『黄昏の園』
Update:2000.11.13





1月19日(火)

 夢。
 夢を見ている。
 穏やかな陽射しの下で微睡みを享受しているかのような、そんな曖昧模糊とした心地の中。
 瞳に映る……夢とも現ともつかない、そんな世界。
 どことも知れない、どこか。
 いつもとも知れない、いつか。
 そんな中に、言葉を失ったままひとりで佇む俺。
 ここがどこなのか、俺は知っていた。
 そして、次に何が訪れるのかも。
 視線を微かに揺らした次の瞬間、俺の目にその次に訪れるはずの何かが飛び込んできた。
 平板な画面。
 真っ白な画面。
 時折ノイズを走らせる画面。
 待つほどもなく、その中に浮かび上がるひとつの像。
 ひとりの少女。
 緩やかに波打つ長い髪を従えながら、何ごとか訴えかけてくるように俺を見据える瞳。
 そう、これは夢の続き。
 既に一度見たはずの、そして終わりを知ることなく目を覚ましてしまったはずの、俺の夢の中だった。
 少女の口が動く。
 でも、その声は相変わらず俺の耳には届かない。
 俺を取り囲む空気は身じろぎひとつすることなく、しわぶきひとつ立つことのない湖面の如く、静寂をたたえ続けるばかりだった。
 何かを口にしかける俺だったが、でもその行為も途中で止めてしまう。
 何故なら俺は知っていたから。
 その全てが、所詮は無駄で努力あることを。
 ただの徒労に終わるだろうことを。
 少女の声が俺に聞こえないように、俺の声もまた少女に届かないことを、俺は知っていたから。
 彼女は演技者。
 俺は傍観者。
 それこそがこの夢の中で俺に割り振られた、そして彼女に与えられた役割なのだった。
 眼前の画面で続けられる少女の演技。
 胸の前で固く手を握り締めながら、ゆっくりとした動きで口を動かし続け、悲しみと寂しさに満ちた瞳で、彼女は俺を見据えていた。
 この子は、誰なんだろう。
 そして俺に、何を伝えたいのだろう。
 それはいまの俺にとって、当然ともいえる疑問だった。
 どこかで見たことがあるような……でも、それが誰なのかを思い出すことのできない、俺の意識と記憶。
 全ては、足跡ひとつ存在しない一面の雪に覆われているかのように、真っ白なままだった。
 多分、今日もまたこのまま終わってしまうのだろう。
 半ば諦観にも近いそんな思いを抱きながら、目の前でなおも演技を続ける少女に視線を戻す。
 その時だった。
 画面に、変化が生じたのは。
 それは本当に微かな変化。
 でも、だからこそ俺には、それが大切なことだと思えたのだ。
 少女はいつしか、言葉を紡ぐことを止めていた。
 祈るように胸の前で合わせた両手と、全てを射抜いてしまうような真摯な眼差しはそのままに、でも開閉を繰り返していたはずの口元はぎゅっと真一文字に閉ざされてしまっていた。
「…………」
 どうしたのだろう。
 もしかしたら彼女の方でも、ようやく俺に声が届いていないことに気付いてくれたのだろうか。
 そう思ったところで、自分が愚かな考えに支配されていることに気がつく。
 別に少女は、俺のために何かを訴えようとしていた訳じゃない。
 画面の中にいる彼女にとって俺は、所詮数多いる視聴者のひとりにすぎないのだから。
 そんな自嘲の念を抱きながら、でも目は少女の姿を捉え続ける。
 再びの変化。
 まるで夢の終わりを告げるように、世界が――俺と少女を含むその全てが、まるで溶けるようにゆっくりと薄らぎ始めたのだ。
 これで……終わりなのか。
 視界と同様に明瞭さを失ってゆく意識の中で、そんなことを思う俺。
 色彩が失われた後、世界の存在を縁取る輪郭だけが残され、やがてそれも消えてゆく。
 そして全てが失われる瞬間、俺は見たような気がした。
 少女の瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちるのを。
 悲しみに満ちた涙が、頬を撫でるようにゆっくりと伝い流れ落ちてゆく、その様を。

                  §

 さくさくと、雪を踏み締める足音。
 一定の間隔を置いて耳朶を震わせるその音色は、今日に限っては俺ひとり分だけだった。
 ちらりと、視線を横に向ける。
 いつもなら従姉妹の見慣れた横顔が映し出されるはずのそこには、誰の姿も存在しなかった。
 だからといって、別段俺が寝坊をした挙げ句、名雪に置き去りにされてしまったという訳じゃない。
 部活の朝練だとかで、先に学校に行ってしまったのだ。
 致命的に朝に弱いはずの名雪がよく起きれたものだと感心することしきりだったが、現に俺がリビングに下りていった時、既に家を出た後だったところをみると、多分何とかなったのだろう。
 と言うことで時間的には、むしろ普段より余程早い時間だった。
 何しろいまの俺には、ゆっくりと雪に覆われた朝の街並みを楽しむだけの余裕が――昨日までは時間ぎりぎりで駆け抜けるばかりだったその場所を――あるくらいだったから。
「……ん?」
 その姿を視界に捉えたのは、川岸の道を他の生徒たちに混じって歩いていた時分だった。
 肩にかかるくらいのやや茶色がかった髪に小柄な身体を包む黄色のコート、そして背中に背負ったリュックから伸びる白く小さな羽。
 距離にして数十メートルほど離れていたけれど、間違いなくそこにいたのはあゆだった。
「おーい、あゆ!」
 少し大きめの声で、呼びかける。
 振り返るあゆ。
 そして俺の姿を見出した途端、
「あっ、祐一くんっ!」
 見るからに嬉しそうな表情を浮かべてみせると、そのままぱたぱたとこちらに向かって駆け寄ってくる。
 雪のせいで滑りやすくなっているのだろう、端で見ていてちょっと危なっかしげな様子。
 何となく、嫌な予感がした。
「祐一君、おはよ――」
「…………」
「…………」
「…………」
「……あゆ、生きてるか?」
「うぐぅ……」
「お、生きてるみたいだな。良かった良かった」
 お約束のように足を滑らせ、雪面に向かってダイビングをする羽目になってしまったあゆを前に、俺は安堵の表情を浮かべながらうんうんと頷く。
「ちっとも良くないよっ!」
 ようやくのことで身体を起こし、不満そうに言いつのるあゆ。
 文字通り、全身に迷彩でも施したかのように雪にまみれた格好だった。
「しっかしホント、お前ってよく転ぶよな」
「うぐぅ。朝からついてないよ」
 あゆの服に付いた雪を落としながら、呆れたように呟く俺。
 手で払う度、朝の陽光を受け止めた粉雪がきらきらと輝きを発しながら、舞い落ちてゆく。
 とりあえず大方の雪を払い落としたところで俺は、
「そういやあゆ、こんな所で何してるんだ?」
「え。何って?」
「だから、朝っぱらからこんな場所であゆを見かけるなんて、珍しいからさ」
 実際、その通りだった。
 俺があゆと出会うのは、大抵は商店街でだった。
 もしかしなくても通学路で彼女と会うのは、これが初めてかもしれない。
「ボクも、学校に行く途中なんだよ」
「学校?」
「うん。祐一君とは別の学校だけどね」
 頷きながら、にっこりと微笑むあゆ。
「でもお前、いつもと同じ格好してるじゃないか。もしかしてあゆの学校、私服校なのか?」
「そうだよ」
 あっさりと返ってくる同意の言葉。
 ご丁寧に、背中の羽までもが彼女の感情を表すかのように、ぱたぱたとはためいていた。
「そっか。てっきり俺は、また捜し物でもしてるのかと思った」
 俺がそう言った途端、朗らかだった表情に微かな陰が差す。
 寂しそうな、悲しそうな……でもどこか曖昧模糊とした感じの、そんな中途半端な表情。
「あ。もしかして、まだ見つかってないのか」
「……うん」
 小さく頷くあゆ。
 さっきより、一層元気の無い様子。
「…………」
「…………」
 そして、それきり黙り込んでしまう俺たち。
 さくさくと、ふたり分の降り積もった雪を踏み締める小さな音だけが、耳に流れてくる。
 朝の陽射しを受けてなお、ちくちくと痛みを伝えてくる外気。
 微かに吹いているらしい風は、沈黙に満たされた俺とあゆの間をすり抜け、吹き去っていった。
「まぁ何だ……」
 言葉が失われてから五十歩ほども歩いただろうか、俺はようやくのことで口を開く。
 そして俺の傍らで、俯きがちに視線を落としながら肩を並べて歩くあゆの頭をぽんぽんと叩きながら、
「頑張って捜せば、きっといつか見つかるって。今度暇なとき、俺も手伝ってやるからさ」
 元気づけるように微笑みを浮かべながらそう、言葉を紡ぎ出す。
「ほんとうに……?」
「ああ。だから元気出せって」
「うん……そうだよね。一生懸命に捜せば、きっと見つかるよね。ボク、頑張るよっ」
 俺の励ましも多少の効果はあったのか、表情に朗らかさを取り戻すあゆ。
 その姿に、満足げに目を細めながら俺は、
「よし。それでこそ、あゆだ」
「それって、褒めてくれてるのかな」
「勿論だ」
「うんっ、ありがとう祐一君。ボク、嬉しいよ」
 そう言って俺の方を見上げながらふにゃりと、どこか照れたような笑みをあゆは浮かべて見せた。
 彼女のその笑みに、心のどこかが何かを思い出しかける。
 遠い過去。
 無くしたはずの思い出。
 その中に、確かに存在したはずの暖かな記憶。
 でも……意識の水面に浮かびかけたそれは、結局はっきりした像を結ぶことなく、再び沈んでいってしまった。
「それはそうとだな」
 思考を現実へと引き戻した俺は、改めて口を開く。
「うん?」
「そろそろ、時間がやばい気がする」
 言いながら辺りを見渡すと、さっきまでちらほらと散見された生徒の姿が、まるで掃き捨てられたかのように綺麗さっぱり消え去っていた。
「うぐぅ。誰もいないよー」
「と言うことで、俺は走る」
「うん、そうだね。ボクも、ちょっと急がないとまずいかも……」
 川を渡る橋が架けられた曲がり角で、俺たちはそれぞれの向かうべき場所に赴くべく別れる。
 俺は、そのまま川縁の道を真っ直ぐに。
 そしてあゆは、橋を渡った向こうへと。
「じゃあね、祐一君」
「ああ。またな」
 別れの挨拶を残して、ぱたぱたと走り去ってゆくあゆ。
 途中、何度かこちらを振り返っては、俺に向かってぶんぶんと大きく手を振ってみせる。
 その姿が視界から消えるのを待って、俺もその場を後にした。
 学校に向かうべく。
 いつも通りの全力疾走で、でもいつもと違ってひとり分の足音だけを周囲に響かせながら。

                  §

「祐一、放課後だよっ」
「その台詞、昨日も聞いた……」
 机に突っ伏したまま、耳元で語りかけているらしい名雪の声にぶっきらぼうに応える俺。
 どうやら惰眠をむさぼっている間に、四時間目の授業も滞りなく終わったらしかった。
 この学校に転校してきてから、そろそろ三週間。
 考えてみると、授業中の大半を寝てるかよそ見をしているかして過ごしているような、そんな気がする。
 実際問題、前の学校と比べるとこっちの方が授業の進み具合は多少速いようで、本当ならその遅れを取り戻すべく、もっときちんと授業を受けるべきなのかもしれなかった。
 ……普通なら。
「ふぅ。真面目に授業を受けると、やっぱり疲れるな」
 身体を起こし、肩に手をあてながら凝りをほぐすように首をくきくきと左右に捻る。
 そんな俺を、自分の席から見ていた名雪は、
「ずっと寝てたよ、祐一」
「む、そんなことはないぞ。俺はだな、ちゃんと睡眠学習で教師の話を全部聞いていたのだ」
「じゃあ、言ってみて」
 さらりとそう言いながら、しかし追求の手は緩めようとしない名雪。
「…………」
「…………」
「……いや残念。起きたら全部忘れちまったよ。やっぱこういうのって、夢と同じなのかもしれないなぁ」
「そんなの、ちっとも睡眠学習じゃないよ」
 呆れたようにぽつりと呟く名雪のその言葉にに、俺の反論の余地はどこにもなかった。
「と言うことで、昼飯食いにいくぞっ」
 誤魔化し半分に席を立ちかけた俺だったが、でもどうしてか名雪はそんな俺の姿を不思議そうな眼差しで見つめるばかり。
「どうした、名雪。メシ、食いにいかないのか」
「……祐一。お昼学校で食べるの?」
 変なことを言うヤツだな。
 この寒空の下、何が悲しくてわざわざ校外にまで昼飯の調達に走らなければならないのか。
 学食なら建物が廊下で繋がってるし、何より近いのだからそれが一番に決まっている。
 そして口を開きかけた俺だったが、その機先を制するように、
「だってもう、放課後だよ」
 少し困った様子で、名雪が言葉を紡ぐ。
「なにっ。すると俺は、昼休みも午後の授業もずっと寝て過ごしていたとでもいうのか。なんで起こさないんだ、名雪っ」
「違うよ、祐一」
「何が違うんだ」
「今日は午後の授業、ないんだよ」
「は?」
 それは意外な一言だった。
 と言うか、今日はまだ火曜日のはずなのに、どうして午前中で授業が終わってしまうのだろうか。
 事情がさっぱり分からなかった。
 その思いが多分顔にも出てしまっていたのだろう、自分の席から俺を見上げていた名雪が口を開く。
「祐一。もしかして昨日のHR、ちゃんと聞いてなかった?」
「当たり前だ」
 えへんと、胸を張って答える俺。
 そんな俺にどこか呆れた顔を浮かべた名雪は、そして小首を傾げて何ごとか考えるような仕草を見せると、やがて席を立つ。
「祐一、こっち」
 数歩行ったたところで、こちらを振り返りながらこいこいと手招きする名雪に呼ばれるまま、席を立った俺は彼女の後を追う。
「どこ行くんだ?」
「廊下」
「何でわざわざ、そんなところに……」
「行けば分かるよ。多分」
 ドアを抜け、廊下へと足を踏み出す。
 その途端暖かくも、しかし教室の中とは微妙にその色合いが異なら空気が、俺を包み込む。
「これだよ」
 廊下の壁を前に立ち止まった名雪が指差したのは、一枚のポスターらしきものだった。
「……ポスター?」
 そう言いながら覗き込んだ俺の目に、きらびやかに光輝く真紅の絨毯が敷き詰められた大ホールを描いたらしいイラストが飛び込んでくる。
 ホールのさ中には真っ白なテーブルや煌々と輝くシャンデリアに蝋燭、そして豪華な食事が並べられているという、考えようによってはかなり浮き世離れしたポスターだった。
 どこの誰が描いたのか知らないが、モチーフの非現実さはともかく、絵そのものはなかなか良く描けている。
「虫歯予防のポスターか?」
「……どうしてこれが虫歯予防に見えるの?」
「真面目に聞き返されても困るけど」
 俺の言葉にどこか困惑気味な様子で眉根を寄せ、視線はポスターへと注いだまま答える名雪。
 そして言葉を続ける。
「あさっての、学校行事の告知だよ」
「何の行事なんだ?」
「舞踏会」
「……名雪が天然じゃないボケを」
「ボケてないよ。だってほら、ちゃんとそう書いてあるよ」
 言われるままに改めてポスターに目を向けると、確かに見出しとおぼしき場所に誰が書いたのか瀟洒な文字で大きく『平成11年度学園舞踏会』と、そう書かれていた。
「武闘会っていうと、やっぱりあれか。学内最強の生徒を決める為の、禁則無し情け無用の血で血を争う――」
「ボケてるのは祐一。字が違うよ」
「冗談だって。でもなぁ……」
 腕を組み、小首を傾げながら見た目にもきらびやかなポスターを、まじまじと眺めながら嘆息する。
 そして視線を名雪の方に送りながら、
「舞踏会って、学校行事だったのか?」
「毎年恒例らしいよ。去年はわたし、参加しなかったけど」
「どうしてだ?」
「だって、どう考えても場違いだもん」
 何か論点がずれてるような気がする。
 そもそも学校行事なんだから、似合う似合わないに関係なく全員参加が原則なような気がする。
 でも名雪の口ぶりだと、どうやらそういう訳ではないらしい。
「参加しなくてもいいのか?」
「自由参加だよ」
「それを聞いて安心した」
 名雪だけでなく、俺にしたところでどう考えても「舞踏会」ってのは場違いであることに変わりはなかった。
 そもそも、こんな場所に着ていけるような正装を、俺は持っていない。
「で、これと今日の午後の授業がないのと、何の関係があるんだ?」
 ポスターには、舞踏会の開催日は明日だと書いてある。
 しかも放課後も結構遅い時間から始まるらしく、授業自体は平常通り行われるようだった。
「その準備で、今日は半日で学校も部活も終わりなんだよ」
「なるほど」
 的確かつ明快な答えに、大きく頷く俺。
「だから、一緒に商店街に行こ」
「誰が?」
「祐一が」
「誰と?」
「わたしと」
「どうして?」
 そう言った途端、名雪の表情が訝しげなものに変わる。
 そして口を尖らせながら、
「あ、もしかして祐一、わたしと約束したこと忘れちゃってるんだ」
「約束?」
 はて、そんなものしたっけ。
 天井を見上げながら記憶を探り、彼女の言うところの約束とやらを思い出そうとしてみる。
「ああ、あれか」
 そう言えば朝、通学途中に時計の電池の交換に行くからつき合ってくれと名雪に言われて、それにOKをした覚えがあった。
「思い出してくれた?」
 少し上目遣いで俺の顔を覗き込むように、にっこりと微笑みながら名雪は、それが約束の合図だったかのように小指を差し出してくる。
「時計の電池を替えに行くんだっけ」
「うんっ」
「仕方がない。ひとりで商店街にも行けないお子さまの名雪の為に、保護者代理としてつき合ってやるか」
 大げさに肩をすくめながら、その場から身を翻して教室へと戻る俺。
 無論のこと、商店街へと赴くべく帰り支度をするためだった。
 そしてそんな俺の背中に、名雪の「わたし、お子さまなんかじゃないよ」という非難めいた声が追いかけてきた。

                  §

 その姿を見かけたのは、偶然だった。
 軽やかな足取りで時計屋に入っていった名雪を待つべく、店の前の歩道で手持ちぶたさに辺りを見回していた俺。
 周囲は夕方の商店街に相応しい、どこか気忙しさを感じさせる賑わいに満ちていた。
 傾き始め、黄色より赤の度合いを徐々に濃くしてゆく冬の早い夕暮れ。
 冬至からまだ一ヶ月。
 恐らくあと一時間もすれば、赤から紫へ、そして黒へとその身をやつした空は夜の帳に覆われてしまうことだろう。
 ちらりと、名雪が消えた時計屋の店先に視線を向ける。
 ショーウィンドに所狭しと並べられた色も形も様々な時計が、個人商店らしいずぼらさで好き勝手な時を指し示しているのが見て取れた。
 残念ながら時計に邪魔されて中は見えない。
 再び首を巡らす。
 すると今度は、一面ガラスで埋め尽くされた本屋の店構えが視界に飛び込んできた。
 陽光の照り返しで鈍く輝く鏡面に、店中を行き来する人々の姿がどこか輪郭の曖昧な像を映し出されている。
 その様を無言で眺めやりながら、俺は相変わらず何をするでなしにぼんやりとその場に佇み続けた。
「……ん?」
 ふと、意識のどこかが刺激を受ける。
 視界の中に見知った姿を見出したような、そんな気がしたからだった。
 気のせいだろうか……。
 半ば霧散しかけていた意識を慌ててひとつ所にかき集めた俺は、気になった辺りに改めて目を凝らしてみる。
 間違いない。
 今度こそ確信した俺は時計屋の方に視線を向け、名雪がまだ出てこないことを確かめてから、本屋の中に足を踏み入れた。
 雑誌類の立ち並ぶ棚を横目に歩き続け、文庫本の収められた書架の間をすり抜けるように店の奥へと進む。
 そして恐らくはインクと紙が発してるのだろう匂いが淀む、あまり日当たりの良くない――本にとってはその方がいいのだろうが――奥まった場所に、俺はその姿を見出した。
 いつぞやと同じく、棚から取り出した分厚い本を手中で広げながら、じっと視線を落とす姿。
 その横顔からは感情といったものの存在を、全くといっていいほど感じ取ることができなかった。
 まるで人形のような、生気の抜け落ちた表情。
 でも同時に、微かに上下している胸元の動きが、彼女が人形などではないことを明瞭に主張してもいた。
 声を掛けようと、口を開きかける。
 でも途中でそれを止めてしまった俺は、そして足音を立てないよう気を付けながら彼女の背後へと忍び寄っていった。
 そういえば……前も似たようなことをしたことがあったかも。
 内心で自らの行動にそんな既視感に似た思いを抱きながら、そっと肩越しに前をのぞき込んだ。
「……パンケーキ?」
 としか言いようのないものが、そこにあった。
 綺麗な円を描いている本の中のそれは、包丁の切れ目を示すが如く中心点から何十もの放射状の線を広げていた。
 例えるならそれはパンケーキか、それともエアクッションとでも称すべきものに俺には見えた。
 料理の本……なのだろうか。
 一瞬、そんなことを思ってしまう。
 でも俺のその想像は、そのパンケーキだか何だかよく分からないものの横にある別のイラストを見た瞬間、誤りだったことを知らされる。
 そこにあったのは、まるで木の葉が直接地面から生えているかのような、何とも奇妙な光景だった。
 これが食えるものだとは出来れば思いたくない、そんなシルエット。
「違うわよ、相沢君」
 俺がそこにいることに微塵も動じた様子も見せることなく、何ごとも無かったように視線だけをちらりと向けながら彼女――香里が口を開いた。
「違うって、じゃあ……」
「ええ。これも、立派な生物よ」
 またかい。
 正直、そう思った。
 いつだったか、同じこの場所で香里が持っていた本の中に居た奇妙奇天烈としか言いようのない生き物たち。
 滅びの階段を上りきってしまった、哀れな生命の残滓。
 こいつらも、その一翼を担っているということなのだろうか。
 多分、そうなのだろう。
「この子たちはね、最後の楽園の住人なのよ」
「楽園?」
「そう。捕食者のいない、生存競争というものが存在しなかった、勝者も敗者もない――全ての生き物にとっての楽園」
「…………」
「でもだからこそ、この子たちは『進化』という名の壁を乗り越えることができなかった。失敗作に終わってしまった」
「失敗? どうして?」
 そう訊ねる俺に、香里はくすりと小さな笑みをこぼす。
 まるで憐れみを面に現したような、そんなどこか自嘲的な笑み。
「簡単な理由よ。競争相手が現れたから。彼女たちを食べることで糧とする生命が生まれた瞬間、それから我が身を守る術さえ知らないこの子たちの、失敗作としての運命が定められてしまったのよ」
「分かったような、分からないような……」
「そうね、あたしたちは、所詮この子たちを滅ぼした捕食者の末裔だから。加害者に被害者の心は分からな――」
「祐一っ」
 背中から声がしたのは、その時だった。
 振り返る。
 するとそこには、困ったように眉根を潜めている名雪の姿があった。
「もう終わったのか、名雪?」
「もう終わったのか、じゃないよっ。お店を出たら祐一がどこにもいなくて、わたしあちこち捜しちゃったんだか……あれ、香里?」
 非難の言葉を途中まで言いかけたところで、ようやく傍らの香里の存在に気付いたらしい。
 ちょっと驚いた風を見せながら、香里に視線を向ける。
 先に口を開いたのは、香里の方が先だった。
「ふたりでお買い物? やっぱり仲いいわね」
「ち、ちがうよ。わたしの時計の電池が切れちゃったから、取り替えに来ただけだよ」
「そうなの?」
 悪戯っぽく目を細めた香里は、何故か視線を俺の方へと向けながら問い返してくる。
 ゆっくり頷く俺。
「ふーん」
「そういう香里こそ、こんなところで何やってんだ?」
「寄り道、よ」
「いや、それはそうだろうけど……誰かと一緒とか」
 そう言いながら辺りを見回してみるが、人気の絶えたこの場所に名雪と香里以外の姿を、俺は見出すことができなかった。
「誰かと……そうね、そうだったらいいわね」
 俯きがちに、囁くように紡がれた言葉。
 その声は俺の耳にかろうじて、切れ切れな言葉の断片となって届いたにすぎなかった。
「え?」
「ううん、何でもない。ひとりよ、あたしは」
 微笑みを浮かべながら、答える香里。
 でもどうしてだろう、俺はその彼女の微笑みにどこか寂しさとでも言うべき色を感じてしまった。
 ひとりでいることの寂しさ。
 いるはずの誰かのいない寂しさ。
 そして思い出す。
 いつか、喫茶店で言っていた名雪の言葉を。
 あの時彼女が言っていた「悲しそうな顔」というのは、もしかしたらいま目の前で香里が浮かべている表情のことを指しているのかもしれない。
 表情は穏やかで。
 声は朗らかで。
 でも……その瞳は、決して喜びも楽しみも見出すことのできない、深く沈んだ色をたたえ続けていた。
 まるで心の奥底にある、悲しみに耐えているかのように。
 多分名雪も、そのことに気付いていたのだろう。
「ね、香里。よかったら、うちに来ない?」
 だからこそ、何の前触れもなくそんなことを言い出したに違いなかった。
 突然のその申し出に、香里の方はといえば「え?」と言いながら少し驚いた様子を浮かべている。
「いまから?」
「うんっ。何だったら、泊まっていってもいいよ。そうしてくれたら、お母さんもきっと喜んでくれると思うから」
「…………」
 名雪の言葉を皆まで聞いたところで、考え込むように視線を落とす香里。
 沈黙が俺たちの間を包む。
 目を閉じたまま考え込む香里。
 その様をじっと見つめやる名雪。
 そしてどうにもリアクションの取りようがなく、何となく棚に並ぶ本の背表紙を眺めるばかりの俺。
 どれくらい経った頃だろう、閉ざされていた瞳をゆっくりと見開いた香里は、つっと俺の方に視線を向けてくる。
 それはまるで俺に可否を問いかけてくるような、そんな眼差しだった。
 何で俺に……そんなことを思いつつ、同時に思考を巡らせる。
 でも、結論は考えるまでもなかった。
 向けられた香里の視線を正面から受け止めた俺は、無言で小さく頷き返す。
 そして、まるでそれが合図だったかのように、
「そう……ね」
 躊躇いがちに呟きを漏らした香里は、次の瞬間にっこりと俺と名雪に向かって笑顔を浮かべて見せると、
「じゃあ、今日は久しぶりに名雪と一緒に寝よっかな」
「うん。じゃあ行こっ」
 これまた喜色満面といった風で、香里の手を取るとさっさと出口に向かって歩き出す名雪。
 やれやれ……。
 ふたりの背中を見ながらすっかり置き去りにされた格好になってしまった俺は、小さくため息をつきながら歩き出した。
 何やら楽しげに言葉を交わしている、ふたりの横顔。
 そしてそこにある香里の瞳からは、先刻まで浮かんでいたどこか憂いをたたえた色は――消えていた。

                  §

 胸が重い。
 まるで何かが上にのし掛かってきているような、そんな圧迫感にも似た感覚。
「……ち。……いちっ」
 声が聞こえる。
 誰だろう。
 俺の名を呼んでいるような気もするのだが、切れ切れに届くその声だけではよく分からなかった。
 眠りの底にあった意識が、少しずつ現実へと向かって頭をもたげてゆく。
 目を開く。
 俺の目に最初に映ったのは、覗き込むように顔を寄せてきている名雪のアップだった。
 しなだれるように組んだ両手を俺の胸の上に置き、何が嬉しいのか妙に明るい表情を浮かべたまま、じっと俺の顔を見据えている。
「な……ゆき?」
「あ。やっと起きた」
 ゆっくりと身体を起こして首を巡らせる。
 そこは、俺の部屋だった。
 どうやら晩飯を食った後、心地よい満腹感に誘われるままに居眠りを決め込んでしまったらしい。
 まだどこかぼんやりとしたままの意識でそこまで考えたところで、改めて目の前の名雪に視線を戻す。
 そして、思わず息を呑んでしまう。
「…………」
「……どしたの、祐一?」
 彼女を見据えたまま固まってしまった俺に、どこか不思議そうな様子で小首を傾げる名雪。
 そんな彼女の言葉を無視して、俺は頬をつねる。
 痛くない。
 と言うことは、これは夢なのだろうか。
「夢か……」
 ひとりごちそんな呟きを漏らしてしまう俺。
 でも反論は、すぐ間近から起こった。
「夢じゃなひよ〜」
「だって、つねっても痛くない」
「いひゃいのはわらしらよ〜。はなひてよ〜ゆういひ〜」
 どこか間の抜けた口調で――頬をつねられてるのだから当然だが――非難の声を発する名雪の頬から手を離す。
「ひどいよ、祐一」
 少し赤くなった頬を押さえながら涙目でそう言う名雪に、俺は苦笑を浮かべながら、
「いやまぁ、ほら……夢かどうかを確かめるには、昔から頬をつねってみるのが一番だって言うだろ」
「普通、自分のをつねると思うよ。そう言う時は」
「自分のだと痛そうだから」
「それじゃ、確かめる意味がないよ」
 困ったような表情を浮かべながら、小さくため息をつく名雪。
「それはそうと……」
 形勢の不利を悟った俺は、とりあえずその場を誤魔化す目的も込めて話題の転換を図る。
 そして、改めて名雪の姿を見やった。
「夢じゃないのなら、何だその格好は?」
「え、これ?」
 小首を傾げながら立ち上がった名雪のいでたちは……何というか妙に現実味を失った格好そのものだった。
 あちこちにレースのしつらえられた、薄く紅を帯びた生地。
 足首まで覆っている裾長のスカートは、まるで花が咲いているかのように名雪を中心に大きく広がっている。
 ご丁寧なことに、手には服と同色の手袋までしていた。
 これじゃまるで……。
「衣装だよ」
 俺が思うよりも早く、名雪が先に答えを口にする。
「衣装って……何の?」
「おかしなこと聞くんだね、祐一。舞踏会に決まってるよ」
 そう言いながら名雪はくるりと、嬉しそうに微笑みを浮かべながらその場で一回転してみせた。
 風呂上がりなのだろうか、空気の動きに乗ってシャンプーの柔らかな匂いが鼻先をくすぐるようにかすめてゆく。
「舞踏会だぁ」
「うん」
「なんで……」
「ね、祐一。こっち来て」
 皆まで言う前に彼女は、ぐいぐいと俺の手を引っ張りながら部屋の外へと連れ出そうとする。
「ちょ、ちょっと待て。どこ行くんだよ」
「いいからいいから」
 状況を全く把握できないまま、引きずられるようにして名雪に連れてゆかれたのは、一階のリビングだった。
「お母さん、祐一連れてきたよ」
「あら、祐一さん。ちょうどいいところに。いま、香里さんの衣装合わせが終わったところなんですよ」
「はぁ」
 何ごともなかったように、にこやかに言葉を紡ぐ秋子さんに促されるように視線を流した俺は、そして再び言葉を失ってしまう。
 そこには、ひとりの女の子がいた。
 まるで雪をそのまま生地にしたような、そんな無垢なる純白のドレスを身にまとった、大人びた顔立ちの少女。
 表情には珍しく、どこか恥ずかしげな色が浮かんでいた。
「……香里。お前まで何やってんの」
 思わず口を突いて出てきた言葉。
 そう、そこにいたのはまさしく香里に他ならなかった。
 もとより綺麗なヤツだとは思っていたが、この格好なら誰が見ても俺と同じ思いを抱くに違いなかった。
 俺の問いかけへの返答はない。
 当の香里は、口を閉ざしたまま複雑な表情を――嬉しいのか恥ずかしいのか、困っているのか判断に苦しむ――浮かべるばかり。
 それきり沈黙が、室内を覆う。
 そしてその沈黙を破ったのは、ややあってから名雪の口から紡がれた、ため息混じりな羨望に近い声だった。
「香里、とっても綺麗だね」
「ああ……」
 無意識のうちに頷いてしまう俺。
 それは文字通りの、俺の本心だった。
「褒めたって、何も出ないわよ」
 よほど照れくさかったのか、少し拗ねたようにそっぽを向きながらようやく香里が口を開く。
 普段滅多に見せることのない彼女のその反応に、俺は内心でどこかくすぐったさにも似た思いを抱いてしまう。
 でも、少なくとも悪い気はしなかった。
 目の保養、とでも言うべきだろうか。
「それでは、あとは祐一さんですね」
「は?」
「祐一も出るんだよ」
 咄嗟に返す言葉を見出すことができなかった俺に向かって、名雪が楽しげに目を細めながらそう言う。
「出る、って何に」
「舞踏会」
「誰が」
「祐一とわたしと香里」
「でも柄じゃないって言ってたじゃないか、お前」
「せっかくお母さんがこんな綺麗なドレスを用意してくれたんだから、出ないともったいないよ」
 うんうんと、傍らで腕組みをしながら香里が頷く。
 こいつら……。
「三人一緒なら、平気だよ」
 何が平気なんだかよく分からなかったが、とりあえず名雪と香里はすっかりやる気になっているようだった。
 一体何が、彼女たちに変心を促したのか。
 考えるまでもなかった。
 彼女たちにしてもやはり女の子、綺麗な衣装を身にまとえば何だかんだ言っても嬉しくなってしまうのは、自然の成り行きなのに違いなかった。
 ましてや、それを披露する機会が目の前にあるのだから。
 そこまで考えたところで、疑問がふと胸をかすめる。
「あの……秋子さん」
「はい」
 恐る恐るといった感じで口を開いた俺に、秋子さんは相変わらずの穏やかな笑顔で応える。
「このドレス……どうしたんですか」
「私が作ったんですよ。サイズが少し心配だったんですけれど、ふたりともぴったりでよかったわ」
 予想通りというか何というか、俺の思いとは少し離れた場所で安心した風を見せる彼女に、内心でため息をつくしかなかった。
 秋子さん、あなたって一体……。
 それでも俺は、無駄だろうと思いつつ最後の抵抗を試みる。
「でも俺、正装なんて持ってませんよ。せいぜい制服くらいしか――」
「大丈夫です」
 微塵も表情を変えることなく、あっさりとそう言ってのける秋子さん。
「ちゃんと、祐一さんの分も用意してありますから」
「…………」
「サイズの方は、多分大丈夫だと思いますよ。いま持ってきますから、袖を通してみてくださいね」
 それって誰が……一瞬そう問おうかと思った俺だったが、返ってくる答えはひとつしかないだろうことに途中で気づき、結局止めてしまう。
 既に衣装を取りに行ったらしい秋子さんは、既に俺の視界の中から消え去ってしまっていた。
 今日何度目になるか分からないため息が、口を突く。
 そんな俺に向かって、小さくガッツポーズをしながら名雪が、
「祐一。ふぁいとっ、だよ」
「あのなぁ……」
 文句を言いかけたところで、誰かが肩をぽんぽんと叩く。
 振り返ると純白のドレスに身を包んだ香里が、小さく首を振りながら俺に視線を向けていた。
「香里……?」
「相沢君、無駄な抵抗は諦めなさい」
「って言われてもなぁ」
「あたしだって、舞踏会なんて柄じゃないって思うけど、でも秋子おばさまにここまでしてもらったら……ね」
 くすりと、どこか困ったような色を浮かべながら笑みをこぼす香里。
 俺は理解した。
 香里も、俺と同様の抵抗を試みただろうことを。
 恐らくは秋子さんと、そして彼女より一足先に秋子さんに説得されてしまった名雪――何だかんだ言っても名雪は秋子さんには弱い――のふたりに押し切られてしまったに違いなかった。
「それに……」
「それに?」
「三人いれば、似合わなさも三分の一よ」
 どんな理屈だ、それは。
 諦観の吐息を漏らしながら、そんなことを思う。
 つまるところ舞踏会への参加は、欠席裁判の結果既に決定事項と化しているということだった。
 顔をあげた俺は、改めて香里に向き直ると、
「似合わないって言うけど……でも、香里のそれは似合ってると思うぜ」
「そう? ありがと」
 まるでお伽噺に出てくるような瀟洒なドレス姿を褒められて、まんざらではないように目を細める香里。
「ね、わたしは。祐一」
 その時、傍らで俺たちの会話を聞いていた名雪が口を挟んできた。
「名雪もとっても似合ってるわよ。お姫さまみたい」
「え、そうかな」
 香里の言葉に気をよくしたように、少し恥ずかしそうにはにかむ名雪。
 そんな彼女を俺は、頭のてっぺんからつま先まで値踏みするようにまじまじと眺めやる。
 そして、ややあってからため息混じりに、
「馬子にも衣装……だな」
 くすくすと、笑みをこぼす香里。
 そして、その笑い声に重なるように当の名雪の口からこぼれたのは、
「ひどいや、祐一」
 どこか拗ねた感じの、そんな一言だった。
1月20日(水)に続く

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