溢れんばかりの人混みを前に、思わずため息をもらしてしまう。
お弁当を持ってくるのを忘れてしまったせいで、仕方なしに食堂へ向かったわたし。
でもカウンターに延々と列をなして立ち並ぶ生徒たちの姿は、食堂で昼食を取ろうと思っていたわたしの意気を挫くのに、十分なものだった。
「……琴音ちゃん?」
わたしを呼ぶ声がしたのは、その場から身を翻しかけた時だった。
いつの間に現れたのか、すぐ側で紙袋を抱えながら佇む藤田さんの姿が目に留まる。
「藤田さん。えっと……こんにちは」
「琴音ちゃんも、パン?」
「はい……。今日は、お弁当を忘れてしまったので……」
小さく首を縦に振りながら、わたしは答える。
「でもなぁ、いまからパンを買うのって大変だぜ。食堂で、定食か何かでも食べた方がいいんじゃないか?」
「はい。わたしも、最初はそう思ったんですけど……」
語尾を少し濁しながら、わたしは改めて食堂のカウンターの方に目を向けた。
つられるように藤田さんも、視線をそちらに向ける。
そして瞳に映し出された光景に、どこか呆れたような口調で、
「うわちゃ〜。久しぶりの満員御礼だな、ありゃ」
「……うん。食堂があれだけ混んでるっていうのは、珍しいね」
「国技館だったら、いまごろ垂れ幕が出てるぜ、ありゃ」
「……?」
小首を傾げるわたしをよそに、藤田さんとその傍らに立つ、彼より頭一つ分くらい背の低い男子生徒が会話を始める。
確か藤田さんと同じクラスのお友だちで、名前は……佐藤雅史さん。
佐藤さんはわたしと目が合うと、少し目を細めながら微笑みを浮かべてくれる。
わたしは無言で、ぺこりとお辞儀を返した。
「しかしまあ、よりにもよって今日みたいな日に弁当を忘れちまうとは。運が悪かったな、琴音ちゃん」
苦笑いを浮かべながら、藤田さんが言葉を紡ぐ。
彼の言うとおり、どうやらわたしは運が悪かったらしい。
いつも食堂を利用している藤田さんたちでさえ驚きを隠せないような、そんな混み合った日に食堂へ来てしまったらしかった。
「どうする? あれじゃあ、ちょっとやそっとじゃ空かないと思うぜ」
「ええ……」
手を口許に当てながら、わたしは考える。
いっそのこと、今日はお昼を抜いてしまった方が……そうも思った。
朝の一件もあって、とりあえず無理してまで何か食べたいという気分でもなかったし、どこか人のいないところで休み時間が終わるまで過ごすのも悪くないかもしれない。
うん、そうしよう……。
そう決断しかけたわたしの意思にまるで抵抗するかのように、お腹が「く〜っ」と鳴り出したのは、その時だった。
小さいが、周囲の空気を震わせる確かな音色。
でも傍らに立つ藤田さんと佐藤さんの耳に、それはしっかりと届いてしまっていた。
二人して、驚いたように身体を強張らせている。
かくいうわたしも、自分ですら予期しなかったその出来事に、思わず固まってしまう。
「あ、あの……」
「…………」
「…………」
どう反応したものか困っているように、藤田さんの目が落ちつきなく動いている。
それにたまたま近くにいて、いまの音を耳にした名前も知らない生徒の何人かが、やはり好奇の視線をこちらに向けていた。
思わず顔を伏せてしまうわたし。
恥ずかしさと、そして後ろめたさが身体中をジワジワと広がって行く。
「あの……ごめ……」
沈黙に耐えきれなくなったわたしが、俯いたまま謝罪の言葉を口にしようとした、その瞬間だった。
「雅史ぃ〜〜〜、恥ずかしいだろうがよ〜〜〜っ!」
わたしの言葉を遮るように、藤田さんの声が唐突に周囲に響き渡る。
慌てて顔を上げる。
藤田さんが口許を緩ませながら、佐藤さんの方を軽く睨み付けていた。
「ご……ごめん、浩之。でも、仕方ないよ。生理現象なんだからさ」
「まったく。しょうがねーな」
それを聞いていた周囲の人たちは、ことの成り行きを理解したようにくすくすと忍び笑いをもらし、その場から去っていった。
それをただ、呆気にとられて眺めやるばかりのわたし。
「……ちゃん、琴音ちゃん!」
「は、はいっ!」
その声ではっと我に返る。
藤田さんだった。
「琴音ちゃんは、どのパンがいいんだ?」
「え?」
突然のことに、思考が追いつかない。
そんなわたしを、微笑みと共に見つめやっていた藤田さんは、
「だからさ、琴音ちゃんもお昼にパンを食べるんだろ? オレが代わりに買ってきてやるよ」
「え、でも……」
「遠慮はいらないって。あの修羅場のただ中に琴音ちゃんを行かせるのは、さすがに気がひけるもんな。でもその代わり、オレたちと一緒に食べようぜ」
「……は、はい」
わたしが恥ずかしい思いをしないように、咄嗟の機転で周りの注目をわたしから自分たちへと移してしまった藤田さん。
そして、わたしがひとりになってから落ち込まないように一緒に食べようと、そう言ってくれている。
それが藤田さんの優しさだった。
「……と言うことで、契約成立な。んで、何が欲しいのかな?」
「えっと。野菜サンドと、ミルクボールを……」
わたしは遠慮がちに、そう申し出る。
「なんだ、それだけでいいのか? でもまあ琴音ちゃん、女の子だもんな。よしよし、お兄さんに任せなさい!」
自信たっぷりな様子で胸を叩いた藤田さんは、わたしに自分の分のパン袋を預けると、未だ人が群れなしているパン売場の渦中へと飛び込んでいった。
ぽんと、誰かが背後から肩を叩く。
相変わらず穏やかな笑みを浮かべている、佐藤さんだった。
「ごめんなさい……お二人に、恥ずかしい思いをさせてしまって」
わたしのその言葉に、彼は小さく首を横に振ると、
「気にしない気にしない。僕と浩之の場合さ、ああいうのっていつものことだから」
「そうですか……」
その時耳に、パン売場の人混みの中から「オバちゃ〜ん、野菜サンドとミルクボール!」そんな、藤田さんの声が流れ込んできた。
§
頭上に広がる青空。
そして目の前には、カツサンドを頬張りながら幸せそうに表情を緩める藤田さんがいた。
「ん〜、やっぱカツサンドは最高だ」
「浩之ってば、いつもそればっかりだね」
「……うるさい」
あれから野菜サンドとミルクボールの入った袋を片手に、文字通りの人の海から抜け出てきた藤田さんは、
「ほれ、お姫さま。ご所望の品だぜ」
そう言って、わたしが預かっていた藤田さんのパンと交換で、手の中に紙袋を落とす。
「あ、ありがとうございます」
「な〜に、いいってことよ。さ、行こうぜ」
そう言ってわたしの肩を軽くぽんと叩きながら、藤田さんは外に向かって歩き出した。
二人に導かれるようにたどり着いた場所は、校舎の屋上だった。
「ここが、俺たちの指定席なんだ」
「……そうなんですか」
床に何も敷かずにそのまま座り込んだ藤田さんは、袋からやおらパンを取り出すと、まるで親の仇を討つような勢いでそれにかぶりつく。
わたしはポケットから取り出したハンカチを、藤田さんと向かい合う場所に敷き、その上に腰を下ろした。
「いただきます」
わたしは小声で呟き、そしてサンドイッチの封を切る。
「姫川さんって、礼儀正しいんだね」
「え?」
不意に佐藤さんが、にこやかに口を開く。
「それって、食事の挨拶もしないで食べ始めたオレへの皮肉か、雅史?」
「違うよ、浩之。僕は、思ったことを素直に口にしただけだよ」
「そっか。ならいいけど……」
二人のそんな様子に口許を緩めながら、わたしは手にしたサンドイッチを一口頬張った。
秋の涼しげなそよ風が、わたしたちの間を吹き抜けてゆく。
周囲に視線を巡らせるとふとフェンスの一角――そこだけが、後から張り替えたかのように真新しい――が視界に入り、わたしはそこで目を止めた。
そう、ここは思い出の地だった。
いまから五ヶ月前、わたしにかけられた超能力という名の呪縛を解くために、身体を張ってフェンスの外へと身を乗り出した藤田さん。
あの時、空は一面の黄昏に覆われていた。
わたしの能力が、いままで信じてきた不幸な未来を知る「予知能力」などでなく、物を動かす「念動力」なら能力は制御できるはず……藤田さんはそう叫び続けた。
「琴音ちゃん! 念力を意識するんだ! 予知なんかじゃないって!」
フェンスからその身を引き剥がされながら、藤田さんはわたしに向き直る。
「琴音ちゃん! 動けないんだ! 身体が動かない!」
「藤田さん!!」
「念力だ! 念力なら、止められるはずだ!」
「……!」
彼の身に危険が迫っていることは、わたしにもよく分かった。
たったいま脳裏に浮かんだ情景は、それが予知なら他でもない藤田さんが屋上から転落するという未来を、はっきりと示していた。
何か言葉を紡ごうとするが、気持ちばかり急いて口がうまく動かない。
そんな状況でも藤田さんはわたしの身を案じ、そして語り続けた。
「こんなのが、オレの未来なのかっ! このままオレが落ちたら、琴音ちゃんを誰が助けるんだっ!」
彼の言葉が、わたしの胸を打つ。
わたしなんかのために……。
人を不幸にすることしかできない、こんなわたしのために……。
言葉にならない想いが胸の裡からとめどなく溢れ始め、いつしかそれはわたしの身体の全てを覆い尽くしていた。
「でも……でも……」
「自分に負けるなっ! 超能力で人を不幸にできるなら、幸せにだってできるはずだろっ!」
次の瞬間、藤田さんの身体が宙を舞った。
黄金色に輝く空のただ中に浮かぶ彼の身体は、まるで夢でも見てるかのように現実感を少しも感じさせない情景だった。
でも……それは現実。
わたしの能力が招いた、紛れもない現実。
その瞬間、わたしの中にある何かが弾け飛んだ。
頭の中で意識が爆ぜるように広がり、そして目に映る世界の全てがぐにゃりと歪み、同時に目眩を覚える。
光の矢が、幾重にも身体を貫いてゆく。
その痛みを身体でなく心で感じながら、わたしは藤田さんの名を必死に念じ続けた。
無数に連なる、背中を向けた自分の姿が不意に映し出される。
虚空を漂う彼の姿を見つめ続ける無数のわたしの全てが、ただひとつの――藤田さんを守ることをだけを念じていた。
そして……わたしは能力の制御に成功した。
藤田さんの身体は空中で、まるで重力に抗うかのように奇妙に浮かび続け、やがてゆっくりと屋上へと舞い降りてくる。
わたしは自分の能力を初めて、人の役に立てる形で使うことができたのだ。
呪縛から解かれたわたし。
そしてあの日を最後に、わたしは能力を使っていない。
たぶん藤田さんが望まない限り、そして藤田さんの身に危険が迫らない限り、この能力を二度と使うつもりはなかった。
でも……。
そこまで思って、急に気持ちが重くなる。
それが何故なのか、わたしにはよく判っていた。
だから思い出したくなかった。
でもそんな思いをよそに、心の中に住むもうひとりのわたしが嘲笑を浮かべながら、たどたどしげな言葉でそれを紡いでゆく。
ワタシノオモイハ……ツタワラナカッタ……。
それは、閉ざされた未来。
溢れ出た想いは目的を遂げることなく、そのまま溶けように消え去ってしまった。
オニイチャント……イモウト……。
それは、残された過去。
藤田さんの側に居続けるために、選ぶことができた唯一の選択肢。
わたしの想いは心の奥底へとうち沈められ、そして次の日には何ごともなかったように日常が戻ってきた。
でも、行き場を失ってしまったこの想いはどこへ行くのだろう?
いつの日か、別な形で昇華されてしまうのだろうか。
それとも……。
刹那、視界が奇妙に歪んだ。
§
「……そう言えば、琴音ちゃんっていつもは弁当なんだよな?」
小さく頷き返すわたし。
そして藤田さんは、牛乳パックに差し込まれたストローで中の牛乳を吸い出しながら一息つくと、
「でも琴音ちゃんが弁当忘れるなんて、珍しいな」
「ええ……」
「もしかして、寝坊でもしたのか? あれ……でもオレ、今朝登校途中に琴音ちゃんと会ってるよな」
どこか合点のいかなそうな、そんな表情。
「今日は、ちょっと……」
藤田さんのことを考えていたから……とはさすがに口にできず、言葉を濁してしまう。
彼は「ふ〜ん」と、そんな言葉を返してくるばかりだった。
「でも琴音ちゃんの弁当って、美味しいんだよな」
「……え?」
唐突に紡がれた藤田さんの言葉は、わたしを驚かせるには十分なものだった。
藤田さんが……どうして?
「浩之って、姫川さんの手料理を食べたことがあるんだ」
「ああ。あれだけの腕前なら、将来立派なお嫁さんになれること間違いなしだな」
「何か、変な褒め方だね」
「いちいちうるさいヤツだな、雅史は」
「ごめん……」
「なあ、琴音ちゃん?」
「え? あ、はい……」
二人の声は、わたしには殆ど届いてはおらず、ただ藤田さんの言葉に機械的な相づちを打っていたにすぎなかった。
そして今朝方から感じ続けていた疑問が、再び困惑のベールをまといながら姿を現す。
身に覚えのない記憶。
わたしは一体、いつ藤田さんに自分のお弁当を披露したのだろうか。
どうして藤田さんは、そのことを覚えているのだろう。
そして何故、わたしはそのことを覚えていないのだろう。
五月のあの日から今日まで、藤田さんと一緒に食事をしたという記憶は、わたしの中のどこを探しても見つからなかった。
でも藤田さんは、わたしのお弁当を食べたとはっきり言っている。
もしかしたら藤田さんは、誰か別の人からお弁当をもらった記憶と混同してしまっているのだろうか。
それとも朝の時間割の一件と同じように、もしかすると今回もわたしの記憶の方が間違っているのだろうか。
わたしは……疲れているのかもしれない。
与えられた役割を、いつ終わるとも知れないまま演じ続けることに疲れた心が、ありもしない幻想を心の中に作り出しているのだろうか。
そして、世界が一瞬だけ歪む。
顔を上げるといつの間に話題が移ったのか、藤田さんたちは紙パックを片手にサッカー談義に花を咲かせていた。
そのことにかすかな戸惑いを感じながら、わたしは二人の話に割り込んだ。
「あの……」
「ん?」
言葉を切り、視線を向ける藤田さん。
彼の瞳にどこか違和感のようなものを感じてしまうが、すぐにそれを脳裏の片隅に押しやったわたしは言葉を継いだ。
「……さっきのお話なんですけど」
「さっきの? って、何だっけ?」
「えっと……藤田さんが、わたしの……お弁当が美味しかったって言われたお話です」
「……へ?」
でも数瞬の間を置いて藤田さんの口からもれたのは、何とも間の抜けたそんな一言だった。
そして困ったように頭をぽりぽりと掻きながら、
「あのさ、琴音ちゃん。一体何のことだか、さっぱり分からないんだけど?」
「そんな……」
「オレ、そんなこと言った?」
わたしは無言で頷く。
すると藤田さんは目を閉じながら腕を組むと、
「う〜ん、お弁当お弁当……。やっぱ記憶にないなぁ」
「でも藤田さん、さっき仰ってました。『琴音ちゃんの弁当って、美味しいんだよな』って」
「オレが?」
「はい」
「琴音ちゃんの弁当を?」
「……はい」
「美味しいって?」
「…………はい」
文節を区切りながら、改めてそう問い返されるにつれて、わたしの返事は少しずつ自信を失った力弱いものになってゆく。
どうしてかわたしの方がウソを付いているような、そんな後ろめたさがあった。
そして不意に、藤田さんが笑い出す。
「琴音ちゃんさ、どうしたんだよ急に。ひょっとしてお腹が一杯になったからって、夢でも見てたんじゃないのか?」
「でも……」
「そりゃあさ、オレも琴音ちゃんのお弁当食べてみたいとは思うよ。でも、いくらオレでも食べてないものを食べた、とは言わないぜ」
「そう……ですよね」
力無く呟く。
そして昼休み終了五分前を告げる予鈴が、スピーカーを通して周囲に鳴り響いた。
「さ〜てと、午後の授業に行きますか」
「そうだね」
ズボンに付いた埃を払いながら立ち上がった藤田さんは、一度大きく伸びをして見せる。
そしてまだ床に座り込んだままのわたしに向かって、手を差し伸べてくれた。
「ほら、琴音ちゃん。急がないと」
「は、はい……」
その手を握り返しながら立ち上がる。
わたしの手をすっぽりと包み込んでしまいそうに大きな手は柔らかく、そして暖かだった。
それは確かに、わたしの記憶に残る藤田さんの手に違いなかった。
それなら、さっきの藤田さんは?
やっぱり思い違いか何かだったのだろう……自分の中でそう結論づけたわたしは彼に顔を向ける。
すぐ目の前に、階段へ向かおうと歩き出す藤田さんの大きな背中があった。
その時「あ、そうだ」と何か思いついたようにわたしの方に顔を向けた藤田さんは、
「そうだ。琴音ちゃんの弁当、今度本当に食べさせてくれないかな?」
不意に、そう言ってきた。
「は、はい……」
視線を逸らしながら、曖昧な返事を返すばかりのわたし。
でもそれが、いまのわたしの精一杯だった。
§
「ふぅ……」
わたしの口から思わず漏れ出てきたのは、そんなため息だった。
それは、諦めの思い。
ともすれば混乱に打ちひしがれる心を、何とか現実につなぎ止めておこうとする、わずかばかりの抵抗だった。
放課後になるのを待ってから赴いた図書室。
定期試験までまだ少しあるせいか、室内の人影はまばらだった。
入り口でひとしきり室内を見渡してから、整然と立ち並ぶ書架の間を縫うように、奥の方へと歩いてゆく。
やがて視界に、校庭を望む窓に面して置かれた小ぶりの閲覧机が、残る三方を書架に圧迫されながらその佇まいを見せる姿が映し出された。
そこが、今日の目的地だった。
ここは超能力のせいで疫病神と忌み嫌われたかつてのわたしが、積極的に人と関わることなく、活字の世界へと埋没するために見つけた安息の地だった。
誰からも忘れ去れたようにぽつんと存在する、机と椅子だけが置かれた小さなスペース。
窓を開け放ち、そして椅子の一つに腰を下ろす。
次の瞬間、いままで必死に押し止めていた疑問符の山が、まるで嵐のようにわたしの中を吹き抜けていった。
窓から流れ込む空気を頬に感じながら、つい先ほど起こった出来事をわたしは思い出す。
それは、六限目終了のチャイムと共に訪れた。
「姫川さん、これからヒマ?」
HRを終えた担任の先生が教室を後にすると同時に駆け寄ってきた彼女は、開口一番そう訊ねてくる。
「え? は、はい。特に予定はないですけど」
「よかった。じゃあ、一緒に帰りましょ」
「ええ……」
かすかな戸惑いを感じながらも、わたしは頷く。
「これからね、みんなでどっか遊びに行こうって話してたんだ。それでね、姫川さんも一緒にどうかな?」
「そうなんですか。でも、どこに行くんですか?」
半歩前を教室のドアに向かって歩く彼女は、肩越しに振り返りながら口を開いた。
「今日はね……カラオケだよ」
「……え?」
「どうしたの、姫川さん。何をそんなに驚いた顔してるの?」
「今日も、カラオケなんですか?」
「今日も?」
「だって、朝言ってたじゃないですか。昨日のカラオケ楽しかったね、って」
「昨日の……カラオケ?」
そう言ってしばらく小首を傾げていたが、やがてその口からもれてきたのは思いもよらない哄笑だった。
「やだぁ、姫川さんたら。どうしてそんなこと言うの?」
「でも……」
「昨日はわたしたち、ゲーセンに行ったんじゃない。もう忘れちゃったの? みんなで格ゲーやって、クレーンゲームやって、プリクラ……」
もはやそれ以上、聞く必要はなかった。
不意に襲ってきた抑えがたい思いに、わたしは口許を押さえながら彼女の横をすり抜け、そして教室を後にする。
背後から彼女のものらしいわたしを呼ぶ声が聞こえたが、それを無視してただひたすら走り続けた。
藤田さんの時と、全く同じだった。
始業前に話をしたときの彼女と、いま話をしている彼女は、間違いなく同一人物だった。
それなのに……。
何が正しくて、そして何が間違っているのか……それが分からなかった。
昼間の一件といい、もしかするとわたしの心はどこか壊れかかっているのだろうか。
……嫌な想像。
でもそうとでも考えなければ、朝から立て続けに襲ってくる異様としか言いようのない事実を説明することができなかった。
はっと顔を上げる。
途端、視界に書架が整然と立ち並ぶ風景が飛び込んできた。
どこからか声がしたような、そんな気がしたのだ。
「……?」
確かにいま、誰か女性のものとおぼしき忍び笑いが聞こえたような気がしたのだが、周囲は何ひとつ変わることのない静寂に包まれていた。
ひとしきり、周囲を見渡す。
そして、ほっと安堵の吐息をもらしかけたその時、
「……分からない?」
気のせいなどではなかった。
わたしの耳はその時、姿こそ見えないが女の子のものとおぼしき軽やかな声音をはっきりと捉えていた。
「誰……?」
驚きと共に顔を上げ、周囲を振り仰ぐ。
薄暗闇に覆われる、教室の情景が目に飛び込んできた。
でも目を凝らしながら見渡した限りでは、そこにはやはりわたし以外の誰もいなかった。
「……あなたは、普通じゃないのよ」
再び紡がれる言葉。
姿の見えない声は、何ごともなかったようにひどく落ち着いた声音で、そう言葉を紡ぐ。
幻聴?
それとも、わたしが生み出した妄想?
「分かっているんでしょ。あなたには、他の人にはない能力がある」
「……超能力のこと?」
「それは、表面的な事実の一端にすぎないわ。もっと根の深いところで、あなたの能力は使われている」
意識のどこかが「これは幻よ。あなたの病んだ心が生み出した幻なのよ」そう、静かに諭そうとする。
でもわたしは、いつしかその声の語る内容に引き込まれていた。
「わたしの能力は、ものを動かすことのできる『念動力』よ。それは藤田さんが証明してくれているわ」
「でも、あなたは本当にそれを信じているの?」
「……え?」
考えもしなかったその一言に、咄嗟に次の言葉を継ぐことができない。
「それにあなたは生まれたときから、人としては不完全な存在だった。だって……半分しかないんだもの」
「そのことを……どうして……?」
その声は、わたしの身体に関する秘密を知っていた。
どうして……そんな疑問が不意にわき起こる。
そして誰のものとも分からないその声は、わたしのそんな疑問を嘲笑するように、止まることなく空気を震わせ続けた。
「でも、安心して。大丈夫よ」
「大丈夫? 何が?」
「あなたの心は、どこも壊れてなんかいないわ。だって――」
これ以上、耐えられなかった。
疲れた心が生み出した幻聴と信じるしかないこの声にも、そしてそれがわたしに対して語ろうとしている何かにも。
わたしは両手で耳を塞ぎ、その場に跪きながら声に向かって叫んだ。
「もうやめてっ!」
§
そこは暗闇に覆われた、自分の部屋だった。
窓際に置かれたベットの上で、わたしは半身を起こしたままひとり座していた。
鼓動が、そして呼吸が乱れる。
胸に手を当てて動悸をしずめながら、たったいま見た夢の内容をわたしは思い出していた。
とびきりの悪夢だった。
同時にそれは、現実でもあった。
自分の心への疑問。
そしてそれを否定するかのような発言をする、姿の見えない声。
それはわたしの病んだ心の作り出した、幻覚にすぎなかったのだろうか。
自分が壊れかけているのを認知することを拒絶する意識のどこかが、形となって現れた防衛反応なのだろうか。
そうなのかもしれない。
でもそれだけでは説明しきれない何かを、同時にわたしは感じていた。
あの時、思わず耳を塞いでしまったわたし。
再び顔を上げたとき、もう声はどこからも聞こえなくなっていた。
まるで最初からわたしのひとり芝居だったかのように、書架が整然と立ち並ぶ姿だけが視界に映し出されていた。
夢と言えば……ふとわたしは別の夢に思いを馳せる。
この数日、徐々に壊れ始めているかに見えるわたしの心を象徴するかのように、もう一つの夢も意識下で大きな変化を見せ始めていた。
……螺旋の夢。
二重の紐が延々と螺旋を織りなす……子供の頃からずっと見続けてきた夢。
前は数ヶ月に一度といった感覚で見る程度だったはずのその夢は、この一、二週間というもの頻繁に姿を見せるようになっていた。
そして昨晩見た夢では、内容そのものが微妙な変化を見せ始めていた。
綺麗な対称形を形作っていたはずの螺旋、そのバランスが崩れ始めていた。
まるで見えない力に引き寄せらているかのように、二本の鎖は二重螺旋を崩し、やがてひとつに寄り集まってゆく。
鎖は何度か、その身を再び引き離そうと波打ち、悶えるのだがそれも叶わず、いつしか二重鎖は完全な一本鎖となって、今度は螺旋でなく単調な直線を描き始めていた。
保たれていたはずの調和は崩れ、苦しみの中から新たな調和が見出される。
それは、自分自身の心と記憶を信じることのできないわたしに、何か示唆を与えようとしているようにも思えた。
一定のリズムで窓を叩く雨滴の飛散音が、耳へと流れ込んでくる。
いつしか勢いを強め始めた雨が、わたしのそんな思いをよそに視界に映し出される窓を絶え間なく濡らし続けていた。
その規則正しい音色が、わたしの鼓動を少しずつ平静に戻してくれる。
わたしはカーテンをそっと開き、窓外に広がる情景に目を向けた。
そこには、点々と間隔を開けて灯される街灯の光を背景に、雨に煙る夜の街並みが静かに佇んでいた。
不思議なくらい静かだった。
音を発しているのは、窓を撥ねる水滴の小さな音ばかり。
もう眠りについたしまったのだろう、家々の窓の大半からは光が失われていた。
不意に寒さを覚える。
もう……ひとりは嫌だった。
誰も、わたしを必要としない世界。
うわべだけの笑顔の下に、形ばかりの慰めの言葉の向こうに透けて見える、わたしを不要の存在とみなしている人たちの心。
だから、わたしも装った。
何も気付かない振りをして与えられた役割を演じ続け、誰とも関わることのない日々を飽きることなく過ごし続けた。
あの時は、それでいいと思っていた。
わたしにはそうするしか、ここで生きてゆく方法はないのだと、そう信じていたから。
でも……。
もう一度、雨の向こうの家並みに目を向ける。
そしてその先にいるはずの男性へと、想いを馳せた。
「……藤田さん」
とりとめのない様々な淡い想いが身体中を駆け巡るように広がり、やがて切なさだけを残して消えてゆく。
わたしにとって、そこに居続けることに何の意味も見出すことのなかった世界。
それを意味ある何かにしてくれた人がそ、藤田さんだった。
たとえ世界中の全ての人たちが、わたしのことを「いらない」と言っても、彼が必要としてくれている限り、ここにいることができた。
だからわたしはいま、ここにいる。
そこが例え、わたしの本当に望んだ世界ではなかったとしても構わなかった。
わたしを孤独の鳥籠から救い出してくれた藤田さん。
わたしを普通の女の子として扱ってくれた藤田さん。
わたしを抱き締め、微笑みを見せてくれた藤田さん。
そんな藤田さんのことが、わたしは好きだった。
でもその想いは、結局彼には届かなかった。
そして彼の側に居続けるために、わたしは自分の本当の心を奥底に沈め、そして妹としての役割を演じ続けている。
でも、もし藤田さんがわたしのことを必要としなくなったら……そうなったとき、一体どうすればいいのだろう。
どうなってしまうのだろう。
それは、決して仮定だけの話ではなかった。
「わたしは、普通じゃないから……」
人として、出来損ないの存在。
血を分けた親からすら望まれることなく、それでも生きながらえている存在。
どうして、わたしは生きているのだろう。
誰のために?
そして……何のために?
わたしは知りたかった。
自分がここにいる意味と、そしてその価値を。
窓から視線を逸らし、室内へと戻す。
俯き加減に、窓から漏れ入るほのかな光だけを頼りに、掛け布団の上に置かれた自分の両手をじっと見つめ続る。
「……っ!」
そして、はっと我が目を疑う。
ほんの一瞬のことだったが、目の前にあるはずの手がまるで消え去るかのように、すっと透き通って見えたのだ。
壊れかかっているわたし。
壊れかかっている世界。
どちらが正しく、そしてどちらが間違っているのか、いまのわたしには分からない。
でも、確かなことが一つだけあった。
それは藤田さんの存在なくして、わたしがわたしとしてここにいることができないこと。
固く目を閉じ、そしてわたしは寒さに打ち震えるように身体を縮こまらせながら自分の身体をぎゅっと強く抱き締める。
肌の柔らかな感触が、両腕を通して伝わってきた。
どれくらい経った頃だろう、わたしは吐き出すように小さな呟きをもらす。
それはこの世界に自分が居るために、そしてこれからも居続けるために……ただそれだけを願って、心の奥底から紡ぎ出された言葉。
でもそれが、藤田さんの耳に届くことはない。
わたしを取り巻く周囲の空気を、かすかに震わせただけだった。
「お願い……わたしを助けて。藤田さん……」