『永遠の楽園』
Update:2002.04.16





Extra04「睡郷」

「ピクニックに行きましょうーっ」
 ドアを開けた途端、俺の来訪を待ち構えていたように玄関先にたたずんでいた、佐祐理さんが口にした一言。
 それが全ての始まりだった。
「……は?」
 突然のことに何の反応もできなかった俺は、ノブに手をかけた姿勢のままぽかんと口を開けるばかり。
 でも、そんなことにはお構いなしに佐祐理さんは、
「佐祐理、いつもより早起きしていっぱいお弁当を作りました」
 胸の前で両手を合わせながらにっこりと目を細めて見せると、どんどん話を進めていってしまう。
「向こうに着いたら、いっぱい食べてくださいね」
「お、おぅ」
 彼女の言葉の勢いに押し切られるように思わずうなずいてしまった俺だったけれど、実のところ状況がまったく掴めていなかった。
 と言うか、これで理解できる方がどうかしてる。
「準備の方もほとんど終わってますから、あとは祐一さんが来てくださればいつでも出発できるところだったんですよ」
「そ……そうなの?」
「はいっ」
 笑顔で大きくうなずく佐祐理さん。
 でも次の瞬間、どこか不思議そうな眼差しを浮かべながら小首を傾げると、
「ふぇ……どうかされましたか、祐一さん?」
 そう、訊ねかけてきた。
 目を白黒させるばかりな俺の様子に、ようやく気がついてくれたみたいだ。
 それでひと息つくことができた俺は、
「ごめん、佐祐理さん。俺、さっきから全然話が見えてないんだけど」
「そうなんですか?」
「とりあえずピクニックに行こうとしてるってのは分かった。それでメンツは……俺と佐祐理さんと舞の三人なんだよな?」
「はい」
「で、どこに行くつもりなんだ?」
「それはですね――」
 佐祐理さんが口にした行き先は、少し離れた町にある森林公園だった。
 何でも朝飯を食べてる時に舞が「お出かけしたい」とか言いだして、ならせっかくのお休みなんだから遠出をしようと、ふたりで話し合って決めたらしい。
「あそこか……」
「祐一さん、ご存じなんですか?」
「まぁね」
 曖昧にうなずき返す俺。
 おぼろげな記憶だったけど、その公園ならガキだった頃に遠足だったか何かで行った覚えがあった。
 ここからだと、確か電車で一時間ちょっとくらいの距離のはず。
 初夏に近いこの季節、草むらに寝転がって昼寝をするのも気持ちよさそうだし、日帰りの行楽にはちょうどいい場所かもしれなかった。
「今日は天気もいいし、公園で佐祐理さんの弁当を食べるってのも……うん、いいかもしれないな」
「あははーっ。祐一さんなら、きっとそう言ってくださると思いましたーっ」
 そうと決まれば話は早い。
 善は急げ、とっとと出かけることにしよう。
「じゃあ荷物持ちは、俺の仕事だな。それで佐祐理さん。荷物はどれくらいあるの?」
「荷物……ですか?」
 どうしてだろう、俺の言葉に小首を傾げる佐祐理さん。
「そう。だって公園で飯を食うなら、弁当以外にも敷物とか飲み物とか持ってくものが色々あるだろ」
「もちろんありますけど……でも、もう全部積み込んでしまいました」
「……積み込んだ?」
「はい。つい先ほど舞が、最後のお重を持っていったところです」
「え? でも――」
 電車で行くんだろと、そう口を開きかけたところで、互いの会話が微妙にかみ合ってないことに気が付く。
 待てよ、佐祐理さんは「持っていく」じゃなくて「積み込んで」って言ったよな。
 と言うことは……
「あのさ、佐祐理さん。公園には電車で行くんじゃないの?」
 半信半疑といった面もちで口にした俺の言葉は、でも彼女の疑問の余地のない返答であっさり覆されてしまった。
「残念ながら違います。今日は、車でお出かけです」
「車、ってレンタカー?」
「いいえ。さっき、お家から借りてきました」
 なるほど、それならレンタカーを借りるより全然安上がりだ。
 もし事故っても自分ちの車なら面倒が少ないし、いざとなれば「ごめんなさい」の一言で修理代を負けてもらうという手も――
「って、違うっ!」
 思わず自分の考えにツッコミを入れてしまう。
「はぇ?」
「いやだからさ、免許だよ免許。俺、運転なんてできないぜ」
 当然のことだったが、俺は免許なんて持っていない。
 自慢じゃないけど中学だった頃、悪戯半分で親の車を勝手に動かそうとして大目玉を食らって以来、ゲーセンのレースゲーム以外でハンドルを握ったことなんて、後にも先にもそれきりだった。
「大丈夫です、祐一さん」
「大丈夫って……もしかして佐祐理さん、運転できるの?」
「あははーっ、もちろんできませんーっ」
「だったら――」
「……私が運転する」
 俺の言葉をさえぎるように、背後から放たれた言葉。
 慌てて振り返るとそこには、どこから現れたのか舞の姿があった。
「佐祐理、荷物の積み込み終わった」
「ありがと、舞。祐一さんも来てくれたし、ひと休みしたら出発しよっか」
「分かった」
 俺の横をすり抜け、佐祐理さんの側に歩み寄った舞は、そのまま何ごともなかったように彼女と言葉を交わしていた。
 その和やかな空気に思わず流されそうになってしまう俺。
 でも、すぐに我に返ると、
「ちょっと待て、舞。おまえ、いま『私が運転する』って言ったよな」
「言った」
「その……まさかとは思うけどおまえ、免許持ってるのか?」
 こくり。
「マジで?」
 こくり。
「免許って、運転免許だぞ」
 こくり。
「念のため言っておくけど……エイプリルフールは、もう過ぎてるからな」
 ぽかり。
 さすがに言い過ぎたのか、舞のチョップが俺の額に炸裂する。
 そして、少し上目遣いでじっと俺のことを見据えながら、
「祐一は……私が免許を取ったこと、信じないの」
「そう言うわけじゃないけど」
「……けど」
「免許って、確か未成年は取れないんじゃなかったっけ?」
 酒とタバコと運転は二十歳から……あれ、何か違うような気がするな。
 途中で自分の言葉に自信がなくなってしまった俺は、多少のばつの悪さと共に視線を舞から逸らしてしまう。
 すると、いままで俺と舞の会話を黙って聞いていた佐祐理さんが、
「あははーっ。祐一さん、未成年者が禁じられているのは飲酒と喫煙ですよ。運転免許は十八歳から取得可能ですーっ」
「あ……そだっけ?」
「はいっ」
 なるほど、だったら舞が免許を取ることも物理的には可能ってことか。
 佐祐理さんの説明である程度納得はいったけど、それはそれとして舞と運転免許……意外な取り合わせだよな、やっぱり。
 その思いが顔に出てしまったのだろう、ぴくりと眉根を寄せた舞は上着のポケットからカードケースを取りだすと、
「これが証拠」
 そう言って、一枚のカードを俺の前に掲げて見せた。
 見ればそれは確かに、舞の運転免許だった。
 氏名欄にはちゃんと「川澄舞」と書かれているし、何よりその横に貼り付けられている写真は間違いなく舞その人だった。
「うーむ」
「これでも信じない」
「いや、分かった。俺も男だ、素直に負けを認めるとしよう」
 一体いつから勝負になったのか俺にもよく分からなかったが、免許証を前に小さくうなずきながら口を開く。
 だがしかし、素直に負けを認めるのはやはり悔しい。
「それはそうとこの写真、目をつむりかけてないか?」
 せめて一矢報いてくれようと、俺はにへらと口元をゆるめながら、免許の中でかしこまった表情を浮かべている舞の顔写真を指差した。
 すると思った通り、視線を逸らしながら頬を少しだけ染めた舞は、
「写真……苦手だから」
 そそくさと免許証をしまいながら、小さくつぶやいた。
 たかが免許の写真ひとつに、苦手ねぇ。
 照れくさいのかそっぽを向いてしまった舞をあやすように、佐祐理さんが彼女の頭をなでる様を見やりながら、内心でそんなことを思ったりもする。
 でも同時に、それはそれでこいつらしいよな……そんな気もしていた。

                  §

「それでは、出発ですーっ!」
 俺とのジャンケンに勝ち、めでたく助手席に座ることになった佐祐理さんが高らかにそう宣言してから早五分。
 既にして俺は、車に乗ったことを後悔していた。
 窓外に見える景色は、文字通り流れるように細く長い残像を残しながら次々と後方へと過ぎ去ってゆく。
 車に乗ってるんだから、それ自体は別段不思議なことじゃない。
 そう、問題はないはずだった。
「舞っ」
「…………」
 後部座席からハンドルを握る舞に声をかけるが、返事はない。
 本当に俺の声が届いていないのか、それとも返事をするだけの余裕がないのかは表情をうかがう限り、よく分からなかった。
 仕方なく、さっきより大きめの声でもう一度声をかける。
「おい、舞!」
「気が散るから、黙ってて」
 ようやくのことで戻ってきた反応は、予想通りと言うか何と言うか……どうやら舞が黙り込んでいたのは、後者が原因らしかった。
 免許取り立てなんだから、同乗者と言葉を交わす余裕がないのは当然かもしれない。
 でも俺は俺で、どうあってもこの場で問いただしておきたいことがあった。
「舞、おまえが持ってる免許、本当に本物なんだろうなっ!」
「……まだ疑うの」
 視線は正面を見据えたまま、少し不満そうな様子で口を開く。
「当たり前だっ」
「どうして」
「どうしてって、おま……わーーーっっ!」
 途中まで口にしかけた言葉は、でも途中で絶叫に変わっていた。
 何故なら視界に、真横から盛大にクラクションを鳴らしながら大型のダンプカーが突っ込んでくる姿が飛び込んできたから。
 ダメだ、ぶつかる!
 その時だった。
「舞ーっ、ぶつかっちゃうよーっ」
 佐祐理さんの、どうしてかイマイチ緊張感の欠けた穏やかな警告に「……分かった」と小さくうなずいた舞は、ハンドルを勢いよく回転させる。
 ぐいと身体が横に引っ張られると同時にタイヤが悲鳴を上げ、視界が斜めに傾いだ。
「どわーっ!」
 ダンプの車体前面にタイヤを乗り上げるように片輪を浮かせた車は、本当に紙一重のところで衝突を避けることに成功した。
 文字通り、一瞬の出来事だった。
 安堵のため息をつく間もなく、タイヤが再び路面をたたく。
 と同時に、シートベルトをしていなかった俺の身体は、めでたく座席と天井の間を何往復かする羽目に陥った。
 そして止めをさすように荷台の方から転がり落ちてきた鍋が、まるでコントのようにぐわんと俺の頭をたたいて床に落ちていった。
「ぐはっ!」
 何か俺、さっきから叫んでばっかりだな……痛みに頭を抱えながらそんな愚にもつかないことを考えてしまう。
「祐一さんっ。大丈夫ですか?」
 頭上から佐祐理さんの心配そうな声が聞こえてきたけれど、さすがに返事をできるだけの余裕のなかった俺は、手をひらひらと動かしてどうにか生存だけは主張しておいた。
「と、とにかくだ……」
 ようやく頭の痛みから立ち直った俺は、座席に手をかけながら顔を上げると、
「一旦車を止めてくれ、舞」
「危ないから、ダメ」
「このまま走り続ける方が、よっぽど危ないわっ」
「でも……ここで止めたら後ろの車とぶつかる」
「バカっ、誰がここで止まれと言った! 脇に車を寄せて止まればいいだろうがっ!」
 俺がそう叫んだ途端、返事の代わりにウィンカーもつけずにいきなりハンドルを左に切った舞は、何を思ったのかフルブレーキングをかましてくれた。
「ぐがっ!」
 当然の結果として、助手席と正面衝突と相成る俺。
 次の瞬間、背後からがらがらと不協和音を奏でながら崩れ落ちてきた、荷台に山と積み上げてあった荷物が俺を押しつぶした。
 お、重い……
「止まった」
「わーっ、舞。祐一さんが生き埋めになっちゃったよーっ」
 遠くからそんな、佐祐理さんと舞の声が聞こえてくる。
 頭をしたたかにぶつけたせいか、意識が薄らいできているような、そんな気がした。
 俺、このまま死ぬのかな。
 頭の片隅で、ぼんやりとそんなことを思ったりもする。
 十七年の短い人生だったけど……それなりに悔いなく生きてきたから、まぁいいか。
 って、んなわけあるかっ!
 あらん限りの力を振り絞り、身体の上にのしかかってきていた有象無象の荷物を押しのけかき分けた俺は、どうにか崩落物の中から身体を抜け出させる。
「祐一さん、お怪我はありませんか?」
「とりあえず、大丈夫……のような気がする」
 ぜーはーと荒くなった呼吸を整えつつ、それだけを口にする。
「…………」
 すると肩越しに振り返りながら、じっと見つめる舞と視線が合った。
 文句のひとつも言ってやろうと口を開きかけた俺だったが、舞が言葉を紡ぐ方が一瞬だけ早かった。
「言われた通り、止まった」
 マジ……なんだろうな、やっぱり。
 がっくりと肩を落とす俺。
「そうだな。できれば、もうちょっと静かに止まってくれれば嬉しかった」
「……そう」
「それでだな、舞。さっき見せてくれた免許証、もう一度見せてくれ」
「……?」
 突然の申し出に、小首を傾げながら差し出される免許証。
 受け取った俺は、改めてそれをよく見てみる。
 氏名、本籍、住所と並んだその下、交付欄の日付でふと目が止まる。
「まだ疑ってるの」
「んなことはない。確かに本物だとは思うぞ、ああ本物だ。でもな、舞。おまえが免許取ったのって……三日前なのかっ!」
 こくり。
 何のためらいもなく舞は、俺の問いかけにあっさりとうなずいてくれた。
「ってことは、外で運転するのは初めてなのか?」
「初めて」
「なるほど……」
 これでようやく、家を出てからの一連の出来事全てに合点がいった。
「おまえ、よく試験に受かれたな」
「どうして」
「あのな。家からここまで、一体いくつ信号があったと思ってんだよ!」
「さぁ」
「えーとですね……はい、全部で十五個ありました」
 指折り数えながら、思い出すように佐祐理さんが口を開く。
 あの無茶苦茶な状況で、よく数えていられたものだと彼女の冷静な観察眼に感心しながら、舞に視線を戻した俺は、
「つまり、そう言うことだ。山とあった信号をおまえは……全部無視してノンストップでここまで来ちまっただろっ! おまえの運転には、フルアクセルとフルブレーキ以外の選択肢がないのかっ!」
「そんなことない」
「嘘つけっ! 信号は無視するわ、一方通行は逆走するわ、交差点はドリフトで曲がるわ、おまけにダンプに横から突っ込まれそうになるわ……こんな調子じゃ、命がいくつあっても足りんわっ!」
「あははーっ。ね、舞。事故に遭ったりしたら、せっかくのお出かけが台無しになっちゃうから、せめて信号はちゃんと止まろうねーっ」
「……分かった」
 ホントに分かってるのだろうか。
 とはいえ俺じゃ喧嘩腰の会話にしかならないので、その辺の説得は佐祐理さんに任せることにする。
 ふたりの会話を横に俺は、自分の座る場所を改めて確保するために、崩れ落ちてきた荷物をえっちらおっちらと荷台に積み直し始めた。
 にしても……手にした鍋釜に視線を落としながら俺は思った。
 どうしてこんなものが、こんなところにあるのだろう。
 佐祐理さんが家から借りてきた車は、いわゆるカーゴ型の小型車だった。
 四人分の座席の後ろ、車のサイズの割には結構広く設けられた荷台の部分には、どこからこんなにと思えるくらいの荷物が、所狭しと積み上げられていた。
「なぁ、佐祐理さん」
 ひと通り荷物を積み直し、やれやれと思ったところで佐祐理さんに声をかける。
「この荷物って、ふたりで積み込んだのか?」
「ふぇ……違いますよ。佐祐理はずっと、今日のお弁当の用意をしていましたから。ですから荷物の方は、全部舞にお任せしちゃいました」
 で、この惨状ってわけか。
 要不要に関係なく、とにかく手当たり次第に積み込んでみましたって感じの荷物の山を見やりながら、佐祐理さんの言葉に深く納得した。
 ま、とりあえず弁当が無事みたいだからいいか。
「……祐一、荷物は片づいた」
「おぅ、こっちはOKだぞ」
 右手でサインを出しながら、うなずく。
「じゃあ出発する」
「ちょ、ちょっと待て……」
 佐祐理さんが諭してくれたことだし今度は大丈夫だろうと思いつつ、念のためにシートベルトを締めておく。
 かちりとロックがかかったのを確認して「よし」と小声でつぶやいた俺は、改めて舞にうなずき返した。
「今度は大丈夫だろうな、舞」
「……信号はちゃんと止まる。佐祐理と約束したから」
「うむ。よろし――」
 俺が皆まで言う前に、またもやウィンカーも出さずにアクセルを踏み込まれた車は、瞬く間に車線に復帰していた。
 加速で、身体がシートに押しつけられる。
「んぐぐ……」
 後ろから、けたたましいクラクションの音が鳴り響いた。
 でもそんな警告などお構いなしに、車はそれこそ悲鳴を上げんばかりのエンジン音を轟かせながら、制限速度を守って走る車の間を縫うように道路を驀進し続ける。
 そう……フルアクセルで。
「バカ舞ーーっ! これじゃさっきと同じだろうがーーーっ!」
 耐G訓練さながらに、座面に身体を押しつけられながら口にした俺の怒声が、車内に虚しく響き渡った。

                  §

 見上げると、雲雀とおぼしき小鳥がちちちと小さく可愛らしいさえずりを響かせながら、青空の中を駆けてゆくのが見えた。
 日射しは暖かで、絵に描いたような春爛漫の日より。
「平和だ……」
 腹が満たされたついでに心まで満たされたのか、気が付くと俺は吐息混じりにそんなつぶやきを漏らしていた。
 視線を戻す。
 すると敷物の上に広げられたお重を挟んだ先に、そんな俺のことをにこにこと目を細めながら見つめる佐祐理さんの姿があった。
「祐一さん、お腹いっぱいになりましたか?」
「ああ、おかげさまで」
 ぽんと腹をたたきながら、笑い返す。
「ごちそうさま」
「お粗末さまでした」
 互いに深々とお辞儀をしてからまた顔を合わし、くすりと笑う。
 うん、これこそが有意義な休日ってやつなんだよな。
 つい先刻までこの身を置いていたはずの修羅場のことはすっかり棚に上げて、そんなことを思ったりする。
「あははーっ。それにしても、祐一さんも舞もすごい食べっぷりでしたねーっ」
 空になったお重を片付けながら、嬉しそうにそう言った佐祐理さんに、
「……お腹すいてたから」
 デザートの柏餅を食べていた舞が、口をもぐもぐさせながら返事をする。
 その意見には、まったくもって同意見だった。
 と言っても、そうなるに至った事情は百八十度逆だったけど。
 目的地たる森林公園にたどり着くまで、俺がしていたことはといえば後部座席に座っていただけなのだから、本来それだけで腹が減る道理はない。
 でも現実には俺は、それこそ親の仇を討つみたいな勢いで弁当をかっくらい続けた。
 理由は簡単。
 体力以上に、精神を消耗していたから。
 正直なところ、よく生きてここまでたどり着けたものだと我が身の幸運を、普段はちっとも信じちゃいない神様に感謝したいくらいだった。
 もしいま目の前に賽銭箱があったら、漱石さんの一枚を入れても惜しくはなかった。
「祐一さん、お茶のおかわりをどうぞ」
 差し出された紙コップを受け取った俺は、「さんきゅ」と言いながらそれを受け取る。
 その時、ふと意識のどこかが刺激された。
 何だろう……
 一瞬考えてしまった俺だったけど、すぐにそれが何だったかに思い当たる。
「そっか……」
「ふぇ? どうかされましたか?」
 俺のつぶやきが耳に留まったらしい佐祐理さんが、コップから口を離して訊ねてくる。
「え、ああ。考えたらこうして外で三人して弁当箱をつつくのって、ふたりが卒業して以来だから……ずいぶん久しぶりだなって思ってさ」
「あははーっ。そう言えばそうですねーっ」
「ふたりがいなくなってから、あの場所にもちっとも足を運ばなくなっちまったしなぁ」
「じゃあ今度また、あそこでお昼を食べましょうか」
 両手を合わせながらにこやかにそう提案してくる佐祐理さん。
 そんな彼女に、俺は苦笑混じりに、
「ははっ、それもいいかな。でも、私服で学校に来たらすぐにバレちゃうぜ」
「平気です。舞も佐祐理も、制服を着ていきますから。こんなこともあろうと、いつでも着られるようにしてあるんですよ」
「ほほぅ、なら大丈夫か」
 佐祐理さんらしい用意周到さに感心しながら、満足げにうなずく俺。
 だったらその時は、名雪や香里も呼んで賑やかにやるかな……そんなことを思いながらお茶のおかわりをもらうと、一気に中身を飲み干す。
 それでようやくひと心地つくことができた俺は、改めて周りを見渡してみた。
 すぐ目の前には、重ねられたお重があった。
 その横には佐祐理さんお手製のクッキーの入ったバスケットと、たったいま飲み干したばかりのお茶が入ってるらしいドリンクポット。
 ここまでは、まぁよかった。
 公園で弁当を広げている現状、特に気になる類のものじゃない。
 でも、その先に鎮座ましましているクーラーボックスは、一体何なのだろう。
 釣りに来てるわけでもないのに……蓋が閉ざされたままのその中身が気になった俺は、膝歩きで近づいてみる。
「ふぇ……祐一さん?」
「え? ああ、これってなにが入ってるのかなって思ってさ」
 佐祐理さんに話しかけながら蓋を開けてみると……そこにあったのは、箱一杯に詰め込まれた氷の中に転がるワインの瓶だった。
「…………」
「……あ、あははーっ」
 開かれた蓋を手にしたまま、何となく黙り込んでしまう俺。
 横から覗き込んできていた佐祐理さんも、小首を傾げながらちょっと困ったように笑みをこぼすばかりだった。
「いるかと思ったから……」
 柏餅を食べ終えたらしい舞が、ぽつりと口を開く。
 なるほど、荷造り担当者はどうやら外で酒盛りをするつもりだったらしい。
 ため息をつきたくなるのを我慢しながら俺は、
「それで舞、参考までに聞いておくけど……ここにある四角い物体、俺の目には冷蔵庫に見えるのは気のせいか?」
「気のせいじゃない。それは冷蔵庫」
「これも必要かと思って、車に積み込んだわけだ」
 こくり。
「電気がないと動かないって、そうは思わなかったのか?」
「あははーっ。さっきふたりで一生懸命コンセントを探したけれど、見つからなかったんだよねーっ」
「失敗した。発電機も持ってくるべきだった」
 そう言う問題じゃないだろう……そんな言葉が喉まで出かかったけれど、どうにかぐっとこらえた俺は、一度は堪えたため息を漏らしながら視線をふたりから逸らした。
 すると少し離れたところで、俺たちと同様に食事の輪を広げていた子連れの夫婦と偶然目が合ってしまう。
 不思議なものを見るような、そんな眼差しだった。
 当然だろう。
 俺たちを包囲するように置かれた大小様々なオブジェの山を見て、これがピクニックに来ている風景だと思える方がどうかしている。
 バザー、もしくはフリーマーケット開催中の幟でも立てておいた方が、よほど説得力があるに違いなかった。
 無邪気に母親の腕の中から俺に手を振ってくる幼子に、愛想笑いを浮かべながら手を振り返した俺は、がっくりと肩を落としながら立ち上がる。
「俺、腹ごなしの散歩に行ってくるわ」
「ふぇ……お散歩ですか?」
「ああ。天気もいいし、辺りをちょいとぶらぶらしてこようかなって。そうだ、佐祐理さんも一緒に行かないか」
「佐祐理も一緒にですか? そうですねぇ」
 頬に手を当てながら、思案げに小首を傾げる佐祐理さん。
 すると、不意に舞が口を開いた。
「私が留守番してるから」
「え?」
「誰か残ってないと」
「うん。でも……」
「……平気。ちょうちょさん、見てるから」
 そう言って舞が指差した先には、彼女の言う通り何匹かの蝶が、菜の花の上を優雅な動きでひらひらと舞い踊っていた。
「そっか……じゃあ、お留守番をお願いできるかな。ごめんね、舞」
「行ってらっしゃい」
 小さく手を振って俺たちを見送る舞。
「あははーっ。行ってきまーす。さあ祐一さん、参りましょう」
「おぅ」
 うなずきながら俺は、樹と草で緑一色に染め上げられた広場を、佐祐理さんと肩を並べて歩き出した。
 少し行ったところで、遊歩道らしい砂利道に突き当たる。
 見れば道は、その先にある林の中へと伸びていた。
「あっち、行ってみようか」
「はい」
 足の向きを変えた俺たちは、遊歩道をのんびりとした調子で歩き続けた。
 やがてたどり着いた林は、風に揺れる木々のさわめきや小鳥のさえずりといった、穏やかな空気に満ちあふれていた。
 射し込んでくる木漏れ日の中を、さくさくと砂利を踏みしだきながら歩いてゆく。
「そう言えばさ」
 頭の後ろで手を組んで頭上を見上げながら、口を開く俺。
「ふぇ?」
「ずっと気になってたんだけど……車に乗ってる時さ、佐祐理さんってば結構余裕ありげな感じじゃなかったか?」
「あははーっ。そんなことありませんよーっ」
「そうかなぁ。俺なんて、舞がハンドル切るたびにいまにも事故るんじゃないかって、はらはらし通しだったんだぜ」
 実際あれは、下手な絶叫マシンに乗ってるよりもスリル満点だったと思う。
 佐祐理さんとの約束通り、あれから信号だけはちゃんと止まるようになったものの、運転の荒っぽさは相変わらずだったし、紙一重で衝突を避けたこともそれこそ両手で数え切れないほどあった。
 それでも無傷でたどり着いているのだから、反射神経の良さだけはほめてやるべきなのかもしれない。
 ただその前に、あのドライブマナーの悪さをどうにかするべきだったけど。
「余裕はありませんでしたけれど……でも、大丈夫だとは思ってました」
「そうなの? なんで?」
 あの状況で大丈夫だと思える根拠が思い当たらず、首を傾げてしまう。
 でもそんな俺にくすりと小さな笑みをこぼした佐祐理さんは、そして優しげに目を細めてみせると、
「舞のこと、佐祐理は信じていましたから」
 当たり前のことを当たり前に口にするように、穏やかな口調でそう言葉を紡いだ。
 その一言に、俺は何も返すことができなかった。
 舞のことを信じていた佐祐理さん。
 でも俺は……
「そっか。そうだよな」
「はい」
 正直、うらやましいと思った。
 舞のことを、そこまで信じることのできる佐祐理さんが。
 そして、佐祐理さんからそれだけの信頼を得ている舞のことが。
 それが子供が駄々をこねるに等しいくだらない嫉妬なんだってことは、自分でもよく分かっていた。
 我ながら女々しいよな……そんな自嘲的な思いがわき起こりもする。
 でも、佐祐理さんの言葉にはまだ続きがあった。
「それに……」
「え?」
 いつの間にか足下に落としていた視線を上げる。
 するとさっきと同様、穏やかな眼差しを浮かべた佐祐理さんは、
「祐一さんのことも、佐祐理は信じてますから。だから……そんな悲しい顔をしないでくださいね」
 そう言って、俺の手を優しく握ってくれた。
「……さんきゅ、佐祐理さん」
「あははーっ。どういたしましてーっ」
 掌を通して伝わってくる彼女の温もりが、言葉以上に俺の心の中に暖かな何かを感じさせてくれる。
 そして思う。
 この温もりを守るためにも、俺はもっと頑張らなくちゃいけないんだって。
 彼女の信頼を裏切らないために。
 大切な人の笑顔を、誰よりも間近な場所から見続けるために。

                  §

「……寝てるよな」
 覗き込むように顔を寄せながら、つぶやく。
 すると俺の言葉に、小さくうなずいた佐祐理さんは、
「あははーっ。そうみたいですねーっ」
 舞を起こさないようにと気遣ってか、ささやくような小声で返事を口にした。
 何だかんだでぐるりと公園を一周した俺たちが元いた広場へと戻ってきたのは、小一時間ほど経ってからのことだった。
 林を抜け野原に出たところで、遠目に舞の姿が見あたらないことには気付いていた。
 ただその時は、寝転がって間近で蝶の観察でもしてるのだろう程度に思っていたので、さほど気にはしていなかった。
 案の定、距離が詰まるとシートの上に身体を横たえている舞の姿が映し出される。
 年甲斐もなく何をやってんだか……内心で苦笑にも似た思いを抱きながら「おーい、舞」と手を振りながら俺は声をかけた。
 でもどうしてだろう、彼女からの返事はなかった。
 聞こえてないのだろうか。
 首を傾げながら佐祐理さんと顔を合わせ、なおも近づいてゆくうちに俺はようやく事情を理解した。
 そう、舞は寝ていたのだ。
 ぐっすりと。
 寝ているせいで警戒心が薄れているのか、彼女の周りを何匹かの蝶々が微風に揺られるようにひらひらと舞っていた。
 物音を立てないように気をつけたせいか、すぐ側まで近づいても舞は起きるそぶりすら見せることなく、木漏れ日が射す中をなおも小さな寝息を立て続けていた。
「いつから寝てたのかな」
「さぁ……でもきっと蝶々を見ているうちに、眠くなってきちゃったんでしょうね。お腹も一杯で、お日様もこんなに暖かいんですから」
「それもそうか」
 空を見上げれば、青空を漂う綿雲を従えながらこの陽気を現出させている太陽が、相も変わらずさんさんと日射しを降り注がせてきていた。
 ぽかぽかとしたその陽気に、俺まで眠気を覚えてしまいそうになる。
 確かに、午睡にはもってこいの環境に違いなかった。
 しばらくの間俺たちは、言葉を交わすこともなく舞の寝顔を見つめ続ける。
 きっと夢でも見てるのだろう、時折微妙に表情が変化したかと思うと、口からつぶやき混じりの小さな吐息が漏れた。
「……佐祐……理……」
「あははーっ。舞の夢に、佐祐理もいるみたいですねーっ」
 目が覚めればいつだって一緒のはずなのに、夢の中でもやっぱり一緒。
 うらやましいと言うか呆れると言うか……どんな時も佐祐理さんのことをまず第一に考える彼女の行動規範を考えれば、らしいと言えばらしいのかもしれない。
 でも、舞の夢に俺の居場所はあるのだろうか。
 勝手な言い草かもしれないけれど、夢の国でも出来ることなら彼女たちの側に俺の姿があることを信じたかった。
「……祐一……ダメ」
「ん?」
 舞の口から漏れた俺の名に、耳がぴくりと反応する。
 どうやら夢の中での出演許可を得た俺が、そこで舞と何かやらかしているらしい。
 にしても「ダメ」ってのは、一体……
 何となく邪な思いを抱きながらぼんやりと舞の表情を眺めていると、やがてわずかに眉根を寄せた彼女は、
「それ……私の唐揚げ……」
 何だと?
 もしかして、俺と食い物を取り合ってるのか。
 それにいまの台詞って、さっき食った昼飯の時に俺と最後の唐揚げを奪い合った会話そのまんまじゃないか。
 こいつ、夢の中でまだ飯を食ってるのか。
 しかも俺は悪役扱い。
 さすがにちょっと腹が立った。
 どうしてくれたものかと思案に暮れた俺は、すぐに名案を思いつくと近くに生えていた菜の花を一本折り取る。
「はい、佐祐理さん」
「ふぇ……これをどうするんですか?」
 小首を傾げる佐祐理さんに、俺は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、
「いつまでも寝かしとくのもなんだし、これで舞を起こしちゃってくれ」
「これで、ですか?」
「そ。その先っぽで鼻をこちょこちょと……」
「あははーっ。そう言うことでしたら佐祐理、頑張ってみますねーっ」
 佐祐理さんも俺の悪だくみに乗り気になってくれたのか、楽しげに表情をほころばせながら手にした枝を舞の鼻先に持っていく。
 そして触れるか触れないくらいの距離で、枝先を使って鼻をくすぐった。
 むずむずと舞の鼻が動く。
 よし、いい感じだ。
 俺は固唾を飲んで、舞の反応をじっと見つめ続けた。
「はぇー……なかなか起きませんね」
「いや、もうあと一息だ。頑張れ佐祐理さん」
 俺の応援に励まされてなおも佐祐理さんが鼻先をくすぐるうち、とうとう我慢の限界に達したのか、
「くちゅん」
 何とも可愛らしいくしゃみが、舞の口から発せられた。
 これで目が覚めるだろうと思った俺の予想は……でも、見事に外れた。
 ふにゅふにゅと口元をうごめかせたかと思うと、それきりまた穏やかな寝息を立て始めてしまったのだ。
「あははーっ。また寝ちゃいましたーっ」
「むー、手強いヤツ」
 どうやら更に強力な、次なる手を考える必要があるようだ。
 いっそ「全身くすぐりの刑」でもやってやろうかとも思ったけど、さすがにそれをやると洒落にならない気がしたのでやめた。
 と言うか、段々どうでもよくなってきた。
 舞じゃないけど、うららかな陽気に俺の方も眠気を覚え始めていた。
「なんか舞の寝顔見てたら、俺まで眠くなってきたよ」
 あくび混じりに俺がそう言うと、
「でしたら舞が起きるまで、みんなでお昼寝をしましょうか」
「そうだな」
 ごろんと横になりながら、佐祐理さんの提案に賛意を呈する。
 生い茂る枝葉の隙間から見える空はどこまでも高くて、冬の凛とした印象を覚える青さとは違った、どこか温もりをたたえた趣を見せていた。
「あ、そうだ。佐祐理さん」
「はい……きゃっ」
 声をかけられると同時に俺に腕をぐいと引っ張られた彼女は、そのまま俺のすぐ横でころんと横になる。
「……祐一さん?」
「枕、どうぞ」
 突然のことにびっくりしている彼女をよそに、俺は自分の左腕を目で指し示した。
「え、でも……」
「いいのいいの。その方が、俺も嬉しいから」
「ふぇー……そうなんですか?」
 ちょっと不思議そうな眼差しを浮かべながら、小首を傾げる佐祐理さん。
 そんな彼女に俺は、口元をゆるめながらうなずき返した。
「分かりました。じゃあ、そうさせてもらいますね」
 佐祐理さんの返答が耳を打つと同時に左腕が、そっと乗せられた彼女の頭の存在を、柔らかな感触と共に感じ取った。
 そのまま、ゆっくりと目を閉じる。
「祐一さん」
「ん?」
「佐祐理は……いま、とっても幸せです」
「どしたの、急に?」
 突然の佐祐理さんの言葉に俺は、空を向いたまま閉じていた目を見開く。
 すると視界の端に、微かに瞳を揺らしながら俺の横顔をじっと見つめる佐祐理さんの顔が見て取れた。
「あははーっ。なんとなく、言ってみたくなってしまいました」
「そっか……でも、まだまだだよ」
「え?」
 左腕の肘から先を持ち上げ、掌で彼女の髪を優しく弄ぶ。
 さらさらと流れるように伝い落ちてゆく髪の一本一本が、陽光をいっぱいに受け止めた温もりに満ちていた。
 俺の手の動きに、どこかくすぐったそうに目を細める佐祐理さん。
「春も夏も秋も冬も……これからは一年中を、楽しくて幸せな思い出だけでいっぱいにしてかなくちゃいけないんだから」
「…………」
「もちろん、三人でな」
 片目を閉じながら、最後にそう付け加える。
 ちょっと気障だったかな……自分で言っておいて何となく気恥ずかしさを覚えてしまった俺は、空を見上げたままそれきり黙り込んでしまった。
 しばらくの間、耳に聞こえてくるのは風に揺れる梢の音色ばかり。
 どれくらい経った頃だろう、シャツの胸元を掴んでいた佐祐理さんの手にほんの少し力が加わったのを感じ取ると同時に、
「……はい」
 ささやくような小声が、耳に届いた。
 ひとりで泣いて。
 ふたりで耐えて。
 三人で笑う。
 俺がいて、佐祐理さんがいて、舞がいて……その中で時の階段を一歩ずつ上っていきながら幸せになること。
 それが俺たちの願い。
 そしてこの腕の中に、幸せは確かに存在している。
 いまの俺には、それだけで十分だった。
Extra04 End

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