『琴音歳時記』
Update:2001.05.31
「……ふぅ」
両手で持っていたショルダーバッグを床に下ろし、小さくため息をつく。
文字通り肩の荷がおりたように、すっと身体が軽くなる。
とんとんと軽く肩を叩きながらわたしは、改めて目の前にあるバッグに目を落とした。
もしかしたらわたしの体重より重いんじゃないかないかと思えるそれは、今日までの一週間に渡る旅路を象徴するように、詰め込まれた荷物でいっぱいに膨らんでいた。
これを家まで持って帰らなくちゃいけないと思うと、少し気が重い。
その思いに背中を押されるようにわたしは、もう一度「はぁ……」と小さくため息をついた。
「姫川さん!」
背後から声をかけられたのは、その時だった。
振り返るとそこには、見知った幾つかの顔が笑顔と共にあった。
クラスの子たちだ。
「お疲れさま」
「あ、はい。皆さんも……お疲れさまでした」
軽くお辞儀をしながら、先頭の子が発した言葉に応える。
そんなわたしの丁寧な反応がおかしかったのか、くすくすと小さな笑みをこぼしてから彼女は、
「とっても楽しかったよ、姫川さんと一緒に回れて」
「え?」
それは予想もしない言葉だった。
だから一瞬、どう応えたらいいのかが分からなくて困ってしまう。
クラスの中にとけ込めるようになってからもうずいぶん経つのに、でも未だにその暖かな空気に慣れることができないわたし。
冷たい視線と言葉に囲まれてすごしてきた時間が、あまりにも長かったから。
わたしのような人間には孤独の淵にたたずんでいるのがお似合いだと、ずっとそう思い続けてきたから。
だからいまも、その優しい言葉や穏やかな態度が自分に向けられているんだってことに、どこか違和感のようなものを覚えてしまう。
もしかしたらこれは夢なんじゃないかと。
目を覚ませばベッドの上で、そこには相変わらず冷たい現実が待っているだけなんじゃないかと。
そんなわたしの思いをよそに、彼女のその一言が口火だったみたいに、他の子たちも楽しげな様子で思い思いの言葉を口にする。
「うんうん。函館じゃ、道に迷いそうになってたところを助けてもらっちゃったしね」
「ガイドにも載ってない場所にも連れてってもらえたし」
「あそこから見た夜景、綺麗だったよねー」
「でも私、五月に桜が見れるなんて思わなかったよ」
修学旅行。
二年生のわたしたちは、連休明けの一週間をかけて北海道のあちこちを巡り歩いてきた。
札幌。
函館。
苫小牧。
小樽。
日程の都合もあって釧路や旭川といった道東の方にいけなかったのは残念だったけれど、それでも生まれ故郷の函館の街を何年かぶりに歩くことができたのは、何より嬉しい出来事だった。
加えてクラスメイトが、わたしに感謝の言葉をかけてくれているのだ。
嬉しくないはずがなかった。
その思いは、じんわりと心の奥底から染み出してくるように全身へと広がってゆく。
「また来週。学校でね」
長旅の疲れを感じさせるちょっと重たげな足取りで、でも口元を楽しげにほころばせながら、彼女たちは手を振りながらわたしの前から去っていった。
辺りを見渡せば、他のクラスも既に解散してしまっているのかみんな三々五々家路につき始めている。
明日は日曜日でお休み。
旅行の疲れをゆっくりいやして、来週からの学校に備えないと。
「よい……しょっと」
足元に置いてあったバッグの取っ手を掴み、持ち上げる。
掌に覚えるずっしりとした重量感は、淀むように全身にたまった疲労がそう思わせるのか、さっきよりもずっと辛く感じられた。
それを半分引きずるように駅の構内を歩くうち、ふと視界の片隅に入り込んできたものに気を取られ、動きを止める。
「…………」
少しだけ考えた後、駅の出口に向けられていた足の向きを変えたわたしは、再び歩き出した。
「んしょ……んしょ……」
ようやくたどり着いた先にあったのは、公衆電話だった。
財布からテレホンカードを取り出し、受話器を持ち上げながら差込口にカードを入れる。
何となく苦手意識があるせいで、携帯電話を持っていないわたし。
だから外から電話をする時、わたしは――最近は使う人ともずいぶん減っているみたいだったけれど――いまでもこれのお世話になっていた。
何度もかけるうち、すっかり覚えてしまった電話番号を頭の中でつぶやきながら、かちゃかちゃとボタンを押してゆく。
緊張で鼓動が少しだけ早くなっているのが、自分でも分かった。
全部押し終えたところで、軽やかな呼び出し音が鳴り始める。
一回……二回……三回……
電話先は家じゃなかった。
パパとママよりも、ケガも病気もなく無事にここまで帰り着いたことを真っ先に伝えなくちゃいけない人。
四回……五回……六回……
大切で、大好きな人。
藤田さん。
七回……八回……九回……
おかしいな。
買い物か何かで、家を空けているのだろうか。
念のためにと思ってもう一度同じ番号にかけてみたけれど、結果は同じで十回目のコール音が鳴り終わっても、電話口には誰も出なかった。
首を傾げながら、受話器を戻す。
期待が大きかった分だけ落胆も大きく、無意識のうちにわたしは肩を落としながら小さくため息をもらしていた。
仕方がない。
家に帰ってからもう、一度電話しよう。
そんなことを思いながら、カバンに手をのばしかけたその時――大切なことを思い出したわたしは、慌ててポケットから生徒手帳を取り出す。
ぱらぱらとページをめくるうち、やがて目的の場所にたどり着く。
ゼロで始まる十一桁の数字が、殴り書きみたいに左右にその身を踊らせながらそこに描かれていた。
同時に思い出す。
「そうそう琴音ちゃん。オレ、携帯買ったぜ」
「え。そうなんですか?」
「まぁ買ったっても、タダだって言うからもらってきただけなんだけどさ。てなわけで、これが番号な」
連休中、藤田さんと会った時に交わした会話。
もしかしたら――手帳に落としていた顔を上げたわたしは、テレホンカードをもう一度公衆電話に差し込む。
「えっと……ぜろ、きゅう……ぜろ……」
さっきと違って手帳のメモとボタンの数字を交互に見比べながら、ゆっくりと番号を押してゆく。
やがて耳に響くコール音。
一回。
二回。
お願い……心の中で神さまに祈りながら、受話器をぎゅっと握りしめたわたしはその時を待ち続けた。
変化は、三回目のコールが終わった時だった。
一瞬の空電音の後、
『もしもーし』
「……ぁ」
雑音混じりでちょっと聞き取りにくかったけれど、でも間違いなく藤田さんの声だった。
もしもし――そう言おうと思ったのに、とっさに声が出ない。
藤田さんとは連休中に会ってそれきりだったし、旅行中は色々あって一度も電話をすることができなかった。
だからこれは、十日ぶりに聞く声。
それを前にわたしは、どうしてか嬉しさと安堵の思いで胸がいっぱいになってしまい、返事を口にすることができなかった。
『おーい。誰だぁ……もしもーし……』
早く何か言わないと、間違い電話だと思われてしまう。
でもあせればあせるほど、わたしの口からは声に鳴らない声しか出てきてくれなかった。
『もしかして……琴音ちゃんか?』
「えっ!?」
まだ一言もしゃべっていないのに、どうして相手がわたしだって分かったんだろう。
『ビンゴ! その声は、やっぱりだったな』
「は、はい……」
予想が当たったことを喜んでいるみたいに弾んでいる藤田さんの声に、わたしは小さく頷くばかり。
『修学旅行、どうだった。楽しかったか?』
「え……あ、はい。とっても……楽しかったです」
『そかそか……それは何より。ケガとかしなかったか?』
「はい」
『変なもん食って……腹とか壊さなかったか……?』
「はい」
『腹出して寝て、風邪とか引かなか……たか?』
屋外にいるのか、少し雑音混じりな藤田さんの声と一緒に周囲の人たちのざわめきが聞こえてきていた。
「……そんなこと、しません」
ちょっとオジサンの入った問いかけに、少し拗ねたように答えると電話の向こうから「冗談だって」そんな笑い混じりの声が返ってくる。
しばらく会わなくても、藤田さんはやっぱり藤田さんだった。
でもそんな風に話をしているうちに、すっかりいつものペースを取り戻したわたしは、いつの間にかくすくすと小さな笑みをこぼしていた。
『そういや琴音ちゃん、も……戻ってきたのか?』
雑音でちょっと聞き取りにくかったけど、質問の内容は理解できた。
「はい。ついさっき駅に着いて、解散したばかりです」
『じゃ……ちょうど……タイミングだ……』
「え? 藤田さん、いま何て?」
どうしたんだろう、さっきまではちゃんと聞こえていたのに、どんどん声が聞き取りにくくなってる。
電波が弱くなってるのだろうか。
まるで街の雑踏か駅の中にでもいるみたいに、雑音と喧噪が入り交じった無秩序な音色が鼓膜を叩き続けていた。
「あの……藤田さん、いまどこにいるんですか」
『琴音ちゃ……すぐ……ば』
「はい?」
『あー見つ……いまそっち……だか……動く……よー』
全然分からない。
受話器から口を離してそれに目を落とす。
それから「藤田さん、藤田さん」と何度か受話器に向かって叫んでから、返事を待った。
『お待たせ』「お待たせ」
両耳から同じ声が響いたのは、その時だった。
ひとつは、左耳に押しあてた受話器を通して。
そしてもうひとつは、右側の耳元でささやくように。
「ひゃんっ!」
突然のことにびっくりしてしまったわたしは、首をすくめながら小さく悲鳴をあげてしまった。
心臓がどきりと跳ね上がる。
、慌てて掴み直す。
驚いた拍子に落としそうになってしまった受話器を、慌てて胸元で抱きかかえたわたしは、ほっとため息をつきながら振り返った。
その先には――
「よっ」
藤田さんだった。
誰かと電話でもしてるみたいに携帯電話を頬にあてながら、でもどこか悪戯っぽい眼差しをわたしに向けてきている。
「ふ、藤田さん……?」
「はいな」
携帯の電源を「ぽちっとな」なんて呟きながら切った藤田さんは、改めてにこやかな表情をわたしに向ける。
「駅に……来ていたんですね」
「ん? ああ。修学旅行のスケジュールがさ、どうやら去年と同じみたいだったから、そろそろ戻ってくる頃合いかなーって思ってね」
そっか。
そういえば藤田さんも去年、修学旅行で北海道に行ってたんだ。
だからわたしがいつ頃こっちに戻ってくるかは、最初から大体見当がついていたに違いなかった。
「でも偶然ですね。わたしがお電話した時に、ちょうど藤田さんが駅にいるなんて。お買い物か何かだったんですか?」
内心でその偶然の出会いを喜びながら、小首を傾げてしまうわたし。
でもどうしてかなのか苦笑いを浮かべた藤田さんは、ちょんとわたしの額を指でつつくと、
「なーに言ってんだか。オレがここにいるのは、お姫さまを迎えに来たからに決まってんだろ」
「え……ええっ!」
一瞬何のことか分からず、でもすぐにそれがわたしのことを指しているってことに気づいたわたしは、思わず驚きの声をあげてしまう。
藤田さんが……わたしを迎えに来てくれた?
わざわざ、駅まで?
そんな……でも……だって……
ぐるぐると様々な思いが浮かんでは消えてゆく中、やっとのことで「ありがとうございます」とそれだけを口にすることができた。
満足そうに目を細めた藤田さんは、
「じゃ、行くか」
そう言ってわたしの荷物を手にすると、肩掛けにそれを背負って人混みをぬうようにすたすたと歩き出す。
一瞬、呆気にとられるようにその背中を見ていたわたし。
でも、すぐに気を取り直して駆け寄ると、
「あ、あの……藤田さん」
「ん?」
「荷物、自分で持ちますから」
「いいからいいから」
「でも……」
迎えに来てくれただけで十分すぎるほど嬉しかったのに、この上荷物まで持ってもらうのは何だか申し訳なかった。
その思いがきっと顔にも出てしまったに違いない、ちょっと考えるような素振りを見せた藤田さんは、
「んじゃまぁ、ここは公平に手分けして持つとするか。ということで、琴音ちゃんの分担は……これ」
バッグのサイドポケットから抜き取った箱をわたしの手の上に乗せた藤田さんは、そのまま何ごともなかったみたいにまた歩き出してしまう。
視線を落とす。
そこにはお土産にと買ってきた、包装紙にくるまれたお菓子の箱があった。
「え? あの……藤田さ……」
顔を上げて途中まで言いかけた言葉をわたしは、でも最後まで口にすることができなかった。
だって、分かってしまったから。
藤田さんの、決して口にすることはない優しさと思いやりを。
何でもないふりをしながら、でもいつだってわたしのことを気づかってくれている大好きな人の心が。
だから藤田さんから手渡された箱を、きゅっと抱き締めたわたしは、
「……はい」
頷きながら小さな声でそう答えると、その場から駆け出した。
すぐ先を歩いている、藤田さんの背中目指して。