その日の目覚めは、あまり良くなかった。
不安定な、自分自身の存在感。
次の瞬間には、誰の記憶に残ることもなく消えていってしまうような、そんな言葉にはし難い不安をかき立てる眠りの中に、わたしはいた。
目に映るもの全てが、まるで深い海の底にいるかのように暗く透き通った蒼さで埋め尽くされている。
その中を、ゆらゆらと漂い続けるわたし。
手を伸ばしても指先に触れるものは何もなく、どこか粘り気のようなものを感じさせる空気を、ただ虚しくかき分けるばかり。
ここはどこなのだろう……ふと、そんな疑問が浮かび上がってくる。
同時に漠然とした不安が心の中をよぎる。
その途端、温かな何かに優しく抱かれているような安らぎがわたしの中に芽生え、たったいま生じた不安を心の奥底へと押しやっていった。
暖かい……。
一度目を閉じ、わたしは全身に広がる暖かく、そして優しい感触にその身を任せる。
刹那、それは現れた。
目を見開くといつの間に姿を現したのか、細い紐のような何かが、わたしの前を足元から頭上に向かって伸びていくのが見て取れた。
ゆらゆらと不規則な動きを見せ続けるその何かは、ひどくゆっくりとした足取りで、一体どこへ向かおうとしているのだろう。
目を凝らし、それが何なのかを確かめようとしてみる。
よく見ればそれは、二本の細い紐から成り立っているらしかった。
紐たちは、まるで互いに手を取り合うようにその身を捻らせ、そして綺麗な螺旋を描きながら遙か高みに向かって進み続けている。
どこまでも伸びてゆこうとするそれが、わたしには誰かの手によって作られた螺旋階段のようにも感じられた。
いつしか言葉を発するのも忘れて、わたしはその紐が織りなす幾何学的な動きをじっと見つめ続けていた。
でもそれが何を意味しているのかを思い出すことはできなかった。
意識の奥底のどこかが、まるで霞でもかかっているかのようにぼんやりと濁り澱んだ感覚。
何の前触れもなく視界に再度の変化が訪れたのは、その時だった。
どこか田舎のものとおぼしき、駅のホーム。
そして次の瞬間、列車の発車ベルが激しく鳴り始める。
金属質な、神経を逆撫でする不愉快な音。
そんなことを思ううち、気がつくとわたしは幻想の世界から現実への帰還を果たしていた。
最初に感じたのは、頬に当たる陽射しの暖かさだった。
そして、柔らかな布団の感触。
そう……わたしがいま目の当たりにしていたのは、夢だった。
微睡みから未ださめやらぬぼんやりとした頭のまま、布団からのぞかせた首を巡らせる。
するとベットの傍らのテーブルに置かれた古ぼけた目覚まし時計が、けたたましい金属音を四周に放っているのが見て取れた。
その時計は、古木から削り出されたらしい年季を感じさせる木枠に、文字盤を含めた機械部分がはめ込まれるような形になっている。
数瞬の間、瞳がその姿を捉え続ける。
そしてようやく、わたしは目を覚ます直前に聞いた発車ベルが、時計から発された目覚ましの音だったことに気がついた。
自然と、口許が緩む。
ゆっくりとベットの中から手を指し伸ばしたわたしは、目覚ましのスイッチを止めた。
かちり、何かが切り替わるそんな音が聞こえた気がした。
途端、室内の喧噪は嘘のように治まり、代わって雀のものらしいさえずりが耳に流れ込んでくる。
穏やかな、朝の風景の訪れだった。
「……ふぅ」
小さくため息をつきながら、ベッドの上で半身を起こす。
窓からは穏やかな秋の日差しが、下ろされたカーテン越しに室内へと差し込んできていた。
今日も良い天気らしい。
一週間の始まり――月曜日にしては上出来な部類の天気だった。
季節は秋。
二学期が始まってから、既に一ヶ月以上が経っている。
衣替えも十日ほど前に済ませ、陽射しは徐々に秋の色合いを濃くしつつあった。
ベットから抜け出して窓際へと歩み寄ると、カーテンを開け放つ。
その途端、澄んだ蒼空にぽっかりと浮かぶ太陽が、慈しむような暖かさを伴った陽光をわたしに向かって投げかけてきた。
その眩しさに目を細めつつ、しばらくの間じっとその場に佇む。
わたしが窓辺から身を翻したのは、それから一分ほどの時が経ってからのことだった。
そして改めて目をテーブルの上にある時計に向けると、針は七時を少し過ぎたあたりを指していた。
針の位置を確認するうちに、ふとわたしの中に疑問が生じる。
いつからそんな習慣を持つようになってしまったのか、目覚ましが鳴り出す少し前に目を覚ましてしまうのが、わたしにとってのごく当たり前の朝の始まりだった。
でもどうしてか今日に限って、わたしは目覚ましの音で目を覚ましていた。
……どうしてだろう?
小首を傾げながら、わたしはその疑問の答えを見出そうとする。
そして何の脈絡もなく、ついさっきまで見ていた夢の情景を脳裏に思い浮かべてしまう。
それは子供の頃から、時折見る夢だった。
螺旋を描きながら、遮るものひとつない空間をどこまでも伸びてゆく二本の紐。
本当に、ただそれだけの夢だった。
何度となく見る夢なのだから、きっと何か意味があるのだろう……そう思ったりもするけれど、その意味をわたしは未だに知ることができなかった。
夢はよく無意識の象徴と言われるが、この夢もわたしの無意識が生み出した、さしたる意味
のない夢にすぎないのかも知れない。
螺旋の……夢。
そこまで考えてから小さくため息をつき、軽く頭を振って体内からその思いを振り払う。 いつもより起きるのが遅かった上に余計なことを考えてしまったせいで、朝の支度が遅れていた。
お弁当を作っている時間は、ないかもしれない。
「急がないと……」
ひとりごち、そんな呟きをもらす。
そして壁に備え付けられているクローゼットの扉を開け、中から制服を取り出すとそれを壁に掛ける。
まだ衣替えからいくらも日が経っていないせいか、殆どシワのないそれは下ろしたての真新しさを強く感じさせていた。
わたしは、着替えるためにパジャマのボタンに手をかけた。
§
藤田さんの後ろ姿を視界に収めたのは、あと一息で学校という坂の途中でのことだった。
ちらりと腕時計を見る。
始業まで、まだ十分ほどあった。
時間的な余裕については藤田さんも先刻承知のことなのだろう、それは彼の歩くペースの遅さからもすぐに見て取れた。
でも彼の傍らに佇む人影を認めた瞬間、わたしはその考えを否定する。
一人の小柄な女生徒が、藤田さんと肩を並べてゆっくりとした足取りで歩いていた。
肩口より少し先まで伸ばした髪を、おさげで左右に編みわけているその人は、時折顔を上げては藤田さんに向かって二言三言、何かを口にしている。
そして少し目を細めながら微笑みを浮かべては、視線を元に戻す。
彼女が誰なのか、わたしは知っていた。
神岸あかり――それが彼女の名前だった。
藤田さんと同じクラスの彼女は、同時に物心ついて以来の幼なじみだった。
幼稚園から高校まで、同じ時と同じ場所を過ごしてきた二人。
朝、二人が一緒に登校している姿を見かけることもしばしばで、何かの折りに「どうやら二人はデキているらしい」そんな噂を耳にしたこともあった。
かくいうわたしも、前に同様な疑問を抱いたことがある。
それは半年ほど前――入学から間もない四月の、まだ藤田さんと出会って間もない頃のことだった。
二階の階段前で藤田さんの姿を偶然見かけたわたし、
その時彼は、神岸さんが手にしたハンカチで口許を拭いてもらっていた。
どこか照れ臭そうにじっとその場に佇む藤田さんと、見るからに嬉しそうに彼の世話を焼く神岸さん。
その光景をわたしは、少し離れた場所から言葉なく見つめていた。
「……あの、さっき一緒にいたひと、藤田さんが……その……お付き合いなさってる方なんですか?」
そう遠慮がちにわたしが切り出したのは、藤田さんに誘われるままに購買部へと向かって歩いている途中でだった。
言いかけて、その度に躊躇してしまう……そんなことを何度か繰り返した後に、ようやく紡ぐことのできた言葉。
「さっきのひとって、あかりか?」
「あかりさん……っていうんですか……」
ちょっと唐突すぎる質問だったのかもしれない。
小首を傾げながらわたしの方に目を向ける藤田さんを見て、ふとそう思ってしまう。
穏やかで、そして冬の木漏れ日のような暖かさを感じさせる――わたしは神岸さんに、そんな第一印象を抱いていた。
「つき合ってるかっていうのは、あいつがオレの彼女かってことだろ?」
「……はい」
わたしは小さく頷き、そして藤田さんの次の言葉を待った。
いつの間にか理由も分からないままに、胸の鼓動が早まり始めていた。
……どうしてだろう?
その胸の高鳴りは、わたしにとっても意外なものだった。
一体、何を期待しているのだろう。
初めて出会ってからせいぜい一週間の藤田さんに、わたしはどんな感情を抱こうとしていると言うのだろう。
「そりゃ違うって」
そう言う藤田さんの声音は、ひどく冷静なものだった。
自明の理とでも言わんばかりの、そんなあっさりとしたその言いように、わたしはかえって拍子抜けしてしまう。
「……そう……なんですか?」
「ああ、オレとあかりは、ただの幼なじみさ。まあ、言ってみりゃ家族みたいなもんかな。一緒にいるのが普通なんだ」
「そんなふうですね」
内心の安堵を隠しきれないまま、わたしは床に視線を向けたままそう答える。
不思議だった。
わたしの中で、自分でも理解し難い能力が姿を見せたのは、小学五年の……十一歳の誕生日を迎える少し前の頃のことだった。
その頃もう、パパとママの関係は冷めきっていた。
そしてわたしが初潮を経験すると同時に芽生えたものこそが、周囲の人たちの様々な不幸を予知してしまう――あの頃はそうだと信じ切っていた――いわゆる「超能力」と称される能力だった。
でもそれは他人の不幸だけでなく、結果としてわたし自身にも不幸を招き寄せる、呪われた能力に他ならなかった。
確実に訪れる不幸を予知してしまうその能力に周囲の人々は驚き、いつしか恐れの感情を抱き始める。
初めのうちこそ「超能力を持ってるなんて、琴音ちゃんってすごいんだね。テレビの魔法使いみたい」そう、笑いながら言ってくれた友人も気がつけば一人、二人と去ってゆき、そして最後には孤独だけが残った。
中学に進んでからも、状況は何も変わらなかった。
最初に噂が広がり、そして程なくそれが事実であることを知った誰もが、見えない壁でもあるように、いつしかわたしを遠巻きに見つめるようになる。
誰だって望んで不幸にはなりたくない……つまりはそういうことだった。
そのことを自分なりに理解してから、わたしは周囲の誰に対しても心を閉ざし、できる限り他人とは関わりを持たないよう努めてきた。
そんなわたしが、藤田さんにだけはどうしてか心を開こうとしている。
入学時、噂で聞いたのだろうわたしの能力に好奇心を刺激された人たちは、最初こそ物珍しげな様子でわたしに近づいてきた。
でもその能力が本物であることを我が身をもって知らされた時、誰もが遠巻きにわたしのことを見つめやるばかりの存在と化していった。
彼らは、かつて中学のクラスメイトたちがそうだったように、陰でわたしを「疫病神」と呼んでいるらしかった。
藤田さんにしてもきっと、わたしの噂をどこかで聞いているはずだった。
それなのに彼は、何の屈託もなく声をかけてくれた。
そのことが、素直に嬉しかっただけなのかもしれない。
ただそれだけのことなのだ……わたしは自分にそう言い聞かせ、ともすれば甘く儚い夢を抱こうとする自分を抑えようと努力した。
いま思えばあの時既に、わたしは藤田さんに恋をしていたのかもしれない。
でも……その想いは届かなかった。
わたしの告白に藤田さんは、どこか寂しげな表情を浮かべながら静かに首を横に振るばかりだった。
「オレは、困ってる琴音ちゃんを放っておけなかったんだ」
耳元で紡がれた藤田さんのその言葉が、いまも胸に重く響く。
そこにあったのは愛情ではなく、同情だった。
呪われた能力と、それがもたらした孤独に苛まれているわたしを、見るに見かねての優しさだったのだ。
藤田さんに罪はない。
悪いのは、彼のその優しさを愛情と勘違いしてしまったわたし自身。
そしてわたしは「恋人としての二人」ではなく、あくまで「兄と妹のような存在」としての立場にその身を置くことを受け入れた。
もしかするとそれは、卑怯な選択だったかもしれない。
未練がましいと言われれば、返す言葉はなかった。
でもわたしの中に確かに存在し、そして常に渇き続けている心の一部が、藤田さんの全てを失うことを拒絶していた。
だからわたしは……。
§
「……琴音ちゃん?」
その声は、間近からわたしの耳に流れ込んできた。
俯かせたままの顔を慌てて上げると、目の前でひらひらと手を振る藤田さんの姿が飛び込んでくる。
驚きの余り、思わず一歩後ずさってしまう。
「きゃっ。あ、あの……」
わたしのそんな様子が可笑しかったのか、心配そうな色を見せていた彼の顔つきに、不意に笑みが宿された。
「どうしたんだよ、琴音ちゃん。ぼーっとして」
「え? わ、わたし……」
「何か……思い詰めた顔して足元見ながら、俺たちの横を通り過ぎようとするから、ちょっと心配したぜ」
その言葉でようやくわたしは、物思いに耽るうちに、いつの間にか藤田さんたちのことを追い越そうとしていたらしいことに気がつく。
無意識のうちにしでかした自分のそんな行動に、恥ずかしさのあまりつい顔が熱くなってきてしまう。
「ご、ごめんなさい……」
「なあ。どっか身体の調子でも悪いのか?」
そう言いながら、藤田さんはその大きな手を伸ばし、わたしの額に当てる。
……藤田さんの手が、わたしの肌に触れている。
内心を駆けめぐるその思いは、気がつくといつしかわたしの身体をより一層熱くしてしまっていた。
「ん〜? 何か熱っぽいような気もするな……」
そのことを知ってか知らずか、藤田さんは小首を傾げながら彼の手のひらへと伝わっているだろう、わたしの肌の温もりを感じ続けている。
「あ、あの……わたし、大丈夫ですから。病気じゃ、ありません……」
「そうか?」
恥ずかしさの余り何度か言い淀みながらも、ようやくそれだけを口にする。
藤田さんは、まだ少し心配そうな表情を浮かべながら額から手を離し、そして今度はわたしの頭をぽんと優しくたたく。
そして膝を折って、目線をわたしに合わせながら、
「でも気分が悪いと思ったら、すぐ保健室に行くんだぞ。オレだったら、いつでも付き添ってやるからさ」
「……はい。ありがとうございます」
「ん。よし」
にっこりと、満足そうな笑みを浮かべる藤田さん。
その屈託ない笑顔にわたしの胸は無意識に高鳴り始め、そして同時に相反するような寂しさを伴った感情を芽生えさせる。
五月二日――あの日から、どこにも行く場所を失ってしまった彼への想い。
藤田さんを残して教室から駆け去ったその翌日、わたしは学校を休んだ。
失恋のせいで、気分がすぐれなかったというのは本当のことだった。
でもそれ以上に、一体どんな顔をして藤田さんに会えばいいのか、それが分からなかったのが学校を休んだ一番の理由だった。
わたしの方でどれだけ彼に会わないように努力をしても、同じ校内のことどこかでばったり会ってしまう可能性はある。
その時、藤田さんはどんな表情を浮かべるのだろう。
何を言ってくれるのだろう。
もし見るからにバツの悪そうな、困ったような顔を浮かべられたら……それはわたしにとって、想像もしたくもない未来の情景だった。
不幸中の幸いとでも言うのだろうか、藤田さんたち二年生はゴールデンウィークが明けてからすぐに修学旅行を控えていて、そのお陰でわたしには心の準備をするための一週間の猶予が与えられた。
そして登校したわたしを待っていたのは、いままでと何ひとつ変わらない生活だった。
不幸の予知の能力を恐れて話しかけてくる人もなく、そしてわたしもそれをごく当然のことと受け止めていたつもりだった。
何の気兼ねなく声をかけてくれた唯一の人だった藤田さんも、いない。
藤田さんのいない一週間。
その間、わたしの中を漂い続けていたのは安堵と不安の、そんな相矛盾する思いだった。
そして月曜日。
わたしの不安は、結局杞憂に終わった。
一時間目と二時間目の間の休み時間に、わざわざ教室まで来てくれた藤田さんは、わたしの手のひらにお土産のキーホルダーを乗せながら、
「久しぶり。元気だったか、琴音ちゃん?」
そう言って、笑顔を浮かべて見せてくれた。
藤田さんのその微笑みは、わたしにとってはどんなものとも引き替えにできない、大切なものだった。
でもそれは、決して「愛する者」に浮かべてくれた笑顔じゃない。
あくまで「妹」にすぎない存在に向けられたものだった。
喜びと悲しみに一喜一憂し、引き裂かれてゆくわたしの心。
それは過去の思い出と未来への淡い期待がせめぎ合いながら、複雑な波紋を生み出してゆく過程に他ならなかった。
「……浩之ちゃん」
少し遠慮がちに、藤田さんの名を呼ぶ女性の声。
見れば、数歩分距離を置いた場所からわたしたちの様を見つめていた神岸さんが、その声の主だった。
「ん、なんだ?」
首だけを向けながら、返事を返す藤田さん。
「このままずっと立ち話してたら、わたしたちみんな遅刻だよ。ほら始業まで、あと三分しかないよ」
「へっ? げげっ、ホントだ」
時間を確認して、神岸さんの言葉の正しさを確かめた藤田さんが声を上げる。
そして突然にわたしの手を掴むと、
「琴音ちゃん、走るぜ」
「あ……はい。きゃっ!」
そのまま藤田さんに掴まれた側の腕を引っ張られるような形で、わたしは彼の後を追って走り出した。
一度、神岸さんの前で立ち止まった藤田さんは、
「ほれ、あかり。行くぞ」
「う、うん」
周囲にちらほらと散見された他の生徒たちも、わたしたちが走り出したことで時間に余裕がないことに気がついたのか、足早で校門へと向かい始める。
初秋の涼しげな空気が、頬を流れるように去ってゆく。
そして掴まれた手から伝わる彼の温もりは、駆けていることも相まってわたしの鼓動をどうしようもなく高めていくばかりだった。
§
「おはよう、姫川さん」
教室に入ったとき、幸いなことにまだ先生は来ていなかった。
ざわめきに包まれた教室。
それは、ごくありふれた日常の光景だった。
そして教室の後ろ側のドアから中へ、少し遠慮がちに身体を滑り込ませたわたしを目ざとく見つけたクラスメイトの一人が、振り返りながら「おはよう」と声をかけてくる。
「お、おはよう」
「どうしたの、今日は? 姫川さんがぎりぎりセーフだなんて、珍しいね」
「え、ええ……」
もう半年近く前になる五月のあの日、藤田さんのお陰でわたしが持っていた超能力が「予知能力」ではなく実は「念動力」だったと判ってから、わたしが不幸の予知能力をすることはなくなった。
そしてそのことは、クラスの中のわたしに対する雰囲気を、微妙に変えていった。
最初は、恐る恐ると言った感じだった。
仕方がないことかもしれない。
わたしは、わたしの能力のためにみんなに迷惑をかけていたのだから。
たとえ無意識のなせる技だったにしても、犯した罪がそれで消えてしまう訳ではない。
わたしは素直に自分の非を認め、真実を語り、そして謝罪した。
最初は誰もが、半信半疑の眼差しをわたしに向けるばかりだった。
でもそれから日々が何ごともなく流れ、わたしの不幸の予知がなくなったことが事実だったらしいことが確かめられるにつれて、クラスの人たちはわたしに――遠慮がちにではあったけれども、少しずつ笑顔を浮かべてくれるようになった。
朝の、何気ない挨拶。
授業中の、教師の目を避けながらの雑談や筆談。
昼休みに中庭で開かれる女生徒たちの談笑。
そして放課後に友人と連れ立っての下校……校内での様々な人の輪の中に、わたしは少しずつではあったが、その身を置くことができるようになっていった。
いま声をかけてくれた彼女も、以前はわたしを避けていた生徒の一人だった。
「ちょっと、道で話し込んでいたから……」
曖昧な返事。
でもわたしのその言葉に何を思ったのか、不意に悪戯っぽく目を細めた彼女は、
「ふふっ、知ってるわよ。二年の藤田先輩とでしょ?」
「え、えっと。それは……」
「いいから、いいから。後学のために、今度どれくらい進展してるのか教えてね」
そしてわたしはと言えば、彼女に向かってどうとでも取れる曖昧な笑みを浮かべるだけで精一杯だった
「あ……それはそうと、昨日のカラオケ楽しかったわね」
「え?」
思わずそんな、疑問とも驚きともつかない声を発してしまうわたし。
それは唐突に話題が変わったことへの戸惑いもあったが、それ以上にわたしを困惑させたのは、彼女が口にした話題そのものだった。
「……カラオケ?」
「やだぁ、姫川さんたら。何びっくりした顔してるの? 昨日学校の帰りに、みんなと一緒に行ったじゃない」
「みんなと……一緒に?」
わたしは、オウム返しに彼女の言葉を反芻する。
「ええ、そうよ。姫川さんが、あんなに歌が上手かったなんて全然知らなかったよ。ノリだってすっごく良かったし。みんな驚いてたよ」
続けて紡がれたその言葉は、わたしの心をさらにかき乱すばかりだった。
昨日クラスの誰かと一緒にカラオケに行った記憶など、わたしの中のどこにも残されてはいなかった。
それなのに、彼女は当然のような口振りでそれを話す。
必死に昨日までの記憶をさらってみる。
でも昨日からも一昨日からも、そしてそれ以前の記憶のどこからもわたしの求める答えを見出すことはできなかった。
いつしか焦りにも似た何かが、胸の奥からわき起こり始めていた。
「どうしたの、姫川さん。何か、顔色がよくないよ。気分でも悪いの?」
「え? ええ、大丈夫。……ごめんなさい」
そして次の言葉を口にしかけたとき、教室に先生が入ってくる。
「あっと、先生来ちゃった。それじゃ、また後でね」
そう言うと彼女は慌てて視線を逸らし、前に向き直ってしまった。
どこか戸惑いの思いを隠しきれないまま、それでもわたしは早足で窓際の列にある自分の席へと向かう。
「それじゃ出席を取るぞ。相場、浅川……」
先生が出席を取り始めるのと、わたしが席に座るのとはほぼ同時だった。
そしてカバンの中から手早くペンケースと教科書、そしてノートを取り出し、それを机の中に入れる。
今日は月曜日だから、確か一時間目は数学のはずだった。
そう思った途端、少しだけ嫌な気分になる。
元々数学は苦手だったし、以前例題を当てられた時に答えを間違えて、先生から嫌みを言われたことがあったからだ。
……また当てられたら、嫌だな。
視界がかすかに――まるで水面が波立つように揺れるのを感じたのは、心の片隅でそんなことを思ったときだった。
「……欠席者はなし、と。よーし。じゃあ、今日はこないだの続きからだな。教科書の七十六ページ三行目。杉元、読んでみろ」
ノートを開きながら、手にしたシャーペンの芯をカチカチと伸ばす。
そして指示された教科書のページを開いたときになって初めて、わたしはおかしな事実に気が付いた。
指示されたページは、一学期に終わっているはずの場所だった。
どういうことなのだろう。
先生が何か勘違いをしているのだろうか。
でもクラスの誰一人としてそのことに気付いている様子はなく、ごく普通の表情で教科書に目を落としていた。
もしかしてクラス全員で、先生が時間割の勘違いしているのに乗じて悪戯でもしようとしているのだろうか。
でもわたしの想像は、席を立った男子生徒が教科書を読み始めた瞬間、破られた。
「っと…… "The genre of alternative history extrapolates changes in historical events farther into the future.In addition……"」
「……え?」
それは間違いなく、英文だった。
そこまで思い至ってから初めて、いま教壇に立っているのが数学ではなく英語の教師だということに気がついた。
見れば教室内の誰もが、英語の教科書を開いている。
もしかしたら、先生が教室を間違えたのかもしれない。
そして同時に、クラスのみんなは先生の勘違いにとっくに気がついていて、その上で彼をかつごうとしてるのかもしれない……さっきちらりと考えたそんな想像が、再び脳裏に浮かび上がってくる。
授業中の静謐に包まれた中、わたしはなおもそう考えることで、自分が間違っているという結論から目を逸らそうとした。
でもそんなとき、大抵どこからともなく漏れ聞こえてくるはずの忍び笑いはどこからも聞こえず、ページをめくる音とシャーペンの芯が紙をこする硬質な音が耳に流れ込んでくるばかりだった。
ことここに至って、わたしはようやく自らの過ちに気づく。
間違っていたのは先生でもなければクラスの皆でもなく、他ならぬわたしの方だったのだ。
……でも、どうして?
月曜日の一時間目は、間違いなく数学のはずだった。
もしこれが先生の間違いでもクラスのみんなの悪戯でもないとしたら、あとは時間割が変更になったとしか考えられなかった。
でも今日の時間割が変更になったという話を聞いた記憶は、どこにもなかった。
焦りにも似た思いが全身にじわじわと広がっていくの内心で感じながら、わたしは隣の席の女生徒に声をかける。
「あの……」
「ん〜? なぁに?」
髪をいじりながらつまらなそうな顔つきで教科書に目を落としていた彼女は、そこからつっと顔を上げると、横目で視線を向けてくる。
「今日、時間割の変更とかありました?」
「え、どうして?」
少し不思議そうな顔つきで、彼女は首を傾げて見せた。
「今日の一時間目って、確か数学でしたよね?」
その言葉は、相手の表情をますます複雑なものに変えてゆく。
その表情からは、彼女の「あなた、何言ってるの?」そんな言外の言葉をありあり窺うことができた。
やっぱり、わたしの方が何か思い違いをしているのだろうか。
時間割の変更は先週のHRで連絡済みので、ただ単にわたしがそのことを忘れてしまっているだけなのかもしれない。
「確か英語の授業って、今日は三、四時間目ですよね?」
そう言ってから、わたしは月曜日の時間割を脳裏で思い起こす。
一時間目、数学……二時間目、日本史……そして、三時間目と四時間目が英語……。
間違いない。
月曜日の時間割は、わたしの記憶では確かにそうだったし、特別な理由でもない限りそれが変わる理由はどこにもなかった。
わたし固唾を呑んで、彼女の口がゆっくりと開かれるのを待つ。
でも彼女が発した言葉は……わたしが待ち望んでいたものではなかった。
同時に、もしかしたらと考えもした勘違いの範疇にすら含まれることのない、想像の埒外のものだった。
「どしたの、姫川さん。もしかしなくても……寝ぼけてる?」
「……え?」
「だって月曜日の一時間目って、四月からずっと英語のままだよ。それに数学の授業があるのは明日――火曜日だよ」