四時間目終了のチャイムが鳴る。
うつらうつらと、半ば夢心地でその音色を耳にした俺は「起立、礼」の号令に席を立ち、教師が教室を後にするのを尻目に大きく伸びをする。
朝から数時間に渡って続いた苦行も、とりあえず一段落。
「祐一っ」
傍らから俺の名を呼ぶ声がしたのは、その時だった。
天井に向かって両腕を伸ばした姿勢のまま、顔だけを声がした方に向けると、そこにはにこにこと笑顔を浮かべる名雪が、
「祐一はお昼ご飯、どうするの?」
「そうか、今日から午後も授業があるんだよな」
たったいままで堪え忍んできた苦痛に、実はまだ後半戦があるのだという事実を突きつけられて、ちょっとだけ憂鬱な気分になってしまう。
「名雪はいつもどうしてるんだ?」
とりあえずそのことは置いておいて、訊ね返す俺。
「わたしは、お弁当持ってきて教室で食べる日もあれば、学食で済ませる時もあるよ」
「今日は?」
「学食でランチセットだよ」
「だったら、俺も学食だな」
弁当の類を持ってきていない以上、選択肢は他になかった。
無論のこと食べないとか寝て過ごす、というのもひとつの選択には違いなかったが、少なくともいまの俺にそんな気持ちはさらさら無かった。
と言うことで学食行き、決定。
「うん、案内するよ」
「学食なら、あたしもつき合うわよ」
「じゃ、オレも学食でいいや」
周りで俺と名雪の会話を聞いていたらしい何人かが、口々に学食遠征部隊参加への名乗りを上げる。
ひーのふのみのよーと頭数を指折り数えてゆくと、遠征隊は俺を含めて八人といつの間にやらすっかり大所帯となっていた。
何か集団登校みたいだな……生徒で溢れる廊下を、ぞろぞろと学食へと向かって歩きながら俺は、ふとそんなことを思ったりしてしまう。
「ここが、学食」
校舎の端と渡り廊下で繋がった別棟に、学食はあった。
天井の高い大きなホール然としたその場所には、いままでどこに隠れていたのだろうかと思えるくらいの、有象無象の生徒たちで溢れ返っていた。
その人だかりに調子を合わせるように、騒々しさもかなりのものだ。
見れば女生徒の中には、名雪や香里と同じ胸元に赤いリボン以外に、青や緑のリボンを結んでいる姿も数多く見受けられる。
多分別の学年――一年生と三年生なのだろう。
「この人数だと、全員でひとつの場所は無理ね」
入り口近くから中を睥睨していた香里が、困ったように口を開く。
空いている席はいくつかあったけれど、彼女の言う通りどれも虫食いのように二つか三つの空席が繋がっているばかりで、二桁にならんとする俺たち全員がひとつところに座れるだけの隙間は、どこにもなかった。
「スタートダッシュが遅れたのが致命的だったな」
「仕方ないわね。ここからは、バラバラに行動しましょうか」
懸命な判断だった。
同意の意味を込めて全員が、無言で頷く。
「名雪と相沢君は一緒に行動するとして……」
思案に暮れるようにあごに指を当てながらちらりと、俺の方に目を向けてそう言葉を紡ぐ香里。
同時に彼女の言葉に何の疑問もない様子で、俺以外の全員がまた頷く。
どうしてそこまで、きっぱりと断言できるのだろう。
加えて、どうしてそれに誰もが何の疑問を差し挟むこともなく無言で同意するのだろう。
どことなく、居心地の悪いものを感じずにはいられなかった。
「あたしも名雪たちと一緒でいいわ」
「だったらオレも美坂チームでいいぞ」
香里の判断に追随するように、北川が香里の言葉を継ぐ。
何故に……チーム?
疑問は深まるばかりだったが、考えたらそれで別段俺が不利益を被る訳でもなかったので、何だかんだで俺は香里の言葉に従うことにした。
結局組分けは、美坂チーム(四人)と、もうひとつのチーム(四人)に別れて座ることになった。
「……あ、ここ四人分空いてるよ」
めざとく空席を見つけたらしい名雪がそういいながら、空いたばかりの席を指差す。
「よし。オレが場所取っておくから、代わりにオレの分も買ってきてくれな」
椅子のひとつに座りながら、北川が言う。
「了解。何がいい?」
「親子丼」
「もうひとりくらい、場所とりに残っててもいいんじゃないか?」
三人以上の席取りに際しての基本は、対角線を抑え込むことだ。
何故ならひとりきりだと、最悪三人の別集団に襲われた時にひとたまりもないからだ。
その意味で北川の提案は、合理的かつ適切なものだった。
「だったら名雪、お願いね」
「え、わたしも取りに行くよ……」
「ダメよ。あんたは要領悪いから、普通の人の七倍は時間がかかるんだから」
七倍という、妙に具体的な数字が香里の口から出てくる。
「うー……いいよ、留守番してるもん」
不満そうな声を上げながら、でも香里の言葉に名雪が反論しないところをみると、どうやらそれは事実らしかった。
「名雪は注文なんにする?」
「わたし、Aランチ」
「……また?」
名雪の注文を聞いて、香里が眉をひそめる。
それは困っているというより、どちらかといえば呆れているといった印象を強く感じさせる表情だった。
実際、香里の口から次に出てきたのは、俺が予想した通りの言葉だった。
「あんた、学食来るといっつもAランチね」
「うん、好きだから」
嬉しそうに頷く名雪。
「たまには違うの頼みなさいって」
「学食はたまにしか来ないから、大丈夫だよ」
「まぁ、いいけどね……」
この二日で、すっかり聞き慣れた香里の口癖。
少し突き放したような、でもだからといって相手のことを頭から否定している訳でもない、どこか曖昧な物言い。
人によってはそれを「大人びた」と評するのかもしれなかったが、香里には確かにそういった物言いがよく似合っていると、俺には思えた。
名雪との会話を切り上げ、俺の方に向き直った香里は、
「それじゃ、行きましょうか相沢君」
「ここってどうやって買うんだ?」
「大丈夫よ。これからあたしが、この学食での戦い方を教えてあげるから」
そう言ってくすりと、悪戯っぽく眼を細めてみせる。
頼もしいというよりは、どちらかと言えば物騒な台詞だった。
慣れた足取りで人混みをすり抜けながら歩いてゆく香里の後について、俺は大小さまざまな大きさの人波でごったがえす、カウンターへと向かう。
「ここで食券を買うのよ」
券売機の前で、バスガイドが名所案内をするが如き態度を示す香里。
どうやらこの辺のシステムは、どこに行ってもそう変わるものではないのか、前の学校と同じだった。
「おう。それじゃ早速親子丼と、俺はカツカレーでいいかな」
「じゃあたしは名雪の分のAランチと……」
お互い必要な食券を買い求め、そして次のステップに移る。
横長のカウンターの上に貼られた「ランチ」「カレー」「パスタ」といったプレートの表示に従って長く延びる列に並び、大人しく順番を待つ。
「なぁ、香里」
「なに?」
「あそこの人だかりは何だ?」
言いながら俺が指差した先、食堂の一角はどう見ても無秩序な黒山の人だかりが出来ていた。
カウンターのある場所からは離れているから、俺たちとは求めるものが違う集団なのだろうけど……。
「ああ、あれね」
うんうんと、香里は楽しげな様子で頷く。
「あれは、パンを買う集団よ」
「パン?」
「ええ。こっちと違って、あそこは力だけが支配する混沌の世界だから、自然とああなっちゃうのよね」
なるほど、言われてみれば連中の何人かは、手に総菜パンらしい細長い何かを握り締めている。
怒声と悲鳴、混乱と破局。
うーむ、恐ろしい世界だ。
遠からず、自分もあの渦中に飛び込まなくてはならない日が来るだろうことを予想しながら、俺は内心でそんな感慨を抱かずにはいられなかった。
「ほら次、相沢君の番よ」
いつの間に順番が進んだのか、ランチのトレイを手にした香里がカウンターの方を目で示していた。
「え? あ、ああ……」
彼女の言葉に促された俺は、慌てて握り締めていた食券をカウンターへと差し出した。
§
「あたし、Aランチのメニューは全部暗記してる自信があるわ……」
満足そうに「お腹いっぱい……」と感想を述べる名雪を前に、ため息混じりに言葉を紡ぐ香里。
そんなふたりの会話を、俺は苦笑混じりに聞いていた。
名雪がAランチを好む理由は、すぐに分かった。
どうやらここのAランチには、他のメニューにはついてこないデザートのイチゴのムースついてくるらしく、つまり名雪はそれを目当てにしていたのだ。
ちなみに俺が食べたカツカレーも、味はなかなかのものだった。
これだったら、今後順を追って食べていくことになるだろう他のメニューに関しても、それほど不安を抱く必要は無さそうに思えた。
「あたしは、ちょっと部室に寄ってから戻るわ」
教室へ戻る途中、不意に立ち止まった香里がそう口を開く。
「わたし、待ってるよ」
「別に待ってなくていいわよ」
「俺は先に帰ってるぞ」
待っていたからといってどうなるものでもないだろうと、努めて冷静な判断を下した俺は、肩越しに振り返りながら言葉を返す。
「ほら、名雪も先に戻ってなさい」
俺の言葉を首肯するように香里は、微笑みを浮かべながら背中を押して、名雪に先に戻るよう促す。
「……うん、分かったよ」
「じゃ、また後でね」
小さく手を振って、香里は廊下の角を曲がっていった。
その姿を見送ってから俺は名雪とふたり、教室へと戻るべく改めて廊下を歩き出す。
「おいしかったね」
肩を並べて歩くうち、名雪が俺の方に瞳を向けながら同意を求めるように問いかけてくる。
「そうだな……」
少なくとも、前の学校の学食よりはうまかったと思う。
あの混雑がもう少し緩和されてくれれば、それはそれでより一層いいと思うのだが、まぁ贅沢は敵だ。
「…………」
「……名雪?」
いつの間にか、すぐ横にいたはずの名雪の姿が消えていた。
もしかして、また寝てるのか。
ここ数日で、俺もすっかり名雪のペースに巻き込まれてしまったのか、一瞬そんな間抜けな想像が脳裏をよぎる。
慌てて辺りを見回すと、求める姿はすぐに見つかった。
思ったより近くに、彼女はいた。
数メートルほど離れた廊下の窓際に立ち止まっていた名雪は、そして窓の外をじっと見つめている。
「寝てるのか?」
「起きてるよ……」
「どうしたんだ、名雪?」
小首を傾げながら訊ねかける。
「……外、寒いよね」
「そりゃ、これだけ雪が積もってるんだから」
「……あの子、何してるんだろうね」
「あの子?」
視線を名雪の顔から、窓の外へと移す。
名雪の見つめる先。
結露しているせいで視界の効かない窓ガラスの向こう側に、うっすらと浮かび上がる人影を見て取ることができた。
「……寒くないのかな?」
訝しげな様子で首を傾げる名雪の前に身を乗り出した俺は、制服の裾で細かな水滴に埋め尽くされた窓を拭う。
「祐一、汚い」
名雪の非難の声を無視して、改めて彼女が見ていた視線の先を確認する。
中庭、というより校舎の裏側。
真冬のこの季節、雪が降り積もるばかりでほとんど誰も足を踏み入れることなどないだろう場所。
そんな一面の銀世界の中に、少女がぽつんとひとり立ち尽くしていた。
「誰かな? あんなところで何してるのかな?」
「……多分風邪で学校を休んでいるにも関わらず、こっそり家を抜け出してきたこの学校の一年生だろう」
俺の必要以上に具体的な説明に、ちょっとびっくりしたように名雪が問いかけてくる。
「祐一、知ってる人?」
「……俺、ちょっと行ってくる」
そう言い置いて、名雪の側を離れる。
ええと、ここからだと校舎裏にはどうやって行けばいいのかな。
未だ全貌を把握したとは言えない校舎の構造を頭の中で思い描きながら、昨日辿り着いた鉄製の扉へと辿り着くためのルートを模索する。
「えっ?」
「名雪は先に戻ってていいぞ」
「どこに行くの?」
「外っ」
肩越しに、それだけを言い放つ。
「気をつけてね〜」
のどかに手を振る名雪。
そんな彼女に後ろ手で返事をしながら、俺は中庭に向かうべく生徒の溢れる廊下を走り続けた。
§
「栞」
真っ白な雪。
白一色に満たされた世界。
人気の絶えて久しい、もの悲しさすら感じさせるようなその場所に、ひとり佇んでいた少女。
昨日見知ったばかりのその名を、俺は口にする。
まだ言い慣れてないせいだろうか、その名を口にした途端、ほんの少しだけ照れ臭さのようなものを覚えてしまう。
「はい?」
小首を傾げる少女。
「いますぐ帰れ」
「わっ。いきなりひどいです」
落ち着いた声音で、これっぽっちも驚いた様子も見せることなく、驚きの言葉を発する栞。
そんな彼女を前に俺は、
「栞のためを思って言ってるんだ」
ため息混じりにそれだけを返す。
実際冗談抜きで、それは彼女の身体――何日も学校を休まなければならないほどの風邪を引いているらしい――を気遣っての言葉のつもりだった。
「私は大丈夫です。こう見えても暇ですから」
でも彼女は、にっこりと口許を緩めながら、かなりピントのズレた返事を口にしてみせる。
再びため息。
「冗談です」
そんな俺をよそに、そう言ってにこっと微笑む。
「祐一さんがひどいことを言うので、ちょっと遠回しに嫌がってみました」
「それで、なにしに来たんだ?」
「祐一さんとお話しするために来ました」
朗らかな表情。
穏やかな声音。
本当にそうなのかもしれない……一瞬、そう信じてしまいそうになるほどに、それはごく自然な感じで彼女の口から紡ぎ出された。
でも、それは多分嘘だ。
出会ってからまだ幾日も経っていない俺なんかに会うために、わざわざこんな場所で待っているなんて、どう考えても変だった。
そもそも俺に会うためと言いながら、どうしてこんな場所で待っていなくてはならないのか。
俺がここに来る保証なんて、どこにも無いというのに。
もし今日、学食に行かなかったら?
もし俺が、香里が部室に行くのにつき合っていたら?
もし名雪が、窓の外に栞の姿を見出して立ち止まらなかったら?
つまりはそういうことだ。
昼休みに入ってからの十何分かの間に下した、幾つもの可能性と僥倖の上に俺は、いまここにいる。
だからこそ思う。
彼女が待っていたのは、少なくとも俺なんかじゃないと。
栞が待っていたのは、この場所に足を踏み入れてくれるかもしれない、そして彼女の存在に気付いてくれるかもしれない「誰か」なのだ。
そして今日は、その「誰か」がたまたま俺に過ぎなかったのだろう。
「また冗談だろ?」
「今度はホントにホントです」
「…………」
「あ。その顔は信じてないですね」
黙り込んでしまった俺に、栞は訝しげな表情を浮かべながら上目遣いにこちらを見上げてくる。
「そんなことはないけど……」
どこまでも真っ直ぐなその視線に気圧されるように俺は、思わずついと目を逸らしてしまう。
そんな俺の反応を見て、栞はどこか寂しげな口調で、
「私、祐一さんと話をしたかったんです」
まるで自分に言い聞かせるように、ぽつりと言葉を紡ぐ。
視線を戻すと、俯いてしまったせいで彼女がいまどんな表情を浮かべているのかまでは、俺の位置からでは分からなかった。
そして、彼女の後頭部を見据えながら思う。
本当に不思議な女の子だな、と。
言葉を交わせば交わすほどに、俺の中で彼女に対して抱いていた先入観が、どんどん覆されてゆくのだ。
最初の出会い。
並木道で、枝から落ちた雪にまみれた彼女。
何が起こったのかすら理解できない様子で、ぽかんと俺たちの方を見つめるばかりだった双瞳。
そして……まるで何かに怯えているかのような表情。
でもいま、栞はその片鱗を微塵も見せることなく、微笑みを宿しながら俺の前に佇んでいる。
一体どちらが、この子の本当の姿なんだろうか。
穏やかな笑顔。
怯えた表情。
その両方が脳裏に思い浮かび、そしてひとつに重なることのないまま、俺の中でぐるぐると円舞を踊り続けていた。
「どうしたんですか。複雑な顔をしてますけど?」
すぐ側で声。
意識を現実に引き戻すと、いつの間にか表情に穏やかな笑みを取り戻した栞が、小首を傾げながら俺の顔をのぞき込んできていた。
慌てて身体を引きながら「いや、何でもない」と、そう答える。
その曖昧な返答に、栞は納得したのかしていないのか分かりかねる様子でぴょんと一歩後ろに飛んで見せると、
「あの、祐一さん?」
何ごともなかったように、俺の名を口にした。
「なんだ?」
「雪、好きですか?」
紡がれた一言。
唐突ともいえる問いかけ。
そしてその唐突さが故に、咄嗟に返す言葉が見つからなくてそのまま黙り込んでしまう俺。
「…………」
「…………」
「…………」
「冷たいから、嫌いだな」
たっぷり数秒の間を置いて、ようやくのことで口から紡ぎ出された答えがそれだった。
冷たい雪。
暖かな思い出。
真っ白な雪。
悲しい出来事。
そして赤く染まる……何か。
「なま温かい雪の方が、もっと嫌ですよ」
脳裏で明確な形を結ばないまま、まるでクロスワードのヒントのようにとりとめなく言葉の列が踊っていた。
その波に覆い被さるように、栞の声が重なる。
改めて、目の前の栞を見る。
彼女は羽織ったストールの裾を両手で握り締めながら、とても病身とは思えない軽やかな動作でくるりとその場で一回転してみせる。
「私は好きですよ。雪」
そのまましゃがみ込んだ栞は、何を思ってか手のひらで撫でるように足下の降り積もった雪を集め始め、
「だって、綺麗ですから」
俯いたまま、小さな声でそう呟いた。
そんな彼女が、雪に負けないくらいの白い手で小さな雪玉を作ってゆく姿を、俺は言葉なくその場に立ちつくして見つめ続けていた。
§
校舎と、そして青空に囲まれた中庭の空気を震わせる電子音。
昼休みの終わり。
それは休みの始まりを告げたときと同じ音色だったにも関わらず、でも俺の耳にはどこか寂しげなものに感じられた。
「……あ」
雪合戦をするために作った雪玉を手にしながら、栞が声を発する。
未だ鳴り響いているチャイムの音色にかき消されてしまいそうな程の、それはとても小さな声。
舞踏会が始まる前に魔法の切れる時が来てしまったことを告げられた、シンデレラの呟き。
俺の耳は、それを確かに聞き取っていた。
鐘の音はかすかな残響を残しながら消えてゆき、やがて世界には静寂が戻ってくる。
その中を、ゆっくりとした動作で立ち上がる栞。
「終わっちゃいましたね……」
顔を上げ、俺に視線を向けながら口を開く。
まるで祭の終わりを告げられた子供のようなどこか残念そうな、そして寂しそうな口調。
「そうだな……」
「一生懸命作ったんですけど、無理でした」
ぽつりぽつりと言葉を紡ぎ出しながら、足元に並べられた九つの雪玉に視線を落とす。
それは楽しかった時間の残滓。
同時に、決して現実になることのなかった可能性の欠片。
「ごめんなさいです」
そう言って微笑む表情は、でもどこか寂しげなものだった
「じゃあ、これで解散だな……」
「はい。帰ります」
頷く栞。
でもその時には、たったいままで見え隠れさせていたはずの寂しげな色は、彼女の表情のどこからも消え失せていた。
そこにはただ、穏やかな微笑みがあるばかりだった。
「俺も急がないと、五時間目が遅刻になるな……」
教室に戻る生徒たちで賑わっているだろう校舎の方を降り仰ぎながら、ぼやくように呟く俺。
さっき鳴ったのは予鈴だったから、本鈴まであと五分は時間があるはずだ。
すぐ先にある鉄製のドアを潜って校舎に戻り、廊下と階段を駆け抜けて教室にまでたどり着くには十分すぎるほどの時間だった。
そう言えば名雪は、先に教室に戻ったのだろうか。
普通なら、予鈴が鳴っているのだから俺のことなんか放っておいて先に行ってしまうところだったが、あいつのことだからそんなことはお構いなしに待ってくれているような、そんな気がする。
とすると……。
遅刻ぎりぎりで教室に入ってきた俺たちを前に、呆れた表情を浮かべる香里の姿が、脳裏にありありと思い浮かんできてしまう。
やれやれ――内心でそんな呟きを漏らしかけたその時だった。
何の前触れもなく頭の片隅で、何かがぱちんと閃くように小さな音を立てて弾けたのは。
「……あ」
そしてようやく思い至る。
二日前、彼女の名前を知ったときから、ずっと引っかかっていたもやもやが何だったのかを。
「美坂香里」
「え?」
俺が口にしたその名を耳にして、たったいままで朗らかな色を浮かべていたはずの栞の表情が、見た目にも固いものに変わる。
「同じだよな、名字……」
これが田中とか佐藤とかなら偶然ということもあるかもしれないが、美坂なんてそうどこにでもある名字じゃないはずだ。
それに「栞」と「香里」
字にすると全然印象が違ったけど、改めてそれを口にしてみるとちゃんと韻を踏んでいた。
ここまで条件が揃えば、考えられる答えはひとつ。
「…………」
相変わらず驚いたような困ったような、そんな色を顔に浮かべたまま、俺の次の言葉を待つように黙り込む栞。
一瞬間を置いてから、そして俺は核心ともいえる問いかけを口にする。
「もしかして、香里の妹か?」
「……えっと」
俯き加減に、栞は口ごもる。
そんな彼女の姿に、ちょっとした悪戯心を刺激された俺は、口許を微かに緩めながら、
「それか、弟」
「本気で怒りますよ」
軽い冗談のつもりだったのだが、どうやら言われた方はそう受け止めてくれなかったらしい。
口調こそ静かなものの、でも目がマジだった。
「じょ、冗談だって」
慌てて俺は、顔の前で手を振って前言を撤回する。
それでようやく機嫌を直してくれたらしく表情を緩めた栞は、一度だけ小さくため息をつくと、
「……お姉ちゃんを知っているんですか?」
上目遣いに、おそるおそるといった感じで訊ね返してくる。
根拠のない確信に似た思いはあったものの……でもどうやら、本当に香里の妹だったらしい。
「ああ。偶然だけど同じクラスだ」
頷く俺。
「そうですか……」
複雑な表情を浮かべて曖昧に言葉を濁しながら、栞はゆっくりとした動きで俺に背中を向けながら頭上にある空を見上げる。
冬らしい、凛とした蒼さに満たされた空。
降り注ぐ陽射しはどこか弱々しく、外気に触れる肌は痛いくらいの冷たさを感じ取り続けていた。
「もしかして、香里に用があって来たのか?」
昨日、この場所で初めて栞と会った時にかけた言葉を思い出す。
――誰に会いに来たんだ?
もしかしたらそれは、姉である香里だったのだろうか。
仮にそうだとして、でも何故学校なのだろう。
姉妹なら、同じ家に住んでいるなら別段わざわざ学校にまで来る必要などないはずだった。
だとしたら、別の誰かなのだろうか。
「いえ……そういう訳ではないです」
俺の思いを首肯するように香里は、視線を校舎の屋上――空と大地の境界線に向けたまま、微かに首を振ってみせる。
何かをためらうような、ゆっくりとした口調。
背中を向けているせいで、彼女の表情までは分からなかった。
「さぁて、いい加減そろそろ戻らないとな」
いつの間にか沈鬱となってしまった空気を振り払うように、努めて明るい口調を装いながら俺は話題を切り替える。
俺のその意図を察してくれたように、栞もくるりと身を翻しながら俺に向き直ると、
「そうですね……残念ですけど」
微笑みを浮かべながら、言葉を返してくる。
「ひとりで帰れるか?」
「帰れますっ。子供じゃないですから……」
ぷっと、頬を膨らませながら非難の意を示す栞。
年相応の、だからこそ可愛らしいと素直に思うことができる、そんな仕草だった。
「そうか? 雪だるまも雪合戦も充分子供っぽいと思うけどな」
「……そんなこと言う人、嫌いです」
膨れた表情のまま、くるりとまた背中を向けてしまう。
彼女のそんな態度に俺は、つい口許が緩んできてしまうのを抑えることができなかった。
時間にしてほんの数秒、ようやく表情から笑いを消すと、
「いいか、家で寝てるのが寂しい気持ちは分かるけど、ちゃんと安静にしてないと治るものも治らないぞ」
相変わらず明後日を向いたままの栞に、そう言葉をかける。
「……そうですね」
小さく頷きながら、俺のいる方へと顔を向ける栞。
そして、ゆっくりと次の言葉を口にする。
「祐一さん」
「なんだ?」
小首を傾げる俺。
「約束……ですよ」
俯き加減な、囁くような小さな声。
「病気が治ったら、雪だるま作ってくれるって……」
雪だるま。
雪合戦。
どれも子供の頃、雪が積もるたびにしていたはずの遊び。
そう言えば……ふと何日か前に名雪が、かまくらを作ろうとか言っていたことを思い出す。
みんな同じなのだ。
大好きな雪の中で、大好きな人たちと、大好きな遊びに興じる。
それはとても楽しいことなのだろう。
いや、楽しいに違いなかった。
「ああ……約束だ」
だから俺は、栞の言葉に頷き返す。
「はいっ」
そして彼女の顔に浮かぶ見るからに嬉しそうな、眩しいくらいの輝きに満ちた笑顔。
多分、今日一番の笑顔だった。
「今日は楽しかったです」
「そうか……?」
「はい、とっても楽しかったです。ありがとうございました」
その場でふかぶかとお辞儀をして、そして正門のある方へと向かって雪面を歩いていく。
少しずつ小さくなってゆく姿。
まるで、雪の中に溶けてゆくように。
陽光を受けて溶けだした雪の発する水蒸気の中を、こちらを振り返ることなく真っ直ぐに歩いてゆく栞。
一瞬、声を掛けたい衝動に駆られる。
何故だかは分からなかった。
でもそれはほんの一瞬のことで、結局俺は栞の姿が見えなくなるまで無言で、その場に立ちつくすばかりだった。
「……俺もそろそろ戻らないとな」
いい加減、本鈴が鳴ってもよい頃合いだ。
意識を、栞から睡魔との戦いになるだろう午後の授業へと移しながら、校舎の中へと戻るべく、俺もその場を後にした。
§
校舎の中に戻ると、予想通りというか別れた時と同じ廊下の窓際で、名雪が俺の帰りを待っていた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
廊下のただ中で口にするには少し変かもしれない挨拶を、でも俺たちはごくごく普通の素振りで交わした。
そしてそのまま、何ごともなかったように教室へ向かって歩き出す。
「祐一、あの子と知り合い?」
と思ったのは、残念ながら俺だけだったらしい。
俺に向かって少し身体を乗り出すように、いきなり核心とも言える質問を口にする名雪。
相変わらずどこかぼーっとした物腰で、でも俺に向けられた瞳だけは微かな好奇心に輝かせるその姿を前に思う。
名雪は知っているのだろうか。
香里に妹がいることを。
そしてその妹が、栞であることを。
「名雪は知ってるのか?」
内心に浮かぶ、そんなとりとめのない疑問に対する確認の意味も込めて、俺は質問に質問で返す。
でも名雪は、いともあっさりと首を振ると、
「ううん、知らない女の子だよ」
俺の見る限り、嘘を言ってる風ではなかった。
それに誰が見ても隠し事の下手そうな名雪の嘘など、嘘と出任せと口八丁に関して百戦錬磨の俺の腕をもってすれば、五秒で見抜く自信があった。
そこまで思ったところで、ふと気がつく。
大体、もし名雪が栞のことを知っていて、そもそもどうしてそのことを俺に隠す必要があるというのか。
なら、やっぱり名雪は本当に栞のことを知らないに違いなかった。
「そうか……」
曖昧に呟く俺。
そしてそんな俺の反応に、小首を傾げてみせる名雪。
「ね、誰なの?」
「秘密」
とりあえずは、そう言っておくしかなかった。
実際のところ秘密というよりは、俺自身いまひとつ状況を把握し切れていないだけだった。
「わっ。余計気になるよっ」
なおも続く名雪の追求の言葉を聞き流しながら、俺は考える。
栞のことを。
そして、香里のことを。
香里は知っているのだろうか。
妹の栞が、風邪で学校を休んでいるはずの彼女が誰もいない中庭で、まるで誰かを待っているかのようにひとり佇んでいることを。
悲しげな色。
寂しげな色。
辛そうな色。
俺に向かって明るい笑顔を浮かべ続ける栞が、時折ちらりと垣間見せるどこか痛々しい表情が、脳裏に思い描かれる。
そして、それに重なるように浮かび上がる香里の姿。
転校初日の朝、初めて会った香里がほんの一瞬だけ浮かべて見せた、翳りにも似た何か。
何かが引っかかっていた。
でもその答えは、俺の中のどこからも見出すことができなかった。
結局のところ、香里に直接訊いてみるしかないのだろう。
もし、そんな機会があればの話だが。
「無言で歩いていかないで〜」
背中を追いかけてくる名雪のその声に、ようやく内面の思考から現実へと引き戻される俺。
「ん? 何か言ったか、名雪」
「……もういいよ。教室にも着いちゃったし」
確かに、いつの間に辿り着いたのか俺の目の前には教室へと続く扉が、行く手を遮っていた。
拗ねたようにぷっと頬を膨らませながら、名雪は扉を開ける。
その後を俺は、口元を少しだけ緩めて苦笑いを浮かべながら、教室の中に足を踏み入れた。