『琴音歳時記』
Update:2004.05.15





「長月」

 穏風に乗って流れてくる蝉の声。
 照りつける太陽の下にいるわたしの耳に聞こえてくるのは、蝉たちが織りなす合唱だった。
 遠くから、少し間延びした声を発するアブラゼミ。
 その声に重なるように、バスの効いた音色を奏でるクマゼミ。
 どこか寂しげな印象を覚えてしまうヒグラシ。
 少し控えめな様子で鳴いているのは……ツクツクボウシ。
 両の目を閉じたままわたしは、いつ終わるとも知れないその斉唱に聴き入っていた。
 暦の上では、季節はもう秋だった。
 長いように思えて、でも過ぎてしまえばあっという間だった夏休みが終わってから二週間。
 盛りは過ぎたとはいえ、でもまだ秋と言うにはちょっと早すぎる時期。
 照りつける日射しはまだ強く、陽光を遮るものひとつない場所にいるわたしの身体にも、惜しげなくそれは降り注いできている。
 北国生まれのせいかあまり汗はかかない方だったけれど、それでも直接肌をさらしている腕がうっすらと汗ばんでいるのが分かった。
「ふぅ」
 小さくため息をもらしながら、閉じていた瞳を開く。
 その途端、目の前に真っ青な風景が飛び込んできた。
 海。
 わたしが座っている堤防の、その足下にまで広がる砂浜を挟んだその先に、穏やかに凪いでいる青い海が広がっていた。
 砂浜の白、海の青、空の蒼……その鮮やかなコントラストがわたしの瞳を言葉なく貫く。
 暗闇から突然そんな世界に飛び込んでしまったせいで、一瞬だったけれどめまいにも似た感覚を抱いてしまう。
 膝の上に置いていた手を慌てて頭にやり、指先に柔らかな感触を覚えたことでようやく平衡感を取り戻したわたしは、そのまま柔らかなそれ――麦わら帽子の大きめのつばをいじりながら改めて目の前の風景に意識を向けた。
 蝉の声は、相変わらず賑やかだった。
 でもその声は、わたしの中で徐々に小さくなっていく。
 いつしか周囲は、物音ひとつしない静謐に包まれていた。
 静かな世界。
 音もなく緩やかなリズムで寄せては返すを繰り替える波打ち際。
 真綿のような柔らかな輪郭を描きながら、ゆっくりとした動きで空を漂う綿雲の群れ。
 そしてそれら全ての頭上に君臨する、夏の太陽。
 目に映る世界のどこにも人の痕跡を見いだすことはできず、まるで世界がわたしひとりだけになってしまったような、そんな感覚。
 こうしていると世界とわたしの境界線が溶けるように曖昧になり、自分自身がまるで世界そのものになってしまうような、そんな錯覚にも似た思いを抱いたりもしてしまう。
 同時に心の片隅に生じる思い。
 それは……孤独。
 誰もいない、たったひとりの世界。
 人によっては恐怖を抱くに違いないその感覚は、でもわたしにとってはすっかり慣れ親しんだものだった。
 だからわたしは、特別恐怖も困惑も覚えたりはしなかった。
 そう、それはいつだってわたしの傍に居続けたものだったから。
 誰からも避けられ、誰からも忌み嫌われたわたしにとって、それはたったひとりの友人とも言える存在だったから。
 だから、怖くはなかった。
 ありのままの存在として、それを受け入れることができた。
 でも……
 その時だった。
 突然、目の前の海から一陣の風が吹いてきた。
 砂浜の乾いた砂を巻き上げながら真っ直ぐに駆け抜けてきたそれは、心の準備を整える暇も与えずに、わたしの肌と髪を乱暴にかき乱した。
「あっ!」
 飛んできた砂埃から顔を守ろうと手をかざしかけた次の瞬間、被っていた帽子の感触が失われる。
 慌てて手を伸ばしたけれど、既に手遅れだった。
 見えない手に運ばれるように麦わら帽子は、蒼空のただ中をふわふわと揺れ動きながら、わたしの視界から遠ざかってゆく。
 追いかけなくちゃ。
 そう思って立ち上がりかけたわたしは、でもその動きを途中で止めてしまった。
 帽子が飛んでいったその先に、人影を見出したから。
 その人は、わたしの慌てぶりから何があったのかを即座に理解したのか、自分の方へと飛んでくるそれに向かってひょいと手を伸ばすと、いともたやすく捕まえた。
 ほっと胸をなで下ろすわたし。
 手にした帽子を自分の頭に乗せた彼は、ゆっくりとした足取りでわたしの方へと近づいてきた。
 洗いざらしのジーンズに肩口まで袖をまくり上げたTシャツ、そして麦わら帽子。
 どことなく、違和感を覚える組み合わせだった。
 でも、ちょっと可愛いかも。
 そんなことを思いながら、ついくすりと笑みをこぼしてしまう。
 やがてわたしの目の前にまで来て足を止めたその人は、
「落とし物だよ、お姫さま」
 紳士を演じているつもりなのか、少し気取った口調でそう言いながら、わたしの頭に麦わら帽子を乗せてくれた。
「ありがとうございます、藤田さん」
「どうした琴音ちゃん、居眠りでもしてたのか?」
 よっと小さく呟きながら段差を越えて堤防に飛び乗った藤田さんは、そのままわたしの横に腰を下ろした。
「えと……ちょっと風景に魅入っちゃってました」
 正直に答える。
 すると改めて目の前に広がる光景に目をやった藤田さんは、納得するようにうんうんと大きく頷きながら、
「確かに。絶景かな、って感じだもんな」
「はい」
「にしても一応海水浴場なはずなのに、ほんとガラガラだよなぁ」
「それって、やっぱり夏休みが終わっちゃったからですか?」
 小首を傾げながら、問い返す。
「間違いじゃないけど、それだけって訳でもないんだな、これが」
 視線は相変わらず海に向けたまま、ちっちっちっと立てた人差し指を振りながら口を開く藤田さん。
 答えの分からなかったわたしは、そのまま藤田さんが口を開くのを待った。
「ここって、地元の人間しか知らないような穴場スポットだから元々人は少ないんだけどさ、プラスこの時期になると否応なしに海に入れなくなる理由があるんだよ」
「否応なしに?」
「そそ。盆を過ぎると、クラゲが大量発生するんだよ」
 そこまで言われて、ようやく合点がいった。
 元々人のあまり来ない場所で、夏休みも終わり、加えて肝心の海にはクラゲが大発生……人がいないのも道理だった。
「琴音ちゃん、クラゲって好きか?」
 唐突に藤田さんが、そんなことを口にする。
 わたしは一瞬だけ考えるような仕草を見せてから、少し目を細めながら、
「……そんなにキライじゃないかもしれません」
「その心は?」
「プカプカとクラゲが波間を漂っている姿を想像したら、ちょっとだけ可愛い感じがしました」
「うーむ、そういうものなのか」
「藤田さんは嫌いなんですか、クラゲ?」
 腕組みをしながら首を傾げ、理解に苦しんでいるようんは表情を浮かべる藤田さんに、反対に問い返してみる。
 すると苦笑いを浮かべた藤田さんは、
「キライって言うか、嫌な思い出があるんだよなぁ」
「そうなんですか?」
「昔さ、ここでクラゲに刺されたことがあってさ」
 そう言って右足だけ膝を立てると、ふくらはぎより一回り大きいサイズで両手で輪を作ってみせながら、
「あの時は、楽勝でこんくらい腫れたんだぜ。もう痛いの何のって……」
 しみじみ語るように、そうぽつりと呟いた。
「そ、それは……災難でしたね」
「ホントにな」
 眉根を寄せながら、小さくため息をつく藤田さん。
「ま、それはそれとしてだ」
 それ以上この話題を続けるつもりはなかったのか、すっとその場から立ち上がった藤田さんは、一メートルほど段差のある堤防から飛び降りた。
 そしてこちらを振り返りながら、
「せっかく来たんだし、波打ち際でも散歩しますかね」
 そう、わたしに手を差し伸べながら口を開いた。
「え、でもクラゲがいるんじゃないんですか?」
「大丈夫だって。ま、たまに岸に打ち上げられてるマヌケな奴もいるみたいだけど、刺されることはないだろ」
 その言葉に小さく頷いたわたしは、目の前の手を掴むと、
「えい」
 残ったもう一方の手で麦わら帽子を落とさないようにつばを押さえながら、堤防から砂浜へと跳躍した。
 一瞬の浮遊感。
 次の瞬間、サンダルの靴底に乾いた砂特有の柔らかな感触を覚える。
 日射しをたっぷり浴びていただけあって、靴底を通して熱くなった砂の感触が伝わってくる。
 裸足で歩いたら、火傷をするかも……ふと、そんな事を思ってしまう。
 目指す目標は、距離にして百メートルほどだった。
 ちょうど今が引き潮の時間だったのか、海岸線までの距離は思ったよりあった。
 さくさくと藤田さんとわたしの、ふたり分の足音だけが耳に響く。
「兵共が夢の後、だな」
 突然、ぽつりとそんなことを呟いた藤田さんの視線を追う。
 そこには誰かが遊んだ後らしい、かつて花火だった物の残骸が、半ば砂に埋もれた状態でその姿をさらしていた。
 夏が残していった遺品。
 今はすっかり人気の失われたこの海辺に、かつて人がいた確かな証。
 ごみを捨て置いていくことは決して褒められたことじゃなかったけれど、でもわたしはその光景を前に、どことなく寂しさにも似た思いを抱いてしまった。
 それは、祭りの後にも似た感覚。
 白い砂浜のあちこちに点々と散らばる夏の痕跡を横目に、やがてわたしたちは波打ち際へとたどり着いた。
 波は穏やかだった。
 けれど規則正しく寄せては返すその音色は、それでも遠く堤防を越えた先にある林から聞こえてくる蝉たちの合唱を覆い隠すくらいの大きさはあった。
 水を吸った砂が土気色に色づいた、陸と海の境界線の目の前で足を止める。
 ちらりと、横目に藤田さんを見る。
 するとわたしが次に何をするのかを楽しみにしているような、どこか悪戯っぽい眼差しを浮かべていた。
 お先にどうぞ……そう言ってる風にも思えた。
 だからわたしは繋いだ手はそのままに、恐る恐るといった感じでサンダルのつま先を寄せてきた波に浸してみる。
「ひゃっ」
 水の冷たさに、思わず小さな悲鳴を上げてしまう。
 汗ばむほどの陽気とその陽気をいっぱいに吸い込んだ砂地が発する熱気に覆われた空気と比べると、水はわたしが想像していた以上に冷たかった。
 その様子がおかしかったのか、藤田さんがわずかに口の端をゆるめる。
 きっと、予想通りのリアクションだったのだろう。
 だからそんな彼に向かって、わたしは少し口を尖らせながら、
「……冷たかったです」
「いやまぁ、それは見てれば分かるけどさ」
「藤田さんもやってみてください。そうすれば、どれくらい冷たいか分かりますから」
 ちょっと思案顔になった藤田さんは、でもすぐ表情を戻すと「じゃ、そうすっかな」と呟きながらわたしから手を離し、波打ち際から少し上がった場所に腰を下ろした。
 そして履いていたスニーカーを脱ぎ、ジーンズの裾を十センチほどまくりあげてから立ち上がる。
「うし、準備完了っと」
 右手に持ったスニーカーを肩にかけながら、再びわたしの方に近付いてきた藤田さんは空いた左手をわたしに差し出してくる。
「琴音ちゃんは脱がないのか、靴? 濡れるぜ」
「え? あ、そうですね」
 慌ててその場でサンダルを脱いでから、藤田さんと再び手を繋ぐ。
 海水に足を浸した藤田さんは「おおう」と感嘆にも似た呟きをもらしながら、ゆっくりと歩き始めた。
 海側に藤田さんが立ち、繋がれた手を挟んでそのすぐ横を歩くわたし。
 海水をたっぷり吸い込んでぬかるんだ砂浜の感触が、直接足の裏を通してわたしへと伝わってくる。
 一歩進むたびに踏み込んだ足が数センチ沈み込み、その場にくっきりと足跡を残していく。
 何歩か歩くうちに足は砂まみれになってしまったけれど、汚れる傍からうち寄せる波が洗い流してくれるので、全然気にならなかった。
 日射しは相変わらず強い。
 でも足元を覆う波と、潮の香りと共に吹き寄せる風のお陰で、暑さはさっきよりずいぶん和らいでいるように感じられた。
 一歩一歩、砂の感触を確かめるようにゆっくりと進んでいく。
 その間わたしも藤田さんも口を開くことはなく、繋いだ手を通してお互いの存在だけを感じ続けていた。
 波音と、足音だけが響く世界。
 さっき堤防の上で感じた、孤独感がふっとわたしの身体を包み込もうとする。
 でもそれは一瞬のことで、すぐにそれはわたしの前から姿を消した。
 だって、わたしは孤独じゃなかったから。
 すぐ隣りに、大切な人がいてくれたから。
 大切な人の存在とそのぬくもりを、繋いだ手を通して確かに感じることができたから。
 不意に藤田さんが足を止める。
 わたしも動きを止めて彼の顔を仰ぎ見ると、何を思ってか肩越しに背後を振り返る姿が見て取れた。
 わたしも振り返る。
 するとそこには、波打ち際に沿って続くふたり分の足跡が、点々と描き出されていた。
 打ち寄せる波に洗われてしまったのか、十メートルほど先から向こうは、そこに足跡があったらしいくらいの痕跡しか残っていなかった。
 もう二、三度波が押し寄せてきたら、きっと跡形もなく消えてしまうに違いない。
 そのことに、ほんの少しだけ寂しさを覚えてしまう。
 もしかしたら藤田さんも同じことを思っているのか、どことなく寂しげな色が表情に浮かんでいた。
「形ある物は、いつか壊れるんだよ……な」
「え?」
 不意に口を開く藤田さん。
 そう言ってる間も波は寄せては返し続け、海水と一緒に運んできた砂で砂浜に穿たれた足跡を少しずつ削り取っていく。
 くっきりと縁取られていたはずの足跡。
 それは波に削られ、砂に埋め立てられ、やがて最初から何も無かったのと同じ、平坦な砂地へと戻されてゆく。
 ちくりと、どうしてか胸が痛んだ。
 それはまるで、わたしと藤田さんが今この場にいることまでも否定されているような気分になってしまったから。
 いつか壊れる物。
 そう、それはわたしたちがこの場にいた証だけでなく、わたしたちの関係そのものさえも否定されているような……そんな風にも思えてしまった。
 藤田さんと初めて出会ってから、じき一年半。
 その間、一日一日、積み重ねるように紡いできた数え切れないほどの思い出。
 春、夏、秋、冬、そして二度目の春と夏。
 そうしてたどり着いた、今。
 それはわたしにとって、かけがえのない宝物だった。
 何ひとつとして忘れる事なんてできない、大切な思い出の欠片だった。
 だからわたしは――
 どれくらい経った頃だろう、気が付けば足跡の全てが波に洗われ、その姿を消してしまっていた。
「でも……」
 ようやくのことで口を開く。
 そして、ゆっくりと傍らの藤田さんに顔を向けながら、
「形あるものが無くなっても、それでも……残りますから」
 少し目を細めながら、それだけを口にする。
 幾ばくかの沈黙。
 波の音だけが、高く低く耳に響き続ける。
「そうだな」
 小さく頷く藤田さん。
 きっとわたしが口にしなかった部分もちゃんと理解してくれたのだろう、口元に浮かんだ笑みはいつも通り穏やかで、優しかった。
 形ある物はいつか壊れる。
 多分、それは否定しがたい事実に違いなかった。
 でも形が失われても、それでもそこに形あるものを作り出した記憶と思い出は、わたしたちの心に残るのだ。
 わたしは、今日のことを忘れない。
 今日藤田さんとふたりで、波打ち際でどこまでも続くはずだった足跡を作ろうとしたことを。
 それで十分だった。
「ま、俺的には過去を振り返るのは性じゃないからな」
 少しおどけた様子の藤田さん。
 過去は振り返るもの。
 未来は築くもの。
 そして、その過去と未来の狭間に、今わたしたちのいる現在がある。
 わたしが望むのは、藤田さんと過去を懐かしむことじゃなく、未来を作ることだった。
 だからわたしは、藤田さんに向かってくすりと笑みを漏らしながら「そうですね」と、小さく同意の言葉を口にした。
 わたしの笑みに、小さく頷き返した藤田さんは、
「んじゃまぁ、過去じゃなく未来を作りにいくか」
「はいっ」
 繋いだままだった手の力を少しだけ強め、すぐ側にいる大切な人の存在を確かめたわたしは、再び前に向き直ると一歩、足を踏み出す。
 音もなく、新しい未来がそこに描き出される。
 同時に足下を、飛沫を上げながら押し寄せてきた海水が覆う。
 その水の冷たさはどうしてだろう、さっきまで感じていたそれよりもほんの少しだけ……わたしには温かく感じられた。
「琴音歳時記」完

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