フェンス際に佇む彼女。
顔はこちらに向けながら、伸ばした腕はフェンスから数センチのところで止めている。
彼女が何をしようとしているのか……それが分からないままわたしは、ただじっとその様を見つめるばかりだった。
そんなわたしの様子に口の端をわずかに弛めた彼女は、正面のフェンスに向き直る。
「いい、これが……私たちの能力よ」
そう言ってわずかに目を細める。
フェンスじっとを見つめやる彼女のその横顔には、これ以上ないほどの真剣な眼差しが浮かんでいた。
沈黙という名のベールが刹那の合間、わたしたちを覆う。
そして次の瞬間、
「あっ!」
眼前に突きつけられた事実にわたしは、思わず驚きの声を上げてしまっていた。
彼女がかざした手を中心――幅にしておよそ一メートルほどだろうか――にした空間が、まるで初めからそうだったのかのように、その一角だけが失われていた。
それは切り取った訳でも壊した訳でもない……さながら最初からそこには何もなかったかのような情景だった。
未だに信じられない思いで、わたしは呆然とその光景を見つめやるばかり。
彼女は一体何をしたのか――その答えだけを求めて、思考が忙しく脳裏を駆け巡る。
もしかすると、念動力でフェンスのその部分だけを断ち切ったのだろうか。
でもそれにしては切断面が余りに綺麗すぎた。
ちょうどフェンスを支える支柱と支柱の間の部分が、切断したというよりは工具を使って取り外したかのように無くなってしまっているのだ。
どう考えてもそれは、断ち切ったとかねじ切ったとかという類のものとは思えなかった。
「いま……何をしたの?」
ようやく、それだけを口にする。
一方の彼女は、顔色ひとつ変えることなく、
「だから言ったでしょ。能力を使うって」
「能力……」
おもねるような声音でそれだけを呟いたわたしに、彼女は小さく頷き返しながら、
「そう、これが私たちの能力。この広い世界で唯ひとり、姫川琴音という名の女の子だけが持つことの許された、希有な能力よ」
「世界で……ひとり」
「正確には二人かしら。だっていまここには、姫川琴音は私とあなたの二人いるんだから」
そう言って、くすりと苦笑を漏らす彼女。
「わたしたちの能力は……念動力じゃないの?」
それが、いまのわたしの理解。
五月のあの日、藤田さんがその身を危険にさらしてまで証明してくれた、わたしの能力の正体。
でもわたしの問いかけに、彼女は無言で首を振るばかりだった。
「そう言えば浩之さんは確か、私の能力は予知能力じゃなくて、念動力なんだろうって考えていたのよね」
「……ええ」
「でもね、浩之さんも間違っていたのよ」
「え?」
「私は知ったわ、そのことを。あの日に……」
「あの日?」
そう何かを言いかけたまま、彼女はわずかに視線を逸らしながら言い淀むように口を閉ざしてしまう。
小首を傾げるわたし。
しかし彼女からの返答はなく、一度は逸らした視線を再びわたしへと戻すと、そして曖昧な笑みを浮かべるばかりだった。
沈黙がわたしたちの間を支配する。
どれくらいの時が経った頃だろう、不意に彼女が口を開く。
「判ってもらえたかしら。私たちの能力が、予知能力や念動力じゃないってことが?」
「…………」
無言のわたし。
その言外の意を素早く感じ取ったのか、彼女は困ったように小さくため息をもらすと、
「その様子だと、何だかいまひとつ納得してない様子ね。仕方ないわね、それじゃあ説明してあげるわ」
軽やかな足取りでその場から離れた彼女は、屋上のちょうど中程まで歩を進めてからその動きを止めた。
そしてくるりと振り返ると、
「たぶんあなたは、私がフェンスを壊したとでも思ったんでしょうね」
そう、軽やかな口調で言葉を紡ぎ始める。
「わたしは……」
「いいのよ。だってあなたは他ならぬ私自身なんだから。そう思うだろうってことくらい、先刻承知よ」
「…………」
「でも残念ながら、答えはノー」
「だったら……?」
「そうね。分かりやすく言うとそこにある事象の存在確率をいじった、とでも言えばいいのかしら?」
分かりやすくと言った割には、ちっとも分かりやすくない。
心の中でだけそんな言葉を紡いだわたしは、あからさまに首を傾げながら、
「確率……を?」
相変わらず口許には笑みをたたえたまま、小さく首を縦に振る彼女。
そして軽く組んだ腕の右手の指先を立てて片目を閉じながら、まるで教師が生徒に教えをたれるように、
「昨日あなたと教室で会った時、私たちが重ね合わせという確率の形で互いに存在していることは話したわよね」
「ええ」
脳裏に昨日の出来事を思い描きながら、わたしは頷く。
二重の螺旋を描きながら延々と歩み続ける、わたしと彼女の運命。
わたしたちは欠けた自らの一部――染色体を互いに補い合う、一種相補的な存在なのだと、確か彼女は言っていた。
「人は生きていくために、様々な選択をするわ。朝何時に起きるか、朝御飯に何を食べるか、家を出るとき右足と左足のどちらから歩き出すか……それこそ選択の機会は無数にあるし、その無数の選択の積み重ねが人の生を形作ってゆく」
そこで一度言葉を切る。
そしてわたしの反応を確かめるように視線を投げかけながら、再び言葉を切り出す。
「もちろん、私たちだってその無数の選択を繰り返していることは変わらないわ。そして私たちが私たちとして別個に存在しているのは、その選択の幾つかが違っていたから」
「無数の存在の、その中の二つがわたしとあなたなの?」
「少し違うわ。選択はあくまで過程よ。結果として存在するのは私とあなたの二人だけ」
立てた指を振りながら、そう訂正する彼女。
「どうして? だって無数の選択を繰り返したら、当然無数のわたしたちが存在するんじゃないの。確率って、そういうことじゃないの?」
「仮にそうだとして、じゃあそれを誰が確かめるのかしら?」
「え?」
「自分が選ぶことのなかった選択、それをあなたはどうやって確かめるつもりなの? 当人に分かるのは、あくまでその時に選んだものだけよ」
「ならどうして、わたしとあなたは存在するの?」
人がその時々に応じて、様々な選択を繰り返して生きているのはわたしにも分かる。
でももし彼女の言う通りだとしたら、わたしたちはどうしてこの様な形で存在しているのかが分からなかった。
同じ個が、相別れて存在しているのはどう考えてもおかしかった。
「もう忘れたの? 私たちがどれだけ不完全な存在であるのかを。私たちは人の半分しか、その存在の証を持っていないのよ」
「あ……」
「前にも言ったでしょ、私たちは半数染色体。二人揃って、初めて普通の人と同じ存在になれるのよ。だから私たちの運命は、互いの足りない部分を補うために重ね合わせという形で螺旋を描いているわ。そう、DNAさながらに……」
そう言って背中を向けると、そのままゆっくりとした歩調で歩き出す。
こつこつと、床を叩く彼女の足音が周囲の空気に低く響き渡る。
どうやら反対側のフェンスに向かって歩いているらしい彼女を追って、無意識のうちにわたしも足を動かしていた。
やがてフェンス際で、彼女の足がぴたりと止まる。
でも相変わらずわたしには背を向けたまま、じっと月明かりの下に浮かぶ街並みに目を向け続けていた。
どれくらいの静寂が流れたことだろう、不意に彼女の声が鼓膜を震わせる。
「あなたは……現在というものが、どうしていまここに存在するかを理解していて?」
「えっ?」
「時間って不思議よね。過去と未来は、言ってしまえば時間軸上に穿たれた一点から左右に広がるベクトルに過ぎないわ。そして現在は、その分岐点とも言える定点を作り出している。でも逆に言えば現在って、過去と未来の流れの中で常にその位置を変えているのよね」
「どういうこと?」
「つまり現在なんてものは、過去の自分とそして未来の自分とが巡り会った場所に生まれる、ただそれだけの存在に過ぎないわ」
無言で、彼女の次の言葉を待つ。
「そしてその巡り会いを変えることが、私たちにはできる」
「変えるって……?」
わたしの言葉に反応するように、くるりと身体を回す彼女。
そして目を細め、口許に満足そうな満面の笑みをたたえながらゆっくりと口を開いた。
「世界を選び取る力……それが私たちの能力よ」
§
「あっ……」
「よおっ、琴音ちゃん」
そこにいたのは、藤田さんだった。
ちょうど二階から一階へ降りる階段の前。
その日も人目を避けるために屋上に行こうかと、階段を上る途中での出会いだった。
「……こんにちは」
ぺこりとお辞儀をするわたし。
一週間ほど前に、初めて知り合った二年の先輩。
きっかけはいま互いに向き合っているこの階段で、彼がそこから落ちるという予知をしたことだった。
「そこの階段、危ないですよ」
予知である以上、どうあがいたところで彼が階段から落ちるのは避けられない運命だとは分かっているつもりだった。
それでもわたしの言葉で、多少なりとも気をつけてくれれば怪我を負わずに済むかもしれない……そう思って忠告をしたつもりだった。
でも結局予知通り、彼は階段から落ちてしまう。
幸いなことに大きな怪我もなく、わたしは彼がひどい怪我を負わなかった安堵と、自分の予知のせいでまた人を不幸にしてしまったという落胆を胸に、その場を離れた。
その翌日から藤田さんは何を思ってか、事あるごとにわたしに声をかけてきた。
いままでなら、ろくに話しもせずに――彼を危険に巻き込みたくなかったから――逃げてばかりのわたしだったのに、どうしてか今日に限って彼の話を聞いてみる気になっていた。
もしかすると、彼のことが気になるのだろうか。
胸中をふとそんな思いが駆け巡るが、すぐにそれを振り払う。
結局この人も他の人たちとを同じ――いつかはいなくなってしまう人なのだ――過去に何度となく繰り返された悲しい思い出が、嘲笑うようにそう囁きかけてきていた。
「なあ。オレ、これからジュース買いに行くんだけどさ、よかったら一緒に行かない?」
正直、意外な一言だった。
この能力を持つようになってから、わたしに近付いてくる人たちは「ねえ、キミの不思議な力って……」そう、興味津々といった様子で話しかけてくるのが常だった。
だから、彼もてっきりそうなのだと思い込んでいた。
それなのに……。
藤田さんの意外な申し出に、わたしはどこか戸惑いにも似た気持ちを抱きながらも、
「はい……」
気がつくと、そう首を縦に振っていた。
半歩ほど遅れて、俯きがちに彼の後をついて歩くわたし。
目の前で、制服の藤田さんの大きな背中が揺れ動いていた。
それはもう随分長い間、誰かと一緒に道を歩くという経験が無かったわたしにとって、とても新鮮な光景だった。
そして思う。
この人は、どうしてわたしなんかに関わろうとするのだろう。
他の人と同様、単なる興味本位でわたしに接してくれているのだろうか。
それとも……。
彼の背中を見つめるうちに、そんなとりとめのない思いが頭の中に浮かび上がっては、いつしか消えていった。
「あの……、藤田さん」
階段を降り、一階の廊下を購買部に向かって歩いている途中、わたしは思い切って彼に話しかけてみた。
「ん?」
「……あの、さっき一緒にいたひと、藤田さんが……その……お付き合いなさってる方なんですか?」
「さっきのひとって、あかりか?」
「あかりさん……っていうんですか……」
さっき廊下で藤田さんの姿を見かけたとき、どこか嬉しそうに彼の口許をハンカチで拭いてあげていた女(ひと)。
見ていてとても、自然な雰囲気だった。
恋人……なのだろうか。
そう思った途端、どうしてかわたしの中のどこかがちくりと、小さな痛みを発する。
……何だろう?
さっきの人が藤田さんの恋人かも……そう思っただけで、どうして胸が痛むのだろうか。
「つき合ってるかっていうのは、あいつがオレの彼女かってことだろ?」
その声に顔を上げたわたしは「はい」と、小さく頷く。
藤田さんは少し考えるように少しの間小首を傾げていた。
そしてわたしに顔を向けると、
「そうだな。あかりはオレの――」
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
周囲を漂っていた目には見えない光の粒が矢と化して、幾重にも身体を貫いてゆく。
軽い浮揚感と、かすかに歪む視界。
いままで周囲の光景を映し出していたはずの瞳が、いつしか白一色に埋め尽くされていた。
そしてその奥から藤田さんの声だけが、
「――彼女かもな」
どこかエコーのかかった声音で、そう聞こえてきた。
……予知?
違う。
いつもの予知なら、その時の映像も含めてもっとはっきりした形で思い浮かぶはずだった。
それなら、いま聞こえてきた声は何だったのだろう。
心の中でそんな疑問を重ねるうちに、やがて流れてくる声。
「そう……なんですか……」
他ならぬわたし自身の声だった。
まるで別の、もうひとりのわたしが会話をしているかのように、会話は途切れることなく続いてゆく。
「オレとあかりって、そんな風に見えるか?」
「……とっても、自然な感じがします」
「自然なふたりってやつ?」
声だけだったが、藤田さんのその声音はどこか照れくさそうなものだった。
改めてそのことを人に向かって口にすることに、恥ずかしさを覚えているように。
次の瞬間、心の中でわたしは叫び声をあげていた。
この人を失いたくない。
独りぼっちになりたくない。
わたしのことを見て欲しい。
心の奥底から何の前触れもなく唐突にわき上がってきた、とりとめのないそんな思い。
程なく、白濁していたはずの視界が戻り始める。
「そりゃ違うって」
彼のその声に、わたしははっと顔を上げる。
「そう……なんですか?」
どこか信じ切れないような、おもねるような口調。
いまのは、一体何だったのだろう。
幻聴?
それとも……予知?
分からなかった。
まるで白昼夢を見ていたかのように、藤田さんはたったいまわたしが耳にしたはずのとは全く別の言葉を、何事もなかったかのように紡いでゆく。
「ああ、オレとあかりは、ただの幼なじみさ。まあ、言ってみりゃ家族みたいなもんかな。一緒にいるのが普通なんだ」
「そんなふうですね」
そして彼の言葉に、ごく自然に反応してみせるわたし。
「オレの方は、彼女募集中ってことにしといてくれ」
「……あ、はい。うけたまわっておきます」
「ははは、それはどうもご丁寧に」
わたしの返答に、どこか困ったような様子で頭をかく藤田さん。
既に過ぎ去ったはずの、過去の情景。
そしてわたしはいまに至るまで、その時の出来事が一体何を意味していたかに気がついていなかった。
数値としての可能性から現実と化した世界と、可能性のまま消え去っていった世界。
過去と未来が巡り会い、そして生み出される現在。
そう……わたしは、選んでいたのだ。
§
来る。
そう思った瞬間、わたしの身体は床を転がっていた。
突き倒されるような衝撃を受けてバランスを崩したわたしは、そのまま屋上の床の上を二転三転してからようやくその動きを止める。
足を擦り剥いたのか膝の辺りに痛みを感じたが、それに構うことなく両の手をついて半身を起こした。
そんなわたしのことを見下すように見つめやる、二つの瞳。
「くすくす……不様ね」
わたしと全く同じ声で、でもわたしには決して出すことのできないだろう、どこか嘲りの込もった口調。
何かを訴えかけるように、視線だけを返すわたし。
刹那の沈黙が、周囲を覆う。
それを覆したのは、やはり彼女の笑みだった。
「どうして……って、そんな顔つきね。でも、あなたにもようやく分かったんでしょ。私たちが――ひとりでは出来損ないの私たちが、その代わりに与えられた能力がどんなものかが」
肩にかかった髪を軽く振り払いながら、彼女はわたしに向かって足を一歩踏み出す。
こつんと、小さく響く足音。
膝丈のスカートの裾が彼女の動きと、そして吹き抜ける秋の夜風のせいで揺れ動く様がやけに目について仕方がなかった。
「所詮何を知ったところで、あなたが能力をいきなり使いこなすなんて無理よ」
「……なら、どうして教えてくれたの?」
「そうね。これから消えてゆくあなたへの、私からの餞別ってところかしら?」
くすりと笑みをもらしながら彼女は両腕をわたしに向かって差し伸ばすと、手のひらを重ねながらわずかに目を細め、小さく気合いを発する。
次の瞬間、まるで空気の壁に叩かれたような衝撃を感じ、床に手を付いたそのままの姿勢で背後に押しやられる。
かろうじてそれをやり過ごし、ようやく顔を上げることのできたわたしは、そうすることを予め義務づけられているかのように、彼女へ視線を向けた。
彼女は、少し感心したように口許を弛めていた。
「あら、咄嗟に能力を使って身体を守ったのかしら。さすが私ね、満更馬鹿って訳でもないようね」
いつしか聞き慣れてしまった嘲笑。
軽く腕組みをしながら、わずかに目を細める彼女。
「こんなことをして何の意味があるの? わたしたちは、ひとつになるんじゃないの?」
吐き出すように、それだけを口にする。
「バランスが崩れていること? そうよ、それを解消するためには私とあなたがひとつになる必要があるわ」
「だったら、こんなことをしてる暇はないんじゃないの?」
天秤の上で微妙なバランスをとり続け、いままで存在し続けたわたしと彼女の世界。
このままでは、互いに相補う形でかろうじて維持されてきたわたしたちは消えてしまうはずだった。
そしてそのバランスを崩したのは、わたし。
五月二日……あの日の出来事を境に、かろうじて均衡が取れていたはずの世界は傾ぎ、そして足元から崩れ始めた。
昨日彼女は「私の世界を残すべきだと思うの」と、そう言った。
そうなのかもしれない。
彼女の傍らには藤田さんがいて、そしてわたしには誰もいない……それが全ての理由だったし、わたしたちにとってはそれで十分だった。
「何を言ってるの? その為にこうしてるんじゃない」
「え?」
呆れたように彼女が言い放ったその言葉は、全く予想もしないものだった。
軽く腕組みをしながら、床に座り込むわたしに向かって口の端を弛めた彼女は、
「私たちの統合はね、どちらかの死をもって終わるのよ」
どこか勝ち誇ったような、冷ややかな眼差し。
「そ、そんな……」
わたしは呆然と、そう言葉を紡ぐことしかできなかった。
「あなたがどんな想像をしていたのかなんて、別にどうでもいいわ。それにね、どっちにしてもあなたが死ぬことに変わりはないんだから」
「死ぬ……わたしが?」
「ええ、そうよ。あなたが死んで、そして私が浩之さんとこの世界を生きていくのよ。これから、ずっとね!」
組んでいた腕を解き、そしてわたしに向かって手のひらを差し出す。
咄嗟に両手で顔をかばったわたしは、彼女が放った能力をかろうじて支える。
そしてほっとしたのも束の間、息もつかせぬ勢いで次の衝撃がわたしを襲ってきた。
「そんなことをしたって無駄よ。ろくに能力を使いこなせないあなたとでは、力の差がありすぎるわ」
勝ち誇った声。
そして追い打ちをかけるかのように、彼女の言葉が覆い被さってきた。
「ついでだから教えてあげるわ。私はいまね、あなたの周りの空気分子の密度を片務性を持った形に変化させているの」
言った側から、再び全身に叩きつけるような痛みを覚える。
「分子が一点に集中して存在する確率は、自然状態では天文学的に低いわ。でも決してゼロと言う訳じゃない。そしてわたしは、そんな極離事象を選択して、あなたの周りに現出させているのよ」
身体に受ける打撃が、少しずつ大きくなってゆく。
能力を完全に使いこなしている彼女に、わたしの不完全な能力が対処しきれなくなっているのに違いなかった。
必死の思いで身体をかばいつつ、腕の隙間から彼女の姿を覗き見る。
いつの間にか雲が月を覆い隠してしまったのか、闇の帳にすっぽり覆われた視界はひどく暗かった。
七、八メートルは離れている彼女の姿も、陰影ばかりがやけに目立つ存在と化していた。
そしてそこに見出したものに、わたしは驚きを覚えてしまう。
彼女は……笑っていた。
何が楽しいのか嬉しそうに口許を弛ませながら、わたしへと能力を放ち続けていた。
そして瞳が、奇妙な輝きに満たされれていることに気がつく。
口許の朗らかな笑みとは対称的に、その輝きはどこか狂気にも似た妖しげな印象を抱かせるに足るものだった。
わたしがそれに対して再び抱いた感情、それは驚きではなく恐怖だった。
何が彼女をして、そうまで駆り立てるのだろう。
もし同じ条件が与えられれば、わたしも彼女と同様な道を歩むのだろうか。
闇の隙間から覗き見た、彼女の姿に覚えたわたしの心の揺らぎを敏感に察知したのか、更なる能力を放つ彼女。
そしてわたしは、それを受け止めきれなかった。
いままでにない強い衝撃を受け、そのまま背後に吹き飛ばされるように宙を舞うわたし。
次の瞬間、左の肩に叩きつけるような激痛を覚える。
「…………かはっ!」
痛みに絶えきれず、思わず口から悲鳴ともつかぬ声を絞り出したわたしは、意識が急激に混濁していくのを自覚した。
どこかで……鉄の軋む音がする。
だれかが……わたしの名前を呼んでいる。
波立つようにうねり、そして歪む意識の中、かすかに残った自我をもって何が起こったのかを知覚しようとする。
でも結局わたしが、それを確かめることはできなかった。
§
「材料は、こんなものでいいですよね?」
「ん、ああ。オレが料理するわけじゃねえからな。コメントは控えさせていただきます」
周りは家族連れやカップル、それに買い物帰りの主婦といった、行き来する様々な人の姿で満ち溢れていた。
そして横には、両手を頭の後ろで組みながら歩く藤田さんがいる。
陽射しの暖かな、休日の午後だった。
「ふふっ、藤田さんったらぁ」
食材で一杯に膨れ上がった買い物袋を抱えながら、わたしは彼に向かって微笑みかける。
彼も少し目を細めながら、笑みを返してきてくれた。
幸せ一杯のそんな情景光景。
もちろん、わたしの心は浮き立つようにいつもより鼓動を早めていた。
でも……。
そんな喜びに満ちた意識の中で、同時にその光景に首を傾げるもうひとりのわたしがいた。
わたしは藤田さんと、こんな会話を交わしたことがあっただろうか?
これは、本当にわたしの記憶なのだろうか?
そして気がつく。
これが……別のわたしの記憶であることに。
藤田さんの傍らに立つことを許された、もうひとりのわたしの――姫川琴音の記憶に違いなかった。
「きゃっ!」
不意に何かに足を引っかけたように、バランスを崩すわたし。
藤田さんが咄嗟に抱きかかえるように身体を支えてくれたお陰で、転ぶことだけはどうにか避けられたけれど、代わりに傾いた袋から林檎が転がり落ちてしまう。
「あっ!」
思わず能力を使って林檎の動きを止め、素早くそれを掴む。
「コラッ、こんなところで使うなって。誰かに見られたらどーすんだ」
「ごめんなさい。つい……」
しゅんと、頭を垂れてしまう。
そして藤田さんはまるで遅刻の生徒を捕まえた風紀の先生のように、どこかしたり顔で指を立てながら、
「いいか。超能力は絶対に使っちゃダメだぞ」
「でも、藤田さんのためには使いますよ」
「それもダメ」
「いいえ。この力は、藤田さんのためにあるんです」
大きく首を振りながら、力説するわたし。
藤田さんという存在、それはわたしにとって誰よりも何よりも大切な宝物だった。
頑ななわたしの反応が意外だったのか、彼は一瞬呆れたような表情を浮かべて見せるが、
「……ったく。一回だけなら許す」
すぐに照れくさそうに、そっぽを向きながら小さくそう言ってくれた。
「ありがとう! ……だから好きっ」
満面の笑みを浮かべるわたし。
その時だった。
わたしの笑みに嬉しそうに目を細めていた藤田さんが、その視線の先に何かを見出したように「あれ?」と、小さな呟きをもらしたのは。
「どうしたんですか、藤田さん?」
「ほら、あそこ」
彼の指差した先には、歩道から車道へと転がり落ちかけている林檎があった。
「あ。まだあんなところに……」
「ちょっと拾ってくるよ。待ってな」
そう言って何気ない様子で林檎の方へと歩み寄り、手を伸ばす藤田さん。
ところがその瞬間に林檎はころんと、まるで彼の手から逃れようとするように車道の方にその身を翻すと、そのまま路上を転がり始めてしまった。
「あっ! こら、待てっ!」
林檎を追うのに夢中になってしまっていた藤田さんは、そのまま車道へと小走りに飛び出してしまう。
糸で引かれているかのようにころころと車道の真ん中まで転がっていった林檎は、そこでようやく掴み取られる。
その時だった。
空気を切り裂くような警笛音が、高く鳴り響いたのは。
猛スピードで突っ込んでくるトラック。
「ふ、藤田さんっ!」
危険を察知して、叫び声を上げるわたし。
警笛が耳を突く。
急ブレーキのつんざくような金属音が周りの空気を震わせるが、このままだと間に合わないのは誰の目にも明らかだった。
藤田さんを助けなければ。
能力を使えば、きっと何とかなる。
さっきの林檎と同じように、車の動きを止めてしまえば……。
両手で抱えていた買い物袋を打ち捨てたわたしは、その場から駆け出しながら同時に心の中で必死に念じた。
お願い、止まって。
藤田さんを……浩之さんを、跳ねないで!
その途端、ブレーキをかけながらも慣性でなおも突き進んでいたトラックが、まるで見えない壁にぶつかったかのように不自然な様子でつんのめる。
バンパーとボンネットが奇妙に形を歪めていくのが、スローモーションのようにわたしの目に映し出された。
それを見て、内心でほっと安堵の吐息をもらす。
これで藤田さんは大丈夫。
もしかすると後でまた怒られてしまうかもしれないが、でもわたしの能力はこのためにあるのだから。
口許に浮かびかけた笑み。
でも次の瞬間、それは凍りついていた。
一度は動きを止めたはずのトラックが、壁に当たった車体の前面を支点に、まるで鉄棒を前転するかのようにくるりとその身を回転させたのだ。
想像もしなかった現実が、そこにあった。
荷台に山と積まれた鉄骨が軽やかに宙を舞い、そして重力に導かれて崩れ落ちてゆく。
その先には、いま目の前で起きていることが信じられないかのように、驚愕に目を大きく見開く藤田さんの姿があった。
「浩之さ〜〜〜んっ!」
再度崩れ落ちてくる鉄骨と、トラックの動きを止めようと心で念じ始めるわたし。
でもそれは……結局間に合わなかった。
車体がひしゃげる不快な金属音と鉄骨が路面を砕いてゆく破壊音とが、わたしの耳朶を絶え間なく叩く。
そのただ中を、ただ呆然と立ちすくむばかりのわたし。
「……浩之さん。嘘……ですよね」
それだけが、ようやくのことで口にできた言葉。
惨状を目の当たりにした周囲の人々が発する悲鳴や怒号も耳に流れてくるが、でもそれはまるで現実感のない、どこか調子のおかしいラジオが発する雑音のようにしか聞こえなかった。
足に力が入らない。
全身が、凍えるように寒かった。
これは……夢?
そう、きっとこれはわたしの見ている夢に違いない。
そして目を覚ませば、傍らには優しい微笑みを浮かべながらわたしを見守ってくれている藤田さんがいるのだ。
無意識に一歩、足を動かす。
その時、足元からぴちゃりと水を踏んだような音がした。
錆び付いた人形のようなどこかぎこちない仕草で、ゆっくりと視線を足元に落とす。
「ひっ!」
奇妙な光沢を持った、真紅の糸がそこにあった。
それは横転し、空転を繰り返すトラックの後輪辺りから、緩やかな曲線を描きながらわたしのところにまで伸び伝ってきていた。
まるで運命の赤い糸を模したかのように、足元で絡まる細く長い糸。
それは藤田さんの身体から流れ出た……鮮血だった。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
§
肩が、酷く痛んだ。
もしかすると骨が折れるか、ヒビが入るかしているのかもしれない。
朦朧とした意識のまま、薄目を開く。
どれくらいの間、気を失っていたのだろう。
まるで夜の帳に覆われているかのように、視界は暗かった。
そしてようやく、自分がいまどこにいるのかを思い出す。
ここは校舎の屋上。
そしてわたしは彼女の能力で吹き飛ばされて、気を失ったのだ。
「琴音ちゃん?」
間近から声がしたのは、その時だった。
ようやく目が闇に慣れてきたのか、少しずつ輪郭を取り戻し始めた視界の中に映し出される人影。
「藤田……さん?」
おもねるように訊ねるわたしに向かって、影は小さく頷き返してきた。
間違いなく、いま目の前にいるのは藤田さんその人だった。
……でも、どうして。
そう思う間もなく、藤田さんの口から安堵の吐息がもれる。
「よかった。あちこち随分と捜したんだぜ」
「え、わたしを?」
床に座り込みながら、藤田さんに上半身を抱きかかえられていたわたしだったが、彼のその言葉にわずかに身じろぎをする。
途端、肩に焼け付くような痛みを覚え、思わず顔をしかめてしまった。
「まだ動かない方がいいぜ、琴音ちゃん。見た感じだと、あちこち大分ぶつけてるみたいだからさ」
「は、はい。でも……どうしてここが?」
「そうだな、野生の勘かな?」
「え?」
「嘘だよ。遊園地でいきなり帰っちゃってから、琴音ちゃんが行きそうな場所、あちこち捜し回ってみたんだ。公園とか商店街とか……で、最後に思いついたのがここってわけだ」
小首を傾げるわたしに、藤田さんは小さく笑みをこぼしながら、
「ほら、ここってある意味俺と琴音ちゃんにとっては思い出の場所だろ。だからもしかしたらって思って来たんだけど、ビンゴだったみたいだな」
「…………」
「酷いぜ、琴音ちゃん。一方的にあんな事したと思ったら、俺の返事は聞こうともしないで、いきなりいなくなっちまうんだもんな」
その言葉に、思わず申し訳なさを覚えてしまう。
笑顔で別れようと、でも泣き笑いの顔しか浮かべることのできないまま、何も言わずにその場から身を翻してしまった夕暮れの遊園地。
そして、わたしにとって最初で……最後のキス。
でも藤田さんはわたしのことを心配して、こんな時間になるまでずっとわたしのことを捜し続けてくれていたのだ。
それが嬉しかった。
そして同時に申し訳なかった。
「ごめんなさい、藤田さん。またご迷惑を……」
でもわたしの言葉は、そこで一旦遮られてしまう。
藤田さんの指が、わたしの開きかけた口がそれ以上の言葉を紡ぐのを、優しく押し止めたからだった。
「いいんだよ。俺が好きでやったことなんだから。でも……」
そう言いながら、彼は手のひらでわたしの頬をゆっくりと撫でてゆく。
暖かな、そして大きな手。
「あっちこっち、傷だらけじゃないか。顔は女の子の命なのに……ダメじゃん」
床を転がった時だろうか、それともさっき壁にぶつかった時だろうか、頬に擦り傷が幾つも出来ているのが分かった。
その時になって初めて、口中に鉄を含んだような苦みがじんわりと広がるのを感じ取る。
恐らく口の中のどこかが切れて、出血しているのに違いなかった。
「……あっ」
藤田さんの指が、頬に出来た擦り傷の患部を、それこそ触れるか触れないくらいの強さで撫でてゆく。
くすぐったいような痛いような、何とも言えない感触。
「痛くない?」
「は、はい。大丈夫です」
「そっか……」
いま目の前に藤田さんがいて、そしてこんなわたしのことを優しい眼差しを浮かべながら気遣ってくれている。
不思議な感じだった。
こつ――その時不意に耳に、床を踏みしめる硬質な足音が響く。
その音で現実に引き戻されたわたしは、藤田さんの肩越しに浮かぶ人影に目を向けた。
距離にして、十メートル余り。
唯一の明かりとなっていた月が隠れてしまっていたせいで、その姿はシルエットと化して周囲から浮かび上がっていた。
「お前が……琴音ちゃんをこんな目に……」
背後を振り返った藤田さんが、人影に向かって呻くように言葉を吐き出す。
風が吹く。
途端、影を織りなす一部がそれに流されるように緩やかに揺れ動き、その存在をより一層明確なものとした。
「まだ生きてるのね? 人間って、意外と丈夫なものなのね」
その声は、でも風に乗ってはっきりとわたしたちの許にまで漂い流れてきた。
「えっ?」
彼女のその声音に、藤田さんは予想もしなかったものを聞いてしまったように、首を傾げて見せる。
わたしは、その時になって気がつく。
藤田さんを彼女と会わせてはいけない。
これはあくまでわたしと彼女――二人の姫川琴音の問題だった。
彼女が藤田さんを傷つけるとは思えなかった。
でも先刻垣間見た彼女の瞳の妖しげな輝きは、いまの彼女ならそれすらも厭わないのではないか……そんな不安を内心にかき立てる。
「ふ、藤田さん。わたしなら……平気ですから。だから、お願いですからここから……」
「何言ってんだよ。俺が琴音ちゃんのこと、見捨てて行けるわけないだろ?」
「……でも」
「いいから、俺に任せて」
そう言って、ぽんとわたしの頭を軽く叩いた藤田さん。
そして背後の彼女に顔を向けると、
「おいっ! どこの誰だか知らないが、自分が何をやっているのか分かってるんだろうな?」
返答はない。
代わりにまた一歩わたしたちに近づいてくる足音が、暗闇の中をこだました。
「おい、何とか言えよ!」
「…………運命」
「え?」
「運命の幕引きよ。そう、私たちのね。浩之さん……」
感情が欠けて落ちてしまったかのような、妙に平板な口調。
でもそれが逆に、彼女の言葉に込められた感情の高揚を聞く者に強く感じさせる。
その芝居がかった言葉に藤田さんは鼻で笑いながら、
「運命だぁ? 何だよそれ? 大体俺は、見ず知らずのあんたに名前で呼ばれるような覚えはないぜ」
「くすくす。安心して、見ず知らずなんかじゃないから。私は、あなたもよく知っている女の子よ。だってほら、この声に聞き覚えはない?」
「な、何を……」
藤田さんの声が、かすかに震えていた。
そう、藤田さんも気づき始めているのだ――この声が誰のものなのかを。
そして同時に、そんなことがあるはずないと心の中で反駁を繰り返しているのが、間近から彼の表情を見ているわたしにはよく分かった。
「藤田さん、ダメっ!」
彼の服を掴みながら、思わず叫んでしまう。
まるでその叫びを待っていたかのように、雲の切れ間から顔を覗かせた月がさっと世界に光を投げかけてきた。
そのただ中に浮かび上がる……人影。
後ろ手を組みながら楽しげに表情を綻ばせた彼女は、わたしたちの方を静かに見つめやっていた。
「こんばんは、浩之さん」
目を細めながら、ゆっくりとした調子で口を開く彼女。
その姿を目の当たりにして、藤田さんはただ驚きに目を白黒させるばかりだった。
刹那の沈黙が流れる。
そして藤田さんは、困惑に満ちたかすれるような声音で、
「……こ、琴音ちゃん?」
そう、小さな呟きをもらした。
「嘘……だろ? ははっ、俺もしかして夢でも見てるのか?」
「ふふっ、夢でも幻でもないわ。私は姫川琴音。浩之さんのよく知っている、琴音よ」
この場の状況を、見るからに楽しんでいるらしい彼女。
藤田さんの疑問を軽くいなしながら、一歩また一歩とわたしたちの許へと近づいてくる。
「さあ、浩之さん。こっちに来て」
そう言いながら、にっこりと微笑みを浮かべる。
その途端、わたしの身体を支えていた彼の腕の力がすっと、まるで潮が引くように失われていった。
立ち上がる藤田さん。
そして彼女と向き合った彼は、その場でじっと彼女を見つめやる。
「本当に、キミは琴音ちゃんなのか?」
落ち着かない様子で、わたしと彼女を交互に見比べる彼。
その瞳には、いま目の前で起きている出来事が信じられないといった、そんな戸惑いが色濃く浮かんでいた。
「ええ。私は琴音。そこにいる、もうひとりの私と同じ存在」
「でも……」
「浩之さん、私を抱きしめて。そして、私を愛して」
藤田さんを迎え入れるかのように、大きく広げられた両手。
そんな光景を言葉を紡ぐこともできないまま、わたしはただ見つめやるばかりだった。
ふらりと、藤田さんの足が動く。
徐々に近づく二人の距離。
それをただ見つめることしかできない、わたし。
今更何をしたところで、全ては手遅れなのだ。
藤田さんは彼女と出会い、そしていま彼女を選ぼうとしている。
たぶんわたしは、彼女の中へと消えてゆくのだろう。
でも、もし出来得ることなら、その最後の姿を藤田さんにだけは見られたくなかった。
大好きな、藤田さんにだけは。
「キミは……誰だ?」
その一言が、わたしを現実へと引き戻す。
そして目を向けると、そこには彼女のすぐ前でまるでわたしを庇うように立ち尽くす藤田さんの背中があった。
「え? な、何を言ってるの、浩之さん。私は琴音よ」
突然のことに、彼女の瞳が揺れ動く。
「違う」
「本当よ。私は姫川琴音。あなたの一年後輩でクラスはB組、出席番号だって――」
「違う!」
「きゃっ!」
その声の大きさに、彼女はびくりと思わず身をすくませてしまう。
数瞬の沈黙。
そして程なく、絞り出すような声音で藤田さんが言葉を続ける。
「確かに、キミは琴音ちゃんだ。姿形や声、それに仕草なんかも、俺のよく知ってる琴音ちゃんそのものだよ」
「なら……」
「でも……何かが違う。うまく言葉に出来ないけど、何かが、俺の中でキミは琴音ちゃんじゃないって訴えかけてくるんだ」
「…………」
「なあ、教えてくれ。本当に、キミは誰なんだ?」
「だから私は、琴音……」
「俺が聞きたいのは、そんないい加減な言葉じゃない」
「ちが……私は……」
ゆるゆると首を横に振る彼女。
それはわたしがいままで見たことがないくらいに弱々しい、まるで行き場を見失った迷子のような姿だった。
「琴音ちゃん。大丈夫、立てるか?」
「えっ?」
いつの間にか目の前には、わたしに向かって手を差し出す藤田さんの笑顔があった。
わたしは彼の手に引かれて、その場から立ち上がる。
そしてちらりと、目を彼女の方へと向ける。
屋上の中央で、力無く肩を落として頭を垂れる彼女の表情は、わたしの位置からでは窺うことができなかった。
例えそれを確かめることができたにしても、かけるべき言葉は何も見つからなかった。
でも、いまこの場を離れるわけにはいかない。
いずれにせよ、わたしたちに与えられた時間はもうないのだから。
わたしは彼に校舎の中で待っていてもらおうと、顔を彼の方へと向けかける。
そして「藤田さん……」そう、口を開きかけた時だった。
不意に横合いから殴り付けるような衝撃が襲いかかり、わたしたちはそのまま壁に叩きつけられた。
「痛っ!」
先刻痛めたばかりの左肩に、再び激痛が走る。
右手で痛む肩を庇いながら何とか立ち上がったわたしは、慌てて視線を左右に泳がせる。
「藤田さんっ!」
ようやく見出すことのできた藤田さんは、どこか打ち所が悪かったのか気を失っているらしく、俯せに倒れたまま時折小さなうめき声を上げるばかり。
取りあえず命に別状は無いことだけを確かめてから、彼を傷つけた元凶へ向き直る。
彼女は、先刻と寸分違わぬ場所に占座していた。
そして俯き加減に顔を覆い隠す前髪の間から、まるで貫くかのような鋭い視線をわたしに向けている。
「どうして……どうして藤田さんを傷つけるのっ!」
肩を押さえながら言葉を吐き出すわたし。
でも彼女はわたしのそんな詰難に言葉で返す代わりに、渾身の能力を投げつけてきた。
反射的に両腕で顔を庇いながら、そして目の前に空気の壁を作るイメージを思い浮かべる。
咄嗟のことだったが何とか上手くいったらしい。
背後に押し込まれるような強い圧力を全身に感じたが、それでも姿勢を崩すのだけは避けられた。
「さっきまで息も絶え絶えだったのに、浩之さんが来た途端、随分威勢が良くなったわね」
そのまま嘲るように、口許を弛める。
「そうそう、あなたの質問に答えてあげるわ。そこにいるのは、浩之さんじゃないわ」
「え?」
「だって私のことを受け容れてくれない浩之さんなんて、いまの私には何の価値もないもの」
そして一度すっと目を閉じた彼女は、口中で自分に言い聞かせるように何ごとか小さく唇を動かすと、
「あなたも、そこにいる浩之さんも消えるのよ。そして私は、私だけの浩之さんと一緒にこの世界で生きていくわ!」
そう、両手を掲げながら能力を放ってきた。
……狂気。
わたしたちにとって、最後の拠り所と言える藤田さんまでも消し去って、一体何が残るというのか。
藤田さんを求め、彼と共に生きていくためにわたしたちは螺旋を統合しようとしていたのではないのか。
彼女がしようとしていることは、自殺行為以外の何ものでもなかった。
止めないと……一瞬そうも思うが、すぐにその考えを捨てる。
彼女の瞳は、頑なにわたしを拒絶していた。
背後で意識を失ったままの藤田さんを守ろうと、彼女の能力を必死に受け止めるわたし。
でも力の差は歴然としていた。
能力を使い続けることに、徐々に辛さを覚え始める。
身体が、言葉にならない悲鳴をあげ始めていた。
このままじゃ……焦りにも似た思いが全身を駆け巡るが、それでもいまのわたしはひたすら耐えるしかなかった。
叩きつけるような強い衝撃。
力尽きたようにその場に崩れ落ちたわたしに、憐れむような眼差しを向けてきた彼女は、
「そろそろ、限界みたいね」
呼吸を整えるように、一拍置いてから微笑みを浮かべる。
もう駄目……。
ごめんなさい、藤田さん……。
内心でそんな言葉を発しかけた、その刹那だった。
わたしと彼女の間に、割り入るように飛び込んでくる影。
大きく両手を広げ、わたしを庇おうとするような姿勢で立ち尽くすそれは……。
「ふ、藤田さんっ!」
間違いなく、気を失っていたはずの藤田さんだった。
瞳に映し出された現実に驚き、そして慌てる。
たとえ相手が藤田さんだからといって、いまの彼女が手加減をするとは思えなかった。
わたしのその予想を裏付けるように、彼女は口許を歪める。
「そう……あくまで私の邪魔をするのね」
一歩足を踏み出しながら、軽く持ち上げて見せた彼女の右手の先に、うっすらと輝きを放つ棒状の何かが浮かび上がり始める。
一瞬不規則な明滅を繰り返したそれは、見る間に明瞭な形を整え始め、そしてわたしたちの眼前にその姿を晒した。
彼女の能力が作り出したそれは、凝集した空気の塊が形作る鋭い切っ先を持つ槍だった。
「能力にはね、こういう使い方もあるのよ」
手中のそれを見やりながら、楽しそうに言葉を紡ぐ彼女。
何を……そう思った次の瞬間だった。
出来具合いを確かめるように一度だけ軽くそれを振った彼女は、そのままわたしの方に視線を向けると、
「これで終わりよっ。さよなら、浩之さん。そしてもうひとりの私!」
そう一言、こちらに向かって槍を投げつけてきた。
「ダメっ、藤田さん! 逃げてっ!」
彼女の意図にようやく気付いたわたしの叫びに、藤田さんはちらりと視線を向けてくる。
彼の口許には、どこか満足そうな微笑みが宿されていた。
……どうして?
その笑みに不可解な何かを感じ取るわたし。
わたしにはその笑みが「いま琴音ちゃんを守ってあげなくちゃ、男の名折れだから」そう、優しく語りかけてきているように思えた。
その微笑みを瞳に捉えた刹那、周囲の時間がまるでコマ落としのように緩慢に流れ始める。
瞬きをするたびに変化してゆく、目に映る情景。
貫かれる藤田さんの肢体。
勢いに任せて背中を突き抜けた槍は、そのまま背後に立つわたしに向かって真っ直ぐに突き進んでくる。
刹那、焼けるような強い痛みを胸に覚え、声も発する間もなく口の中を溢れんばかりの自らの血が満たしてゆく。
テレビのスイッチを切るように、ぷつりと意識が途絶える――それは死の訪れだった。
――あなたは、何を望むの?
――あなたは、何を願うの?
――あなたは、何を夢見るの?
意識の中のどこかから、そんな声が聞こえてくる。
切れ切れで、いまにも途絶えてしまいそうな弱々しい声だったけれども、繰り返し告げられるそれは、間違いなくわたしへの問いかけだった。
望み、願い……わたしの夢。
謎かけのようなその言葉をわたしは頭の片隅で反芻し、そして声に向かって応える。
その声が誰だろうと関係なかった。
答えはひとつ。
そう、いまのわたしにとって答えはひとつしかなった。
何よりも、誰よりも大切な人を守ること。
孤独と絶望の淵からわたしを救い出してくれた……そしてわたしに笑顔を取り戻させてくれた、藤田さんを守ること。
それだけだった。
……藤田さんっ!
一瞬のことだった。
双瞳に焼き付く笑顔の藤田さんに向かって心の叫び声をあげたその瞬間、意識がまばゆいばかりの光を伴って世界に溶け込んでゆく。
その中でわたしはたったひとつのこと――そう、ただひたすら藤田さんのことだけを考え続けていた。
わたしなんかどうなってもいい……でも、藤田さんは助かる。
わたしは知っていた。
この能力が、何のためにあるのかを。
さっき見た、わたしのものではないわたしの記憶の中で、彼女は「いいえ。この力は、藤田さんのためにあるんです」そう、確かに言っていた。
大切な、大好きな人を守る……ただそのためだけに、わたしのこの能力はあるのだ。
だから藤田さんは……藤田さんは、わたしが絶対に助けてみせるっ!
瞬間、視界がまるで波に押されるようにゆらりと揺らいだ。
意識が爆ぜるように急速に広がりを見せ、そして世界がぐにゃりと歪むと同時に目眩にも似た感覚を覚える。
光の矢が、幾重にもわたしの身体を貫いて行った。
軽い浮揚感と、自分の存在が希薄になってゆく感覚が押し寄せてくる。
そしてわたしは見た。
合わせ鏡をしたかのように無数に連なる自分の背中と、そしてその先に浮かぶ藤田さんの暖かな微笑みを。
わたしの望んだ世界。
藤田さんに、心からの笑顔を浮かべることのできる世界。
わたしの願った世界。
藤田さんと同じ時を過ごし、同じ世界を見ることのできる世界。
わたしの夢見た世界。
藤田さんが、ずっと側にいてくれる世界。
過去と未来とから流れ着いた光の波が全身を覆い、やがて世界の全てを押し包んでいく。
視界の全てが白濁化し、何も見えなくなってしまう。
そして能力を使った後にいつも訪れる、あの引き込まれるような強烈な睡魔が全身に覆い被さってきた。
鉛のように重くなった自分の身体に抗しきれなくなったわたしは、ゆっくりと膝立ちの姿勢のままその場に崩れてしまう。
「藤田……さん……」
ようやくのことで、それだけを口にする。
少しずつ取り戻されてゆく視界。
その中にぼんやりと浮かび上がる、ひとつの人影。
藤田さんだった。
そしてその向こうで倒れ伏す、もうひとつの小さな影。
それを認めた途端、全身の力が抜けて今度こそその場に倒れ伏してしまいそうな、そんな心地になってしまった。
ぽつりと、小さな粒のようなものが頬に当たるのを感じる。
無意識に顔を上げると、天から降り落ちてくる水滴の群れが、ぽつりぽつりと続けざまにわたしの肌に当たっては、散っていった。
半ば放心状態のまま頭上を仰ぎ見て、そして小さく呟く。
「……雨?」
最初のうちこそぽつぽつと舞い落ちて来ていた涙滴も、やがてぱらぱらと切れ目なく水の糸と化してゆく。
言葉なく、空を見上げ続けるわたし。
それはまるで、自分の能力で藤田さんを助けることのできたことへの嬉し涙のように、わたしには思えた。
§
「私の……負けね」
消え入るような、どこか弱々しい声音。
力無くフェンスに寄り掛かりながらわたしを見上げる瞳は、先刻までとは違って落ち着きに満ちた色合いを浮かべていた。
この場にいるのは、わたしひとり。
藤田さんは、下の階でわたしが来るのを待ってくれている――彼には無理を言って、この場から席を外してもらったのだ。
そう、まだ幕は降りていなかった。
結局のところそれは、わたしと彼女の問題だった。
だからこれ以上、藤田さんに迷惑をかけたくなかった。
いま目の前に悄然と佇むのは本来の目的を見失い、狂おしいまでの想いに身を焦がした少女ではなく、もうひとりの――わたし自身だった。
「本当は私、こうなることを……望んでいたのかもしれない」
「え?」
「不思議そうな顔ね。でもそうね、そう思うのも仕方ないわね」
降りしきる雨に構うことなく、頭上を仰ぎ見る彼女。
濡れた髪が頬に張り付き、その様はまるで余命幾ばくもない病人さながらだった。
「私ね……すごく幸せだった」
どこか遠くを見るような眼差し。
彼女が見ているのが頭上に広がる雨空でなく、遠い過去の情景なのだろう。
「藤田さんに想いが通じて……それからの毎日は一分でも一秒でも長く一緒に過ごすこと、それだけが私のたったひとつの望みだった」
「ええ」
「あなたに分かるかしら? 藤田さんが見せる仕草のひとつひとつが、本当に嬉しかった。愛おしかったの」
そう言ってくすくすと、不意に笑みをもらす。
「でもね藤田さんたら、おかしいの。私が能力を使おうとすると、ホント見てるこっちが困っちゃうくらい慌てるのよ。それでいつもこう言うの。『いいか。超能力は絶対に使っちゃダメだぞ』って」
不意にひとつの光景が思い浮かぶ。
つい先刻、気を失ったときに見た会話。
その中に確か、いま彼女が口にしたのと全く同じ台詞を口にする藤田さんがた。
「だから私、いつもこう答えてた。『でも、藤田さんのためには使いますよ』ってね」
無言で頷くわたし。
そこでふと、会話が途切れる。
たゆたうような時がわたしたちの間を流れ、そして再び口を開いた彼女の声はどうしてかひどく重苦しいものだった。
「……もう、分かってるんでしょ?」
「え、何が?」
「バランスを崩したのが誰なのか。私なのか、それともあなたなのか」
咄嗟に言葉に詰まってしまったわたしは、無意識に目を逸らしてしまう。
「いいのよ、そんなに無理しなくても。そう、バランスを先に崩したのは私だった。私が、二重の螺旋で保たれていたはずの均衡を壊したのよ。見たんでしょ、私の記憶」
「ええ……」
彼女がわたしに向かって放ってきた能力の中に垣間見た、もうひとつの世界の記憶。
藤田さんの傍らで幸せそうな笑顔を浮かべる、もうひとりのわたし。
袋から転がり落ちる林檎と、それを拾いに行こうと車道に身を乗り出す藤田さん。
空気を切り裂く警笛音とブレーキの金属音。
そして長く伸びる血の流れと……絶望の悲鳴。
「私が、藤田さんを殺したのよ」
「そんな……だって!」
「ううん。どう言い繕ったって、結局は同じ。あの日、手料理をごちそうするって言い出したのは私だった。それに林檎を落としのも私だし、中途半端に能力を使って彼を助けられなかったのも……やっぱり私」
雨空からついと目を転じた彼女は、そのまま今度はわたしの顔をじっと見つめてくる。
そしてどこか儚げな笑みを浮かべながら、
「もしこの世に神様がいるのだとしたら、神様ってすごく意地悪だと思う。私の心と身体に生まれたときからこれだけの重荷を負わせた上に、私にとって何よりも大切なものまで取り上げちゃうんだから」
そこまで言って顔を俯かせると、不意に言葉を切る。
刹那、顔を上げた彼女の瞳からは、一縷の涙が溢れ出ていた。
「どうしてなの? 私の願いって、そんなに大それたもの? 私が欲しかったのは、ほんの小さな――この手に乗るくらいの、そんなささやかな望みにすぎなかったのに。そんなものまで私から奪っていく運命って……一体何なのっ!」
その叫びに無言で、膝の上に置かれた彼女の手に自分の手のひらを重ねる。
それはわたしと同様に暖かで、そして小さな手だった。
「……?」
唐突とも言えるその行動に、不思議そうな眼差しを浮かべる彼女。
わたしは、わたしにできる精一杯の心を込めて、
「……還ろう」
それだけを口にする。
「どちらが残るとか、消えるとかじゃなくて……わたしは、あなたと一緒に歩いていきたいって、そう思う」
「…………」
「だって同じわたしでしょ。いままでずっとこの能力のことで悩んできて、同じ孤独に苦しんできて……」
そこで一度言葉を切ったわたしは、彼女の上に重ねた手に力を込める。
「同じ人を好きになったんだから……ね?」
「……うん」
間を置いて小さな、でもわたしらしい返事が返ってきた。
そのまま沈黙の時が流れる。
しばらくの間、何かを考えるように視線を泳がせていた彼女だったが、やがてわたしに目を向けると、
「ありがとう。でもね、もし私たちが一緒に歩いて行くにしても、やっぱりあなたが残るべきだと思う」
「え……ど、どうして?」
「私たちの能力でも、既に過ぎ去った過去を変えることはできない。私たちにできるのは、せいぜいその時々の選択肢を選び取っていくことだけだから。失敗したからといって、時計の針を逆に回すことはできないの」
淡々と、事実だけを述べるように彼女は言葉を紡ぎ続ける。
「そして藤田さんとこれからも一緒に生きて行くためには、あなたの世界を残すしかない。そうすることで、無矛盾性の原理を満たすことができるのよ」
「……無矛盾性?」
「過去と未来の巡り会う場所が、いま私たちがいる現在だってことはさっき話したよね」
彼女の瞳を見つめやりながら、無言で頷くわたし。
「でも見方を変えればそれは、現在の積み重ねが過去と未来を作り出していることに他ならない。だからその流れは、可能な限り矛盾のない連続性を保たなければならない。これが無矛盾性の原理よ」
「もし、矛盾があったらどうなるの?」
「多少の矛盾だったら大抵は何とかなると思う。でも死んだ人が、ある日突然何ごともなかったように生き返るっていうのは、明らかな矛盾だわ。そしてその綻びは……やがて世界そのものを壊してしまう」
「だからなの?」
「そう。だから私たちが藤田さんの存在を求める限り、私の世界を残すことはできない。あなたの世界――藤田さんがいまも生きている世界に、私の世界を重ね合わせるしかないの」
力無くうなだれるわたし。
いまのわたしは、自分が残るべきという結論に何の喜びも感じることができなかった。
藤田さんに関する一点を除いて、わたしと彼女は根本的には何ら変わることのない存在のはずだった。
そしてそれがあるが為に、わたしたちの運命は結論づけられてしまっている。
「それにね、あなたは私より上手くやったわ」
「え?」
「ちゃんと選べたでしょ。あなたにとっての……一番大切な世界を」
「そう……そう、ね……」
「ほら、もう統合が始まっているわ」
そう言って彼女は、わたしの手を取って持ち上げて見せる。
「本来、重ね合わせの形でしか存在しないはずの私たちがこうして互いに触れられるのは、もう波動関数の収束が始まっているから。別離を余儀なくされていた二本の螺旋鎖は、もうすぐあなたの世界でまとまる」
「そんな……」
何か言おうとするが、彼女は小さく首を振ってそれを遮る。
そしてにっこりと微笑みながら、
「いいの、さっきあなただって言ったじゃない。私は死ぬわけでも、消えるわけでもない。そう、あなたの中に『還る』だけなんだから」
「でも……でも……」
悲しい一言。
もっとたくさん、話したいことがあった。
もっとたくさん、聞きたいことがあった。
でもその願いは結局果たされることなく、別れの刻はいままさに訪れようとしている。
ぎゅっと、わたしの手を力強く握りしめる彼女。
「あのね……ひとつだけ、お願いがあるの」
「え、なに?」
そのまま言葉が途切れる。
彼女はほんのわずかの合間、何かにためらうように俯く。
そして意を決したようにぱっと顔を上げると、
「私ね……あなたの前ではずっと彼のこと『浩之さん』って言ってたけど、本当は彼が生きている間、最後まで『藤田さん』としか呼べなかったの。だから……あなたには……」
そう言いかけて、どこか寂しげな瞳の色を浮かべる彼女。
胸の奥から、何かじんわりとこみ上げてくるものを感じてしまったわたしは、気が付くと彼女の背中に手を回し、そっと抱き締めていた。
「……わたし、頑張るから」
「ありがとう」
耳元をくすぐるように流れ込んでくる、彼女の言葉。
それは小さな、そして穏やかな声音だった。
わたしたちはしばらくの間、そのまま口を閉ざす。
降りしきる雨がわたしたち二人の髪や肌、そして服の上に無数の雨滴を刻んでは、やがて流れ去っていった。
「そろそろ……時間みたい」
どれくらい経った頃だろう、消え入るような囁き声が不意に鼓膜を震わせる。
わたしはぎゅっと目を閉じながら彼女の肩に当てた顔をわずかに動かし、そしてようやくのことで「……うん」その一言だけを紡ぎ出す。
「じゃあ、ね。頑張って……ね」
彼女の背中に回していた両腕から、溶けて消えるようにその存在感が失われてゆく。
同時に身体の中を何かが満たしていくような、奇妙な充足感が広がってゆく。
それは不思議な感覚だった。
意識がまるで地を覆ってゆく水面のように広がり、ぽっかりと空いたままだった心の空白を埋めてゆく……そんな心地がする。
そしてわたしは気がつく。
もう、独りぼっちなんかじゃないことを。
わたしと彼女。
彼女とわたし。
記憶こそ元のままだったけれども、いまここにるのは間違いなくいままでのわたしとは全く別の、新しいわたしだった。
うん……心の中で小さく同意の呟きをもらしながら、わたしはそのことを確信していた。
そんなわたしの頬を、しとどに降り続ける愁雨が叩く。
しとしとと言葉なく静かに、何かを見守るように雨は降り続けていた。
いまも彼女がいるかのようにその場に座り込んだままの姿勢で、両腕でぎゅっと自分の身体を抱き締めるわたし。
不意にぱさりと、何か布のようなものが頭に掛けられる。
目を開き、顔を上げるとそこには、わたしを見つめやる藤田さんの微笑みがあった。
「そのままじゃ、濡れちまうぜ」
そこで初めて、自分に掛けられたものが彼の上着であることに気づく。
「彼女は?」
周囲を見渡しながら、藤田さんが疑問を口にする。
視線を床に固定したまま、わたしはしばらくの間どう返事をするべきか躊躇った後、
「……還りました」
小声で、それだけを口にする。
藤田さんは「そっか……」そう言っただけだった。
天を仰ぎ見るわたし。
雨は降り続け、わたしの顔をその冷えた雨粒で優しく叩いてくる。
夜風が、しとどに濡れて重くなった髪をかすかに震わせる。
そっと目を閉じ、暗転した視界の中でその感触をわたしは、じっと肌で感じ続けた。
どれくらい経った頃だろう、傍らから藤田さんの「琴音ちゃん?」そんな少し心配そうな声が耳に流れ込んでくる。
目を見開く。
夜空を覆い尽くすように浮かび上がる雨雲と、水滴が描く無数の軌跡が視界の中にくっきりと映し出されていた。
その場から立ち上がったわたしは一度だけ小さくため息をもらし、それから背後に佇む藤田さんに向かって精一杯の笑みを浮かべて見せる。
そして舞台の終幕を告げるべく、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……帰りましょう、藤田さん」