう、何も驚く必要はないのだ。
今日もきっと同じなのだから。
泣きはらして目を真っ赤にした舞を前に、瞬きするほどの合間回想に浸っていた俺は、ゆっくりと口を開く。
「どした、舞? 怖い夢でも見たのか?」
「……見てない」
ささやくような声と共に、ふるふると小さく首が振られる。
「そっか」
うなずきながら俺は、舞の横に腰を下ろした。
後ろ手を付いて伸びをするように夜空を見上げながら、ちらりと横を見る。
すると舞にぴったりと身を寄せていた佐祐理さんの手が、彼女の髪をゆっくりとなでる様が見て取れた。
「まーい。祐一さんね、佐祐理たちのためにここまで来てくれたんだよ」
「……そうなの?」
ずずっと鼻をすすりながら、舞が問い返してくる。
「まぁ……考えようによっては、そういうことになるのかもしれないな」
何となく照れくさくて、つい言葉を濁してしまう。
次の言葉を探すように視線を泳がせた俺は、足下に投げ出したままだったリュックの上でその動きを止めた。
「ふぇ……祐一さん、どうかされました?」
「え? ああ、これがね」
視線を佐祐理さんに向けながら、リュックを指差す俺。
「……リュックサック」
小首を傾げながら、舞がぽつりと口を開く。
「そ。んでこれさ、実は秋子さんが出がけに持たせてくれたものなんだ。ひと休みする時に開けてくれって」
着替えを終えて家を出る時、秋子さんから「行ってらっしゃい」の挨拶と共に渡されたのがこのリュックだった。
「中には、なにが入っているんですか?」
「さぁ」
「……?」
「実は、俺もよく知らなかったりするんだな。これが」
「はぇー。そうなんですか」
呆れたような驚いたような、そんな佐祐理さんの声。
でもそれは本当のことだった。
確かめる機会は途中いくらでもあったけど、結局中を見ないままここまで来てしまった。
大した理由があってのことじゃない。
強いて言えば、こういう時の楽しみは後に取っておいた方が面白そうだったから、というのがその理由かもしれなかった。
「さーて、なにが出るかな……」
小声でつぶやきながら、リュックの口を開ける。
「……ん?」
最初に目に入ったのは、見た目柔らかそうな感じの布切れだった。
とりあえず出してみる。
ずるずると引き出されたそれは思いの外大きくて、両手いっぱいに広げてもまだ余裕があるくらいのサイズがあった。
「ストールでしょうか?」
チェック模様の描かれたそれを前に、小首を傾げる佐祐理さん。
何でこんなものが……そう思いながら「多分」とだけ答えた俺は、少しだけ考えた後、手にしていたそれをふたりの肩にかけてやる。
「ふぇ……祐一さん?」
「俺よか、ふたりの方が必要みたいだから。実際、見てるだけで寒そうだって」
パジャマにカーディガンを羽織った佐祐理さん。
Tシャツにスパッツ姿の舞。
家の中ならともかく、春とはいえまだまだ冷え込みの厳しい夜気に当たるには辛いだろう格好だった。
「えっと……本当によろしいんですか?」
「遠慮は無用だって」
「分かりました。ありがとうございます、祐一さん」
笑顔の佐祐理さんに「どういたしまして」とそれだけを口にした俺は、リュックの更なる探索へと戻る。
にしてもいきなりストールとは秋子さん、何でこんなものを入れておいたんだろう。
まさか、最初からこうなることを予想して……でも、まさかなぁ。
半信半疑のまま、リュックに中に詰め込まれていたものを次々と引っ張り出してゆく。
水筒。
紙コップ。
包装紙にくるまれた包み。
何と言うか、ある意味この場に似つかわしいと言えなくもない物体だった。
「うーむ」
「はぇー」
「…………」
腕組みをしながらうなる俺と、感心したような声を上げる佐祐理さん、そして時折鼻をすすりながらじっと視線を向けている舞。
秋子さん、あなたって人は……
驚き半分、呆れ半分といった心地だったけど、次に自分が何をするべきかは考えるまでもなかった。
水筒の蓋を開け、取りだした紙コップに中身を注いでゆく。
中身は、緑茶だった。
どうやら煎れたてだったらしいそれは、周囲の冷え切った空気に対抗するように暖かな湯気を夜空に向かって立ち上らせてゆく。
無言のままそれを佐祐理さんに渡し、次に舞の分を作る。
「あははーっ。温かいね、舞ーっ」
両手で包む込むように紙コップを持っていた佐祐理さんが、舞に話しかける。
こくりとうなずく舞。
残る包みの方を開けてみると、案の定と言うべきなのか、そこには人数分のお茶うけの和菓子がパックの中に収められていた。
「……お団子」
小首を傾げながら横から覗き込んできた舞が、鼻をすすり気味に俺の代わりにそこにあるものの名を口にする。
「舞。おまえ、アンコとタレとどっちがいい?」
「……アンコ」
「じゃあ、ほれ。持ってけ。んで佐祐理さんは……って、よく見たら舞がアンコ取ったら、タレしか残ってないや」
「あははーっ。でしたら佐祐理は、祐一さんとお揃いでタレですねーっ」
各々の手に公平に一本ずつの串団子が渡ったところで、何となく黙り込んでしまう。
見上げれば頭上には、星空を背景に月が煌々と輝いていた。
その光の中を、舞い散る桜の花びらがはらはらと夜風に揺られるように流れ落ちてくる。
春の夜桜……か。
意図せぬ結果とはいえ、こんな時間に夜桜見物にしゃれ込むというのも、まぁ風流と言えば風流なのかもしれなかった。
ずずっ。
そう思った途端、すぐ横で風流とはほど遠い音がする。
見れば右手に団子、左手にお茶の入ったコップを持った舞が、鼻をすすっていた。
思わず脱力してしまう俺。
「佐祐理さん、悪い。これ持ってて」
自分の分のお茶を佐祐理さんに手渡した俺は、団子を口にくわえながらポケットからティッシュを取りだした。
「ほれ、舞。ちーん」
そう言いながら、舞の鼻にティッシュを押し当てる。
ちーん。
一瞬後に響く、鼻をかむ音。
「どうだ、すっきりしたか?」
こくり。
無言でうなずいた舞は、それから何ごともなかったように手にしていた団子にぱくりとかぶりついた。
まったく……世話の焼けるヤツ。
預けてあったお茶を佐祐理さんから受け取りながら、心の中でそんなことをつぶやく。
「お団子、とっても美味しいね。舞」
「……嫌いじゃない」
すぐ側から聞こえてくる、いつもと変わらない会話。
頭上には月が。
周囲には桜が。
春の夜風に吹かれながらの、三人だけ夜桜見物。
そんなどこかロマンチックに思えてしまう世界も、舞の手にかかれば一瞬にしてどこか生活臭い光景に変わってしまうのだ。
それが嫌だというわけじゃない。
でも……いまは少しだけ、ため息をつきたい気分だった。
§
「にしても……あのまま寝ちまうとは思わなかった……」
街灯の光を受けて足下に長く伸びる影を見つめながら、つぶやく俺。
よっこらせと小声で合いの手を入れながら姿勢を直し、止めていた足を再び動かした。
「あははーっ。祐一さんが来られるまで舞、いっぱい泣いてましたからーっ」
「そうなのか?」
「はい。お家からずっとです」
佐祐理さんの声を耳に、肩口に目を向ける。
そこには、俺の肩に頭を預けながらすーすーと静かな寝息を立てる、舞の顔があった。
「よく寝てますね」
そっと舞に顔を寄せた佐祐理さんが、彼女の頬を指でつんつんと突きながら小さな声でつぶやきを漏らす。
「舞……赤ちゃんみたい」
「まったくだ。泣いて、食って、それで腹が膨れたから寝てるんじゃ、赤ん坊と全然変わんないって」
「あははーっ」
どこまでも追いかけてくる月を横目に歩く夜道は、行きと同様不思議なくらい誰にも会うことがなかった。
俺と佐祐理さんの、ふたり分の足音だけが小さく耳に響く。
吐き出す息は、夜気の冷たさを象徴するように少しだけ白く濁っていた。
「佐祐理さん、寒くないか?」
その息の白さが少し気になった俺は、すぐ横を肩を並べて歩いている佐祐理さんに訊ねかける。
でも佐祐理さんは、にっこりと笑顔を浮かべながら、
「はい、平気です。お借りした上着がありますから。佐祐理のことより、祐一さんの方こそ大丈夫ですか?」
「平気平気。俺はほら、荷物を背負ってるから。いい運動になって結構温かいぜ」
歩き出してしばらくは、上着なしじゃ辛いかとも思ったけれど、そのうち寒さについてはほとんど気にならなくなっていた。
背中の荷物にしても……一応は舞も女の子だから、重量的にはさして重くはない。
とはいえ寝ている人間というのは意外と運び辛くて――この辺り、名雪でさんざん経験を積まされた――放っておくとすぐにずり落ちてくる身体を時々持ち上げながら歩くのは、何だかんだで結構気を遣うものだった。
女の子といえば……
ふと浮かんだその言葉に、さっきから気になっていたことを思い起こす。
さっきから背中を圧迫してきてる、このむにむにした感触って、舞の胸……だよな。
うーむ、こいつって意外と着やせするタイプなのかも。
あれ?
そういや舞のこの格好って、寝間着だよな。
と言うことは、いまの舞は……ノ、ノーブラ。
い、いかん。
佐祐理さんがすぐ横にいるというのに、何を不埒なことを考えているのだ。
煩悩退散、煩悩退散。
「祐一さん?」
「どわっ!」
ひょいと突然視界に飛び込んできた佐祐理さんのアップに、思わず仰け反ってしまう。
「危ないっ!」
「う、わわっ……と。ふぅ」
危うくバランスを崩しかけた体勢を、どうにか立て直す。
俺が安堵のため息を漏らすと、佐祐理さんの方も胸に手を当てながらほっとした表情を浮かべていた。
「ごめんなさい。佐祐理、驚かせてしまいましたね」
「あ、いや。ぼーっとしてた俺の方が悪かった。それで、なに?」
「はい……」
どうやらいまのアクシデントで、話を切り出すタイミングを失ってしまったのか、途中まで口を開きかけたまま言い淀んでしまう佐祐理さん。
わずかな沈黙。
「祐一さんは、ご存じですか?」
彼女が再び口を開いたのは、それから十秒ほど経ってからだった。
「なにを?」
「舞が……今日みたいに、どうして泣き出したりするのか。その理由です」
「うーん、確かに前から気になってはいたんだけど、原因までは俺もイマイチよく分からないんだよなぁ」
つぶやきながら背中に目を向けると、静かに寝息を立てる舞の横顔が見て取れた。
舞が泣く理由。
そのことを思った途端、記憶の片隅がちくりと刺激される。
俺は覚えていた。
彼女にとっての楽園――あの薄野原に、佐祐理さんとふたりで舞を迎えに行った時、
「でも……剣を捨てた私は本当に弱いから……道ばたで泣いてしまうかもしれない……ごはん食べてたら、不意に泣き出してしまうかもしれない……夜中に起き出して、泣いてしまうかもしれない……」
視線を落としながら、ぽつりぽつりと舞はそう言った。
弱い舞。
何年もずっと握り続けてきた剣を捨て、頼るべき物を失った不安にかられて泣き出してしまうかもしれない……彼女の言葉を、俺はそう理解していた。
確かに舞が突然泣き出したりするようになったのは剣を捨て、佐祐理さんと一緒に暮らすようになってからだった。
剣を捨てたから。
不安だから。
だから、泣く。
でも……本当にそうなのだろうか。
本当にそれだけの理由で、舞は泣いているのだろうか。
「そうですか……」
「佐祐理さんはどうなの。なにか、思い当たる節とかある?」
「はい」
「えっ?」
予想もしなかった返答に、驚いてしまう。
「佐祐理には、分かる気がします。舞が……泣く理由」
「それって……」
横を歩いていた佐祐理さんが一歩、前に出る。
長い髪をふわりと揺らしながら、軽やかな動きでくるりと身を翻した彼女は、澄んだ瞳を俺に向けながら口を開いた。
「舞は、大人になろうとしてるんだと思います」
「……大人に?」
「はい。長い間、ずっと止まったままだった時間の針を動かして、少しでも早く大人になろうと一生懸命に」
「ごめん、佐祐理さん。話がよく見えないんだけど……」
そう言いながら、俺は彼女の言わんとすることを理解しようと思考を巡らせる。
仮に佐祐理さんの言う通りなのだとしたら、いまの舞は子供で、だから大人になるために泣いている。
どうして?
大人になることと、泣くことのどこに接点があるのか。
やっぱり、話がうまくつながらなかった。
そんな俺の思考を読んだみたいに、佐祐理さんの新たな言葉が耳を打つ。
「祐一さんは覚えていますか? ふたりで、薄野原に舞を迎えに行った時のことを」
「もちろんだ」
「でしたら、舞と一緒にいた女の子のことは?」
「あのちびっ子舞だろ。忘れるわけないって」
舞の能力――「願い」を具現化した存在。
十年もの長きに渡ってあの場所を徘徊し、舞に戦いを強い続けた「魔」という名の人ならぬ何か。
そして、それを生み出させたのは……他ならぬこの俺。
遠い昔の出来事。
北の街の短い夏の合間に紡がれた、小さな思い出。
「あの女の子は舞の心の一部だったんだと、佐祐理は思います。ずっと昔、わけがあってあの場所に置き去りにしてしまった、舞の『無邪気な女の子』としての心のかけら」
「…………」
「悲しかったことや辛かったこと。舞はそんな思いをいっぱい胸の中にため込んだまま、長い間ずっと我慢していました。だってそれを吐き出すための手段を、舞は持っていませんでしたから。ずっと昔に……なくしてしまっていたから」
そうかもしれない。
十年という歳月を、舞は薄野原を守るというただそのためだけにすごしてきた。
剣を手に戦い続ける以外のことを、何ひとつ顧みることなく。
「でも、それじゃダメなんです」
「え?」
「悲しい時には泣いて、楽しい時には笑わないと。ため込んでいくばかりじゃなくて、それをきちんと自分の心の中で整理していけるようにならないとダメなんです」
何となく、分かったような気がした。
俺たちの前で嗚咽を漏らしながら涙をこぼしているのは、舞じゃない。
舞と、そして「まい」のふたりなのだ。
忘れていった存在と忘れられた存在。
長い間分け隔てられていた彼女たちが、止まった時を動かすために必要な儀式なのだ。
涙を流すことで。
嗚咽を漏らすことで。
あの夏の終わりに、心の一部を置き去りにしたことで曖昧なまま心の中で淀み続けていたたくさんの辛く悲しい思い出を、今度は舞と「まい」のふたりで経験し直しているのだ。
一歩一歩、階段を上ってゆくように。
「だとしたら……気の長い話だな、それって」
「そうですね」
小さくうなずく佐祐理さん。
その穏やかな表情を見つめるうち、俺はさっきから気になっていたことを思い出した。
「なぁ佐祐理さん、ひとつ訊いていいか?」
「はい」
「どうしてそう思ったんだ? 泣いているのが舞だけじゃなくて、もうひとりの『まい』も一緒だって」
一瞬の沈黙の後、すぐに朗らかな笑顔を浮かべた佐祐理さんは、
「あははーっ。簡単なことですよーっ」
明るい声でそう、言葉を紡いだ。
でも次の瞬間、瞳にほんの少しだけ悲しげな色を滲ませると、
「舞とは少し違いましたけれど……佐祐理も同じでしたから。佐祐理じゃない佐祐理がいたという点では」
「あ……」
返すべき言葉に窮してしまう俺。
彼女のその表情に、罪悪感にも似た針を刺すような小さく鋭い痛みを胸の奥に覚える。
同時に心の中で、自らの迂闊さを罵った。
「ごめん、佐祐理さん。俺……」
視線を落としながら、ようやくそれだけを口にする。
「いいんです」
微笑みを浮かべながら、佐祐理さんは小さく首を振る。
「祐一さんには、前にお話してありますから。だから、気にしないでください」
「だけど……」
「それに、祐一さんにそんな顔をされていると、佐祐理まで悲しくなってしまいます」
「……分かった」
正直、胸の奥の痛みがなくなったわけじゃない。
でも俺が笑うことで彼女が微笑みを取り戻してくれるなら、無理矢理にでも笑ってみせるべきだった。
大切な人には、いつだって笑顔でいて欲しかったから。
頭の中のスイッチを切り替えた俺は、落としたままの視線を上げる。
そして口元をゆるめながら、
「立ち話が長くなっちゃったな。そろそろ行こうか」
話し込んでるうちに、いつの間にかずり落ちてきていた背中の舞を持ち上げながら、街灯に照らし出された道を歩き出す。
その時、くっと右腕が引っ張られた。
「ん?」
見れば何を思ったのか、佐祐理さんが服の袖を軽くつまんでいた。
「えと、祐一さん。その……お家に着くまで、こうしていていいですか?」
「そりゃ、別に構わないけど。どしたの?」
俯かせていたその表情は判別がつき難かったけれど、どことなく頬が赤い気がする。
はて、急にどうしたんだろう?
そんな俺の視線を感じたのか、ぱっと顔を上げた佐祐理さんは、
「あははーっ。祐一さんにおんぶしてもらってる舞のことが、少しだけうらやましくなっちゃいましたーっ」
見るからに照れくさそうな様子で、そう言った。
「そっか。じゃあ、家までな」
「あ……はいっ」
ゆっくりと歩き出す。
背中に感じる舞の重みと、掴まれた袖を通して感じる佐祐理さんの存在。
ちょっと歩きにくくはあったけれど、でもその歩きにくさの分だけ、きっといま俺は幸せなんだろう。
「なぁ佐祐理さん」
「はい?」
「今日は舞だったけど、今度もし佐祐理さんが先に寝ちゃうようなことがあったら……そうだな、『お姫様だっこ』をしてあげるよ」
「お姫様だっこ、ですか?」
頭上にクエスチョンマークを浮かべながら、小首を傾げる佐祐理さん。
そんな彼女を前に、俺はくすりと小さく笑みをこぼしながら、
「そ。ほら、結婚式とかで新郎が新婦を抱き上げてるシーンがあるだろ。あれ」
「ふぇー……ちょっと、恥ずかしそうですね」
その光景を想像したのか、佐祐理さんの頬がまた赤くなる。
でも次の瞬間、嬉しそうに目を細めると、
「あははーっ。でも祐一さんにしてもらえるなら、とっても嬉しいかもしれませんねーっ」
「よし決定。じゃあ、約束な」
「はい。約束です」
互いに顔を見合わせ、笑顔と共に小さくうなずいた。
頭上を見上げれば中天高くにたたずむ月が、煌々と光を放ちながら世界を柔らかな光の下に浮かび上がらせていた。
その時、俺たちを包み込むように微風が吹く。
頬に感じる空気は冷たかった。
でも鼻先をふわりとかすめていった風は、この北の街にようやく訪れた春の匂いに満ちたものだった。