『朝〜、朝だよ〜』
「朝ー、朝だよー」
遠くから波打つように聞こえてくる、目覚ましの音。
『朝ご飯食べて学校行くよ〜』
「朝ご飯食べて学校いくよー」
音というよりは声といった方が正しいだろう、どこか力の抜ける感じの音色が俺の身体を優しく揺する。
この何週間かで、すっかり慣れてしまった朝の儀式。
名雪の声。
目覚ましの本来の持ち主である彼女の声が、まるでエコーがかかったように目覚めの呪詛を紡ぎ続ける。
……エコー?
『朝〜、朝だよ〜』
「朝ー、朝だよー」
間違いない。
そ半ば以上が、未だ微睡みの中に没したままだった意識。
でも聞き慣れた名雪の声に折り重なるように、明らかにそれとは異なる誰かの声が、口調を真似ながら耳許で言葉を編み続けていた。
『朝ご飯食べて学……』
「朝ご飯食べて学校いくよー」
布団から手を伸ばし、目覚ましのスイッチを押し込む。
名雪の声はそれでぴたりと止まったが、しかしもう一方の声は止まることなく最後までメッセージを読み上げていた。
目を開く。
そして目の前に予想していた通りの姿を見出した俺は、まるで悪夢から覚めた後のように、大きなため息を漏らしていた。
「朝からため息なんて、健康に良くないわよ」
「誰のせいだ、誰の」
思わず頭を抱えたくなる衝動を抱きつつ、布団の上に組んだ腕に頭を乗せ、間近から俺を見つめる彼女に向かって悪態をつく。
「お・は・よ。相沢君」
そんな俺の言葉を一切合切無視した彼女は、くすりと笑みをこぼすと何ごともなかったように朝の挨拶を口にしてみせた。
「……お早う、香里」
仕方なく、俺も返事をする。
その言葉に、満足そうに相好を崩す香里。
「それにしても相沢君、もしかして毎朝この目覚ましで起きてるの?」
「ああ」
「良く起きれるわね」
「慣れだ」
実際、その通りだった。
我ながらこの脱力メッセージでよく目が覚めるものだと思うが、結局のところ何ごとも慣れてしまえば大した問題じゃない。
そのことを既に身をもって学んでいた俺だったから、放たれた返答は微塵も迷いのないものだった。
でも俺の答えは、どうやら彼女のお気に召さなかったらしい。
何を思ってかかすかに口の端を緩めてみせると、どこか悪戯っぽい色を瞳に浮かべながら、
「残念。相沢君なら、きっと『愛があるからな』くらいは言ってくれるかと思ってたのに」
「なんでやねん!」
「冗談よ」
くすくすと笑いながら立ち上がった拍子にスカートの裾のふわりと揺れ、一瞬だったが太股の奥が見えそうになる。
……惜しい。
そんなことを思いながら、内心で舌打ちをしてしまった俺だったが、まるでその俺の思考を読みとったかのように香里は、
「なぁに?」
「いえ……何でもありません」
慌てて枕から頭を離して半身を起こした俺は、誤魔化すようにその場で大きく伸びをして、身体の中に未だ巣くっている睡魔をふるい落とす。
その間に窓際へと歩み寄った香里は、下ろされたままだったカーテンを両手で勢いよく開け放った。
途端、眩いばかりの光の粒が部屋中に流れ込み、暗闇に慣れていた俺の網膜にその痕跡を焼き付かせてゆく。
「もうすぐ朝ご飯よ」
窓を背に、こちらに振り返りながら言葉を紡ぐ香里。
「名雪は?」
「とっくに起きてるわ」
「マジ?」
「ええ。マジよ」
俺に起こされる前に名雪が自分で起きてくるなんて、一体どういう風の吹き回しだろうか。
もしかして今日は雪かも……って、窓からさんさんと朝日が射し込んできているところを見ると、どうやら今日もいい天気のようだった。
「と言うことで、さっさと着替えて下に来てね」
すたすたと俺の前を横切ってドアを開いた香里は、そこから半身だけ覗かせながら口を開く。
そして軽いウィンクをひとつ残して、ぱたぱたと階段を下りていった。
「あ、ああ……」
既に聞かせる相手のいなくなったドアに向かって返事をしながらベッドから抜け出した俺は、手早く着替えを済ます。
中身の殆ど入っていない鞄を手に、香里を追って部屋を後にした。
リビングに足を踏み入れた時、最初に感じたのはふんわりと鼻につく朝の匂いだった。
いつもと同じ匂い。
でも、いつもと少しだけ違う情景。
キッチンに立ち並び、軽やかな声音を混じえながら食事の用意をしているらしいふたり分の背中。
そしてダイニングのテーブルに突っ伏す、謎の塊がひとつ。
「なんだ……これは」
まるで触手のようにテーブルの上を所狭しと不定型に広がるそれを前に、思わず後ずさってしまう俺。
「くー」
間髪置かずに塊から発せられた寝息らしき声からすると……どうやらそれは名雪のなれの果てらしかった。
一応制服を着ているところを見ると、一晩中ここで寝ていたというわけではなさそうに思える。
想像するに、香里に起こされてどうにかここまで辿り着くことは出来たものの、結局力尽きて再び寝入ってしまったといったところなのだろう。
というか、まず間違いなかった。
でもまあそれはそれで、名雪らしいといえばそうなのかもしれない。
「お待たせ……ってまた寝てるの、名雪」
両手に皿を持った香里が、エプロン姿のままキッチンから姿を見せるが、寝息を立てる名雪を前に呆れた様子を見せる。
俺は苦笑いを浮かべながら、
「こんなもんだって、いつも」
そう言って、テーブルの上の名雪の頭をぽんぽんと軽く叩く。
「うにゅ〜。いちごジャム美味しいよ〜」
「な?」
「……そう言えばそうね」
それで納得してくれたのか、香里は手にした皿をテーブルに置くと空いた椅子に腰を下ろす。
「さぁ、ご飯にしましょう」
少し遅れて姿を見せた秋子さんは、さすがにもう慣れっこなのか寝続ける名雪を完全に置き去りにしたまま、朝食の開始を俺たちに告げた。
その瞬間、まるで切られたままだったスイッチが入ったかのように、名雪がむっくりと身をもたげる。
そして少し舌足らずな調子で「いたただきまふー」と、何ごともなかったようにジャムの瓶に手を伸ばした。
「呆れた……」
香里の言葉に、俺も全く同感だった。
§
「相沢君、どうしたの。もう疲れちゃった?」
傍らからかけられる声。
でもその声は、言葉の内容とは裏腹に心配とか気遣いとかいった要素を微塵も感じさせることのない、楽しげなものだった。
「疲れた」
間髪入れずに答える。
「そんな疲れるほど重くないでしょ、これ」
「確かに重くはない。重くは」
そう言いながら、俺は両手を塞いでいるそれに目を向けた。
一抱えもありそうなサイズの、白い箱が三つ。
それこそがいま、俺にこの苦行を否応なしに強いてくれている張本人に他ならなかった。
中身は服。
そう、今日の舞踏会に使う為の衣装だ。
香里の言う通り、重量的には布が内容物の大部分を占めているのだから、大したことはない。
でもそれを補って有り余るハンデとなっているのが、その大きさだった。
所詮服なのだから、もっとぎゅうぎゅうに折り畳んでしまえばいいと思うのはどうやら男の浅知恵らしく、この手のドレスの類はできるだけ本来の形を維持したまま収納するべきもの……らしい。
加えていま俺が抱えているこれは、足首まで隠れてしまうような裾長のロングドレスだったから、かさが増えることおびただしかった。
あまつさえそんなものを三つも、俺ひとりで抱えている訳で……つまり、大変に歩きにくいのだ。
いつもよりは余裕をもって家を出たはずの俺たち。
でもこの大荷物のお陰で、歩くペースは確実に普段の半分以下に落ちているはずだった。
そろそろ、予鈴が鳴るんじゃないだろうか。
時計を持っていなかったから確信は無かったけれど、何となくそんな気がしなくもない。
「祐一、ふぁいとっ」
香里とは俺を挟んで反対側を歩いている名雪が、何の助けにもならない声援を送ってくる。
「応援なんてしなくていいから、ひとつ持て」
「え。でも……」
言い淀みながら、救いを求めるように香里の方を見る名雪。
彼女のその視線を追うように俺も目を向けると、香里はにっこりと朗らかな笑みを浮かべながら、
「か弱い乙女に荷物を持たせるなんてこと、相沢君はしないわよね。ほら、あともう少しで学校よ」
と、にべもない。
肩からずり落ちそうになった荷物を抱え直し、そのまま青空の広がる頭上を見上げながら大きく息をつく。
冬の寒さに凍り付いてしまったような、紺碧の海原がそこにあった。
どこまでも続く空。
いつまでも続く空。
そしてふと、何かの拍子にその中に吸い込まれてしまうような、そんな錯覚をも覚えてしまう。
疲れてるのかな、俺。
我ながら、朝っぱらから何を言ってるんだか……同時に思わず口の端を緩めてしまう。
「……あ。北川君だ」
「あら、本当」
ふたりの声に意識を現実に引き戻すと、確かに少し離れた場所を北川とおぼしき男子生徒が、半透明な大きめのポリ袋を肩に乗せながら、えっちらおっちらといった感じで歩いていた。
どうやら向こうも俺たちの存在に気付いたらしい、動かしていた足を止めてこちらを見やっている。
近づいてみると、何故か北川は妙に真面目な顔色を浮かべていた。
「どうした、神妙な顔して?」
「……しまった、走らないと遅刻か!」
「ちょっと待て、どういう意味だっ」
開口一番、とんでもないことを口にするヤツだ。
それじゃまるで、俺たちイコール遅刻って言ってるに等しいじゃ……って、普段を考えればそう思うのは当たり前かもしれなかった。
思わず納得しそうになってしまう。
「まだ五分あるわよ、北川君」
「えっ?」
香里の言葉に、驚いたように自分の時計を見る。
どうやらそれで納得したのか、未だ表情の片隅に不審の色を浮かべながらも小さく頷く北川。
「あ……本当だ。てっきり遅刻ぎりぎりかと思った」
「今日は三人一緒だからね」
誇らしげに語る名雪。
いつも通りのんびり朝食を取っていたお陰で、家を出るまで一番足を引っ張っていた人間の台詞とは思えない。
言うまでもなく、家を出てから足を引っ張り続けていたのは、他ならぬこの俺だった。
「しかし、今日は早いな。それに美坂まで一緒だなんて、珍しいな」
「ま、たまには……って、そう言えば何だその袋?」
昨日香里がうちに泊まっていったことに話が及ばないよう、曖昧な返事を口にしながらさりげなく話題を逸らす。
「袋って、これのことか?」
ずっと持っていた黒い大きな袋を、北川が掲げて見せる。
「分からないのか。決まってるだろ」
「ゴミ袋か?」
「そんなわけあるかっ!」
「ごめん、わたしもゴミ袋だと思った……」
「あたしも……」
俺はともかく名雪と香里にまで同じことを言われて、北川は少しだけ悲しそうな表情を浮かべる。
「それで、中身は何なんだ?」
少し可哀想になってしまった俺は、会話を続けるべく北川に袋の中身を問いただしてみた。
すると、表情を誇らしげなものに一変させた北川は、
「タキシードに決まってるだろ」
そのゴミ袋――もとい衣装袋を目の前に掲げると、空いた方の手で軽く叩いてみせた。
「…………」
「…………」
「…………」
「無言で去って行くなっ! 大体、お前が抱えてるその大荷物だって、舞踏会の衣装じゃないのか?」
「よく分かったな」
感心したように答える俺だったが、当の北川はよもや正解だったとは思いもよらなかったのだろう、驚いたように大きく目を見開きながら、
「本当なのか?」
「ああ。不本意ではあるのだが、一身上の都合ってヤツだ」
「似合わない」
「それはお互い様だ」
そして俺と北川は互いにニヤリと、口許を歪めて見せる。
「いや、そんなことはないぞ。いままで誰にも話したことはなかったが、実は俺はタキシードがとても良く似合うんだ」
「俺だって同じだ。子供の頃は、近所のお母さんたちから『タキシードの祐ちゃん』と呼ばれていたくらいだからな」
「そうなんだ。わたし、初めて聞いたよ」
徐々に対決色を伴う緊迫感を増しつつあった俺と北川の対決に、見事なまでに水を差してくれたのは、感心した様子の名雪の一声だった。
「相沢君も北川君も、あと二分で予鈴よ」
追い打ちをかけるように、香里の声が俺たちの耳朶を打つ。
「しまった。ゆっくりしすぎたな」
「急いだ方がいいよ」
「よし、走るぞ」
そこまで言ったところで、実は自分こそが一番走るには困難な状態だったことを、はたと思い出す。
うーむ、どうしたものか。
「祐一、どうしたの。走らないと間に合わないよ」
少し行ったところで足を止めた名雪が、促すように口を開く。
「荷物が邪魔で、うまく走れない」
「捨てろ」
既に正門に向かって駆け出していた北川が、肩越しにこちらを見ながらあっさりとそう言ってのけるが、
「ここまで来て、そうはいくかっ」
「仕方がないわね。名雪、ふたりで相沢君の背中を押してあげましょ」
駆け戻ってきた香里はそう言うや否や、まるで台車を押すように俺の背中をぐいぐいと押してくきた
突然勢いがついたせいで、思わず足を取られそうになってしまう。
が、かろうじてバランスを保つ。
俺は肩越しに振り返りながら、背中を押すふたりに向かって、
「待て待てっ。そんなことをするくらいなら、三人で荷物を分け合った方が合理的だろうが!」
「相沢君、行くわよ」
「ふぁいとっ、祐一」
しかし香里の口車に乗せられてすっかりその気の名雪と、確信犯的に悪戯っぽい笑みを浮かべている香里の耳に俺のその声は……全く届いていなかった。
「人の話を聞けーっ!」
俺の声は、朝の通学路にただ虚しく響くばかりだった。
§
「んあー、じゃあ今日はここまで」
HRの終わりを告げる、どこか間の抜けた担任のその一言で、名実共に訪れる放課後。
今日一日の勉学の疲れを凝り解すべく肩を叩きながら首を左右に捻り、何気なく教室の中を見渡す。
すると床や棚のあちこちに、普段は見かけない大きな荷物がごろごろと転がっていた。
一見してゴミの山とも思えるそれは、どうやらその全てが今日の舞踏会の為のものらしかった。
一クラスですらこの状況なのだから、もしこれが他のクラスでも同じ状況なのだとすれば、学校全体では結構な数の参加者になるのではないだろうか。
自由参加と言いながら、実は俺が思っていた以上に本格的な行事なのかもしれない。
まぁ何だかんだ言って結局俺たちも参加するつもりなのだから、人のことをどうこう言えた義理じゃないのは確かだった。
イベントの開始までにはまだ時間があるらしく、とりたてて準備に走る輩がいる訳でもなかったけれど、それでも教室の中はどこか浮き足だった雰囲気に満たされていた。
「ふわ〜」
見るからに眠そうな顔で、名雪が大あくびをしている。
「…………」
そしてその背後では、心ここにあらずといった感じの香里が、ぼんやりした様子で窓の外を眺めていた。
「ふたりとも、ぼーっとしてるな……」
思わず口を突いて出てくる言葉。
俺にしてもようやく訪れた放課後に、多少気の抜けた心地がしなくもなかったが、まあそれはそれ。
「ぼーっとなんかしてないわよ、あたしは」
「わたしもそうだよ」
香里は、窓の方を見やったたまま。
そして名雪はあくびの治まった口元を押さえながら、俺の方に向き直ってそれぞれに反論してくる。
「ちょっと早起きしたから、眠たかっただけだよ」
「目覚ましが鳴る二分前、だったかしら。名雪が起きたのって」
名雪に早起きを余儀なくさせたその当事者たる香里が、ぽつりと合いの手を入れる。
「その二分が貴重なんだよ」
「あんたらしいわ……」
相変わらず視線は窓外に向けたまま、納得したように呟く香里。
「えっと、それで今日はどうするの?」
「そうだな……開場まだには、まだ時間があるんだよな」
「うん。全然余裕だよ」
時計を見ながら頷く名雪を前に俺は、どうしたものかとばかりに少し考え込んでみせる。
「じゃあ、三十分前にここに集合ってのでどうだ。名雪と香里は、今日部活とかあるのか?」
「うん、一応。ミーティングだけだけどね」
さすがに舞踏会が控えてるだけに、練習は休みらしい。
そりゃまあ、部活で汗をかいた身体でドレスを身にまとうってのは――いくらシャワーがあるからといっても――あまり嬉しくはないだろうし、ミーティングだけというのは理解できる話だった。
「香里は?」
「そうね、部室に顔くらいは出すつもり」
「よし。じゃあ、これで決まりだ」
「うん、分かったよ」
「……ええ」
俺が下した最終決定に、名雪と香里のそれぞれが同意の言葉を口にしながら小さく頷いてみせる。
「祐一は、時間までどうするの?」
その問いかけに、俺は少しだけ考えた後、
「適当に時間をつぶしてる」
その辺を適当にぶらぶらして、軽く腹ごしらえでもしておけば時間なんてあっという間に過ぎていくに違いない。
その程度の、適当だった。
「じゃあわたし、部活に行くね」
そう言って立ち上がった名雪は、ぱたぱたと軽やかな足音を立てながらドアの先の廊下へと姿を消していった。
「さて、と」
呟きながらふと辺りを見渡すと、いつの間にか教室の中から生徒の姿が失われていた。
どうやら不参加者は、とっとと下校してしまったらしい。
一方で参加者の方は、恐らくは時間までの適当な暇つぶしを思い思いに見つけて、立ち去っていったのだろう。
結果的に、俺と香里だけ取り残される形になった。
「…………」
「…………」
静寂が辺りを覆う。
外は風が吹いているのだろうか、かたかたと窓を震わせるその音色と、廊下から時折聞こえてくる生徒の声だけが、俺の耳に流れ込んでくる全てだった。
そして香里は、まるで人形のように身じろぎひとつせずに、無言で窓の外の景色を見据えている。
「……相沢君」
彼女の口から、抑揚の失われた声で俺の名が紡ぎ出されたのは、俺が「部室に行くんじゃないのか?」と、口を開こうとした瞬間だった。
機先を制されたこと、そして彼女の声音の冷たさに違和感にも似た思いを抱きながら、返事を返す。
「ん?」
「最近、お昼は学食なのね」
それは唐突な質問だった。
前触れなしに発せられたその問いは、俺の中にある静謐を保っていた湖面に小さな波紋を広げてゆく。
何を思って、彼女はそんなことを言い出したのか。
一体、何が言いたいのか。
「そうだな。そろそろメニューも一巡ってところだな」
「もういいの?」
何が……と言いかけたところで、俺は口を塞ぐ。
分かってしまったから。
彼女が、香里が何を言いたかったのかが。
俺に、何を聞こうとしていたのかが。
それは一時期、俺が学食に行くのを断ってまでして中庭で会っていた、ひとりの女の子――栞のことについてに違いなかった。
栞と最後に会ったのは、もう一週間も前のことだった。
中庭で。
次の日にまた会う約束をして、それきり姿を見せなくなった彼女。
あれから今日に至るまでの日々を俺は、一度として彼女の姿を見かけることなく過ごしてきていた。
本人曰く、風邪でずっと学校を休んでいるらしい少女。
そして彼女のクラスメイトの言葉を信じるなら、入学式以来一度として学校に来たことのない少女。
彼女の病気は、未だ完治していないのだろうか。
見た感じそれほど体調を崩しているようには見えなかったけれど、もしかするとあれから病状が悪化しているのかもしれない。
人なつこい瞳の色を浮かべる栞。
朗らかな笑顔を浮かべる栞。
何かに耐えているような、そんな陰を時折垣間見せる栞。
心の片隅に眠らせたままだった記憶が目を覚ましたかのように、脳裏を彼女が見せた様々な姿が浮かんでは消えてゆく。
「分からない」
しばしの沈黙の後、俺の口から出てきたのはそんな言葉だった。
「……?」
窓外に向けられたままだった香里の顔が、俺に向けられる。
そして気がつく。
彼女の瞳の裡に、いままでに何度となく見てきた、どうしようもないほどの悲しみの色がたたえられていることに。
知っている顔。
知らない顔。
朗らかな笑みを浮かべて見せる香里と、何かを堪え忍んでいるような辛そうな色を浮かべてみせる香里。
入れ替わり立ち替わりに姿を見せる、ふたつの面影。
内心で俺は、戸惑いを覚えずにはいられなかった。
それは彼女が見せてくれる、余りにかけ離れた感じがする相反する様相に、接点を見出すことができなかったが故の、迷いだった。
まるで香里がふたりいるみたいな、そんな印象。
でも同時に、俺は理解していた。
普段の朗らかな彼女も、そしていま目の前で痛々しい色を垣間見せている彼女も、同じ美坂香里という名の女の子だということを。
どこかに、答えがあるはずだった。
鏡面のように浮かび上がるふたりの彼女を結びつける、その接点が。
でもその答えを俺は、未だに見出すことができてはいなかった。
そして見つけられない答えに代わるように俺は、先刻の紡いだ言葉の続きを口にする。
「もういいのかもしれないし、反対に少しもよくないのかもしれない。それは俺にも分からない」
「どうして?」
「何も知らないから、俺は。判断を下すべき材料を、俺は何も持ち合わせてはいないんだよ」
そう、俺は彼女のことを何もしらない。
どこに住んでいるのかも。
一年の何組なのかも。
いつから学校を休んでいるのかも。
そして、どうして学校を休んでいるのかも。
町中で偶然出会い、それから何日間か中庭で出会っていたという事実だけが、俺の知る彼女の全てだった。
「……そう」
ぽつりと、視線を落としながら呟く香里。
寂しげな声。
悲しげな声。
それきり静寂が戻ってくる。
まるで水の底に横たわってるかのような、全てが動きを止めた絶対的な静寂に満ちた世界。
そして生まれたばかりのその世界に、小さなひび割れが生じる。
「ひとつだけ……答えて」
彼女の視線はいつしか、再び窓の外に向けられていた。
無言のまま俺は、次の言葉を待ち続ける。
「……その子のこと……好きなの?」
好き。
俺が、栞のことを好き。
果たして、そうなのだろうか。
確かに栞と一緒にいて楽しかったことは、紛れもない事実だった。
でも、それがそのまま彼女を好きだという答えに、果たして繋がるものなのだろうか。
そうなのかもしれない。
でも、そうじゃないのかもしれない。
空回りをするばかりの思考の淵から意識を浮かび上がらせると、そこにはじっと俺の答えを待つ香里の姿があった。
「……いや」
「え?」
それは意外なほど、はっきりとした口調で紡がれた言葉だった。
だからだろう、それを聞かされた香里もどこか驚いたような、そんな表情を浮かべている。
そして次に口にした言葉は、俺自身驚きを隠せない一言だった。
「だって、俺が好きなのは……香里だから」
口にして初めて気がついた事実。
俺の中にある、香里への思い。
そう、俺は香里に惹かれているのだ――どうしようもなく。
含蓄に富んだ言葉で俺を煙に巻き。
朗らかな表情で俺が想像もしない冗談を口にし。
そして時折たとえようのないほどの悲しみを瞳に宿す。
そんな従姉妹の親友であり、同時に俺のクラスメイトでもある、美坂香里という名の女の子に。
「…………」
「…………」
沈黙。
息苦しさを感じさせるほどの、沈黙。
それを破ったのは、先刻と同様やはり彼女の口から紡ぎ出された、小さな一言だった。
「……馬鹿」
俺の目を真っ直ぐに見据えながら、放たれた言葉。
でも次の瞬間、すっと視線を逸らした香里は音もなく席を立つと、無言でドアに向かって歩き出す。
その背中に、俺は声をかけることができなかった。
どうしてかは分からないが、視界の中で徐々に小さくなってゆくその背中が、誰からの言葉も拒絶しているような、そんな気がしてしまったから。
ひとり、教室に取り残される俺。
しばらくの間、彼女が消えていったドアを見据え続けていた俺だったが、やがて小さくため息をつきながら椅子にもたれかかる。
そして天井を見上げながらぽつりと、彼女が最後に口にした言葉を繰り返していた。
「馬鹿……か」
§
「ね、祐一。どうしよう」
「…………」
「香里、どこいっちゃったのかな」
「…………」
「舞踏会、もうすぐ始まっちゃうよ」
「…………」
不安そうな様子で話しかけてくる名雪。
そして彼女が口にした言葉のその全てに何も答えず、沈黙を返事に代えるばかりの俺。
いまこの場にいるのは、俺と名雪と北川の三人だった。
俺と名雪は制服のまま。
そして北川は、既に持参のタキシードに着替え終えている。
日はすっかり暮れ、宵闇に覆われた教室の中で俺たち三人は、明かりもつけずに香里が姿を見せるのを待ち続けていた。
あれから俺は、結局どこにも行かずに教室で時間を潰した。
考えるべき事は、それこそ山とあった。
栞のこと。
香里のこと。
俺と栞のこと。
俺と香里のこと。
香里が姿を消し、誰もいなくなった教室の中、無言で思考を巡らせ続けていた俺は、でも結局ひとつとして明瞭な結論を導き出すことの出来ないまま、無為に時を過ごし続けた。
約束の時間少し前に、ぱたぱたと足音も高く姿を現した名雪。
そして呼んだ覚えもないのに、でもそうすることが俺たちの普通なのだと言わんばかりにやって来た北川。
でも……約束の時間を過ぎても、香里は姿を見せなかった。
五分。
十分。
時は無情に流れてゆく。
二十分が過ぎた時、俺は落としたままだった視線を上げ、机の上に座り込んでいた北川に話しかけた。
「もう始まっちまう。北川は会場に行ってくれ」
「今更なに言ってんだ。ここまできたら、最後までつき合うぜ」
楽しげな様子で北川は、言葉を返してくる。
「でもお前、他の奴らと約束とかしてるんだろ」
「それは……まぁ」
「なら行ってくれ。もしこのまま香里を待つのにつき合ってたら、そっちの連中に不義理をさせることになっちまう」
「お前たちはどうするんだ?」
暗闇の中で表情こそ判然としなかったが、多分眉根を寄せた不満そうな色を浮かべているのだろう。
声音からして、その様子がありありだった。
「もう少し待ってみる。もしかしたら、野暮用か何かで来るのが遅れてるだけかもしれないし」
「しかし……」
「それにほら、俺たちの場合、特に他の奴と約束とかもしてないし」
「……分かった」
顔には不満げな様子がありありだったが、それでも俺の説得に応じてくれた北川は、渋々といった感じで首を縦に振ってくれた。
俺は「後からすぐ行くから」と、気休めに等しい一言を廊下を駆けてゆく北川に声をかけてから、視線を名雪に向ける。
「なぁ、名雪」
「うん?」
「香里って、約束の時間にルーズな奴なのか」
「そんなことないよ、絶対に。香里は昔からその辺きちんとしてるから、わたしとの約束だって……一度も遅れたことはなかったよ」
「そっか」
それだけを聞いて、椅子に寄りかかりながら視線を天井へ向ける。
一面の暗闇に覆われた中、目が慣れてきたのかうっすらと蛍光灯を始めとする天井の構造が、瞳に浮かび上がる。
予感はあった。
約束の時間に、来ないのではないかという。
別れ際の様子。
何か思い詰めたような横顔。
最後に残した一言。
悲しみと寂しさに満ちた瞳。
どう考えてもあれは、これから舞踏会に出て踊りに興じようなどという、そんな雰囲気じゃなかった。
なら、答えはひとつ。
彼女は来ない。
ここでいつまで待っていたところで、香里は現れない。
分かっていた。
そんなことはとうの昔に分かっていた。
それでも俺は、香里を待たずにはいられなかった。
もしかしたら……そんな万が一の可能性にすがって、宵闇に包まれた教室の中で俺たちは、香里の来訪を待ち続けていた。
でも……。
不意に、教室の外から流れてくる微かな音色が、鼓膜を震わせる。
弦楽器の奏でる、軽やかな音色。
「あ……」
どうやら名雪にも聞こえたらしい。
それは、俺たちにとってのタイムアップの合図だった。
「始まっちゃった……ね」
「ああ」
「どうしよう、祐一」
本当に困ったように、どこか弱々しささえ感じさせる声音で、名雪が訊ねかけてきた。
天井に向けていた視線を、彼女に向ける。
「帰ろう」
間髪を入れず、俺は答えた。
「え? でも、それでいいの。祐一は?」
「俺は構わない。名雪だってそうじゃないのか。香里と一緒だから、柄にもなく舞踏会に出ようなんて気になったんだろ」
「祐一……知ってたんだ」
内緒にしていたつもりだった秘密を明かされて、暗がりを通して聞こえてくる名雪の少し驚いたような声。
もし明かりが灯されていたら、声に見合った表情がそこにあることだろう。
俺は苦笑いを浮かべながら、
「分からいでか。俺が何年、お前の従兄弟やってると思うんだ」
「……うん。そうだね、帰ろう」
その言葉を待っていたかのように、俺は席を立つ。
そして、結局晴れ舞台にお目見えすることなく終わった三人分の衣装箱を、両手で抱え上げる。
「ひとつ持つよ、わたし」
「そうか? さんきゅ」
「うんっ」
抱えていた荷物がひとつ減って多少歩き易さを取り戻した俺は、ドアを抜け昇降口に向かって廊下を歩き出す。
名雪は、半歩遅れて後をついてきていた。
「祐一」
「ん、なんだ?」
階段に差し掛かったところで、ぽつりと名雪が口を開く。
「香里、大丈夫だよね」
不安そうな瞳。
何かに、誰かに助けを求めるような、そんな憂いの色を濃く浮かべているふたつの瞳。
そう、名雪は言葉を求めている。
この俺に。
根拠など何も無い、気休めに過ぎないと分かっていても、それでも彼女が安心することの出来る一言を。
だから俺は、小脇に抱えた箱を落とさないよう気をつけながら、名雪の頭に手を伸ばし、
「当たり前だろ」
そう言って、ぽんと軽く叩いてやる。
求める言葉を得られた名雪は、それでようやく落ち着きを取り戻したように小さく「うんっ」と、頷いてみせた。
暗がりの中、その表情を目の当たりにしながら俺は思う。
名雪の不安を払ってやるのが俺なのだとしたら、じゃあ俺の中にあるこの不安は誰が取り除いてくれるのか。
誰が、俺に安堵の吐息をつかせてくれるのか、と。
答えはどこからも返ってこない。
そして俺は、誰にも救いを求めることのできないこの不安を胸に、長い夜を過ごさなければならないだろうことを、はっきりと自覚していた。