ドアの陰から、様子を窺うようにそっと中をのぞき込む。
教室内はいかにも休み時間といった感じの、和やかな雰囲気を漂わせるざわめきに満ちていた。
視線を右に左にさまよわせ、やがて求める――藤田さんを見出す。
少しだけ身体を伸ばして、視界の中に改めて彼の姿をはっきり捉える。
距離にして四、五メートル。
そしてその間には、何人もの生徒が壁となって立ちはだかっていた。
それなのに、偶然目が合ってしまう。
一瞬「おや?」といった感じの表情を浮かべた藤田さんに、わたしは慌てて物陰に隠れてしまった。
そして、手を胸に当てる。
驚きのあまり心臓の鼓動が早まっているのが、すぐに分かった。
一旦目を閉じ、そして軽く深呼吸をして乱れがちな呼吸をゆっくりと整える。
それから改めてドア越しに教室内をのぞき込んでみると、どうしてかまるでかき消すように藤田さんの姿はそこから失われてしまっていた。
「……え?」
思わず、そんな戸惑いの声を発してしまうわたし。
一体どこへいってしまったのだろう。
せっかく藤田さんの声を聞こうと――不安に揺れる心の重荷を少しでも軽くするために、ここまで来たのに……。
同時に胸中から、落胆の思いがわき起こってくる。
ぽんと、誰かがわたしの肩をたたいたのはその時だった。
「よお、琴音ちゃん」
「きゃっ!」
背後から突然声を掛けられて、思わず小さな悲鳴をあげてしまうわたし。
そして慌てて振り返った先には、いつもと変わらぬ優しげな笑みを浮かべる藤田さんの顔があった。
それを見た途端、内心の不安と落胆が一転、ぱっと明るい思いに満たされる。
「どうしたんだい、朝っぱらから?」
にこやかに話しかけてくる彼のその一言一言がわたしの意識の中へと染み込み、そして胸の裡が言葉にし難い温かさに満たされてゆく。
不意に、目頭が熱くなってくる。
それは程なく、わたしの頬を伝って小さな雫を作りだした。
「……いっ?」
その状況の変化に、驚いたような声をあげる藤田さん。
「お、おい、琴音ちゃん。どうしたんだよ、急に?」
「え。あ……ご、ごめんなさい……」
慌てて目頭を拭う。
でも拭い取る側から瞳はとめどなく涙を溢れさせ、頬を濡らし続けるばかりだった。
……ダメ、止まらない。
「うわちゃ〜、どうすりゃいいんだよ……」
手を額に当てながら、藤田さんは困ったように天を仰いでみせる。
心は止めなければと思っているのに、それでも身体はわたしのそんな意志に抗うように瞳から涙を溢れさせ続けた。
やがて教室のあちこちから、囁き声が流れ始める。
「ねえねえ、藤田くんってばどうしたのかしら」
「何でも、いきなり別れ話を突きつけたらしいわよ」
「えっ? でも、そしたら神岸さんはどうなるの。だって、付き合ってるんじゃないの、あの二人って?」
「だからよ。しょせんあの子は遊びだったってことでしょ」
「え〜っ、それってひどい話ね」
周りの視線が、刻一刻とわたしたちに集まってくるのが分かった。
そのことを自覚した途端、自分のした行為に急に恥ずかしさを覚えてしまったわたしは、
「ご、ごめんなさい!」
それだけを口にして、教室を後にしようとする。
途端、誰かの手がその場から立ち去ろうとするわたしの肩を掴んだ。
振り返るとそこには、瞳には相変わらず困ったような色を浮かべながら、わたしを見つめやる藤田さんの表情があった。
そしてわたしを掴まえたまま、首だけを教室に向けた彼は、
「おーい、あかり。オレ一限目パスな」
「え?」
少し離れたところで、他の生徒たちに混ざってわたしたちに目を向けていた神岸さんが、ちょっと驚いたような表情を見せる。
「急に気分が悪くなったから保健室に行った、ってことにしといてくれ」
「う、うん……」
どこか釈然としない様子で、神岸さんはわたしの方へとちらりと視線を向けてくる。
「さあ、琴音ちゃん。ここじゃ何だから、場所を変えようぜ」
「は、はい……」
頷くわたし。
その返答に満足したように目を僅かに細めた藤田さんは、わたしの肩に手を回すと、そのまま廊下を歩き始めた。
§
教室にいたのは、わたしひとりだった。
中天からやや傾き始めながらも、未だ高くにその身をたたえる太陽が放つ光の波が、窓辺から射し込んできている。
誰もいない教室。
目を細めながら、窓の外へと視線を向ける。
視神経にかすかな痛みを覚えながらも網膜に焼き付けられた太陽の姿に、わたしは何故か儚げで、そして虚ろな印象を抱いてしまった。
深い意味はなく、ふとそう思ったに過ぎなかった。
どうしてこんなところにいるのだろう。
記憶が正しければ確か、わたしは藤田さんに連れられて廊下を歩いていたはずだった。
でも彼の姿はどこにも見あたらず、わたしはひとりぼんやりとその場に佇むばかり。
……捜さないと。
椅子から立ち上がったわたしは、そのまま誰もいない教室を後にする。
廊下にも、やはり人影はなかった。
まるで何者かによって、そうあることを予め最初から決められていたかのように、そこはただ静寂ばかりが存在する世界だった。
足を一歩踏み出す。
それまで波ひとつ立つことのなかった無音の世界に、音が生まれた。
それはわたしの足音。
床を踏みしめる上履きのゴムの音だけが、わたしの耳に規則正しく奏でられる音色を送り続けてきた。
わたしは、どこに行こうとしているのか。
それに、どうしてここには誰もいないのだろう。
藤田さんは、わたしを残してどこに行ってしまったのだろう。
世界はわたしひとりをこの場に残して、まるで先を急ぐようにみんなを連れてどこかへ行ってしまった。
取り残されたわたし。
行ってしまったみんな。
でもそのことを知りながらどうしてか、不安も寂しさも感じなかった。
何故なら、もともとわたしはひとりだったから。
最初から誰にも必要とされることなく、そして少しでも人と触れあうことのないように、世界の隅っこで膝を抱えて身体を縮こまらせていた存在。
こんな世界、わたしひとりを残してみんな消え去ってしまえばいい……ずっと昔、何かの折りにそう思ったことがあった。
何ごともなく訪れる朝。
一日の始まりを告げる小鳥のさえずりも、木々の梢を震わせる風の旋律も、世界を優しく包み込む陽光の暖かさも、何ひとつとして昨日と変わる点はない。
でもひとつだけ違うのは……その朝を迎えるのはわたしだけだった。
もしそうなれば、誰の目も気にすることなく日の当たる場所を歩くことができる。
過去の夢。
見果てぬ夢。
でも……いまのわたしは違った。
ひとりはもうイヤだった。
部屋の隅で膝を抱えてうずくまりながら、いつ明けるかも分からない夜の暗闇に脅えるのには、もう耐えられなかった。
「……さん」
誰にも聞こえないよう、でも自分にだけははっきりと聞こえるようにその名を口にする。
そう、わたしには必要だった。
わたしのことだけを見つめてくれる優しい瞳が、わたしを必要としてくれる優しい言葉が、わたしを守ってくれる優しい両腕が。
だからわたしは、藤田さんを愛する。
「……愛?」
そうなのだろうか。
わたしは本当に、彼のことを愛しているのだろうか。
そんなことはない。
藤田さんは、わたしを深い暗闇の底――出口がどこにもない鳥籠の中――から救い出してくれた。
だからわたしは彼を信じる。
それがわたしの中で生まれた、藤田さんに対する想いの力の源泉なのだから。
『でも、あなたは本当にそれを信じているの?』
幻聴が、再びわたしの中で言葉を紡ぐ。
わたしのその想いは、わたしだけの一方的な片思い。
そのことを頭では理解していながら、それでも藤田さんのことを諦められなくて、忘れられなくて「妹」としての自分を演じてきたのだ。
ぐるぐると、とめどなく螺旋を描き続けるそんな思いに身を任せながら、わたしは廊下をひとり歩き続けた。
§
「う〜ん、たまには授業をサボるのも悪くないな」
晴れ渡った空に向かって、大きく伸びをしながら呟く藤田さん。
まるでタイミングをはかっていたように、始業のチャイムが校庭に鳴り響いた。
最初からここに来るつもりだったのか、手を引かれるままに足を踏み入れたのは校舎の屋上だった。
当然ながら、そこには誰もいなかった。
「さて……」
視線を戻し、わたしの方へと向き直った藤田さんが口を開く。
「一体全体どうしたんだよ、琴音ちゃん。何か、嫌なことでもあったのかい?」
「あ、あの……」
彼の問いかけに、わたしは言葉を濁しながらただ俯くばかり。
涙はもう止まっていた。
自分でもどうして涙を流したのか、未だによく分からない。
教室の前で藤田さんの声を聞き、その笑顔を見た途端、いつの間にか瞳から涙が溢れ出てしまっていた……そうとしか言いようがなかった。
でもたとえ正直にそう言ったところで、藤田さんはきっと納得してくれないだろう。
沈黙が流れる。
秋空に浮かぶ太陽が、わたしたちを覆い尽くすように、その穏やかな光を投げかけてくるばかりだった。
「……ごめんなさい」
ようやくのことで、わたしはそれだけを口にする。
「どうして、謝るんだ?」
「わたし……藤田さんにご迷惑をかけてしまいましたよね。あんなところで急に泣き出してしまったりして。だから……」
途切れ途切れに言葉を紡いでいくうち、いつの間にか再び目頭が熱くなってきていることに気がつく。
視界が、わずかににじみ始めていた。
同時にかすかな浮遊感と共に、世界が一瞬歪んで見える。
その時だった。
藤田さんの手が、わたしの髪に優しく触れてきたのは。
「細くて、柔らかいな。琴音ちゃんの髪」
「……え?」
それは予想外の出来事だった。
怒られるか、それとも笑われるかするだろうと思っていたわたしは、眼前で展開する事態にただ呆然とするばかり。
そんなわたしの髪を、彼の手が何度となく撫でてゆく。
藤田さんがわたしの髪に触れている……まるで大切なものをいたわるような、そんな優しい手の動きだった。
「琴音ちゃんの髪……オレ、好きだな」
「は、はい……」
一言、藤田さんが何か言葉を紡ぐたびに、わたしの中で驚きの感情が強まってゆき、そして当惑が心を支配する。
もしかしたら気落ちしているわたしのことを元気づけようと、そう思ってわざと優しい言葉を口にしてくれているのだろうか。
「藤田さん……」
わたしは俯いたまま、小声で彼の名を口にする。
でも顔は上げられない。
恥ずかしかった。
そして、怖かった。
これは本当に、現実なのだろうか?
夢ではないのだろうか?
目が覚めるとそこは一面の薄暗闇に覆われた部屋のベットの上で、そしてこの情景はわたしの心が紡ぎ出した泡沫の夢にすぎないのではないか。
脳裏をそんなとりとめのない思いが忙しく駆けめぐっては、やがて何の答えも見出せないまま消え去っていった。
「琴音ちゃん……」
そう言って藤田さんは、わたしの顎に手を添える。
次に紡がれるだろう言葉を、期待に鼓動を高鳴らせながらじっと待つ。
もしかして心臓の音が藤田さんに聞こえてしまうのでは……頭の片隅でちらりとそんな思いがよぎる。
「目を……閉じて」
「…………」
無言で、彼の要求に応えるわたし。
藤田さんの手の動きに導かれるように、俯かせていた顔が徐々に上を向いてゆく。
高鳴り続ける動悸を抑えられないままわたしは両目を閉じ、そして彼にその身を任せた。
一度だけ、薄目を開く。
そこには真っ直ぐにわたしを見据える、藤田さんの優しげな瞳があった。
§
校舎を背景に、その場に立ち尽くすわたしの瞳が捉えたのは教室や廊下と同じ、やはり人っ子ひとりいない空虚な世界だった。
戸が開け放たれたままの昇降口の先には、中庭が広がっている。
空はどこまでも青く晴れ渡り、太陽は天高く眩いばかりの光を放ち続けていた。
数瞬の間、そんな光景に目を奪われていたわたしだったが、すぐに気を取り直すとそこから目を離し、歩き始める。
静寂が支配する世界。
一体どこへ向かおうとしているのだろう……ふと、そんな疑問がわき起こる。
でも内心のそんな思いに反して身体の方は、まるで何か確信を持っているかのように足を動かし続けていた。
風が吹く。
ゆらゆれとその流れに合わせて枝葉が揺れるが、耳には何も聞こえてこない。
廊下では、それでも足音だけは聞こえていたのに、ここではそれすらもが完全に途絶えてしまっていた。
全ての音が死に絶えてしまったように、ただ沈黙だけが何の抑揚もなくわたしを覆い尽くしていた。
やがて視界の端に、樹々と芝生にアクセントを加えるかのように等間隔で置かれた、ベンチの姿が浮かび上がってくる。
そのベンチは以前、わたしと藤田さんが昼休みに世間話をした場所だった。
ふと、あの頃の思い出が蘇ると同時に、胸の奥底にちくりと小さな痛みを感じてしまう。
その痛みは、わたしの心に突き刺さった「後悔」と言う名の、自分では決して抜くことのできない鋭い針が作り出したものだった。
わずかに目を細めるうち、やがて目に映る視界の中で変化が生じる。
たったいままで、誰もいなかったはずのベンチにぼんやりと人影が浮かび上がってくる。
……なに?
人影は二つだった。
まるで空気中からにじみ出てくるようにそれは、半透明の透き通った肢体を徐々に露わにしてゆく。
夢でも見ているのだろうか。
それともこれは、病んだわたしの心が作り出した幻影なのだろうか。
わたしは未だに、自分の壊れかけた精神がどこかでひずみを生み出し、その歪んだレンズで世界を見つめているのではないかという疑問を胸中から捨て去ることができなかった。
そして眼前の不可思議な情景も、それが作り出したものなのかもしれない。
徐々に輪郭をはっきりさせてゆくそれは、やがて男性と女性とおぼしきシルエットに結実していった。
その奇妙な情景の変化にわたしは、ただじっと目を凝らすばかり。
そして思わず息を呑む。
両手を口に当てながら、呆然とした声音で言葉を紡ぐ。
「藤田……さん?」
そこにいたのは、確かに藤田さんだった。
眠っているのだろうかまぶたは閉じられ、穏やかな表情を浮かべながらベンチに寄りかかっている。
傍らには、彼に寄り添うように腰を下ろしている女性がいた。
……だれ?
その姿はどうしてか、まるで受信状態の悪いテレビのように幾つもの輪郭を浮かべたまま、わたしの前に姿を晒すのを拒むようにぼんやりとしたままだった。
髪は腰まで届くほど長いようにも見えるし、そうかと思うと肩口くらいまでしかないようにも見える。
背も藤田さんの肩くらいまでしかないようにも見えるし、そうかと思うと同じくらいにも感じられた。
ただ不明瞭ながらもその女生徒が、身体をひねり気味に藤田さんの方へ顔を向けていることだけは分かった。
そのことに気がついた途端どうしてか、わたしの胸は漠とした不安に高鳴り始める。
この女生徒が誰なのか、わたしは知っているのだろうか。
だから彼女が藤田さんの傍らに佇んでいることに、いい知れない不安を覚えてしまうのか。
どうして彼の側にいるのがわたしでなく、彼女なのか。
どうしてわたしは、それを傍観しなくてはならないのか。
どうして……どうして……。
そしてわたしは気付いた。
眼前で展開されている光景を、かつてどこかで見た覚えがあることを。
でもそれをいつどこで見たのかは、思い出すことができない。
「……ううん、違う。あれは……」
その瞬間、わたしの脳裏で何かが弾けた。
頭の中を鋭くも細い糸のような光の槍が突き抜けてゆく、痛みにも似た感覚を全身で受け止める。
「……わたし?」
動きを止めたままだった女生徒が変化を見せたのは、その呟きと同時だった。
まるで波打つ水面に映し出される鏡像のように、ゆらゆらと姿形を変化させるばかりだった彼女の身体が、眠り続ける藤田さんへと近付いてゆく。
何をしようとしているのだろう……一瞬脳裏をそんな思いがかすめるが、その思いはすぐに別の思いにかき消された。
彼女の顔は、何の迷いもなく藤田さんの顔へと近付いていた。
その意味するところは明らかだった。
……やめてっ!
心の奥底からほとばしる思い。
でもそれは言葉となることなく、わたしの体内を駆け巡るばかりで、そのまま空しく消えてゆく。
口は動くのだが、ただそれだけだった。
そこからは形になるものは何ひとつとして紡がれることなく、意味もなくただ空気を揺れ動かすばかりだった。
その間も、二人の距離は徐々に縮まってゆく。
……お願い、目を覚まして藤田さん!
……イヤっ! こんなの見たくない!
……どうしてなの。あなたは誰なの!
全身を駆け巡る、さまざまな思い。
二人に近付こうと必死に足を動かそうとするのだが、わたしのその努力を嘲笑うかのように足は一歩たりとも動かなかった。
その間にも、藤田さんと彼女の距離はどんどん縮まってゆく。
やがて二人の唇が重なった瞬間、いままでぼやけたままだった女生徒の姿が、不意に明瞭な一個の像を結んだ。
そしてわたしは、彼女が誰なのかを知った。
§
「イヤっ!」
その瞬間、唇まであと数センチまで迫っていた藤田さんの身体を、わたしは力任せに押し飛ばしていた。
「琴音ちゃん?」
突然のわたしの抵抗に、驚きに目を見開く藤田さん。
その表情には、戸惑いが感じられた。
「ご、ごめんなさい……」
「……琴音ちゃんは、オレのことが嫌いなのか?」
どうして、突然に藤田さんを突き飛ばしてしまったのだろう。
わたし自身、望んでいたはずのことなのに……。
どこからともなくわき上がってくる申し訳なさから、顔を伏せてしまうたわたし。
そして、
「そ、そんなこと……ありません……」
「なら、どうして?」
「……ごめんなさい」
藤田さんはようやく落ち着きを取り戻したのか、口許を緩ませながら、
「ひょっとして、急にあんなことしようとしたから、ビックリしたのか? もしそうなら、ごめんな」
「い、いえ……」
「でもこれだけは信じて欲しいな。オレは、琴音ちゃんのことをずっと守っていってあげたいんだ」
「はい……」
「だからさ、もっとオレのこと頼ってくれていいんだぜ」
「ありがとう……ございます」
その一言は、わたしの胸に暖かい何かと共にじんわりと染み込んでいった。
優しい藤田さん。
いつだって、彼はわたしのことをずっと気に掛けてくれている。
俯かせたままだった顔をあげて視線を向けると、藤田さんはどこか照れ臭そうに微笑みを浮かべていた。
そして、悪戯っ子の子供がそうするように鼻の下を指でこすりながら、
「それにさ……何たって、オレたちは一度結ばれてるんだからさ」
「……え?」
わたしは顔を上げた。
オ・レ・タ・チ・ハ……
イ・チ・ド……
ム・ス・バ・レ・テ・イ・ル……
脳裏に流れ込んでいったその言葉は一度細切れに分解され、そして意識の中で改めて組み立て直される。
でも、その意味するところは変わらなかった。
胸が痛かった。
寒いわけでもないのに、どうしてか身体が小刻みに震え始めてしまう。
「それって……」
ようやく、わたしは言葉を発する。
「……五月の、あの日のことですか?」
それは、五月二日。
わたしが超能力という名の呪縛から解き放たれた日。
わたしが孤独の鳥籠から飛び立つことのできた日。
そして……わたしの想いが届かなかった日。
忘れられるはずのない日だった。
胸の前で祈るように両手を合わせながら、わたしは固唾を呑んで藤田さんからの答えを待った。
相反する思いが交錯する。
ひとつは「そうだよ」という答えを待つわたし。
でも同時に、もうひとりのわたしは「違うよ」そんな答えが返ってくることを、心のどこかで期待していた。
「……そうだよ」
その一言を聞いた瞬間、わたしの中で何かが弾けた。
わたしを取り巻く世界が、まるで急に色あせたかのように感じられる。
空も太陽も、屋上の床もそれを囲むフェンスも、その全てから現実感が失われていった。
そして、目の前で笑みを浮かべている藤田さんからも……。
首を小さく振る。
そして一歩、藤田さんから後ずさった。
「ど、どうしたんだよ、琴音ちゃん? 顔色が悪いぞ」
必死に、何とかして口許に笑みを浮かべようとするわたし。
それがうまくいったかどうかは分からなかったが、藤田さんの表情はますます心配そうなものへと変わっていった。
「…………違う」
また一歩。
でもそんなわたしを追うように、藤田さんは近づいてくる。
「琴音ちゃ……」
「違うんですっ!」
そう一言、その場に膝立ちに崩れ落ちてしまう。
そして両手で頭を抱えながら、わたしは叫ぶ。
「もういいんです。お願いだから……わたしの前から消えてっ!」
その瞬間、目に映る世界がゆらりと揺らいだ。
意識が爆ぜるように急速に広がり、そして視界がぐにゃりと歪むと同時に、目眩にも似た感覚を覚える。
光の矢が、幾重にも身体を貫いてゆく。
軽い浮揚感と、そして自分の存在が希薄になってゆくような感覚が、わたしに向かって押し寄せてきた。
無数に連なる、背中を向けた自分の姿が不意に映し出さたような、そんな気がした。
意識を取り戻したのは、時間にしてどれくらいが経ってからのことだろう。
顔を上げると、そこには誰もいなかった。
陽光がさんさんと降り注ぐ屋上にその身を晒しているのは、わたしひとりだった。
のろのろと、その場から立ち上がる。
「……藤田さん?」
呟きをもらす。
でも藤田さんの姿は、どこにもなかった。
周囲をひとしきり見渡してみる。
屋上にはやはり、誰一人として人がいる気配はない。
……幻覚?
そんな言葉がどこからともなく浮かび上がってきたが、その考えを即座に否定する。
そんなことはない。
わたしは確かに藤田さんと一緒にこの屋上へと来て、ついさっきまで言葉を交わしていたはずだった。
髪から感じ取った優しさに満ちた手の動き。
頬に当てられた暖かな手の感触。
間近で映し出された、穏やかな瞳の色。
そのどれもが、わたしの中で鮮やかな記憶として残されていた。
一体どういうことなのか。
呆然と、そしてとりとめのない思いにその身を任せながら、わたしはひとり屋上に佇み続けた。
やがて、一限の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。
気がつくとわたしは階段を下り、無意識のうちに藤田さんの教室――2−Bのある方へと足を向けていた。
階段を下りた先にある廊下は、生徒たちのざわめきに満ちていた。
その中をわたしは、朝と同様に早足で教室へと向かう。
そしてドアの陰から、様子を窺うようにそっと中をのぞき込んだ。
自分の席で、傍らに立つ佐藤さんと楽しげに何かを話をしている藤田さんの姿が視界に飛び込んでくる。
すると視界の端にわたしの姿をとどめたのか、彼は不意に顔をこちらに向けたかと思うとやおら席を立ち、真っ直ぐにわたしの方へと歩み寄ってきた。
顔には、いつも通りの笑顔が浮かんでいた。
「よお、琴音ちゃん」
その言葉に、軽い既視感を覚えてしまう。
わたしはぺこりとお辞儀をしてから、改めて藤田さんの表情をじっと見つめやった。
そこにいるのは、わたしのよく知る彼だった。
普段あまり見せることのない、わたしのそんな行動がおかしかったのだろう、苦笑いを浮かべながら藤田さんは、
「どうしたんだい、朝っぱらから?」
§
藤田さんは何も覚えていなかった。
半ば予想していたことだったが、それでも内心の落胆は隠せなかった。
わたしは逃げるように藤田さんの前を立ち去り、自分の教室へと引き返した。
教室と廊下を隔てる少し立て付けの悪いドアを開けると、そこはどういう訳か誰もいない無人の世界と化していた。
「え?」
開きかけのドアを手にしたまま、思わずわたしは固まってしまう。
そして数秒の時を置いてようやく、二時間目の授業が移動教室で行われるのだということを思い出した。
時計を見る。
休み時間は、あと数分しか残っていなかった。
慌てて自分の席に駆け戻ったわたしは、机の上に放り出したままのカバンから、次の授業の教材を取り出し、教室を後にしようとした。
軽い目眩を覚えたのは、その時だった。
咄嗟に机に手をつき、残ったもう一方の手で額を押さえる。
それは超能力を使った後にいつも訪れた、言葉にし難い気だるさと、そして睡魔を伴う目眩だった。
わたしの持つ能力は、藤田さんが我が身を危険にさらしてまで証明してくれたように、予知などではなく……念動力。
でも今日は、一度も能力を使っていないはず。
それなのにどうして?
「……くすくす」
誰かの笑い声。
その声に慌てて身体を起こし、声がした辺りに視線を向ける。
そして、息を呑んだ。
いつの間にか、目に映るものの全てから、輪郭が失われていた。
椅子や机は言うに及ばず、窓もドアも黒板も、そのどれもがまるでピントのぼけた写真のように、どこかかすれたような線で頼りなげな存在感を示していた。
何が起こったのか。
わたしがおかしいのか、それともわたしを取り巻く世界がおかしいのか……ふとそんな思いが胸中を漂う。
「せっかく、お膳立てしてあげたのに……」
わたしの思考は、再び発せられたその声に断ち切られた。
女の子の声。
「あそこで、あなたが拒絶するとは思わなかったわ」
じっと目を凝らす。
ぼんやりとではあったが、そこに人とおぼしき姿があった。
でもそれが誰なのかまでは分からない。
「……だれ?」
「私よ。分からない?」
クラスの誰かだろうか。
わたしが戻ってくるのを、待っていてくれたのだろうか。
それは確かに女性の声。
どこかで聞いたことがあるような気もするのだが、やはりよく分からなかった。
「ごめんなさい。何だか視界がぼやけていて……あなたが誰なのか、よく分からないの」
結局、それだけを口にする。
すると相手は小さく笑みをもらしたかと思うと、小声で「そうだったわね」と、納得するような呟きを口にする。
「ちょっと待って。いま、調整するから。ホント、確率って不便よね」
意味のよく分からない言葉を彼女が口にすると程なく、ぼやけていた視界の輪郭が少しずつはっきりとしてきた。
「そうだ。自己紹介をしておかないとね」
軽やかな口調。
唐突に紡がれたその言葉に、その意味が理解なかったわたしは眉をひそめる。
「自己紹介?」
「だってわたしたち、初対面だもの。でも……本当はずっと前から会ってるし、知ってるんだけどね」
彼女のその言葉は、わたしを混乱させるばかりだった。
もしかすると、わざとそういう言い方をしているのかもしれない。
「あなた……だれなの?」
「……分からない?」
相変わらずの軽やかな口調。
でもその中に、どことなくわたしに対する嘲りを含んだ何かを感じてしまう。
そのことに少しだけむっとしながら、
「分からないわ」
「そう。じゃあ、教えてあげる」
「私は、あなたよ。そしてあなたは……私」
彼女はその場から一歩だけわたしの方に向かって歩み寄りながら、そして穏やかな口調で言葉を続けた。
「……え?」
思わず、小首を傾げてしまう。
そんなわたしに向かって、彼女は決定的な一言を口にした。
「姫川琴音。それが私の名前よ」