『琴音歳時記』
Update:2000.12.25
廊下一杯を埋め尽くす、人の波。
学年も性別もまちまちな、その流れの中に身を置きながら、わたしも教室への道のりを辿っていた。
今日は終業式。
あとはHRで成績表を貰い、掃除をしてお仕舞い。
明日から始まる、夏休み以来のまとまったお休みをどう過ごすかに胸膨らませているのか、周りの人たちの表情はどれも楽しげなものばかりだった。
大掃除。
除夜の鐘。
初詣。
お節料理。
羽子板。
凧揚げ。
独楽回し。
そんなこの時期特有の言葉が、軽やかなリズムを伴って頭の中を浮かび上がっては、消えてゆく。
ゆっくりと動いていたはずの人の流れが、不意にその動きを止めたのはその時だった。
「……?」
少し背伸びをしながら先を見通してみると、昇降口近くの階段のところで動きが止まっているのが見て取れた。
どうやら人が多すぎて、渋滞してしまっているようだった。
「おいおい。通勤ラッシュかよ……」
横合いから、ざわめきを通して聞こえてくる声。
意識の表面を撫でるように流れていった、聞き覚えのあるその声に視線を巡らせてみる。
思った通りそこに居たのは、藤田さんだった。
人混みを避けるように廊下の端に佇んでいる藤田さんは、どうしてか困ったような呆れたような、そんな顔つきを浮かべている。
「藤田さんっ」
わたしのその声が届いたのか、ちらりと向けられた彼の視線がこちらを捉えた途端、ふっと表情が緩んだ。
その瞬間、どきりと心臓が高鳴る。
毎日見ているはずの、藤田さん顔。
でもわたしの心は彼の顔を見るたび、まるで初めて出会った時のようにどきどきと鼓動を早めるのだ。
「よっ、琴音ちゃん」
軽く上げられた手がこいこいと手招きするのに誘われるまま、人波の隙間をすり抜けるように藤田さんの許に歩み寄る。
自然と頬が熱くなってきてしまうのを心の片隅で自覚しながら、でもそれを顔に出さないように、努めて平静を装って、
「どうしたんですか、こんなところで?」
小首を傾げながら訊ねるわたしに、藤田さんはすし詰めになった階段の目で指し示すと、
「いや……よくもまぁ、あれだけ詰め込んだもんだなって思ってさ」
そう言って苦笑いを浮かべてみせる。
「すごいですね」
「おしくらまんじゅうだよな、あれじゃ」
確かに階段の周囲は、未だに溢れんばかりの人で埋め尽くされ、多分後ろから押されているからだろう小さな悲鳴が、あちこちから聞こえてくる。
「でもそうは言っても、階段を上らないと教室に戻れないってのが、俺の場合の一番の問題なんだよな」
「二年生の教室は、二階ですもんね。あ、でも、それだったらこんなところに居たら拙いんじゃないですか?」
「ま、どうせ他の階段も似たような状況だろうし、ってことで俺的にはここで階段が空くのを待ってる訳だ」
「あ、なるほど」
納得したように、小さく頷くわたし。
「琴音ちゃんこそいいのか。こんなとこにいて?」
「え? あ、はい……」
その問いかけに、曖昧に言葉を濁す。
藤田さんの言うとおり、一年生の教室は一階にあったから、わたしの場合階段を空くのを待つ必要は特に無い。
「えと……急いで戻っても、後はHRがあるだけですから」
本当は、藤田さんと少しでも一緒にいたかったからだけだったけれど、でもその思いを誤魔化すようにわたしは、早口にそれだけを返した。
「確かに。HRだけ……だよな」
「……?」
奥歯に物が挟まったような、そんな口ぶりの藤田さんの呟きに、つい首を傾げてしまう。
多分その思いが顔にも出てしまったのだろう、
「いや、何だほら……成績表がだな……配られるだろ」
困ったように視線を逸らしながら紡がれた返答を聞いて、それでようやく合点がいった。
「もしかして、思わしく無かったんですか。期末テスト?」
「まぁ……な」
困ったように鼻の頭をかきながら、視線を逸らす藤田さん。
「補習は……どうにか避けられるとは思うんだけど、やっぱ志保の挑発に乗せられてゲーセンやらカラオケに入り浸っていたのが拙かった」
「そうなんですか?」
「まぁ……な」
言われてみれば試験期間中、教室の窓から女生徒と一緒に校門の前を駆け去っていく藤田さんの後ろ姿を、見た覚えがある。
その時は、クラスのお友達と試験勉強をしに図書館かどこかにでも行ったのだろうかと思ったりしたけれど、でも藤田さんの言が正しいのだとしたら、その行き先は図書館ではなく商店街だったに違いなかった。
じっと藤田さんの顔を見つめたまま、内心で記憶を呼び覚ましているわたしの姿をどう思ったのか、
「あ、でも平気だぜ。冬休み中の予定に変更は無いから」
「補習が無ければ……ですよね」
休み中、わたしは藤田さんと一緒に遊びに行く約束をしていた。
年内に一度。
そして、年明けにもう一度。
「う。ま、まぁそうなんだけど」
「本当に大丈夫なんですか、藤田さん?」
「大丈夫だって」
胸を張って答える藤田さんに、無言の視線を送り続けるわたし。
じーっ。
「大丈夫、だと思う」
じーっ。
「大丈夫、かもしれない」
じーっ。
「大丈夫、だといいなぁ」
表情を困惑の深いものに変化させながら、段々と自身を失ってゆく藤田さんの言葉。
彼のその様子を前に、口から小さなため息を漏らしてしまう。
そして視線を足元に落としながら、少しだけ思案に暮れる。
「琴音ちゃん……?」
耳に届く藤田さんの声をよそに、なおも思案に暮れていたわたしは、やがて両手を腰に当てながら顔を上げる。
目の前に大きく映し出される、藤田さんの顔。
それを目の当たりにした途端、いまからしようとしている行為について躊躇いを覚えてしまう。
「……?」
「えっと……」
ふぁいとっ、琴音。
内心でそんな呟きと共に自らを鼓舞しながら、そしていつもより少しだけはっきりした口調でわたしは、
「もう、テスト中はちゃんと勉強しないとダメだよ、浩之ちゃん」
「…………」
「…………」
「…………」
何となくのお見合い状態。
がやがやと、周囲の喧噪だけが耳朶を叩く。
固まったように互いに動きを止めてしまった中、先に時の流れを取り戻したのは、藤田さんの方だった。
持ち上げられる両手。
ゆっくりとそれが、わたしの方に近づいて来る。
頬に触れるか触れないかくらいの距離を置いて、緩やかな弧を描く掌。
空気を通して伝わる温もりに、微かに目を細めたわたし前で揺れ動いた藤田さんの指は、そして――。
「お前、あかりだな」
むにっ。
誰何の言葉と共に、親指と人差し指の間に摘まれた頬が、むにーと横に引っぱられる。
「ひ、ひたひれふ」
「琴音ちゃんに変装して俺を謀ろうとは、ふてぇヤツだ」
「やめめふらはひ、ふひはひゃん」
「む、まだしらを切るか。あかりの癖に、意外と我慢強いな」
くすくす……側をゆく人たちが、おかしそうに小さな笑いをこぼしながら、通り過ぎてゆく。
「ひらいまふー。わらひ、こほねれふー」
恥ずかしさとつねられる痛みで、自然と涙目になってしまう。
藤田さんの手首を掴んで、何とか戒めを解こうと腕に力を入れるけれど、でもわたしの力じゃびくともしなかった。
とその時、ふっと頬をつねる感触が失われる。
そして今度は、撫でるように掌が肌の上を滑ってゆく感触を、頬に覚える。
熱を持った肌が、少しずつ冷めてゆく。
「お、そろそろ階段も空いてきたみたいだな」
手を下ろしながら、何ごともなかったようにそう言う藤田さんに、わたしは上目遣いに恨めしげな眼差しを浮かべながら、
「……痛かったです」
「俺は気持ちよかった、かな」
「もぅ、藤田さんっ!」
何を思ってか楽しげな微笑みを浮かべてみせる藤田さんに、思わず言い寄ってしまうわたし。
「ほらまぁ、琴音ちゃんのほっぺって柔らかくて俺、好きだからさ……ついこう触りたくなっちまうんだよな。うんうん」
「…………」
でも藤田さんの口から返ってきたのは、喜ぶべきなのか怒るべきなのか判断に困ってしまう、そんな言葉だった。
「まあまあ、そう怒るなって」
「うー」
「帰りにお茶奢るからさ、機嫌直してくれよ」
「……萌葱屋さんの、レアチーズケーキのセット、飲み物はダージリンティーがいいです」
少しだけ考えてから、藤田さんからの提案に条件を上乗せして答える。
ささやかな条件闘争。
本当は、そんなことする必要なんて無かった。
わたしにとっては、藤田さんと一緒にいられること、同じ時を過ごせるだけで十分に幸せだったから。
それだけが、わたしの望む全てだったから。
でも……。
何となく分かっていたから。
藤田さんが、どんな反応を求めているのかを。
だからわたしは答える。
少しだけの我が儘に、少しだけの想いを乗せて。
わたしのその反応に、思った通りどこか嬉しそうに微かに目を細めた藤田さんは、ぽんぽんとわたしの頭を叩くと、
「了解」
と、それだけを口にする。
そして軽やかな歩調でわたしの前を離れると、後ろ手に手を振りながら、普段の落ち着きを取り戻した階段を、とんとんと駆け上がって行ってしまった。
きょとんと、その後ろ姿を見つめるばかりのわたし。
でも、階段の先に追いかけていた藤田さんの背中が消えたところで、気を取り直す。
そしてくすりと、誰にも聞こえないだろう小さな笑みをひほつこぼしてから、教室に向かって歩き出した。
心の片隅で、途中からすっかり忘れてしまっていた、大切なことについての願いを胸に抱きながら。
藤田さんが、補習になりませんようにと……そう祈りながら。