『琴音歳時記』
Update:2000.10.09





「葉月」

 周囲は、穏やかな静謐に包まれていた。
 程良く効いた空調が、触れる肌に心地よい涼しさを与えてくれる。
 そんな中を、わたしは手にしたシャーペンを右手で無意識のうちにくるくると回しながら、目は机の上の問題集の文字を追い続けていた。
 すぐ目の前で、楽しげな踊りを舞っている無数のアルファベットの群れ。
 順番にそれを拾い読みしながら、判るところは頭の中だけで日本語へと訳していたわたしだったが、程なく見慣れない単語に引っかかってしまう。
「えーと、inconceivableは……」
 ひとりごちそんな呟きを漏らしながらぺらぺらと傍らの辞書をめくり、その意味を確かめる。
「思いも及ばない、想像もつかない、途方もない……あ、ここは『途方もない出来事がわたしの身に降りかかってきた』と訳せばいいのね」
 小さく頷きながら、そして導き出した和訳をノートに書き付けていく。
 それを終えてから視線をノートから逸らし、横合いの窓越しに広がる夏の陽射しに照りつけられている外の景色にわたしは目を向けてみた。
 空は、夏らしい濃い青色に満たされていた。
 その中を大きく真っ白な雲が、空の青さとの間に強いコントラストを生み出しながら佇み、ゆっくりと流れていく。
 硝子越しに漏れ聞こえてくる蝉の声は相変わらず賑やかで、短い夏を精一杯謳歌しているように、わたしの心には感じられた。
 生まれてから何年もの間ずっと土の中で暮らし続け、そして与えられた寿命の最期の一週間だけを、陽光眩いこの外界で過ごす蝉たち。
 生まれ。
 育ち。
 愛し。
 愛され。
 やがて……消えてゆく。
 脳裏に、そんな幾つもの言葉が浮かんび上がってきては、やがて心の奥底へと沈んでいってしまう。
 そしてわたしも、そんな世界の中に生きるひとりなのだった。
 誰からも望まれることもなく、誰からも必要とされることもなく――忌避され続けてきたわたし。
 他人を不幸へと導くことしかできない、そんな能力のためにいつだってひとりぼっちだったわたし。
 人にあって、人にあらざる存在。
 でも……。
 窓外へと向けていた顔を、室内に戻す。
 そんなわたしのことを、必要としてくれる人がいてくれた。
 瞼を閉じながら、一度顔を俯かせる。
 他人(ひと)を不幸にしかすることのできなかったこんなわたしに手を差しのべ、そして暗く淀んだ闇の淵から救い出してくれた人がいた。
 ゆっくりと顔を上げる。
 テーブルを挟んだ正面に……その人はいた。
 何冊ものノートや問題集が広げられた机の上に、まるで折り重なるように自分の腕を枕に寝入っているその人。
 垣間見える寝顔は、とても気持ちよさそう。
 頬杖をつきながら何となしにその姿を見つめやるうちに、思わず口許が緩んできてしまう。
 ゆっくりと息を吸い、そして吐き出す息と共に言葉を紡ぐ。
「あの……藤田さん」
 返事はない。
 戻ってくるのは、一定の間隔を置いて口から漏れる小さな寝息ばかり。
 くすりと笑みをこぼしながら、そして改めて彼の名を――わたしにとって誰よりも、何よりも大切な人の名前を口にしかける。
「藤田さ……」
 でも、途中でその言葉を止めてしまうわたし。
 もっと側に近付いて声を掛けないと、きっと目を覚ましてくれないだろうと、そう思ったからだ。
 開きかけた口を閉じる。
 そして、目の前で眠り続ける藤田さんの穏やかな表情を見つめる。
 幾何学的な配置で屋内の過半を占めている書架と、そしてその一角に配された閲覧用のテーブルの群れ。
 そこにはわたしたちと同じくらいの年格好の男女が、言葉少なな様子で机上に広げられた本やノートを相手に格闘をしている。
 かくいうわたしたちも、傍目にはそんな――夏休みの宿題の消化に明け暮れる集団のひとりと思われているに違いなかった。
 実際、その通りなのだけれど。
 そう、わたしたちはいま、図書館にいるのだった。
「琴音ちゃん、一緒に図書館に行こうぜ」
 朝、予告もなくわたしの家に来た藤田さん。
 突然のその申し出の意味が理解できずに小首を傾げてしまうわたしに、藤田さんは悪戯っぽい笑みを浮かべながら、
「実は俺さ、夏休みの宿題がまだ半分以上残ってたりするんだ」
 そう、事情を話してくれた。
「え? でもお休みって、今日も入れてあと二日しかありませんけど」
「ああ、そうなんだよな。で、さすがの俺も昨日の夜あたりから、マジになって始めたんだけど……」
 そこで言葉を切った藤田さんは、そして小さくため息をつく。
 どうしたんだろう?
「えと……宿題で何か、判らないことでもあったんですか?」
 素直に訊ねるわたしに、彼は苦笑いを浮かべながら首を振る。
「違うって。いくら何でも、二年生の琴音ちゃんに宿題を教えてもらいには来ないって」
「そうですよね。でも、だったら?」
「朝、起きたらさ」
 どうしてなのか、少し声を潜めながら言葉を紡ぐ藤田さん。
 まるで内緒話でもするかのようなその声音に、何となく引きずり込まれてしまったわたしは、
「は、はいっ」
 思わず藤田さんの方に身を寄せながら、頷き返す。
「……暑いんだよ」
「え?」
「家中がさ、思いっきり暑いんだ」
「……?」
 ここ何年か続いた冷夏と打って変わって、今年は文字通り夏らしい暑い日が続いていた。
 そして藤田さんの家のエアコンは、この猛暑に負けて壊れてしまったらしい。
「まあそういう訳でだ、どうせだったら図書館で、涼みながらやった方が能率も上がるかと思ってさ。それでひとりで行くのも何だし、もし暇だったら俺と一緒に行かないか。琴音ちゃん?」
 それを口にした時の藤田さんは、ちょっとだけ照れ臭そうな様子だった。
 折角の藤田さんのお誘いを断る理由もなく、そしてわたしたちはいま、図書館のテーブルに向かい合って座っていたのだった。
 そおっと椅子から腰を上げ、藤田さんの方に身体を伸ばす。
 見れば彼の腕の下に広げられているノートは来た時と同じ真っ白なままで、宿題の方は少しも進んでいない。
 こんな調子で本当に大丈夫なのだろうかと、他人事ながら少しだけ心配になりつつ、彼の耳元に顔を寄せたわたしは、
「あの……藤田さん、起きてください。藤田さん……」
 周りの迷惑にならないよう、囁くような声で言葉を紡ぐ。
 でも、やっぱり藤田さんは目を覚ましてくれない。
 楽しい夢でも見ているのだろうか、むにゃむにゃと呟きを漏らしながら、どこか幸せそうな笑みを浮かべている。
 その寝顔を見ているうちに、わたしの方までつい幸せな心地になってしまう。
 だからかもしれない。
 内心に、ちょっとだけ藤田さんに対する悪戯心が芽生える。
 身体を支えるようにテーブルに付いていた右手を持ち上げ、ゆっくりと彼の顔に近づけていく。
 突き出された人差し指が、そして藤田さんの頬に触れた瞬間、指先から彼の存在が伝わってきた。
 それは、どこか不思議な感覚だった。
 温かで柔らかな、肌の感触。
 わたしの頭の中には、男の人と言うと何となく「固い」というイメージがあった。
 別に、藤田さんが骨と皮だけでできているだなんて思っていたわけではなかったけれど、でもいま現実の存在として指先に触れる彼の存在感は、そんなわたしの固定観念をあっさりと覆してくれるものだった。
 指に軽く力を入れてみる。
 途端ふにっといった感じで頬がへこみ、指先を中心に浅い擂り鉢状のくぼみができる。
「えい、えい、えいっ……」
 いつの間にかわたしは、口元に笑みを浮かべながら彼の頬をふにふにと押したり引いたりを繰り返していた。
 でも藤田さんは、相変わらず目を覚ましてはくれない。
 もしかして、熟睡してしまっているのだろうか。
 首を傾げながら、のぞき込むように彼の表情を確認するが、そこには相変わらず幸せそうな笑みを浮かべながら寝息を立てる姿が見出されるばかりだった。
 これならきっと大丈夫――そうひとり合点したわたしは、今度は耳が触れそうなくらいの距離まで自分の口を近づける。
 視界一杯に広がる、大切な人の顔。
 大好きな、藤田さんの顔。
 見ているだけでどうしてか自然と頬が熱くなり、そして胸の鼓動が高鳴ってきてしまう。
 普段わたしは、彼のことを「藤田さん」としか呼んでいる。
 そしてわたしがそう呼ぶたびに、藤田さんはどこか苦笑いといった感じの表情を浮かべながら、
「俺としてはだな、琴音ちゃんには下の名前で呼んでもらえた方が嬉しいんだけどな」
 と、そう言ってくれる。
 でもわたしは、藤田さんのことはやっぱり「藤田さん」としか呼ぶことができなかった。
 何故なら、人前でそう呼ぶことが恥ずかしかったから。
 人の目を気にすることなんてないと、頭では判っているつもりだった。
 でもずっと他人から忌避され続け、そうして過ごす間にいつしか身に付いた習性――周囲の視線に病的なほど敏感になってしまっている――がそう簡単に直ることはなかった。
 だからこの件に関してわたしは、
「……恥ずかしいですから」
 口元に手を当てながらそう、小声で返事をしてきた。
 でも……本当は違うのだ。
 わたしが彼のことを他人行儀に名字でしか呼べないのには、もうひとつ別の理由があるのだ。
 それは、わたしの中で未だ暗く澱み続けている心が生み出す思い。
 本当にわたしなんかが彼の側に居ていいのだろうか。
 もしかして自分の存在は、彼にとっては重荷に過ぎないのではないのか。
 必要以上に近づきすぎてしまうことは、いつか迎える別れの時の悲しみを深くするだけではないのか。
 そんな幾つもの思いが、わたしの中で力を失うことなく確かに存在していたのが、藤田さんを名前で呼ぶことができない本当の理由なのかもしれなかった。
 でも……。
 彼の耳元にあてた口を、ゆっくりと開く。
 そして頭の中だけで何度か、これから紡ごうとする言葉を反芻しながらわたしは声を編み出した。
「起きてください、藤……」
 習慣でついそう言ってしまいそうなり、慌てて言葉を切る。
 そうじゃない、そうじゃないんだから。
 目を閉じながらふるふると小さく首を振り、そしてわたしは全身のありったけの勇気を振り絞って、
「ひ……浩之……さん……」
 今度こそ、口にすべき言葉を吐き出すことができた。
 思わず頬がかっと熱くなってきてしまう。
 最後の方は恥ずかしさの余り、自分でもちゃんと声になったかどうか判らないくらいの、殆ど消え入るような声だった。
 でも、言えた。
 彼のことをちゃんと、名前で呼ぶことができた。
 眠っている藤田さんにはわたしのその声は届かなかったと思うけど、それでもわたしは満足だった。
「ふぅ……」
 どきどきと高鳴る胸を手で押さえながら、小さくため息を漏らすわたし。
 その時だった。
「……うん、やっぱそう呼んでもらった方が嬉しいな」
 傍らから、不意に聞き慣れた声が流れてくる。
 慌てて視線を巡らせると、そこにはいつの間に目を覚ましたのか、わたしに向かって悪戯っぽい笑みを浮かべている藤田さんの顔があった。
「えっ? えっ? ……ええっ?」
 思いもよらなかった展開に、頭の中が真っ白になってしまう。
 いまの藤田さんの言葉って……。
 もしかして、もしかして……。
「この耳で、ちゃーんと聞かせてもらったぜ。琴音ちゃんの『浩之さん』をさ」
「ええーっ!」
 ここが図書館の中であることも忘れて、わたしは思わずそんな悲鳴にも似た声を上げてしまった。
 途端、周囲の冷たい視線が集まる。
 恥ずかしさで、思わず身体を縮こまらせてしまったわたし。
 頭の中は、未だ半分以上がパニックのままだったけれど、それでも必死に気を落ち着かせながら、
「ずっと、寝ていらしてたんじゃなかったんですか?」
 今度は声を抑えて、そう訊ねる。
「実はだな……途中から起きてた」
「いつからですか?」
「えーと、確か『起きてください』の辺りからだったかな」
 右目でウィンクをしながら、藤田さんは楽しげな様子でそう答えた。
「……それって、殆ど最初からじゃないですか。ひどいです、藤田さん。わたしのこと、ずっとからかってたんですね」
 肩を落としながら、顔を伏せてしまうわたし。
「ひどいです……意地悪です」
 そして言葉を重ねるようにそれだけを口にしてから、足下へとまた顔を伏せてしまった。
「いや、別にからかってた訳じゃなくてだな……薄目を開けたらすぐ近くに琴音ちゃんの顔があるもんだから、何をしようとしてるのか興味があったし、それにここで目を覚ますのも勿体ないかなーとか思ったりもしてだ……」
 そんなわたしの反応が予想外だったのだろうか、藤田さんは少しどもり気味な口調で早口にまくし立てた。
「……勿体ない?」
 上目遣いに彼を見つめながら、ぽつりと呟くわたし。
 ようやくわたしの反応があったことに安心したのか、でもちょっと照れくさそうな様子で藤田さんは、
「ああ。こんなに間近で琴音ちゃんの顔を見れるなんて、滅多にない機会だったからさ」
「…………」
 聞いてるわたしの方も恥ずかしかったけれど、それを口にした藤田さんの方はもっと照れくさかったに違いない。
 そう言ったきり、明後日の方を向いたまま鼻の頭を何度も掻いている。
 そして沈黙が訪れる。
 ここは図書館だったから静かなのは当たり前だったけど、いまわたしたちの間に生じている静寂は、それとはどこか違った……暖かな何かを胸に感じさせる静謐だった。
「藤田さん……」
 先に口を開いたのは、わたしの方だった。
「ん?」
 ようやく気分が落ち着いたのだろうか、藤田さんの表情はいつもと同じ穏やかなものに戻っている。
 それを確認してからわたしは、
「ここに来てから藤田さん、すぐに寝てしまっていましたけど、宿題の方は大丈夫なんですか?」
「あ……しまった」
 肝心なことを思い出したように、表情を固くする藤田さん。
 その顔に、どこかおかしなものを感じてしまったわたしは、くすくすと小さく笑みをこぼしながら、
「学年が違いますからあまりお役には立てないかもしれませんけど、わたしもお手伝いしますから頑張りましょう。藤田さん」
「成績優秀な琴音ちゃんが手伝ってくれるってなら、まさに百人力だな。んじゃまあ、頑張ってやりますか」
 腕を捲るような仕草を見せながら藤田さんは、そう軽く啖呵を切る。
 そしてわたしは、そんな彼の役に少しでも立てていることの幸せに、にっこりと満面の笑みを浮かべながら、
「はいっ」
 そう、大きく頷いてみせた。
翌月に続く

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