『黄昏の園』
Update:2000.10.21





1月18日(月)

 夢。
 夢を見ている。
 穏やかな陽射しの下で微睡みを享受しているかのような、そんな曖昧模糊とした心地の中。
 瞳に映る、どこかしら現実感を失った……夢とも現ともつかない世界。
 どことも知れない、どこか。
 いつもとも知れない、いつか。
 まるでテレビのブラウン管に映し出されているかのように平板な、四辺を直線で切り取られた映像が、目の前にあった。
 じじっと、時折かすかなノイズを走らせながら、白濁していた画面がうっすらと何かを浮かび上がらせてゆく。
 程なく明瞭な像を結んだ画面の上には、小学生くらいの背格好の女の子がひとり、佇んでいた。
 画面の縁に切り取られているものの、腰まで届いているように思える長く緩やかなウェーブを描く髪。
 無駄のない曲線を描きながら、顎のところで綺麗なまとまりを見せる輪郭。
 そして正面を見据える、強い意志を感じさせるふたつの瞳。
 それらの少女を形作るパーツのどれもが、年齢以上にどこか大人びた雰囲気を周囲に放つ源泉となっていた。
 ……誰だろう。
 胸中に浮かび上がる、小さな疑問。
 どこかで会ったことがあるような無いような、そんなどちらつかずの思いが浮かんでは消えてゆく。
 その時だった。
 静止画のように凍り付いたままだった画面に、変化が生じる。
 少女の口が動いたのだ。
 まるで何ごとか俺に向かって訴えかけてくるように俺を見据えたまま小さく、ゆっくりと。
「…………」
 でも彼女の声が、俺の鼓膜を震わせることはなかった。
 開閉を繰り返す口の動きに伴って編まれているはずの少女の声は、スピーカーが壊れているかのように、ブラウン管のこちら側にいる俺の耳にはひとつとして届かない。
 それでも少女は話し続ける。
 こちらの状況など全くお構いなしに、訥々と。
「……聞こえない」
 画面に向かってそう、呼びかける俺。
 向こうからの声は聞こえなくても、もしかしたらこちらからの声は相手に伝わるかもしれない……そう思って口にした言葉。
 でもそれは、全くの徒労に終わってしまう。
 俺が話しかけても少女の様子は一向に変化を見せる様子はなく、相変わらず一方的に何かを話し続けるばかりだった。
「駄目……か」
 そして気がつく。
 俺自身の存在が、どうやらこの場においては単なる傍観者――ブラウン管に映し出される少女を見つめるばかりの視聴者に過ぎないことに。
 彼女の目には、俺の姿すら見えていないのかもしれない。
 いや、そうに違いなかった。
 少女の視線の先にあるだろう、一台のテレビカメラ。
 そして、ブラウン管を通して自らの姿を眺めているはずの無数の観客に向かって、彼女は語りかけているのだ。
 俺でない誰かに。
 俺を含む、無数の誰かに対して。
 そう思ったところで、心のどこかでほっと安堵の吐息を漏らしてしまう。
 安心?
 どうして、俺は安心してしまうのだろう。
 彼女の言葉に応える必要がないから?
 無責任な視聴者としての立場に甘えていられるから?
 多分、その両方なのだろう。
 実際のところ、いま俺の目の前で繰り広げられている少女の演技は、迫真のものだった。
 何かに耐えるかのように、胸元で固く握り締められた両の拳。
 心の裡を吐き出すかのように微妙な変化を伴いながら動き、言葉を紡ぎ出し続ける小さな口。
 そして大きく見開かれた瞳には、見る者全てをどきりとさせるような悲しみと寂しさの色に満ち溢れていた。
 これで声さえ聞こえていれば……。
 どんな声なのだろう。
 きっとその大人びた容姿に似つかわしい、落ち着いた感じの声音に違いなかった。
 思わずそんな想像を巡らせてしまうくらいの、それは見事な演技だった。
 でも、仕方がなかった。
 残念に思うと同時に、内心で諦めにも似た思いを抱いてしまう俺。
 理由は簡単。
 だってこれは……夢なのだから。
 夢とは非条理なもの。
 夢とは不合理なもの。
 いつだって好き勝手な出来事を繰り返し、そして見ている本人には決してままならないのが、夢というものなのだから。
 そう、これは俺の見ている夢。
 だから目の前にある画面に映し出されている少女も、決して現実の存在ではあり得ないし、実際のところそう思っている俺自身すら現実の存在ではないのだ。
 全ては虚構。
 俺の意識の中でだけ繰り広げられるその全ては、眠りから覚めた途端溶けるように消えてゆく、儚い記憶の残滓に過ぎないのだ。
 少女の演技は続いていた。
 その年齢とは不釣り合いな、哀愁に満ちた眼差しを浮かべながら。
 いまにも泣き出しそうな、でもそれをぐっと我慢しているかのような強い意志を感じさせる瞳を、画面を通して真っ直ぐに俺の方へと向けながら。

                  §

 まだ一ヶ月も経っていないはずなのに、いつの間にかすっかり俺の生活の中に溶け込んでしまった、チャイムの音色。
 そしていま俺の耳朶を叩いているそれは、午前の授業の終了を知らせる福音に他ならなかった。
 突っ伏したままだった机から頭を上げる。
 そしてふるふると、頭を振って半分寝ぼけたままだった意識を取り戻す。
 クラス委員の起立の号令に促されるように席を立った俺は、適当な頃合いを見計らって軽く腰を折った。
「祐一っ、お昼休みだよ」
 教師が去り、そして教室にざわめきが戻ってきた途端、傍らの名雪が何が嬉しいのか――どうせ昼休みだから、という程度なのは分かっているが――相好を崩しながら話しかけてくる。
「知ってる」
 再び椅子に腰を下ろしながら、答える俺。
 その声に折り重なるように、今度は斜め後ろからかけられる名雪とは別の声が耳朶を叩く。
「相沢君っ、お昼休みだよ」
 わざわざ振り返って確かめるまでもなかった。
 諦めにも似たため息を小さくついた俺は、肩越しにちらりと視線だけを向けながら、さも面白くなさそうに、
「キャラクター違うぞ、香里」
「冗談よ」
 くすりと笑みを漏らした後、まるで俺の態度に合わせるかのように表情を真顔に戻した香里が答える。
「さて、今日はどこ行こうかな…」
 四時間目に使った教科書とノートを机の中に突っ込んで、体をほぐすように席を立つ。
 先に反応したのは、名雪の方だった。
「どこも何も、学食しかないと思うよ」
「学食飽きた」
「祐一、飽きるほど行ってないよ」
 確かにその通りかもしれない。
 転校してから俺が学食に足を運んだのは、回数にしてせいぜい二、三回といったところだろう。
 少なくとも学食にあるメニューを一巡すらさせていない段階で、飽きるもあったものではなかった。
 でもそれを言ってしまっては、せっかく興に乗ってきた会話が台無しになってしまう。
 ということで、あくまで我を通すことにする。
「俺は飽きっぽいんだ」
「それは知ってるけど、でも学食しかないよ。お昼食べられるところは」
 どうやら名雪に、その辺の配慮を求めるのは儚い望みだったらしい。
 ウィットに富んだ含蓄ある会話を楽しもうとした俺の努力は、その一言であっさりといなされてしまった。
「仕方ない、行くか」
 内心で小さくため息をつきながら名雪を促すと、その言葉を待っていたかのように微笑みを浮かべた彼女は、
「うんっ」
 そう、大きく頷いた。
「……あれ? 香里と北川は?」
 その時になって初めて、いつもなら一緒に行くと言い出すはずの香里と北川の姿が無いことに気付く。
 教室の中を見渡してみるが、求める姿はやはりどこにも無かった。
 もしかして、先に行ってしまったのだろうか。
「香里はすぐに出ていったよ。先に行って場所取っておくって」
 そんな俺の思いを知ってかしらずか、廊下に連なるドアの方に目を向けながら名雪が口を開く。
「北川は?」
「その後をついていったよ。仲いいよね、あのふたり」
「だったら、俺たちも急ぐか……」
 行動が読まれているようで、何となく悔しさのようなものを感じなくもなかったが、わざわざ場所まで取ってくれているというのだ。
 せっかくの好意を無駄にする手はない。
 どのみち他に選択肢など最初から無いのも事実だったし、今日の昼は学食で決まりだった。
「さて……今日は何を食うかな」
「わたし、Aランチ」
 元気良く宣言する名雪と一緒に、教室を後にする。
「……またか」
 呆れ気味に、傍らを肩を並べて歩く名雪に顔を向ける。
「いつもそれじゃ、いい加減飽きるだろ。たまには他のものを食ってみるのも、気分転換になっていいぞ」
「飽きないよ。だってAランチ、美味しいもん」
「こないだ食べたカツカレーなんかも、結構いけたぞ」
 そう言ってうんうんと、小さく頷く俺。
 でも名雪は、そんな俺に疑わしそうな眼差しを送りながら、
「えーっ。Aランチでいいよ、わたしは」
「パスタ類も、麺の腰があってなかなか美味かったしな」
「Aランチ」
「そうかそうか、ようやく思い直してくれたか」
「……Aランチ」
 名雪のAランチに対する依存度はどうやらかなりのものらしく、まるで薬物中毒者のように、ひたすらAランチを指向し続けている。
 おっとりした物腰のせいか、普段から余り自分の意見を強く通すことのない名雪にしては、珍しくこの件については一歩も引こうとしなかった。
 うーむ、どうしてくれよう。
 具体的かつ効果的な対策を考えるうち、そう言えば子供の頃も名雪は、時々いまみたいに何があっても自らの主張を曲げようとしないことがあったことを、ふと思い出す。
 確か、あの時は……。
 まるで霧に覆われたように明瞭さを欠いたままの過去の記憶の糸をたぐり、そしてこういう場合、名雪相手には勝手に話を進めてしまうのが一番だという結論にたどり着く。
 何のことはない、いまとまんま同じじゃないか。
 思わず口許を緩めてしまう俺だったが、でもすぐに表情を戻すと改めて名雪の方に向き直り、言葉を継ぐ。
「名雪が気持ちよく譲ってくれたから、これで俺も今日は心おきなくAランチが食えると言うものだ」
「あ。祐一ずるい。譲ってなんかいないよ、わたし」
「なにっ、前言を翻すというのか! 男らしくない奴だな」
「何にも言ってないし、それにわたし……女の子」
「そういう説もあるな」
「事実だよ」
 不満そうに、ぷっと頬を膨らませる名雪。
 そんないかにも女の子らしい反応を示す彼女を前に俺は、苦笑を浮かべるしかなかった。
 それきり、何となく会話が途切れてしまう。
「ね、祐一」
 少し間を置いて、先に口を開いたのは名雪の方だった。
「ん、何だ?」
 廊下の空気に乗って、学食の方から流れてくる食べ物の匂いを鼻の先に微かに感じ取りながら返事を返す俺。
 もしかして、さっきの続きだろうか。
 そんなことを思いながら顔を向けた俺の耳に届いたのは、予想とは違う彼女の問いかけだった。
「もう、中庭には行かなくていいの?」
 意外な言葉。
 だからだろう、一瞬答えに詰まってしまう。
 廊下を歩き続ける俺の視界の端には、窓ガラスを通して中庭の真っ白な情景が広がっていた。
 その光景に記憶が刺激されるように浮かび上がる、ひとりの少女の姿。
 真っ白な雪に覆われた、訪れる人もない中庭のただ中でぽつりと、何かを待ち続けるように佇んでいた栞。
 そんな彼女と、たわいもない会話をするために中庭へと赴いていた俺。
 名雪たちの昼の誘いを断ってまでして。
「……明日も、また来てもいいですか?」
 別れ際、少し緊張した面もちでゆっくりとした口調で訊ねかけてきた栞の姿と、そして言葉が蘇える。
 でもその翌日……彼女は結局中庭に姿を現さなかった。
 それだけのこと。
 そう、ただそれだけのこと。
「祐一?」
 その声に、意識を現実に引き戻される。
 見れば名雪が、どこか不思議そうな様子で俺の顔を覗き込みながら、小首を傾げていた。
「あ、ああ……」
 曖昧な返事を返す俺。
 そして一瞬の間を置いてから、
「あそこに行く用は、もう無いからな」
 言葉を探し探ししながら、ようやくそれだけを答える。
 同時に、それは事実だった。
 風邪引きのくせに家を抜け出しては毎日学校に来ていた不良娘も、きっといま頃はベッドで大人しく寝ているに違いない。
 そして風邪が治ったら、きっと俺に会いにくるだろう。
「だから、もういいんだ」
「そっか」
 口元を微かに緩めながら言う俺に応えるように、はにかむような笑みを浮かべてみせる名雪。
 そして俺の袖を引きながら、
「祐一、早く行こっ。香里と北川君、きっと首を長くして待ってるよ」
「そうだな。北川はともかく、香里を怒らせると後が恐そうだ」
 行き交う生徒たちで賑わう廊下の中を、従姉妹に袖を引かれながら学食へと向かう俺。
 少し早足で歩を進めながら、ちらりと肩越しに背後を振り返る。
 瞳に映し出される光景。
 そのガラス越しに雪の白さと空の青さに映える中庭のどこにも、人の姿を認めることはできなかった。

                  §

「ふぅ、食った食った。でも……ちょっと食いすぎたかな」
 ほんの十数分前までとは打って変わって、心地よい満腹感に満たされながら教室への道を辿るべく、廊下を歩く俺。
「Aランチ、美味しかった」
「いつもAランチで、ホントよく飽きないものね。感心するわ」
「俺、見てるだけで飽きた」
 その傍らでは、名雪と香里と北川の三人がそれぞれに本日のAランチ問題について語り合っている。
 とりあえず俺もその会話に加わろうかと、そう思った時だった。
 俺に向けられているらしい、視線の存在を感じたのは。
 開きかけた口を閉じ、周囲に視線を巡らせる。
 求める姿はすぐに見つかった。
 少し離れた廊下の端に佇む、ひとりの女生徒。
 見たところ、どうやら彼女がさっきから俺に視線を向け続けている張本人らしかった。
 校舎の中に生徒が立っていること自体は別段珍しくもなかったが、俺の歩みに合わせて微妙に回る首の動きが、彼女が特別な存在であるらしいその何よりの証左だった。
 ただ問題なのは、俺の方に彼女の姿に全く見覚えがない点だった。
 何か用でもあるのだろうか……小さな疑問を抱きながら、でも声をかけるでもなくそのまま彼女の前を横切る俺。
「……あの」
 背後から声がしたのは、俺の視界から女生徒の姿が失われて数秒が経ってからだった。
 緊張気味な、どこか張りつめた感じの声。
 足を止め、背後を振り返る。
 周囲には少し先を歩いている名雪たちを除けば、俺と彼女しかいなかった。
「ちょっと……お訊ねしたいことがあるんですけど」
「俺にか?」
 自分を指差しながら問い返す俺に、こくりと頷く女生徒。
 制服のリボンが緑色――それは彼女が一年生であることの証だった――ということは、やはり顔見知りという訳では無さそうだった。
 でもそれなら何故わざわざ俺に声を掛けてきたのかが、全く見当がつかない。
「もしかして、前にどこかで会ったこととかあったか?」
 問いただす俺。
 そして女生徒から戻ってきた答えは、予想通りのものだった。
「多分、お話をするのは初めてだと思います」
「やっぱ……そうだよな」
「はい」
 こくりと、小さく頷く女の子。
 それから次の言葉を口にしたものかどうか迷うように視線を落とした彼女は、数瞬の間を置いてからゆっくりと顔を上げると、
「先週……中庭に女の子と一緒にいませんでしたか?」
「え?」
「お昼休みに、私服の女の子と中庭で一緒にいらっしゃったのって、先輩ですよね?」
 栞のことだろうか。
 昼休み、中庭、私服と来れば、まず間違いない。
 考えてみれば中庭自体、教室や廊下からは丸見えなのだから、誰かが俺たちの姿を目撃していたとしても、少しも不思議はなかった。
 もしかしたら彼女は風紀委員か何かで、私服の人間が校内に入り込んでいることを見咎めて、その相手をしていた生徒である俺に注意をしようとしているのだろうか。
「あ、ああ。そのことか……」
「よかった。やっぱり先輩だったんですね」
 人違いでなかったことに安堵したのか、女生徒は緊張気味だった顔つきを少しだけ緩めてみせる。
 その様子を、頭ひとつ分だけ上から見下ろしながら、
「えーとだな……あの時は私服だったけど、あの子もここの生徒なんだ。だからもしそのことを気にしてるなら、大丈夫」
 彼女の誤解を解くべく俺は、ゆっくりと口を開いた。
「あ、はい。そのことは知ってます。美坂さん……ですよね」
 でも俺のその言葉は、意外な返答で迎えられた。
「美坂って……栞のこと知ってるのか?」
「…………」
 どうしてか、口を閉ざしたままの女の子。
 俺のことを見上げる顔には、はいともいいえとも判断のつけ難い、どこか曖昧な色が浮かぶばかり。
 栞の友達だろうか?
 それとも、ただのクラスメート?
 疑問符を伴った幾つかの言葉が胸中に浮かび上がっては、そのまま溶けるように消えてゆく。
 でもそう考えるのが、一番合理的だった。
 風邪で学校を休んでいるはずのクラスメートが、どういう訳か私服姿で見知らぬ男子生徒――つまり俺のことだ――と一緒にいるのを見かけたら、彼女に限らず誰だって不思議に思うだろう。
「すみません。名前までは……ちょっと覚えていません……」
 消え入るような語尾でそこまで言ったところで女の子は、申し訳なさそうに視線を落としてしまう。
「一度しか……話をしたことないですけど……最初は見間違えかとも思ったんですけど……でもやっぱり、彼女は美坂さんだったと……思います」
「なぁ、ひとつ訊いていいか」
「はい?」
「栞のクラスメートじゃないのか?」
 当然の疑問だった。
 名前を知らないのはいざ知らず、もし彼女が栞と同じクラスの子なら一度しか話したことがないなんて、幾らなんでもあり得ない気がした。
 登校時、授業中、休み時間、放課後……それこそ話をする機会と時間は、十分すぎるほどにあるのだから。
「いえ、クラスメートです」
 顔をあげた彼女は、どこか寂しげな色を浮かべながら小さく頷く。
 そしてまるで何かを思い出すかのように、視線をかすかに泳がせながらゆっくりと口を開いた。
「美坂さん……一学期の始業式に、一度来ただけなんです」
「一度……だけ?」
 思わずおうむ返しに訊ね返してしまう俺。
 そして同時に、内心で彼女の言葉の意味を考えてしまう。
 一年生の一学期。
 つまりそれは、彼女たちにとってこの学校での新しい生活が始まりを告げる、そんな日に違いなかった。
 それなのに。
 良き日々の始まりであるはずだった始業式が、もし彼女の言が正しければ、栞にとっては始まりであると同時に……終わりでもあったのだ。
「本当に、それっきりだったんです……」
 そんな心の中だけで紡がれたはずの俺の思いを首肯するかのように、言葉を続ける女の子。
「それから、美坂さんがどうして学校に来ないのか……先生も教えてくれませんでした」
 脳裏に、栞の姿が浮かび上がる。
 真冬にはあまり似つかわしくない薄着にストールを身にまとい、中庭にぽつんと寂しげに佇む姿。
 学校を休んでいるのは風邪を引いているからだと、そう言いながら浮かべてみせた微笑み。
「誰も知っている人の居なかった教室で、私に最初に話しかけてくれたのが美坂さんだったのに……」
 雪合戦をするために、一生懸命に雪玉を作る後ろ姿。
 真冬の寒空の下、何が嬉しいのか相好を崩しながらアイスクリームを平らげてゆく幸せそうな表情。
「最初の……友達になれると思ったのに……」
 そして思う。
 なら一体、彼女は何のためにあんな場所にいたのかを。
 美坂栞という名の女の子のことを知っているだろう、友人もクラスメートも殆どいないはずの学校。
 そんな場所にわざわざ家を抜け出してまでして来て、果たして何を思いながら中庭に佇み続けていたのかを。
「あの……」
 おずおずと言葉を切り出す女の子。
 その声で我に返った俺は、改めて女の子に目を向ける。
 真っ直ぐに、まるで何かに縋るような真剣な眼差しを浮かべている彼女は、ごくりと一度唾を呑み込んでから、
「もしよろしければ、お願いがあるんです」
「お願い? 俺にか?」
「はい」
 突然の申し出に、思わず小首を傾げてしまう。
 そして少しだけ考えた後、頷きながら「俺に出来ることだったら」とそれだけを返した。
「ありがとうございます」
 初めて浮かべて見せた微笑みと共に、ぺこりと小さくお辞儀をした女の子は顔を上げると、
「もし美坂さんに会うことがあったら、伝えて下さい。いつか元気になって、また学校に来れるようになったら……一度しか話したことのない、私のことなんて忘れちゃってるかもしれないけれど、今度こそ友達になろうねって」
 はっきりと、微塵の迷いもなく紡がれた言葉。
 それは慰めでもなければ同情でもない、彼女の中にあるだろう本当の思いに違いなかった。
 たった一度きりの出会い。
 ほんの二言三言交わしただけの会話。
 その程度の出来事、普通なら時の流れと共に薄まり、消えていってしまっても何の不思議もないはずだった。
 でも……彼女は忘れていなかった。
 栞のことを。
 最初の友達になれると信じることのできた、彼女の存在を。
 果たして俺に、いま目の前にいる女の子が抱いているのと同じくらいの思いを示してくれる存在がいるだろうか。
 そして同じ立場に立たされた時、俺は同様に考えることができるだろうか。
 ……無理だろうな。
 そんなことを思いながら、どこか羨望にも似た思いを抱いてしまう。
 でも何故だろう、栞のことをそれだけ思ってくれている彼女の存在に、どうしてか嬉しさを感じてもいた。
 だから俺は、
「ああ、分かった。栞にはキミの言葉、必ず伝えておく」
 大きく頷きながら、笑顔を浮かべてみせる。
「ありがとうございますっ」
 目的が果たされた満足感からか、嬉しそうに目を細める女の子。
「それじゃあ私、教室に戻りますので」
「ああ」
「失礼します」
 軽くお辞儀をしてからくるりとその場で身を翻した彼女は、最初に会った時とは打って変わった軽やかな足取りで、俺の前から去っていった。
 途中、何度もこちらを振り返っては大きく手を振りながら。
「ふぅ……」
 彼女の姿が人波に紛れて見えなくなったところで、小さくため息をついた俺は止めたままだった足を再び動かし始める。
「祐一」
 声がするのと、視界に名雪の姿が飛び込んでくるのとは同時だった。
「おわっ……って、何だ名雪か」
「何だ、じゃないよ。せっかく待っててあげたのに」
 俺の反応がお気に召さなかったのだろう、頬を膨らませてあからさまに不満の意志を露わにする。
「え、待っててくれたのか? 先に教室に戻ってりゃよかったのに」
「うん、そうなんだけど。それで祐一、お話は終わったの?」
「とりあえずはな」
 大変な宿題を背負いこんじまったけど……後に続くはずの言葉は、胸の裡で呟くだけにしておく。
 事情を知らない名雪に言ったところで、仕方がない。
「ね、ね。あの子、祐一の知ってる子?」
「うんにゃ。いまが初対面だ。そう言いえば彼女の名前を聞くの、すっかり忘れてた」
「わ、ひどいんだ」
「いいよ。知らなくても、俺は別に困らないから」
 多分、だけど。
 そして呆れた顔をする名雪に目を向けながら、俺はふと気になったことを口にしてみる。
「そういや、香里と北川は?」
「うん。ふたりとも最初はわたしと一緒に祐一のこと待ってたんだけど、北川くんは通りがかった友達と話しながら先に行っちゃったよ」
「冷たいヤツだ。で、香里の方は?」
「北川くんがいなくなった後、部室に用を思い出したとか言って、すぐいなくなっちゃった」
「そっか……」
 と言うことは少なくとも香里は、俺とあの女の子が会話をしていたその場にはいなかった訳だ。
 そのことに、どうしてか安堵の思いを抱いてしまう俺。
 もし香里がその場に居続けたとしても、多分名雪と同様話の内容までは聞いていないだろうはずなのに。
 でも……。
 俺の中で、未だくすぶり続けている疑問。
 心の奥底で眠っていたはずのそれが目を覚まし、そしてこの時を待っていたかのようにゆっくりと顔をもたげる。
 香里と栞。
 姉と妹。
 どちらかが語っているはずの真実と、どちらかがついているはずの嘘。
 その真偽を、俺は確かめたいのだろうか。
 そう……俺は知りたかった。
 確かめたところでどうなるものでもないと分かっていながら、でも疑問は消え去ることなく、いつまでも俺の中でくすぶり続ける。
 答えを見出される時まで。
 真実が語られる、その時まで。
 そして思う。
 俺は、果たして誰にとっての真実を知りたいのだろうか、と。
「真実……か」
「え。何か言った、祐一?」
「んにゃ。なんにも」
 傍らの名雪に適当な返事を返しながら、俺は行き交う生徒たちで賑わう廊下の中を、教室に向かってゆっくりとした歩調で歩き続けた。

                  §

「祐一君っ!」
 唐突に鼓膜を震わせた声と、そして同時に背中に襲ってきた衝撃。
 それは突然の出来事だった。
 少なくとも、放課後という学生にとって貴重な時間を少しでも有意義に過ごすべく、寄り道よろしく商店街のさ中を歩いていた俺にとっては。
「どわっ」
 力任せに背中を押された俺は、前のめりになりながら思わずバランスを崩してしまいそうになる。
 が、危ないところでかろうじて踏みとどまる。
 そしてそのままの姿勢で、未だ俺の背中に体重をかけ続けている襲撃者へと顔を向ける。
 肩越しに見える姿。
 頭を覆う艶やかな髪と、そしてその先にぱたぱたと小さく羽ばたきを繰り返している白く小さな羽。
「あのなぁ……あゆ」
「うぐぅ。鼻が痛いよー」
 俺と彼女――あゆが口を開いたのは、同時だった。
 小さくため息をつきながら俺は、彼女が背中から離れるのを待って改めて背後に向き直る。
 どうやら背中に突っ込んだ拍子にぶつけたらしい鼻を押さえ、どこか恨めしそうな眼差しを浮かべながらあゆは、俺の方を見上げていた。
「なんだ、その目は?」
「祐一君のせいだからねっ」
 表情はそのままに、いきなりの非難の声。
「だから、俺には何のことやらさっぱりだぞ」
「祐一君が避けてくれないからボク、鼻をぶつけちゃったじゃないか」
「あのな……あんな一瞬の、しかも背後から襲っておいてどうやって避けろっていうんだよ」
 全くその通りだ。
 思わず自画自賛してしまうくらいの、もっともな言い様だった。
「襲ってなんかいないもん」
「嘘をつけ。確かに感じたぞ、俺に向かって放たれたお前の殺気を」
「ボク、そんなの放ってないよー」
「冗談だって」
「うぐぅ。祐一君、意地悪だよ」
 いつの間にやらすっかり形勢が逆転したらしい、俺を責めていたはずのあゆが防戦一方になっている。
 と言うか、いつものことだった。
 苦笑を浮かべながら、すっかりむくれてしまったあゆに向かって口を開く。
「で、いいのか。あゆ?」
 言いながら、何かを捜すように辺りを見渡す。
 そんな俺の挙動が何を意味しているのか理解できなかったのだろう、どこか不思議そうな色を浮かべてみせるあゆ。
「何が?」
「いやだから、逃げなくていいのか」
「どうしてボクが逃げなくちゃいけないの?」
「だって、食い逃げの途中だったんだろ」
 そして視線を落とすと、そこにはまるでそこにあるのが当然のように鯛焼きが一杯に詰め込まれた包みがあった。
 中から立ち上る湯気を見るに、どうやら出来立てらしい。
「店のオヤジが来る前に、さっさと雲隠れした方がいいんじゃないか」
 そしてせき立てるように、彼女の背中を押す。
「ち、違うよ。今日はボク、ちゃんとお金を払って買ってきたよっ」
「そうなのか?」
 じたばたと俺の手から逃れるようにその場で身を翻したあゆは、誇らしげに胸を張りながらにっこりと微笑んでみせる。
「うん。だから今日は逃げる必要はないんだ」
「今日は、な……」
 言いながら、ジト目で彼女を見据える。
 さすがのあゆも、俺のその言外の意を察したのだろう、えへへとどこか照れたような笑みを浮かべながら、
「あ。そ、そうだ。祐一君も一緒に食べようよ」
「賄賂か?」
 即座に答える俺。
「どうしてそうなるんだよっ」
「じゃあ口止め料」
「だからボク、ちゃんとお金は払ったってさっきから言ってるよ」
「今日は、な……」
「うぐぅ。やっぱり意地悪だよ、祐一君」
 馬鹿馬鹿しいくらいの堂々巡り。
 さすがに同じネタを三回やるのは気が引けたので、そろそろ話題を切り替えるかと思いかけた、その時だった。
 制服の裾を、誰かがくいくいと引いているのに気付いたのは。
 反射的に顔を、袖を引く手に向ける。
 女性のものらしい細くしなやかな指が、そこにあった。
 そして指先から手首、腕とゆっくりと視線を上げながら辿っていったその先にあったのは……。
「何やってるの、こんなところで?」
 冷ややかなと称した方がいいだろう眼差しと、まるであつらえたようにその視線とマッチした落ち着いた声音。
「……香里?」
 いつの間に現れたのか、そこにいたのは美坂香里その人だった。
 俺と同様、学校帰りなのだろうか。
 もしかして、名雪と一緒なのだろうか。
 何となく次の言葉が見つからないうちに、内心でそんなとりとめのない思いが浮かんでは消えてゆく。
 そして数秒の間を置いて、
「どうしたんだ、こんな場所に。買い物か?」
 ようやくのことで、それだけを俺は口にする。
 でも当の香里は何を思ってか、呆れたようなため息をひとつ漏らすと、辺りを見渡しながら、
「そんなことより、あんたたち。目立ってるわよ」
「へ? 誰が……って、おわっ」
 彼女の言葉に促されるように視線を周囲に向けると、俺たちを遠巻きに囲む人の輪が、これまたいつの間にやらといった感じで出来あがっていた。
 ひのふのみと目で数えてゆくと、両手では数え切れない程度の老若男女の視線が俺たちの次の行動を注視している。
「みんな、さっきからのあんたたちのやりとりを、街頭パフォーマンスか何かと思ってるみたいね」
「うぐぅ。ボク、恥ずかしいよぅ」
 紙袋を抱きかかえたままのあゆが、小さな身体をより一層小さくさせながら俺の背中に隠れようとする。
「うーむ、いつの間に」
 思わず腕組みをしてしまう俺。
「で、どうするの?」
「そうだなぁ」
 腕を組んだまま目を閉じ、しばし沈思黙考を続けていた俺だったが、やがてかっと目を見開くと、
「とりあえず……逃げるっ」
 言うや否や、アーケードの出口に向かって脱兎の如く駆けだした。
「あっ! 待ってよ、祐一君っ!」
「相沢君っ!」
 背中を追いかけてくる香里とあゆの声。
 そして聞こえてくる二人分の足音を耳に響かせながら、俺はなおも勢いを緩めることなく走り続けた。

                  §

 夕焼けが空を覆っている。
 空も地も木も、そして雪すらもが夕陽の照り返しを受けて紅に染め尽くされていた。
 そんな中、切れ切れに紡がれる言葉。
「……はっ……ひとりだけ……はっ……逃げようとするなんて……はっ……ずるいよ……祐一君」
 鯛焼きの入った紙袋だけを後生大事に抱きかかえているあゆ。
「し……仕方ないだろうが……はぁっ……あ、あの場合……」
 膝に手をつきながら、返事を口にする俺。
 少しずつ、呼吸が整ってくる。
 大きく息を吸い、そして黄昏空を見上げながら大きく吐き出す。
「そうね。多分、最善の選択だったと思うわ」
 そしてそんな俺の横で、息切れひとつ見せることなくけろりとした表情で佇んでいる香里。
 結構な距離を、しかも全力で走ったはずなのに。
 化け物か、こいつは。
 自らの体力不足を嘆く前に、俺は思わずそんなことを思ってしまっていた。
 少しずつ平静を取り戻してゆく呼吸、その回復を待って俺はあゆに向かって口を開く。
「そう言えば久しぶりだな、あゆ」
「え?」
 口からはまだ少し苦しそうな息をしながら、でも俺の言葉に驚いたようなどこかきょとんとした表情。
 そして次の瞬間あゆは、ぷっと不満そうに頬を膨らませて見せると、
「うぐぅ。ボク、祐一君とは昨日も会ってるよ。だって秋子さんの朝御飯、一緒に食べたもん」
「そうじゃなくて、商店街で会うのが久しぶりってことだ……」
「あ。そ、そうだね」
 多分俺の言葉が足りなかったのだろう、自らの早合点に照れるようにふにゃっと笑みを浮かべるあゆ。
「ふーん」
 傍らから届く声。
 誰の声かは言うまでもなかった。
 視線を動かすとそこには、腕組みをしながら俺とあゆの姿を見据える香里の、瞳だけがどこか興味ありげに揺れる姿が映し出された。
「……なんだ、香里。その『ふーん』ってのは」
「秘密」
「ぐはっ。またか」
 意味ありげな呟きに対する問いかけに戻ってきた、やはり意味ありげな曖昧な返答。
 まぁ、いつものことと言えばそれまでなんだけれど。
「ね、祐一君」
 そこで言葉を切って、何か言いたげな様子で俺の横から香里を見つめるあゆ。
 その瞳には、彼女にしては珍しく訝しげな色が浮かんでいる。
 あ、そうか。
「そういや、ふたりとも初対面だったな」
 自分がふたりを知っているので、つい互いに面識があると思ってしまっていたのだが、考えたらあゆにとって香里は見知らぬ他人なのだった。
「えーとだな、彼女は俺のクラスメイトで――」
「美坂香里です」
 途中から俺の言葉を引き継いで、口許に微笑みを宿しながら香里が自ら自己紹介する。
「初めまして、月宮あゆです」
 彼女の微笑みに促されるように、あゆも警戒を解いたように普段と変わらぬ屈託ない笑顔を浮かべてみせる。
「ちなみに、コードネームは『食い逃げ』だ」
「そんなコードネームなんてボク、持ってないよっ」
「昔から名は体を表す、って言うだろ。あゆにはぴったりのコードネームだと思うぞ、俺は」
「うぐぅ。今日は……食い逃げじゃないもん」
 ぽつりと小声で呟きながら、両腕の中の紙袋に視線を落とすあゆ。
 ちょっと言い過ぎたかな、内心でふとそんなことを俺は思ってしまう。
 そして同時に脳裏の片隅に覚える、何かが引っかかっているような、そんな言葉にし難い感覚。
 何だろう……ただの気のせいだろうか。
「いい匂いね」
 不意に香里が口を開いたのは、その時だった。
 その声にはっと、意識を現実に引き戻される。
 見れば香里は微かに目を細めながら、匂いの元を辿るようにゆっくりとした足取りであゆの側へと鼻先を寄せてゆく。
 そしてくすりと、笑みをこぼしながら、
「鯛焼きは、あったかいうちに食べないと勿体ないわよ」
「え? う、うん。そうだよねっ」
 頷き返したあゆは、ごそごそと紙袋の中に手を入れるとやがて取り出した鯛焼きを目の前の香里に差し出した。
「えっと……香里さん。はい、どうぞっ」
「ありがと。じゃ、いただきます」
 そしてふたり同時に、俺の目の前で鯛焼きにぱくついて見せる。
 あゆは頭から、一方の香里は尻尾の方からと、その食べ方は微妙な違いを見せてはいたが、
「美味しいよー」
「そうね。美味しいわ」
 互いの口から放たれた言葉は、同じものだった。
 出会ってまだ一時間も経ってないというのに、すっかり意気投合した感じのふたりを前に、俺はふと重要なことを思います。
「なぁ、あゆ」
「んぐんぐ。なぁに、祐一君?」
「俺にも一個くれ」
 でも、そう言った俺に戻ってきたのは刹那の沈黙。
 そして鯛焼きをくわえたままのあゆは、傍らのやはり鯛焼き食べようとしてた香里を目を合わせたかと思うと、
「相沢君は、おあずけよ」
「なんで?」
 思わず問い返してしまう俺。
「秘密」
「そうそう。秘密だよ」
 そう言ったきりふたりは何を思ってか、くすくすと声を合わせて笑い出してしまった。
 こ、こいつら……。
 どうやらいつの間にやら、男の俺には理解できない何かをもって、女同士の連帯が生まれているらしい。
 そのことに半ば呆れるような思いを抱きつつ、でも同時に俺の口から出てきたのは、諦めの色合いが濃い吐息だけだった。
1月19日(火)に続く

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