『琴音歳時記』
Update:2000.10.09





「神無月」

「……ちゃん。琴音ちゃん」
 誰かがわたしを呼んでいる。
 耳元で囁かれているかのように、鼓膜を微かに震わせる穏やかで、ゆっくりとした口調。
 たゆたうような心地で夢の中にいたわたしを、緩やかに揺さぶる声。
 心のどこかでそれを自覚したわたしは、暗闇の淵に沈ませたままだった意識を浮かび上がらせる。
 頬に感じる温もり。
 何だろう。
 一瞬だけ疑問を抱き、そしてすぐに答えを見出す。
 それは誰かの手が当てられているかのような、どこか人肌の柔らかみを感じさせてくれる温もりだった。
 求めていたもの。
 望んでいたもの。
 夢見ていたもの。
 そう……わたしはそれを、孤独の淵にひとり佇みながらずっとずっと捜し求め続けていた。
 そしていま、渇望し続けていたはずのそれを頬に感じている。
 不意に、ちくりと小さな痛みを覚える。
 穏やかな波間を漂い続けていたわたしの意識は、その痛みと共に急速に現実へと引き戻されていった。
 目を開く。
 そして視線だけをゆっくりと頬に向けるとそこには、わたしの頬へと伸ばされた手があった。
 もちろん、わたしのじゃない。
 しばらくの間、言葉なくじっとその手の動きを見つめ続けた。
 そして気がつく。
 一定の間隔を置いてつねるというより肌の感触を確かめるような、強弱の変化を見せる指の動きにふと、そんな印象を抱いてしまう。
 どれくらい経った頃だろう、わたしは思い切って口を開いた。
「……ひたいれす、藤田ひゃん」
「あれ、起きてたんだ?」
「はい」
 頬に当てられた手はそのままに、すぐ横に座っていた藤田さんが少し驚いたような声で言葉を返してくる。
 表情は、暗がりに隠れてはっきりと見ることができない。
 でもきっと口元を微かに緩めた、そんな穏やかな微笑みを浮かべているに違いないと、わたしは確信していた。
「いやさ。さっきから呼んでるのにちっとも起きないから、こうすれば起きるかなーってな」
「かなーって……そんな理由で頬をつねってたんですか?」
 口元をぷっと緩ませながら、彼の顔を見つめる。
 じーーーっ。
「…………」
「…………」
 数瞬の沈黙。
 そしてわたしの視線に込められた言外の意に気がついてくれたのか、藤田さんの手がようやく頬から離れた。
 手を、頬に当てる。
 随分と長い間つねられていたせいで少し熱を持っているのか、そこだけ火照るような温もりを、手のひらが感じ取る。
 秋の夜風は、思った以上に冷たかった。
 だからこそ、頬の火照りがわたしにはより一層明瞭に意識されていた。
「うん、柔らかくて気持ちよかったぜ」
 見るからに楽しそうな様子で、まっすぐにわたしの目を見ながらそう言葉を紡ぐ藤田さん。
 少しも悪びれた風もない。
 藤田さんのことだから、きっと本心からそう言ってくれているのだろう。
「そ、そう……ですか」
 だから悪戯をさていたのにも関わらずわたしは、何となく恥ずかしさにも似た感情を抱いてしまう。
 思わず視線をそらしてしまったのは、そのせいだった。
 それきり静寂が、わたしたちを包む。
 静かな時間。
 微風に乗って微かに聞こえてくる虫の音。
 ただそれだけがこの世界に残された唯一の音色だったかのように、わたしの鼓膜を震わせる。
 そして沈黙を先に破ったのは、わたしの方だった。
 さっきの照れ隠しもあって、少しわざとらしいくらいの明るめの声で小首を傾げながら、話題を変えようと試みてみる。
「あの……わたし、どれくらい寝てました?」
「そうだなぁ、いまが九時過ぎだから……三時間くらいかな」
「え、もうそんな時間……」
 記憶の中に残る、わたしが最後に見た光景は確か――山の稜線の向こうに沈んでいく夕日のはずだった。
 わたしはそれを、藤田さんの肩に身を寄せながら見ていたのだ。
 そして思い出す。
 いま、自分がどこにいるのかを。
 藤田さんに誘われて、今日は二人で郊外の森林公園にまでピクニックに来ていたことを。
 紅葉に満ちた、緩やかにどこまでも続く山道を歩き続け、一面の薄野原を駆け抜け、山頂の広場に敷いたシートの上でお弁当を食べて……。
 でも視界は、既に宵闇に覆われていた。
 ゆっくりと周囲に首を巡らせ、夜の帳に覆われた世界を見つめやる。
 そして、何気なく頭上を見上げた瞬間だった。
「えっ……!」
 瞳に飛び込んでくる、無数の星空。
 傍らでくすりと、藤田さんが笑みを漏らす。
 でもわたしの耳は、その声を完全に聞き流してしまっていた。
 理由は簡単。
 そう、わたしは圧倒されていたのだ。
 天空の宝石さながらの、その星空に。
 まるで神ならぬ何ものかが、戯れに心の赴くまま無造作に星屑をまき散らしたかのように思えてしまうほどの、千々なる輝きに埋め尽くされたどこまでも続く虚空。
 街のそれと比較するのがおこがましい程の、わたしの知っているのとは全く異なる夜空がそこにはあった。
 思わずため息を漏らしながら、その光景に魅入られたように心奪われたままのわたし。
 いつしかその場から立ち上がり、そして歩き出す。
 心のうちからわき起こる、言葉にし難い衝動にも似た何かが、わたしにその行動を促していた。
 数歩行ったところで立ち止まる。
 そして改めて、視界一杯に広がる星空を見上げた。
 遮るものひとつないそこは、文字通りわたしだけのために存在するプラネタリウムだった。
 あまりの星の数に、星座の形すら殆ど見分けがつかない。
 涼やかな夜空のただ中に凛と輝きを放ち続けるその世界は、まるでわたしの来訪を待っていたかのように穏やかで、そして暖かだった。
 気がつくとわたしは、その場で両手を一杯に広げてくるくると舞い踊り始めていた。
 白いワンピースの裾が、身体の動きに合わせてゆらゆらと揺れ動く。
 ひんやりとした秋の夜風が頬を撫で、風に舞う草原の草たちがわたしの動きに合わせるようにかさかさと音を立てる。
 自然が作り出したその舞踏曲に合わせて、踊り続けるわたし。
 天上高くに瞬く星たちは、手を伸ばせば掴めてしまいそうなほどの輝きをもって、遠く近くにわたしを包み込んでくれていた。
「どうだ?」
 木陰に座したままの藤田さんが、わたしの身体の動きが止まるのを見計らって訊ねてきた。
 少し悪戯っぽい、楽しそうな声。
「前に雅史たちと来た時も、今日みたいに夜空がすげえ綺麗だったから、きっと気に入ってくれるだろうって思ったんだけどさ。お気に召してくれたかな、お姫さま?」
「はい、とっても!」
「そっか。それは良かった。今日はさ、オレからのささやかな贈りものってことで琴音ちゃんに、どうしてもこれを見せてあげたかったんだ」
 そう言って藤田さんは目を細める。
「贈りもの、ですか? でも……どうして今日なんですか?」
 小首を傾げるわたし。
 途端、まるで悪戯っ子のような表情を浮かべた彼は、
「もしかして、忘れてるんだ?」
「何をですか?」
「今日は、大切な日なんだぜ」
「……大切な?」
「そう。とっても大切な日」
 大切と言われて咄嗟に脳裏に思い浮かぶのは、どうしてかどれも藤田さんとの思い出ばかりだった。
 でもその中に、十月の思い出はない。
 わたしと藤田さんが出会ってから、まだ一年と経っていないのだからそれは当然と言えば当然だった。
 けれども、結局今日がどんな「大切な日」なのかを、わたしは思い出すことができなかった。
「ダメか。じゃヒントな。えーと……琴音ちゃんさ、いま幾つだっけ?」
「えっ……幾つって、年のことですか?」
「そう」
 ゆっくりと頷く藤田さん。
 わたしは口元に手を当て、少し俯きがちに足元を見つめやりながら、
「……わたしは十五さ……あっ!」
 そこまで言いかけたところでわたしは今日が何の日だったのかを、ようやく思い出すことができた。
 そう、今日は――。
 今日は、わたしの――。
 慌てて顔を上げる。
 するとそこには、ようやく答えにたどり着くことのできたわたしを見つめる、藤田さんの微笑みがあった。
 そして悪戯っぽく片目を閉じてウィンクをしながら、
「誕生日おめでとう、琴音ちゃん!!」
翌月に続く

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