晴れ渡った空。
叩けば音を立ててひび割れてしまいそうな、精巧なガラス細工然とした紺碧に埋め尽くされた世界。
肌に当たる空気が痛かった。
一定の間隔を置いて、口から吐き出される真っ白な息。
それが霧散して消え去る前に、そのただ中を突っ切った俺は、さらに先へと全速力で駆け続ける。
左右の景色が、流れるように後方へと消えてゆく。
そんな中を、ひとつだけ流れ去ることなく視界の内に留まり続けている姿。
「走ると、あったかいね」
傍らから、不意に紡がれる言葉。
視線だけを、声がした方へと向ける。
その途端視界の中央に、長い髪をたなびかせながら俺と併走する従姉妹の――名雪の姿が飛び込んできた。
全力で走っているはずなのに普段と少しも変わらない、おっとりとした口調。
「……そ、そうだな」
一方で日頃の運動不足の賜物か、既に息も絶え絶えな状態に追いやられていた俺は、それだけを返すのがやっとだった。
「到着だよーっ」
目的地にたどり着いたのは、それから数分後のことだった。
初めて見る校舎を視界に収める校門の前で、切れ切れな呼吸を必死に整えながら、初日から遅刻せずに済んだことに安堵の思く俺。
「つ、疲れた……」
「よかった、間に合ったよ」
嬉しそうにくるりとその場で身を翻した彼女は、突き抜けるような青空と、見る者に圧迫感にも似た思いを感じさせる瀟洒なデザインの校舎を背景に、
「ここが、わたしの通う学校……」
そこで一度、言葉を切る。
一瞬の沈黙の後、にっこりと目を細めた名雪は、
「そして、今日から祐一が通う学校、だよ」
紡ぎ出された言葉以上の何かを俺に伝えようとするかのように、じっと俺の顔を見つめやってきた。
新しい世界、新しい毎日……新しい学校。
別段、感慨に耽っていたとかそういう訳じゃない。
どちらかといえば、ぼんやりと目の前にそびえ立つ校舎を見据えていたと言った方が、正確だったに違いなかった。
「名雪っ! おはよっ!」
校門前で立ちつくす俺たちの横を足早に通り過ぎてゆく生徒たちの波の中から、弾むような軽やかな声がしたのは、その時だった。
「久しぶりねぇ、元気だった?」
「あ……」
波間から浮かび上がる、ひとりの女生徒。
緩やかなウェーブを描く、長い髪。
整った顔立ちの中心にあるふたつの瞳は、その存在感を誇示するかのような生気に満ち溢れていた。
……誰だろう。
突然の出来事に面食らいながら、同時に頭の片隅でそんなことを思う。
屈託ない明るい笑みを浮かべながら名雪の側に歩み寄った彼女は、そして背中をぽんぽんと叩く。
「……香里っ、痛いよぉ」
困ったような様子で、背中を叩く女の子に眉をしかめる名雪。
その様子を、言葉なくただ見つめるばかりの俺。
「相変わらず眠そうな顔してるわねぇ、名雪は」
「わたしは昔からこんな顔だよ……」
いきなりの登場に加えて彼女のその遠慮のない行動から察するに、多分クラスメイトか何かなのだろう。
「それに、久しぶりじゃないよ。一昨日も電話したよ」
「直接会うのは久しぶりって意味よ」
「でも今週の火曜日に一緒に映画観たよ、確か」
「三日会わなかったら、立派に久しぶりよ」
「……そうかな?」
俺を置きざりにしたまま、話だけがどんどん進んでゆく。
当然の事ながら俺は、名雪と親しげに話す彼女のことを何も知らない。
故に、ここでいきなりふたりの話に割り込んだ日には、それこそただの「変な奴」になってしまうのは必定だった。
転校初日からそんな汚名を被るのは、いかな俺とてさすがに御免だった。
「そう言えば、さっきから気になってたんだけど……」
名雪との会話が一段落した頃合いを見計らったように、不意に彼女――香里と言うらしい――の視線が俺の方へと向けられる。
意思の強さを感じさせる迷いのない真っ直ぐな、でも同時にどこか他人行儀なよそよそしさを伴った、そんな眼差し。
「この人、誰?」
「……誰、と言われても困るけど」
視線を逸らすこともできず、気圧されるように言い淀む俺。
刹那の沈黙。
でもそれは、ほんの一瞬のことだった。
「わたしの従兄弟の男の子だよ」
「ああ、電話で言ってた人ね」
横から助け船とばかりに俺に変わって名雪がそう説明した途端、彼女の表情がぱっと一変する。
たったいま、名雪に向かって見せていたのと同じ、朗らかな表情へと。
「今日から一緒にこの学校に通うんだよ」
「そっか……そうなんだ……」
名雪の言葉に納得したかのように、彼女はうんうんと頷く。
「初めまして、美坂香里(みさか・かおり)です」
改めて俺の方へと向き直った彼女――香里は、そう言って軽く会釈をしながら改めて自己紹介をする。
屈託のない笑顔。
それは目の当たりにした十人中十人が、確実に我を忘れてしまうだろうと思えるほどの、曇りのない笑みだった。
「俺は相沢祐一だ。えっと、美坂さん?」
軽く頭を下げながら、慌てて自らの名前を告げる俺。
「香里でいいわよ」
「だったら、俺も祐一でいい」
「…………」
「…………」
「あたしは遠慮しておくわ、相沢君」
「……?」
その時、彼女が垣間見せた表情。
一瞬の翳り。
まるで何かを拒むような、そんな凛とした表情。
内心で想像していたのとはかなり違ったその反応に、俺は疑問にも似た思いを漠然と抱いてしまう。
何だろう……?
内心を去来する、どこかに何かが引っかかっているような、そんな感覚。
知っているような。
覚えているような。
でも何も知らない、何も覚えていない俺の心。
そんな俺の思いを断ち切るかのように、スピーカーから流れ出たチャイムの音色が冬の朝の空気を震わせる。
「……あ、予鈴だよ」
「走った方がいいわね。石橋とどっちが早いか勝負」
「うん」
どうやら八時半をデッドラインとする担任との朝の戦いは、どこの学校でも変わらないものらしかった。
「祐一はどうするの?」
「俺は、とりあえず職員室に行ってみるつもりだ」
少しだけ考えて、そう答える。
何はともあれ職員室に行かないことには、自分のクラスすら判らないというのが、転校生たる寄る辺なき立場の悲しさだった。
「うんっ、がんばってね」
頷く名雪。
その背中を、既に校舎に向かって走り出しかけている香里の声が叩く。
「名雪、走るわよっ」
「あ、うんっ」
くるりと身を翻し、そして先に駆け出した香里の後を追いかけて、名雪の姿も昇降口の中に消えていった。
それを見届けてから、小さくため息を漏らした俺は、
「俺も急がないと……」
校舎に向かって一歩、歩き出す。
でも俺のその足取りは、最初の一歩を踏み出したきり、ぴたりとその動きを止めてしまった。
いや、止めざるを得なかった。
「……職員室?」
周囲を見渡す。
既に予鈴も鳴り終えた広い敷地の中には、生徒らしき姿は誰ひとり認めることができなかった。
「どこにあるんだろうな、職員室……」
もう一度、今度は大きなため息をついた俺は、そしてとぼとぼと校舎に向かって歩き出した。
§
「相沢祐一です。よろしくお願いします」
静まり返った教室。
数十人の視線が集まる中を、俺の声が低く遠く鳴り響いた。
ようやくのことでたどり着いた職員室。
そこで出会った、どうやら俺の担任になるらしい恰幅の良さそうな教師に連れて行かれた先には、小さな偶然が待っていた。
「……ゆういちー」
教室の後ろ、窓際から二列目の席から俺に向かって嬉しそうに手を振っている従姉妹の少女。
「…………」
そしてそのすぐ後ろの席から、これまたにこにこと楽しげな様子で手を振っている、これまた見知った顔の女の子。
前者が百パーセント本気なのは、まず間違いなかった。
同時に後者が百パーセント冗談に違いないことも、疑問の余地はなかった。
運命の女神が演出した、そのちょっとした偶然に内心で驚きを覚えながら、でもそれを表情に出すことなく、手短に自己紹介を済ませる。
「あー、君はそこの空いてる席に座って」
担任が指示した方へと目を向ける。
窓側の、後ろから数えた方が早い場所。
そのこと自体、決して真面目な学生とは言えない俺としては、喜びこそすれ悲しむべき理由は何もなかった。
それだけなら。
「…………」
立ち並ぶ机の間を通り抜け、自分の席へと向かいながら俺は悟る。
自らの身に降りかかったこの現実がいわゆる偶然などではなく、何者かによる陰謀に違いない、と。
「祐一っ、同じクラスだよ」
「びっくりね……」
俺にあてがわれた席――そこは名雪の隣であると同時に、香里の斜め前の席でもあったのだから。
この余りにも出来過ぎた状況を陰謀と言わず、一体何と言うのだろうか。
いまひとつ釈然としないまま席についた俺の横から、名雪が小声で話しかけてくる。
「よかったね」
「そう……かな」
「そうだよ」
うんうんと、満足げに頷く名雪。
その後ろからこれまた冗談なのだろう、名雪と動きを合わせるように首を縦に振る香里。
何だか、複雑な気分だった。
俺たちがそんな会話を交わしている間に、どうやら転校生たる俺の紹介がメインイベントだったらしい今日のHRは、滞りなく終了していた。
そして担任が教室を後にすると同時に、こればかりはどこの学校でも変わることのない、生徒たちのざわめきが戻ってくる。
「普通の自己紹介だったわね」
気がつくと、いつの間に席を離れたのか俺の目の前に立っていた香里が、がっかりした様子で話しかけてきた。
「悪かったな」
普通じゃない自己紹介って何なんだ……そんなことを思うと同時に、頭の中でその光景――普通じゃないというより、奇矯といった方が正しい――が、ぼんやりと浮かんでくる。
「やっぱ、普通でいいや」
「……?」
さすがにいま、俺が何を考えていたかまでは判らなかったのだろう、不思議そうな様子で香里が首を傾げる。
「しかし、まさか本当に同じクラスになるとは思わなかった」
「わたしもびっくりしたよ」
いつの間にか、窓際の俺の席に名雪と香里の三人の輪ができあがっていた。
既に帰り支度をしているらしい、まだ名前も知らないクラスメートの何人かが、明らかに不思議そうな視線を俺たちの方に送ってきている。
当然といえば当然の反応だった。
「祐一、明日からよろしくね」
そんな周囲の目をよそに、名雪が改まった様子で口を開く。
「そうだな」
「あんまり嬉しそうじゃないね……」
ちょっと不満そうな様子。
雪の中での再開からまだ数日しか経ってなかったけれど、それでも名雪の感情の変化についてはある程度は判別できるようになっていた。
別に、俺が特別鋭いとかそういう訳じゃない。
ただ単に、名雪が判りやすいのだ。
「そんなことないぞ。思わず踊り出しそうなくらい嬉しいんだ」
だから俺は、彼女の期待に応えられるだろう返答を口にしてみせる。
「よく分からないけど……でも、うん。よかったよ」
「やっぱり、仲がいいわね」
名雪の机に寄りかかりながら、俺たちのそんなやりとりを楽しそうに眺めていた香里が、いきなり割り込んできた。
どことなく、悪戯っぽい輝きに彩られているように思える双瞳。
だから、俺も香里の言葉に冗談で応える。
「そんなことないぞ。これでも顔を合わせる度に、生傷が絶えないんだ」
「え、そうなの?」
しかしもう一方の当事者は、それを理解してくれていないようだった。
心配そうに俺の顔を覗き込みながら、名雪が問い返してくる。
「……いや、まじめに反応されても困るが」
「やっぱり仲いいじゃない」
くすくすと、楽しそうな笑みを漏らしながら立ち上がった香里は、
「ごめんね、あたし先に帰るわ」
そう言って俺の前を横切って自分の席に戻った香里は、机の脇に掛けてあった鞄を手に取ると、改めてこちらに顔を向ける。
「香里、今日も部活?」
「ううん。部室には寄るけど、そのまますぐに帰るわよ」
「わたしは今日も部活だよ」
「大変ね、部長さんは」
「そんなことないよ。だって、走るの好きだから」
「好きだからって、なにも部長まで引き受けなくてもいいのに」
「でも、やっぱり走るの好きだから」
「まぁ、あなたの勝手だけどね」
何となく、いつの間にやら会話が横に三メートルくらいずれているような気がしないでもない。
これがきっと、名雪の素なのだろう。
そう考えてみれば、そんな名雪のペースにしっかりとついていっている香里は、正直大したものだった。
俺には、ちょっと真似できそうにない。
そして目の前で和やかに会話を続けるふたりの顔を、交互に見比べる。
見るからに、のんびりとしてマイペースな名雪。
そんな名雪とは対照的に、無駄のない合理的な性格の片鱗を随所に垣間見せる香里。
よく相性診断の本なんかで「正反対の性格の方が、相性が良いことが多い」とか書かれているけど、このふたりに関しては確かにその通りだと思った。
きっと、本当に仲のいい親友なんだろう。
「それじゃあね、ふたりとも」
「ああ」
「また、明日ね」
笑顔と共にそう言って軽く手を振った香里は、他の生徒に混じってそのまま教室を出ていった。
「あ、わたしもそろそろ部活に行かないと」
「それじゃあ、俺も帰るか……」
気がつくと、教室の中からは殆どの生徒の姿が消えていた。
きっと部活に行くなり寄り道するなり、それぞれが思い思いの放課後を送るべく出ていったのだろう。
「わたし、部活があるから一緒に帰れないけど……」
鞄を手にした名雪が、心配そうに声を落とす。
そしてまるで姉が弟のことを心配するかのような、そんな口振りで、
「祐一、ひとりで帰れる?」
「朝通った道を逆に辿ればいいだけだろ? それくらい余裕だ」
「うん、そうだよね」
にっこりと頷きながら、立ち上がる名雪。
俺も席を立つ。
「昇降口までなら送っていくけど?」
「いや、大丈夫だ」
「でもこの学校、すごく広いよ?」
それは朝、校門の前から外観を見て――そして、職員室を求めて実際に歩いた時に、既に我が身をもって味わっていた。
とは言え昇降口に行く程度なら、さすがに迷いはしないだろう……と思う。
それに何より、名雪に案内されてまるでお上りさんのように校内を歩いている自身の姿が、どうにも情けなく感じられて仕方がなかった。
だから俺は、内心で一抹の不安を抱きながらも、
「ひとりで大丈夫だから、先に行ってていいぞ」
胸を張って、そう告げる。
「……うん。それじゃね」
その言葉に促されたのか、納得したように小さく頷いた名雪は俺に向かって手を振りながら、そして教室を出ていった。
§
それから十分後。
めでたく俺は、校舎の中で迷える子羊と化していた。
一体どこで道を間違えたのか。
そもそも道を間違えるほど、建物の構造が複雑だったとは思えなかった。
でも現実に俺は、目的地たる昇降口にたどり着けるあてもないまま、見慣れない廊下の上をさまよい歩き続けていた。
「うーむ」
足を止め、腕組みをしながら左右を見渡す。
無機質に立ち並ぶ教室のドアと窓、そして延々と続く廊下だけが目に映し出された。
とりあえず現在地の確認をしよう。
そう思った俺は、一番手近にあったどこかに続いているらしい金属製のドアを押し開け、その中に足を踏み入れた。
ドアの向こうに身体を晒した途端、校舎の中のそれとは異なった冷たい空気が俺を包み込んでくる。
そして目に映る光景。
朝、雲ひとつなく晴れ渡っていたはずの空は、いつの間にやらその装いを一変させていた。
どんよりと鉛色に染まった空。
そしてその空を断ち切るような、見るからに人工的な鋭角なラインを惜しげなくさらけ出している建物の輪郭。
どうやらここは中庭――もしくは裏庭とおぼしき場所のようだった。
一面の雪に覆われているせいで判然としないが、立ち並ぶ木々の間には幾つものベンチが据えられているらしい。
陽射しがもう少し暖かくなったら、きっと昼休みには大勢の生徒で賑わっているのかもしれないと、そう思える場所だった。
でもいまは、俺がひとり孤独に佇むばかりの、静寂と寂寥が支配する閑散とした世界が広がっていた。
「……戻ろう」
とりあえずここは、俺がいま目指すべき場所じゃない。
現状で下すことの出来る最善の判断を下した俺は、ドアの前で靴に付いた雪と泥を落としてから、校舎の中へと戻る。
「相沢君っ!」
背中から俺の名を呼ぶ声がしたのは、その時だった。
肩越しに背後に首を巡らせ、声の主を確認する。
そこにいたのは……。
「振り返ると、美坂香里が立っていた」
「なに状況説明してるのよ?」
「いや、別に」
紡いだ言葉通り、そこには先刻教室で別れたばかりのクラスメイト、美坂香里の姿があった。
別れ際に言っていた通り、多分部活帰りなのだろう。
どこか呆れた顔つきをしているようにも思えるのは、もしかすると俺が校内で道に迷っていたことに気が付いているからなのかもしれなかった。
「どう? そろそろ新しい学校にも慣れた?」
俺のそんな思いに気付いた風もなく、肩を並べた彼女はにこやかな様子で訊ねてくる。
「慣れるわけないだろ、今日が初日なんだから」
「それもそうね」
「登校初日でいきなり馴染んでたら、それはそれで嫌だ」
世の中には、人見知りという言葉とまるで縁のない輩も確かに存在する訳で、
そういう性格なら仮に転校とかしても、すぐにクラスにうち解けることができるのだろう。
でも生憎俺は、そこまで人間はできていなかった。
よって転校初日の今日は、人並み程度のレベルでしか新しい環境への順応はできていない。
人並み……?
偶然の為せる技とはいえ、いきなり見知った人物ふたりと同じクラスになることを、果たして人並みと言っていいのだろうか。
難しいところだった。
「でも、よかったじゃない。クラスに知ってる人がいて」
「そうだな……」
曖昧に頷く俺。
そんな俺を見て、くすりと笑みをこぼした香里は、
「そういえば、相沢君って名雪と同じ家に住んでるのよね?」
「ぐはっ。何故それを……」
「だって名雪が自分で言ってたわよ」
「……あいつは」
思わず、頭を抱えそうになってしまう。
そして同時に、嬉しそうに香里に向かって俺のことを話す名雪の姿が思い浮かんでしまうのが……ちょっとだけ嫌だった。
でも普通、こういう事実はできるだけ隠そうとするものだと思うのだが、名雪は一体何を考えているのだろう。
「香里、頼みがある」
その場で足を止め、傍らの香里に顔を向けながら口を開く。
「なに? 食べ物は持ってないわよ」
「いきなり食い物の催促なんかするか。それよりもいまの話、クラスのやつらには黙っておいてくれ」
「いまのことって、相沢君が名雪の家に住んでるってこと?」
「そうだ」
頷く俺。
でも俺のその希望は次の瞬間、粉微塵に砕かれてしまう。
「でも、みんな知ってるわよ。朝、名雪がみんなの前で言ってたから」
「ぐは……」
今度こそ、その場にへたり込みながら頭を抱えてしまう俺。
「俺、明日から学校休む……」
「いきなり登校拒否はよくないわよ」
くすくすと、苦悩に打ち震える俺の姿を楽しむかのように笑みをこぼしながら香里が、冗談交じりの口調で言葉を紡ぐ。
「本当に何考えてるんだ……あいつは……」
「そうね。きっと何も考えてないわよ」
「やっぱりそうか……」
「ほら、そんなところに座り込んでないで。行くわよ」
「……ああ」
頭上からの声に促されるまま、のろのろと立ち上がる。
そして香里と並んで廊下を歩き出しながら肩を落とした俺は、「はぁっ」と深く長いため息を吐き出した。
しばらくの間、お互い無言のまま廊下を歩き続ける。
「着いたわ」
不意に紡がれた声に落としていた視線を上げると、そこは昇降口だった。
ようやくたどり着いた、本来の目的地。
幾つもの下駄箱が整然と立ち並ぶその先に、ガラス越しに朝見た校門が遠く静かに佇んでいた。
「ここが昇降口」
「それぐらい知ってるって」
「知ってる割には、思いっきり校舎裏で途方に暮れてたじゃない」
「ぐは……見てたのか……」
まるでそれは、悪戯を見つけられた子どもの心境だった。
そしてその悪戯を見つけた若くて美人な先生――香里にはぴったりな形容かもしれない――は、楽しげな様子で目を細めながら、
「不審な行動を取ってるから、てっきりどこかの秘密機関から密命を帯びてここに潜入したんじゃないかって思ったわよ」
「俺は普通の転校生だ」
「ちょっとがっかり」
本気で落胆しているような表情を浮かべながら、下駄箱から靴を取り出した香里は、慣れた仕草で靴を履き替える。
俺も彼女から少し離れた場所にある、まだ名札の張られていないロッカーから自分の靴を取り出す。
靴は、朝の雪を吸って未だ湿ったままだった。
手にしたそれを見つめやりながら、つくづく以前とはまるで違った生活の中に身を置いている自身に、改めてため息が漏れる。
ふと横を向くと、香里が俺の方を見て笑っていた。
「……どうした?」
「相沢君って、名雪に聞いてたのと一緒だなって思ってね」
上履きを靴箱に戻して、ぴょんと軽やかな仕草で俺の横に並ぶ。
その動きに合わせるようにふわりと、長く柔らかな彼女の髪が俺の目の前で揺れ動く。
「名雪のやつ、俺のことなんて言ってたんだ?」
「うん。不思議な人だって、言ってた」
「全然違うじゃないか」
「一緒だって」
「どこが?」
「そう言うところが」
そう言うところ……か。
何がどう分かった訳じゃなかったけれど、でもそう言われて少なくとも不愉快ではなかった。
だから俺はそのまま言葉を返すことなく、下駄箱の前を離れる。
鞄を持ち直し、そんな俺の横を少し早足で追い越しながら、楽しそうに言葉を続ける香里。
冷たくなった昇降口の扉を押し開け、俺たちは外に出た。
何気なく視線を上に向ける。
空を埋め尽くす、どんよりと曇った空。
そして鉛色の空を背景に、白く小さな何かがふわふわと俺の目の前を漂い落ちてゆく。
雪。
冬の結晶。
どうしてか余り好きになれない、何か。
「あ……降ってきたわね」
傍らで同様に空を見上げながら、降り始めた雪を前に香里が呟く。
「また、寒くなるのか」
「これくらいなら、多分すぐにでも止むわよ」
「それでも、寒いことには変わりないだろ」
「何言ってるの、今日は暖かい方よ」
暖かい陽射し。
寒い雪。
冷たい空気。
意識の奥底で、まるで何かが語りかけてくるかのようにちくちくと、俺の記憶を刺激する。
それは……何だろう。
いや、違う。
俺は……。
「知ってる」
「……?」
小首を傾げる香里。
「俺……やっぱり国に帰る」
「諦めなさいって」
空を白のベールで覆い隠そうとしていた雪は少しずつまばらになり、やがて何ごともなかったかのように戻ってくる静寂。
最後の雪のひとひららしい白く小さな粒が俺の前をすっと横切り、そのままいずこかへと走り去っていった。
「さて、いまのうちに帰ろっ」
何が嬉しいのか、鞄を胸元で抱きしめながら、軽やかな足取りで香里は校門に向かって歩き出す。
空を振り仰ぎながら、俺もその後をついて歩く。
「今日は、これからどうするの?」
香里は前を向いたまま、すぐ後ろにいる俺の方を振り返ることもなく声だけで問いかけてくる。
少しだけ考えるような素振りを見せた俺は、
「ちょっと、行きたいところがあるんだ」
「怪しいところ?」
「どこだよ、怪しいところって」
さっきの秘密機関といい、どうも香里は俺という存在に対して、何だかよく分からないイメージを抱いているようだった。
半分は冗談なのだろうってことは判るのだが、彼女の見た目から受けるイメージと言動のギャップが、俺の香里に対する理解を困難にしていた。
元々こういう性格なのだろうか。
それとも、何か意味があって装ってるのだろうか。
でもその判断を下すには、今日初めて出会ったばかりの彼女について、俺が知っていることは余りに少なすぎた。
「駅の近くのパン屋」
俺の思いをよそに、また彼女は不思議なことを口にする。
「それのどのあたりが、怪しいんだ?」
首を傾げながら、俺は問い返す。
「賞味期限が、サインペンで消してあるのよ」
「それは……確かに怪しいかもしれない」
「今度買ってくるから食べる?」
くすくすと、そう言って笑みをこぼす香里。
「食わん!」
「でも、名雪は気にせず食べるけどね」
「……あいつは」
今日何度目になるか判らないため息が、思わず口から漏れてくる。
そんな、傍目には有意義なのか無意味なのか判断に苦しむだろう会話を交わしながら、雪をのせた校門を潜ったところで不意に香里が足を止める。
そして俺の方を振り返りながら、口を開く。
「あたしこっちなんだけど、相沢君は?」
問われるままに俺は、無言で香里が指した方とは反対側を指さしてみせた。
「じゃあ、また明日」
「……ああ」
元気よく一方的にそれだけを言うと、香里は自分で指さした方に向かって小走りに駆けていってしまった。
「香里のやつ、寒くないのか?」
低く垂れ込める雲に覆われた空を見上げ、そして肌に感じる寒気に眉根を寄せながら、ゆっくりと視線を戻す。
近くの角を曲がったのだろうか、そこにはもう香里の姿はなかった。
§
「……きゃっ」
どさどさと、木の枝に降り積もった雪の落ちる音に混じって聞こえてきた、女の子のものらしき悲鳴。
とりあえず俺は、傍らへと目を向ける。
そこにはひとりの女の子が、少し驚いたような様子で佇んでいた。
彼女の名前は、月宮あゆ(つきみや・あゆ)。
七年前、俺が最後にこの街を訪れたときに出会い、この街を離れるまでの何日かを毎日一緒に過ごした女の子。
いつかまた会うことを約束して別れ、そして七年ぶりに戻ってきたこの街で俺は、文字通り偶然の為せる技によって彼女との再会を果たしたのだった。
変な言葉が口癖で。
お釣りがくるくらい元気で。
そしていつだって笑顔の絶えることのない女の子、それがいま俺の横に立つあゆという女の子だった。
彼女の悲鳴だろうか。
でも当のあゆは口を閉ざしたまま困ったようにふるふると小さく首を振り、否定の意志を伝えてくる。
だとしたら、いまの声は誰のものなのだろうか。
ゆっくりと辺りを見渡す。
程なく俺の瞳は、ひとりの女の子の姿を捉えた。
真っ白な雪に覆われた並木道の傍らで、紙袋からこぼれ落ちたらしい幾つもの荷物の中心に、まるで凍り付いたかのように身じろぎひとつすることなく、じっと雪面に視線を注ぐ女の子。
頭の上に降り積もった雪もそのままに。
きっと自分の身に一体何が起こったのかすら、理解できていないのかもしれなかった。
「大丈夫か?」
「え……あ……」
ゆっくりと女の子の顔が上向く。
そして彼女を見下ろす俺の視線と、彼女のそれが重なる。
「……あ……の」
微かに白く濁る息と共に、呟きに近い小さな声が冷え切った空気を震わせ、俺の耳朶を弱々しく叩いた。
少しハスキーな感じの、可愛らしい声。
でもそれは声にこそなっていたものの、何らかの意味を持つ言葉としての体は成してはいなかった。
「どうしたの……?」
少し遅れて歩み寄ってきたあゆが、俺の背後から覗き込むように顔を見せながら口を挟む。
「どうやら、雪の固まりが降ってきたみたいだな」
頭上を見上げると、ちょうど女の子の真上の枝からだけ、降り積もっているはずの雪が失われていた。
「多分、さっきの衝撃で雪が崩れたんだろうな」
改めて雪の上に座ったままの少女に声をかける。
小柄な身体。
この寒空の下を歩くにしては薄着とも思える、短めのスカート。
そして羽織直すこともなく、肩から半分ずり落ちたままになっているチェック地のストール。
雪の上でもなお映える白い肌が印象的な、そんな女の子だった。
「大丈夫か?」
「…………」
声をかけてみたものの、やはり少女からの返答はない。
心ここにあらずといった感じでぽーっとした眼差しを浮かべたまま、目の前の俺とあゆの姿を見つめ続けるばかり。
このままではらちが開かないと判断した俺は、少女に向かって右手を差し伸べながら、
「とりあえず、立てるか?」
「……え。あ……はい」
途端、我に返ったようにゆっくりと頷く少女。
でも差し伸べた俺の手にぼんやりと視線を向けるばかりで、立ち上がろうとする気配はなかった。
雪の上に座りっぱなしで、冷たくないのだろうか。
ふとそんな、どうでもいい心配をしてしまう。
いや、もしかしなくても見ず知らずの俺たちのことを、警戒しているのかもしれなかった。
そう思った俺は、あゆに目を向けながら、
「こいつはどうだか分からないが、少なくとも俺は怪しい者じゃない」
「ボクだって、善良な一般市民だよ」
「善良な一般市民は、少なくとも食い逃げなんてしないと思うぞ」
「……くいにげ?」
ぴくりと、そのキーワードに反応する少女。
そのことに気付いたらしいあゆは、えへへとどこかはにかむような笑顔を浮かべると、
「あれは、たまたま」
「たまたま……って、二日連続だっただろ」
実際俺とあゆの七年ぶりの再会は、商店街の露天で売っている鯛焼きを彼女が食い逃げしたことに端を発していた。
戦利品たる袋一杯の鯛焼きを抱えながら、店の親父から逃げていたあゆ。
そんな彼女に、偶然ぶつかってしまった俺。
「えっと、とりあえず、拾うの手伝うよ」
どうやら形勢は我に不利と、そう判断したらしい。
ちょっとどもり気味に口を開いたあゆは、女の子の側にしゃがみ込み、そして周囲に散乱している、少女の物と思われる買い物袋から雪上にこぼれ落ちた物に手を伸ばそうとした。
「あ!」
想像以上に大きな、戸惑いとも驚きともつかぬ少女の声。
その声に、あゆの手がぴたりと止まる。
「どうしたの?」
「え……いえ、なんでもないです」
早口に白い息を吐いて、いま初めて思い出したかのように、自分の頭や肩に積もった雪を手で払い落とす。
「自分で、拾いますから……」
「う、うん」
ひとつひとつ確認するように拾い上げながら、少女が立ち上がる。
取りこぼしがないか辺りを見渡してから、改めてストールを羽織り直した少女は、ぱたぱたと服に付いた雪を払うと寒そうにぎゅっと紙袋を抱きかかえる。
「……ちょっと寒いです」
悲しげな表情。
少しだけ眉根を寄せた曇りがちな表情は、言葉通り俺の目にもとても寒そうに見えた。
「そりゃそうだろ」
あれだけの時間、雪の上に座り込んでたんだ。
身体が冷えない方がおかしい。
ましてやいま目の前にいるのは、どう見ても真冬の季節には似つかわしくないだろう、薄着の女の子なのだから。
羽織るように身にまとったチェック地のストールだけが、かろうじて見た目にも温もりを感じさせていたが、多分焼け石に水だろう。
「でも、ずいぶんとたくさんの買い物だね」
「私、普段あまり外に出ないので、時々まとめ買いするんです……」
両手一杯に抱えた袋へと視線を落としながら、少し戸惑い気味の口調で言葉を紡ぐ少女。
「ふぅん、そうなんだ」
「金払ってるんだから、全然問題ないよな」
「……祐一君の台詞を聞いていると、ボクが悪人みたいだよぉ」
非難めいた眼差し。
でも俺は、その視線に屈することなく、
「事実だからな」
「ボクはいい子だもん」
「いい子は、そもそも食い逃げなんかしないぞ」
「うぐぅ……ちゃんと後でお金払うもん」
「…………」
ストールの少女は、掛け合い漫才にも似た俺たちのやりとりにどう反応したらいいのか分からず、困っているようだった。
俺とあゆの顔を見比べるように視線を左右に揺らしながら、でも何も言えないままでいる。
「ほら、あゆのせいで戸惑ってるじゃないか」
「祐一君が変なこと言うからだよっ」
「全て事実だ」
「そんなことっ……」
いつ終わるとも知れない、言葉の応酬。
でもそれは俺の中に言葉には称し難い、温もりにも似たそんな思いをわき上がらせていた。
もしかしてこれは、懐かしさ……なのだろうか。
でも俺は、そのことに確信を持つことができなかった。
何故なら俺の中には、そう言えるだけの確たる記憶が残っていなかったから。
肝心の思い出の全ては、どうしてかまるでミルクをこぼしたような、白くぼんやりとしたベールの向こうに覆い隠されてしまっていた。
「……もうすぐ、日が暮れますね」
俺たちの会話が途切れた頃合いを見計らったように、不意に少女が呟く。
そして空を見上げる。
切れた雲の隙間から姿を見せていたはずの日も、いつしか彼女の言う通り随分と傾いていた。
「そろそろ帰らないとな」
「…………」
「日が暮れると、大変だからな」
「……そうですね」
「うん。そうだね」
雪を降り積もらせた木々の隙間から垣間見える空は、青から徐々に紅へとその色彩を変化させ始めていた。
「じゃあ、俺たちはそろそろ行くから」
「あ……はい」
「どこも怪我とかしてないよな」
「大丈夫だと思います」
「ごめんね」
「……いえ。たぶん平気です」
一言二言、簡単に言葉を交わして俺とあゆは、大きな紙袋を抱えている女の子に別れを告げる。
手を振って少女に背中を向けて、そして歩き出す。
「……あの」
「ん?」
そんな俺たちを、背中から呼び止める。
「…………」
「…………」
沈黙が続く。
たっぷり数秒の間を置いてから、うつむき加減に少女が呟いた。
「……いえ、何でもないです」
何が言いたかったのだろう。
小首を傾げながら、そんなことを思ってしまう俺。
「じゃあ、本当に帰るから」
「……さようなら」
「ばいばーい」
ぶんぶんと小さな身体を精一杯伸ばし、大きく手を振りながら別れを告げるあゆを見ていて、俺はふと大切なことに気がついた。
慌てて、背中を向けて歩き出した少女に声をかける。
「ちょっと待った!」
「……はい?」
足を止めた少女が、振り返る。
不思議そうな様子で小首を傾げている彼女の許に歩み寄った俺は、ほんのわずかな躊躇の後、恥を忍んで肝心の用件を切り出した。
「ひとつ訊ねたいんだけど」
「……はい」
「商店街って、どっち?」
「……え?」
次の瞬間彼女の顔に浮かんだのは、予想外の言葉を聞かされた大抵の人間が浮かべるだろう、どこか呆気にとられた表情だった。