ふと人の気配を感じ、視線を右手へと巡らせる。
流れる視界。
そして再び静止画となった世界のさ中に、いつの間に現れたのかよく見知った顔がひとつ、言葉なくじっとこちらを見つめていた。
「ひたいよ〜、ゆういひ〜っ」
馬鹿なことを言った罰として、両手で頬をつねられたままの名雪が舌足らずな日本語で非難の声を上げていたが、すぐに俺の視線が自分の方を向いていないことに気付いたらしい。
ようやく戒めから逃れた名雪は、両頬を手で押さえながら、
「あ……かおり」
そう、前置きなしに唐突に姿を現した親友の名を口にする。
「…………」
返事は無かった。
相変わらずの沈黙を守ったまま、香里はただじっと俺と名雪のことを見据え続けるばかり。
「何やってるの……?」
彼女の口から今日初めての言葉が紡がれたのは、それからたっぷり五秒は経ってからのことだった。
抑揚のあまり感じられない、冷静な声音。
そしてその声に歩調を合わせるように、表情にも感情らしきものが殆ど見受けられなかった。
名雪の側から一歩離れた俺は、
「何をやってるように見える?」
「……仲がいいわね」
即座に、躊躇なく戻ってくる返事。
声も表情も、相も変わらず平静さを保ったまま。
何というか……感情と意志を微塵も感じさせないその態度が、無言の詰難を受けているようで、気圧されるような思いを抱いてしまう。
「わっ、そんなんじゃないよ」
香里の言葉に先に反応を見せたのは、名雪の方だった。
こちらは見事なまでに無機質な香里とは対照的に、ぶるぶると髪の毛を従えるように首を振って、大仰なくらいのオーバーアクションを見せている。
おっとりした言動の多い名雪にしては、珍しい反応だった。
「わたし、いじめられてたんだよっ」
「ふーん……」
ちらりと、何か言いたげな様子で俺の方に目を向けながら呟く香里。
どうやら名雪の懸命の反論は、香里に対しては全くと言っていいほど説得力を持っていないようだった。
「そ、それよりも、どうして香里がこんな所にいるんだ?」
とりあえずこれ以上この話題に深入りしたくなかった俺は、口ごもらせながら半ば強引に話題の転換を図る。
幸か不幸か、香里もそれ以上突っ込むつもりはなかったのだろう、初めて表情に感情の欠片――どこか呆れたような――を浮かべると、ため息混じりに言葉を紡ぎ出す。
「何言ってるの、あたしだって通学くらいするわよ」
「なんだ。香里って、俺たちと同じ通学路だったのか?」
「途中からだけどね」
「昔はね、一緒に通ってたんだよ」
ようやくつねられた頬の痛みも治まったのか、すっかりいつものペースに戻った名雪が横から口を挟む。
わざわざ「昔」と前置きをしているということは、逆に言えばいまはそうじゃないということだ。
理由は……何となく察しがついた。
「一週間で挫折したけどね」
俺のその想像を首肯するように、紡がれる言葉。
そしてどこか疲れたような色を浮かべながら、小さくため息を漏らす。
いまの香里の脳裏には、間違いなくその当時のことが思い出されているに違いなかった。
その気持ち……痛いほどよく分かるぞ。
この何日か、毎朝繰り広げられてきた朝のどたばたを思い起こしながら、いまの俺と同じ艱難辛苦を余儀なくされただろう香里に、何となく同志的連帯感を抱いてしまう。
ん、待てよ。
楽しげに談笑をしながら前を歩く名雪と香里の後ろ姿を見ているうちに、ふとひとつの事実に思い当たる。
それは、いま目の前に香里がいるという現実。
俺の記憶に間違いがなければ、確か香里は普段俺たちより早くに登校しているはずだった。
その彼女と、今日に限って通学路で出会ったということは……。
「着いたよ」
そこまで思考を巡らせたところで、名雪の声が俺の耳朶を叩いた。
意識を現実に引き戻し、そして顔を上げる。
「おおっ」
思わず、驚きの声を発してしまう。
それもそのはず、いつの間にたどり着いたのか俺の目の前には俺たち同様、登校中の生徒で賑わう校門があった。
「名雪、時間は?」
「えっと……わ、まだ十分もあるよ」
俺の声に慌てて腕時計をのぞき込んだ名雪は、そして相変わらずのあまり驚いた様子もなく驚きの声を発して見せた。
「奇跡だな」
満足げに頷きながら、俺は名雪に話しかける。
「そうだね」
同様に、嬉しそうに頷き返す名雪。
しかし今日の勝因は、果たしてどこにあったのだろう。
明日以降の貴重な戦訓とするべく、目を覚ましてから以後の出来事を俺は脳裏で順に追ってみる。
結論に達するのは、あっという間だった。
何のことはない、今日俺たちが余裕を持って家を出られたのは、名雪が昨日より早く起きてきたからに過ぎなかった。
スタートが早いのだから、ゴールが早いのはある意味当然といえば当然の結果には違いなのだが……。
「あんたたちの会話を聞いてると、奇跡が安っぽいものに思えてくるわ……」
いとも容易く見出された結論に、我ながら釈然としないものを感じていた俺に追い打ちをかけるように、傍らから放たれる声。
見れば数メートルほど先に行ったところにいた香里が、肩越しに視線だけをこちらに向けていた。
「そうか? 俺たちがこれだけ余裕を持って登校できるなんて、まさに奇跡じゃないか」
深く考えて口にした訳ではない、半分混じりの言葉。
脳裏で「……そうね」と、そんな香里の返答がため息混じりに戻ってくるのを期待して。
それが俺たちにとっての日常だと、少なくとも俺はそう思っていたから。
でも……。
「相沢君」
すっと流すように視線を逸らしながら、どこか平板な調子の声で香里が俺の名を口にする。
感情の存在を微塵も感じられない、そんな声。
そして一瞬の間を置いてから、
「奇跡ってね……そんな簡単に起こるものじゃないのよ」
それだけを言い放つと、空を見上げる。
冷たい声。
同時に、まるで何かを頑なに拒んでいるかのような、そんな強い意思を感じさせる声。
どこかで見た姿。
心の奥底で、何かがちくりと刺激される。
知っているような。
覚えているような。
でもそれは曖昧模糊とした、言葉にし難い不定型なものとして俺の中を漂うばかりで、やがてそのまま消えていってしまった。
「……?」
「冗談よ、さ、行きましょうか」
訝しげな表情を浮かべる俺に、再び肩越しに俺の方に顔を向けた香里が、口許に見慣れた微かな笑みを浮かべながら言葉を紡ぐ。
そして俺からの返答を待つことなく、そのまま校舎に向かってすたすたと歩き出してしまった。
取り残された形になってしまった、俺と名雪。
事態を把握できないまま互いに顔を合わせて首を傾げた俺たちは、慌てて香里の後を追う。
「なぁ、名雪?」
少し遅れて昇降口に入ってから、少し離れた場所にいる香里には聞こえないように、小声で名雪に話しかける。
「うん?」
「今日の香里、もしかして機嫌悪いか?」
「そうみたいだね……」
少し寂しそうな様子で、頷く名雪。
「何でだろう……」
「そんなの分からないよ……」
どこか、途方に暮れたような声音。
つき合いの長いはずの名雪が首を傾げているのだから、まだ数日しかつき合いのない俺に、そんな香里の心の機微など分かるはずもなかった。
§
「掃除、掃除っ」
適当なリズムに乗せて適当な歌詞を口ずさみながら、教卓の前で名雪が黒板消しと終わり無き格闘を繰り広げていた。
それは休み時間になれば、どこの教室でも――妙な歌を歌いながら、の部分を除くけばだが――普通に見られるだろう光景。
昼飯を一回おごられる約束で、流行性感冒で休んでいるらしい名雪の日直の相方の代理を勤めることと相成った俺は、とりあえず日誌を書くべくシャーペンを手にしていた。
「さて……」
幾何学的かつ無味乾燥な罫線に囲まれたページの必要な場所に、日付、曜日、天気と思いつくままに書き込んでゆく。
ここまでは順調だった。
しかし一時間目の項目のところで、ぴたりと手が止まってしまう。
「……一時間目?」
そう言えば、さっきの授業は何をやっていたのだろう。
転校間もない俺なんかにはどうせよく分からないだろうとばかりに、授業なんて殆ど聞いてなどいなかった俺に、一体どうしろと言うのか。
一瞬どうしたものかと、途方に暮れてしまう。
名雪はと見れば、未だ黒板消しと己が命をかけた死闘のまっただ中だった。
おおっ、黒板消しの全身が血に染まっている。
……冗談だけど。
などと心の中だけでひとりボケを続けながら、別に無理をしていま、俺がこれを書く必要など無いだろう事実に思い至った俺だったのが、何となく途中で放り出すのもしゃくに思えた。
ということで第二の助力者を求めて、背後を振り返る。
朝の一件以来、彼女とはまだ一度も言葉を交わせていないのだが、幾らなんでもあれから多少は機嫌も良くなっているに違いない。
そんな求める姿は、斜めすぐ後ろの自分の席にいた。
机にあご肘をつきながら彼女――香里は、何か物思いに耽るように窓の外に広がる景色に目をやっていた。
「…………」
声をかけようと思ったはずなのに、でもそれすらも忘れて俺は、魅入られたように彼女の横顔をぼんやりと見つめ続ける。
その時、俺の視線に気付いたのだろう、香里の顔がゆっくりとこちらに向けられる。
ゆっくりと紡がれる言葉。
「相沢君、何か用?」
「え? あ、ああ」
いつの間にか、本来の目的をすっかり忘れてしまっていた俺。
口許に微かに笑みを宿しながら俺を見据えるふたつの瞳に、どうしてか心臓がどきりと高鳴ってしまう。
「美人が物憂げに窓の外を眺めてるのって、絵になるなって思ってたんだ」
だからつい、照れ隠しのようにそんなおちゃらけた反応をしてしまう。
「そうね。相沢君じゃ、多分似合わないわね」
「大きなお世話だ」
「でも、そう言えば……」
不意に何かを思い出したかのように、少しだけ遠い目をしながら香里が言葉を紡ぐ。
「授業中とか、よく窓の外を見てるわね、相沢君」
「それは……」
お前の妹のせいだ、と言いかけたところで言葉を切ってしまう。
そして思い出す。
中庭にひとり佇む、栞の姿を。
そして彼女がどうやら香里の妹らしいと知ったとき、胸中に抱いた小さな疑問のことを。
香里は、果たして知っているのだろうか。
風邪で学校を休んでいるはずの妹が家を抜け出し、連日のように学校の中庭で誰かを待ち続けるようにひとり佇んでいることを。
知りたくない、といえば嘘だった。
でもどうしてか、いまそのことを口にすることは憚られた。
「……いや、何でもない」
幾ばくかの逡巡の後、俺の口から突いて出てきたのは、そんな曖昧な言葉だけだった。
「言いかけて、途中でやめないでよ」
ぴくりと眉根を寄せながら、不満そうに言いつのる香里。
「そんな大した理由じゃないんだ」
「すっごく気になるんだけど」
確かに、少し思わせぶりが過ぎたかもしれない。
もし俺が香里の立場だったら、それなりの答えを聞くまでは納得できないように思えた。
仕方がない。
未だ多少の躊躇はあったが、やはり香里に栞のことを訊ねてみることにした。
「あのさ、香里……」
「なぁに?」
「栞が毎日学校に来てるって、お前知ってたか?」
「…………」
無言。
無音。
無反応。
喧噪に満ち溢れた教室の中で、俺と彼女の間だけからそれらが一気に失われてしまったようだった。
頭の片隅が、ちりちりと痺れるような感覚。
「……栞って、誰?」
呟くような声音が香里の口から漏れ出てきたのは、永遠とも思えるそんな一瞬が過ぎ去ってからだった。
「誰って……」
今度は、俺が口を閉ざす番だった。
予想もしなかった返答。
そしてそうであるが故に、俺の思考は混乱を来す。
「聞いたことない名前だけど、相沢君の知り合い?」
「妹じゃないのか」
「妹って、誰の?」
「香里……の」
既に俺の言葉からは、勢いというものが失われていた。
確信から疑念へ。
そして疑念から、新たな確信へ。
内心で、そんな目まぐるしい変転を繰り返す俺に向かって、香里が怪訝な表情で返してくる。
「知らないわ。あたしは、ずっとひとりっ子よ」
「…………」
「どうしたの?」
「いや……何でもない」
「……そう」
それを最後に香里との会話を中断させた俺は正面へと向き直り、もう一度記憶を整理し始める。
栞はあの時、確かに香里のことを「お姉ちゃん」とそう言った。
でも一方の香里は、自分に妹なんていないと答えた。
矛盾する答え。
それが意味するところは、ひとつしかなかった。
どちらかが嘘をついている。
栞が?
香里が?
一体何のために姉でない人間を姉と言い、妹であるはずの人間を妹でないと言う必要があるのだろうか。
その理由が、俺には皆目見当がつかなかった。
そして混乱した意識はそのままに、休み時間の終了を告げるチャイムが、教室の中を鳴り渡る。
顔を上げる。
チャイムの音色を背景に、名雪はまだ黒板消しとの終わりなき死闘を繰り広げていた。
§
食堂の片隅に、生徒たちの誰からもその存在を忘れられたように置かれているクーラーボックスの扉に手をかける。
それを押し開いた途端、程良く暖房の効いた屋内の空気を押し退けるように、凍てつく冷気が白い糸をたなびかせつつ、立ち上っていった。
外気と変わらぬその冷たさに、思わず顔をしかめてしまう俺。
でもすぐに気を取り直すとボックスの中へと手を突っ込み、中からバニラアイスのカップをふたつ、取り出した。
カップを掴んだ手のひらを通して伝わってくる冷たさに、思わず口からため息が吐き出されてしまう。
そして背中に感じる、複数の視線。
好奇の、奇異の眼差し。
理由は言うまでもなかった。
いま、俺が手にしているコレだ。
この真冬の時期に、アイスクリームを食べようとしている物好きがいたら、俺でもそれが一体どんな輩なのか興味を覚えるに違いなかったが、さしあたって一番の問題は、その「物好き」がどうやら俺らしいという点だった。
不必要に注目を集めるのも正直あまり楽しい話ではなかったので、購買のおばちゃんに代金を払うと、そそくさとその場を後にする。
そして人波をすり抜けながら、俺は元来た道を一目散に戻る。
目の前に立ち塞がる、鉄製のドア。
このドアを開けて外に出るのは、これで今日二度目だった。
「…………」
真っ白な世界。
大地も、木々も、そして……空も。
「見なかったことにしよう」
誰に言うでなしに呟きながら、開きかけたドアを閉じる。
「祐一さんっ、何事もなかったように戻らないでくださいっ!」
途端、ドアの向こうの凍りついた世界の側から、女の子のものとおぼしき非難混じりの声が聞こえてくる。
無論のこと、栞の声だった。
ノブを握ったまま小さく諦観のため息をついた俺はドアを開け、そして今度こそ中庭へと足を踏み入れた。
「いや、冗談だ」
純白に染め尽くされた雪原の上で、頭と肩を降り落ちてきた雪をうっすらと積もらせながら上目遣いに俺の方を見つめる栞に、真顔で答える。
「……本当に、冗談ですか?」
小首を傾げた拍子に、頭の上の雪がはらりと舞い落ちる。
「もちろん」
「…………」
「それよりもほれ、昼飯買ってきたぞ」
「ごまかしてませんか?」
俺に対する疑いは、未だ晴れていないらしい。
その態度には、相変わらずどこか訝しげな様子が感じられた。
だから俺は、これ以上ないほどの真面目な顔つきを作って「全然」とそう言いながら、ゆっくりと首を振って見せる。
「それならいいですけど……」
固く結ばれたままだった口がほのかに緩み、それでようやく彼女の顔に笑顔が取り戻された。
差し出された手の上に、買ってきたアイスクリームをふたつ乗せる。
そして見るからに嬉しそうに相好を崩しながら手の中のカップを見つめていた栞は、ふと思い出したように、
「そう言えば祐一さんは、お昼どうするんですか?」
「……しまった」
よく考えたら、食堂では周囲の好奇の目から逃れることばかりばかり考えていて、自分の分を昼食を買うのをすっかり忘れていた。
「ひとつあげますよ」
にこにこと、まるで名雪のように目を細めながら栞が、言われた側にとってはあまり嬉しくない提案を口にする。
微笑む栞。
そして彼女の背後には、先刻より一層その勢いを増しつつある雪が、世界の大半を埋め尽くしていた。
「私は、ひとつで充分ですから」
穏やかに紡がれる言葉と共に差し出される、アイスクリームのカップ。
「俺は……見てるだけで充分だから……」
同時にまるで磁石が反発するように、アイスとのそれ以上の接近を避けるように一歩、後ずさってしまう俺。
寒空の下、これを食ったら確実に腹を壊すだろう予感がした。
「食べないと、お腹すきますよ。本当に食べないんですか?」
「俺はいらないから、栞がふたつとも食べていいぞ」
念押しをするように訊ねかけてくる栞のその言葉に、ゆっくりと首を振りながら俺は丁重に辞退を申し入れる。
「……おいしいですけど」
なおも食い下がる栞。
そうまでして、俺にアイスクリームを食べさせたいのだろうか。
「本当なら食いたかったところだが、実に残念だ」
「表情が、全然残念そうではないですけど」
それはそうだろう。
遠からず訪れたかもしれない、腹痛という名の艱難辛苦を未然に防ぐことができたのだから、ポーカーフェイスを保つにも限度があった。
天気も天気だったのでさすがに屋根のない場所は避け、校舎横のひさしのある位置にまで移動し、そこに腰を下ろす。
風が弱まってきたせいもあったが、ここにいれば少なくとも頭から雪をかぶるという事態だけは回避することができた。
吐き出される白い息と共に、頭上を覆うひさしを見上げる。
しかし無論のこと屋外である現実が変わるはずもなく、制服を通して肌に染み込んでくる寒さは、俺の知る限り過去一番のものだった。
栞は寒くないのだろうか。
ストールを身にまとっているとはいえ、丈の短いスカートのせいで制服姿の俺なんかより、よほど肌の露出の多いだろう彼女のことが気にかかり、ちらりと視線を横に向ける。
「おいしいです……」
相好を崩しながらアイスクリームを食べる栞の姿も、そんな俺の内心の思いが影響しているのか、やはり普段より幾分寒そうに見えた。
そんな俺の視線を、当の栞は垂涎の眼差しとでも思ったのか、
「やっぱり食べますか?」
手中のアイスクリームと俺の顔を交互に見比べながら、口を開いた。
「間に合ってる」
「残念です」
スプーン代わりの木匙を口にくわえながら、本当に残念そうに首を傾げる。
「明日、俺が風邪で休むかも……」
「よく効く風邪薬、教えましょうか? 私、自慢ではないですけど薬には詳しいですよ。色々試しましたから」
「それは、本当に自慢じゃないな……」
「あはは……そうですね」
屈託なく笑う少女。
でもその笑顔の向こう側に、ほんの些細な違和感があった。
香里の言葉。
それが、どうしても引っかかっていた。
「……栞」
「はい?」
アイスクリームを食べる手を止め、こちらに顔を向ける栞。
もしかしたら俺の声音の変化に何かを敏感に感じ取ったのか、顔には微かな微笑みを宿しながら、じっと俺の言葉を待っていた。
刹那の逡巡の後、俺は口を開く。
「今日、香里に妹のことを訊ねたんだ」
「……はい」
香里の名を口にしたところでぴくりと身体を震わせた栞は、かすれるような声で小さく頷く。
また一瞬の間。
そして俺の次なる言葉が、白い息と共に冷え切った空気を震わせる。
「そうしたら、自分はひとりっ子だって言われた」
「…………」
不意に俯き、まるで何かに耐えているかのようにぎゅっと口を閉ざす。
「そう、ですか。それは……」
彼女の言葉はそこで一度途切れ、内心を漂う何かを堪えるかのように、膝の上に置いた彼女の手が固く握り締める。
俯かせたままの顔にどんな表情が浮かんでいるのか、俺の位置からではそれを確かめることはできなかった。
もしかして、泣いているのだろうか……。
そう思った次の瞬間だった。
「きっと、私の思い違いですね」
再び上げられた栞の表情には、いつもと変わらぬの穏やかな笑顔が取り戻されていた。
そして何ごともなかったかのように、
「祐一さんのクラスに、私のお姉ちゃんと同姓同名の人が居たんですね」
「……別人なのか?」
「私のお姉ちゃんは、きっと他のクラスに居るんです」
「でも、香里って名前はともかく、美坂なんて名字……」
普通に考えれば、同姓同名の生徒がよりによって同じ学年に居るなんて、信じ難かった。
でも栞は、こともなげにそう言ってのける。
「その人が違うと言っているんですから、違うんですよ。あはは……私、こう見えても結構そそっかしいんです……」
そして、それきり黙り込んでしまう。
言葉の接ぎ穂を失ってしまった俺は、ひさしの下から数歩中庭に向かって足を動かすと、そのまま何となく空を降り仰ぎながら振り続ける雪をぼんやりと見据え続ける。
「……祐一さん」
そんな俺の背中に当たる声。
「どうした?」
「……明日も、また来てもいいですか?」
「来るなって言っても来るだろ?」
背中を向けたまま、問い返す。
沈黙。
そしてさくりと、どうやら雪を踏みしめるらしい足音と共に、
「来るなって言われたら来ません」
さくっ。
また一歩。
「でもその代わり、来てもいいって言われたら、どんなことがあっても来ます」
「…………」
「…………」
「……分かった、来てもいい」
小さく頷きながら俺がその言葉を紡いだのは、栞の最後の言葉から随分経ってからだった。
顔を空に向ける。
見上げる空からは、数え切れないほどの雪片が降り落ちてくる。
そして俺の身体の上に降り積もった雪は、時と共に少しずつ、その厚みと重みを増し続けていた。
§
すっと、視界の中を横切る何か。
灰色と白の二色が存在するばかりだった視界が、突然赤一色に染め尽くされてしまった。
「……?」
振り返る俺。
そこには傘を――視界を覆った突然の赤色は、傘の生地の色だった――俺に向かって差し出した姿勢のまま、言葉なく佇む香里の姿があった。
放課後の昇降口。
周囲には俺たちと同様、家路につくのだろう生徒の姿がちらほら見て取ることができた。
「相沢君、傘は?」
「持ってない」
少ししてから彼女の口から放たれた問いかけに、胸を張って答える俺。
「呆れた。朝、天気予報で午後から大雪になるって、言ってたわよ」
香里の表情は、言葉通り呆れた様子だった。
朝の……天気予報。
「あのな……いまの俺に朝、天気予報なんて見てる余裕があると思うか?」
「そう言えばそうね」
俺の抗議の言葉に、香里はあっさり頷き返してくる。
つまり水瀬家の朝がどれほど慌ただしいものかについて共通の認識を抱いている者としては、これ以上の言葉は必要ないということだった。
「でも相沢君、どうするの?」
空模様を確かめるように、改めて薄暗い昇降口から外へと目をやりながら、訊ねかけてくる香里。
俺は「そうだなぁ……」と曖昧な言葉を吐きながら、考えた。
とりあえずお天道様のご機嫌は、まるで空腹時の俺がそうであるのと同様、最悪だった。
ほとんど漆黒に近い色合いの雲。
数メートル先もはっきりと見えないくらいの勢いで振り続ける雪。
そして、身も心も凍えさせんばかりの北風。
どう考えても、しばらく待ったからといって止んでくれるとは思えない、そんな状況だった。
「この中を傘無しで帰るのは……やっぱ、無謀だよな」
「そうね」
俺に与えられた選択肢は、現時点で幾つかあった。
その一――勢いに任せて、このまま突っ切って家に帰る。
その二――途中で商店街に寄って、傘を買ってから帰る。
しかしそのどちらも、俺的にはかなりのリスクを伴う選択であることが、思い切りよくどちらかを選ばせることを、躊躇わせてくれていた。
まず、傘無しで走って帰る場合。
家までは走って十五分ほどの道のりだったが、この雪の勢いでは恐らく帰り着く頃には、雪だるま状態になっているだろうことは想像に難くない。
下手をして、それが原因で風邪を引いた日には目も当てられなかった。
かといって後者を選ぶことは、ただでさえ余裕のない俺の財政状況に、更なる深刻な打撃を与えてくれるのも事実。
健康と金……どちらを選ぶべきか、難しい問題だった。
「なに、深刻な顔をして悩んでるの?」
腕組みをしながら、ハムレット状態に陥っていた俺を現実に引き戻してくれたのは、傘はさしたまま回り込むように俺の顔を覗き込んできた香里の、その一言だった。
「え? あ、いや……ちょっとな」
突然視界に飛び込んできたその姿に、少しだけどぎまぎしながら慌てて視線を逸らす俺。
「ふーん」
そして、意味深な呟きを漏らす香里。
「なんだよ。その『ふーん』って」
「別に。ほら、それよりこんな場所にいつまでも突っ立ってたら、風邪引いちゃうわ。行きましょ」
促すようにそう言って、すたすたと香里は歩き出してしまう。
いや、だから俺は傘が無いから、こうしてここで悩んでるんですけど……。
そう口を開きかけた俺の機先を制するように、少し行ったところで足を止めた香里が、くるりと振り返る。
そして小首を傾げながら、
「どうしたの。ほら、入っていきなさいよ」
「へ?」
予想もしなかったその一言に、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
そして改めて、香里が紡いだ言葉の意味を考える。
「おおっ」
数秒後、ぽんと手を叩きながら合点のいく俺。
なるほど、そういうことだったのか。
まさか香里の方から、そんな地獄に仏――じゃなくて渡りに船な申し出をしてくれるとは、さすがの俺も考えもしなかった。
「……相沢君」
俺の名を呼ぶ声が、耳朶を叩く。
見れば香里は、再び顔に呆れた色を浮かべながら、
「あたしって、そんなに冷たい女に見える?」
「え、何が……」
そこまで言いかけたところで、気がつく。
「もしかして俺……口にしてた?」
「ええ。それはもう、はっきりとね」
「ぐはっ」
どうやら俺は、内心で呟いているつもりだった言葉を、無意識のうちに口にしてしまっていたらしい。
貴重な助けの手を前に、とんだ大失態だった。
「えーと……」
「まさか相沢君が、あたしのことをそんな風に思ってるなんて……」
「その……何というか」
「あたし、傷ついちゃったわ」
「だ、だからだな……」
慌ててフォローを入れようとする俺だったが、どう考えても逆に泥沼にはまりこむ一方だった。
そんな俺の姿がおかしかったのだろう。
いまのいままで、どこか悲しげな色を浮かべていたはずの香里が、
「冗談よ」
そう一言、表情を一変させてくすくすと小さく笑みをこぼしながら、俺に傘を差し出してくる。
「……?」
一瞬反応に困ってしまう俺だったが、次の瞬間全てを悟る。
小さく頷きながら差し出された傘を受け取った俺は、そして家主たる香里の横に並び立った。
「それではお嬢様、参りましょうか」
「ええ」
ようやくいつものペースを取り戻した俺は、冗談めいた口調で目の前の香里に話しかける。
そしてそんな俺に合わせて、いかにもお嬢様然とした上品な仕草で首を縦に振ってみせる香里。
「とりあえず、俺の家の方でいいのかな?」
行き先を確認する俺。
「そうね。でも、その前に……」
その問いかけに小さく頷きながら、でも俺の方に視線を向けた香里は、
「ちょっとだけ、寄り道したい気分なの」
「……仰せのままに」
互いに目を合わせて小さく笑いながら、そして俺たちは雪降る校庭に向かって歩き出した。
§
「えーと、香里はっと……」
立ち読みを終えた雑誌を元の棚に戻しながら、辺りをざっと見渡す。
夕方ということもあってか、天気が天気であるにも関わらず香里の寄り道につき合って訪れた、アーケードの中にある本屋の店内には、そこそこ人の姿が見受けられた。
でもその中に、俺の求める姿は見当たらなかった。
あちこちで壁と化して行く手を立ち塞ぐ本棚が邪魔をして、視界の半分以上が遮られてしまっていたというのが、正しかったかもしれない。
仕方なく俺は、視線を左右に泳がせながらゆるゆるとした足取りで、その場を離れる。
表通りに面した、一面ガラス張りの壁面を通して外の様子が窺える。
雪は、相変わらず降り続けていた。
この調子で朝まで降った日には、それこそ二、三メートルは積もるのではないかと、ふとそんな心配をしてしまうくらいの勢い。
殆ど効かない視界を通して、道行く人々のものらしい傘の色がちらほらと見え隠れしていた。
不意にちくりと、胸が痛む。
どうしてか分からない。
でも雪を見ているうちに何か嫌なことを思いだしたように、針を刺すような痛みが、ちくちくと一定の間隔を置いて心の奥を突き刺し続けていた。
理由も分からないまま悲鳴をあげ続けるその痛みに堪えかねるように、ガラスの向こう側の世界から顔を背けてしまう俺。
勢いのまま、あてもなく向けられたはずの視線の先。
でも俺は、偶然にもそこに求める姿を見出してしまった。
そこは本屋の中でも、かなり奥まった場所だった。
どうやら専門書か何かのコーナーらしいその一角は、店の他の場所と比べて不思議なくらい人気がなかった。
そんな中、手にした厚手のハードカバーの頁をぺらぺらとめくりながら、どこか所在なげな様子で視線を落とす姿。
……何を読んでいるのだろう。
ふと浮かんだその小さな好奇心に誘われるままに、彼女に気付かれないよう足音を忍ばせながら、背後へと歩み寄る。
どうやら香里は、俺の接近に全く気付いてないようだ。
内心でほくそ笑みながら、そして肩越しにのぞき込んだ先――開かれた本の頁の上で俺のことを待ち受けていたのは……どうにも俺の理解の範疇を越えた世界だった。
「これは……?」
思わずそんな呟きが口から漏れてしまう。
そしてその声に、初めて俺の存在に気付いたらしい香里が、でも少しも驚いた様子もなく、ちらりとこちらに視線を向ける。
「なぁ香里、それって何の本なんだ?」
「……何だと思う?」
素直に口を突いて出てきてしまった俺のその問いかけに、逆に真顔で問い返してくる。
少しだけ考える。
そして俺は、頭の中に浮かんだ答えの中で一番可能性の高そうなものを、少し自信なさげな口振りで形にする。
「ファンタジー……か?」
その途端、香里の目がほんの少しだけ細くなる。
まるで俺の回答が当を得たものだと言わんばかりの、それはどこか楽しそうな様子だった。
「外れ」
でも彼女の口から紡がれたのは、そんな態度とは正反対の言葉だった。
「違うのか?」
「残念でした。この本はね、正真正銘のノンフィクションよ」
「…………」
くすりと小さく笑みをこぼしながらそう告げる香里をよそに、俺は改めて彼女の手の中にある本の、開かれたままの頁を見据える。
そこにあったのは、どうやらペンの類で模写か何かをしたらしい、生き物とおぼしき存在のスケッチだった。
それ自体、別におかしなことはない。
ただ問題だったのは、そこに描かれている生物そのものだった。
何というか……人間の想像力を遙かに超越した、そんな奇妙なデザインの集積がそこにあった。
「嘘だろ。どうやったら、こんな生き物がいるってんだよ」
そう言いながら、俺はイラストのひとつを指差す。
扁平で細長い肢体。
一見するとムカデか何かに見えないこともなかったが、でもその生き物には足らしいものがどこにも無かった。
代わりに鱗のような鰭のような、そんなものが折り重なるように身体の側面に並んでいた。
でも、それ以上に奇妙だったのは頭の部分だった。
口とおぼしき辺りから、まるで掃除機のホースか象の鼻のような触手が延び、そして頭頂部にはキノコのような突起が全部で五つ。
B級のホラー映画にでも出てきそうなの容姿のグロテスクさに、正直目眩がする思いだった。
こんな生き物が、ファンタジーの世界以外の一体どこに存在し得るというのだろうか。
「この子の名前はね、オパビニア・レガリス。十五対の鰭足で海底を歩きながら、先端にあるノズルで食べ物を引き寄せ、摂食をしていたらしいわ。ちなみに頭の所にあるのは、目よ」
「目って……目が五個? 何で奇数なんだ?」
「さぁ」
目が四つと言われても十分驚きなのに、それが五つだと言われた俺はただ呆れるしかなかった。
五個の目で世界を見たとき、それはどのように映し出されるのだろう……一瞬その様を想像しようとしてみた俺だったが、ふたつしか目を持っていない悲しさ、結局のところイメージの欠片すら思い浮かんでは来なかった。
小さく肩をすくめながら、香里は次の頁を開く。
「こっちの右側の子はネクトカリス・プテリクス。それから、これはオドントグリフス」
舌を噛みそうな名をすらすらと諳んじてゆく彼女を前に、苦笑いを浮かべるばかりの俺。
そして開かれた本のページを覗き込みながら、
「頭は海老のくせに胴体は魚って感じだけど、何か無理矢理に継ぎ接ぎしてるみたいだな。で、こっちは……うーむ、まるで草履だ」
「そうね。あとこの丸くて背中に剣を生やしてる子がウィワクシア・コルガータで、下にあるトゲトゲなのがハルキゲニア・スパルサ。それから……」
「ちょ、ちょっとたんま」
「……?」
何が楽しいのか、口元に微笑みを宿しながら次々と奇怪な生き物を指し示しながら聞き慣れない名を口にする香里の行動を制する。
「なぁ。もう一度確認するけど、この連中って本当にノンフィクションな存在なのか?」
「勿論よ」
「どこに居るって?」
「そうね……世界中の海、かしら」
「海だぁ」
いかな大自然の驚異とはいえ、こんなのが海にゴロゴロいた日には洒落にもならない。
そしてその情景を頭の中で想像してしまった俺は、その余りにシュールな光景に思わず頭を抱えてしまいそうになる。
「俺……二度と海には行かない」
「くすくす。大丈夫よ」
「え?」
ため息と共に紡ぎ出した俺の言葉に、香里は悪戯っぽい笑みを浮かべながら小さく頷いてみせた。
「正確には海だった場所、よ。この子たちが存在していたのは、いまから五億三千万年も前のことだから。古生代カンブリア紀中期……夢でも幻でもなく、確かに彼女たちはこの星の海の中で生きていたのよ」
「五億……?」
いきなり途方もない数字を聞かされ、思わず首を傾げてしまう。
「ぴんと来ない?」
「そうだな。とんでもなく昔のことだってのは何となく分かるけど、でもそれだけかも」
苦笑を浮かべながら、答える俺。
「で、こいつらも生き物なら、当然子孫はいるんだろ? いまいる動物の中だったら、どの辺の連中がそうなのかな」
改めて本を覗き込みながら、何気なく訊ねる俺。
でも……香里の返事は無かった。
答えの代わりに沈黙と、そしてどこか翳りのある表情を浮かべたまま、じっと本を見つめている。
「……香里?」
「いないわ」
小首を傾げながら俺が彼女の名を呼ぶのと、呟くように香里が声を漏らしたのは同時だった。
「へ? いないって……」
「彼女たちは皆、どこにも、誰にも自らのその血を受け継がせることなく、時の流れの中に消えていってしまったわ。自分がただ、フィクションとしての存在ではなく、この星の上に居たんだっていう確かな証だけを残して……ね」
そして本から目を離した香里は、すっと天井を見上げる。
まるでそこに求める何かがあるかのように、じっと頭上にある虚空を見据えながら、
「ねぇ相沢君。この子たちは、一体何のために生まれてきたのかしらね。進化の徒花として、とうの昔に過ぎ去ってしまった世界の中だけにその姿を留める出来損ないになるために、生まれてきたのかしら」
「…………」
「滅びは――死は必然よ。たとえどれほど長命な種であっても、どんなに繁栄を謳歌している種にしても、永遠の存在はあり得ないわ。そう……生まれたからには、必ずいつか死は訪れるものよ」
「何か……哲学的だな」
ようやくのことで戸惑い気味に、それだけを口にする俺。
すると香里は、虚空へと向けてたままだった視線を俺の方へ向けると、
「人はね、生まれながらにして哲学的な存在なのよ。だからいつだって、自問し続けるの」
口元には穏やかな微笑みを、そして瞳にはそれとは異なる感情の因子を微かに見え隠れさせながら、唄うように言葉を編む。
「……何のために生まれてきたのか。それに一体何の意味があるのか、って」
彼女のその言葉を、ただ黙って聞くばかりの俺。
いや、本当のところは、香里のその問いかけに何ひとつとして返すべき言葉を見出すことができなかったから、口を閉じていたにすぎなかった。
そして彼女も、俺に答えを求めてはいないような――そんな気がした。
「何の……ために……」
本を棚に戻しながら、囁くように呟きを漏らす香里。
その声は、俺と彼女との間に存在する空気を通して耳朶を叩く。
でもその時の俺に出来たこと、それは彼女の横顔を言葉無く、ただじっと見つめやることだけだった。