『琴音歳時記』
Update:2000.11.26





「霜月」

「藤田さん。あの……ちょっとだけ、いいですか」
 肩越しに振り返りながら、口を開くわたし。
 その先には、数歩遅れてわたしの後をついてくる藤田さんの姿。
「ん? ああ、いいぜ」
「はいっ」
 口許を微かに緩めながら頷いてくれた藤田さんに笑顔を返したわたしは、ぱたぱたと駆け出す。
 人混みに賑わう、昼下がりのショッピングモール。
 楽しげに道を行く人並みをすり抜け、辿り着いた先にあったのは、ファッションショップの店先に据えられたショーウィンドウだった。
 秋から冬へと世界がその装いを変えるこの時期、ガラスの中におかれたマネキンたちも、冬装束をその身にまとって、わたしの目の前に佇んでいる。
 後ろ手を組みながら、端から順にそれを眺めていたわたしは、途中でぴたりと足を止めてしまう。
 様々なポーズを取りながら並べ置かれている五体のマネキンのうちの四体目、彼女が着ている服に目が留まったからだった。
 黒を基調とした、一見シックな印象ロングスカート。
 でもデザインがよく考えられているのか、落ち着いた雰囲気の中に、どことなく少女らしさとでも言うべき可愛らしさが感じられる。
「おー、可愛い服だな」
 いつの間にか横に立っていた藤田さんが、わたしの視線を追うように同じ服に目を向け、そう口を開いた。
「そうですね」
 小さく頷くわたし。
「きっと、琴音ちゃんに似合うだろうな」
「そ、そんなことありませんよ……」
「そうか? だって琴音ちゃんって、結構落ち着いた感じの色とか好きだろ。着こなしとかも上手いと思うし、絶対似合うって」
「は、はい。ありがとう……ございます」
 褒められるのは嬉しかったけれど、でもそれが藤田さんの口からだと、ちょっとだけ恥ずかしくなってしまう。
 買っちゃおうかな。
 値札を見ると、そこにはお小遣いで買えるぎりぎりの値段が書かれていた。
 少しだけ思案した後、もう一度藤田さんの意見を聞いてから決めようと思ったわたしは、
「あの……本当にわたしに似合うと思いますか。藤田さん?」
 視線は目の前のスカートに向けたまま、そう訊ねてみた。
「…………」
 返事がない。
 どうしたんだろう。
 小首を傾げながら振り返ると、どうしてか藤田さんは明後日の方を向いて、その先にある何かに見入っている。
 彼の視線を追うように、ゆっくりと首を巡らせる。
 するとそこには……。
 見知らぬ女の人がいた。
 この季節にはあまり似つかわしくない、身体の線をくっきりと浮き立たせるレザースーツを身にまとい、まるでモデルのよう流れるような足取りで、わたしたちの前を横切って行く。
 ふくよかに大きく張り出した胸、きゅっと引き締まった腰、流麗な曲線を描くお尻――女のわたしの目から見ても、ため息が出そうなプロポーションが、そこにあった。
 しばらくの間、言葉を失ったままその姿に見入ってしまう。
 そしてはっと我に返ったわたしは、改めて視線を落とすと、自分の身体を見下ろしてみた。
 見た目にも、さして大きいとは言えない小ぶりな胸。
 制服を着ただけでその存在感をすっかり失ってしまう、凹凸のあまりない身体の線。
 男性を惹きつけるには、どう考えても魅力に欠けているだろう肢体だった。
 やっぱり藤田さんも……胸の大きい女(ひと)の方がいいのかな。
 そんなことを思いながら無意識のうちに、自分の胸に重ねるように両手をふにふにと動かしてみる。
 そこにあった膨らみは、わたしの小さな手でも簡単に覆ってしまえる程度のサイズしかない。
 毎日見続けているものなのだから、そうであることは初めから分かっていたけれど、でもこうして改めて確かめてみると、やっぱり小さいなと内心ため息混じりに思ってしまう。
 貧乳。
 いつだったかクラスの女の子が、別の娘に向かって冗談混じりに口にしていた言葉が、ふと脳裏をよぎった。
 そうなのだろうか。
 いや、多分そうなのだろう。
 ちくりと、心の奥に小さな痛みを覚える。
 視線を感じたのは、その時だった。
 胸に当てた手はそのままに、視線を感じた方に目を向ける。
「…………」
 そこにあったのは、いままでに見たことのない表情を浮かべながら、わたしを見つめる藤田さんの姿。
 まるで不思議なものを見るような、そんな眼差し。
 それが何を意味しているのか図りかねたわたしは、彼の視線を無言で受け止め続けるばかり。
 何となくのお見合い状態。
 その均衡を崩したのは、相変わらず不思議そうな色を顔に浮かべ続けている藤田さんの方だった。
「なぁ、琴音ちゃん……何やってんだ?」
「え?」
 指差された先にあるものを確かめるように、彼の顔に向けていた視線を落としていくとそこには、両手に包まれたわたしの胸があった。
「…………」
 途端、顔がかっと熱くなる。
 こんな場所で、何て恥ずかしいことを。
 胸に当てたままだった手を、慌てて外す。
 勢い余って、万歳でもするように頭上に両手を掲げ上げながら、動揺を隠せないままにわたしは、
「あ、あの……わた、わたし……さっきの人が大きくて、だ、だから決して羨ましいとか、悔しいとか思ったわけじゃなくて……だって、もう少しでBなんだから……い、いえ、そうじゃなくて……」
 自分でも、何を言おうとしているのかさっぱり分からなかった。
 ただただ恥ずかしさばかりが先立って、頭の中がすっかりパニック状態になってしまっていた。
 だからだろう、続けてとんでもない言葉を口走ってしまったのは。
「そ、そ、そうです。胸って、どうすれば大きく出来るか、ご存じありませんか、藤田さんっ?」
 馬鹿。
 何を言ってるんだろう、わたしは。
 空気が凍り付いたように、ぴたりとその動きを止める。
 周囲の雑踏から聞こえてきているはずのざわめきは、でもわたしの耳には届かなかった。
 知覚出来るのは、目の前で無言で佇む藤田さんの姿だけ。
 そして彼の口がゆっくりと開かれる。
 どんな言葉がそこから紡ぎ出されるのか。
 呆れ?
 嘲り?
 憐れみ?
 自分の取った行動の愚かさを省みるうち、いつしかそんな言葉を脳裏に思い浮かんでいた。
 でも――。
「そうだな……選択肢は、三つあるな」
「え?」
 予想もしなかった返答。
 小さな呟きを漏らしながらわたしは、安堵の思いと共にどこか拍子抜けした思いを抱いてしまった。
「選択肢、ですか? それって……」
「もちろん、胸を大きくするための方法だ」
「はぁ」
 彼の言葉に引きずられるまま、頷くわたし。
「プラン1。牛乳を沢山飲む」
 目の前に人差し指を立てながら、口許を微かに緩める藤田さん。
「……牛乳」
「そう。まぁ、基本中の基本ってヤツだな。中坊だった頃、俺も背を高くするために随分これのお世話になったもんだ」
「そうなんですか?」
「琴音ちゃんは、まだ成長期なんだし、若者の成長促進剤として牛乳に優る安全かつリーズナブルなアイテムは無いと思うぜ」
 そう言ってぽんと、自分の胸を叩いてみせる藤田さん。
 多分、太鼓判を押しているということなのだろう。
 小首を傾げ、考える。
 そして、少しだけ想像を逞しくしてみる。
 コップに注いだ牛乳を、こくこくと飲んでゆく姿。
 パックの牛乳を、ストローでちゅーちゅーと飲んでゆく姿。
 腰に手を当てて、1リットル牛乳をぐびぐびと飲み干してゆく姿。
 ……何かが違うような気がした。
「あの、藤田さん。ひとつ訊いてもいいですか?」
「ん?」
「そういう時って普通、一日にどれくらい飲めばいいんでしょう」
「うーん。そうだな……あまり参考にならない気もするけど、俺の時は大体二〜三リットルは飲んでたかな」
 思い出を振り返るように、少し遠い目をしながら藤田さんが口を開く。
「二〜三リットル……」
 信じられないものを聞いてしまったように、その数字を繰り返してしまう。
 そして数秒の間を置いて、
「……そんなに飲んだら、お腹を壊しちゃう気がします」
 ぽつりと、それだけを口にする。
 そしてその呟きに、的を射たかのように頷く藤田さん。
「お。鋭いな、琴音ちゃん。確かにこのプランの一番の問題点って、実はそこなんだよなぁ」
「普通に飲む分には大丈夫だと思いますけど、でもそんなに沢山だと……ちょっと自信ありません」
「んー、じゃあプラン1は破棄だな。次、行ってみよう」
「今度のは、どんな計画なんですか?」
 興味と不安が半々といった面もちで、彼の次の言葉を待つ。
 ぴっと、今度はVサインのように指を二本立てた藤田さんは、どうしてか少し神妙な面もちを浮かべながら、
「プラン2。豊胸手術」
「ほうきょう……?」
「豊かな胸と書いて『ほうきょう』。要するにアレだ、胸の中にシリコンのパットなんかを埋め込んで、無理矢理大きくしてしまおうってヤツだな。ぶっちゃけた言い方をすれば『水増し』ってこと」
「それは……ちょっと」
 世の中には、そういうものがあるらしいことはわたしも知っていたけれど、でも身体を切り開いてまでして、胸を大きくしようというのには、さすがに抵抗を感じてしまう。
 多分その思いが、顔にも出てしまったのだろう、
「その顔は……まあそりゃそうだよな。正直俺も、これはあんまり勧めたくないんだよな。金も結構かかるし」
「そうなんですか?」
「ああ。少なくとも、俺たちの小遣いでどうこうって額じゃないことだけは確かだな」
 言われてみれば、その通りだった。
 まがなりにも「手術」なのだから、お医者さんに風邪を診てもらうのとは訳が違うのは確か。
「と言うことで、残るはひとつだ」
「はい」
「いよいよ真打ち登場。俺的には、これがベストマイチョイスだ」
 そう言いながら、今度は指を三本立てるのかと思ったら、どうやら今度は違ったらしい。
 何を思ってか両手をわたしの前に掲げると、まるで何かを握り締めようとするかのように、にぎにぎと十本の指を動かし始めた。
「ふ、藤田さん?」
 嫌な予感を覚える。
 でもそんなわたしをよそに、にやりと嫌らしげな笑みを浮かべた藤田さんは、楽しげな様子で口を開いた。
「プラン3。琴音ちゃんの胸を、俺がマッサージする」
「え?」
「胸は揉めば自然と大きくなるアルよ。これならお金かからないし、何よりアナタも気持ち良くなれるし、ワタシも楽しい。みんな幸せ、万々歳ネ」
「藤田さん、言葉遣いが変わってます。何だか……変です」
 まるで怪しい中国人のようなその口調に、気圧されるように一歩後ずさってしまうわたし。
 でも藤田さんは、少しも表情を変えることなく一歩近づいてくる。
「そんなことないアルよ。ワタシ、いつも通りヨ。さあワタシのマッサージで、琴音ちゃんの胸、大きく大きくするアルよ」
 気が付くと、両腕で胸を覆い隠していた。
 目の前でぐねぐねと、その一本一本が意思を持っているかのように、藤田さんの指が蠢いていた。
 じりじりと後ずさるわたし。
 でも数歩下がったところで、壁に背中が突き当たってしまう。
「もう逃げられないアルよ。大人しく、胸を揉まれるアルね」
「冗談、ですよね……藤田……さん……」
 ふるふると弱々しく首を振りながら、すがるように問いかける。
 でも、返事はない。
 代わりに指の動きを更に早めながら、わたしに向かって手をゆっくりと伸ばしてくる。
 三十センチ。
 二十センチ。
 十センチ……。
 耐えきれない何かを覚えたわたしは、目の前の現実から逃れるように顔を背け、そして固く目をつむった。
 ぽん。
 次の瞬間、頭に何かが乗る感触。
 恐る恐るといった感じで、目を見開く。
 するとそこには表情を一変させて、いつもと変わらぬ――わたしの良く知っている微笑みを浮かべる、藤田さんの顔があった。
「冗談だって」
「…………」
「いくら何でも、公衆の面前でそんなことする訳……って、琴音ちゃん? おーい、聞いてるかぁ?」
「…………」
 目の前をひらひらと、藤田さんの手が行き来する。
 その途端、力が抜けたように膝かかくっと折れ、その場に崩れてしまうそうになってしまった。
「ととっ! 大丈夫か、琴音ちゃん」
 慌てて支えてくれた藤田さんの声が、耳元に飛び込んでくる。
「……です」
「え?」
「イジワル……です、藤田さん」
 わたしの口から紡がれた声は、半ば潤んでいた。
 それは緊張の縁から突然に開放された後に襲ってきた、脱力とも安堵ともつかない思いが紡いだ感情。
「悪ぃ。ちょっと悪ノリしすぎたな。反省してる」
 わたしの身体を支えるように背中に回された藤田さんの手が、背中をぽんぽんと優しく叩く。
 まるで、小さな赤ちゃんをあやすように。
 一定のリズムを保ちながら刻まれるその音色に、波打っていたわたしの感情が、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
 静かな時。
 頬に触れる藤田さんの制服越しに、とくとくと、彼の鼓動がわたしの中に流れ込んでくる。
「あのさ……」
 少し遠慮がちに開かれた、藤田さんの口。
 抱き留められたままの姿勢で、次の言葉を待つわたし。
「考えたら、そもそもは通りすがりの他の女に目移りしてた俺が悪いんだよな。それについては謝る。ゴメン」
「…………」
「でもさ、これだけは信じて欲しいんだ。えーと……そ、そう、胸の大きさがどうだろうと、俺にとって琴音ちゃんは琴音ちゃんなんだってことを。つまりいまの琴音ちゃんも、俺としては十分魅力的な訳で……」
 途中から、自分の言葉が恥ずかしくなってきてしまったのだろう、藤田さんの声は段々と細く小さなものになっていった。
 きっといま顔を上げたら、照れ臭そうに視線を左右に泳がせている姿が見れるに違いない。
 その様を想像して、ついくすりと、小さく笑みをこぼしてしまうわたし。
「なぁ……琴音ちゃん」
 返答を促すように、背中をぽんと叩かれる。
 でも、何も言わない。
 そして言葉の代わりに、わたしは藤田さんの背中に回した両手に、思いの丈を込めて力を入れた。
 それで伝わると思ったから。
 大好きな、大切な藤田さんには、きっとそれだけで……。
翌月に続く

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