「……けどな、オレは琴音ちゃんの気持ちに応えることはできない」
その瞬間、わたしを取り巻く世界が凍りつく。
「オレは、困ってる琴音ちゃんを放っておけなかったんだ」
周囲を規則正しく流れていたはずの時間がゆっくりとその動きを緩め、やがてぴたりとその歩みを止めてしまう。
彼のその言葉は、わたしにとって考えもしない――いや、きっとその可能性を考えることを知らないうちに拒絶していたものに違いなかった。
それは一つの賭だった。
何年もの間ずっと、誰に対しても閉じられたままの心の扉。
閉じたのは、他ならぬわたし。
でもそれを閉じさせるように仕向けたのは……わたしを取り巻く無数の冷たく、そして突き刺すような視線だった。
畏怖、恐怖、忌避……。
ある日、何の前触れもなくわたしの中に芽生えた不思議な能力。
それを目の当たりにした誰もが最初は疑わしそうな眼差しで、そしていつしか上辺だけの笑顔を浮かべるようになっていた。
好奇心だけは隠せないままに、でも自分には決して累が及ぶことがないよう距離を置いて、無言で幾重にも取り巻く人の輪。
パパやママでさえ、その例外じゃなかった。
どれだけ手を伸ばしたとしても、その手を握り返してくれる人は誰もいない。
周りの人たちが、陰でわたしのことを「疫病神」とそう呼んでいることにも、いつの頃からか気がついていた。
避けられ、嫌われているわたし。
だから……心を閉ざした。
そうすることでしか、わたしがわたしでいることができなかったから。
そうすることでしか、周囲と折り合いをつけながら生きていく方法がなかったから。
でもいま、ずっと固く閉ざしたままだと信じていたはずの扉をわたしは、自分の意志で開こうとしている。
ただひとりの男性のためだけに、わたしは扉を開く決心をした。
誰からも嫌われ避けられていたわたしに、上辺でない本心からの笑顔を浮かべてくれ、そして孤独と絶望の淵に沈むわたしをそこから救い出そうと一生懸命になってくれた――藤田さんのためだけに。
扉は、開かれた。
そして恐る恐る開かれた、かすかな隙間からのぞき見えたのは……藤田さんの、優しい微笑みだった。
この人だったら……そう思いたかった。
信じたかった。
だからこそ賭けたのだ。
いま、この時に。
でも……。
わたしは、藤田さんにお礼を述べる。
「ありがとうございます。わたしのために、そこまでしていただいて……」
それが、いまのわたしが藤田さんに見せることのできる精一杯だった。
「琴音ちゃん……」
わたしの名を口にする彼の声が、鼓膜を通して体中に広がってゆく。
彼の背中に回していた、手の力を緩める。
制服越しに伝わってきていた、藤田さんの身体の温もりが失われ、そしてこの世界の中にひとり孤独に佇むわたし。
身を震わせるような寒さが、襲いかかってきた。
その悪寒に必死に耐えながら、わたしはその場からゆっくりと立ち上がる。
俯かせていた顔を上げると、目の前にある藤田さんの双瞳がわたしの身体を気遣うかのように、軽く揺れ動いていた。
心にちくりと、針を刺したような痛みを覚える。
もう一度、彼の胸の中に飛び込みたい……そんな衝動に駆られてしまうが、わたしはそれをすんでの所で抑え込んだ。
わたしにはもう、その資格はないのだ。
一度目を閉じて、そして視界の中から藤田さんを含む世界の全てを一度消し去ってしまう。
途端、暗闇に覆われた世界が現れた。
そこはわたしのような人間が住まうべきとされた、全てから隔離された暗くそして寒々とした鳥籠だった。
胸の前で合わせた手を、きゅっと握り締める。
勇気が欲しかった。
最後のわがままを彼に向かって口にするだけの、ほんの少しの勇気が。
どれくらいそうしていただろう、わたしは閉じていた目をゆっくりと見開く。
そして、
「でも、藤田さんのこと……好きでいても、いいですよね」
かすれるような小声で、ぽつりと呟いた。
その瞬間、藤田さんの表情がはっと強張る。
もしかするとその申し出すら、彼にとっては迷惑この上ないものだったのかもしれない。
でもわたしは、諦めることができなかった。
全てを捨て去ることは不可能だった。
だってそうすることは、もう一度わたしがあの鳥籠の中に戻ることを意味していたから。
もう……あそこには帰りたくなかった。
そして藤田さんは、わたしがここに居続けるためには決して失うことのできない、わたしにとって唯一の、大切な絆だった。
そんなことを思ううちに、強張っていた彼の表情がやがてふっと緩まり、そして小さく微笑みを浮かべる。
それを見て、わたしは内心で小さく安堵の吐息をもらした。
まだ、大丈夫。
まだ……ここで生きていける。
「わたしの不幸を払っていただいて、ありがとうございます。ご恩は、一生忘れません」
それだけを言うと、そっと足を踏み出す。
ゆっくりと藤田さんの傍らを横切り、そして廊下へと続く教室のドアに手をかけた。
これ以上、ここにいるべきではなかった。
心の中のもう一人のわたしが「彼の側に居続けたい!」そんな叫び声を上げている。
でもわたしはありったけの力で、それを抑え込んだ。
だってここに居続けることは、藤田さんをただ困らせるだけだということを、いまのわたしは知っていたから。
「琴音ちゃん。身体……もういいのか?」
心配そうな声が、背中に届く。
その瞬間、無意識に身体が小さく震えてしまった。
こんな……こんなわたしのことを、それでも藤田さんはまだ気にかけてくれている。
そう思った途端、自然と瞳が熱くなってきてしまっていた。
ごめんなさい、藤田さん……わたしは……。
そんな言葉にならない言葉を、口中で小さく紡ぐ。
数瞬の間、わたしはそれを彼に言うべきかどうか迷い、
「……ごめんなさい。わたし、藤田さんのこと誘惑してました」
ようやくのことで、それだけを口にする。
もう、何も言えなかった。
これ以上何か口にしようとすれば、次にわたしの口からこぼれてくるのは間違いなく、嗚咽しかなかった。
その思いを証明するように、まるで染みが広がるように涙で滲み始める視界。
それきり言葉を紡げないまま、ゆっくりとした動作で廊下へと身を乗り出したわたしは、後ろ手でドアを閉じようとする。
その時、藤田さんの声が再度流れてきた。
「ごめんな。琴音ちゃ……」
その言葉を、わたしが最後まで聞き届けることはなかった。
ドアが閉じられる硬質な音と同時に彼の声は遮られ、そして次の瞬間、身体が命ずるままに廊下を走り出すわたし。
口許を両手で覆う。
涙が頬を止めどなく伝い、手で抑えているせいでくぐもりがちな嗚咽も、廊下に小さな残響を残しては、やがてかき消すように消えていった。
足音だけが、人気の無い廊下に響き渡る。
途中、何度となくバランスを崩して倒れそうになったが、それでもわたしは走り続けた。
いまはただ、少しでも藤田さんから離れたかった。
彼の姿も、声も、その存在すら感じることのないどこか遠くへ、一刻も早く行きたかった。
そして思い切り、誰に遠慮することなく泣きたかった。
明日は笑顔で会えるだろうか。
昨日と同じように、話すことができるだろうか。
今日という、わたしにとっては悲しいばかりの思い出を乗り越えて、果たして昨日より以前の関係に戻れるのだろうか。
戻らなければならなかった。
それは、わたしがここでわたしとしてこれからも生き続けてゆくために、欠くことのできないものなのだから。
胸の中を、そんなとりとめのない思いが浮かんでは、消えてゆく。
優しく、そして暖かく包み込んでくれる「お兄ちゃん」としての藤田さんと、その優しさに甘える「妹」としてのわたし。
選ぶことの許された、たった一つの立場がそれだった。
全ては……そこから始まった。