「それで、ゆっくりしててもいいのか?」
俺の言葉に促されるように腕時計に目を落とした名雪は、「あ」と小さな声を上げると、慌てた様子で机上にあった鞄を手にする。
そして俺の方に向き直りながら、
「ごめん祐一、わたし先に行くね」
放課後。
祝日と日曜の間に挟まれた、普段よりもどこか気怠さとのどかさを感じさせてくれる土曜日の午後。
いつも通りに授業を受け、いつも通りに放課後を迎えた俺たちは、そしていつも通りに別れの言葉を口にした。
「またね。祐一」
「また明日な。名雪」
「明日じゃないよ……」
どうやら名雪的には、同じではなかったらしい。
少し困ったような色を浮かべる彼女の表情には、「同じ家に帰るんだから」そんな言外の意思が見え隠れしていた。
名雪との、そんなちょっとした言葉のやりとり。
考えようによっては、それすらもがいつも通りの出来事に違いなかった。
「時間、いいのか?」
内心で苦笑しながら言葉を紡ぐ俺。
「あ」
自らの置かれた立場に改めて気付いたかのように、再び小さな声をあげる名雪は、俺に向かって小さく手を振りながら、ぱたぱたと足早にドアの向こうへと姿を消していった。
「さて……」
その後ろ姿を見送った俺は、んーと伸びをしながら辺りを見渡す。
いつの間にいなくなったのか教室には、俺を含めて十人ほどの生徒しか残っていなかった。
普段の、嫌というほどの人の存在感に満ちた光景と比べると、どこか閑散とした印象を抱いてしまう。
部活に行く者、真っ直ぐ家に帰る者、寄り道をする者……その目的は様々なのだろうが、何にしても皆素早いことだ。
万国共通の真理として、楽しい時間というものはあっという間に過ぎていってしまうものなのだから、その意味で彼らの行動は恐らくは正しいのだろう。
タイムイズマネー。
光陰矢の如し。
「……俺も行くか」
遅ればせながらそんな彼らを見習うべく鞄を手に席を立った俺は、まだその場に残っているクラスメイトに別れの挨拶をかけてから、教室を後にする。
教室と比べると、廊下はまだ生徒たちの喧噪で賑わっていた。
これからの予定でも話し合っているのだろうか、あちこちに出来ている小さな人の輪を縫うように歩きながら廊下を抜け、階段を下りる。
上の階と同様の賑わいに満ちた廊下をゆっくりとした足取りで進んでいった俺は、やがて視界に入り込んできた金属製のドアを押し開いた。
そして、俺は辿り着く。
純白の絨毯が一面に敷き詰められた、無垢なる世界へと。
「…………」
空は青く、触れる空気は痛いくらいに冷たかった。
「俺……何でこんな場所に来てるんだ?」
ぽつりと紡がれた言葉と共に吐き出された息が、視界を雪の上に更なる白を塗り重ねてゆく。
来る必要など、もう無いはずの場所だった。
夜のうちに降ったのだろう新雪に覆われ、足跡のひとつとして見当たらない、誰からも忘れられてしまった空間。
そこで何かを、誰かを待ち続けるように、肩と髪に雪を降り積もらせながらひとり佇んでいた少女。
でもいま、彼女の姿はどこにもなかった。
この場にいるのは、俺ひとり。
そして俺には、彼女がそうしていた様にこの場所で何かを待ち続ける動機も必要も、何ひとつ有りはしなかった。
「習慣って、恐いな……」
苦笑いと共に、ひとりごちそんな呟きを漏らしてしまう。
この場所に足を運ぶようになってから、それこそまだ一週間と経っていないはずなのに、どうやら昼になるとここに来てしまうのは、いつしかすっかり俺の中で習慣となってしまっていたようだった。
もう、誰もいないことが分かっているのに。
何もないことが分かっているのに。
それとも……無駄なことを知りつつ、でも同時に心のどこかで儚い期待を抱いているのだろうか、俺は。
彼女が――栞が居ることを。
そして校舎の中から姿を現した俺の姿を認め、にっこりと微笑みを浮かべてくれることを。
でも、現実は冷徹だった。
閑散とした、どこか寂しげな空気に満たされた中庭には、俺以外の誰の姿も存在していなかった。
空を見上げる。
冬特有のガラスのように澄んだ蒼空の中に雲がひとつ、どことなく所在なげな様子で浮かんでいた。
「お前も、ひとりか……」
自嘲気味に、小さく呟く。
そして蒼空に向かって大きくため息をついた俺は、校舎の中に戻ろうとその場で身を翻した。
その時だった。
空を映し出すばかりだった俺の視界に、空と雲と校舎以外の存在が映し出されていることに気がついたのは。
足を止め、改めてその何かに視線を向ける。
「香里……?」
この寒いのに、大きく開け放たれた二階の廊下の窓枠。
そこに両腕を組むように乗せ、肩から先だけを覗かせながら外界を見つめやる香里の姿が、そこにいた。
彼女の視線は、生憎と空へと向けられてしまっているため、俺の位置からだと表情まで読み取ることはできない。
でもその様子は俺に、何か目的があって外を眺めているというよりは、ただぼんやりとそうしているだけという印象を強く与えてくれた。
「おぃ、かお――」
でも紡ぎかけたその言葉は、途中で途切れてしまう。
理由は簡単。
何となく、いま彼女に声をかけるべきじゃ無いような、そう思ったしまったからだった。
同時に脳裏にふと、名雪の言葉が蘇る。
一昨日、帰りに寄った喫茶店で好物のいちごパフェを前に、ぽつりぽつりと彼女が紡ぎだした言葉。
『香里ってね……いつも明るく話すけど、時々悲しそうな顔をするんだよ……』
『心配で……どうしたのって理由を訊くんだけど、でも香里はいつだって気のせいだって言って、何も話してくれないんだ……』
『最近の香里、特にそうだよ……』
どうしてなのか、香里と出会ってからまださして日の経っていない俺に、その理由が分かる道理もなかった。
誰にだって、他人には決して触れられたくない痛みのひとつやふたつ、あるだろうと思う。
名雪の言う香里の悲しみが仮にその何かを原因とするものだとしたら、それこそ俺ごときが、興味本位で踏み込んで許されることじゃ無いだろう。
そのことを俺は、知っているのだから。
……知っている?
そこまで思考を巡らせたところで、ふと疑問を抱いてしまう。
どうして俺は、「知っている」なんて思えるのだろう。
一体俺が、何を知っているというのか。
香里の悲しみを?
他者の介入を許すことのない、悲しみの存在を?
それとも――。
「そんなところで何してるの、相沢君?」
ぐるぐると、どこからも答えの見出されることの無い思考の輪にはまりかけていた俺を現実へと引き戻してくれたのは、頭上から届いた声だった。
見れば階下の俺の方に顔を向けた香里が、朗らかな笑みを浮かべていた。
つい先刻までその身にまとっていたはずの寂しげな雰囲気は、いつの間にか影を潜め、それに代わって教室で見慣れた朗らかな彼女の姿がそこにあった。
「おぅ。ちょっと、な」
気付かれる前に姿を消しておくべきだったのではないかと、内心で舌打ちをしながら、曖昧な返事を口にする俺。
「ちょっと……ね」
「なんだよ」
「また道に迷ってたんじゃないのかな、ってね。それとも相沢君って、やっぱりどこかの秘密機関から密命を帯びて……」
そこまで口にしたところで頬に指をあてながら、思案するようにほんの少し小首を傾げてみせる香里。
大きくため息をつきながら、俺は言葉を返す。
「いい加減、そのパルプSF的発想はやめてくれ」
多分そんな俺の反応を予想していたのだろう、頭上からくすくすと小さな笑みをこぼした香里は、
「ちょっと残念」
そう言って、悪戯っぽく目を細めてみせた。
§
両脚を揃えたまま階段からぴょんと飛び降りた彼女の足下から、さくりと雪を踏みしめる靴音が発せられる。
その余韻に浸るかのように、目を閉じたまま少しの間じっとその場に立ちつくしていた香里は、やがてゆっくりと足を踏み出した。
「やっぱり、外は寒いわね」
俺の方へと歩み寄りながら、口を開く。
「まあ、冬だしな」
「そうね」
点々と一定の間隔を置いて校舎から延びる、ふたつの足跡。
それは俺にとって言葉にはし難い、どこか不思議な何かを感じさせてくれる光景だった。
新校舎と旧校舎とを繋ぐ渡り廊下に隔てられるように仕切られた、中庭と言うより裏庭とでも称すべきこの場所に関して俺が持っているのは、その殆どが栞とふたりで過ごした記憶ばかり。
その場所で俺は、いま香里と相対している。
「でも、いい天気」
空に向かって大きく伸びをしながら、屈託ない表情を浮かべる香里。
彼女の言う通り、空はさっき見上げた時と同様相変わらずの深く澄んだ青一色に染め尽くされていた。
そんな彼女を、言葉なく見つめやるばかりの俺。
考えてみれば香里と二人きりになるのは、あの雪の日に傘に入れてもらって以来のことだった。
そして思い出す。
これでもう何度目になるか分からない……帰り道、途中で寄った本屋で見た彼女が垣間見せた、痛々しげな横顔を。
鼓膜を微かに震わせた、口から紡がれた小さな呟きを。
だからだろう。
言葉の接ぎ穂をひとつとして見出すことができなかった俺は、視線は香里の姿に向けたまま、ただぼんやりとその場に佇み続けていた。
「ぼんやりしちゃって、どうしたの。あたしの顔に何か付いてる?」
そんな俺からの視線を感じ取ったのか、少し悪戯っぽい笑みを口許に宿しながら香里が訊ねかけてくる。
「え。あ、ああ……」
慌てて顔を、明後日の方へと逸らしてしまう。
その刹那だった。
軌跡を残すように流れてゆく視界の中、意識の奈辺にひっかかるような何かを感じ取ったのは。
「…………」
黙り込み、少し離れた場所にそびえ立つ建物を見据える。
そこにあったのは、旧校舎だった。
複雑なデザインに満ちた新校舎と比べて、見た目いかにも校舎然とした印象を抱かせてくれる、そんな簡潔なフォルムに包まれた木造建築物。
「相沢君?」
「…………」
「相沢君、聞いてる?」
「あぁ……」
生返事を返しながら、俺の意識はなおも傍らの香里ではなく旧校舎へと向けられていた。
築数十年は経っているかに見えるそれは、思いの外老朽化していなかった。
壁に穴が空いている様子もなければ、木製らしい窓枠の全てには鈍い光沢を放つガラスがきちんと収められている。
恐らくはいまなお校舎としての実用に供されるべく、きちんとした手入れが為されているに違いなかった。
そして一面を雪に覆われた大地から生えるが如き存在感を示すそれを前に、改めて考える。
俺は一体、この建物の何に違和感を覚えたのだろうかと。
分からなかった。
見れば見るほどにそれは特別な様子はどこにもなく、強いて言えば本来あるべき校舎としての人の気配が全く感じられない点が、気にならなくもない。
「なぁ、香里」
「何?」
ようやくまともな反応を示した俺に、どこか呆れた風の声で香里が応える。
「この建物って、いまも使ってるのか」
「建物って……旧校舎のこと?」
「ああ」
頷く俺。
香里は少しだけ考えるような素振りを見せた後、
「そうね。特別教室の幾つかと、文化部の一部が活動場所に使ってる他は、教材なんかを置いておく倉庫代わりに使ってるくらいね」
「……そっか」
「急にどうしたの、相沢君?」
「いや、まぁ別に大したことじゃない」
「ふーん」
分かったような分からないような、そんな曖昧な返事を口にしながら、でも彼女の視線は真っ直ぐに俺を捉え続けていた。
そして瞳には、どこか興味深げな色が浮かんでいる。
さすがに名雪ほどではなかったが、それでも彼女のその表情が更なる説明を言外に求めていることは、まだつき合いの浅い俺にも理解できた。
だからと言って、素直に「何となく気になったからだ」と本当のことを言ったところで、やっぱり納得はしてくれないだろう。
だから俺は、
「いやさ、俺がこの学校に来てから一週間以上経つけど、まだ一度もこっちには入ったことが無かったからさ」
とりあえず、一番無難だろうと思える答えを口にしておく。
実際問題中に入ったことがないのは本当のことだから、別段嘘をついたという訳でもなかった。
「あら、中に入ってみたいの?」
「興味がないと言えば、嘘になるな。何となく、探検ごっこみたいで楽しそうな気もするし」
冗談交じりに口にした俺のその言葉に返ってきたのは、思いの外冷静な彼女の声だった。
「止めておいた方がいいわよ」
「どうして?」
まさか、また道に迷うからとか言うんじゃないだろうな。
確かに転校初日、名雪の案内を断った上にいきなり校舎の中を迷ってしまったのは、紛う方無き事実だった。
だがいかな俺とて、そう何度も同じ過ちを繰り返すつもりは無かった。
……多分。
でもそんな俺の思いも、香里にはすっかりお見通しだったらしい。
「そうね。相沢君のことだから、また道に迷っちゃうかもしれないし」
「やっぱり、そう思っていたか」
半ば諦めの境地で、俺はそれだけを返す。
「でもあたしが止めとけって言うのは、他にも理由があるから」
「……?」
「旧校舎には、昔から色々な噂があるのよ」
「噂って……いわゆる『学校の七不思議』みたいな、あれか?」
「そうそう、それ」
にっこりと、満足そうに目を細める香里。
いきなりそう来たか。
余りにもお約束な展開に、思わず吹き出しそうになってしまう。
いかに学校が、いまも昔もその手の話のネタの宝庫なのだとしても、世紀も変わろうとしているこのご時世に幽霊話というのは、さすがにちょっと……。
「あ、その顔は信じてないわね」
「俺は現実主義者だからな。この目で見た者しか信じない」
胸を張って、これ見よがしに主張する。
「相沢君らしいわ」
「ふっ、誉めてくれてありがとう」
「別に誉めてないわよ」
ちょっと呆れたような声を発しつつ小さくため息をついた香里は、そして言葉を続ける。
「噂といっても、そんな大したものじゃないのよ。教室から廊下に出ようとしたら別の教室に繋がってたとか、窓から別の世界の景色が見えるとか、姿の見えない何かに足を取られて転ばされたとか……」
「十分大したものに思えるぞ、俺には」
「あら、そうかしら? だって誰もいないはずの音楽室からピアノの音色が聞こえてきたり、十二段しかないはずの階段が十三段になっていたり、理科室の骨格標本やホルマリン漬けの解剖標本が動き出したりするのに比べたら、全然大したことないって、あたしは思うけど」
相変わらず顔には微笑みを宿しながら、お約束のオンパレードを指折り数えてゆく香里を前に、俺は思った。
どっちもどっちだ、と。
それにいまの話を聞いている限りでは、香里の「大したことない」の判断基準が俺にはイマイチ理解できなかった。
そもそも楽しげに話を続ける香里の様子を見ている限り、彼女自身その噂話とやらを信じている風が、全く感じられない。
「さっきも言ったが、俺は現実主義者だ」
「だから、自分の目で見ない限りは信じない?」
「その通り」
腕組みをしながら、俺は大きく頷いて見せる。
そんな俺に、彼女は少しだけ肩を落とすような仕草を見せると、
「残念」
そう、態度そのままの言葉を口にする。
「それに香里、どうせお前だって信じてないんだろ。そんな話」
「あら、どうしてそう思うの?」
何が楽しいのか、朗らかな微笑みを浮かべながら首を傾げる彼女に、俺はもう一度大きく頷きながら、
「俺の勘がそう告げている。お前は俺以上の現実主義者に違いない、と」
「ふーん」
口元に微笑みを宿したままに、それだけを口にする香里。
少し判読のしづらい、微妙な表情。
「あれ、違った?」
「ううん。正解よ」
「あ……そう」
内心で期待していたのとは違った彼女のその反応に、俺はちょっと拍子抜けしてしまう。
うーむ、香里手強し。
普段名雪をあしらっているのとは全く違った会話の感触を前に俺は、内心で思わずそんなことを思ったりしてする。
でも、決して不快ではない。
むしろ、心地よさのようなものを感じていたのも事実だった。
そして互いの会話が途切れた頃合いを見計らったかのように、俺の中にいるもうひとりの俺が、小声で二言三言耳打ちしてきた。
「なぁ、香里」
「何?」
少し前にしたのと全く同じパターンで、会話を始める俺たち。
「現実主義者としての両者の相互理解が一歩進んだところで、与太話はこの辺で切り上げたいと俺は思うのだが」
「そうね。こんな場所で立ち話をしてるのも、そろそろ辛くなってきたわね」
「でだ、俺から重要な提案がある」
「重要な……提案?」
真顔で会話を進める俺の様子に、どこか興味深げな反応を示す香里。
視線を落としながら、こほんと一度だけ咳払いをして軽く会話の間合いを取った俺は、
「それはだな」
「うん」
「つまりだ」
「うんうん」
そこまで口にしたところで俺は、きりりと引き締めていた表情を一気に崩すと大きく肩を落としながらぽつりと、
「……腹減った」
§
「さぁどうぞ、相沢君」
「…………」
「今日はあたしの奢りよ。沢山食べてね」
「…………」
沈黙を続ける俺。
その傍らで、俺のそんな態度を訝しむ訳でもなしに、楽しげな声で言葉を紡ぎ続ける香里。
足元に落としたままだった視線を上げる。
途端、視界に晴れ渡った空の蒼さと常緑樹の緑と、そして大地を覆う雪の白さのコントラストの鮮やかな光景が飛び込んできた。
土曜日の午後を過ごすに相応しい穏やかで、平和な世界。
これであともう少し季節が良ければ……頭上から降り注いでくる冬の陽射しは弱々しかったが、それでも身体を必要最低限には暖めてくれていた。
商店街を抜け、左右を木々に囲まれた並木道の先。
そこにあったのは、小綺麗な景観と比較的大きな敷地を有する市民公園とおぼしき場所だった。
公園の中央とおぼしき広場に築かれた池には、夏なら涼しげな雰囲気を醸し出してくれるだろう噴水が据えられていた。
その池を取り囲むように据えられたベンチのひとつ――見ているだけで寒気を覚えてしまう、噴水から放たれる水の糸を一望にできる――に腰を下ろしている俺と……そして香里。
いや、いま問題とすべき点は別にあった。
周囲に向けていた視線を、改めて膝の上に戻す。
口の開いた紙袋がひとつ、そこにはあった。
そして中には、どこにでもあるような総菜パンがラップにくるまれた状態のまま、無造作に転がっている。
袋から取り出したそれを目の前に掲げたそれをしげしげと眺めながら、俺は閉ざしたままだった口をようやくのことで開いた。
「ひとつ聞いていいか、香里」
「いいわよ」
「これは何だ?」
「呆れた。見て分からないの? パンよ」
一瞬だけ目を細めると香里は、まるで子供に教え諭すかのような柔らかな声を発する。
「いや、そうじゃなくてだな……」
「じゃあ、なに?」
にこにこと俺の言葉を待つ彼女。
どう見ても、この状況を楽しんでいるとしか思えない彼女を前に、思わず「はあっ」と大きくため息をひとつ、ついてしまう。
そして萎えかけた気力を奮い起こし、言葉を継ぐ。
「このパン、どこで買ってきたんだ?」
「商店街のパン屋さんに決まってるじゃない」
それは事実だった。
中庭で空腹を訴えた俺。
俺のその言葉に香里は、いともあっさり「じゃあ、お昼でも食べましょ」と同意の意志を示してくれた。
ここまではいい。
問題はその先だった。
てっきり学食に行くのだろうと思っていた俺だったが、教室に戻って帰り支度を整えた香里は、何故か昇降口へ向かって歩き出した。
「ちょ、ちょっと待て」
何か変だと自らの置かれた状況に疑問を抱いた俺は、昇降口に辿り着いたところでその疑問を口にする。
「……?」
「メシを食いに行くんだよな、俺たち」
「そうよ。お腹空いてるんでしょ、相沢君」
下駄箱から靴を取り出した香里は、靴を履き替えながら答える。
「だったら、なんで靴を履き替えなくちゃいけないんだ?」
「相沢君。駄目よ、上履きのまま学校を出ちゃ」
……学校を出る?
その言葉を耳にして初めて俺は、どうやらお互いの認識に大きなズレがあるらしいことに気がつく。
「学食に行くんじゃないのか?」
「違うわよ」
「へ?」
「せっかくの土曜日なんだから、外でお昼にしましょ」
微かに目を細めながら、香里は歌でも歌うような軽やかな調子でそう、俺に向かって言葉を紡ぐ。
「外って、どこへ行くつもりだ?」
「内緒」
「内緒って……何で?」
「じゃ、秘密」
くすりと、彼女の口から悪戯っぽい笑みが漏れる。
それはまるで、天使ならぬ小悪魔の微笑みさながらの表情だった。
「さ、行きましょ」
「え? ちょ、ちょっと待てっ!」
結局そのまま下校する他の生徒たちに混ざって、半ば引きずられるように商店街まで連れていかれた俺。
そして、
「ちょっと待っててね」
とそれだけを言い残した香里は、俺をその場に置き去りに雑踏の中へと消えてしまった。
時間にして十分ほどだったろうか、アーケードの片隅で待ちぼうけを食らわされた挙げ句、紙袋を小脇に抱えて戻ってきた彼女に再び引きずられた俺は、この公園にまで連れて来られたという訳だった。
以上、状況説明終わり。
まるで誰かに語るように回想に身を任せていた意識を現実へと引き戻し、厳然と存在し続ける現実と再び相見える。
手中のパン。
パンの切れ目に詰め込まれた黄色と白のツートンカラーな具は、多分玉子なのだろう。
「玉子サンド……か」
「相沢君、玉子は嫌い?」
「そんなことはないぞ」
「だったらどうして、そんなにパンをしげしげと眺めてるの? 何か、気になることでもあるのかしら」
不思議そうに、小首を傾げてみせる香里。
そんな彼女に俺は、小さく頷きながら、
「そうだな。重大かつ深刻な疑問が、ひとつだけある」
「なぁに?」
「どうしてこのパンは……賞味期限のところが、綺麗にマジックで塗りつぶされてるんだ?」
言いながら、これみよがしにパンを彼女の眼前に突き出す。
俺の指摘通り、包装代わりの合成樹脂製のフィルムに貼り付けられているシールに書かれていたはずの賞味期限の欄は、何者かの手によって綺麗に塗りつぶされてしまっていた。
しかもご丁寧なことに、製造年月日までもが同様の憂き目に会っている。
「あら、本当ね」
差し出されたパンを見つめながら香里は、そのことに初めて気付いたかのように少し驚いた声を口にしてみせる。
その様子に俺は確信した。
間違いなく、彼女が確信犯であることを。
「香里。お前このパン、どこで買ってきた?」
返ってくるだろう答えを半ば予期しながら、それでも一縷の望みを抱きつつ訊ねる。
でも俺のその期待は、所詮は儚い夢に過ぎなかった。
「いいところ、よ」
くすりと、小さく笑みをこぼしながら彼女が言葉を紡ぐ。
俺はため息混じりの声音で、
「怪しいところ、の間違いじゃないのか?」
「そうとも言うわね」
「ぐはっ。やっぱりそうだったのか……」
どうりでさっき、パンを買いに行くのに俺を置き去りにした訳だ。
つまり彼女の一連の行動の全ては、いまこの場のシチュエーションを実現させるための演出なのだった。
ようやくのことで、先刻の香里の行動に合点がいく。
「大丈夫よ。名雪は平気で食べてたから」
慰めを口にするように、ぽんぽんと俺の肩を叩きながらでも何のフォローにもならない台詞を口にする香里。
「それって、全然根拠のない『大丈夫』だと思うぞ」
「そうかしら?」
「ああ……」
力無く頷きながら、そしてパンをくるんでいたラップをはがす。
こうしている間にも俺の空腹ゲージは着実に歩を進め続け、既に臨界点近くにまで達していた。
一抹の不安はあるものの、兎にも角にも食えるものが目の前にあるのだ。
それに今更、新たな食料を探しに行くだけの気力は無かった。
「あ、食べる気になってくれたのね」
「背に腹は代えられん」
「うんうん」
満足げに頷く香里。
何か、完全に彼女のペースに乗せられてしまっているようだった。
大きく口を開け、すっかり冷え切っているものの、未だパンとしての食感は保たれているそれを一口囓る。
「…………」
「どう、おいしい?」
見るからに興味津々といった様子で訊ねかけてくる香里。
空腹故か、口の中で咀嚼されてゆく玉子とパンとマヨネーズのハーモニーが醸し出すそれは、思っていた以上に美味かった。
「悪くはない。でも……」
口の中のものを呑み込んでから、小さく呟く俺。
「……でも?」
「家に帰ったら、念のため胃薬を飲んだ方がいいかも」
「あははっ。そうね」
俺としては半ば冗談で口にしたつもりだったのだが、どうやら香里には本気で受けてしまったらしい。
うんうんと頷きながら、朗らかな笑みを浮かべて見せる。
その表情に悪態のひとつもついてやろうと口を開きかけた俺だったが、余りに邪気のないその笑顔に何となく毒気を抜かれてしまい、言葉を紡ぐ代わりにパンをもう一口頬ばる。
そして、今度は食べかけのまま、
「そう言えば、香里は食わないのか?」
「あたし? そうね、どうしようかな」
頬に人差し指をあてて小首を傾げながら、少し思案するように視線を逸らした香里は、程なく表情を戻すと、
「いいわ。じゃ、あたしもひとつ食べよっかな」
「おう。旅は道連れ世は情け、ってな。これで俺も、安心して腹を壊すことができるってもんだ」
「変な安心ね」
少し呆れたような声。
でも同時に彼女の瞳には、まるで小さな子供が親には内緒の遊びをするときのような、そんなどこか悪戯っぽい色が浮かんでいた。
似てるよな。
パンをかじりながら、ふとそんなことを思ってしまう。
思わずどきりとしてしまうほどの憂いに満ちた表情を垣間見せることもあるくせに、その癖いま俺の前で見せているような、年端のいかない女の子みたいな無垢な色も浮かべたりもする。
そんな姿が、どうしてか俺には栞の姿とダブって見えてしまっていた。
やはり香里と栞は、姉妹なのだろうか。
でも香里は、そのことを明確に否定している。
矛盾。
未だ闇の奥に閉ざされたままの、真実。
「どうしたの、相沢君?」
いつの間にか食事の手が止まってしまっていたのだろう、同じく手を止めた香里が不思議そうな様子で俺の顔を覗き込んでくる。
「もしかして、変な味がした?」
そして、いきなり恐いことを訊いてきた。
「いや、何でもない」
突然視界に飛び込んできた香里のアップに少しだけ動悸が早まるのを自覚しながら、慌てて視線を逸らす俺。
そしてパンの最後の一切れを口に放り込みながら、
「多少の不安は残るが、意外と美味かったな。このパン」
半分照れ隠しに、できるだけ冷静な声音を維持しながら言葉を紡ぐ。
「そうね」
小さく頷きながら彼女は、もぐとパンを頬ばった。
それきり沈黙が俺たちを包む。
ベンチに背を預け空を見上げながらふたつ目のパンに口をつける俺と、ゆっくりとした仕草で同じくパンを頬ばる香里。
どれくらいそうしていただろう、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「ね、相沢君」
「ん?」
最後の一口を呑み込みながら、視線を空から香里へと向ける。
どうやら彼女の方もちょうと食べ終わったところらしい、手にしたハンカチで口元を軽く拭いていた。
そして丁寧に畳んだそれを膝の上に置きながら、
「薬、欲しい?」
「あるのか?」
「ええ」
「くれ」
間髪入れず答える俺。
味自体は確かに悪くはなかったが、賞味期限の分からないものを食べてそのままというのには、やはり一抹の不安があった。
「備えあれば憂いなし、ね。とりあえず、風邪薬と解熱剤と胃薬と頭痛薬とうがい薬があるけど、どれがいい?」
「どれって……こういう場合は普通、胃薬だろ?」
「あら、それは分からないわよ。意外と、風邪薬とか頭痛薬の方が効き目があるかもしれないし」
「効くかっ!」
「冗談よ。はい、どうぞ」
小さく笑みをこぼしながら、スカートのポケットから胃薬らしい錠剤を取り出す香里。
「さんきゅ」
「どういたしまして」
受け取ったパッケージから錠剤をふたつ取り出した俺は、それを口の中にぽいと放り込む。
「ふぅ」
何はともあれ、これで一安心だった。
「あたしも飲んでおこっと」
再びポケットに手を入れて俺に渡したのと同じ錠剤を取り出した香里は、あむとそれを呑み込む。
そして横目でその様を眺めやるうち、ふと違和感にも似た思いを抱く。
「なぁ、香里。さっき言ってた風邪薬やらうがい薬やら……もしかして、全部持ち歩いてるのか?」
「そうよ。常備薬だもの」
あっさりと頷き返す香里。
見た目には、とても常備薬を必要とするほど香里が病弱とは思えなかったが、それを口にすると何をされるか分からないのでこの場は黙っておく。
そして、代わりの問いかけを口にする。
「一体、どこに?」
「もちろん、スカートのポケットの中よ」
お前はネコ型ロボットか……思わず、そんなボケともツッコミともつかない合いの手を入れそうになってしまう。
「ん、なぁに?」
でも当の香里は、俺の思いには全く気付いていないのか、朗らかな表情を浮かべるばかり。
まぁ、いいか。
結局それが、俺の口から放たれることはなかった。