「姫川琴音。それが私の名前よ」
彼女が紡ぎ出したその言葉は、わたしの理解を完全に越えていた。
輪郭を失い、まるでピントがずれたようにぼやけていた視界が、急速に元の姿を取り戻し始める。
そして瞳の裡に彼女の姿を捉えた瞬間、全身に電気が走るような衝撃を受けたわたしは、そのまま言葉を失ってしまった。
そこにいたのは間違いなく、わたしだった。
わたしから数メートルほど離れた位置に佇みながら、軽く腕を組んで真っ直ぐにわたしを見据える彼女。
口許には何を思うのか、楽しげに笑みが浮かんでいた。
その様子に、どこか違和感のようなものを感じなくもない。
それでも瞳に映し出される姿は、寸分違わぬわたし自身に他ならなかった。
「そんな……」
かすれがちに、ようやくそれだけを口にする。
唐突に突きつけられた現実のあまりの不可解さに心が悲鳴を上げ始め、冷静な思考を保つことができない。
壊れてゆく世界。
壊れてゆく心。
そして忽然と姿を現した、もうひとりのわたし。
この数日、心の中を占め続けていた疑問が堰を切ったようにあふれ出し、大きなうねりを生じながらわたしの中で荒れ狂う。
病んだ心が生み出した……幻覚、妄想、夢想。
そんな言葉が次々と浮かび上がっては、そして消えてゆく。
気がつくと無意識にわたしは一歩、彼女から逃げるようにその場を後ずさっていた。
眼前の事実を拒むかのように、弱々しく首を振る。
何か言葉を紡ごうとするのだが、わたしの意志に反するように口からは吐息以外の何も出てこなかった。
彼女はそんなわたしの行動に、言葉を挿むこともなくただ無言で足を一歩踏み出す。
気圧されるように、また一歩後ずさるわたし。
そしてわたしが足を動かすたびに彼女は、二人の間の距離を保とうとするように、一歩また一歩と足を動かした。
やがて背中が何かに突き当たる。
それは教室の壁だった。
慌てて背後に視線を振り向けてそのことを確認したわたしは、同時に恐怖に身をすくませてしまう。
もう、これ以上逃げられない。
そんなわたしを、彼女は言葉なく見つめるばかり。
そして、おもむろに言葉を発した。
「どうして……そんなに恐がるの?」
その声には先刻まで絶えず感じていた、どこか嘲りを感じさせる因子が消えていた。
どちらかと言えば穏やかで、そして静かな口調だった。
聞き慣れた声。
聞き慣れた口調。
口許からは微笑みが姿を消し、どちらかといえばわたしの反応が理解できないといった、そんな訝しげな表情が見え隠れしていた。
ありったけの勇気を振り絞って、わたしは言葉を返す。
「あなた……誰?」
それはついさっき、彼女に向かって発した疑問。
「さっきも言ったでしょ。私の名前は、姫川琴音よ」
もしかして……一瞬淡い期待を抱きもしたが、でも彼女の答えは変わらなかった。
「姫川琴音はわたしです。他の誰でもない、このわたしです!」
わたしは頑なに、彼女がわたしであることを認めなかった。
認められる訳がなかった。
その反応が意外だったのだろう、彼女はちょっと困ったように眉根をひそめながら、
「私って、こんなに強情な性格だったかしら? 何だか、意外な事実を知らされた気分ね」
そう、感心したように首を傾げてみせる。
そんな彼女の態度が、わたしの中の何かに火をつけた。
「余計なお世話です! 今度こそちゃんと答えてください。あなたは誰なんですかっ!」
「だから……」
「嘘です。わたしが琴音なんです。確かに姿形はそっくりだけど、でも……あなたがわたしのはずがない!」
「……どうしてそう思うの?」
その反駁に、思わず答えに詰まってしまうわたし。
「姫川琴音が、この世界にひとりしかいちゃいけない理由って、何かあるのかしら?」
「それは……だってわたしには、自分が自分だという記憶が……」
「記憶? 確かに、そうかもしれないわね。私が私である証拠、私が私であるための理由、それが記憶だもの」
「あなたには、その記憶があるんですか? 姫川琴音としての記憶が」
わたしはその言葉をゆっくりと、できる限りの冷静さを装いながら口にした。
そして、心の中で祈る。
どうか彼女が「持っていない」と、そう言ってくれることを。
幻覚でもいい、妄想でもいいから、わたしがたったひとりのわたしであることを認めてくれることを。
でも彼女は、わたしのそんな期待を見事に裏切ってくれた。
わたしなら決して浮かべないだろう、どこか悪戯っぽい笑みをたたえながら彼女は、
「そう。私の記憶を見たいのね」
「え?」
「なら、見せてあげる。ほら……」
そう言って、彼女がわたしに向かって手を差し出した次の瞬間、周囲を取り巻く世界から再び輪郭が失われ始める。
壁も床も、机も椅子も……。
驚きの声を発する暇もなかった。
そしてわたし自身と彼女とが、まるで水に溶けていくように混ざり合い、ひとつの世界と化してゆく。
言葉にし難い、不思議な感触。
漠とした不安を感じながら、わたしは深淵へと意識を落ち込ませていった。
§
黄昏のベールに覆われた教室。
そのただ中に、わたしと藤田さんのふたりが……いた。
頬に押しつけられた制服を通して、一定のリズムで脈打つ彼の鼓動が聞こえてくる。
「琴音ちゃん、まだ……疲れてんのか?」
おもねるように発せられる、優しい声。
わたしのことを気遣ってくれているその言葉に、心の中に暖かなものを感じながらわたしは言葉を紡ぐ。
「寒いんです……」
「寒い?」
「……」
「……熱は?」
そう言って、藤田さんの身体が揺れる。
程なく、額に彼の大きな手が当てられるのを、目を閉じながらわたしは感じ取る。
緩やかに流れる時。
そして「熱はねえな……」その言葉を聞いた瞬間、彼の背中に回していた両腕にぎゅっと力を込めた。
「お、おい琴音ちゃんっ」
驚いたように、少し身体を強張らせる藤田さん。
それに構わず、わたしは言葉を継ぐ。
「このままで、いてください……」
「…………」
「……藤田さんって、あったかいです……」
「…………」
「琴音ちゃん……」
藤田さんの身体のぬくもりを感じながら、わたしはこれと同じことを以前どこかで経験したような、そんな気分になってしまう。
どうしてだろう?
「いいですよ……」
「え……?」
「藤田さんなら、いいです……」
「……」
「わたしに、こんなに優しくしてくれる……藤田さんなら、わたし……抱かれても……いいです」
違う。
わたしの中に存在するもうひとりのわたしが、首を振りながら否定の言葉を口にする。
この光景をわたしは過去に間違いなく見ていたし、そして知っていた。
忘れもしない……五月二日。
夕暮れ時、世界を紅に染め上げてゆく春の陽光が差し込んでくる教室の、誰も知らない小さな出来事。
間近から聞こえる藤田さんの声に揺れ動く心と、肌に感じる彼の温もり。
その全てを、わたしは片時たりとも忘れたことはなかった。
「琴音ちゃん。男として、それは嬉しいセリフだけど、やっぱりお互いの気持ちが一緒じゃないと……」
「わたし、藤田さんが好きですっ!」
「琴音ちゃん……」
「最初は、お兄ちゃんでもいいって思ってました……。でも、だんだん……その気持ちが間違ってるって、気付いたんです!」
お兄ちゃんとしての藤田さん。
妹としてのわたし。
それは、他の誰でもないわたしが自分から口にした一言。
そしてそれは、わたしの想いがどこにも行き場をなくしてしまった時の、すがるべき最後の拠り所となってしまっていた。
見知らぬ未来への期待と不安に苛まれる心の中のどこかに、まるで他人事のような冷静な気持ちを持った、もうひとりのわたしがいる。
そしてそのもうひとりのわたしは、次の瞬間に何が起こるのかを知っていた。
耳を塞ぎたい。
この場から逃げ出したい。
でもわたしは身じろぎひとつすることなく、彼の高鳴る鼓動を耳にじっと次の瞬間を待ち続けるばかり。
「オレも、琴音ちゃんが好きだぜ。好きでもないコに、命なんか張れねえよ」
……え?
思考が止まる。
彼のその一言は、わたしを未だかつて一度たりとも訪れたことのない、見知らぬ世界へと投げ出した。
「藤田さんっ」
心からの歓喜を感じさせる、わたしの声。
そして藤田さんは「好きだよ。琴音ちゃん」そう言って、抱き締める腕の力を強くした。
意識の奥底から暖かで、そして穏やかな気持ちが溢れ出してくる。
これこそがわたしがずっと望み続けた世界、夢見た世界だった。
儚い望みだとばかり思っていた世界が、紛れもない現実として目の前に広がっている。
ゆっくりと閉ざされる瞳。
そして、次の瞬間訪れるだろう出来事を、わたしは暗闇の中でひとりじっと待ち続ける。
怖くはなかった。
いまなら全身で――心と身体の両方で、藤田さんを感じることができたから。
自分がひとりぼっちではないことを、わたしを強く抱き締める彼の腕の力と、肌を通して伝わってくる鼓動で知ることができたから。
やがて唇に、柔らかな感触を覚える。
永遠の一瞬。
そのことをわたしは、素直に喜ぶべきだった。
めくるめく幸福感に、その身を任せるべきだった。
でも……。
そんなことを思いながらもわたしの心の一部は、どうしようもなく冷静なままその場に佇んでいた。
これは、本当にわたしなのだろうか?
これは、本当に現実なのだろうか?
そう思う暇もなく、藤田さんの右手がゆっくりとわたしの胸に重ねられる。
そして慈しむような優しさで、揉みしだきはじめた。
「あ……」
思わず声を上げてしまう。
それはいままで経験したことのない甘美な、それでいてどこか羞恥を抱かせる感覚だった。
わたしはその何とも言い難い衝動を、手を口許に当てながら耐え忍ぶ。
するりと、制服の裾から藤田さんの手が入り込んできた。
「……あっ」
その途端、今度はかすれがちな声を発してしまった。
制服越しでなく、直接肌に触れられたことを知覚した意識が、羞恥を伴いながらどうしようもなく鼓動を高めてゆく。
全身が火照るように熱くなってきているのが、自分でも分かった。
わたし……感じてる。
その思いが、さらなる羞恥に自らを染めあげてゆく。
「……!」
何も考えることができない。
いつしか意識が、ぼんやりと霞がかっていた。
そして素肌に触れる藤田さんの存在も少しずつ間遠なものとなってゆき、やがて存在そのものが失われてしまう。
カチリと、テレビのチャンネルでも切り替えているかのような小さな音が、耳に届いた。
刹那、視界が奇妙に歪んだ。
§
「これが、私の記憶よ」
気がつくとわたしは、壁にもたれかかるようにその場へ座り込んでしまっていた。
はあはあと、せわしなく繰り返される自分の呼吸音が、耳に妙に煩わしく感じられる。
床に落としていた視線を力なく持ち上げると、少し離れた場所から見下ろすようにわたしを見やる彼女がいた。
軽く腕を組み、口の端をわずかに弛めている。
「いまのあなたには、ちょっと刺激が強すぎたかしら?」
そして小首を傾げながらも、どこか楽しげに言葉を紡いだ。
わたしは何も答えられずに、ようやく落ち着きを取り戻し始めた息を呑み込みながら沈黙を守り続けた。
まだ身体のどこかが、熱く火照っているような気がする。
それほどまでに、いま見た夢は現実感に満ち溢れたものだった。
……夢?
本当にそうなのだろうか。
あれはいま、冷ややかな眼差しでわたしのことを見下ろす彼女が見せた、単なる幻覚にすぎなかったのではないだろうか。
「残念だけど、夢じゃないわよ」
途端、まるでわたしの心の裡を読んでいたかのように、静かな声音でそう言い放つ。
「……!」
「何を驚いてるの? だって、私はあなたよ。自分の考えくらい、聞かなくても分かるわ」
そして小さく笑みをもらす。
「あなたは……本当に、わたしなの?」
「だから、ずっとそう言ってるでしょ。まだ信じてくれないの?」
「…………」
思わず顔を伏せてしまうわたし。
信じられなかった。
いや、信じたくなかったというのが正直なところなのかもしれない。
たったいま彼女が見せた夢ともつかない何かは、わたしと藤田さん以外、誰ひとりとして知らないはずの出来事だった。
確かにあの日、わたしは藤田さんの腕の中で告白をした。
お兄ちゃんではない、わたしを孤独の鳥籠から助け出してくれたひとりの男性としての藤田さんに、その思いの丈をぶつけた。
そこまでは、わたしの記憶と同じだった。
でも彼女が見せた「記憶」には、肝心な所で大きな食い違いがあった。
それは……わたしの想いを、藤田さんは受け止めてはくれなかった。
『オレは、困ってる琴音ちゃんを放っておけなかったんだ』
わたしの中の記憶。
彼のその言葉で、一度は開きかけたはずの扉は再び閉ざされ、そして隙間から差し込んできた一筋の光明も失われた。
それからのわたしは、どこにも行き場を失ってしまった想いを片手に、あてどなくさまよい続ける迷い子と同じだった。
妹としての役割を演じ続けること。
それだけが、彼の側に居続けるためのたった一つの方法だった。
でも……彼女は違った。
彼女の想いは藤田さんに届いた。
そして教室で……。
それ以上、何も考えられなかった。
わたしにとっては所詮過去の、実現することのなかった可能性でしかあり得ない事実。
そうあることを望み、そして現実とはならなかった儚い希望。
もしあれが彼女が見せた幻影だったのだとしても、それを目の当たりにしたわたしの心は乱れるばかりだった。
「でもこの世界にわたしが二人いるなんて……。もしそうなら、わたしは一体誰なの?」
誰に言うでもなく、呟きをもらす。
「そう、あなたはひとりよ。この世界に、姫川琴音はあなたひとり」
「え? でも……」
意外な一言だった。
まるでいままでの全てが冗談だったかのように、彼女はあっさりとそう言ってのけた。
それなら、目の前にいるわたしに瓜二つの彼女は一体……。
内心のそんな思いが、つい顔にも出てしまったのだろう、
「ああ、誤解しないでね。私が言いたいのは、あくまでこの世界の姫川琴音はあなただけよって意味なんだから」
「……どういうこと?」
彼女の言葉の真意が掴めない。
だからわたしは小首を傾げながら、そう問い質した。
わたしの問いかけに顎に軽く指先を当てながら、少し考えるような素振りを見せる彼女。
やがて何かを思いついたように、
「そうね。私たちは……鏡像とでも言うべき存在なのかもしれないわ」
「鏡像?」
「ええ。鏡の前に立てば、その中には必ずもうひとりの自分自身の姿が映し出されるわよね。でもそれを見て、『これは私じゃない!』なんて言う人はいないでしょう?」
子供に教えて聞かせるようにゆっくりとした口調で、彼女は言葉を紡ぐ。
机と机の間をわたしの方に向かって一歩ずつ歩み寄りながら、それでも彼女の目はわたしを捕らえたまま微動だにしなかった。
「虚像と実像、表と裏。どう表現してもいいわ。でも、そのどちらも同じ私自身であることに変わりはない」
「わたしたちのどちらかが、偽物ということ?」
「……ちょっと違うわね。私たちは、等しくこの世界に存在しているわ。ただその存在の仕方が、微妙に違うの」
かたりと、椅子の引かれる音がする。
床に座り込んだままのわたしに一番近い場所にある椅子を引いた彼女は、膝を揃えてそこに腰を下ろす。
そして少しだけ近くなった視点から、言葉を続けた。
「さっき、あなたは『この世界にわたしが二人いるなんて』そう言ったわよね。そう……それこそが、正しい答えなの」
「答え?」
「こう考えてみて。もし鏡の向こうにあるのが、ただ自分の姿を映し出しているのではなく、もう一つの世界にいる自分を映しだしているのだとしたら」
「…………」
「こちら側の私が『自分は鏡に映った自分の姿を見ている』と思っているとき、鏡の向こうの私もやっぱり『自分は鏡に映った自分の姿を見ている』そう考えているとしたら……」
「その鏡の向こうにいるわたしが、あなただって言うの?」
彼女は満足そうに、そしてにっこりと満面の笑みを浮かべながら頷いた。
鏡の向こうの世界に住む、もうひとりのわたし。
気がつけばわたしは、彼女がもうひとりの自分自身であるという、そのことを事実として受け入れ始めていた。
「あなたも知ってるはずよね。あの夢のことは」
「あの……夢?」
「そう。私たちが子供のころから何度も繰り返し見た、どこまでも続く螺旋の夢……」
そこまで聞いて、脳裏にひとつの映像が浮かび上がる。
それは子供のころから何度となく現れ、そしてここ最近頻繁に見るようになった例の夢のことに違いなかった。
手を取り合い、まるで円舞に興じるようにくるくると螺旋を描きながらどこまでも伸びてゆく二本の鎖。
そのイメージが、鏡を挟んで立ち尽くすわたしと、もうひとりのわたしの姿に重なる。
等しく存在する二人のわたし。
そう思った瞬間、わたしの中でずっと立ちこめ続けていた暗雲が、まるで風に吹かれたかのように切り払われた。
「あの夢は……」
「あれは、私たちよ」
「……あれが?」
「そう」
くすりと笑みもらしながら、そう言う。
「ねじれ続ける二本の鎖は、わたしたちが生きる世界そのもの。そしてお互いに付かず離れずの位置を保ちながら、過去から未来へと進んでゆく」
「過去から、未来……」
「私たちは生まれてからずっと、等しく同じ過去を互いに分かちあって来たの」
「分かちあいながら?」
「ええ、言ったでしょう。私たちの関係は、互いに鏡に映った自分の姿を見つめているに等しいって。だから私はあなただし、あなたは私でもあるの」
そして音もなく椅子から立ち上がると、楽しげに両手を広げながら目の前でくるりと身体を回してみせる。
ふわりと浮き上がった制服の裾の赤さが、どうしてか目に焼き付いて離れなかった。
そして顔には、絶えることなく浮かび続けている微笑み。
その表情を見つめやるうちに、内心でふと小さな疑問が浮かび上がる。
一瞬それを口にしたものかどうか悩み、そしてわたしは思い切ってそれを言葉にしてみた。
「あなたはどうして……そんなに明るく振る舞えるの?」
「え?」
「わたしが持っていない笑顔を、どうしてそんなに簡単に浮かべることができるの?」
いまのわたしにとって笑顔とは、周囲がそれを見せることを求めてきたときにだけ浮かべてみせる類のものだった。
それは親しかった人たちが、わたしの不幸の予知という能力に奇異と畏怖の目を向けるようになり、そして心の扉を閉ざして以来ずっと変わらない習性だった。
藤田さんの手で鳥籠から助け出されたいまも――だからこそわたしは笑顔を浮かべるのに、より一層の意志の力を必要とするようになっていた。
何故なら、藤田さんの前では微笑んでいるわたしでいたかったから。
悲しんだり苦しんだりしているわたしでなく、笑顔のわたしを覚えていて欲しかったから。
彼にもう、これ以上の心配をかけたくなかったから。
それなのに同じわたしであるはずの彼女は、さっきからずっと微笑みを浮かべていた。
わたしの目から見ても、ごく自然に浮かべていると思える笑み。
……どうして、そんなことができるのだろう?
ついいまし方見た、わたしとは決定的に異なる「記憶」が、彼女をそう為さしめているのだろうか。
それが知りたかった。
「そうね……」
小声で呟きながら、一瞬だけ彼女から表情が失われる。
そして人差し指を下唇のあたりに当てながら――それはわたしが考え事をするときの癖だった――思案げに小首を傾げてみせた。
「自分の過去へのこだわり……それが私たちの根底にある一番の動機よ。私はね、ずっと真実が知りたかった。その思いが、少しだけあなたより強かったのかもしれないわね。言い換えれば、わたしの方が少しだけ生きることに前向きだったってことかしら?」
くすりと、忍び笑いをもらしながらそこで言葉を切る彼女。
「なら、わたしは……」
「それは、あなたが一番分かっていることじゃないかしら?」
そう言って、目をわずかに細める。
確かにその通りだった。
わたしはいつだって、自分の過去を否定したいと思いながら生きていた。
周囲の誰もが――パパもママも友だちも――わたしを避けるような、そんな世界をわたしは認めたくなかった。
そんな過去の一切を否定してもっと明るい過去を求め、そして望み続けていた。
だからわたしは文学と、そして歴史の世界へ逃げ込んだ。
他人が経験した過去、他人の想像力が生み出した架空の創作世界を自分の中に取り入れることで、欠け落ちたままの過去を埋め合わせようとしていたのかもしれない。
その意味で、彼女の言うことは正しかった。
わたしたちは等しく、自分自身の過去に対するこだわりをもっていた――ただそのこだわり方が少し違っていただけにすぎなかった。
「私たちは同じ時の流れの中を手を携えて歩みながら、同時にお互いにない部分を相補ってきたわ」
一歩、言葉を紡ぎながら彼女が近づいてくる。
「私たちは、永遠に交錯することのない二本の螺旋鎖。でも同時に、片一方だけでは安定して存在することのできない、不完全な存在」
「…………」
手を伸ばせば届く距離。
視界の半ば以上を彼女の姿で埋め尽くしながら、それを言葉なく見つめ続けるわたし。
「全てを分かち合いながら、私たちはいまここにいる。過去の思い出も未来の可能性も、私たちだけが持つ不思議な能力も……」
「え?」
わたしの声に反応を見せることもなく、彼女は何を思ってかわたしに向かって両手を差し出してくる。
その動きに合わせるようにわたしも、無意識に彼女へ向かって両手を伸ばしていた。
やがて手と手が触れ合おうとする刹那、彼女がぽつりと呟きをもらす。
「そして、欠けた半分の染色体も……」
「……!」
§
ドアを開ける。
途端、室内の温かな空気が廊下に向かって流れ出した。
その感触を肌で敏感に感じ取りながら、わたしは無言で部屋の中に足を踏み入れた。
照明のスイッチを入れると、見慣れた部屋の光景が目に飛び込んでくる。
机、クローゼット、ベット、本棚、小物入れ……全ていつもと変わらない場所に、いつもと同じ姿でそこにあった。
それを見て、どうしてか安堵の思いがわき上がってくる。
窓際に置かれたベットに腰を下ろすと、布団がまるでわたしの身体を受け止めるように柔らかくへこんだ。
頭に巻いていたタオルを外す。
そして濡れたままの髪をタオルを挟みこみながら、湿り気を取るためにゆっくりと拭き取り始める。
柔らかな髪の感触が、タオルを通して手に伝わってきた。
そのまま何かを確かめるように、何度となく髪を拭き続けた。
いまわたしは、ここにいる。
姫川琴音としてのわたしは、この世界に確かに存在していた。
気がつくといつしかわたしは髪を拭く手を止め、じっと自分の手を見つめやっていた。
握っては開く……そんなことを何度か繰り返す。
指を動かすたびに、その感触を通して自分自身の存在感が、意識の中にしっかりと焼き付けられた。
途端、不意に彼女――もうひとりのわたし――の言葉が思い出される。
「そして、欠けた半分の染色体も……」
差し出された手。
そして、それを受け止めようとしたわたし。
「……!」
互いの手が触れ合ったと思った瞬間、わたしは思いもよらないことの成り行きに声にならない声を発していた。
わたしたちの手が、触れ合うことはなかった。
最初からそこには何もなかったかのように、虚しく空気を押すばかりだった。
いや、よく見れば確かにそこにはわたしと彼女の手が共にあった。
でもそれは触れ合うことなく、まるで二枚のスライドを同時に重ね映したように、互いの手の輪郭と重なり合っていた。
「どうして……」
「私たちは、確かに等しい確率で存在しているわ。でもだからこそ、重ね合わせの形でしかお互いの姿を意識することはできないの」
「重ね合わせ?」
「鏡に映った像は、鏡面を挟んででしか見ることはできないし、相手に触れることは絶対にできないでしょ。それと同じ理屈よ」
そう言って、何ごともなかったように彼女は手を引いた。
その途端見るからに不自然な、二つに重なり合っていた手の像が元通りのわたしだけの手に戻る。
慌てて手を引いて、その手に触れてみる。
温かな体温と肌に触れる感触……それは、間違いなくわたし自身の手だった。
「生物が持つ遺伝子の本体DNAは糖とリン酸、それに塩基から構成されているわ。そして塩基には、アデニン、チミン、グアニン、シトシンの四種類が存在している……」
突然彼女は、にわかには理解しがたい言葉を紡ぎ始める。
DNA――それは生物の授業でも聞かされたことのある単語だった。
でもそれはわたしにとって、授業以外での場所での方がよほど耳に馴染んだ言葉だったかもしれなかった。
半数染色体。
わたしの身体には、生まれつき他の人と違って半分の染色体しか存在していなかった。
何かの折りに辞書を調べてみたことがあったが、そこには染色体について「DNAとタンパク質の複合体。人は通常二十三対四十六個の染色体を持っている」と書かれていた。
それが、わたしの身に降りかかる不幸の、全ての原因だった。
「DNAの構造上一番の特徴は、二本の鎖がよじれ合う二重螺旋構造をしている点ね。そしてそれは、各塩基が相補性を有していることが原因なの」
「相補性?」
「ええ。分子構造上の制約でいかなる場合も、アデニンはチミンとしか手をつながないし、グアニンはシトシンとしか手をつなぐことはない。だからお互いの鎖は相手の姿を正確に、ただし左右を逆にして映し出す鏡と同じなのよ」
「鏡……」
「私たちはお互いに半数――二十三個の染色体しか持ち合わせていない。そして生物界において、半数染色体が生き残れる確率は限りなく低い。それは人間である私たちにしても同じ」
「ええ……」
彼女の言ったことは以前、別の科学者の先生からも聞いたことのある話だった。
半数染色体とは、いわゆる突然変異種の一例であること。
自然界に存在する人間以外の動物では過去いくつか例はあったらしいが、人としてはわたしが初めての症例らしいこと。
そして、半数染色体が例外なく短命であることも……。
「でも私たちは、少なくとも十六年近くの時を生き続けているわ。もし本当にわたしたちに染色体が半分しかなければ、それは明らかに異常よ――人によっては奇跡とでも言うのかもしれないけれど……これが何故だか、分かる?」
彼女がどんな答えを求めているのか、わたしには分かっていた。
それはわたし自身長い間抱き続けてきた、自分の身体に関する疑問への解答だった。
だから、ためらうことなく言葉を継ぐ。
「わたしとあなたが足りない半分の染色体を、お互いに補ってきていたから?」
「正解」
にっこりと、彼女は微笑む。
それはまるで、できの悪い双子の妹に対する努力がようやく報われたことを確認できた姉のように見えなくもなかった。
「私たちは同じ姫川琴音。でもね、だからといって全てが百パーセント同じというわけではないわ。相補性を保つために同じ時の流れを生きながら、ほんのちょっとずつお互いの特性に差異を持たせてきた……」
「……鏡に映った自分自身」
最後の言葉を代わりに呟きながら、わたしは彼女に出会ってから初めて口許に笑みを浮かべてみせた。
不思議だった。
最初に出会ったときに感じていた恐れのような感情が、いつの間にかどこにも感じられなくなっていた。
まるで、生き別れの双子の姉妹に会ったかのような……そんな気持ちだった。
「でも、分からないわ」
「何が?」
「鏡の例えは例えとして、わたしたちはお互いに確かに存在しているのに、どうして触れ合うことができないの?」
彼女はいいところに気がついたと言った様子で、小さく頷きながら、
「そうね、私たちは隣り合わせた少しだけ様子の違った世界に生きているわ。そして手を取り合い補い合うことで、その存在を維持し続けているの。でもその違いって何なのかしら?」
「……分からないわ」
「端的には、染色体を半分ずつしか持たない私たち。そしてそれ故に私たちの個性には微妙な差が生じているのよ」
そこで言葉を切ると、彼女はついさっきまで腰を下ろしていた椅子に手を伸ばし、それに触れる。
透き通ることも重なり合うこともなく、ごく自然に触れる手。
しばらくの間、二つの視線がその様を言葉なく見つめ続けた。
そして顔をわたしの方に向けると、
「私はあなたには触れられないけど、この椅子を持つことはできる……これは私の世界とあなたの世界のどちらにも、やっぱりこの椅子が同じ形で存在しているから。だから私もあなたもこの椅子に触ることもできるし、座ることもできるのよ」
「つまり……世界が二つあるのは、わたしたちのせいってことなの?」
「この椅子は私が触れることによって、その存在確率を示す波動関数を収束させたのよ」
「関数? 収束?」
よく分からない言葉が、また彼女の口から飛び出してくる。
ひとつをようやくのことで理解したと思ったら、その途端また見知らぬ新しい言葉が姿を見せる――正直、そんな思いだった。
だからわたしは、ただ首を傾げるばかり。
そんなわたしに彼女は、少し困ったようにため息をつきながら、
「……いいわ。いまはとりあえず、あなたの言葉が正しいとだけ言っておくわ。不完全なわたしたちが存在するせいでそれを補うべく世界は別れ、そして互いに螺旋を描きながら存在し続けているの」
ただ、そう言うだけだった。
そしてわたしは、彼女の言葉に頷き返すことしかできなかった。
§
時報の音で、意識が回想から現実へと引き戻される。
枕元に置かれたその少し古風なデザインの時計の針は、ちょうど十時を指していた。
髪はまだ生乾きのままだった。
肌に触れる、少ししっとりとした髪の感触がそのことをわたしに否応なく教えてくれる。
わたしはそのまま伸びをするように、布団の中に倒れ込む。
ぽふっと柔らかな音が、部屋の中に響いた。
目に映るのは天井と、室内を照らす照明だけ。
そのまましばらくの間、何を考えるでもなくじっと天井を見つめ続けていた。
どれくらい経っただろう、ふと顔を横に向けて視線を転じる。
視線の先にある枕元、そこには目覚まし時計とその傍らに置かれている親子電話の子機が置かれていた。
ゆっくりと受話器に向かって腕を伸ばし、それを手にとる。
プラスチックの無機的な冷たい手触りが、触れる手のひらに心地よく感じられた。
受話器を目の前に掲げる。
そして幾ばくかのためらいの後、わたしは数字の描かれたボタンのひとつを、ゆっくりと押し込んだ。
――ぴっ。
電子音が小さく響く。
押すべき次の数字を脳裏で反芻しながら、指をボタンにかけた。
わたしは何をしようとしているのだろう。
――ぴっ――ぴっ。
電話をかけて、そして何を伝えようというのだろう。
いまでは暗唱できるほどに頭の中に焼き付いているのに、そのくせ一度としてかけたことのない電話番号。
――ぴっ――ぴっ。
いまわたしは、そこへ初めて電話をかけようとしていた。
気がつくと、最後のボタンを残すばかりだった。
これを押してしまえば、もう後戻りはできない。
身体を起こす。
そして手の中で物言わず、じっとわたしの次の行動を待っている受話器を見つめやった。
恐る恐る、指をボタンに当てる。
緊張に指が震えているのが見て取れた。
目を固く閉じ、そしてありったけの勇気を込めて指先に力を込めてボタンを押し込む。
――ぴっ。
とぅるるるる……
ゆっくりと受話器を耳に当てながら、わたしは待つ。
そして思い出していた。
去り際に彼女が語った言葉と、わたしに提示してきた選択肢のことを。
「……時間が、ないの」
「え?」
天井を仰ぎ見ながら、小さな声音で言葉を吐き出す彼女。
それはつい先刻までの、教師然とした見るからに自信に溢れた様子からは打って変わったものだった。
「私が今日、あなたに直接会いに来たのは、私たちに残された時間がもうそれほどないことが判ったからなの」
「残された時間? それって……?」
ことの成り行きが咄嗟に理解できず、そうオウム返しに問いただすことしかできない。
「この数日、あなたのまわりに起こったおかしな出来事……あれがその予兆だったの」
「でもあれは、あなたが……」
わたしの記憶と食い違いを見せる時間割。
目まぐるしく入れ替わる周りの人々の記憶。
そしてその混乱にさらなる拍車をかける、壊れかけたわたしの心。
彼女の存在を受け容れたときから、わたしはその一連の出来事が彼女のしでかしたことだと信じて疑わなかった。
わたしの前に姿を現すための、お膳立てのようなものだったのだと。
でもそうじゃなかった。
「残念ながら私にできるのは、せいぜい混乱の風向きを少し変える程度。混乱そのものはもっと……根本的なところで生じていたの」
「根本的なところ?」
「バランスがね、崩れ始めているのよ。私たちがいままで作り出してきた、螺旋の……」
意外な言葉だった。
そしてどうしてそんなことになってしまったのかについて、わたしの意識は目まぐるしく回転し始める。
でも答えを見出すことはできなかった。
何よりわたしには答えを導き出すための知識が――彼女から多少の予備知識が与えられていたとはいえ、やはり決定的に不足していた。
「本当はね、春ごろからとっくにバランスが崩れ始めていたのよ」
窓際に向かって歩き出す彼女。
そしてわたしから顔を背け、窓外に広がる黄昏の情景を見やりながら言葉を続けた。
「もちろんいままでだって、私たちの間には性格や行動の点で多少のバランスの崩れはあったわ。でもその殆どは、世界の自己修復性のお陰で誤差の範囲内で済んでいたのよ」
「……どういう意味?」
「例えば途中二つに別れた道があるとして、もし私が右に、そしてあなたが左の道を選べばそれでバランスは少しだけ崩れるわ。でもその道の先にあるのが同じ場所だったら、結局はひとつの世界に再収束する。大抵のことは、そうして何とかなっていたんだけど……」
「修正しきれないほどの差が、生じている……」
途端、彼女の身体がぴくりと震える。
それは言葉以上に、わたしの言が正しいことを告げていた。
「五月の……二日ね」
「……ええ」
藤田さんとの出会い。
それはわたしにとって初めての、自分が生きてゆくためには何があっても保ち続けなければならない、かけがえのない存在だった。
そして彼女はあの日、彼の心を捕まえていた。
でもわたしは……。
いつの間にか俯き加減になった視線が、教室の床を捉えていた。
黄昏の教室。
抱き合うわたしと藤田さん。
『オレは、困ってる琴音ちゃんを放っておけなかったんだ』
思い出したくもない、でも否応なしに脳裏に甦るあの時の彼の言葉。
それが全ての始まり。
そしてそれこそが、わたしたちを全ての終わりへと導いて行こうとしているのだと、彼女はそう言う。
「バランスの崩れた螺旋は、相補性によって保たれていた調和の糸を断ち切って乖離と交錯を繰り返し始めているわ。その結果、本当ならあり得なかった世界が現れたり、過去の記憶が入れ替わったりしているのよ」
「このまま放っておくと、一体どうなるの?」
彼女は何も言わない。
だたじっと、窓の外を眺めるばかりだった。
わたしは待った。
彼女が口を開き、そして現状を打開できる解決策を口にしてくれることを。
「可能性は二つあるわ。ひとつはこのまま螺旋鎖が完全に解けてしまい、互いに無関係な世界として続くこと」
「でも、それじゃあわたしたち……」
「ええ。そう長くは持たないと思うわ。だって、本当の意味での『半数染色体』になっちゃうんだから」
「もう一つの可能性は?」
「逆に二本の螺旋鎖が絡まりあい、一本の鎖になってしまう可能性。要するに、どちらかの世界にまとまってしまうってことね」
語尾を楽しげに上げながら、おもむろに彼女はその場でくるりと振り返る。
そして小首を傾げながら、
「そこで質問。あなたなら、どちらを選ぶかしら?」
「後者……かしら?」
ためらいなく、そう答える。
前者では、どんなにあがいたところでわたしには確実な死という袋小路の未来しか残されていない。
それが分かっている以上、考えるまでもない結論だった。
「じゃあ次の質問。私とあなたの、どっちの世界を残すべきだと思う?」
「え?」
「だってそうでしょ。ひとつになる以上、どちらかの世界の記憶しか残すことはできないわ。そうしないと矛盾が生じちゃうもの」
「それは……」
わたしはそこで言葉を切る。
そして考える。
片方の世界に収束することで生き残りを図るとして、それで消え去ることを余儀なくされたもうひとりのわたしは、どうなってしまうのだろう。
初めから何もなかったことになってしまうのだろうか。
それとも残ったひとりの中で、何かしらの片鱗を残して生き続けてゆくのだろうか。
少し考え込んだ後、わたしはその疑問を口にしてみる。
でも彼女の口から返ってきたのは、どこか歯切れの悪さを感じさせる、自信のなさそうな言葉だけだった。
「ごめんなさい。それは、私にも分からないわ。だって、そんなことをするのって、きっとわたしたちが最初だと思うから」
「そう……ね」
「でも私はね……やっぱり私の世界を残すべきだと思うの」
「どうして?」
「だって私の世界には、私のことだけを見てくれる浩之さんがいるのよ。ずっと……私のためだけに一緒にいてくれる、浩之さんがいるのよ」
どうしてだろう、そう言いながら途中少し寂しげな表情を見せる。
それは消え去ることを余儀なくされるだろう、わたしに対する憐憫なのだろうか。
それとも……。
一瞬だけそんな疑問を胸に抱くが、そう思う間もなく彼女はすぐにいつもの楽しげな表情を取り戻していた。
「あなたは……この世界に満足しているの? このままこの世界にいたところで、浩之さんは永遠にあなたのものにならないのよ、きっと」
そうかもしれない。
届かなかったわたしの想い。
それがいつか届く日がくると、儚い夢を抱き続けるくらいならいっそ彼女の世界にその身を委ねた方が……そう思わないでもなかった。
でも同時に、意識のどこかが「本当にそれでいいの?」そうささやき続けていた。
それが、わたしの決断を鈍らせていた。
いよいよ日が没し始めたのか、黄昏より夜の帳の色合いの方が濃くなり始めた教室の中を沈黙が覆う。
どれくらい時が経っただろうか、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「急に決めろってのも、やっぱり無理よね。……分かったわ」
「え?」
「あなたにも、少し考える時間をあげるわ。でも、もうあまり余裕はないと思うから……そうね、明日の夜もう一度会いましょう」
「明日の夜……」
「時間は……七時に、校舎の屋上で。それでいいかしら」
「……いいわ」
わたしは小さく頷く。
その反応に満足したようにこくりと頷いた彼女は「それじゃ、また明日」そう一言残して、現れた時と同様わたしの前からかき消すようにその姿を消し去った。
そして夜の帳が降りた教室には、わたしひとりが残された。
自分の人生を消し去ることの決断を下すために、たった一日の猶予だけを与えられた、わたしが。
かちゃり……その時不意に、回線がつながる。
受話器を取るらしいノイズ混じりの音が、回線を通してわたしの耳へと流れ込んでくる。
言葉を紡ぎだす前に、一度だけ深く息を吸う。
そしてできるだけ心を落ち着かせながら、ゆっくりと口を開いた。
「もしもし、藤田さんのお宅でしょうか? わたくし姫川と申します。夜分遅くに申し訳ありませんが……」