かたかた……と、何かがリズミカルに時を刻む音が耳に流れ込んでくる。
まるでロケットの打ち上げの秒読みをじっと待つ飛行士のように、わたしの中で少しずつ緊張が高まってくるのが分かった。
時を刻むその機械音に足並みを合わせながら、目の前の視界一杯に雲ひとつない秋晴れの青空が徐々に広がってゆく。
綺麗な空だった。
そしてその中を楽しげに駆け抜ける、風の精たち。
彼女たちはくるくると舞い踊ってはわたしの髪と肌を優しくくすぐり、そしていずこかへと去ってゆく。
それが不思議と心地よかった。
目を閉じる。
その途端、紺碧に染め上がられた視界が暗転し、まるで空のただ中にひとり取り残されたかのような錯覚を、ふと抱いてしまった。
奇妙な浮揚感。
その間も秒読みは続き、風はわたしの頬をなおも優しく撫で続けた。
そしてわたしを乗せた機械の動きが止まる。
刹那の静寂の到来。
わたしは緊張にのどを鳴らし、そしていままで握りしめていたバーをさらにきつくぎゅっと握り直した。
再び目を開き、ちらりと視線を横に向ける。
藤田さんがそこにいた。
わたしと同様どこか緊張気味な面もちで、彼もじっと次の瞬間の到来を待ち続けているようだった。
遠くから、軽やかなテンポで刻まれるマーチの音色が聞こえてくる。
傍らの藤田さんの姿とその音色とが、いまわたしがどこにいるのかを、はっきりと自覚させてくれた。
それを確認してから、わたしはほんの少しだけ口の端を弛め、そして目線を元に戻す。
次の瞬間、大空を映し出したまま凍りついていたはずの視界が、何の前触れもなく急に変化を見せた。
「うわわわわ〜〜〜っ!」
藤田さんの声が、わたしの耳一杯に流れ込んでくる。
同時に背中を座席に押しつけようとする強い圧力が、全身に押し寄せてきた。
強烈な遠心力がかかるたび、身体は右に左にと力一杯振り回され、目に映る雑多な情景が一瞬だけその場にとどまっては流れ去ってゆく。
藤田さんが、なおも何か叫んでいる。
でも、何を言ってるかまではわたしには分からない。
それどころじゃなかった。
わたしはわたしで、身体を固定しているバーをしっかりと掴んだまま動きに身を任せ、悲鳴をあげ続けた。
「きゃ〜〜〜っ!!」
§
「面白かったですね、藤田さん」
「まあまあ、だったかな。はははっ……」
「そうなんですか?」
横を歩く藤田さんが、乾いた笑いと一緒に少し疲れたような笑みを浮かべる。
わたしは後ろ手を組みながら、そんな彼の横顔にちらりと目を向けてみた。
いくら空いていたからとはいえ三連続でジェットコースターというのは、さすがにちょっと無茶だったかもしれない。
かくいうわたしも、藤田さんほどではなかったが多少の疲れは感じていた。
「あの……疲れました?」
両手を後ろ手に組んだまま、少し身体を傾けるように藤田さんの顔を覗き込みながら、わたしは訊ねる。
「え? あ、ああ。大丈夫だって」
一瞬の間を置いて、そんな反応が返ってきた。
わたしは小首を傾げながら、
「本当ですか?」
「もちろん」
大きく頷きながら藤田さんは、今度は一点の曇りもない満面の笑みを浮かべてくれた。
その笑みを見て、ようやく安心することができた。
「でもさ、次はもう少し大人しめのやつにしてくれると嬉しいかな……」
照れくさそうに鼻の頭を指でかき、そして目線をわずかに揺らしながら小さくそう呟く。
その様子にわたしは目を細めながら、
「くすっ。はい、分かりました」
そしてチケットを買ったときに一緒に貰ったパンフレットを開きながら、改めて園内のアトラクションの配置図に目を落とす。
「えっと、いまわたしたちがいるのがここだから、次は……」
紙の上を指でつっとなぞりながら、わたしはそこに描かれた様々な乗り物の名前を確かめてゆく。
そして何度か顔を上げては、周りの光景に案内図のそれを当てはめていった。
「じゃあ……次はこれに乗りましょう」
そう言ってわたしが藤田さんの方に顔を向けたのは、案内図を見始めてから数分が経ってからのことだった。
「あれ、藤田さん?」
ところが、たったいままで傍らにいたはずの藤田さんがいなくなってしまっている。
どこに行ってしまったのだろう。
ひょっとして、トイレか何かだろうか。
そう思ってきょろきょろと周りを見回すと、少し離れたところにあるベンチに腰を下ろしている彼の姿があった。
「もう藤田さん、何も言わないで行っちゃうなんてひどいです」
「なに言ってんだよ、琴音ちゃん。オレ、ちゃんと『そこのベンチに座ってるから、決まったら呼んでくれ』って言ったぜ」
思いもよらぬ彼のその言葉に、ちょっと虚を突かれた思い。
「そうなんですか?」
「琴音ちゃんってば『は〜い……』って、何だか気の抜けた返事しかしないから大丈夫かなって思ってたんだけど。その様子だと、やっぱりオレの言葉聞いてなかったな」
「そう……みたいです。ごめんなさい」
「ま、いいさ。で、次どこ行くか決まった?」
落ち込んで少し俯き気味に肩を落とすわたしを気遣ってか、優しげな口調で藤田さんが訊ねてくる。
そんなちょっとした彼の優しさが、嬉しかった。
顔を上げたわたしは、そして満面の笑顔で、
「はい! 今度はこれに乗りたいです」
案内図の一点を指差しながら、それを藤田さんに差し出す。
「どれどれ……」
興味深そうに覗き込む藤田さん。
でも次の瞬間、何とも言葉にし難い表情を浮かべていた。
「琴音ちゃん……」
「はい?」
「次はこれ?」
「はい」
「でもこれって……」
「この案内図の説明によると、先月できたばかりの新しいアトラクションみたいですね。二百メートルの高さから、垂直に乗り物が落下するのが売りなんだそうですけど……」
ついさっき目を通したばかりの案内図の内容を、かいつまんで説明する。
数瞬の間。
そしてややあってから、
「琴音ちゃんってさ、もしかしなくても絶叫系の乗り物とか好き?」
藤田さんは、少し自信のなさそうな声音を発する。
「好きっていうほどじゃないですけど、別に嫌いじゃありませんよ」
「にしてはさ、オレの記憶が間違ってなければ、さっきからずっとコレ系のやつしか乗ってないような気がするんだけど……」
「そうですね。でもわたし、お昼まではずっとこういうのに乗るつもりだったんですけど」
「お昼まで、ずっと?」
そう言って彼は腕時計に目を落とす。
いまは、十一時を少し過ぎたあたりだ。
行列さえできていなければ、お昼までにもうあと二つか三つくらいのアトラクションはこなせるだろう時間だった。
「だってそうすれば、お昼になったらきっとお腹が減ってますよ」
「そりゃまあ、そうだろうけど……」
どこか訝しげな顔つきの藤田さん。
お腹が減ったからどうなるというのか、そんな疑問が顔に書いてあるように見えた。
その様子にわたしは小さくため息をつきながら仕方なく、今日のために用意しておいた秘密を口にする。
「本当はお昼まで内緒にしておこうと思ったんですけど……実はですね、わたし今日はお弁当を作ってきてるんです」
「え?」
「藤田さん、前に言ってたじゃないですか。わたしの手料理を食べたいって。だから……」
そこで言葉を切る。
それは藤田さんが何日か前――校舎の屋上でお昼を一緒したときに言ったことだった。
でもわたしには、一抹の不安があった。
藤田さんは、果たしてそのことを覚えてくれているだろうか、と。
幸いなことにそれは、杞憂に過ぎなかったらしかった。
「ほ、本当に?」
驚いたように目を丸くしながら、聞き返してくる。
その真剣な様子に少し気圧されるものを感じながら、それでもわたしは頷き返す。
「はい。朝の五時に起きて用意しましたから」
「オ……」
「……お?」
「オレはなんて果報者なんだ! ラッキーっ!」
途端、さっきまでの疑わしげな様子はどこへ行ってしまったのか、藤田さんは心から嬉しそうにわたしの手をとってその場で踊り出す。
「ふ、藤田さん?」
「さあ、そうと決まればじゃんじゃん行くぜ!」
そう言って藤田さんは、わたしの手をぐいぐいと引っぱる。
「昼までに五個でも十個でも、こうなったら乗れるだけ乗るぞ」
「あ、あの……」
「で、どんどん腹を空かせておかないとな。後に琴音ちゃんの手料理が控えているって分かればもう、百人力だよな」
「藤田さん……」
「それで、次はどれに乗るんだ、琴音ちゃん?」
そこでようやく藤田さんは、わたしの方に顔を向けてくれる。
そしてわたしは、彼がいままさに歩きだそうとしていたのとはちょうど正反対の方向を指差して見せた。
「ですから、さっきから向きが違いますって言おうとしてたのに……」
「…………」
「藤田さんったら、すっかり自分の世界に入っちゃって」
「……ごめん」
「くすくす。いいです、気にしてませんから」
わたしは手を口許に当てながら、小さく笑みをこぼす。
そして今度は、わたしの方から彼の手を取る。
「さ、行きましょう」
「任しといてくれ。腹が減って動けなくなるまで、全力で行くぜ」
「もう、藤田さんったら……」
自分でも不思議だった。
どうしてこんなに自然に彼の手を取れるのか、そしてこんなに自然に会話ができるのかが。
出口の見えない場所を、あてどなくただ歩き続けるばかりだったこの数ヶ月。
それがまるで、泡沫の夢だったのようにも思えてしまう。
でも……。
そう思った途端、わたしの中に突き刺さったままの小さな棘がちくりと心に痛みと、できることなら思い出したくなかった過去を甦らせる。
……大丈夫、分かっているから。
慌ててそれを心の奥底に沈み込ませながらそう、内心で小さな呟きをもらした。
§
月明かりに映える、校舎の床と壁。
頭上には満天の星空が、まるで月の輝きに負けまいとするかのように、瞬くようなきらめきを発し続けていた。
わたしはそこで彼女を待つ。
――誰を?
そんな声が、どこからともなく聞こえてくる。
わたしはその問いかけに即座に「わたしを」と、そう答えて返した。
――何故?
少し間を置いて再び、やはり声の主は分からないままそんな質問が発せられる。
今度はわたしも、即座に返事を返すことができなかった。
わたしは、一体何のために彼女に会おうとしているのか。
約束だから。
それは確かにその通りなのだが、質問の主が聞きたかったのは彼女と会って、そしてどうしたいのかということなのだろう。
でもわたし自身にも、それは分からなかった。
偶然と奇跡が作用した結果、鏡の表裏となって存在しているわたしたち。
文字通りわたしの命は二つに引き裂かれ、そして互いに足りない部分を相補うことでいままでを生きてきた。
鏡……。
彼女――もうひとりのわたしは、あの日教室でわたしたちの関係を鏡を挟んだ存在として説明してくれた。
鏡の前で右手を上げれば、そこに映るもうひとりのわたしは左手を上げ、首を左にかしげばやっぱり彼女は左に首を傾げる。
それがわたしたちだった。
でもそれなら、わたしたちを二つの存在として映し出している鏡とは、一体何なのだろう?
絡まりあう二本の鎖、それは交わることなく常に一定の距離を置いて螺旋を作り続ける。
でも現実には、互いに触れ合うはずのないわたしと彼女の世界は交錯を繰り返し、混乱と無秩序をいまも生み出し続けていた。
藤田さんが、そうなのだろうか。
わたしと彼女を異なる存在として、そして互いに触れ合うようないまの状況を作り出した鏡なのだろうか。
「でも藤田さんは関係ない。何も知らない……」
それはあくまでわたしと、もうひとりのわたしである彼女との間に横たわる問題だった。
もし彼女の言葉が正しいのなら、わたしが藤田さんと始めて出会う前から既に世界は二つに分かたれ、螺旋を描き続けていたはずだ。
「じゃあ、どうして……」
「まだ、そんなことを考えていたの?」
「えっ?」
誰に向けて口にしたわけでもない呟き。
でもそこに答えが返ってきたとき、心臓が飛び出しそうなほどに驚いてしまった。
慌てて目を声がした方に向ける。
そこにいたのは……わたしだった。
正確にはわたしとは異なる世界で少しだけ違う人生を歩んできた、もうひとりの姫川琴音。
「私たちは、互いに鏡に映し出された鏡像。それでいいじゃない。そこに何か意味を見出そうとしても仕方がないわ」
「でも、自分自身のことです。知りたくなるのは当然じゃないですか?」
わたしが知りたかったのは……真実。
自分の身に何が起きていてそれがどうしてなのか、そしてその結果どうなるのか……ただそれを知りたかったのだ。
「それにね、今更何を考えたって無意味よ」
まるでわたしの考えを読んだかのように、軽く腕を組みながら彼女は冷たくそう言い放つ。
言葉と同じくその表情は固く、瞳にはどこか嘲りにも似た光が込められているようにも感じられた。
「どうして、そんなことを言うの?」
感情的に反発を覚えるわたし。
それでも彼女は冷静さを保ったまま、じっとわたしを見つめ続けていた。
沈黙が続く。
それを破ったのは彼女の方だった。
わざわざ説明するまでもないだろう、そう言いたげに少し気怠そうな様子で口を開く。
「だって残るのは私の世界なのよ。あなたの世界は、あなたと一緒にもうすぐ消えてしまうんだから。ねえ、浩之さん?」
「……!」
彼女の呼びかけと共に姿を現したのは、紛れもなく藤田さんその人だった。
傍らに立つ彼女と同様、どこか冷めた目つきでわたしを見据えていることにかすかな違和感を覚えてしまう。
でもそこにいるのは、確かに藤田さんに違いなかった。
「あれがキミの言ってた、鏡の中の彼女なんだ?」
「ええ。でも安心していいですよ。もうすぐ残るのは、私ひとりだけになりますから」
彼女が藤田さんに向かって発した声音、それはわたしに語りかけるときは全く違った、感情の込められたものだった。
「そんな!」
「あの時、私は言ったはずよ。残る世界はひとつだけ。それでどうして、あなたの世界を残す必要があるの?」
「でも……」
「私の世界には、私だけを見てくれる浩之さんがいるわ。でも、あなたの世界の浩之さんはそうじゃない。それだけでも十分な理由だと思うけど」
いつの間にか藤田さんの腕に手を回した彼女は、そのまま彼に身体を預けるように寄り添いながら、わたしに顔を向けていた。
藤田さんも彼女のその動きをごく自然に受け止めているようで、表情ひとつ変えることなく視線だけは相変わらずわたしへと向け続けている。
「あなたの世界は、私の世界に吸収される形で消えてしまうわ。……あ、でもちょっと違うわね。最初から何もなかったことになるのかしら。そして、そのことを知っているのは……私たちだけ」
「…………」
「でも大丈夫。安心して。ときどきは思い出してあげるから。あなたという、もうひとりの私がいたことを」
その途端、わたしは急激なめまいにも似た感覚に襲われる。
額に手を当てながら、そのまま床に膝を付こうと姿勢を崩す。
そしてその時になって始めてわたしは、自分の身体の膝から下が消えてしまっていることに気が付いた。
「身体が……」
信じられないものを見る思いで、いまはもう失われてしまった、たったいままで身体の一部があったはずの場所をわたしは呆然と見つめ続ける。
でも何度見ても、そこには何もなかった。
「もう時間よ。じゃあね、もうひとりの姫川さん」
はっと顔を上げる。
そして助けを求めるように、藤田さんに目を向ける。
でも彼は何の感慨を抱いた様子もなく、冷ややかな視線を返してくるばかりだった。
「藤田さん!」
わたしは手を差し出しながら、彼の名を呼ぶ。
「助けて、藤田さんっ!」
彼の返事はない。
既にわたしの身体は、腰から下の全てが消え去ってしまっていた。
同時に、先刻からずっと感じ続けている目眩がますます強いものになり、そして意識が急速に薄れ始めていた。
これが彼女の言う「ひとつになる」ことなのだろうか。
……分からなかった。
ひとつ確かなのは、わたしという存在が消え去ることですべてが終わるということ、ただそれだけだった。
「どうして、藤田さん! 藤田さんっ!」
答えが返ってくることがないと知りながら、それでもわたしは壊れたレコードのように藤田さんの名を、何度も何度も呼び続ける。
「……無駄よ。だって浩之さんは、もう私だけの浩之さんなんだから。あなたのじゃない、私のね」
嘲笑気味の声。
そう言って彼女は、藤田さんの腕に回していた手の力を強め、ますます身体を密着させる。
まるで見せつけるかのように。
それが、わたしの見た最後の光景だった。
§
「……ちゃん、琴音ちゃん?」
誰かが呼んでいる。
その声に反応して目をうっすらと開いてみると、藤田さんが少し心配そうな表情を浮かべながらわたしを見つめているのが間近に映し出される。
「藤田……さん?」
焦点の合わない、どこかぼんやりした意識のまま小声でそれだけを口にする。
次の瞬間、どうやら彼の肩に預けていたらしい頭をぱっと跳ね起こして、改めて藤田さんに向き直る。
たったいままで目の前にいた、凍りついたかのように冷ややかな彼の眼差しがその姿と重なる。
「ん? どうしたんだよ、琴音ちゃん?」
でも藤田さんは、そんなわたしの反応にどこか不思議そうな表情を浮かべるばかり。
それでわたしは、ようやく自分が夢を見ていたことに気がついた。
「……夢?」
「さっきから何か、ちょっとうなされてたぜ。ひょっとして、恐い夢でも見てたのか?」
「わたし、寝ちゃってたんですね」
そして改めて、周囲に目を向けてみる。
そこは一面に芝生の植えられた、ちょっとした広場のような場所だった。
所々に一定の間隔をおいて幾つものベンチが置かれていて、そのどれにも見知らぬ人々が腰を下ろしている。
わたしと藤田さんが座っていたのも、そんなベンチのひとつだった。
ここは……遊園地。
そしてわたしは今日、ここに藤田さんと一緒に来ている。
今日の記憶を反芻しているうちに、ようやくのことでぼやけたままだった意識がはっきりしてくる。
「そういや朝からずっとはしゃぎ通しだったもんな、琴音ちゃん。きっと疲れてるんだよ」
時計を見ると時間は、五時を少し回ったあたり。
日が没するまでにはまだちょっと早かったが、それでも空に浮かぶ太陽はだいぶその位置を傾かせていた。
心なしか空も、黄昏にその身を染め始めているような気がする。
「大丈夫か?」
「ええ。ちょっと……ううん、とっても恐い夢を見てました」
いま思い出しても、それはともて嫌な夢だった。
そこにいたのは藤田さんと、もうひとりのわたし。
彼女は楽しそうに、そして藤田さんは冷たい表情のままでわたしが消えてゆく様を見つめていた。
おもむろに、わたしはベンチから立ち上がる。
「琴音ちゃん?」
「あの……わたし、お手洗いに」
「あ、ああ。じゃあオレ、ここで待ってるよ」
「はい、ごめんなさい」
軽くお辞儀をしてそれだけ言うとわたしは、ポーチを手に急いで藤田さんの側を離れる。
そして、広場の端にあるトイレに駆け込んだ。
いかにも遊園地に設置されたものらしく、それはまるで積み木細工のようなデザインのそれは赤や緑の原色に彩られていた。
洗面台の前で立ち止まり、そして目の前の壁一面にはめ込まれた鏡の前で改めて自分の姿を見つめやる。
そこに映し出されていたのは、紛れもなくわたしだった。
目も口も鼻も、そして髪も手も足も、すべてがいつも見慣れたパーツで構成されているわたし自身だった。
そのことにどうしてか、ほっと安堵のため息をもらしてしまう。
鏡の中のわたし。
そして、それをじっと見つめるわたし。
果たしてそのどちらが、鏡に映し出された鏡像なのか。
こうして鏡を見ているわたしなのか、それとも鏡の中から真剣な眼差しを返してくる彼女の方なのか。
もうひとりのわたしは、わたしがそうであるように無言のままだ。
すべてを見通し、そしてわたしが何か言葉を紡ぐのを待っているかのように、ただ静かにわたしのことを見据えていた。
不意に、彼女の口が開かれる。
『結論から言うと、私はね……私の世界を残すべきだと思うの』
同じ声音、そして同じアクセントで、一字一句違うことなくあの日彼女が口にした言葉を再現して見せた。
それを耳にするたび、心が言葉にし難い締め付けられるような苦しさに襲われる。
でもいま、それを口にしたのはわたし。
そして鏡に映るもうひとりのわたしは、わたしの口の動きを真似ただけにすぎなかった。
「そう、ね。大丈夫、分かってるから……」
残るべきは彼女。
それは、彼女の想いが藤田さんに届いたから。
消え去るべきはわたし。
何故ならわたしの想いは、藤田さんに届かなかったから。
それだけで十分だった。
何故ならわたしたちが保ち続けてきたバランスを崩したのは、他ならぬ藤田さんとの出会いだったから。
だからいま、その引き裂かれたわたしの想いをひとつにすることで、崩れかけたバランスを取り戻さなければならいのだ。
「でも、お願い。もう少し……あと少しだけわたしに時間をください。藤田さんと、最後の思い出を作るだけの時間を……」
鏡の中のわたしは何も答えない。
ただ言葉なくじっと、わたしを見つめやるばかりだった。
§
「藤田さん藤田さん。ほらあれ。街があんなに小さく見えますよ」
「何だか、ミニチュアの街を見てるみたいだな」
ゆっくりゆっくりと視界が動いてゆく。
見れば遮るものひとつない完全に開けた視界の中に、街と空とが地平線を境にどこまでも広がっていた。
時折足元が揺れるのは、ゴンドラが風に吹かれているせいだろうか。
あれから藤田さんが待つベンチに戻り、今度は観覧車に乗ろうと彼を誘った。
藤田さんは二つ返事でOKしてくれた。
乗り場に着いてみると幸いなことに観覧車の前に列はなく、わたしたちはそのままゴンドラの人となった。
そしていまわたしの前にある、黄昏に染め尽くされた茜色の空。
「キレイ……」
ゴンドラはまだ頂点にまで達していないのか、視界はますます高くなっていく。
それに歩調を合わせるかのように、空も紅の色彩を濃くする一方だった。
けし粒のような街並みの中にぽつりぽつりと光が見え始めているのは、きっとそこだけは日暮れより一足早く、家の明かりが灯されたからに違いない。
「ふふっ、ほら藤田さん。あそこのお家、もう明かりを灯してますよ」
「え? ああ、本当だな」
わたしがそのあたりを指差すと、ちょうどわたしの正面に座っていた藤田さんが身を乗り出して目を向ける。
「……わたし、こうやって家の灯火を見るのが好きなんです」
「どうして?」
「だってあの光の下には、ちゃんとした家族の営みがあるじゃないですか。あそこには、わたしの家にはないものが……あるんです」
「琴音ちゃん……」
「あ、誤解しないでくださいね。だからといってわたし、寂しいとか悲しいとか思っている訳じゃないです。ただ……こうして外から見ていて、もしかしたらあれはわたしの家なのかもしれないって、そう思ったりするときはありますけど」
それきりわたしは口を閉ざし、じっと窓の外の情景を見つめ続けた。
藤田さんも、やはり無言だった。
そのまま沈黙が続く。
その間、ゴンドラが揺れるときに発するかすかな金属音だけが、わたしの耳に届く音の全てだった。
「あ、琴音ちゃん。あれ……」
どれくらい経った頃だろう、そろそろゴンドラが頂点に達したと思われるあたりで、不意に藤田さんが口を開く。
空に向けられた彼の目線を追うとと、そこにはぽつりと孤独に輝く空の灯火があった。
「……一番星」
「ああ。宵の明星ってやつだな」
薄紅に覆われた空のただ中に光り輝くそれは、言葉に言い表せないほどに綺麗だった。
たったひとり、誰よりも早く空のただ中に姿を現した金星。
でも彼女は、だからといって孤独の寂しさを漂わせることはなく、かえって孤独であるが故のどこか凛とした気丈さにも似た存在感を、わたしたちに向かって放ち続けていた。
「琴音ちゃんってさ、きっとあの星と同じなんだな」
「え?」
唐突な彼のその言葉に、思わず首を傾げてしまうわたし。
「それって、どういう意味ですか、藤田さん?」
「あの星はさ、いまの時期だと誰よりも早く夜の空の中に現れるし、もう少し後の季節になったら今度は、誰よりも最後まで空に輝いているよね」
「は、はい。金星のことを『宵の明星』とか『明けの明星』とか言うくらいですから」
「そんな時って、いつだって彼女はひとりな訳だ」
「だから、あれがわたしだと……藤田さんは思われるんですか?」
視線を落としながら、つい声までも落とし気味にしてしまうわたし。
わたしがいつだって孤独だったのは、藤田さんに言われるまでもなく事実だった。
でもだからといってそのことを、改めて指摘されるのはやはり悲しかったし、辛かった。
藤田さんもわたしのそんな思いに気づいたのだろう、この場の雰囲気を和らげようとしてか少し冗談めいた口調で、
「まあまあ、最後までオレの話を聞いてくれよ」
「あ、はい」
そして、俯かせていた顔を改めて藤田さんの方へと向け直す。
わたしと目が合うのを待って、彼は再び口を開いた。
「こうして見れば確かに空にはあの星だけが輝いていて、ちょっと見には誰だって彼女は孤独だと思うぜ。でもさ、だからといってそれ以外の星が宇宙から全部消えてなくなった訳じゃないだろ?」
「…………」
「たまたまいまは見えていないだけで、彼女の周りにはやっぱり無数の星が存在してるはずだぜ……ほら」
彼のその言葉に導かれるように、わたしは視線を再び黄昏から宵闇にその色彩を変化させ始めた空へと向けてみた。
「あ……」
そこにわたしはは、未だに強く輝き続ける宵の明星――金星の近くに、別の星がまたたき始めている姿を見出した。
「ほら、彼女はもう孤独なんかじゃない」
「……はい」
「琴音ちゃんにもさ、いまは見えないかもしれないけど、キミのことをやっぱり見守ってくれている人がたくさんいると思うぜ。だからさ、なんて言うか……ああっ、肝心なときにいい言葉が見つからないっ!」
そう言って、照れくさそうに急に頭をかき始める藤田さん。
その様子にわたしはつい、笑みをこぼしてしまう。
「くすくす。ありがとうございます、藤田さん。藤田さんの仰る意味、よく分かりました」
「そうか? ちょっとばかし舌足らずだったけど、つまりはまあそういうことだ」
「ええ。藤田さんはわたしにとってきっと、彼女を側で見守ってくれているあのお星さまと同じなんですね」
そう言って少し離れた位置で、明星を見守るように輝く小さな星を指差す。
「あの貧相な輝きが、オレかぁ。う〜ん……」
藤田さんは藤田さんで、何だか全然関係ないところで悩み始めてしまっているようだ。
その様子が、わたしの笑いを一層楽しいものにしてくれる。
「まああの星がオレと同じで、美の女神たる彼女を陰ながら見守っていると、そう思えばいいんだよな。うんうん」
「え?」
「要するに、オレは誰よりも琴音ちゃんに近い存在なわけだ」
「……でも、近しいにしても色々ありますよ」
藤田さんのストレートなもの言いに、ちょっと気恥ずかしさを覚えてしまったわたしは、半分照れ隠しにそんなことを口にする。
「女神を守る守護神とか」
「うんうん」
「王女を守るナイトとか」
「うん」
「女主人に使える執事とか」
「う〜ん」
「あと、お付きの小姓なんていうのも、やっぱり近しいと言えば近しいですよね」
「そ、それはちょっと……」
最後のはさすがに藤田さんにしても心外だったのか、がくりと姿勢を崩して困ったような表情を浮かべていた。
その様に、わたしは口許を手で押さえながらつい笑みをこぼしてしまう。
「ふふっ、ごめんなさい……」
「なあ琴音ちゃん。オレとしてはもうちっと、いい役どころが望ましいんだけどなぁ」
「くすくす……そうですね、考えておきます」
「ま、そこんとこひとつ、よろしく頼まあ」
頭をかきながら、そう言ってまるで時代劇の役者のように藤田さんは軽く啖呵を切る。
わたしは小さく頷きながら、
「はい。うふふふ……」
そしてわたしの笑みにつられるように、藤田さんも楽しげな笑みをもらし始める。
頂点を過ぎ、徐々に地上に向かっての帰路を辿り始めるゴンドラ。
その中ではわたしと藤田さんの発する笑い声が、いつ終わるともなしに流れ続けた。
「ふふっ……」
「あはははは……」
§
「今日は……とっても楽しかったです」
観覧車を降り、園内の中央を真っ直ぐに貫いている大通りを歩きながらわたしは、藤田さんに向かっておもむろにそう切り出した。
後ろ手に藤田さんの半歩ほど前を歩いているので、彼の表情は見えない。
空はまだ半ば以上が黄昏に包まれていたが、あと一時間もすれば満天の星空が頭上に広がり始めるに違いなかった。
「急にどうしたんだよ、琴音ちゃん? それにまだ、見てないアトラクションだって残ってるぜ。今日はこれからナイトパレードがあるみたいだし……見ていかないのか?」
「もういいんです。だって……」
「ん?」
そこから先の言葉を続けることができない。
だってわたしには、もう時間が残されていませんから……本当はそう言いたかった。
でもそれは、言ってはいけない言葉。
笑顔で別れるために、そしてわたしの記憶の中で藤田さんとの最後の思い出を楽しいもので締めくくるためにも、口にするわけにはいかなかった。
周囲に視線を向けると、そろそろ家路につこうとゲートに向かって歩いてゆく家族連れや、たったいま来たばかりで案内図を見ながら何に乗るかを話しているカップルといった、そんなどこか穏やかな情景がわたしの目にとまる。
右に左にと視線を揺らしながら、わたしは言葉なくゆっくり歩き続けた。
その少し後ろを、藤田さんも無言でついてきてくれている。
「なあ琴音ちゃん。ひとつ、聞いてもいいかな」
そう彼が話を切り出したのは、一旦会話が途切れてから少し経ってからのことだった。
わたしは振り返らずに、言葉だけで反応する。
「はい。何でしょう?」
「あのさ……何か、オレに隠してることはないか?」
「えっ?」
その言葉に、思わず身体の動きが止まってしまった。
まるで時間までもが凍りついてしまったかのような、そんな錯覚を覚えさせるほどの衝撃がわたしを襲う。
わたしは後ろ手を組み、そして藤田さんには相変わらず背中を向けたまま、その場で足を止めた。
「……別にわたし、何も隠してなんかいませんよ。藤田さんは……どうして、そんなことを思われるんですか?」
ようやくそれだけを口にして、そのまま彼の答えを待つ。
遠くから、楽しげなマーチの旋律が流れてくる。
それを無意識に耳の奥で聞き流しながらわたしは、じっとその場に佇み続けた。
「根拠はない。オレの単なる勘と言ってしまえば、それまでだ」
「そう、ですか……」
「でもさ、ここ数日の琴音ちゃんって何か変だったぜ。確かに琴音ちゃんはさ、普段から物静かな女の子だって思ってた。でもさ、ここんところ妙にふさぎ込んでるっていうか、何か悩み事をひとりで抱え込んでるみたいにオレには思えた」
「…………」
「それで昨日の電話だろ。昨日の琴音ちゃんは、まるで悩み事が全部解決したみたいに明るくなってたからさ、正直あの時はほっとしたよ、オレ」
その言葉で、昨日の電話口での彼の反応が思い出される。
確かに、最初こそちょっと戸惑い気味の反応しか見せてくれなかった藤田さんだったが、それでもわたしのお願いをすべて聞き入れてくれた。
あの時の彼の心の裡には、こんな思いがあったのだ。
「でも今日ここにきて、やっぱり変だと思ったんだ」
「何が、ですか?」
「確かに楽しそうだったよ。どっちかっていうと、オレの方が琴音ちゃんにあちこち引きずり回されてたって感じだったしな。でもさっき、遊び疲れてベンチでうたた寝をしてたときの琴音ちゃん、何だかうなされてたぜ」
「……前にテレビで見たホラー映画の、恐い夢を見てたんです」
「嘘だね」
即座にそれを否定してのける藤田さん。
その声には、わたしの言葉を否定するだけの確信を抱いているかのような、どこか自信に満ちた何かが感じられた。
「琴音ちゃん。キミがうなされてるときにオレ聞いたんだ。小声で、でも確かに『助けて、藤田さん』って……そう呟いたのを」
「…………」
「なあ琴音ちゃん、キミは一体何を悩んでるんだ? 何をひとりで全部抱え込もうとしてるんだ? どうしてオレに相談してくれないんだ?」
あなただから……藤田さんだから相談できないんです。
そう言いたかった。
そして彼に、この何日間かの出来事をすべてを話してしまいたかった。
空を見上げる。
観覧車から見た宵の明星はいまも凛とした光を発し続け、そしてわたしを優しく見守ってくれていた。
「藤田さん……」
空気が震え、それだけが形となってわたしの口から流れ出す。
静かだった。
周囲を流れるマーチ音楽も子供たちの楽しげな嬌声も、そして風の音もわたしの耳には何も入ってこない。
穏やかでいて、そして落ち着いた空気がいつの間にか、まるでわたしを包み込むようにその場に漂っていた。
後ろ手に組んだままの手をゆっくりと解き、手のひらへじっと視線を落とす。
細く、小さな手。
その先で西日に押されるように長く伸びる影は、まるで仲間を求めるようにわたしの手を暗闇の中へ引きずり込もうと、ゆらゆらと揺れ動いていた。
影に覆われた手のひら。
わたしの中に消えようとしているわたし。
そしてわたしは、その小さな手で掴めるだけの幸せすら手に入れることのできないまま、いま藤田さんとの別離の言葉を探している。
それが悲しかった。
それが寂しかった。
一度だけ小さく息を吸って、そして続きの言葉を紡ぎ始める。
「……お願いがあります」
「え?」
くるりと、藤田さんの方に向き直る。
途端、少し驚いたような藤田さんの表情が目に飛び込んできた。
そして両手を合わせて手のひらを上に向けながら、それを彼の前に差し出す。
「見てください」
「……琴音ちゃん?」
「いいから、わたしの手をちゃんと見てください」
もう一度そう言うと、藤田さんは怪訝そうな色を浮かべながらも諦めたように少し腰をかがめて、わたしの手の中を覗き込んでくる。
それを確認してから、次の言葉を紡いだ。
「今度は、目を閉じてください」
「…………」
間近からわたしを見やる藤田さんの瞳が、その意図するところが理解できずに困惑げに揺れているのが分かる。
わたしはそのまま無言で、彼の動きを待った。
程なく藤田さんは、わたしの言う通りに両目を固く閉じてくれた。
夕日に照らされ、藤田さんの全身が紅に染め尽くされていた。
髪も服も……そして肌も。
刹那、わたしは差し出したままだった両手を彼の首へと回す。
足を伸ばしてつま先立ちになり、そのまま顔を近づけた。
唇に触れるかすかな、そして柔らかな感触。
それを自覚した次の瞬間わたしは回した手を離し、ぱっと彼の側から飛び退いた。
慌てて目を見開いた藤田さんは、何が起こったのか分からないように目を白黒させている。
そして数秒の時を置いて、ようやく何が起こったのかを理解したように、
「琴音ちゃん。いま……」
「ごめんなさい。でもどうしても、こうしておきたかったんです」
わたしは胸の前で両手を合わせ、視線を指先へと落としながらそれだけを口にする。
「……今日のこと、わたし忘れません」
「え? やぶからぼうに、何を言いだすんだよ」
笑わないと。
彼に向かって微笑んで、そしてお別れをしないと。
「いまのが……わたしのファーストキスです。最初で……最後のキスは、わたしの大好きな藤田さんとしたかったんです」
「……最後? な、何だよそれ」
どこか不満そうな様子の藤田さん。
きっとそれは、わたしの言葉に納得がいかないからこそ見せている不満に違いなかった。
それを無視して、言葉を続ける。
「だから藤田さんも……わたしのこと忘れないでください。もしわたしが、いまのわたしじゃなくなったとしても、時々でいいですからいまのわたしが確かに存在していたことを、キスの感触と一緒に……思い出してください」
そしてわたしは藤田さんへのありったけの思いを込めて、彼に向かって微笑みを浮かべようとした。
別離の微笑み。
大好きな人への、最後の微笑み。
わたしが確かにここにいたという、頼りない記憶の残滓。
でも……わたしは結局、それを果たすことができなかった。
いつしか頬に、何かが伝う暖かで小さな感触を覚えていた。
「わたし……妹でいいと思っていました。藤田さんの側にいられるなら、藤田さんの笑顔を見れるなら、それでいいって……」
止まらない。
わたしの意志を無視して、口が言葉を吐き出し続けていた。
言わなくてもいいこと。
言っちゃいけないこと。
「でもわたし……本当は……」
そこで言葉が詰まってしまう。
言えなかった。
言えるはずがなかった。
何故ならそれは、半年前に既に結論が下されてしまったことだから。
わたしの想いは……藤田さんには届かなかったのだから。
止めどなく頬を伝う暖かなそれは、やがてあごの近くで小さな粒となってわたしの手に当たり、そして小さな飛沫をあげて消えていった。
……涙。
数瞬の時を置いて、ようやくそれが何かを理解する。
泣き笑い……結局のところそれがいまのわたしにできる、精一杯だった。
「さようなら、藤田さん!」
意に反して涙をこぼしてしまったことに動揺してしまったわたしは、そう一言叫ぶとそのまま彼に背中を向ける。
「琴音ちゃん!」
藤田さんの呼び声が聞こえたが、わたしは立ち止まらなかった。
走り続ける間も、涙は止まることなく溢れ続けた。
でもわたしはそれを拭いもせずに、ただ夢中で藤田さんの前から去ることだけを考え、そして走り続けた。
§
足を動かすたび、薄暗闇に覆われた人気のない廊下に足音が低く響き渡る。
まるで自分の足音ではないような、ともすればそんな錯覚に陥ってしまいそうにもなる。
校庭に面した窓ガラスを通して、外の様子を窺ってみる。
空はいつしか完全に夜の帳に覆われ、さっきまでのどこか幻想的なものを感じさせる黄昏空もいまはなりを潜めていた。
見れば、その夜空の中に真円を描く月が、煌々と光り輝きながら昇り始めていた。
それを無言で見やりながら、わたしは上階へ続く階段に足を踏み入れる。
どこまで行っても誰もいない夜の校舎。
まるで世界中が、わたし以外のすべての人間がその存在を止めてしまったかのような、そんな静けさだった。
そんな中を耳に流れ込んでくる、わたしの足音。
それはわたしの存在の証。
少なくともいまこの時にはまだ、わたしがこの世界と一緒に歩んでいることを示す、たったひとつの証拠だった。
でもそれも、もうすぐ終わる。
屋上にたどり着き、そして彼女と出会ったときにはそれがどういう形であれ、いままでのわたしは消え去り、全く新しい別のわたしがそこに姿を現すことになるのだろう。
それが、果たしてどんなものなのか分からない。
彼女――もうひとりのわたしなら、そのことを十分理解しているのかもしれなかった。
でもそれすらも、いまとなってはどうでもいいことに思えた。
二階に辿り着き、そのままさらなる高みに向かって階段を歩き続ける。
……藤田さん。
結局わたしは、最後に彼に泣き顔しか見せることができなかった。
最後は笑顔で別れよう……そんな儚い望みは、文字通り儚いまま塵芥となってわたしの中で消え去った。
でも、もう後戻りはできない。
わたしが藤田さんに会うことは、二度とないだろう。
次に会うとき、その時彼の前にいるのはわたしではなく、いまのわたしとは異なる別の姫川琴音だろうから。
そして屋上へと続くドアの前に辿り着いたわたしはそこで一度立ち止まると、躊躇うことなくドアのノブに手をかけ、それを大きく開け放った。
途端、秋の夜風が冷え切った空気をわたしに向かって吹き付けてきた。
わずかに目を細めてそれをやりすごすと、改めて屋上の景観に視線を走らせる。
彼女の姿を求めて。
「時間ちょうどね。さすがに私だけあって、時間には律儀ね」
屋上のちょうど中央に佇む彼女は、昨日出会ったときと同じく腰の当たりで軽く腕組みをしながら、わたしを迎えてくれた。
「今生の別れは、済んだ?」
くすくすと、小さな笑いがそれに続く。
それが、わたしの神経を微妙に逆撫でした。
「……見ていたの?」
わたしは少しむっとしながら訊ねる。
でもそれは彼女に何の感慨も与えなかったらしく、彼女は至って冷静な様子で、
「別に隠れて見ていた訳じゃないわ。そうね、感じていたって言う方が正解ね。でもあなた、本当にあれでいいの?」
「何が?」
「どうせだったら、あんな子供がするようなキスじゃなく、浩之さんに抱いてもらえばよかったのに」
「……!」
「どうしたの今更? 五月のあの時にもう、抱かれる覚悟はできていたはずでしょ」
それはまるで、わたしを嘲笑するような一言だった。
わたしは無言で彼女を睨み付ける。
それが返答だった。
でも彼女は、それを何ごともなかったかのように表情ひとつ変えずに受け止める。
沈黙が、わたしたちの間を覆う。
緊張のあまり飲み込んだつばの音が、耳の奥で妙に甲高く聞こえた。
彼女の口許が、その時ふっと緩む。
そして刹那の間を置いてから彼女は、わたしにとっての運命さながらにゆっくりと言葉を紡いだ。
「さあ、そろそろ始めましょうか。私とあなたの、運命の幕引きを……」