『永遠の楽園』
Update:2002.02.23
「……遅い」
久しぶりに開いた口から漏れたつぶやきは、でも誰の耳に届くこともなく街の喧噪の中に消えていった。
時計を見る。
短針と長針が文字盤の十二の数字の上で、寄り添うように折り重なっていた。
昼か……そういや、腹減ったな。
ため息をつきながら、今度は空を見上げる。
どんよりと曇がたれ込める俺の心とは裏腹に、薄雲をたなびかせた空は五月晴れと言うに相応しい、澄んだ青に満たされていた。
駅前のベンチ。
そこに座る俺の瞳に映し出されるのは、通り過ぎてゆく人々の楽しげな表情ばかり。
「この場所に、呪われてるのかな……俺?」
肌に覚える空気の感触も、目に見える風景もまったく違ったけれど、俺にとってここは思い出の場所だった。
七年間ずっと止まったままだった記憶が、再び動き出した場所。
視界を覆い尽くすように降りしきる雪。
肌を刺すような寒気。
吐き出される真っ白な息。
そんな中、二時間遅れで姿を見せた従姉妹がお詫びにと差し出してきた缶コーヒーを手にした、その瞬間から。
「……あれ?」
そう、確かあの時もこんな風に緊張感のない声で……って?
顔を上げるとそこには、どこか不思議そうな表情を浮かべながら俺の方を覗き込んでくる、見知った顔があった。
「幻覚か?」
どうにもタイミングの良すぎる名雪の登場に、夢でも見てるんじゃないかと我が身を疑った俺は、試しに頬をつねってみる。
「痛いよー」
つねられた相手は、予想通りの答えを口にした。
「むぅ、夢じゃないな」
「急に頬をつねらないで、祐一。痛かったんだからね」
「いや……夢かどうか確かめようと思って」
「そう言うことは普通、自分の頬でやるものだよ」
少し赤くなった頬をなでさすり、困ったように眉根を寄せながら非難の声を発する名雪。
でも俺は、そんな彼女に向かってわけ知り顔で、
「なにを言う。自分でやってもし夢じゃなかったら、痛いじゃないか」
「わたしならいいの?」
「そりゃあ、俺は痛くないからな」
「ひどいよー」
不満そうにぷっと頬を膨らませ、更に非難の言葉を紡ぎかけた名雪の声は、でも傍らから発せられた別の声にさえぎられた。
「相変わらず、仲がいいわね」
ちょっと冗談めいた、軽い口調。
相手の顔も確かめないまま、俺は言葉を返す。
「……なんだ、香里もいたのか」
「なんだとはご挨拶ね」
声の主――香里は、どうやら少し離れたところで俺と名雪の会話の一部始終を聞いていたらしい。
腕組みをしながら、心外そうな表情を浮かべている。
「こんなところでふたりして、なにしてるんだ?」
「見て分からない?」
「分からん」
首を横に振る俺に、香里はくすりと悪戯っぽい笑みを浮かべてみせると、
「デートよ。デ・エ・ト」
「は?」
「やだ、忘れちゃったの? 名雪をあたしに譲ってくれたの、相沢君よ」
「譲るって……俺、そんなことしたっけ?」
「したよー。四十六円八十二銭でわたしのこと、香里に売ったもん」
えらい細かい金額だな。
言われてみればいつだったか教室で、そんな話をした覚えがあるようなないような。
確か、もう何ヶ月も前の話。
「そんなわけで、名雪は身も心もあたしのものなのよ。だから――」
悪戯っぽい笑みを浮かべながら、周囲の人目もはばからずに名雪を羽交い締めにする香里。
「――こんなこともしちゃう」
「わ、わっ! 香里ー、苦しいよー」
突然の抱擁にじたばたと抵抗をする名雪だったけれど、香里の腕力が思ったより強いのか戒めが解ける様子はなかった。
側を通り過ぎてゆく通行人の好奇の視線が、少しだけ痛い。
「そう言えば祐一は、こんなところでなにしてるの?」
無駄な抵抗を諦めたのか、背中に香里を張り付かせたまま名雪が訊ねてくる。
「待ち合わせだ」
「そうなんだ。でも祐一、ひとりだよね?」
「ああ」
「約束の時間って、まだなの?」
名雪の肩越しにひょいと顔を覗かせた香里が、代わって質問を引き継ぐ。
小さくため息をついた俺は、肩をすくめながら、
「んにゃ、とうの昔に過ぎてる」
「約束は何時だったの?」
「……十時」
「呆れた。二時間も待ってるの」
「待ちぼうけ、だね」
心底呆れた様子の香里と、追い打ちをかける名雪の一言。
何か言い返してやりたかったが、実際その通りなので返す言葉がなかった。
「最初からすっぽかすつもりだったとか」
「んなわけあるかいっ!」
香里の言葉に即座に反応する俺。
ふたりとも今日の約束をあれだけ楽しみにしていたんだから、それだけは絶対にないと誓って言えた。
「だったら、事故の可能性は?」
「え? ははっ。そんな……まさか……」
一笑に付そうとして、でも俺はそうすることができなかった。
事故。
その言葉を耳にした瞬間、笑い飛ばそうとした俺の思いとは裏腹に心臓がどきりと高鳴ってしまったから。
悲しい記憶。
遠い過去の思い出。
俺の心の一部をいまなお歪ませているもやのような黒い影が、きしきしと鳴き声を立てた。
一度その思いに囚われると、際限なく嫌な想像ばかりが膨らんでゆく。
「ね、祐一。相手の人のお家に、行ってみた方がいいんじゃないかな」
多分その思いが顔にも出てしまったのだろう、珍しく真剣な眼差しを浮かべた名雪が少し低い声でそう言う。
「そうね。二時間も経ってるなら、今更行き違いになることもないんじゃないかしら」
「あ、ああ……」
ベンチから腰を上げた俺は、ゆっくりと歩き出す。
「ふぁいとっ」
「振られたら、あたしたちが慰めてあげるわよ」
そんな俺の後を、励ましてるんだかからかってるんだかよく分からないふたりの声が追いかけてくる。
そういや、いつだったかも似たようなことがあったっけな。
染み出すように心の中に広がってゆく不安を胸に俺は、彼女たちの言葉に背中を押されるようにその場を駆け出した。
§
鍵を開けるのももどかしく、力任せにドアを引く。
「佐祐理さんっ! 舞っ!」
ふたりの名を叫びながら玄関に飛び込んだ俺の目に最初に映し出されたのは、廊下にたたずむ舞の姿だった。
無言で互いに目を合わせたまま、何となくのお見合い状態。
先に口を開いたのは、舞だった。
「おはよう、祐一」
いつもと変わらぬ口調。
その様子に、思わず脱力してしまう。
「祐一?」
「あのな、舞……もう『おはよう』って時間じゃないぞ」
「……そう」
無言でうなずきながら、時計を差し出す。
文字盤の針の位置を見て、どうやら俺の言葉に納得したのか改めて顔を向けた舞は、
「こんにちは、祐一」
相変わらずの涼しげな口調で、二度目の挨拶を口にした。
「そうそう。昼なんだからやっぱり……って違うっ!」
「……?」
「約束だよ、約束っ。十時に駅前のベンチで待ち合わせの約束してただろ」
「…………」
「俺、二時間も待ってたんだぞ。遅れるなら、連絡のひとつもよこせよな!」
「……祐一、うるさい」
がなり立てる俺に返ってきたのは、遅刻に対する謝罪の言葉でも言い訳でもない、そんな一言だった。
「待ってて」
次の言葉を俺が口にするより早くそう言ってきびすを返した舞は、そのまますぐ側のドアを開けて中に入っていってしまった。
な、何なんだ一体。
ふたりに何かあったのではと心配して来てみれば、いきなりこの仕打ち。
俺が悪いのか?
いや、そんなはずはない。
待ち合わせの約束をしたのは間違いないし、そこで二時間待ちぼうけを喰らわされたのも疑いない事実なのだから。
その時、小さな音と共に開かれたドアの隙間から舞が顔を覗かせた。
「祐一」
俺の名を呼びながら、手招きしている。
慌てて靴を脱ぎ捨てた俺は、小走りにドアの前まで近づいた。
「佐祐理が……熱を出した」
「は?」
「だから、佐祐理が熱を出した」
舞が口にした言葉の意味が咄嗟に理解できず、ぽかんと口を開けてしまう俺。
でも、すぐに気を取り直すと、
「熱って、風邪を引いたってことか?」
こくこくと、うなずく舞。
「朝、佐祐理の様子がおかしくて……おでこに手を当てたら熱かった」
「それで、ちゃんと計ったのか?」
「八度九分」
なるほど、それは立派な風邪だ。
あれ、でも昨日の夜いつも通りに三人で晩飯を食ってた時は佐祐理さん、風邪を引いた様子なんてこれっぽちも見せてなかったよな。
五月とはいえ、夜は結構涼しいから寝冷えでもしたかな。
でも舞ならいざ知らず、佐祐理さんに限ってそんな間抜けな真似……しないよなぁ、どう考えても。
ぽかり。
そこまで思った途端、頭に舞のチョップが炸裂する。
「祐一、失礼なこと言ってる」
「待て待て。俺はまだなにも言ってないのに、どうして分かるんだ?」
「ちゃんと口にしてた。『舞ならいざしらず……』って」
「ぐはっ」
迂闊にも、思ったまんまを口にしてたらしい。
「まぁそれは置いといて……そ、そう言えば佐祐理さん、なんで風邪なんか引いたんだ?」
「…………」
「誰かにうつされた、って俺も舞も風邪なんて引いてないしなぁ。昨日の夜は結構寒かったけど、普通にしてりゃ寝冷えするほどじゃないだろうし……」
「私のせい」
首をひねる俺の言葉をさえぎったのは、そんな舞の意外な一言だった。
「私のせいで、佐祐理が風邪を引いた」
簡潔に過ぎる舞の言葉だけでは、どうしてそうなったのか細かい事情までは分からなかったけど、少なくとも俺が待ちぼうけを喰った理由だけは理解できた。
舞にとって佐祐理さんは、全てに優先することなのだ。
だから佐祐理さんが熱を出したと知った時、俺との約束より彼女の看病を選んだ。
つまりはそう言うことなのだろう。
「まぃー、誰かいるのー?」
その時不意に、舞の背後から聞こえきた声。
間違いなく、佐祐理さんの声だった。
でもいつもと比べてどことなく声に力がなく思えるのは、熱を出したと聞かされたせいかもしれなかった。
「佐祐理、まだ起きちゃダメ」
「うん……でも……」
どうやら誰か来たことに気付いて、起きあがろうとしているらしい。
「すぐ戻るから、祐一はリビングで待ってて」
「なに水くさいこと言ってんだよ。俺も入るって」
「……そう」
まだ何か言いたそうな顔をしていた舞は、それでも開きかけのドアを俺が通れるように大きく開けてくれた。
足を踏み入れた室内はカーテンも下ろされたままで、生地越しに射し込んでくる日射しだけが、目に映る世界をうっすらと浮かび上がらせていた。
求める姿はすぐに見つかった。
佐祐理さんはベッドの上で、掛け布団から顔だけを覗かせていた。
熱のせいなのか、遠目にも白い肌がほんのり赤く染まっているのが分かる。
薄暗がりの中、彼女の視線が俺をとらえるのを待って、
「よっ、佐祐理さん」
軽く手を上げながら、声をかける。
突然の俺の登場に、一瞬だけ意外そうな表情を浮かべてみせる佐祐理さん。
でもすぐに嬉しそうに目を細めると、いつもより少しだけ舌足らずな調子で口を開いた。
「はややー、祐一くんだー」
§
「祐一くん、もしかして佐祐理のお見舞いに来てくれたの?」
「…………」
「ごめんね。佐祐理も今日のお出かけ、楽しみにしてたんだけど。佐祐理、お熱があるみたいで、舞が寝てなさいって言うの」
「…………」
「はにゃ。祐一くん、どうしたの?」
その声に、慌てて我に返る。
ほんの数秒前まで想像すらしていなかった目の前の現実に反応しきれず、どうやら思考が停止してしまっていたらしい。
「え? あ、いや……佐祐理さんが熱出したって聞いて、ちょっとびっくりしたもんで」
「ふぇー、そうなんだー」
「そ、そうそう。あはははは……佐祐理さん、ちょっとタンマな」
ようやくのことでそれだけを返した俺は、返事も聞かずに無言で横にたたずんでいた舞を部屋の隅に引っ張っていく。
そして壁に身を寄せながら内緒話をするように、額をつき合わせると、
「なぁ舞。佐祐理さん、ずっとあんな感じなのか?」
「だからさっき、様子がおかしいと言った」
「まぁ確かに……ありゃ誰が見たって変だと思うわな。いきなり『祐一くん』だもんな」
初めて出会った時から佐祐理さんは、年下の俺にもずっと丁寧語で話してくれてたから、くん付けで呼ばれると背中がこそばゆくて仕方がない。
でもそれがまた新鮮な感じがして……って、いまはそんなことを考えてる場合じゃない。
ちらりと視線をベッドに向けると、天井を見上げながら「はにゃー」とか「はややー」と相変わらずな調子で謎な言葉を口にする佐祐理さんの横顔が映し出された。
俺たちの不審な行動なんて、まったく気にしてない様子。
熱のせいなんだろうけど、はたで見てる分にはかなり不思議と言うか……何とも奇異な光景だった。
「にしても……なんで佐祐理さんは急に熱なんか出したんだ? そういやおまえ、さっき自分のせいだとか言ってたな」
こくり。
「全部、私のせい」
「だからなにがあったんだよ? 昨日、晩飯を食った時は変わった様子はなかったよな。ってことは、俺が帰ってからなにかあったのか」
「昨日の夜……私が泣き出して」
「ありゃ」
別段驚くことじゃなかった。
それは毎日のように繰り返される、舞にとっての「儀式」だったから。
ただ問題なのは、彼女がそうなるのが大抵夜だという点。
時々は泊まったりもしていたけれど、基本的に夜には水瀬家に帰ってしまう俺の場合――いつだったかみたいに夜の公園で会えるみたいな偶然でもない限り、舞のアレに巡り会うのは確率的にそう高くはなかった。
「それで、佐祐理さんが一緒にいてくれたのか」
でも、普通それだけで風邪なんて引くものだろうか。
まさか裸だった、ってわけでもないだろうに。
「佐祐理は、ちょうどお風呂に入ってて……」
「は?」
「私が泣き出したらすぐに飛んできてくれて……泣きやむまで、ずっと側にいてくれた」
おいおい、マジかよ。
思わず自分にツッコミを入れてしまう。
「佐祐理……バスタオル一枚だけだったから」
「なるほど、よーく分かった」
大体の事情が理解できて大きくうなずいた途端、鈍い音と共に額に激痛が走る。
「祐一。痛い」
「わ、悪い。いまのは……俺も痛かった」
互いに額をなでさすりながら、改めて佐祐理さんのいる方に目を向ける。
するとベッドから抜け出した佐祐理さんが、何を思ったのかふらふらとドアに向かって歩き出している姿が飛び込んできた。
「わっ、佐祐理さん! なにやってんの!」
「佐祐理、寝てないと」
慌ててふたりして、彼女を取り押さえる。
「でも佐祐理、あれが気になって……」
そう言ってドアの方を指差す佐祐理さん。
見ればドアの隙間から、何やら黒い煙が細い糸のように部屋の中へと漏れ出していた。
言われてみれば、何か焦げ臭い気がしなくもない。
「なぁ、舞。おまえ、台所で何かしてたか?」
少し考えた後、こくりとうなずく。
「それってもしかして、火を使ってたか?」
「……佐祐理にお粥を作ってた」
「バカ! それを早く言えっ!」
脱兎のごとく部屋を飛び出し、黒煙立ちこめる台所に飛び込む。
勝手知ったる他人の家、効かない視界の中で換気扇があるとおぼしき辺りに手を伸ばした俺は、指先に触れた紐を力任せに引っ張る。
それからコンロの火を止める。
換気扇から煙が吸い出され、少しずつ視界が取り戻されてゆく。
やがて俺の眼前に広がったのは……惨状と称する他ない光景だった。
屍累々、だな。
ぱたぱたと、後を追ってきた舞のものらしい足音が背後から聞こえる。
「おまえ、ホントにお粥作ってたのか?」
「……頑張った」
「ああ……そうだな。確かに頑張ったよ。その努力は認める」
どこか見当違いな舞のコメントに、俺はがっくりと肩を落としながら廃墟の跡を確かめる。
散乱する食器。
山積みになった食材。
そして哀れ消し炭と化した、鍋の中のかつて食物だっただろう何か。
「あーあ、これ削ぎ落とすの大変だぞ」
焦げだらけの鍋を手に取りながらため息混じりにつぶやいた瞬間、ふと俺は根本的な疑問に突き当たった。
「なぁ舞。おまえ、お粥ってどう作るか知ってるのか?」
「……お米をお湯で溶かす」
「違うっ!」
振り返りざま、思い切り否定してみせた。
「……違うの」
「全然皆目微塵もちっとも、途方もなく破滅的に違うぞ、それは」
「そう」
さすがの舞も、ここまで徹底的に否定されると少し困っているようだ。
そんな彼女を前に、俺は思った。
恐らくは俺が駅前で待ちぼうけている間、何度となく繰り返された戦術的敗北の末に構築されたこの惨状を、どう立て直したものかと。
§
「おかえり、祐一くん」
ドアを開けると、佐祐理さんの穏やかな声が迎えてくれた。
俺は「ただいま」と返事をしながらベッドの側に歩み寄ると、近くにあった椅子を引き寄せてそこに腰を下ろす。
「あれ、舞は?」
「買い物に行った。佐祐理さんに、お粥を食べさせてあげるんだと」
「そっかー」
そう言って、嬉しそうにへにゃっと相好を崩す佐祐理さん。
「ところで佐祐理さん、調子はどう?」
「そうだねー、ちょっとぽかぽかして頭がふにゃーって感じかな」
「どれ」
伸ばした手を彼女の額に当てる。
その途端、熱いくらいの肌の火照りが掌いっぱいに感じ取れた。
「はやー。祐一くんの手のひら、冷たくて気持ちいいねー」
そう言って目を細める佐祐理さん。
俺も一応は人の子だから、手にしてもそれほど冷たくはないと思うけど、風邪引きの身にすれば十分冷たいってことなんだろう。
「ね、祐一くん。もう少し……こうしててくれる?」
「ああ、いいよ」
微笑みと共に「ありがとう」と小さくつぶやいた佐祐理さんは、額に当てられた手の感触に意識を集中するようにゆっくりと目を閉じる。
そのまま、静かな時間が過ぎてゆく。
暖房に乗って鼻先をくすぐってゆくのは、多分この部屋の主たる佐祐理さんの匂い。
耳に届くのは彼女の吐息と、机の上に置かれた時計が刻む針の音だけ。
まるで世界に俺たちふたりだけしかいないような、そんな錯覚を覚えてしまいそうになるくらいの静けさだった。
「……祐一くん」
静寂を破る小さな声。
その声に、いつしか外界との境界を曖昧にしかけていた意識を戻した俺は、すぐ目の前にいる大切な人に目を向ける。
「今日は……ごめんね」
「どした、急に?」
「だって、今日は三人でお出かけの予定だったのに。佐祐理のせいで……中止になっちゃったから」
「んなこと気にするなって。佐祐理さんが元気になったら、その時に行けばいいんだよ」
口元をゆるめながら、穏やかな口調で答える。
駅前で俺がかれこれ二時間も待ちぼうけていたのは、佐祐理さんと舞の三人で出かける約束をしていたからだった。
今日、五月五日は佐祐理さんの誕生日。
そのお祝いに、どこかに行こうと言いだしたのは他ならぬこの俺。
この日に備えて、ここしばらくは普段から倹約を心がけていたこともあって、幸い懐には多少の余裕がある。
高級レストランのフルコースなんて言われた日にはお手上げだったが、もし彼女がそれを望むなら、俺としては多少の借金(別名、名雪ローン)は覚悟の上での申し出だった。
でも佐祐理さんからの返事は……何と言うか、意外な場所だった。
「あははーっ。でしたら佐祐理は、遊園地に行きたいですーっ」
「へ、遊園地って……あの観覧車とかジェットコースターとかメリーゴーランドとかがある、あの遊園地?」
「はい。実は佐祐理、一度も遊園地に行ったことがないものですから」
今時、遊園地に行ったことがないってのも珍しい。
俺だって別に遊園地好きってわけじゃないけど、それでも子供の頃、何度か遊びに連れてってもらった覚えはあった。
でも考えたら、佐祐理さんって結構いいとこのお嬢様だもんな。
社交界とかに顔を出すことはあっても、意外とそう言う場所には縁がないものなのかもしれない。
その時、無言で俺と佐祐理さんの会話に耳を傾けていた舞が口を開いた。
「祐一。遊園地って……楽しい」
「ん? 舞、もしかしておまえも遊園地行ったことないのか?」
まさかと思いつつ訊ねてみると、案の定こくりと首を縦に振る。
確かに舞の場合、佐祐理さんとは違った意味で「普通の女の子」とは縁遠い日々を送ってきたはずだから、言われてみればそうなのかもしれない。
「舞も、遊園地に行きたい?」
「……行きたい」
佐祐理さんの問いかけに、こくりとうなずく舞。
「じゃあ今年の佐祐理さんの誕生日は、遊園地で遊び倒すってことで」
「……分かった」
それが、かれこれ一週間前のこと。
今日の今日まで、まさか肝心の佐祐理さんが風邪でダウンするなんて考えもしなかったけれど、なってしまったものは仕方がない。
「それに、遊園地は逃げやしないから……な?」
「……うん」
布団から覗かせた顔を小さくうなずかせながら、またほにゃっと相好を崩す佐祐理さん。
う……か、可愛いかも。
思わずぎゅっと抱きしたくなる衝動を、かろうじてこらえる。
舞が買い物に出かけてしまったいま、この家には俺と佐祐理さんのふたりきり。
そんなシチュエーションで彼女を抱きしめた日には、理性が持ちこたえられるかどうか自信がなかった。
佐祐理さんは病人なんだから、いやでも……などとわけの分からない葛藤に内心苦悶していると、ふと視線を感じる。
見れば佐祐理さんが、じーっと俺のことを見つめていた。
「祐一くん、どうしたの?」
「え、なにが?」
「なんだか、難しい顔してたよ。悩み事?」
「う、あ……そ、それは……」
いくら俺でも、佐祐理さんを抱きしめるかどうかで悩んでいたなんて真っ正直に言えるはずもなく、言葉を詰まらせてしまう。
「そ、そう言えば佐祐理さん。さっきから俺のこと……」
「ふぇ?」
話題を逸らそうと、とっさに彼女の言葉遣いのことを口にしかけた俺は、でも途中まで言いかけたところでまた黙り込んでしまった。
そう言えば、どうしてなんだろう。
彼女が他人と会話をする時に使っている丁寧語、それは自らに課した戒めとでも言うべきもののはずだった。
自らが「正しい」と思っていたことが本当は少しも「正しい」ことじゃなく、そのせいでこの世でたったひとりの弟、一弥を失った佐祐理さん。
夕暮れの商店街で、あの日彼女は言った。
「だから……もう少し待ってくださいね。いつかは言います。それがいつになるかは……佐祐理はダメな女の子だからわからないですけど……」
まっすぐに俺の瞳を見据え、髪も肌も服も、全身を黄昏に染め尽くしながら決意の込もった声でゆっくりと。
「いつか、きっと……おはよう、祐一くんって」
それがいま、訪れたということなのだろうか。
でも……何かが違うような、そんな気がしてならなかった。
いや、きっと違うのだ。
俺のことを「祐一くん」と呼んでくれた佐祐理さんは、でも自分のことを相変わらず「佐祐理」と呼んでいた。
大切なものがまだ彼女の手の届く場所にあった頃、何の疑問も抱くことなく口にしていたはずの「わたし」じゃなく、かけがえのないものを失った後、もうひとりの自分の存在を自覚するようになってからそうするようになった「佐祐理」と。
自分という存在を、客観的にしかとらえることができなくなってしまった佐祐理さん。
そう、きっといまは……未だ閉ざされたままのはずのドアが、風邪で体調を崩したせいで偶然ほんの少し開いてしまっただけ。
そのドアの向こうにある本来の彼女の姿を、いつかきっと取り戻せるはずの姿を垣間見ているに過ぎないのだ。
だって彼女は――佐祐理さんは、まだ頑張ってる途中なのだから。
だから「祐一くん」なのに「佐祐理」なのだ。
そんな彼女に、俺は何をしてあげるべきなのだろう。
何を言ってあげるべきなのだろう。
いくつもの疑問が胸の中を、答えを求めてぐるぐるとさまよい始める。
どれくらい、そうしていただろう。
「祐一くん……どうしたの? 佐祐理の顔に、なにかついてる?」
黙り込んだままの俺に、ちょっと困ったような表情を浮かべた佐祐理さんが小首を傾げながら問いかけてきた。
「え……あ、ごめん。なんでもない。ちょっと考え事してたから」
「そうなの?」
「ああ」
微笑みながら、うなずく。
でも佐祐理さんは、そんな俺の言葉に今ひとつ納得がいってない様子で、
「でも祐一くん、なんだか悲しそうなお顔してたよ」
「そんなことないって。だって俺、別に悲しいことなんてないぜ」
「……うん」
どうやら、内心の思いがいつの間にか顔に出てしまってたみたいだ。
看病してるはずの病人を心配させてるようじゃ、本末転倒だな……自嘲気味にそんなことを思う俺の前に、ゆっくりと差し出される何か。
それは佐祐理さんの手だった。
布団から俺にと差し出されたそれは、ちょうど胸の高さ辺りでその動きを止める。
小首を傾げながら、佐祐理さんを見る。
熱っぽい瞳――実際熱を出してるからその通りだけど――でまっすぐに俺を見据えるその眼差しに、言葉にならない何かを感じ取った俺は、差し出された彼女の手をそっと握り返した。
指先と掌に覚える、暖かで柔らかな感触。
「ね、祐一くん」
「ん?」
「佐祐理、一生懸命頑張ってるから……きっとできるようになるから……」
何のことだろう。
彼女の言わんとするところが分からず、首を傾げてしまう俺。
「急にどうしたの、佐祐理さん? それにきっとできるって、なんのこと?」
「うん。あのね……」
でも佐祐理さんはそこまで口にしたところで、目を細めてほにゃっと相好を崩しながら、恥ずかしそうに熱で赤くなった頬を更に赤くすると、
「そうしたら祐一くん、そんな悲しいお顔をしなくてもよくなるのかなって思ったから」
「…………」
「ホントは祐一くんには内緒だったんだけど……佐祐理ね、秘密の特訓してるんだよ」
「特訓? 秘密の?」
「うん、舞とふたりでね。だから待ってて……きっと……いつか……」
最後の方は消え入るような、そんな小さな声だった。
「佐祐理さん?」
顔を寄せながら耳元で彼女の名を呼んでみたけれど、反応はない。
口からは言葉の代わりに、すーすーと規則正しく繰り返される呼吸音が響くばかり。
「……寝ちゃったのか」
そう言えば、出がけに舞が薬を飲ませたとか言ってたっけ。
多分それが効いてきたのだろう。
口元をゆるめながら、彼女の手を掴む指先の力を少しだけ強くする。
特訓……か。
ふたりで一体、どんな特訓をしているのやら。
「祐一」
「ゆ、祐一……さん」
「祐一」
「祐一く……さん」
「……じゃあ今度は、私」
「わ、わ、わた……あははーっ。佐祐理には、やっぱりまだ無理みたいーっ」
特訓と言うには、ちょっと緊迫感が足りない気がしなくもなかったけど、きっとこんな感じなのだろう。
いつか交わした約束。
それが成就されるまで、どれくらいの時が必要なのかは分からない。
でも、俺はいつまでだって待ち続けるつもりだった。
慌てることはない。
俺たちは、まだまだこれからなんだから。
薬が効いているのか、時々苦しそうに眉根を寄せたりもしていたけれど、思ったよりも穏やかな寝顔を浮かべている佐祐理さん。
そんな大切な人の表情を見つめながら、俺は小さくつぶやいた。
「いつまでだって、俺は待ってるから……だから頑張れ、佐祐理さん」
返事は当然ない。
でもいまの俺には、それで十分だった。
「さて、と」
ひとりごちつぶやきながら立ち上がった俺は、足音を立てないよう気をつけながらドアへと歩き出す。
せっかく薬が効いてきたんだし、起こしちゃ可哀想だから。
舞が帰ってくるまでは、リビングでテレビでも見ながら待ってるとしよう。
廊下に出た俺は、閉めかけたドアの隙間から垣間見える佐祐理さんの寝顔にほんの少しだけ目を細めながら、
「おやすみ、佐祐理さん」
小声でそれだけを口にしてから、ドアを閉めた。
§
手中の湯飲みから立ち上る湯気。
両手で抱えるように持ったその飲み口を唇に当て、少し冷め始めた中身を一口すする。
「んまい」
満足げにうなずきながら横を見ると、
「あははーっ。身体が温まりますねーっ」
「……嫌いじゃない」
同じく湯飲みに口に付けていたふたりが、それぞれに相応しい反応を示していた。
「この卵酒は、祐一さんが作ったんですか?」
「ああ。お粥の方は結局舞ひとりに作られちまったけど、せっかくだから俺もなにか作ってみようかなってね」
買い物から戻ってきた舞が再開したお粥作り。
昼間の惨状を見ていた俺としては、もう一度彼女に任せるのは正直不安だった。
でも、どうしても自分ひとりで作ると言って聞かない舞に根負けした俺は、サポート役として口を出しはしたものの、最後まで料理の作業自体には手を出さなかった。
その結果は……ちらりと視線を床に向けるとそこには、空になった器と蓮華がお盆の上に乗せられていた。
つまり、そう言うことだった。
佐祐理さんのために食事を作ってあげるという、舞のその目的はかなえられたわけだ――被害を更に大きくしたキッチンという、大いなる犠牲と引き替えに。
「祐一さん、これはどうやって作ったんですか?」
「え? 別に大したことはしてないぞ。鍋の中に同じ量の酒と水を入れて、それに卵と砂糖を加えてよくかき混ぜてから、最後に火にかけてアルコールを飛ばしただけだよ」
「ふぇー、本格的ですね」
感心したように声を上げる佐祐理さん。
そんな彼女に、俺は少しだけ照れくさいものを感じながら、
「んなことないって。あ、でも女の子用にちょっと甘めにしてあるかな」
普段――と言っても、そんな機会滅多にないけど自分用に作る時は、もう少し大雑把な作り方をしてるのは確かだった。
コップに注いだ酒に卵を放り込んで、かき混ぜてはいできあがり。
「やっぱり風邪を引いた時には、これが一番だよな」
「そうですね。舞のお粥も美味しかったし、佐祐理はとても幸せです」
「風邪引いて、幸せもないと思うけどなぁ」
「あははーっ。そう言われれば、そうですよねーっ」
顔を見合わせながら、笑い合う。
あれから二時間ほどして目を覚ました佐祐理さんは、薬が効いたのか熱も下がり、だいぶ調子も良くなったみたいだった。
ついでに言えば、言葉遣いもすっかり元通りになっていた。
それとなく聞いてみると、昼間俺が来ていたことは覚えているものの、何を話したかまではよく覚えていないらしい。
熱に浮かされてる時って、まぁそう言うものなのだろう。
ちょっと残念な気もしたけれど、慣れていないせいもあって佐祐理さんに「くん」付けで呼ばれるのは結構照れくさかったのも事実。
本音を言えば、半分残念半分安心といったところだった。
そんなことを思いながら、ひとりごち小さくうなずく俺。
「ふぇ?」
その俺の様子に不思議そうに小首を傾げる佐祐理さんに、俺は「なんでもないよ」と、微笑みを浮かべてみせた。
その時、さっきから無言で湯飲みを傾け続けている舞の姿が目に映る。
「舞、美味いか?」
こくりと、飲み口に口を付けたままうなずく舞。
すると中身が空になったのかようやく湯飲みを下ろした彼女は、そのまま傍らに置いてあった一升瓶に手を伸ばすと――
「って、なにっ!」
どぼどぼと湯飲みに瓶の中身を開け、また飲み始める。
「こら、舞っ!」
「……なに」
「おまえ、なにやってんだよ!」
「祐一が作った、卵酒を飲んでる」
「あのな……違うだろ。おまえが飲んでるのはただの酒。んなもん、卵酒でもなんでもないわいっ!」
叫びながら、酒瓶を奪い取る俺。
「あーあ……もう三分の一も残ってないじゃん」
「祐一、返して。卵酒、もっと飲む」
「まだ言うか。この不良娘が」
「あははーっ。まーいっ、そんなに一度に飲んだら明日大変だよーっ」
ため息混じりに呆れている俺をよそに、佐祐理さんが冷静なツッコミを入れてくる。
でも当の舞は、何ごともなかったような様子で、
「平気。今日は佐祐理の誕生日だから」
「俺には一体なにが平気なのか、見当もつかないぞ」
「めでたい日だから、今日は無礼講」
無茶苦茶な論理だ。
と言うか、これは俗に言う「酔っぱらいの論理」ってヤツなのでは……
「舞、おまえ……もしかして酔ってる?」
「……酔ってない」
「嘘つけ。よく見たら、目が虚ろだぞ。絶対酔ってる」
「そんなことない。それは……祐一の目が変なだけ。私はいつもと同じ」
うわ、ダメだ。
こいつ、マジで酔っぱらってる。
呆れ返る俺をしり目にその場から立ち上がった舞は、何を思ったのかふらふらとおぼつかなげな足取りで佐祐理さんのすぐ側にまで歩み寄ると、
「……佐祐理」
「ふぇ?」
「誕生日、おめでとう」
そう言って多分乾杯のつもりなのだろう、佐祐理さんの湯飲みに自分のそれをかちんとぶつけると、湯飲みに残った中身を一息にあおる。
と次の瞬間、俯せにぱったりベッドに倒れ込んでしまった。
「あ……死んだ」
「舞、舞っ。こんなところで寝ちゃったら、今度は舞が風邪引いちゃうよ。ほら起きないとダメだよ、舞ーっ」
佐祐理さんが慌てて揺り起こそうとしたけれど、完全にお休みモードに入ってしまったらしい舞の口からは安らかな寝息が聞こえてくるばかり。
「こら、舞。起きろっての」
俺は俺で軽く後頭部に軽くチョップを入れてみるが、反応はなかった。
そのまま何となく、佐祐理さんと顔を見合わせてしまう。
「……ぷっ」
「あははーっ」
やがて俺たちの口を突いて出てきたのは、そんな心からの笑い声だった。
しばらくの間、全てを忘れたように笑い続ける俺と佐祐理さん。
結構大きな声だったと思うけど、それでも舞は一向に目を覚ますそぶりすら見せることなく眠り続けていた。
ホントに熟睡してやがるな、こいつ。
「それにしても……大変な誕生日になっちまったな」
「あははーっ。でも佐祐理にとっては、いままでのお誕生日で一番楽しかったです」
膝元に横たわる舞の髪をなでながら、佐祐理さんが口を開く。
そんな彼女に俺は、冗談交じりに、
「ケーキの代わりにお粥で、シャンパンの代わりに卵酒ってか?」
「はいっ」
何となく、お粥の上に立てられたローソクを想像してみる。
脳裏に浮かんだその様は、これ以上ないほど場違いな組み合わせだった。
でもまぁ……それもありかな。
それがたとえどんなに滑稽な情景だったとしても、それだって俺たちの大切な思い出なのだから。
床に置いてあった自分の湯飲みを手にした俺は「佐祐理さん」と、穏やかな眼差しで舞の寝顔を見つめる大切な人の名を口にする。
「はい?」
落としていた視線を上げる佐祐理さん。
目の前に掲げられた器を見て、すぐに俺が何を言わんとしているのかを理解したのか、傍らに置いてあった湯飲みを手にした。
目を合わせ、互いに微笑む。
「舞に先を越されたけど……佐祐理さん、誕生日おめでとう」
病み上がりの佐祐理さん。
酔いつぶれた挙げ句に寝てしまった舞。
お粥と卵酒だけの、誕生パーティと称するにはロマンチックさからほど遠い品揃えだったけれど……それはそれで、俺たちらしい気がしなくもなかった。
内心でそんなことを思いながら、くすりと笑みを漏らす。
「あははーっ。ありがとうございます、祐一さん」
佐祐理さんの楽しげな声と同時に、重ねられた湯飲みがちんと小さく鳴り響いた。