『琴音歳時記』
Update:2000.10.09





「卯月」

 鞄を手に、席を離れる。
 ドアに辿り着くまでの間に、クラスメイトが声をかけてきてくれるのに笑顔で応えながら、わたしは廊下へと足を踏み入れた。
 放課後の喧噪。
 一日に一度だけ訪れる、穏やかで賑やかな時。
 そのさわめきに包まれながら、ゆっくりとした足取りで廊下を抜け、階段を下りてゆく。
 靴底がきゅきゅっと、床を踏みしめる小さな音色を刻む。
 その姿を見出したのは、昇降口へと向かう途中の廊下の窓からだった。
 正門へと続く小道を、肩に鞄を掛けるようにしている後ろ姿。
「……あっ」
 小声で呟きを漏らすと同時に歩調を早めたわたしは、下駄箱の前を素通りすると、上履きのまま校舎の外へと飛び出す。
 桜の舞い散る校庭。
 空の青さと、花びらの薄紅に包まれた優しい景色。
 その中を見え隠れする背中。
 暖かな春の陽射しと、そして穏やかな風がわたしの頬を撫でるように流れ去ってゆく。
 いつしか早足は、駆け足へと変わっていた。
 そして、求める人の背中が視界の半ばほどを占めたあたりで、初めてその人の名を口にする。
「藤田さんっ!」
 わたしの声にその場で足を止めた彼――藤田さんは、ゆっくりと肩越しにこちらに顔を向けた。
 一瞬だけ意外そうな色を垣間見せたその表情は、でも次の瞬間、
「よっ、琴音ちゃん」
 穏やかな微笑みへと変化を遂げる。
 大切な、大好きな人の笑顔。
 それを目の当たりにして、わたしの胸がほんの少しだけ高鳴る。
 もう、数え切れないくらい見続けてきたはずの表情なのに。
 わたしの心の中に、消し難く焼き付けられているはずなのに。
 それでも藤田さんの笑顔を見るたび、まるで初めての時のようにわたしの鼓動は高鳴るのだ。
 そのことに嬉しさと恥ずかしさがない交ぜになった、そんな不思議な思いが交錯する。
 きっとそんな思いが顔に出てしまったのだろう、身体をこちらに向けた藤田さんはどこか不思議そうな様子でわたしの顔を覗き込むと、
「どした、琴音ちゃん。俺の顔、何かついてるか?」
「い、いえ。そんなことありません」
 慌ててふるふると首を振るわたし。
「それより、今日はもうお帰りなんですか?」
 話題を逸らそうと、ちょっとだけどもり気味にわたしは問い返す。
 そんなわたしの思いに気付いてか気付かなくてか、藤田さんは小さく頷きながら、
「まぁ帰宅部の俺としては、掃除が終わればお役御免だからな」
「そうなんですか?」
「ああ。とりあえず家に帰って、無意味に惰眠をむさぼるのが俺的平日ライフってヤツな訳だ」
「はぁ」
 曖昧な返答。
 そう言えば……藤田さんは、部活なんかはしないのかな。
 ふと心の片隅に浮かんだそんな疑問。
「藤田さんは、部活とかはされないんですか?」
 小首を傾げながら訊ねるわたし。
 そんなわたしを前に、少しだけ考えるような素振りを見せた藤田さんは、やがて頭をぼりぼりとかきながら、
「そうだなぁ……俺の場合、集団行動ってのが苦手なんだよな」
「集団行動、ですか?」
「そ。ほら部活って、運動部にしろ文化部にしろ、基本的に何人かで集まってするもんだろ」
「はい」
「それが苦手なんだよな、俺」
 天を仰ぐように見上げながら、苦笑いを浮かべる藤田さん。
 そして視線をわたしの方に戻すと、片目を閉じながら、
「と言うわけで、俺としてはぶらぶらと学校を後にして気怠い午後の時間を過ごすというのが性に合ってるんだろうな」
「そんなことないと思いますよ」
「……?」
「サッカーとかバスケットとか、きっと藤田さんならチームの中心になって活躍できるって、わたしは思いますけど」
「ははっ、さんきゅ」
 そう言って、わたしの髪をくしゃくしゃとかき混ぜるように撫でてくれる藤田さん。
「あ、あの……藤田さん」
 髪が乱れることに、少しだけ困ったような色を浮かべて見せながら、小さく呟きを漏らすわたし。
 そんなわたしの反応に、どこか悪戯っぽい瞳を浮かべながらなおも髪を撫でる藤田さん。
 でも、わたしは知っていた。
 それが藤田さんなりの、照れ隠しなんだということを。
 そしてそんな反応を見せてくれるのが、わたしひとりに対してだけなのだということを。
 だから嬉しかった。
 たとえ髪が乱れても、その代わりに他の誰も見ることのできない藤田さんの微笑みを見ることができるのだから。
「そういや、琴音ちゃんは……」
「はい?」
 頭の上に置かれた藤田さんの手はそのままに、ゆっくりと顔を上げるわたし。
「琴音ちゃんも俺と同じで、帰宅部だったよな?」
 同意を求めるようなその問いかけに、思わず内心でだけくすりと笑みを漏らしてしまうわたし。
 そう、藤田さんはまだ知らなかったのだ。
 わたしが――なのを。
「違いますよ」
 言いながら、ぴょんと一歩後ずさる。
「え?」
「わたし、部活してますよ」
「へぇ、そうだったんだ。ああ、そう言えば前に美術部からお誘いがあったとか言ってたよな。ってことは、美術部に入ったんだ」
 得心した様子で、うんうんと頷く藤田さん。
 でもわたしは、そんな彼に向かって少しだけ目を細めながらくすくすと小さく微笑むと、
「ぶー。はずれです」
「え? 違うのか」
「はい。美術部じゃありませんよ、わたしが入ったクラブは」
「それじゃ、運動部とか」
「違います」
「うーむ」
 腕組みをして考え込んでしまう藤田さん。
 そんな彼を前に、わたしは相変わらずくすくすと小さな笑みをこぼしながら、次の言葉を待ち続ける。
 藤田さんが再び口を開いたのは、それから十秒ほど経ってからだった。
「やっぱ分からん。ヒントをくれ、ヒント」
「ヒントですか? そうですね……わたしのいるクラブは、部員はわたしひとりですけど、でも本当は沢山います」
「は? なんだそりゃ」
 ぽかんと口を開けながら、呆れたような声を発する藤田さん。
「はい、ヒントはこれでお終いです」
「……全然分からん」
 考える素振りも見せることなく藤田さんは、降参の意を示すように両手を上げて見せる。
 そしてどこか興味ありげな表情を浮かべながら「で、正解は?」と、わたしに顔を寄せながら訊ねかけてきた。
 わたしは口元に手をあてながら小さく微笑み、そして藤田さんを手招きする。
「……?」
 小首を傾げながら、わたしの方に顔を寄せてくる藤田さん。
 視界の中で大きくなってくるその顔に、少しだけ頬を火照るのを自覚しながら背伸びをして、彼の耳元に手を添えながら二言三言呟いてみせる。
「へ?」
 思った通り、藤田さんはこれ以上ないほどの意外そうな色を浮かべていた。
「琴音ちゃん……が?」
「はい」
「それは、また……」
「意外ですか?」
「意外っていうか、何というか」
 そう言ったきり、また何か思い悩むように腕組みをして「うーむ」と呟きを漏らし始めてしまう藤田さん。
 後ろ手に、彼の姿を見据えながら一歩後ずさったわたしは、
「だって、似たようなものじゃありませんか」
「え、何がだ?」
「超能力も、オカルトも……不思議なものという意味では、きっと同じだと思いますよ」
 予知能力でもなければ念動力でもない、人の半分しか無いわたしの遺伝子が生み出していた、世界を選び取る能力。
 それが、わたしの能力。
 でもわたしの中にあったその不思議な能力が、姿を見せなくなってから既に半年近くの時が経っていた。
 そう、能力はもう必要ないのだ。
 何故なら、わたしはひとつになったから。
 彼女を――もうひとりの「わたし」と出会い、そして刹那の交錯の後に訪れた別れの結果。
 だからなのかもしれない。
 わたしが「オカルト研究会」の扉を叩いたのは。
 失われて初めて、自分の体内に内包していたその力がどんなものなのか、そしてそれが何を意味しているのかに興味を持ったのだ。
「オカ研ねぇ。あれ、でもそう言えばあそこの唯一の部員兼部長って来栖川先輩だったよな、確か」
「はい、そうですね」
「でも先輩は、先月卒業しちまったよな」
「はい」
「ってことは……」
「はい。ですから、いまはわたしが唯一の部員兼部長さんです」
 藤田さんの疑問に答えるように、大きく頷くわたし。
 予想通りの目を白黒させるばかりの藤田さんの反応に、思わず笑みがこぼれてしまう。
 そしてひとしきり笑ったところで表情を戻したわたしは、
「と言うことで藤田さん、わたし、これから部活なんです」
「って、オカ研のか?」
「はい。それでですね……」
 一度、そこで言葉を切る。
 そして視線を藤田さんから外し、その背後にある桜並木へと向ける。
 桜色の花びらが、惜しげもなく舞い散る光景。
 その中に佇む、わたしたち。
 ふと、脳裏に過去の情景が思い出される。
 藤田さんと初めて出会った、一年前。
 誰からも振り向かれることもなく、孤独の淵にひとり佇むばかりだった新入生のわたしと、そんなわたしに声をかけてくれた二年生の藤田さん。
 そして時は流れ、いまわたしたちはそれぞれ一学年だけ進級した立場で、言葉を交わし、笑っている。
 考えようによっては、不思議な光景。
 運命の輪がほんの少しずれていれば、きっと現実のものにならなかっただろうと思える、そんな世界。
 でも、わたしは選んだのだ。
 自分の意志で。
 この世界を。
 藤田さんと同じ時を過ごすことのできる、その可能性を。
 いま、目の前にいる大切な人。
 大好きな人。
 そんな彼に向かって、わたしはゆっくりと次の言葉を紡ぎ出した。
「……もしよかったら、見学して行かれませんか?」
 いまのわたしに作ることのできる、とびっきりの最高の笑顔を浮かべて見せながら。
翌月に続く

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