「行ってきまーす」
出がけの挨拶を口にしながら玄関のドアを開け、家の外へ一歩足を踏み出した途端、凍てつかんばかりに冷え切った朝の空気が俺たちを包み込む。
当然のように、今日も外は真冬の寒さだった。
「今日もいいお天気だね」
晴れ渡った空を見上げながら、穏やかな口調で呟く名雪。
その様子は、とても切羽詰まった状況に置かれている者とは思えない、のどかなものだった。
実際、昨日に引き続いてのピンチだと言うのに……。
「時間は?」
急かすような俺の言葉に、名雪は腕時計の文字盤に目を向ける。
「えっと……八時十五分だよ」
「昨日と同じくらいだな」
「そうだね」
ということは……。
脳裏に、昨日の朝繰り広げられた一連の出来事が、まるで走馬燈のように鮮やかな映像と共にリプレイされる。
同時に、口から漏れるため息。
「また……走るのか」
「うん。走るよ」
どこか嬉しそうに頷き、そして俺からの返事も待たずに走り出す名雪。
もう一度小さくため息をついた俺は、吐き出した息で目の前の空が真っ白になるのを確かめてから、名雪の後を追って駆けだした。
走り出してから十分もすると、視界の中にぽつぽつと他の生徒の姿が映し出されるようになる。
それを横目に、校門を駆け抜ける。
広い中庭を抜けると、ゴールはすぐそこだった。
昇降口で靴を履き替え、広めの廊下に足を踏み入れる。
その途端、俺が着ているのと同じ制服に包まれた生徒で溢れ返る廊下の情景が目に飛び込んできた。
ぱたぱたと廊下を駆け抜けてゆく姿。
窓際に何人かが寄り集まっては形作られる、小さな談笑の輪。
あちこちから聞こえてくる、楽しげな声。
それは、どこに行っても学校である限り変わることのない、ありふれた朝の情景に違いなかった。
窓の外に広がる真っ白な世界を除けば、前の学校でも同様の光景を俺は、毎日見続けてきていたはずだった。
見慣れた建物。
見慣れた友人。
見慣れた毎日。
当然のことながら、いま俺の目に映るのは誰も彼もが面識すらない見知らぬ生徒ばかり。
でも中には、おぼろげながら覚えのある顔も幾つかあった。
多分、クラスメートなのだろう。
「おはようー」
「あ、水瀬さんおはよっ」
その中の女生徒のひとりが、名雪に向かって挨拶を口にする。
どうやら俺の推測は正しかったようだった。
「相沢君も、おはよう」
そして名雪の傍らに佇む俺の姿を認めて、その生徒が今度は俺に向かって声をかけてくる。
予想もしなかった突然のことにどう返したものか判断に困ってしまった俺は、思わず言葉に詰まってしまう。
「……え、あ」
「ダメだよ祐一、ちゃんと挨拶しないと」
すると名雪が、まるで出来の悪い弟の行儀の悪さをたしなめるかのように、少しお姉さんぶった口調で余計なことを言う。
そんなやりとりを、数人の生徒がにこにこしながら見ていた。
どれもどことなく見覚えのある顔――つまり、皆クラスメイトなのだろう――だった。
「どうも名雪のせいで、変な先入観を持って見られてるような気がする」
教室の前で腕組みをしながら、ぽつりと呟く俺。
でも名雪は、俺の言葉の意味が全く判っていないのか、どこかきょとんとした様子で、
「わたし、何もしてないよ」
「そうそう」
何か言い返そうとした途端、そんな俺の機先を制するように名雪のそれとは明らかに異なる別の声が、いきなり横から割り込んできた。
「あ、おはようー」
「おはよっ、ふたりとも」
いつの間に現れたのか、香里が名雪に抱きつきながら登場する。
朝から元気なことだ。
でも……考えてみたら朝から全力疾走で登校してくる俺たちも、ある意味元気なのかもしれない。
自嘲気味に、ふとそんなことを思ってしまう俺。
「香里、重いよー」
「あら失礼ね。そんなに重くないわよ、あたし」
「でも、やっぱり重いよー」
「心頭滅却すれば火もまた涼し、よ」
「なに言ってるか、さっぱり分からないよー」
そんな俺をよそに、ふたりはとても有意義な朝のコミュニケーションを交わしていた。
まあこれはこれで、見ていてなかなかに微笑ましい光景ではある。
「相沢君、あんまり名雪を困らせたらダメよ」
そして何ごともなかったように、俺に顔を向けながら言葉を紡ぐ香里。
話題の切り替えがあまりにも唐突で、咄嗟に返事を口にすることができない。
「うんうん」
そんな俺に代わるように、香里を背負ったままの名雪がにこやかな表情を浮かべながら頷いていた。
「名雪のおかげでクラスに馴染んでるんだから、もっと感謝しないと」
「うんうん」
確かに、香里の言うことも一理あるかもしれない。
実際問題、名雪と香里のお陰で、転校生としては異例の速度でクラスになじめそうなのは確かだった。
でも俺の口から出てきたのは、そんな内心の思いとは正反対の、どこか拗ねた感じの言葉だった。
「別に馴染めないのなら、ひとりでいるから俺は構わないんだけど」
彼女たちの言葉に反発したとか、別にそういう訳じゃない。
ただ……何となくそう思っての一言。
「ひとりは寂しいよ……」
そんな俺を前に、見るからに悲しそうな色を顔に浮かべながら、ぽつりと小声で呟く名雪。
そして「うんうん」と、もっともらしく頷く香里。
余計なお世話だった。
§
鉄製の大きなドアを押し開ける。
途端、冬の寒気に満ち溢れた外気が、まるでまとわりついてくるように俺を包み込んできた。
身体の奥底にまで染み込んでくるような、そんな寒さ。
その感覚に一瞬、身体を縮こまらせてしまう。
刹那の逡巡の後、思い切って中庭の中へと俺は足を踏み出す。
さくっ、と降り積もった雪を踏み締める音色が耳に響く。
冬の結晶。
見渡す限り、それは世界の全てを覆い尽くしているかのようだった。
「……寒いって」
呟きながら、足下を見つめる。
そこには俺の靴が生み出した靴跡が、くっきりとした輪郭と共に白い雪の上に描き出されていた。
ゆっくりと顔を上げる。
そして瞳が、求める姿――ここに来た目的を、探し始める。
同時に、頭の片隅で思う。
どうして俺は、いまこんな場所に居るのだろうかと。
それを見つけたのは、ほんの偶然だった。
今日から平常通りに始まった授業。
退屈で、眠くて……。
後ろの席の北川が、シャーペンの腹で背中をつついてきたのは、冗談抜きでうつらうつらとし始めていた、二時間目も後半に差し掛かった頃だった。
「……人がいる」
ようやく聞き取れるくらいの、小さな声。
その声に、半ば以上眠りの世界へと誘われていた俺の意識が、現実にずるずると引きずり戻される。
塞がりかけていた瞼を見開き、肩越しに顔を向けながら、
「人くらいいるだろ。学校なんだから」
同じくらいの小声で、返事を返す。
「いや、そうじゃなくて」
「……?」
どうやら俺の思っていることと、北川が口にしかけていることとの間には、微妙なズレがあるらしい。
曖昧に小首を傾げながら横を向く。
そこには名雪の姿があった。
「くー」
寝ていた。
しかも、思いっきり。
名雪って、もしかして一日の三分の一は寝てるんじゃないか?
周囲の目をはばかることなく、机に突っ伏すように寝入る従姉妹の姿に、思わずそんなことを思ってしまう。
「……にゅう」
「なんか変なんだ」
再度俺の背中をシャーペンで背中をつつきながら、北川が話を続ける。
どうやら北川にとっては、名雪が寝ていることより窓の外の出来事の方が重要らしい。
仕方なく、名雪から視線を外しながら応える。
「だから、何が?」
「外に人がいるんだけど……何か様子が変なんだ」
そう言って、手にしたシャーペンの先を今度は左手にある窓の方へと向け、そこにあるらしい何かを指し示す。
変?
一体何が?
その動きに導かれるように、北川の方を向けていた視線を今度は窓の向こうに広がる空へと向ける。
ガラス越しに広がる世界。
晴れ渡った青空の下にあるのは、ちょうど校舎の裏に当たる場所だった。
そこにある全てが汚れなき雪の白さに覆い尽くされた美しくも、でもどこかもの悲しい何かをその身に宿した場所。
この時期に好んで人が足を踏み入れるとは思えない、そんな場所。
でも……。
そこには、あるはずのない物が存在していた。
点々と続く一組の、小さな足跡。
正門の方から真っ直ぐに続いている細く、小さな破線。
足跡の行く末を追ったその先には女の子らしい人影がひとつ、ぽつんと佇んでいた。
遠目にいまひとつ判然としなかったが、どうやら両手を胸元で祈るように合わせて、殆ど身動きひとつすることなく、じっと足下の雪を見つめていらしい。
俯いているせいで、顔までは分からない。
それはまるで何かを、誰かを待っているような、そんな佇まいだった。
寂しげに。
悲しげに。
彼女の周囲を包む、陽射しを受けてほのかにきらめく雪がそう思わせるのか、じっと佇み続けるその姿は、俺の心に痛々しさのような何かを覚えさせてくれるものだった。
「あの子、さっきからずっとあの場所にいるんだ」
北川の声を耳に、じっと目を凝らす。
風が吹いているのか、何かがはためくように揺れている。
マフラーか、それともストールの類だろうか?
どうやら雪の中に佇む少女は、この学校の制服ではなく私服を身につけているらしかった。
ということは、ここの生徒ではないのだろうか。
誰かを待っている?
それとも探している?
あんな場所で?
どうして?
幾つもの疑問が胸の中に浮かび上がり、何の答えも見出せないまま俺の中で霧散してゆく。
一番の解決法は本人に問いただすことなのだろうけれど、残念ながらいまは授業中で、まさか窓を開けて話しかける訳にもいかない。
と、そこまで思ったところで気がつく。
そもそも、どうして俺がそんなことを気にする必要があるのか。
大体彼女が、俺と面識がある確率なんて――俺が転校生としてこの街に来てからの日数の少なさを考えれば――殆どゼロのはずだった。
「そのうちいなくなるだろ……」
いまはまだ日が射しているから良いものの、この寒さの中でそういつまでもじっとしていられるとは思えない。
じきに寒さに我慢できなくなって、いなくなるだろう。
そんなことをぼんやりと思いながら、興味を失ったように俺はそう言葉を紡いでみせた。
そのまま窓から視線を逸らし、姿勢を戻す。
「そうだよなぁ」
納得したのか、俺に続くように北川も窓から視線を外した。
視線を正面に戻すと、傍らの名雪の姿が目に留まる。
「くー」
相変わらず気持ちよさそうな寝顔を浮かべながら、彼女は未だ夢の中を旅しているようだった。
やがてチャイムの音が静まり返った教室に響き、二時間目の授業も終了する。
「祐一……」
「起きたのか?」
「あれ……わたし寝てた?」
眠たげに目をこすりながら、少し舌足らずな声で話しかけてくる名雪。
「思いっきり熟睡してたぞ」
「いけないいけない……また、眠っちゃったよ」
「それで、どうしたんだ?」
「今日、部活お休みだから一緒に帰ろうと思って」
「そうだな……」
少しだけ考え、とりたてて断る理由もなかったので「別にいいぞ」と素直に頷いておく。
「うん。約束」
「わかった、約束な」
その途端、再びチャイムの音色が教室の中に流れる。
ばたばたと自分の席へと戻るべく机の間を移動してゆくクラスメートを横目で見ながら、俺たちも自分の席に座る。
やがて四時間目の授業が始まった。
今日は土曜日なので、午後の授業はない。
つまり、これが最後の授業ということだった。
何ごともなく淡々と進んでゆく授業を頭半分で聞き流しながら、残る半分で俺は全く別のことを考えていた。
興味を失ったはずの出来事。
でもどうしてか、頭の片隅でくすぶり続けている出来事。
窓の外。
広がる青空の、その下。
白一色に埋め尽くされた世界のただ中で、何かを待っているかのように静かに佇み続ける少女。
その場所に初めて彼女の姿を見出してから、かれこれ二時間は経っているだろうか。
少女はその間ずっと、同じ場所に立ち尽くしていた。
そのことは、彼女の足元まで伸びたきり断ち切られたように雪面から失われている足跡が、何より雄弁に物語っていた。
「おい、相沢……」
後ろの席の北川が、少し驚いたような声音で身体を乗り出すようにしながら耳元で囁いてくる。
「あの子、まだいるぞ」
「そうだな」
「大丈夫かな」
心配そうな声。
それは、俺にしても同じだった。
この寒空の下、ただじっとひとつ所に佇み続けるなんて、どう考えても大丈夫とは思えない。
「…………」
教室の窓から中庭までの距離の存在を考慮したとしても、小さな女の子だと思う。
肌は、雪に負けないくらい白い。
そしてきらきらと輝く雪の最中に浮かび上がるその姿は、まるで陽炎のように儚げな印象を俺に抱かせてくれた。
「誰かを待ってるのかな?」
「でも、何もあんなところで待ってなくてもいいだろ」
「その相手が、どこのクラスか分からないとか」
「何だそれ?」
「いや、何となくだ」
じっと目を凝らして観察していると、微かに彼女の立つ周囲の空気が曇っているのが分かった。
当たり前のことだが、そのこと――少女が息をしているという事実に、どうしてか安堵の思いを抱いてしまう。
その時不意に、今日の授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。
中庭にも響き渡ったその音色を待ちかねていたかのように、動きを止めていた少女が俯き加減だった顔をつっと空を見上げように上向かせる。
初めて、少女の顔を瞳が捉える。
そして……その顔に、俺は見覚えがあった。
昨日の出来事。
雪の中で出会い、そして幾ばくかの会話を交わした後に別れた、名前も知らない女の子。
「俺、ちょっと急用を思い出した」
北川にそう言いながら席を立ち、ドアへと走り出す。
「相沢君?」
「くー」
俺の名を呼ぶ香里の声と、名雪の寝息が背中を追いかけて来たが、それを完全に無視する。
「おい、まだHRが……」
「すぐに戻るっ」
なおも何か叫ぶ北川を無視して、教室を飛び出す。
終業間もない、人通りの殆どない廊下を急ぎ足に走り抜け、そして階段を一気に駆け降りる。
窓から垣間見える外界の景色は白くて、そしてその白さ故に寂しげな佇まいを浮かべていた。
廊下を走りながら、昨日見かけた鉄製の扉を確認する。
あの外が、多分校舎の裏側だ。
ドアの許に駆け寄り、鉄製のその大きなドアを押し開けた途端、冬の寒気に満ち溢れた外気が、まとわりついてくるように俺を包み込んできた。
身体の奥底にまで染み込んでくるような、そんな寒さ。
その感覚に一瞬、身体を縮こまらせてしまう。
刹那の逡巡の後、思い切って中庭の中へと俺は足を踏み出す。
さくっ、と降り積もった雪を踏み締める音色が耳に響く。
冬の結晶。
見渡す限り、それは世界の全てを覆い尽くしているかのようだった。
「……寒いって」
足下を見つめる。
そこには俺の靴が生み出した靴跡が、くっきりとした輪郭と共に白い雪の上に描き出されていた。
ゆっくりと顔を上げる。
そして瞳が、求める姿――ここに来た目的を、探し始めた。
とりあえず見渡した範囲に、少女の姿はどこにもなかった。
仕方なく二年のクラスが入っている場所にあたりを付け、それを起点に適当に記憶を辿りながら少女がいるだろう方向に向けて歩き出す。
「しかし、何やってんだろうな……俺」
白く濁ったため息を吐きながら自嘲気味に呟きをもらし、そしてもう一度深くため息をつく。
今日に比べれば、昨日がよほど暖かい日だったのだということを身をもって実感しながら、まだ踏み固められてもいない雪に足跡を残しながら、ゆっくりと歩を進める。
やがて、校舎裏の風景が視界を覆った。
「……ここだな」
見渡す限り、一面の白。
降り積もったそのままに、柔らかな曲線を描きながら幾つもの凹凸を生み出している雪が、この場所に人の出入りが殆どないことの何よりの証として、言葉なく俺の前に姿を晒していた。
ひっそりと、誰の目にも触れることなく存在するばかりの空間。
その雪の絨毯の中心に、ひとりの少女が立っていた。
「…………」
昨日と同様に、頭の上にうっすらと雪を積もらせたまま。
上半身を覆うチェック地のストールの裾を、ぎゅっと握り締めたまま。
寂しげで悲しげな色を、その瞳にたたえたまま。
「………あ」
雪にも決して引けをとらないくらいの、白い肌の小柄な女の子。
俺の存在に気付いたらしい少女は、ゆっくりとした仕草で口許に穏やかに微笑みを宿しながら、小さく声を上げる。
それは間違いなく、昨日あゆと一緒に出会った少女だった。
§
「あ……相沢君っ」
昇降口から校舎に入ったところで、香里とばったり出くわす。
ロッカーから靴を取り出しているところを見ると、どうやらちょうど帰りがけらしい。
上履きだった俺は、そのままロッカーの前に敷かれている簀の子に足を踏み入れる。
そして、靴を手にしたまま俺の方をじっと見据える香里に訊ねかける。
「いまから帰るのか?」
でも当の香里は、そんな俺の呑気な言葉を吹き飛ばす勢いで、
「いまから帰るのか、じゃないわよっ!」
ずいと、俺の方ににじり寄りながら言葉を吐き出す。
「ど、どうしたんだ?」
「名雪、まだ教室で待ってるわよ」
「……あ」
彼女のその言葉を耳にした途端、背筋にさっと冷たいものが走る。
そして記憶の片隅に、今日は名雪と一緒に帰る約束をしていた事実が思い出された。
「すっかり忘れてた」
「やっぱりね……」
香里の口から漏れる、諦めにも似た小さなため息。
肩を落としながら「まったく……」と、そんな呟きを口にしてから改めて顔を上げた彼女は、
「名雪、怒ってたわよ」
それはそうだろう。
立場が逆だったら、俺だって怒るに違いない。
というか俺だったら待つことすらなく、とっとと家に帰ってしまっていること確実だった。
「そう言えば相沢君、急に出て行ったけど……どこに行ってたの?」
「ちょっと、な」
「ちょっと?」
小首を傾げながら訊ね返してくる香里。
「中庭に行ってただけだ」
「……中庭?」
「雪が見たくなってな」
「……雪?」
嘘だった。
本当の目的は雪なんかではなく、そのただ中にひとり佇む少女に会いに行っていたのだから。
ふと、意識の奈辺がちくりと刺激される。
「そういえば、自己紹介がまだでしたよね」
ついいまし方の出来事。
雪の中、ストールを羽織った女の子の口から紡ぎ出された言葉。
「俺は、相沢祐一。今週転校してきたばかりだが、ここの二年だ」
「私は栞です。美坂栞」
病身とは思えないはきはきとした口調で彼女は、俺に向かって自分の名前をそう告げた。
みさか、しおり。
みさか、かおり。
同じ響きを持った姓。
そして似た響きを持った……名前。
これは、果たして偶然の一致なのだろうか。
それとも俺の中の一部が告げてきているように、何らかの意味を持っているのだろうか。
みさかとみさか。
かおりとしおり。
……分からなかった。
少なくともいまの俺は、正しい答えを導き出すに足るだけの情報を、何も持っていなかったから。
だから全ては俺の想像、憶測に過ぎなかった。
「……くん。相沢君っ」
耳朶を叩くその声に、意識が現実に引き戻される。
見れば、どこか不思議そうな表情を浮かべた香里の顔が、視界一杯に映し出されていた。
「うわっ」
「うわっ、じゃないわよ」
「じゃあ……おわっ」
「……違うでしょ」
一歩身体を引いた彼女は、額に人差し指を当てながら困ったように眉根を寄せて見せる。
そして、ふぅと一度ため息をつくと、
「どうしたの、急に難しい顔しちゃって」
真顔に戻って、そう訊ねてきた。
「いや……」
別に、と言いかけたところで口を閉ざす。
そして改めて、目の前にある香里の顔を見つめやる。
「……?」
少し戸惑ったような瞳の色を浮かべながら、でも同時にどこか楽しげな様子で口許を綻ばせる香里。
「なあ、香里」
「なぁに?」
「……俺のこと、遠慮なくお兄ちゃんと呼んでいいぞ」
それきり、互いに黙り込んでしまう俺たち。
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙が俺たちの間を覆ってどれくらい経った頃だろう、何の前触れもなくすっと目の前にかざされた手が、額に当てられる。
ひんやりと、冷たい手。
「熱でもあるんじゃない、相沢君?」
これ以上ないほど、それは冷静な声だった。
その声音を耳に響かせながら俺は、自らの試み――栞に向かって口にしたのと同じ台詞を、香里にも向けてみて反応を見ようとした、婉曲かと巧妙な――が失敗に終わったことを自覚する。
「いや。熱はないと思う」
「そう?」
「ああ……ちょっとした、冗談だ」
頷くと同時に、額に感じていた存在感が失われる。
「冗談にしては、あんまり面白くなかったわよ」
「俺もそう思う」
栞には、それなりに受けたんだけどな……内心でそんなことを思いながら、香里の言葉に頷き返す俺。
そして落胆するように肩を落とし、廊下に向かって歩き出す。
「じゃあ、俺はちょっと名雪に怒られに行ってくる」
「ちゃんと謝るのよ」
背中にかけられる声。
足の動きはそのままに、肩越しに振り返った俺は苦笑いを浮かべながら、
「何かおごらされるな、きっと……」
「それで許してもらえるのなら安いものよ」
くすくすと、楽しげな笑みが彼女の口からこぼれる。
「そう……だな」
とりあえず名雪とは同じ家に住んでるのだから、場合によっては俺の食料にだけ毒物――賞味期限の切れたものとかが混入される可能性もあり得る。
それを考えれば、何か奢って許されるのならそちらを選んでおくのが、明日を生きてゆく為にも賢明な選択には違いなかった。
そう言えば名雪って、料理とか出来るのかな。
この何日かはずっと、秋子さん手ずからの料理ばかりを食べていたことを思い出しながら、俺はふとそんなことを思う。
「がんばってね」
下駄箱の前でひらひらと手を振る香里に見送られて、重たい足取りで教室へ向かう。
廊下を抜け階段を上り、そして教室のドアに手をかける。
ゆっくりと開かれたドア。
その先にある誰もいない教室の中で、自分の席に座ったままこちらを振り返っている名雪が、案の定拗ねていた。
「……嘘つき」
§
夕闇に包まれ始めた商店街の店並みは、多くの人で賑わっていた。
そんな中を俺は、傍らの名雪と肩を並べながら、家への道のりをゆったりとした足取りで歩いていた。
「わたし、幸せだよ〜」
満足そうな声。
たかだかパフェ一杯でここまで幸せになれるとは、安上がりなヤツ……内心でそう思いながら、でも言葉通り幸せそうな笑みを浮かべる名雪の顔を見るのは、それなりに楽しいことではあった。
ほんの三十分前までは、
「……ひどいよ、祐一」
雪の降り積もった通学路の道すがら、思い出したように何度となく拗ねたようにそう言い続けていたというのにだ。
結局名雪が、俺を待ち続けた数十分間の時間の浪費に対する賠償として要求してきたのは、行きつけの喫茶店らしい場所のメニューに載っている、イチゴサンデーだった。
「見ているだけで腹が一杯になったぞ、俺は」
黄昏に覆われた空を見上げながら、言葉を放つ俺。
元々甘いものがそれほど得意じゃない俺としては、苺がてんこ盛りのパフェなんて見ているだけで十分な代物だった。
実際俺が店で頼んだのは、コーヒー一杯だけだった。
砂糖なしのブラックでそれをすする俺を前に、自分の顔と同じくらいの大きさの器に盛られた苺とアイスとクリームの集合体を前に、スプーンを手にした名雪は本当に幸せそうだった。
「せっかくだから、祐一も食べればよかったのに。ホントに美味しいんだよ、あそこのパフェ」
「いや。俺の場合、甘いものは別腹だから」
「それって使い方が変じゃない?」
小首を傾げる名雪。
「そんなことはないぞ。俺の別腹はだな、許容量が当社比で七十六%くらい小さいから、あんなものはとてもじゃないが入りきらないのだ」
「ふーん」
判ったような判らないような、そんな微妙な表情を浮かべながら名雪が小さく頷く。
その様子に、俺は思わず口元を綻ばせてしまった。
「あれ……?」
傍らを歩いていた名雪が不意に足を止めたのは、その時だった。
「ん、どうした?」
両手を頭の後ろで組みながら空を見上げていた俺は、視界の端から彼女の姿が消えたのに気付き、少し遅れて立ち止まる。
距離にして数歩離れた場所に、彼女はいた。
前後左右を気忙しげに行き来する通行人の存在など忘れたかのように、名雪はあらぬ方向に視線を向けたまま動きを止めていた。
顔には、何か意外なものを見つけたような色が浮かんでいる。
名雪のその様子に小首を傾げながら、ゆっくりと彼女の許に歩み寄り、そして改めて「どうした?」とそう、訊ねかける。
「……香里」
「え?」
「あそこにいるの……香里だよね」
言われるまま、視線を名雪が向けている方へと向けると、道を行き来する人々の織りなす雑踏の向こう――何かの店らしいショーウィンドウの前に、ひとりの女性の佇んでいる姿が見出された。
臙脂色を基調とした裾の短いワンピースに、まるで修道僧が身に纏っているかのような純白のケープ。
間違いなく、俺たちが通う学校の生徒だった。
ガラスの中にある何かを見つめるように、俺たちからは背を向けていたから顔は判らなかったが、緩やかなウェーブを描く長い髪は確かに香里の髪に似ているようにも思えた。
「顔が見えないから、よく分からない」
「ううん、やっぱり香里だよ。間違いないよ」
小さく頷きながら、確信めいた口調で言葉を紡ぐ名雪。
まぁ俺なんかよりよほど長いつき合いのある名雪がそう言うのだから、そうなのかもしれない。
「何してるんだ、あいつ」
「お買い物かな?」
「俺にはただ単に、暇つぶしでぶらぶらしてるだけに見えるぞ」
「うーん……そうなのかな。よく分からないよ」
少し困ったように口を尖らせながら、首を傾げる名雪。
「もしかしたら、お散歩かも」
そしてややあって彼女の口から放たれた言葉は、相変わらず見事なまでに俺の想像を越えたものだった。
「なんだそりゃ」
思わず呆れた声を出してしまう俺。
そんな俺の反応が引っかかったのだろう、上目遣いに俺の顔を見上げてきた名雪は、
「健康にいいんだよ、お散歩。わたし、大好きだもん」
にっこりと目を細めながら、そう告げてくる。
「嘘つけ。お前の場合、散歩なんて身体を無駄に動かすことをするくらいなら、怠惰に寝てる方を選ぶに決まってるだろ」
「そんなことないよ。それに、健康にいいのは本当だよ」
「まあ……健康にはいいだろうけどさ」
「そうだ、今度一緒に行こうよ。お散歩」
「嫌だ」
「少しは考えてよ〜」
拗ねたように言葉を返してくる。
そんな彼女に、俺は大きく肩を落としながら、
「あのなぁ……何が悲しくて、この寒空の下を俺が散歩なんてしなくちゃならないんだよ」
ため息混じりに、それだけを口にする。
「うー」
「うー、じゃない!」
「むー」
「むー、じゃない!」
「くー」
「寝るなっ!」
「冗談だよ」
そして何ごともなかったように、にっこりと微笑みを浮かべてみせる。
何というか……疲れる。
そして俺は、名雪のこのペースに当然のようについていける香里のことを、少しだけ尊敬したい気持ちになった。
「あれ……?」
「今度はどうした。北川でも現れたか」
ちょっと疲れた感じで俺はそう、名雪に問いかける。
でも名雪は、ふるふると首を振りながら、
「違うよ。香里が……いなくなっちゃった」
「あ?」
改めて視線を、香里とおぼしき姿があったはずの場所に向ける。
「ほら、ね」
名雪の言うとおり、ついさっきまで香里がいたはずのショーウィンドウの前には、誰もいなくなっていた。
夕陽に照らされ、鈍い輝きを発しているショーウィンドウのガラス。
照り返しのせいで、ここからでは中に何が飾られているかまではよく分からない。
でも俺は、どうしてかそれをいま確かめたいとは思わなかった。
何故なのか。
胸の奥で小さな疑問が頭をもたげたが、でもその答えを俺は見出すことはできなかった。
空が紅からゆっくりと紫混じりのものに変化を遂げてゆく。
昼と夜とが混在する曖昧模糊とした刹那の時が終わりを告げ、そして宵闇が足早に俺たちの前に姿を見せる。
「きっと家に帰ったんだろ。ほら、俺たちも帰るぞ」
「うん……そうだね」
後ろ髪を引かれるような様子で、頷き返す名雪。
そして一度だけ、ちらりと香里がいた場所に目をやってから、ゆっくりとその場で身を翻した彼女は、
「帰ろう、祐一」
そう、穏やかに言葉を紡いだ。