『黄昏の園』
Update:2000.09.17





1月14日(木)

 校門を抜けたところで、見知った顔とばったり出くわしてしまう。
「……あれ?」
「おはよう、相沢君。今日はひとり?」
 香里だった。
 昨日とはうって変わった青く晴れ渡る空を背景に、いつもと変わらぬ朗らかな表情で俺の顔を見つめている。
「……?」
 うん、普通だよな。
 黙り込んだままの俺に、小首を傾げる香里。
 そんな彼女を前に内心で納得の呟きを漏らした俺は、同時に脳裏では昨日の夕方、家まで傘に入れてもらうついでに寄った本屋で見かけた、香里の姿を思い出していた。
 俯きがちな横顔に浮かぶ、翳りにも似た表情。
 普段の香里のイメージからは、およそ想像もつかない姿。
 でもいま、彼女の顔のどこを捜しても、それを想起させるような何かは片鱗すら見出すことができなかった。
「どうしたの?」
「あ、いや。何でもない」
 気付かないうちに、いつの間にか訝しむようなそんな色を浮かべてしまっていたのかもしれない。
 慌てて首を振りながら、思考を現実へと引き戻す。
「いや、ひとりじゃないぞ。実は、名雪が隠れてる」
 そして声を少し潜め気味に、いかにも内緒話でもするかのようにそう、彼女に耳打ちをしてみせる。
「……どこにもいないじゃない」
「そりゃ、巧妙に隠れてるからな」
「大体、何で隠れるのよ」
 両手を腰にあてながら、呆れたような顔を浮かべる香里。
「名雪の趣味なんだ」
「そんなの、一度も聞いたことないわよ」
「まぁ、あいつも見かけによらず、人には言えないような趣味を色々と持ってるからな」
 そう言いながら、うんうんと頷く俺。
 でも俺のそんな言動に対する反論は、目の前の香里の口からではなく、意外なところから発せられた。
 背後から届く、ぽつりと呟くような声。
「……嘘、教えないで」
 振り返るとそこにはいつの間に現れたのか名雪が、少し困ったような表情を俺に向かって浮かべながら、佇んでいた。
「あ、名雪。おはよう」
「おはよう、香里」
 にこやかに言葉を紡ぐ香里と、それに応える名雪。
「なんだ、本当にいたのか」
「いま来たんだよ」
 ……いま?
 というか、どうして名雪がここにいるのだろう。
 野暮用でコンビニに寄り道をするために、名雪とは通学路の途中で別れて先に行かせたはずなのに。
 その上俺は、道すがら偶然出会ったあゆに捕まって更に余計な時間を浪費していたのだから、どんなにゆっくり歩いて来たとしても、名雪の方が先に学校についていいはずだった。
「ちょっと待て。なんで、先に行ったはずのお前の方が遅いんだ」
「うん……ちょっとね」
 視線を微かに泳がせながら、あまり見覚えのないどこか微妙な表情を見え隠れさせる名雪。
 何だろう……?
「この顔は、何か答えたくないことを訊かれたときの顔ね」
 彼女のその様子に疑問を抱いた俺が何か言葉を紡ぐより先に、付き合いの長さからか香里がぼそりと、合いの手を入れる。
「……香里、余計なこと教えないで」
「もしかして……猫か?」
 そう言いながら、つい十分ほど前にこの目で見た出来事を思い出す。
 通学路の最中にある、一軒の家の軒先にいた猫。
 そしてうるうると瞳を潤ませながら、まるで世界一可愛い生き物を目の前にしたかのようにその場で動きを止めてしまう名雪。
「ねこーねこー」
 ふにゃふにゃと力の抜けた名雪の声が、頭の中をこだまする。
 そう、名雪は無類の猫好きだった。
 愛玩動物を好むという点については、名雪も普通の女の子と変わらるところはなかった。
 でも名雪は、猫好きであると同時に猫アレルギーだった。
 大好きな猫を抱き締めた途端、くしゃみと涙が止まらなくなってしまう……思えば不憫としか言いようのない体質だと思う。
 先刻は、俺と名雪が押し問答をしているうちに猫の方が先に姿を消してしまい一件落着したはずだったのだが……。
 どうやら俺と別れた後、更にもう一幕あったようだった。
 改めて名雪に意識を向ける。
 すると彼女は、俺からの問いかけに相変わらずどこかとぼけた表情を浮かべたまま、
「あ、チャイム。急がないと」
 その場でくるりと、俺たちに背を向ける。
 どう見ても、下手な言い訳にしか聞こえなかった。
「鳴ってないだろ、全然」
 ため息混じりに答える俺。
「でもあんまり時間ないから、走った方がいいよ」
 肩越しに振り返ってそれだけを言うと、文字通り逃げ出すようにパタパタと昇降口に向かって走っていってしまう。
「さては、諦めきれずにもう一度猫のいた場所に戻ってたな」
 多分、いや間違いなくそうなのだろう。
 でなければ名雪が、寄り道をして余計な時間を費やしたはずの俺より遅れて学校に辿り着く道理がなかった。
 そんな俺の言葉に同意するように香里が、冷静な口調で言葉を紡ぐ。
「あの子、猫が絡むとキャラクター変わるからね」
「そう……だな」
 小さく頷く。
 そして、いつの間にやらすっかり小さくなってしまった名雪の後ろ姿を目に留めながら、
「……行くか」
「そうね」
 香里の声を耳にすると同時に、遠く名雪の声が俺の耳朶を打った。
「本当にチャイム鳴るよ〜」

                  §

 手に触れるドアのノブは、今日も冷たかった。
 皮膚に張り付いてくるかのような、金属質の小さな痛みを肌に感じながらノブを回し、そしてドアを押し開く。
 白い世界。
 冬のどこか弱々しい陽射しの中に広がる、人気のない閑散とした情景。
 この何日かで、すっかり見慣れてしまった光景。
「今日は……俺が先か」
 雪が降り積もった階段を注意深く踏み締めながら首を巡らせ、そしてややあってから小さく呟く俺。
 昨日の雪のせいで、足跡ひとつ見当たらない雪原。
 真綿が敷き詰められたようになだらかな凹凸を形作りながら、陽射しを受けてきらきらと輝きを発する、無数の雪の結晶たち。
 そしてそこに、栞の姿は無かった。
 考えてみれば俺の方が先に来てたことって、一度も無かったよな……ここ数日の出来事を思い起こしながら、そんなことを思う。
 俺以外、誰もいない世界。
 一歩、足を雪原の中へと踏み出す。
 夜の間に凍結したのか、雪というより氷に近いしゃりしゃりとした感触を上履きの底で感じる。
 型押しをしたようにくっきりとした痕跡を残す足跡が、無垢なる世界の最中に刻まれる。
 一歩、また一歩と歩き続ける俺。
 そして中庭の中央――栞がいつも佇んでいた辺りまでたどり着いたところでようやく、俺はその動きを止めた。
 視線を空へと向ける。
 そこには雲ひとつない晴れ渡った空が、まるで切り絵細工のように校舎の輪郭にそって複雑な形を為しながら、横たわっていた。
 陽光を受けて少しだけ温もりを取り戻した空気が、微風にゆっくりと押し流されてゆく。
「……寒いって」
 昼とはいえ、やはり寒いものは寒かった。
 誰に言う訳でなくひとりごちそんな呟きを漏らしながら、ここに来る途中、学食に寄って買ってきた栞への貢ぎ物を目にする。
 カップアイスクリームがふたつ。
 外気と同じくらいよく冷えた、真冬の屋外で食べるだろうものから最も縁の遠いだろうはずのもの。
 それがいま、俺の手の中にあった。
 普段から時計を持ち歩く習慣がなかったので正確な時間は分からなかったが、多分昼休みに入ってから既に十分は経っているだろうか。
 でも、未だ栞は姿を現さない。
「遅刻か……」
 呟いてから俺は、自分の言葉の矛盾に気がつく。
 そう、考えたら栞は風邪で学校を休んでいるのだから、そもそも遅刻とかそういう問題じゃないのではないか。
 しかし一方で、俺との約束に遅れているのは事実だった。
 そこまで考えたところで初めて、そう言えば栞とは「明日」と約束を交わしたものの、「何時に」と決めた覚えはないことに思い至る。
 俺は少しだけ、口の端を緩める。
 そして寒空の下で、栞を待ち続ける。
 五分。
 十分。
「…………」
 その間俺の耳に聞こえてきたのは、自らの重みに耐えかねるように枝から落ちてゆく雪の音と、風に乗って漏れ聞こえてくる鳥のさえずりばかり。
 陽が射しているとはいえ、当然のことながら屋内のそれと比べれば外気は冷たく、カップアイスを掴んだままの右手は、既に寒いを通り越して感覚そのものを失ってしまっていた。
 姿を現さない栞。
 ひとり、栞を待ち続ける俺。
 そして思う。
 誰もいないこの場所で、栞は一体何を思っていたのだろうかと。
 白と青の二色に彩られた原色の世界で、どんな思いを抱きながら移ろい流れてゆく時の最中に身を任せ続けていたのだろうかと。
 自分のこと?
 姉のこと?
 それとも……俺のこと?
 幾つもの小さな疑問が胸の中に浮かび上がり、そしてどこからも答えを見出すことのできないまま消えてゆく。
 くるる――。
 その時だった。
 何の前触れもなく、腹の辺りからこの場の雰囲気にそぐわない間の抜けた音色が聞こえてきたのは。
 言うまでもなく、空腹を訴える腹の音だった。
「腹……減ったな」
 沈鬱していた空気に耐えかねるように、小さな悲鳴をあげる腹の音を前に俺は、そう言えば栞用のアイスを買っておきながら、自分のメシのことをすっかり失念していたことに思い至る。
 思わず口許から漏れる苦笑。
 こんなことなら――食っておけばよかったかも。
 そして思い出す。
 朝、通学途中に野暮用で寄り道した商店街。
 そこで偶然出会った、鯛焼きを抱えたあゆのことを。
 あの時は時間が無かったから、鯛焼きを食っているどころの話じゃなかったけれども。
 そして、再び訪れる静寂の時。
 どれくらい経った頃だろう、頭上に広がる空に一度だけ視線を送ってから、俺はゆっくりと口を開く。
「……戻るか」
 紡がれた言葉と共に、吐き出された息が白く濁る。
 踵を返す。
 視界には、一定の間隔を置いて点々とうたれた句読点――自らの足跡が映し出されていた。
 ここが人の住まう場所であることを示す、唯一の証。
 その痕跡を踏み壊すように、ゆっくりと校舎に向かって足を動かす。
 程なく雪の柔らかな感触が靴の裏から失われ、変わってコンクリートの固いそれが姿を見せた。
 一段、二段、三段……何かを確かめるように、階段をのぼってゆく。
 心の片隅に、かすかな期待を抱きながら。
 もしかしたらこうしているうちに背後からさくさくと、雪を踏みしだく心地よい音色が聞こえてくるかもしれない、と。
 そして、少し申し訳なさそうな声で、
「……すみません。遅れました」
 振り返った俺に向かって、ぺこりと申し訳なさそうに頭を下げながら栞が姿を現すことを期待して。
 でも……。
 階段をのぼりきってしまった俺の前にあったのは、相変わらずの孤独と、そして静謐だけだった。
 振り返る。
 誰もいない、白の世界。
 俺の足跡だけが穿たれた、雪の絨毯。
 ……そうだよな。
 閑散とした光景を前に、俺は納得したように小さく頷く。
 そして思う。
 栞のことだ、きっと医者の言うことをようやく聞く気になって、今日は家で大人しく養生しているのだろう。
 何故なら、彼女は病人なのだから。
 少なくとも家を抜け出して、こんな文字通り寒々としたところになんか来るよりは、そうした方が何倍もいいに決まっていた。
 ノブを握る。
 来た時と同じく、俺の手にちくりと小さな痛みを覚えさせてくれるそれ。
 身体の痛み。
 でも俺にはそれが、期待を裏切られた心の痛みのように思えた。
 ドアを開きかけた俺は、そのままの姿勢でもう一度だけ、肩越しに背後に広がる世界に目を向ける。
 白い雪。
 悲しい何か。
 思い出しそうで、でも思い出すことのできない失われた記憶。
 目の奥でちりちりと、言葉にし難い痛みとも痺れともつかない何かが、俺に何ごとかを語りかけてくるように刺激を発し続けていた。
 その違和感に、微かに眉をしかめる俺。
 でもそれは一瞬のことで、すぐに気を取り戻した俺は校舎の中に足を踏み入れると、ノブにかけていた手を離す。
 ゆっくりと閉ざされてゆくドア。
 考えたら別に栞とも、これが今生の別れという訳でもない。
 彼女はただの風邪なのだから。
 風邪が治ればきっと、他の生徒たちと同じように制服に身を包んで、そしてまた俺の前に姿を現すに違いない。
 その時もし、もう少しだけ季節がよく――春に近づいていたら、今度こそ俺も一緒にアイスクリームを食べてやろう。
 ソフトクリームでもカップアイスでも、あいつの何倍もの量を何倍もの早さで平らげて
「わっ、祐一さん。食べるの早すぎです」
 驚きに目を丸くさせながら、そう言わせてやろう。
 内心でそんなことを思いながら、未だ手の中で冷気を発し続けている未開封のカップアイスへと視線を落とす。
 手のひらを通して体温を吸ったのか、表面に微かに汗をかかせているそれ。
「……名雪にでもやるか」
 あいつのことだから、何だかんだ言って食べてくれるような気がした。
 その様を脳裏に思い描きながら、そしてドアが閉まる小さな金属音を耳に、俺は教室へと戻るべく一歩、足を踏み出した。

                  §

 教室に戻った俺を待っていたのは、いつものメンツのいつもの声だった。
 自分の机に座って、前にいる名雪と楽しげな様子で話をしていた香里が、俺の姿に気付いたのか顔を向ける。
「相沢君、どこに行ってたの?」
「秘密」
 まさか中庭で栞を待ちぼうけていましたと正直に言うわけにもいかず、とりあえずそう答えておく。
「だったらあたしも秘密」
「なにがだ?」
「秘密」
「しまった、気になるぞ」
「秘密」
 それは予想外の反応だった。
 ある意味自分でまいた種のような気がしなくも無かったけど、そうであるが故に妙に気になるのもまた事実だった。
 俺のそんな思いをよそに、香里は悪戯っぽく目を細めるばかり。
 でもその小悪魔然とした姿に、俺は彼女らしさとでも言うのか、どこか好ましさにも似た思いを抱いたりもしていた。
「ね、祐一。それどうしたの?」
 横で俺と香里の謎なやりとりを聞いていた名雪が、ふと気付いたように俺の右手を指差す。
「ん、これか? 見て分からないか」
「それくらい分かるよ。アイスクリームだよね」
「何だ。ちゃんと知ってるんじゃないか」
「うー、そうじゃないよ。わたしが聞きたかったのは、どうして祐一がアイスクリームを持ってるのかなってこと」
 小首を傾げながら、ちょっと不満そうな声を発する名雪。
 手の中にある、相変わらず痛いくらいに冷えているそれを彼女の方に差し出しながら俺は、
「もちろん、名雪に食べさせてやろうと思って買ってきたんだ」
「え?」
 ちょっとびっくりしたような声。
 そしてどこか困ったような色を顔に浮かべながら、
「アイスクリームは好きだけど……」
 最後の方はよく聞き取れなかった。
 でもその内容は、大方想像はつかなくもなかった。
 もう少しきっぱりと拒否されるかと思ったが、どうやら俺の提案は名雪としては思いの外、心揺れるものだったらしい。
 それはそれで好都合。
「じゃあ、ほれ。名雪にひとつやる」
「え、あっ」
 内心でほくそ笑んだ俺は、そのまま半ば強制的に名雪の手にカップアイスをひとつ乗せてやる。
 よし、これでとりあえずひとつは処分できた。
 問題は残るひとつの処遇だが……。
 何となく視線を泳がせると、複雑な表情を浮かべている名雪のことを、にこにこと目を細めながら見つめている香里の姿が目にとまる。
「なぁ、かお……」
「嫌よ」
「まだ何も言ってないぞ」
「何も言わなくたって、相沢君がいま考えてることなんて全部お見通しよ。だから、嫌」
 困った。
 いっそ名雪に無理矢理もうひとつも渡してしまうという手もあったが、流石に今度こそ拒否されそうな気がした。
 それに、もし先に渡した分まで「やっぱりいらない」とか言われて一緒に返品された日には、目も当てられない。
 他に俺の為に我が身をなげうってまでして犠牲になってくれるような心優しい人はいないだろうか……などとまだろくに名前も覚え切れていないクラスメートの顔を思い浮かべながら思案に暮れていると、
「仕方がないわね」
 傍らから、香里のそんな声が聞こえてきた。
 何がそんなに楽しいのか、相変わらず目を細めたままの表情。
「じゃあ、そっちはあたしが食べてあげる」
「おお、さんきゅ」
 内心でほっと安堵の吐息をつきながら俺は、差し出してきた香里の手に不良債権の残るひとつを乗せる。
 これでめでたく、ミッションコンプリートと相成った。
 そして、ようやくのことで軽くなった右手をぷらぷらと振りながら、俺は自分の席に腰を下ろす。
「どうだ名雪、うまいか?」
「……冷たいよ」
 アイスをひと口食べた名雪が、もごもごと返事をする。
 そして匙をくわえたまま、満足そうに笑顔を浮かべて見せる。
「でも、おいしい」
「冬に、暖房の効いた部屋で食べるアイスクリームってのも、たまにはいいかもしれないわね」
 丁寧な仕草で蓋を開け、どうやら俺の体温を吸って程良い柔らかさとなっていたらしいその表面に匙を立てる香里。
 すくい上げられた、雪のような白い固まり。
 ゆっくりと口に含んだ彼女は、同時にその冷たさのせいだろうか、ほんのわずか目を細めて見せる。
 朗らかな様子。
 でも……どうしてだろう、俺はそんな彼女の姿にどこか違和感のようなものを覚えてしまう。
 それは俺の中に在る、いま目の前にあるのとは異なる香里の姿。
 昨日、本屋で見た彼女の横顔。
 痛々しいとでも形容するべきなのだろう、そんな翳りを伴った姿が脳裏にくっきりと浮かび上がる。
 そして次の瞬間彼女のその横顔に、もうひとつ別の姿が重なる。
 香里のことを姉だと言い、でも当の香里にはそのことをはっきりと否定されてしまった女の子――栞の姿が。
 悲しさとも寂しさともつかない、微笑みの裡に時折見え隠れする表情。
「……くん。相沢君っ」
 不意に耳に飛び込んできた、その声で我に返る。
 慌てて意識を現実に引き戻すと香里が、どこか不思議そうな様子で小首を傾げながら、俺のことをじっと見つめていた。
「え、あっと……俺のことか?」
「俺のことか、じゃないわよ。さっきからずっと呼んでるんだから、返事くらいしなさいよね」
 そのまま非難の視線を送ってくる香里に、俺は顔の前に手を立てながら謝る。
「悪い。で、なに?」
「はい」
 そう言って彼女が差し出してきたのは、アイスの欠片が乗った匙だった。
「…………」
「…………」
「…………」
「……あの、香里さん?」
「なぁに」
「俺に、これをどうしろと?」
「もちろん、食べるのよ」
 何ごともなかったかのように、さらりとそう言ってのける香里。
 思わず俺は、匙と香里の顔を交互に見比べてしまう。
「はい、どうぞ」
 そんな俺の態度をよそに、香里はなおも匙を俺の方へと差し伸べてきた。
 眼前に迫ったそれが発する冷気を鼻先に感じた俺は、そして大きく首を振りながら口を開く。
「ちょっと待て。それはもう香里にやったんだから、俺が食べなきゃならない義務は無いと思うぞ」
「何言ってるの。全部食べるなんて、あたし一言も言ってないわよ」
「あ、ずっけ」
「狡くなんてないわよ。そもそもこれを買ってきたのは相沢君なんだから、責任の一翼は担うべきでしょ」
 形勢は、明らかに俺に不利だった。
 というか、理論面ではどう考えても俺の負けだった。
 数秒間続いた沈黙の後、仕方なく俺は目の前にあった匙を口に含み、香里の言うところの「責任の一翼」を果たす。
 そして染み入るような冷たさを口の中に感じながら、ため息混じりに、
「はぁ……分かったよ。じゃあ、半分こな」
「そうね。じゃあ線を引いたこっち側が相沢君の分で、残りがあたしの分」
 うんうんと満足げに頷きながら香里は、カップの中のアイスクリームの表面に匙で線を引いてゆく。
「待てっ。それのどこが半分だ。どう見ても俺の分担の方が多いぞ」
 本来なら、カップの中心を通るように引かれるべき線。
 でも俺の目にそれは、かなり偏った――俺側の領地が香里のそれの倍はあろうかというくらいに――位置で境界線を形成していた。
「それはきっと、目の錯覚よ」
「嘘をつけっ」
「じゃあ、空耳」
「それも違う」
「語弊」
「あのな……どんどん離れていってると思うぞ」
「冗談よ」
 くすくすと楽しげな様子で小さな笑みをこぼしながら、そしてすくったアイスをぱくりと口に含んでみせる香里。
「予鈴が鳴るまでに頑張って食べましょ、相沢君」
「祐一。ふぁいとっ、だよ」
 両の耳を通じて届くその声に俺は、小さくため息をつくばかりだった。

                  §

「ね、祐一。あと一杯だけいいかな?」
 テーブルを挟んだ反対外に座った名雪が、つい十分ほど前まで山盛りのパフェが詰め込まれていたものの残滓に目を向けながら口を開く。
 どことなくお願い口調な声。
 それはまるで、小さな女の子が母親に何かをねだっているようにも思える、そんな声だった。
 放課後、名雪を連れて入った商店街の中にある喫茶店。
 この場所に来た本来の目的は、名雪にCD屋を案内してもらうためだったのだが、気がついてみれば何となく成り行きでこんなところに腰を落ち着ける羽目になってしまっていた。
 店の壁に掛けられた、アンティークな柱時計を見る。
 時計の針は、夕暮れ時にはまだ少し早い時間を指していた。
 それだけを確認して視線を名雪へと戻した俺は、苦笑を浮かべながら「ま、それくらいなら……」とだけ応える。
 途端、ぱっと名雪の顔が綻ぶ。
「ありがとうっ、祐一」
 そして大きく手を振ってウェイトレスを呼ぶと、たったいま平らげたばかりのパフェをもうひとつ注文した。
「この一杯だけだからな」
「分かってるよ。家に帰ったらお母さんの晩ご飯も待っているし、さすがにそんなには食べられないもん」
 にこにこと、相好を崩しながら紡ぐ言葉を前に俺は、少し冷えてきたコーヒーを一口すする。
「祐一も、おかわり頼んだら?」
「……そうだな」
 頭の中で懐具合をざっと計算してから、頷く。
 程なくトレイにパフェを乗せてきたウェイトレスにやって来て、空になった器と交換にそれをテーブルに置いていった。
「わたし、幸せ」
 金属製のスプーンを手に、言葉通り幸せそうな色を浮かべている名雪。
 税込み九百二十四円でこれだけ幸せになれるのだから、考えてみれば安上がりな幸せだと思った。
 トッピングされた苺を食べ、幸せに浸りきっている名雪の姿に口元を緩めながら俺は、何となく視線を窓ガラスを通して広がる雑踏に向けてみた。
 立ち並ぶ店の屋根の向こうに広がる、冬の空。
 昨日のあの豪雪が嘘だったかのように空はどこまでも蒼く、そして高かった。
 ふと、記憶のどこかが刺激される。
 香里の横顔。
 どこか思い詰めた感じの、そんな翳りに満ちた表情。
 まただ。
 ふっと心に穴が開いた刹那、まるでその隙間に差し込まれるように何度となく想起されてはそのまま消えてゆくばかりの、そんな光景。
 どうして、そんなに気になるのだろう。
 何が、そんなに気になるのだろう。
「なぁ、名雪」
「ん?」
 視線は外に向けたままぽつりと口を開いた俺に、パフェを食べる手を止めて顔を上げる名雪。
「名雪は、確か香里とは長いつきあいなんだよな?」
「うーん……香里と初めて出会ったのが中学一年生の時だっただから、長いと言えば長いかな?」
 小首を傾げ、何かを思い出すような仕草を見せながら答える名雪。
 その様子からして、きっと香里と初めて出会ったときのことでも、脳裏に思い描いているのだろう。
 手にしていたカップを受け皿に戻しながら、俺は言葉を継ぐ。
「ということは、香里のことなら何でも知ってるよな?」
「何でもってことはないよ」
「なんだ、実は仲悪かったのか?」
「違うよ」
 不満そうな様子で、名雪は口を尖らせる。
 そんな予想通りの反応に微かに口元を緩めてしまった俺は、でもすぐにそれを元に戻すと、
「だったら、香里の家族のこととか知らないか?」
 家族。
 自分は「ひとりっ子」だと、そう言った香里。
 香里のことを「お姉ちゃん」と、そう言った栞。
 ふたりのうち、どちらかがついている嘘。
 何のために、どんな目的があってついたかすら分からないその嘘の真実を、名雪なら知ってるかもしれないと思って口にした問いかけ。
 でも一瞬の静寂の後に名雪が紡いだ言葉は、俺のそんな期待に反するものだった。
「……ごめん」
 申し訳なさそうに視線を落としながら、首を横に振る名雪。
 そしてぽつりと、言葉を重ねる。
「香里って、昔からあんまり家族のこととか話したがらないから」
「そうなのか?」
「うん……ごめんね、役に立てなくて」
 手にしたままのスプーンで、器に盛られたクリームを弄びながら名雪はもう一度、小さな声で謝罪の言葉を口にする。
 そしてゆっくりと顔を上げると、
「でも、どうしてそんなこと訊くの?」
「いや、ちょっとな……」
 とりあえずは、そう答えておくしかなかった。
 親友であるはずの名雪にすら話していないことを、俺が勝手に口にするのはどうかと思ったから。
 しかもいまの俺は、何が真実なのかすら判っていないのだ。
 出来れば憶測混じりの、いい加減なことを言いたくはなかった。
 そんな言葉にならない俺の思いを敏感に察したのか、ゆっくりと顔を上げた名雪が口を開く。
「……祐一」
「どうした?」
「香里ってね……いつも明るく話すけど、時々悲しそうな顔をするんだよ……」
 一瞬、躊躇うように視線を落としてから紡がれた言葉。
「心配で……どうしたのって理由を訊くんだけど、でも香里はいつだって気のせいだって言って、何も話してくれないんだ……」
 悲しげな色。
 普段の名雪には滅多に現れることのない、そんな表情。
「最近の香里、特にそうだよ……」
 そう言ったきり、視線をテーブルの上に落としてしまった名雪の方が、余程悲しそうだと、俺は思った。
 しばらくの間、沈黙が俺たちの間を支配する。
 周囲のテーブルから流れてくる他の客たちのささめきが、まるで別世界の出来事のように鼓膜をちくちくと刺激し続けていた。
「わたしじゃ、香里の力にはなれないのかな?」
 どれくらい経ってからだろう、俯かせたままだった顔をゆっくりと上げた名雪は俺の顔を見て、力無く笑う。
 弱々しい微笑み。
 いまにも泣き出してしまうんじゃないかと思える、そんな寂しさと悲しさを裡に秘めた痛々しい笑みが、俺の前にあった。
「香里のことだから、名雪に心配かけたくないだけだろ」
 できるだけ素っ気ない風を装いながら、名雪の表情を窺う。
 するとほんの少しだけ、どんな顔をすればいいのか迷っているかのようだった名雪は、やがて小さく頷くと、
「そうだね……うん、ありがとう祐一」
 穏やかな微笑みを浮かべながら、そう言葉を紡ぐ。
 そして頷き返しながら、俺は思った。
 少なくとも、さっきの泣きそうな笑みよりはよっぽど自然な笑顔だな、と。
「さて、さっさと食べて帰るぞ」
「うん」
 話を切り上げて席を立つ俺に続いて、名雪も立ち上がる。
 店の名が入った大きなガラス越しに外の風景に目を向けると、いつの間にかそこは一面の赤が広がる世界と化していた。
 道端に積み上げるように寄せられた白いはずの雪山も、夕陽の照り返しを受けて赤く色づいている。
「祐一……」
 レジに向かおうと踵を返しかけた俺の背中を、名雪の声が打つ。
 肩越しに振り返り、そして彼女の次の言葉を待つ。
「香里の力になってあげて……わたしの代わりに、ね」
 それは、どこか力のない声だった。
「俺は、自分の出来ることをするだけだ」
「それが誰かのためになるんだよ。祐一は」
「…………」
「祐一は、優しいから」
 ほんの少しだけ目を細めながら浮かべる、穏やかな微笑み。
 その笑みを前に、忘れてしまったはずの何かを思い出しそうになる俺。
 もやがかったように曖昧模糊とした世界のただ中で、何かを待つように、何かを祈るようにひとり孤独に佇む小さな女の子の姿。
 ……誰だろう?
 はっきりと思い出すことのできないその何かに、ちくりと胸の奥が痛んだ。
「次は、CD屋さんを探さないと」
「そういえば、そうだったな」
 その声に現実に引き戻された俺は、頷き答えながらテーブルの上に置いてあった伝票をつまみ上げる。
「行こ。祐一」
「ああ」
 名雪の後を追ってレジに向かうべく歩き出しながら、窓の外を見る。
 真っ赤に染まった世界。
 人も、家も、雪も、全てが同じ色に埋め尽くされた世界。
 日暮れは……もう間もなくだった。
1月16日(土)に続く

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