『琴音歳時記』
Update:2001.09.11





「文月」

「んじゃ、琴音ちゃん。また後でな」
「はい」
 そう言って軽く手を上げながら、背中を向ける藤田さん。
 微笑みと共に手を振り返しながらわたしは、通路の向こうに彼の姿が消えるまでその場に立ちつくしていた。
 それからくるりと身を翻し、ゆっくりと歩き出す。
 気がつくと、自然とため息がもれていた。
「……ふぅ」
 少しだけ、気が重かった。
 でもわたしを取り巻く周囲の世界は、そんな思いとは裏腹に賑やかさと華やかさに包まれていた。
 視界に映る、楽しげな表情を浮かべている何人もの女の人たち。
 そして耳には、遠く歓声が聞こえてくる。
 通路を抜け更衣室に足を踏み入れると、少し湿った空気に乗って水の匂いがかすかに感じられた。
 入り口で脱いだサンダルを手に、あいている場所を探してゆっくりと立ち並ぶロッカーの列の間を歩いてゆくわたし。
「ぷーる、ぷーるっ!」
 不意に目の前を、水着姿の小さな女の子が横切る。
 浮き輪を引きずりながら、少しおぼつかなげな足取りで駆けてゆく愛らしいその姿に、思わずくすりと笑みをこぼしてしまう。
 濡れた床に足を滑らせて、転ばないといいけれど。
 他人事ながら、ちょっとだけそんな心配をしたりしてしまう。
「まーちゃん、危ないから走っちゃダメよ!」
 そう思う間もなく、今度は清楚なデザインのワンピースを着た女性が、いま走り過ぎていった女の子を追いかけるように、小走りで駆けてゆく。
 さっきの子のママ……かな。
 そんなことを思いながら、小走りで女の子の後を追う彼女の姿を何となく目で追いかけてしまう。
 ふくよかな胸元から、流れるような奇麗な曲線を描きながら引き締まったウエストに、そしてヒップへと連なるボディライン。
 女のわたしの目から見ても、凹凸のある均整の取れたスタイルに思えた。
 ちょっと羨ましいかな。
 その途端、口からまたため息がもれる。
「はぁ……」
 止めたままだった足を動かし、歩き出す。
 入り口近くのロッカーは、既に中に入った人たちが使っているのか、どれも鍵がかけられていて、使用中だった。
 きょろきょろと空いた場所を探しながら歩くうち、少し奥まった場所にいくつか鍵がさされたままの空きロッカーを見つける。
 壁際に設けられた着替え用のボックスも、カーテンの開け放たれた場所がいくつかあったから、ちょうどいい。
 うん、ここでいいかな……周囲を軽く見渡しながらわたしは、更衣スペースのひとつに入り、カーテンを閉めた。
 荷物を置き、一息ついたところで早速着替えに取りかかる。
 藤田さんのことだから、もう着替えを終えてプールサイドに出ちゃってるかもしれない。
 あまり待たせては申し訳ないし、急がないと。
「んしょ」
 背中に手を回し、首筋近くのホックを外した右手でそのままワンピースの襟をつまみながら、もう一方の手でファスナーを下ろしてゆく。
 床が湿っているので、裾を汚さないよう気をつけて脱ぐ。
 それから下着に手をかけようとしたわたしだったけれど、まだ水着の準備をしてないことに気がついて、手を止めた。
「えと……水着、水着」
 ごそごそとバッグの中を探す。
 水着はすぐに見つかった。
 セパレートのそれぞれをバッグの上に掛け、手早くショーツを脱いで下から先に着替えてしまう。
 今度は上。
 ブラを外そうとフロントホックに指をかけた時、カーテンと壁の間にできた数センチほど隙間からのぞき見えた何かに、ふと気を取られた。
 それは隣の更衣スペースの順番待ちをしているらしい、女性の姿だった。
 歳は……わたしより少し上くらい。
 大学生か、もしかしたらOLさんかもしれない。
 日焼けかメイクなのかまでは分からなかったけれど、褐色の肌に包まれた綺麗な顔立ちだった。
 ちょうどプールから上がったところなのだろう、前髪からしたたり落ちた水滴がぽつぽつと、小山のように盛り上がった胸の上にいくつもの水玉を作り出していた。
 いいなぁ……
 あのボリュームなら、たぶんカップのサイズはDかE。
 その豊かな胸を、布地の少ない露出度が高めのビキニに覆い隠した姿は、彼女がプロポーションに自信を持っているに違いないことを、ひしひしと感じさせてくれるものだった。
 ブラにかけた手を止めて、いつしか魅入られたように彼女の姿――胸元をじっと見つめてしまう。
 どれくらいそうしていただろう、風に吹かれたカーテンの裾が揺らぐのを見てはっと我を取り戻す。
 小さくため息をついてから、隙間ができないようカーテンを閉じ直したわたしは改めて自分の胸元に目を落とした。
 ふくよか、と言うにはちょっと無理のある胸。
 でもだからといって、発育不良ってほどじゃない……と思う。
 誰に聞かれたわけでもないのに、心の中でそんな言い訳じみたことを考えてしまうわたし。
 ブラの上からそっと手を当て、指に少しだけ力を入れてみる。
 ふにょ。
 柔らかな感触。
 でも……それだけ。
 まったく無いわけじゃないけれど、だからといって有り余っているわけでもない、そんな中途半端な膨らみ。
 見慣れた自分の双丘。
 わたしの胸じゃ「ふにょ」が精一杯だけれど、さっきの女の人くらい大きければきっと「ぽよん」って、そんな感触を覚えるに違いなかった。
 ふにょとぽよん。
 AとD。
「……ふぅ」
 また、ため息がもれてしまう。
 考えたって仕方がないことだって、自分でも分かっているつもりだった。
 でも、それでも考えてしまう。
 やっぱり男の人って、大きい方がいいのかな。
 うん、きっとそう。
 頭の片隅でそんなことを思ったりもしてしまう。
 だって藤田さん、去年神岸さんたちと一緒に海に行った時、確か目の前を通り過ぎていった名前も知らない女の人の大きな胸をじーっと見つめてて、わたしの視線に気がついたら慌てて目を逸らしていたから。
 でも、それも仕方ない。
 わたしはこんなだし、藤田さんだって男の人なんだから、小さいよりは大きい胸の方がいいに決まってる。
 ぐるぐると嫌な考えばかりが頭の中を巡り、どんどん落ち込んでしまう。
 でも……
 ぱっと顔を上げたわたしは、扉に掛けたままの水着に目を向ける。
 今年は少しだけ違うのだ。
 去年の水着はワンピースだったけれど、今年は少しだけ勇気を出して新しい水着にしたんだから。
「今度、プールに行かないか?」
 そう言って藤田さんがわたしを誘ってくれたのは、一昨日のことだった。
 夏休みだけの期間限定イベントとしてやっているイルカショーを見に、一緒に水族館に行った帰り。
「えと……はい。わたしでよければ、喜んで」
「よし。じゃあ決まり」
「それで、いつ行くんですか?」
 小首を傾げながら訊ねるわたしに藤田さんは、
「明日」
「きゅ、急ですね」
 明日もまた藤田さんに会えるのだから、嬉しくないはずがない。
 とはいえ、急な話なのも事実だった。
 わたしの言葉をどう受け取ったのか、頭の後ろで手を組みながら空を見上げた藤田さんもちょっと困った様子で、
「実はさ、こないだ新聞屋がタダ券置いてったんだけど、よく見たらこれが明後日までなんだよ」
「それで明日……なんですか?」
「そ。まぁ、善は急げって言うしな」
 最後はわたしの方に目を向けながら、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 彼のそのあどけない表情に、つい目を細めてしまいそうになってしまったわたしだったけれど、
「あっ」
 でも次の瞬間、小さくそんな声を発してしまっていた。
「どした、琴音ちゃん?」
「藤田さん、ごめんなさい。プールに行く約束なんですけど、明後日にしてもらえませんか」
「え? チケットは明後日までだからいいけど……明日じゃマズイのか?」
「あ、はい。明日は……お、お友だちと宿題をする約束していたんです。すっかり忘れちゃってました」
 慌てて取り繕うようにそう言ったわたしだったけれど、気にした様子もなく受け止めてくれたらしい藤田さんは、
「そか。じゃあ明後日な」
「は、はい。ごめんなさい」
「断ったわけじゃないんだから、気にすんなって。それにしても……琴音ちゃんの水着姿、いまから楽しみだぜ」
「そ、そうですか……」
 彼のつぶやきに応えながらわたしは、でも同時に心の中では全く別のことを考えていた。
 どうしよう……今年はまだ、水着を買ってないのに。
 去年着た、白のワンピースでもサイズは平気だったから、無理して新調する必要はなかったかもしれない。
 でも、せっかくの今年最初のプール――しかも藤田さんからのお誘いなんだから、できれば新しい水着で行きたかった。
 本当は今度の日曜日、今年から同じクラスになったお友だちの松原さんと一緒に買いにいくつもりだった。
 けれども、明後日じゃ間に合わない。
 松原さん……明日、予定空いてるかな。
 藤田さんに家まで送ってもらった後、慌てて彼女に電話をして次の日買ってきた水着が、いま目の前にあるそれだった。
 今年の流行りはタンキニだった。
 実際お店にも色々なデザインのが置いてあったので、最初はわたしもそれにしようかと思ったけれど、いざ試着してみると去年着たワンピースとあまり変わりばえがしなかったので、結局タンキニはパス。
 でも同じワンピースじゃつまらないし、そうは言ってもビキニを着るのはいくらなんでも……恥ずかしかった。
 店内の鈴なりになった様々なデザインの水着を前に、葵ちゃんとふたりでああでもないこうでもないとさんざん悩んだ末に、去年よりも少しだけ勇気を出して選んだ一着。
 チューブトップのセパレート。
 藤田さん……喜んでくれるといいな。
 ほんの少しの不安といっぱいの期待を胸に、ブラを外したわたしはそれを身につけた。
「ふぅ」
 ようやく着替えが終わり、思わず口からもれてしまう吐息。
 最後に、日よけにと思って持ってきてあったパーカーに袖を通しかけたところで、ちょっと悩んでしまう。
 今日来ているホテルのプールは屋内なので、普通にしていれば日に焼けることはなかった。
 つまり、上着を羽織る必要は特にないはず。
 でも……
 正直、この格好のまま外に出るのはちょっと恥ずかしかった。
 こんなお腹の出てる水着を着るのなんて生まれて初めてだし、できればギリギリまで隠しておきたかいし。
 それにこうしておけば、もしかしたらパーカーを目の前で脱いだ時、わたしの水着に藤田さんがびっくりしてくれるかもしれない。
 その姿を想像するうち、思わず口もとが緩んでしまう。
 色々考えた後、結局わたしはパーカーを着ていくことにした。
 タオルを持って、お財布は……そう言えば受付で、ここは確かキャッシュレスで出る時に精算するって言ってたから、いらないよね。
 ロッカーの鍵を閉めて、ストラップのゴムを手首に通して準備完了。
「うん、よしっ」
 家の戸締まりを確認するみたいに小さくうなずいてから、わたしはロッカーの前を離れた。
 やがてたどり着いた消毒槽に足を浸す。
 膝下に感じる、水のひんやりした感触が心地よかった。
 足を動かすたびに立ち上がる小さな水音を耳に、わたしは両手でぴたぴたと軽く頬をたたきながら口を開く。
 それは、自分にしか聞こえないくらいの小さなつぶやき。
 大好きな人の前で笑顔でいるために。
 大切な人に喜んでもらうために。
 そしてわたしは、たくさんの人たちの歓声に賑わうプールサイドに一歩、足を踏み入れた。
「琴音、ふぁいとっ」
翌月に続く

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