『琴音歳時記』
Update:2001.08.19





「水無月」

 窓から見上げた空は、雨雲に覆われていた。
 絨毯を敷き詰めたみたいに、柔らかな輪郭を描きながら見渡す限り一面に広がっている真っ黒な雲。
 そっと、窓辺から手を差し出す。
 途端、掌にいくつもの粒が当たり、わたしの心に冷たさを伴った感触を生み出していった。
 雨。
 お昼過ぎにはぽつぽつといった程度だった雨は、午後の授業の間にどんどん雨足を強め、放課後になったいまでは傘なしでは歩けないくらいの本降りになっていた。
 細く長い線を描きながら、まっすぐに空から降り落ちてくる無数の雨滴。
 校舎を。
 グラウンドを。
 傘を。
 そして、わたしの掌を。
 空気を切り裂き、降り落ちていった先にある何かに触れた瞬間、それがどんなものであれ雨滴は小さな飛沫と共に短い一生を終えるのだ。
 それは、とてもはかない命。
 誰のために。
 何のために。
 きっとそんなことを考える暇もないほどの、短い生涯。
 でも……
「姫川さん」
 突然背中にかけられた声にびっくりして、「きゃっ」と小さな声をあげながら身をすくませてしまう。
 慌てて振り返ると、そこにはわたしの反応に少し驚いた様子のクラスメートの子がいた。
「び、びっくりした」
「あっ。ご、ごめんなさい……」
 驚いたのはお互いさまだったけれど、相手の子に先に言われてしまったのでついわたしの方から謝ってしまう。
 藤田さんにも時々言われるけど、わたしには謝り癖があるみたいだった。
 何かあると、つい反射的に謝ってしまう。
 悪い癖だとは分かっているけれど、でも長い間に染みついた習性はそう簡単に抜けるものじゃないのも事実だった。
「ううん、驚いたのはお互いさまだし、気にしなくていいよ」
 まるでわたしの思いを読んだみたいに、彼女はにっこりと笑顔を浮かべながら首を振る。
 わたしも小さく微笑み返す。
「それで……あの、わたしになにか?」
「え? あー、別に用ってほどのもんじゃないんだけど。教室、あたしたちで最後みたいだから、挨拶くらいしとこうかなって」
 そう言われて改めて教室の中を見渡すと、確かにいまここにいるのはわたしと彼女のふたりきりだった。
 どうやらぼんやりと外を眺めているうちに、みんな部活なり家に帰るなりしてしまったらしい。
「姫川さんは、これから部活?」
「え。あ、はい……そんなところです」
「そっか。じゃあお先に、また明日ね」
 傘を掴んだ手を振りながら、ぱたぱたと廊下に向かっていく彼女。
 その背中に「また明日」とわたしも別れの挨拶を口にしながら、軽く手を振り返す。
 窓から流れてくる雨音が、不協和音となってわたしの声に重なる。
 聞こえなかったかな……
 足音と雨音、そのどちらよりも小さかったに違いない、わたしの声。
 たぶん、彼女の耳にわたしの声は届かなかっただろう。
 姿が見えなくなったところで手を下ろしたわたしは、気がつくと小さくふぅとため息をついてしまっていた。
 慣れないことをしてる……自分でもそう思った。
 何年もの間、ずっと閉じこめられていた孤独の檻から藤田さんの手で救い出されてから、もう一年。
 クラスの人たちも最近は、ごく普通の友だちに接するようにわたしにも声をかけてきてくれる。
 そのこと自体は嬉しかった。
 でも同時に、そのことにどこか違和感を抱いてしまう、もうひとりのわたしがいるのも確かだった。
 いまでも時々感じる時がある。
 一年前のあの頃、わたしを取り囲んでいた刺すような冷たい視線を。
 たぶんそれは、気のせいなんかじゃない。
 そう、それは事実。
 たとえ「不幸の予知」という噂が誤解だったとしても、わたしを知るすべての人がその言葉を信じてくれているわけじゃないのだ。
 その証拠にクラスメイトの何割かは、未だにわたしと口をきこうとはしてくれなかったから。
 いまはなりを潜めているけど、いつかまたきっと……そんな眼差しを浮かべながら、彼らはいまもわたしを遠巻きに見つめていた。
 疑念と畏怖の思いを心の中に隠しながら、きっと。
 でも、それでもいいとわたしは思っていた。
 だってそんな人たちと同じくらい……ううん、もっとたくさんの人たちがわたしに声をかけ、笑顔を浮かべ、手を差しのべてくれたから。
 もう、わたしは孤独じゃなかったから。
 何より、わたしにとって一番大切な人の笑顔を、誰よりも近くで見ることができたから。
 うん。
 自分に言い聞かせるように小さくうなずいてから、視線を再び窓の外に向けたわたしは、
「あっ!」
 次の瞬間、小さく声をあげてしまう。
 校舎から正門に向かって連なる、いくつもの傘の列。
 その中に特別なひとつを見つけだしてしまったわたしは、机の上にあったカバンを手にすると、慌てて教室を後にする。
 廊下に出る時、曲がり損ねてドアに手をぶつけてしまったけど、少し顔をしかめただけで足は止めることなく、わたしは小走りに昇降口に向かい続けた。
 かつて持っていた能力。
 世界中でわたしだけが持っていた、ずっと忌み嫌い続けた能力。
 でもいま、それはもうわたしの中にはなかった。
 もうひとりの――悲しい運命を背負ったわたしと一緒に、すべては過去のものになっていた。
 そしてわたしは、代わりに新しい能力を手に入れた。
 世界中の恋する女の子なら、きっと誰もが持っているに違いない……そんなありふれた能力。
 どこにいても、大好きな人を見つけることのできる能力。
 どうやらわたしの新しい能力は、今日も絶好調のようだった。
 そんなことを思ううち、しびれるような腕の痛みも忘れて自然と口もとが緩んできてしまう。
 昇降口に飛び込み、下駄箱で靴を履き替えるのももどかしく外に飛び出しかけたわたし。
 でも軒下で、慌てて立ち止まる。
 外は雨。
 このまま飛び出したら、濡れてしまう。
「え……と。傘、傘」
 カバンにしまってあった折り畳み傘を取り出そうとしかけたわたしだったけれど、そこで手をぴたりと止めてしまう。
 小首を傾げ、頬に指を当てながら少し考える。
 えーと、もしこーしたらこーなるだろうから……
 だったらあれをこーして、こーすれば……
 うん、そーすればこーなる……
 時間にしてほんの数秒。
 導き出された結論に小さくうなずいたわたしは、結局傘もささずにそのまま雨の中に飛び出した。
 一歩、足が地面に触れるたび、路面にたまった水が小さな音色を奏でながら跳ね上がる。
 その音と共に、視界の中で少しずつ大きくなってくる背中。
 手足と髪と顔といわず打ち付けてくる雨粒に構うことなく、わたしは揺れ動く傘の間をすり抜けるように駆け続けた。
 あと数歩……そこまで近づいたところで、わたしは初めて口を開いた。
「藤田さん!」
 その途端、すぐ目の前にあった傘の動きがぴたりと止まる。
 ゆっくりとこちらを振り返ったそこにあったのは、予想通りの大好きな藤田さんの顔だった。
 ちょっとびっくりした表情。
 それはきっと、突然現れたわたしが傘もささずに駆け寄ってきたから。
 一歩。
 二歩。
 三歩。
 三度目の跳躍で、わたしの身体ははかったように藤田さんのさす傘の下に飛び込んだ。
 勢い余って、一瞬だけ藤田さんに抱きつくような格好になってしまう。
「こ、琴音ちゃん?」
「ふぅ。到着……です」
 校舎からずっと走り通しだったせいで少し乱れた呼吸を、胸に手をあてて整えながら、ゆっくりと顔を上げる。
「教室から藤田さんの姿が見えたので、走ってきちゃいました」
「教室から?」
 わたしと校舎を交互に見比べながら、小首を傾げる藤田さん。
「はいっ」
 不思議そうな声で紡がれたその問いかけに大きくうなずき返すと、苦笑いを浮かべた藤田さんは、
「お疲れさん」
 そう言って、わたしの頭をぽんぽんと軽くたたいた。
「えと……あの、その……」
 その仕草にどうしてだろう、急に恥ずかしくなってきてしまう。
 思わず視線を落としてしまうわたし。
「そう言えば琴音ちゃん、傘は?」
 ここにたどり着くまでにすっかり濡れてしまったわたしの制服を見つめながらそう、問いかけを口にする藤田さん。
「はい。今日は大丈夫かなと思ったもので、持ってくるのを忘れちゃいました」
「ふーん、そっか。あれ、でも確か朝の天気予報でも今日は昼過ぎから雨だって言ってたはずだけど」
「えと……それはですね、今日はちょっと寝坊してしまったから」
 慌てて取り繕うみたいに答えたわたしだったけれど、どうやら藤田さんは信じてくれたみたいだった。
 本当は傘、カバンの中にあるんですけど……心の中で小さくつぶやく。
 同時に藤田さんに嘘をついてしまったことに、罪悪感からからちくりと胸が痛んだ。
「そっか。じゃあ、俺の傘に入ってくか?」
「あ、はいっ!」
 穏やかな笑みを共に口にした藤田さんのその申し出に、わたしは待ってましたとばかりに満面の笑みで応えた。
 折り畳みの少し小さな傘の中、わたしと藤田さんは肩を並べて歩いてゆく。
 歩くたび、傘の上に降り落ちた雨粒がぽつりぽつりと一定のリズムを刻みながら雫となって目の前を落ちてゆく。
 降り落ちる雨滴。
 ふたり分の足音。
 そして時折横の道路を通り過ぎてゆく車のタイヤの音だけが、わたしの耳に届く音色のすべてだった。
「あの、藤田さん。ひとつお聞きしてもいいですか?」
 わたしが口を開いたのは、歩き出してからずいぶん経ってからだった。
 学校を出たあたりではあちこちに見えていた他の生徒の傘もいまではほとんど見あたらず、道を歩いているのはわたしたちだけ。
「ん? いいぜ」
「藤田さんは、雨ってお好きですか?」
「雨……かぁ」
 小さくつぶやきながら、何か考えるように少し目を細める。
「俺的にはあんまり好きじゃないかな」
「……そうですか」
「そう言う琴音ちゃんはどうなんだ。雨は好きなのか?」
「わたしですか? わたしは……」
 途中まで言いかけたところでわたしは、ぱっと傘の下から駆け出した。
 途端、降りしきる雨が全身をたたく。
 背中を「あっ、琴音ちゃん!」と、突然のわたしの行動に少し驚いた声が追いかけてくる。
 乾きかけていた制服が、雨に打たれてまた濡れ始める。
 数歩スキップを踏んだところで、くるりとその場で身を翻したわたしは、
「……好きですよ、雨」
 目を細めながらそう口を開いた。
 前髪からしたたる水滴が映し出される視界の中を、藤田さんが慌ててわたしの方に駆け寄ってくる。
「急に駆け出すなって」
 悪戯した子どもをとがめるみたいな、そんな声。
「琴音ちゃんが雨が好きなのは分かったから……でもそんなことしてると、風邪ひいちまうぞ」
 そう言いながら藤田さんは、ポケットからハンカチを取り出すと、少し乱暴な仕草で濡れたわたしの髪を拭いてくれる。
 ハンカチ越しに感じる藤田さんの手の動きが、少しくすぐったかった。
「ったく、しょうがねーな」
「ごめんなさい……」
「まぁいいけどさ。それはそうと、どうして雨が好きなんだ?」
「え。わたしがですか?」
 小首を傾げるわたしに、うんうんとうなずく藤田さん。
「だって、雨が降ったってあんまりいいことなんてないだろ。傘がないと濡れるし、じめじめするし、いいことなんてなんもないと思うけどな」
「そんなことありません」
「そうか?」
 雨の弊害を指折り数えてゆく藤田さんを前に、わたしは小さく首を振る。
 そして傘の向こうでいまも振り続ける雨に目を向けながら、
「だって雨は……恵みの雨ですから」
「恵みの雨?」
「はい」
 いまは梅雨。
 一年で一番雨の多い時期。
 多くの人たちは少しでも早く梅雨が過ぎ去り、一日も早い夏の訪れを待っているのかもしれない。
 こんなことを言うとまた藤田さんに怒られそうだけれど……でも雨は、わたしそのものなのだ。
 嫌う人は多いかもしれない。
 でもその一方で、それを必要とする人もきっといるから。
 それと同じ。
 もしわたしという存在が大多数の人たちから忌み嫌われたとしても、それでも誰かがわたしの存在を望み、求めてくれるならそれでいいと思うから。
 それに……
「まぁ確かに、雨があるから米も野菜もおいしく実ってくれるわけだから、そう考えれば雨は恵みだよな」
 すぐ側から聞こえる、納得したような藤田さんの声。
 そのつぶやきにくすりと笑みをこぼしながら、同時に心の中だけで「でも、それだけじゃないんですよ」と、わたしは言葉を紡ぐ。
 雨が好きな、もうひとつの理由。
 それは、雨が降ればこうしてわたしと藤田さんをひとつ傘の下で歩かせてくれるから。
 いつもより少しだけ……ふたりの距離を縮めることができるから。
 少しだけ、大切な人の笑顔が近くで見れるから。
翌月に続く

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