『琴音歳時記』
Update:2001.03.31





「弥生」

 頬を優しく撫でてゆく微風。
 すっかり春めいた暖かな陽射しの中で感じるそれは、思わず目を細めてしまうくらいの、心地よい感触だった。
 ゆっくりと、頭上を見上げる。
 するとそこには、真綿のように柔らかそうな輪郭を描く、幾つもの雲を従わせている青空が、どこまでも広がっていた。
「のどかだねぇ」
 不意に、すぐ側から聞こえてきた声。
 ちらりと横目で見ると、すぐ横でわたしと同じように空を見上げていた藤田さんの横顔が飛び込んできた。
 降り注ぐ陽光に、どこか眩しげに目を細めている。
 その姿に、心の中が温もりに満たされるような思いを抱きながらわたしは、小さく頷き返すと、
「はい。そうですね」
 口許に宿した微笑みと共に、そう答えていた。
 春の訪れ。
 ほんの数週間前まで続いていた、肌を刺すような寒気もすっかり緩み、少し汗ばむくらいの陽気に満たされていた。
 草も木も、そして人も春の到来と足並みを揃えるように、日を重ねるごとにその装いを新たにしてゆく。
 そんな春の日に、藤田さんとふたりで訪れた公園。
 電車を幾つか乗り継いで来た場所。
 一面の緑に包まれた芝生の上でいま、ゆっくりと流れてゆく時間の中に、その身を預けているわたしたち。
 それは小さな幸せ。
 新しい季節の訪れを、大好き人の横で迎えることができるという、それはわたしにとって何より大切な幸せなのだった。
「こう天気がいいと……」
 そう言いかけて、うーんと大きく伸びをして見せた藤田さんは、そのまま倒れ込むように芝生の上に仰向けに寝ころんでしまった。
「……昼寝のひとつもしたくなっちまうよな」
「お昼寝ですか?」
「そ。世の中に、寝るより楽はなかりけり……ってな」
 冗談半分といった口調で紡がれたその呟きに、くすりと笑みをこぼしてしまうわたし。
 その時だった。
 目の前をひらりと、紙切れのような何かが横切ったのは。
 綺麗な薄桃色に染められたそれは、風に舞うように上に下にと柔らかにその身を踊らせながら、やがて視界の中から去っていった。
 振り返る。
 そこには、一本の樹があった。
 緑と青の二色に切り分けられた世界のただ中に佇む、鮮やかな桜色にその身を染めている樹木。
 そこからこぼれ落ちた、ひとひらの花びら。
 それが、いまわたしの目の前を通り過ぎていったものの正体だった。
 満開というには、まだ少し早いだろうか。
 七分咲き……くらいかな。
 小首を傾げながらそんなことを思ううち、微風に揺れる枝先から咲きこぼれた花びらが、またひらひらと舞い流れてゆく。
 いまはまだ、目で追って数を数えられるくらいしか舞うことのない花びらも、きっとあと一週間もすれば、視界の全てを覆い尽くすばかりの花吹雪と化すに違いなかった。
 そして緑に覆われていた芝生が、その刹那の合間だけ桜色の絨毯に敷き詰められるのだ。
 それは、きっと夢のような光景に違いなかった。
 でも同時に、その光景をこの目で見ることができないことが、少しだけ残念に思えてしまう。
 また来週……来れたらいいな。
 わたしがお願いしたら、藤田さんは「ああ、いいぜ」と、笑顔と共にそう言ってくれるだろうか。
 少しの間、そんなことを頭の片隅で考えていたわたしは、やがて視線は桜の木に向けたまま、
「あの……藤田さん……」
 少し小さめの声で、ゆっくりと口を開いた。
「…………」
「…………」
 返事はない。
 耳に届くのは、遠く聞こえる鳥のさえずりと、風に揺れる草と木が織りなすかさかさ……といった、そんな微かな音色だけ。
 もしかして、聞こえなかったのかな。
 そう思ったわたしは、顔を彼の方に向けながら、さっきより少しだけ大きめの声で口を開きかける。
「藤田さ……?」
 でもわたしは、最後まで言葉を紡ぐことができなかった。
 何故なら、視界の中に見出してしまったから。
 春の陽射しを全身に浴びながら、芝生の上で寝入ってしまっている藤田さんのその姿を。
「…………」
 ぽかんと、その予想もしなかった光景に一瞬我を忘れてしまう。
 でも次の瞬間、知らず知らずのうちに、口からくすりと小さな笑みがこぼれてしまっていた。
 さっきの「昼寝のひとつも」という言葉は、てっきり冗談なのだとばかり思っていたけれど、どうやら当の藤田さんは本気だったらしい。
 少しの間、言葉なくその寝顔を見つめ続ける。
 穏やかと言うよりはあどけないと言った方がよさそうな表情が、わたしの目の前にあった。
 それは普段、決して見ることの出来ない藤田さんの顔。
 わたしと一緒の時、いつだって浮かべている大人びた優しげな色は、どこにも見当たらなかった。
 そっと手を伸ばす。
 頭の後ろに回された両腕を枕に、安らかな寝息を立てる藤田さんの髪に指先が触れる。
 春の陽射しに暖められた藤田さんの髪の毛は、固さと柔らかさがない交ぜになった、そんな不思議な感触をわたしに覚えさせてくれた。
 しばらくの間そんなことを続けているうち、陽射しの暖かさもあってか、段々わたしも眠くなってきてしまった。
 ……どうしよう。
 重くなってきた瞼を開きながら考えるうち、ふと視線が藤田さんの腕のところで止まる。
 少しだけ考えた後、ひとりごち小さく頷く。
 ワンピースの上に羽織っていたカーディガンを脱いだわたしは、それを丁寧に折り畳んだ後、藤田さんに顔を寄せる。
「よい……しょっと」
 気持ちよさそうに寝ている藤田さんを起こさないよう、ゆっくりと持ち上げた頭の下にカーディガンを敷いてから、枕代わりに組まれていた両腕のうち左の手だけを横に伸ばしていった。
 時間にして一分ほどかけて全ての作業を終えたわたしは、小さく安堵のため息をついた。
 準備完了。
 でもそう思った途端、急に鼓動が早まりだす。
 同時に、今になって自分がこれからしようとしていることの恥ずかしさに、頬が熱くなってきた。
 胸に手を当て、動悸を鎮めようとゆっくりと息を吸い吐きする。
 何度かそれを繰り返すうち、どきどきと普段の倍くらいのリズムを刻んでいた心臓が、少しずつ落ち着きを取り戻していった。
「ふぅ……」
 念のために周囲を見渡せば、だいぶ離れた場所にピクニックに来ているらしい家族連れの姿が幾つか見受けられる程度だった。
 うん……大丈夫。
 スカートの裾を簡単に整え、それからゆっくりと身体を芝生に向かって横たわらせていく。
 やがて後頭部に覚える、温もりを伴った柔らかな感触。
 青い空。
 白い雲。
 そして、世界の全てを照らし出す太陽。
 寝返りをうつ。
 その途端、顔のすぐ側にまで伸びてきている藤田さんの腕と、その先にある顔のアップが視界一杯に映し出された。
 嬉しさと恥ずかしさ……目の前の藤田さんの横顔を見つめるうち、そんな思いがわたしの中を浮かんでは消えてゆく。
 そして思う。
 目を覚ましたら、きっと藤田さんはびっくりするだろうなと。
 その時の情景が脳裏に浮かんできてしまったわたしは、くすりと笑みを漏らしてしまう。
 大好きな人を間近に見ながら。
 大好きな人の温もりを感じながら。
 大好きな人の腕の中で眠る。
 それは長い長い孤独の時を過ごし続けてきたわたしにとって、どんなことよりも幸せなに思えるひと時。
 柔らかく暖かな陽射しと、優しく穏やかな微風を頬に感じながら、目を閉じてゆくわたし。
 視界から藤田さんの姿が失われる刹那、ゆっくりと口を開いた。
「おやすみなさい……藤田さん」
翌月に続く

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