『琴音歳時記』
Update:2001.01.28





「睦月」

 ドアを開ける。
 途端、空から降り注いでくる陽射しが、その無数の光の粒と共にわたしの瞳を射し貫いた。
 眩しさをこらえるように、目を細める。
 外気に触れる頬は、痛いくらいの冷たさをそこに感じ取っていた。
 冬の朝。
 ぴんと、どこか張りつめたものを感じさせながら、でも同時に一種心地よさにも似た何かを覚えさせてくれる、そんな爽やかな空気。
「寒い……」
 知らず知らずにそんな言葉が、わたしの口を突いて出てくる。
 真っ白な吐息と共に。
 ようやく目が、光に慣れてくる。
 手袋をはめた両手を胸の前で祈るように合わせながらわたしは、改めて瞳に映し出される光景に目を向ける。
 そこにはあったのは、特別の景色だった。
 真っ白な世界。
 吐き出されるわたしの息に折り重なるように静かに佇む、白一色に染め尽くされた世界。
 しばらくの間、その様を言葉を失ったように無言で見つめ続けた。
 雪。
 冬だけが織りなす、特別な季節の装い。
 昨晩から雪を降らせ始めた雲は、夜明けを迎えるまでの間に深々と降り積もり、そして世界を覆い尽くさんばかりの白のベールだけを残して、足早に去っていってしまっていた。
 朝、時計が鳴り出す前に目を覚ましたわたし。
 窓を覆うカーテンの隙間から射し込んでくる光の具合から、外は晴れているようだった。
 カーテンを開け放ち、窓越しに晴れ渡ったた空を仰ぎ見たくなる思いをぐっと堪えて、手早く登校の準備をしたわたしは……そしていま、ここにいる。
 浮き立つような思いと共に。
 一歩、玄関から外に足を踏み出す。
 染みひとつとしてない真綿のように真っ白な雪が、さくっと小さな音色を伴わせながらわたしを受け止めてくれる。
 優しく、そして柔らかく。
 その心地よさに、思わず目を細めてしまう。
 一歩一歩、何かを確かめるように歩を進めながら、やがて家を後にしたわたしは、いつもと同じ通学路を学校に向かって歩き始めた。
 時間が早いせいか、周囲に人影は無かった。
 当然かもしれない。
 夜明けから、まだそれほど経っていない。
 多分殆どの人たちはまだ夢の中か、それともようやく今日という日を始めるべく目を覚ましかけているに違いなかった。
 雲ひとつない、突き抜けるような青空。
 木々も、家も、道も全てが白一色に染め上がられた大地。
 その中を、さくさくと雪を踏み締める小さな足音を立てながら、ひとり歩き続けるわたし。
 時々遠くから、とさとさっと乾いた音色が聞こえてくるのは、木に降り積もった雪が落ちる音なのだろう。
 静かな世界。
 世界に、わたしひとりしかいなくなってしまったように思えてしまう、そんな静けさに包まれた世界。
 ふと、背後を振り返る。
 するとそこには、道の真ん中を点々と真っ直ぐに延びてゆく、ひとり分の足跡が雪の上に刻まれていた。
 それを見た途端、ちくりと胸が痛む。
 心のどこかを針で刺したような、そんな小さな痛み。
 分かっていた。
 その痛みの原因が何なのか。
 いま目の当たりにしている光景、それは……かつて、わたしがその身を置いていた世界そのものだった。
 わたしを遠巻きにひそひそと小声で何かを話しながら、でもそれ以上決して近づいてくることのない、周囲の人たち。
 その輪の中心で、ぽつりとひとり佇むばかりのわたし。
 孤独。
 諦観。
 寂寥。
 絶望。
 そう、わたしの側に居続けてくれたのは人ではなく、そんな辛く悲しい思いを伴うばかりの言葉だけだった。
 この身に穿たれた、分かち難い刻印があるが為に。
 そしていま、わたしはひとり。
 鳥のさえずりさえ聞こえてこない雪の中を、ひとり歩き続けている。
 空を見上げる。
 そして大きく、ため息をつく。
 途端、真っ白な息が紺碧に包まれた空を、わたしの視界から覆い隠した。
 朝からこんなじゃ、駄目。
 せっかくこんなに綺麗な風景の中を歩いているのだから、もっと楽しいことを考えないと。
「ふぁいとっ、琴音」
 ぽつりと、ひとりごちそんな呟きを漏らしながら、そして空に向けていた目を戻す。
 その時だった。
 ひゅっと何かが、朝の空気を切り裂く音がしたのは。
 え……そう思う間もなく、視界の中に白く小さな何かが映し出され、見る見るうちにわたしの方に迫ってくる。
 そして――。
「ひゃんっ!」
 小さく悲鳴を上げながら、気が付けばわたしはその場にぺたりと座り込んでしまっていた。
 次の瞬間、顔一杯に広がる冷たさの存在に気付く。
 肌に触れる、外気の冷たさと少しだけ違うそれは……雪の冷たさだった。
「うわ、しまった」
 少し離れた場所から、男の人の声が聞こえた。
 聞き覚えのある声。
 忘れるはずのない声。
 ぷるぷると首を振って、顔に張り付いたままの雪を振り払ったわたしは、そしてゆっくりと目を開く。
 すると瞳に、わたしに向かってざくざくと足音を上げながら駆け寄ってくる人影が、映し出される。
 その様をしばらくの間、半ば呆然と見つめ続けるわたし。
 やがてわたしのすぐ側に辿り着いたその人は、雪の上に座り込んだままのわたしと目線を合わせるように膝を折ると、
「悪ぃ、琴音ちゃん。まさか、顔面にヒットするとは思わなかった」
「…………」
「いや最初はさ、ちょっと脅かそうかなって思っただけだったんだ。なんて言うかほら……雪の日のお約束みたいなもんだろ」
「…………」
「あ、でも琴音ちゃんの『ひゃんっ!』って、可愛かったぜ。ははっ」
 ようやく我を取り戻したわたしは、女の子座りをしたままの姿勢はそのままに、傍らにあった雪を手ですくい上げ、両手で丸くこねる。
 真綿のように柔らかかったそれが、手の中で少しずつ形を整えてゆく。
「琴音ちゃん……?」
 すぐ側から、少し不思議そうな様子でわたしの名を呼ぶ声。
 でもそれを無視してきゅっきゅとこね続け、ようやく満足出来るくらいの硬さになった雪玉。
 手の中をそれを見つめながら小さく頷いたわたしは、そして俯かせたままだった顔をぱっと上げると、
「えいっ!」
「ぐはっ!」
 声は、殆ど同時だった。
 そしてそれきり、静寂がわたしの周りに訪れる。
 無言のまま、肌に張り付いた雪片の隙間から垣間見えるその人の瞳を、見据え続けるわたし。
 ただ、じっと。
 そうしてどれくらい経った頃だろう、ほんの少し目を細めたわたしは、
「おはようございます、藤田さん」
 にっこりと微笑みを浮かべ、何ごともなかった風を装いながら、朝の挨拶を口にする。
「おぅ、おはよう」
 さっきのわたしと同じように、首を振って雪を振り落としながら返事をする藤田さん。
 ちょっとだけ困ったような表情。
 その姿がおかしくて、くすりと口から笑みがこぼれてしまう。
「むぅ、笑ったな」
「あ。えっと……ごめんなさい。でも……」
「と言っても、そもそもは先にやったは俺が悪いのか」
 苦笑いを浮かべながら、頭をかく藤田さん。
 そんな彼に向かって、相変わらず口許を緩めたままのわたしは、小さく頷きながら、
「そうです。びっくりしちゃいました、わたし」
 胸に手を当てながら、小さくため息をついてみせるわたし。
 吐息が、わたしと藤田さんの間にある空気を刹那の合間だけ白濁させ、そして消えてゆく。
「ごめんな」
「いいんです。さっきので、おあいこですから」
 首を振るわたし。
 すると藤田さんは、どこか納得がいったように口許を綻ばせると、
「じゃあこれで、貸し借り無しってことだな」
「はい」
「ん……了解」
 ゆっくりとその場から立ち上がった藤田さんは、そして相変わらずの笑顔のまま、わたしの方に手を差し伸べてくる。
「あんまり座り込んでると、風邪引いちまうぜ」
「あ、はい」
 彼の手を掴み、腰を上げる。
「そう言えば藤田さん。今日はどうされたんですか?」
「どうって……何が?」
 わたしの質問の意味を計りかねたのだろう、小首を傾げながらそう問い返してくる。
「あの……こんな時間にどうして藤田さんがいらっしゃるのかなって、そう思ったもので」
 いつもより、二時間近く早い時間に。
 それもどうしてわたしの家の近くに藤田さんがいるのか……それがわたしの抱いた疑問だった。
「ああ、そのことか」
「はい」
「実はだな……」
 そう言って藤田さんは、真剣な表情を浮かべながら、まるで秘め事を口にするようにわたしの耳元に口を寄せてくる。
 その雰囲気に呑まれるように、ちょっと緊張気味に耳をそばだてる。
「昔から、雪が降ると俺は、何故か早起きしてしまうんだ」
「え?」
「で、早く起きてしてしまったものは仕方がないので、こうして琴音ちゃんちまで散歩に来た訳だ」
「そう……なんですか?」
 思わず、どこか拍子抜けした声を出してしまうわたし。
「うむ」
 雪が積もったから早起きをするなんて……まるで小さな子供みたい。
 ふと、そんなことを思ってしまう。
 そして次の瞬間、内心でくすりと笑みを漏らしてしまう。
 何故なら、わたしも同じだったから。
「もしかして、琴音ちゃんも俺と同じか?」
「えと……はい。多分……」
 少しだけ恥ずかしさのようなものを覚えながら、小さく頷くわたし。
「そかそか。じゃあお仲間同士、このまま学校に行くとするか」
 こくりと小さく頷いたわたしは、ほんの少しだけ心臓が動機を早めるのを自覚しながら、藤田さんと肩を並べて歩き出した。
 そして歩き出して少ししてから、ふと気が付く。
 手袋をしているせいで分からなかったけれど、素肌を晒したままの藤田さんの手は、とても冷たそうだった。
 心なしか赤くなってるような、そんな気がしなくもない。
「あの……」
「ん?」
「手、冷たくありませんか?」
 わたしの問いかけに、一瞬不思議そうな色を浮かべた藤田さんは、でもすぐに納得のいったように、
「出かける前に手袋を探したんだけど、見つからなくてさ。でまぁ、仕方なく裸のままって訳だ」
「はぁ」
「でもとりえあずいまは、さっきよかマシになってるかも」
「どうしてですか?」
 問い返すわたしに、藤田さんはどこか悪戯っぽい色を瞳に浮かべると、
「だってほら、こっちの手は温かいから」
 そう言って右手を――さっきから繋いだままになっているわたしの手ごと、目の前に掲げてみせる。
 わたし……藤田さんと手を繋いだままだった。
 鼓動が高鳴るのが、自分でも分かった。
「な? もし琴音ちゃんが迷惑じゃなかったら、しばらくこのままにさせてくれると、俺としては嬉しいんだけどな」
「えと……は、はぃっ!」
 恥ずかしさの余り、まるで壊れた人形のようにこくこくと首を縦に振るばかりのわたし。
「さんきゅ」
 嬉しそうに口許を弛める藤田さん。
 その表情に、胸がぎゅっと締め付けられるような思いを抱いてしまう。
 それは、小さな幸せ。
 他の人にとっては取るに足らないものかもしれなかったけれど、でもわたしにとっては何ものにも代え難い、大切なもの。
「なぁ、琴音ちゃん」
 不意に、傍らの藤田さんが口を開く。
「はい?」
「学校に着いたら、何したい?」
 少しだけ考える。
 小首を傾げながら、しばしの間思案に暮れていたわたしは、やがて藤田さんの方に顔を向けると、
「雪だるま、作りたいです」
 藤田さんの手を掴む手の力を少しだけ強くしながら、答える。
「よし。その案、採用。でも作るとなったからには、でっかいのを作るぞ」
「でっかいの、ですか?」
 どらくらいの大きさなんだろう。
 藤田さんと同じくらいの身長とか……雪玉を作るのが大変そうだったけれど、それくらいなら頑張れば何とか出来そうな気がした。
 でも彼の口から返ってきたのは、そんな想像を遙かに越える数字だった。
「身の丈は、そうだな……十メートルくらいが目標だ」
「それは……ちょっと」
「冗談だって」
 楽しげにくすりと笑みをこぼしながら目を細めた藤田さんは、そしてわたしの手をきゅっと握り返してきてくれる。
 掌に覚える温もり。
 確かな存在感。
 さくさくと耳を打つ、ふたり分の足音。
 傍らで空気を白く濁らせる、藤田さんの吐息。
 その存在を確かめることが出来るのが、嬉しかった。
 ふと、肩越しに背後を振り返る。
 そして瞳に映し出された光景を前に、温かな思いを抱く。
 わたしはもう孤独じゃない。
 何故なら、大切な……そして大好きな人が、いつだってこうして側にいてくれるのだから。
「琴音ちゃん?」
 その声に視線を戻したわたしは、そして「何でもありません」そう答えてまた歩き出す。
「雪だるま、頑張って作りましょう」
「ああ。後から登校してきた連中が、びっくりするぐらいのを作ろうな」
「はいっ!」
 わたしの背後。
 そこには、わたしと藤田さんのふたりの足跡が、無垢なる雪の上に確かに刻まれていた。
翌月に続く

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