『黄昏の園』
Update:2001.01.04





1月22日(金)

 目が覚める。
 一切の光が失われた、まるで墨でも流したような漆黒が、視界の全てを覆い尽くしていた。
「…………」
 しばらくの間、見えるはずのない暗闇の先を見据え続ける。
 何を思う訳でもなく。
 ただ、ぼんやりと。
 少しずつ、目が慣れてくる。
 それに歩調を合わせるように、かすかなシルエットとなって浮かび上がってくる、俺の周囲に在り続ける世界。
 譜面に描かれる五線譜の直線のように平坦なままだった意識が、世界の表出に伴って少しずつ活動を再開する。
 夢。
 そう……夢を見ていたような気がした。
 眠りの中の現実。
 現実の中の虚構。
 そんな文字通りの夢と現の狭間に存在する世界に、その身を横たえていたように思われる。
 でも、どんな夢だったかまでは思い出すことができない。
 ついいまし方まで、圧倒的なまでの現実感を伴って俺の全てを取り込んでいたはずのそれは、でも目が覚めた途端まるで陽光に切り払われてゆく朝霧のように薄れ、散っていってしまった。
 どんな夢を見ていたのだろう。
 当然ともいえる疑問が、俺の中に浮かび上がる。
 その答えを見出すべく、体内に微かに消え残った切れ切れな破片をかき集め、真っ白な板紙の上にピースをはめ込んでいこうとする。
 でも……。
 暗闇。
 憂いに満ちた瞳。
 届かない声。
 訴えるように動く唇。
 揺れ動く長い髪。
 それが両手を一杯に広げた俺の、かろうじて掴み取ることのできたものの全てだった。
 ばらばらになったままのパズルのピース。
 無造作にばらまかれたままのそれらを前に、結局何ひとつ思い出すことのできない俺。
 視界の中に浮かび上がる天井をぼんやりと見上げながら、たゆたうような心地の中、なおも俺は思考を弄ぶ。
 誰だったのだろう。
 何だったのだろう。
 知ってるような、でも何も知らないような……そんな矛盾した思いが胸中を交錯し、消えていった。
 ブラックアウトしてゆく意識と思考。
 それらが俺の中の奥底に埋没しかけた刹那、まるで切れかけた電池を誰かが入れ替えたかのように、意識が再び明瞭さを取り戻した。
 脳裏に浮かび上がる、新しい何か。
 美坂香里。
 クラスメイト。
 朗らかな微笑み。
 従姉妹の親友。
 真顔で紡ぐ冗談。
 姉と妹。
 寂しげな瞳。
 一人っ子。
 先刻とは異なった――でも同様に一枚の紙を細かく引きちぎったような単語の断片が、花びらが舞うように頭の中をゆらゆらと揺れ動いていた。
 胸の奥の奈辺にちくりと、鋭い針を刺したような痛みを覚える俺。
 一瞬の痛み。
 それが何なのか、俺にはよく分かっていた。
 そう、それは洗い流そうとすればするほどに濃度を増してゆく、不安という名の心の傷だった。
 約束の時間に来なかった香里。
 どこに行ってしまったのか。
 どうして来なかったのか。
 そして次の日、学校に来なかった香里。
 どうして来なかったのか。
 どこに行ってしまったのか。
 授業中、何度となく空っぽなままの背後の席に視線を向ける名雪の、どこか寂しげな横顔が思い出される。
 名雪はいま、何をしているのだろう。
 いつものようにぐっすりと眠り込み、そして現実の補償たる夢の中で香里と相見えているのだろうか。
 それとも、いまの俺がそうであるように香里のことを気に病みながら、眠れぬ夜を過ごしているのだろうか。
 名雪の様子を見に行こうか……一瞬、そんな誘惑に駆られてしまう。
 でも、すぐにその思いを振り払う。
 何故なら、無意味だったから。
 そんなことをしたところで何の解決にもならないことを、俺は理性と感情の両方で理解していたから。
 何も知らない者がたとえ何人寄り集まったところで、そこで培われるのは所詮憶測に過ぎず、そして憶測というものは重ねれば重ねてゆくほどに、更なる不安と猜疑にかられてゆくだけなのだ。
 俺たちが求める答え、それは香里の心の中にのみ存在していた。
 だから彼女の口からそれが語られない限り、何の意味も無かった。
 でも……。
 俺は、本当にそれを知りたいのだろうか。
 そもそも俺に、彼女の中に在るのだろう真実を知る資格が、果たしてあるのだろうか。
 分からなかった。
 空回りを続けるばかりの、思考の糸。
 そしてその動きが、まるで母親の手によって船をこぐ揺り籠の中の赤子のように、俺の中へゆっくりとした歩調で睡魔を忍び込ませてくる。
 目を閉じる。
 薄れゆく意識。
 眠りの淵に落ちてゆく、俺という存在。
 でも……俺は知っていた。
 この眠りが、さして長く続かないことを。
 さして時を置くことなく再び目を覚まし、出口の見えない疑問だけを胸に、暗闇に覆われた世界を見つめ続けるのだということを。

                  §

 スピーカーを通して鳴り響くチャイムの音色を背景に、開かれていた教科書が閉じられる音と、授業の終わりを告げる声が教卓の上から発せられる。
 自由と統制の両者を区切る儀式を終えた後、教師が教室を後にするのを横目に俺は、大きく伸びをしてみせた。
 何はともあれ、これで午前中の授業は終わりだ。
「さて、メシでも食うか」
 ひとりごちそんな呟きを漏らしながら、いつもの習慣で居眠りを決め込んでいるだろう隣の席の名雪を起こすべく、声をかける。
「名雪、起きろ。もう昼だぞ」
「……起きてるよ」
 しかし意外なことに、名雪は起きていた。
 珍しいこともあったものだ。
「名雪が授業が終わるまで起きてるなんて、珍しいな」
「うん……」
 そんなことないよ――てっきりそんな答えが返ってくるかと思っていたが、でも彼女の口から発せられたのは、どこか曖昧な言葉だけだった。
 元気のない声。
 まるで名雪が名雪じゃなくなってしまったような、そんな声だった。
 肩越しに、ゆっくりを背後を振り返る名雪。
 つられるように首を巡らせた俺の目に映ったのは、主を失い、ぽつんとうち捨てられたように佇む、一組の机と椅子だった。
 それは香里の席。
「香里……今日も来なかったね」
「ああ」
「学校、二日もお休みして……どうしたんだろう」
「風邪でも引いたんじゃないのか」
 頷きながら俺は、当たり障りのない返事を口にする。
「風邪を引いたってくるよ、香里は」
 でも小さく首を振って俺の言葉を否定してみせた名雪は、いつもと変わらぬ微笑みを顔に宿そうとしながら、
「香里って、学校に来るの好きだから」
「学校が楽しい奴なんて、普通いないだろ?」
「ううん。香里は楽しいみたいだよ、学校が。それにわたしも香里と一緒で、嫌いじゃないよ」
 その呟きに、俺は何も答えることができなかった。
 昨日の朝、相半ばするような期待と不安を胸に抱きながら登校し、教室のドアを開けた俺。
 そこに、求める姿があることを願って。
「お、いたいた」
「あっ、香里!」
「昨日はごめんね、名雪。それに相沢君も」
 申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせながら香里は、俺たちに向かって謝罪の言葉を口にする。
「一体どうしたんだよ、あれから。心配してたんだぜ」
「それがね、舞踏会で帰りが遅くなるからって家に電話したのよ。でも考えたらあたし、昨日家に電話してなかったのよね」
「あ。そう言えばそうだね」
「結果的に無断外泊ってことになっちゃったから、親がもうカンカン。それで昨日は慌てて家に帰ったの」
 そういいながら香里は、まるで悪戯が見つかった子供みたいに小さく舌を出しながら、くすりと笑みをこぼしてみせる。
「もしかして、わたしたちのこと忘れてたの?」
 少し情けなさそうに、同時にどこか困ったような色を浮かべながら、名雪がそう問いかける。
 これは……怒りかけている仕草だな。
 さすがに付き合いが長いだけあって、香里もそのことに気付いたのだろう。
「だからごめん、って言ってるじゃない」
 再び名雪を拝むように手を合わせながら、頭を下げる。
「うー。ひどいよ、香里」
「そんなこと言わないで。ねっ、名雪」
 正攻法が通じないと判断したのか香里は、今度は甘えるような声を出しながら名雪に抱きつく。
「甘えたって駄目だよ。すっごく心配したんだからね、わたし」
「まあまあ、名雪。とりあえず事情は分かったんだから、それくらいで勘弁しておいてやれよ」
 そろそろ、潮時かな。
 しばらくの間静観を決め込んでいた俺は、頃合いを見計らって仲裁に入るべく、ふたりの会話に割って入る。
「でも……」
「ここは寛容の心を持ってだな、香里の誠意を見せてもらった上で、気持ちよく許してやろうじゃないか」
「誠意?」
「うむ。とりあえず……今日の放課後、商店街に繰り出すってのはどうだ?」
「香里の奢り?」
「……そうとも言う」
 頷きながら、ちらりと傍らの香里に目線を送る。
 聡い彼女には、どうやらそれだけで俺が何を言わんとしていたか、全て理解できたらしい。
「名雪の好きなもの、何でも食べていいわよ」
 にっこりと微笑みながら香里は、再び名雪の首に手を回す。
「じゃあ……百花屋のいちごパフェ三杯」
 幾らなんでも三杯は食いすぎだ……思わずそんな突っ込みを入れてしまいそうになる俺だったが、ここで名雪を茶化しても仕方がないと思い直し、ぐっと我慢する。
 そんな俺をよそに、ようやく名雪の機嫌を直すことのできた香里は、喜色満面といった風で名雪の身体をぎゅっと抱き締めた。
「ありがと、名雪。大好きよっ」
「わっ。苦しいよ〜、香里」
 じたばたと暴れる名雪を前に、思わず苦笑を浮かべてしまう。
 ちょっとしたすれ違い。
 ほんのわずかの誤解。
 でもだからこそ、たったそれだけのことで俺たちは、昨日と同じ今日に戻ってゆくことができるはずだった。
 ――はずだった。
 でも開いたドアの先にあったのは、そんな楽観的な想像をあっさりとうち砕いてくれる、冷たい現実だった。
 誰もいない席。
 ぽっかりと穴が空いたままの空間。
 チャイムが鳴り、やがて姿を見せた担任がHRを始めてからも、その席の主が姿を見せることはなかった。
 出欠の時も、香里の欠席について担任の口から何かが語られることはなく、そして彼女がいないことなどまるで関係がないように、時は淡々と流れ、授業は進んでいった。
「大丈夫。明日はきっと来るって」
 ようやくのことで見出した言葉を口にしながら俺は、努めて明るい笑みを浮かべてみせる。
 でも名雪は視線を香里の机に据えたまま、黙り込むばかり。
「あのなぁ、お前がそんな風に落ち込んでたって、仕方ないだろ」
「うん。それは……分かってるけど」
 俯きがちに、まるで自分に言い聞かせるように呟く名雪。
 普段、滅多に人前で見せることのない彼女のその消沈した様子に俺は、意外な思い以上に、どこか痛々しい何かを感じずにはいられなかった。
 そして同時に、既視感に似た思いを抱く。
 既視感?
 違う……これは紛れもなく、俺の中にある記憶に違いなかった。
 いつか、放課後に名雪とふたりで寄った喫茶店。
 追加注文した二杯目のいちごパフェを前に、親友が抱えている心の苦しみを癒す助けにすらなることができない――そんな自らの無力さをぽつりぽつりと口にしながら、悲しげに微笑んでみせた名雪。
 そしていま、口にこそしないものの名雪は、あの時と同じ思いを心に宿しているのだ。
 香里の為に。
 大切な親友のことに、思いを巡らしながら。
 一昨日、俺と香里のふたりきりになった教室での出来事を、当然のことだったが名雪は知らない。
 でも、分からないなりに彼女は何かを敏感に感じ取っているような、そんな気がした。
「でも、香里が何も言わずに学校を二日も休むなんて、いままで一度もなかったんだよ」
「だからさっきも言ったけど、風邪を引いてるだけかもしれないだろ?」
「そうかもしれないけど、でも長引きそうだったら必ずわたしには電話してくれてたんだよ。香里は」
「…………」
「ね、祐一。一昨日、わたしが部活に行ってから……何かあったの?」
 昨日から何度となく聞かされてきた言葉が、名雪の口から放たれる。
 そして同時にそれは、いまの俺にとって何よりも答えに窮してしまう問いかけでもあった。
 何故なら、名雪は知らないから。
 俺と栞のことを。
 香里と栞のことを。
 そして……俺と香里のことを。
 俺の中で分かち難く結びつけられてしる、三つの輪。
 でもだからこそ、どれかひとつを話すことは、即ち残るふたつの輪について話すことに直結してしまっているのだ。
 果たして名雪に、その全てを話してしまっていいのだろうか。
 話すべきなのだろうか。
 ほんの一瞬、脳裏で忙しく思考を巡らした俺は、半ば諦めの思いを抱きながら何度目かになるだろう結論を下す。
「いや、何も。名雪がいなくなってから香里もすぐ部活に行っちまったから、特に何もなかったと……思うぞ」
 同じ言葉。
 同じ嘘。
 そう、俺は名雪に嘘をついていた。
 でもいまの俺に、それ以外の答えを思いつくことはできなかった。
「そっか……うん。そうだね」
 俯き気味に小さく頷いた名雪は、そしてゆっくりと俺の方に顔を上げながら口の端を微かに緩めてみせる。
「よし。じゃあメシ行くぞ」
「うん」
「明日には、きっと香里も出てくるって。その時に備えて俺たちはしっかりメシを食って、笑顔で迎えてやらないとな」
 いいながら、名雪の頭をぽんと叩く。
 多分それで俺の意は通じたのだろう、さっきより余程しっかりした笑みを浮かべてみせた名雪は、
「そうだね。うん、わたし頑張ってご飯食べるよ」
「よし、それでこそ名雪だ」
「あんまり褒められてる気がしないけど、でも嬉しいよ」
 ようやくいつものペースを取り戻した名雪を前に満足げに頷く俺と、はにかむように目を細める名雪。
「おい、相沢。早く行かないと席が無くなるぞ」
 そんな俺たちの会話が終わるのを、まるで待ち構えていたかのように――多分その通りなのだろう――北川が、ドアの前で廊下の先を指差しながらこちらに向かって声を掛けてくる。
「ああ、すぐ行く」
 立ち上がりながら、返事を返す俺。
 そして既にドアの向こうに姿を消した北川の後を追うべく、傍らの名雪に目で合図を送ってから、俺たちは走り出した。

                  §

 こんこん――。
 控えめな感じの、ノック音。
 程よく暖められた室内に小さな波紋を広げていったその音色は、やがて俺の鼓膜を震わせ、注意を喚起する。
「……ん?」
 ベッドに仰向けに寝転がったまま、帰りがけにコンビニで買ってきた雑誌を斜め読みしていた俺は、活字から目を離す。
 秋子さんだろうか。
 それとも……名雪?
「どうぞーっ」
 まだ晩飯には早いんじゃないかな、そんなことを思いながら俺は、ドアの向こうにいるだろう誰かに返事をする。
 ………………。
 …………。
 ……。
 反応がない。
 このドアを叩く可能性がある相手なんて、真琴がいなくなってしまったいま、秋子さんか名雪のふたりの、どちらかのはずだった。
 それとも、気のせいだったのだろうか。
 よっと勢いをつけて半身を起こしながら小首を傾げる俺の耳に、再びドアの叩かれる乾いた音が届く。
 やっぱり空耳……って訳じゃないよな。
 いまひとつ釈然としない思いのまま、今度こそドアの向こうの相手に聞こえるよう、少し大きめの声で「どうぞ」と声を返す。
 ………………。
 …………。
 ……。
 おいおい。
 思わず、ひとりツッコミを入れそうになってしまう。
 両手が塞がってるせいで、自力で開けられないとでも言うのだろうか……何となく、ティーカップの載ったトレイを抱えて思案顔で立ちすくむ名雪の姿を想像しながら、床に足を下ろした俺はそのままドアへと歩み寄る。
 こんこん――。
 三度目のノックが鳴らされたのは、俺がドアを開こうとノブに手をかけた、まさにその瞬間だった。
「はいはいっと」
 いい加減な相づちを返しながら、俺は少し乱暴気味にドアを引く。
 微かなきしみ音を立てながら開かれたドアの向こうから姿を現したのは、名雪だった。
 帰ってきて真っ直ぐに俺の部屋に来たのだろうか、着替えもせずに制服を身にまとったままの格好。
 別段荷物を抱えている訳でもなく、鞄を持った手はそのまま身体の脇に下ろされている。
 そして何を思ってか、視線は俯き加減に床を見据えていた。
「……?」
 何となく、様子が変だった。
 その時になって、俺は初めて気がつく。
 言葉なくその場に立ちすくむ彼女の頭と肩に、うっすらと白いものが積もっていることに。
 ……雪?
 どうやら外は、いつの間にか雪が降り出しているらしかった。
「名雪、お前雪が積もってるぞ」
 苦笑いを浮かべながらそう言った俺は、名雪の髪にかかった雪を軽く払い落としてやる。
 黒と白のコントラストを放つ光景が、その刹那変化をみせる。
 溶ける素振りも見せずに未だ原型を留めていた雪片は、粉の如き幾つもの小さな固まりとなって、床の上に舞い落ちていった。
「傘とか持ってなかったのか?」
 小首を傾げる俺を前に、名雪の口は相変わらず閉ざされたまま。
 俯きがちに視線を落としているせいで鼻から上は前髪に隠れてしまい、彼女がどんな表情を浮かべているのか、俺の位置からではよく分からなかった。
 でもぎゅっと固く結ばれてたその口許から、心の裡に在る何かに耐えているらしいということだけは、何となく俺にもよく分かった。
 耐えているって?
 一体、何を。
 財布でも落としたのだろうか。
 それとも、突然降り始めた雪に滑って転んだとか。
 我ながら馬鹿馬鹿しいと思いつつ、でも俺はそんな想像を内心で膨らませるのを止めることができなかった。
 何故なら、予感がしたから。
 とても……嫌な。
 心の奥底からゆっくりと頭をもたげたそれは、暗闇に似た漆黒を身にまといながら、俺の前にその姿を晒す。
 だから俺は内心の暗い思念を振り払うように、できる限りの冗談めいた口調で名雪に訊ねかけた。
「そ、そう言えば名雪。忘れずに、ちゃんと香里の家に寄ってきたんだろうな。あいつ、元気にしてたか?」
 それは事実だった。
 放課後になってすぐ、俺に「香里の家に寄ってくる」と、そう話しかけてきた名雪。
 不安なら一緒に付いていってやろうかとの俺からの提案には、穏やかな笑みを浮かべながら、
「ううん、大丈夫。わたしひとりで行ってくるよ」
 でもはっきりとした口調で、謝絶してきた。
 だから俺はそれ以上何もいうことなく、教室を後にする彼女の背中を無言で見送ったのだった。
 それが、いまから二時間ほど前のこと。
「名雪……?」
 相変わらずだんまりを決め込んだままの彼女の態度を前に、ゆっくりと頭をもたげ始めた不安を必死に抑え込む。
「……たよ」
「え、何だって?」
 初めて紡がれた名雪のその声はかすれるように小さく、弱々しかった。
 思わず聞き返してしまう俺。
 そして次の瞬間、俯かせたままだった顔を持ち上げた名雪は、瞳を微かに揺らしながら、
「香里、いなかったよ」
「いなかったって……家にか?」
 こくりと、頷く。
「そんな馬鹿な。だって……」
 途中まで言いかけた俺の言葉を遮るように、名雪が口を開く。
「朝、いつも通り学校に行ったって……香里のお母さんが……だからわたし、それ以上何も聞けなくて……」
 予感は予感で終わることなく、現実の中へと最悪の形を為しながら俺の前にその姿を現した。
 まるで心の動揺を反映するように、動悸が早まる。
 どうしようもない不安。
 言葉にはし難い、でもだからこそ否応なしに増してゆくばかりの、心の中を覆う暗雲。
 学校へ向かったはずの香里。
 そして一日中空いたままだった、彼女の机。
「じゃあ、一体どこに?」
 ふたつの現実が俺の中で輪を書くようにぐるぐると回り続け、そしてようやくのことでそれだけを吐き出すように口にする。
「わたしにも……分からないよ」
 そして返ってくる、当然の答え。
 それきり、冷え冷えとした空気に満たされた廊下に立ちつくす俺たちの間を、沈黙が流れる。
 痛いくらいの静寂。
 眼前で、俺の顔を上目遣いで見つめやってくる名雪の瞳は、彼女の心の裡を象徴するように揺れ続けていた。
 不安なのだ、名雪も。
 どうしてなのかも分からず、どうすればいいのかも分からない、自らの置かれた現状に。
 それは俺にしても同じだった。
 いや……彼女に比べれば俺の方がましなのかもしれない。
 だって俺は知っているから。
 教室からの去り際に、香里が見せた横顔を。
 俺に向かって紡いだ、最後の言葉を。
「……捜そう」
「え?」
 どれくらいの時が流れたのか、重苦しいばかりの沈黙を先に破ったのは俺の方だった。
「きっと、この街のどこかにいるはずだ。見つからないなら、捜すしかない」
「でも……」
 言い淀む名雪をその場に残して部屋に戻った俺は、クローゼットからコートを取り出す。
 そして袖を通しながら名雪の前をすり抜けるように、階段へと向かう。
「祐一、わたしも一緒に行くよっ」
 ぱたぱたと慌てて後を追ってくる名雪の足音を聞きながら、階段の途中で動きを止めた俺は振り返る。
「お前は家で待ってるんだ」
「え、でも……」
「もう結構遅い時間だし、ひとりで出歩くのは危ない」
「平気だよっ、わたし」
 俺の言葉に納得がいかないように、そう言い募る名雪。
「ダメだ。そもそも香里がどこにいるのか、見つけるまでどれだけかかるか全然分からないんだぞ」
「だったら、尚更ひとりよりふたりで捜した方がいいと思うよ」
「じゃあ聞くけどな、もし香里を見つけたとして、俺はどうやってそのことを名雪に伝えればいいんだよ。どこを捜してるかも分からないってのに」
「あ……」
 初めてそのことに思い至ったように、小さく声を発する名雪。
 こういう時、携帯電話があれば便利なのだろうが、でも今時、大抵の学生が持ち歩いているだろうそれを、俺も名雪も持っていなかった。
 だから頼りになるのは、家にある電話だけ。
「お母さんに電話番をしてもらう……ってのは無理だよね」
「ああ、ダメだ。このことを知ってるのは、俺たちだけなんだから。いまは、まだこれ以上話を大きくするべきじゃない」
「うん、そうだね。祐一の言うとおりだよ」
 躊躇いがちだったが、それでも名雪は小さく頷く。
 そのことに気をよくした俺は、いまの俺にできる限りの笑みを口許に浮かべながら、
「だからさ、名雪はここで待っててくれ。見つけたら必ず連絡を入れる。首に縄をかけてでも、ここに香里を連れてくるから」
「…………」
「それに……もし香里がこんな時間まで外を出歩いてるんだとしたら、きっと身体だって冷え切ってると思う。だからその時に備えて、何か温かいものでも用意しといてくれ」
「…………」
「…………」
 無言のまま、交錯する俺と名雪の視線。
 刹那の沈黙……そして緊張。
 でもそれは次の瞬間、名雪の口元に浮かんだ微笑みによって塵となって消えていった。
「……祐一の分もだね」
「え?」
「三人分のカップを温めて待ってるよ、わたし」
 ようやく表情に戻ってきた名雪の、名雪らしい穏やかな笑顔を前に俺はこくりと首を縦に振る。
 そして俺も笑顔を浮かべながら、感謝の言葉を紡ぎだした。
「さんきゅ。じゃあ頼んだぜ、名雪」

                  §

 とりあえず威勢のいい啖呵を切って家を飛び出したものの、何か当てがある訳じゃなかった。
 玄関のドアを開け、外に出た途端肌にまとわりつくように吹き抜けていった風が、俺を現実へと引き戻してくれた。
 空を見上げる。
 雪こそ降り止んではいるものの、頭上にはどんよりと垂れ込める雲が闇を通して見て取れ、晴れていれば広がっているはずの満天の星空はどこにも見当たらなかった。
 息が、吐き出されるそばから真っ白な塊となって風に流されてゆく。
 道に沿って点々と灯る街灯が、その光の糸をもってまるで俺が進むべき道を指し示しているかのように、輝きを放っていた。
「さて、と……」
 さくさくと降り積もった雪を踏み締めながら、人気の絶えた道の真ん中で立ち止まった俺は、左右を見渡しながら一瞬思案に暮れる。
「とりあえず、駅の方にでも行ってみるか」
 ひとりごちそんな呟きを漏らしてから、再び足を動かし始めた。
 特に理由があってのことじゃなかった。
 そもそも俺は香里がどんな場所が好きで、普段どういう所に足を踏み入れているのかすら知らなかった。
 そんな俺に、彼女がいまどこにいるかなんて分かる道理がない。
 結局俺にできること、それは行き当たりばったりとしか言いようのない行動を取ることだけだった。
 何も知らない俺。
 何も言わない香里。
 そうしてできあがった、不思議な関係。
 そして俺はいま、そんな彼女の姿を求めて寒風吹きすさぶ夜の街を、あてもなく歩き続けていた。
 幾つもの、答えなど見つからないだろう疑問を胸に抱きながら。
 ただ、黙々と。
 辿り着いた駅前のアーケード街は、時間が時間だけに殆どの店がシャッターを下ろしていて、昼間の喧噪とは対照的にどこか閑散とした空気を放っていた。
 その中を通り抜けると、程なく駅が見えてくる。
 アーケード街と同様、人気を失い夜の帳にすっぽりと覆われたそこも、寂しげな空気を惜しげなく俺に晒していた。
 列車が到着したのか、駅舎からぱらぱらと人影が現れ、家路を急ぐように早足で視界の中から消えてゆく。
 しばらくの間その様をぼんやりと見つめていた俺だったが、辺りに香里らしき姿が無いことを確かめてからきびすを返し、再び歩き出した。
 耳に入ってくるのは、きゅっきゅっと靴の裏から聞こえる雪音ばかり。
 最初のうちこそ、辺りに気を配るように左右に動かしていた視線も、無駄に費やされる時が増えるにつれて俯きがちになり、いつしか足元を見据えるばかりになっていた。
 街灯の光を受け、細く長く延びる影。
 網膜が受け取める光度の増加に反比例するようにその身を縮めていったそれは、やがて足元で黒々した点に結実する。
 そして再び伸び始める影。
 予めそうなるようにプログラムされていたかのように、規則的に伸張と縮退を繰り返すそれを見つめながら、俺はただひたすらに足を動かし続けた。
 どれくらいそうして歩いていただろう、ふと目に映る足元の情景に変化を感じた俺は立ち止まり、落としたままだった視線を上げる。
「…………」
 見慣れた光景が、そこにあった。
 周囲を白い壁に囲まれたそこは、俺の目の前の一カ所だけが穴が空いたようにぽっかりとその口を開けている。
 その先には、闇を通して城塞の如きシルエットが陰影を際立たせながら、静かにその姿をさらけ出していた。
「学校……か」
 コートのポケットに両手を突っ込んだまま、ぽつりと呟く俺。
 学生としての本能の為せる技なのか、どうやら無意識のうちに俺は足をこの場所に向けていたようだった。
 しわぶきひとつ立つことのない静寂の中、眠るように佇み続ける校舎。
 誰もいるはずのない学校。
 そして思い出す。
 いつか香里が口にした、旧校舎にまつわる奇譚(きたん)を。
「噂といっても、そんな大したものじゃないのよ」
 口元に微笑みを宿しながら、言葉を続ける彼女。
「教室から廊下に出ようとしたら別の教室に繋がってたとか、窓から別の世界の景色が見えるとか、姿の見えない何かに足を取られて転ばされたとか……」
 見えない何か。
 あるはずのない何か。
「俺にも……見えるかな」
 冗談めいた口振りで呟きを漏らしながら俺は、ゆっくりとした足取りで校庭に足を踏み入れていた。
 本気でそう思っていた訳じゃない。
 もしかしたら香里も、俺と同じようなことを思いながらこの場所にいるのではないか……愚にもつかない、そんな微かな期待を胸に抱いていたからだった。
 染みひとつない雪の上に描かれてゆく、足跡。
 当然のことながら校舎の入り口は施錠が施されていて、中に入ることはできなかった。
 もしかしたら裏口かどこかが開いている可能性もあったが、あえてそこまで調べるつもりはなかった。
 そのまま建物に沿って足を進めた俺は、視界の左手に新校舎を、そして右手に旧校舎の姿を留めながら歩き続ける。
 そして程なく辿り着いた場所。
 何度となく訪れ、すっかり通い慣れた場所となった中庭が、俺の目の前に広がっていた。
 中庭のきざはしに踏み入ったところで足を止め、一度大きく息を吐き出す。
 途端、真っ白な空気の塊が眼前を覆い、視界を遮る。
 吹き抜ける冷たさよりも痛さばかりを伝えてくる夜風に乗って、それはすぐに俺の前から姿を消していった。
「…………」
 誰もいない世界。
 俺だけが存在するばかりの、孤独な世界がそこにあった。
 そのことに、別に落胆は感じなかった。
 微かな期待を抱いていたとはいえ、それはある意味当然といえば当然すぎる結果だったから。
 再び歩き出す。
 さくさくと小さな悲鳴を上げる雪の音色だけを耳に、中庭と校舎とを繋ぐ金属製のドアの前に辿り着いた俺は、階段の上に吹き積もった雪を払いのけることもせずに、そこに腰を下ろした。
 その場から、改めて辺りを見渡してみる。
 夜の帳に覆われた中庭の情景は、昼間見せていたそれとはまるで別世界の如き趣を醸し出していた。
 ぼんやりとその光景を瞳に映しながら俺は、じっとその場に居続ける俺。
 凍てつかんばかりに冷え切った空気が、痛かった。
 動きを止めたせいで発熱量を抑え込まれてしまったた身体に、寒気が染み込むように入り込んでくる。
 微かな眠気を覚える。
 このまま眠ってしまったら、やっぱり遭難死ってことになるのかな……そんな馬鹿なこと、ふと心の片隅で思ったりもした。
 いま、何時なのだろう。
 時計を持っていないので正確な時間は知る術もなかったけれど、家を出てから随分歩いた気もするので、もしかしたらとうの昔に日付は変わってしまっているのかもしれない。
 脈絡なく浮かんでくる思考を弄ぶうちに、明瞭さを保っていたはずの俺の意識が少しずつ、その境界を曖昧にし始める。
 その時だった。
 耳朶を微かに叩く音色が、風に乗って流れてきたのは。
 さくさく――。
 誰かが雪を踏み締めているかのような、そんな音。
 思わず、我が耳を疑ってしまう。
 こんな夜更けの、しかもこんな場所に一体誰が。
 内心でそんな疑念を抱く間にも、足音は少しずつその音を大きくしながら、こちらに向かって近づいてくる。
 間違いなくそれは、俺以外の誰かが発する足音だった。
 そして俺は、ゆっくりと視線を巡らせる。
 一定の間隔を置いて奏でられている、その音色が聞こえる方に向かって。
 空は雲に覆われ、月も星も未だその身を隠したままだった。
 そんな宵闇の、漆黒のベールに覆われた視界の中を、確かに誰かがこちらに向かって歩いてくる。
 子供か、もしくは女性のものとおぼしき、細く小さな影。
 まさか……。
 いや、でも……。
 混乱しかけた意識を強引にねじ伏せ、口を開きかける俺。
 その刹那、空を覆っていた雲が風に流されるように切れ、中天高くに佇んでいた月が、世界を再び光で包む。
 浮かび上がる姿。
 そこにある見知った、でもいま俺が口にしかけた名前とは余りにもかけ離れた存在。
 その奇妙とも言える現実を前に俺は、肺の中に残った空気の全てを吐き出すかのように声を絞り出した。
「そ……んな……」

                  §

「……こんばんは」
 彼女が俺に向かって最初に紡いだ言葉は、この場にひどく似つかわしくないものだった。
 道で偶然出会ったとでも言いたげな、ごくありふれた挨拶。
 ほんの一瞬、どう答えたものか迷った俺だったが、
「ああ。こんばんは」
 でも結局口を突いて出てきたのはそんな、彼女のそれと同じ言葉だった。
 俺から数歩分離れた場所で足を止めた彼女は、穏やかな笑みを口元に浮かべていた。
 何度も見ているはずの微笑み。
 でもどうしてか、初めて見たような錯覚すら覚えてしまう、そんな微笑み。
「お久しぶり、になりますね」
「ああ、確かに。一週間ぶり、かな」
 頷きながら応える俺。
「あはは。そうですね」
 そして彼女は小さく笑みをこぼしながら、何を思ってか少し困った風に表情を崩してみせる。
「それで、こんな時間にどうした……栞」
 相変わらず階段に腰を下ろしたまま、顔だけを彼女――栞の方に向けながら俺は訊ねる。
「散歩をするには時間が遅いし、それに幾らなんでも寒すぎるぞ」
「はい」
 俺の冗談を真に受けたかのように、栞は小さく頷いてみせる。
 そして一度、小さく息を吐き出す。
 まるでそうしながら、次の言葉を選んでいるかのように。
「お散歩じゃなく、会いに来ました」
「会いに、って誰にだ?」
「もちろん、祐一さんにです」
「俺に?」
「はい」
 再び頷く栞。
 そんな彼女を前に俺は、余りに突拍子もないその言いぐさに思わず吹き出しそうになるのを我慢しながら、
「よく分かったな。今日みたいな身体の芯から冷えつくような夜中に、学校の中庭を散歩するのが俺の趣味だってこと」
「分かりますよ」
「……?」
「だって、私もそうですから」
 素直に頷いていいものかどうか、少し悩むところだった。
 でも栞は、そんな俺の思いに気付いてか気付かなくてか、すっと面を上げて雲の隙間から覗き見える夜空を見上げると、
「月が綺麗ですね」
「ああ、綺麗だ」
 つられるように視線を上げ、栞が見ているのと同じ空を瞳に映す。
 雲の上はここよりも風が強いのか、星の瞬きが普段より強いような、そんな気がした。
「私、冬の星空って好きです。凛として、どこまでも透き通ってる感じがしますから。祐一さんはどうですか」
「どうって言われても……」
「冬は好きですか?」
「嫌い」
 悩む暇も見せず、即座に答えを口にする。
 その途端、視線を俺の方に向け直した栞は、少し不満そうな色を瞳に浮かべながら、
「即答しないでください」
「そうか? でも嫌いなものは嫌いなんだから、仕方ないだろ」
「祐一さんには、ムードが足りません」
「何だよ、それ」
「こういう時はですね、そう思っていなくても少し悩むふりを見せてから『お前が好きなら、俺も好きになってもいいかな』って答えるのが礼儀です」
 肩掛けに羽織ったストールの前を片手で押さえ、残る一方の手の人差し指を立てながら教え諭すように言葉を紡ぐ栞。
 その様に、どこかおかしさのようなものを感じながら俺は、
「なるほど、それが栞の言うところのムードってやつか」
「はい、そうです」
 こくこくと首を縦に振る栞を前に、小首を傾げて少しだけ考える素振りを見せた俺は、
「で、ムードを出してどうするんだ」
 そう、問い返す。
「え?」
 俺の反応が予想外だったのだろう、ちょっと驚いた様子を浮かべる栞。
「いや、だからさ。ここで俺がムードを出したとして、それで栞はどうして欲しいんだって聞いてるんだが」
「…………」
「…………」
 黙り込んでしまった栞に合わせるように、俺も彼女を見つめたまま口を閉ざしてしまう。
 時間にして十秒ほどだったろうか、ようやく表情に変化を見せた栞は困ったような口調で、言葉を紡ぎだした。
「そう言われれば、そこまでは考えてませんでした」
「……そんなこったろうと思った」
「あ、祐一さん。もしかしていま、私のこと『相変わらず変な奴』とか思いませんでしたか」
「思いっきり、思った」
 満面の笑みを浮かべながら、答える俺。
「……そんなこと言う人、嫌いです」
 途端、拗ねたようにぷいっと視線を逸らす栞。
 余りにも予想通りな彼女のその反応に俺は、自然と口から笑みがこぼれてしまうのを止めることができなかった。
 静謐と止麗に包まれていたはずの場所を埋めてゆく、笑い声。
 そして俺の口から漏れ続けるその笑い声に、程なくもうひとつの――栞の笑い声が加わる。
 いつもと同じ場所。
 いつもと違う時間。
 空気は痛みを覚えるほどに寒く、空は瞬く星と煌々と光を発し続ける月に占められていた。
 でも、それでも俺は俺で、栞は栞だった。
 そしてお互いの笑みが途絶えた頃、再び空を仰いだ栞が口を開く。
「本当は私、好きなのは冬だけじゃないんです。春も、夏も、秋も、そしてもちろん冬も……この街が見せてくれる四季の移ろいの全てが、大好きなんです」
 そう言いながら、ストールの裾を握り締めながらその場でくるりと踊るように身を翻してみせる。
 舞い上がる雪の粉を従えながら。
 月の光を受けて、きらきらと星のように輝く中を。
「栞らしいな」
「そうですね。私らしいと思います。でもどうしてだか、祐一さんには分かりますか?」
 問いかけを口にしながら、でも俺からの答えを求めていたのではないだろう栞は、そのまま言葉を続ける。
「そのどれもが、私には無いものだったからです」
「え?」
「私にとっての日常は、時計の針が時を刻んでいくだけの、ただそれだけのものでした。桜散る春も、夕立に包まれる夏も、枯葉舞う秋も、雪降る冬も……全てが、私にはガラス窓を通して見るだけの映像に過ぎませんでした」
「……栞」
「でもいま、私は幸せです。こうして、肌で季節を感じることができていますから。ガラス越しじゃない、本当の季節を見ることができましたから」
 そして再び身を翻して俺に背中を向けた栞は、言葉を紡ぐことを止めてじっと星空を見つめ続けた。
 その様を、やはり無言で見つめる俺。
 空の半ば以上を覆っている雲だけが、時の存在を主張するようにその形を刻一刻と変化させながら流れてゆく。
 どれくらい経っただろうか、
「なぁ、栞」
 忘れかけていた言葉を取り戻すように、彼女の名を口にする。
「ひとつ訊いていいか?」
「……はい」
 相変わらず背中を見せたまま、栞は小さく頷いてみせる。
 月光に映える髪の動きでそれを確認した俺は、わずかの躊躇の後、ゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「一日しか学校に来なかったって、どういう意味だ?」
「言葉通り、ですよ」
 俺の言葉に驚いた素振りも見せることなく、返答を口にする栞。
「本当なのか?」
「はい」
 肩越しに、ゆっくりとこちらを振り返る栞。
 俺に向けられる視線。
 でも俺にはそれが、俺ではないどこか別の誰かに向けられた視線のように思えてしまった。
「新しい学校で、新しい生活が始まる、その日に……私は倒れたんです」
 淡々と、人ごとのように紡がれる言葉。
 それは冷静で、聞いている俺の方が違和感を覚えてしまうくらいの、落ち着いた声音だった。
「それっきりです」
 一度そこで、言葉を切る。
 そして心の裡にわき起こってきた何かに耐えるかのように胸の前で合わせた手をぎゅっと握り締めた彼女は、
「本当は、その日もお医者さんには止められていたんです。でも私には、どうしても叶えたかった夢があったんです」
「夢?」
 俺の合いの手に、栞はこくりと頷く。
「お姉ちゃんと同じ学校に通うこと……お姉ちゃんと同じ制服を着て、そして一緒に学校に行くこと……お昼ご飯を一緒に食べて、学校帰りに偶然会って、商店街で遊んで帰る……」
 ぽつりぽつりと、思い出すように心の欠片を言葉にしてゆく栞。
「それが生まれつき体が弱くて、殆ど外に出ることも許されなかった、私のたったひとつの夢でした」
「…………」
「そのことを言ったら、お姉ちゃん笑ってました。安上がりな夢だって……」
 彼女の言ったその時の情景が、まるでその場で見ていたかのように脳裏に描かれる。
 香里の笑顔。
 栞の微笑み。
「でも、そんな些細な夢さえ……私は叶えることができなかったんです」
 そして彼女の独白は終わる。
 最後の言葉をもって、過去の追憶から現在への帰還を果たして。
 俺は、いま目の前で寂しげな微笑みを浮かべる彼女にかけるべき言葉を、何も見出すことができなかった。
 何を言っても、陳腐な慰めにしかならないと思えたから。
 沈黙が、俺たちの間を覆う。
 ただ吹き抜ける風だけが、微かな風鳴りを耳朶に伝えてくる。
「祐一さん」
 先に口を開いたのは、栞の方だった。
「ん?」
 視線を彼女の方に向けながら、返事を返そうとする俺。
 その刹那だった。
 視界が、ぐらりと揺らいだのは。
 一瞬、自分の姿勢が崩れているのかと思い、そして次の瞬間崩れているのが栞の方だということに気付く。
 階段から跳び起き、思い切り両手を伸ばしてかろうじて雪の中に倒れかけた彼女の身体を受け止める。
「おい、栞。大丈夫かっ?」
「はい。平気……です」
「嘘つけっ。どう見たって、全然平気そうじゃないぞ。どこか苦しいのか、痛いのか?」
 月明かりだけが頼りだったせいでいままで分からなかったが、よく見れば栞の肌からはまるで生気が感じられなかった。
 普段から雪のように白かった肌が、文字通り透き通るように色を失っていた。
「す、すみません。いま薬を……」
 身体を預けるように俺の胸に寄りかかった栞は、そしてスカートのポケットをごそごそと探り始める。
 やがて取り出した、色も形も様々な薬を口に含んだ彼女は、それでようやく一心地ついたように、小さくため息をつく。
「これで、少しすれば大丈夫だと思います」
「そ、そうか……」
 とりあえずいまは、彼女の言葉を信じるしかなかった。
「祐一……さん」
「喋らなくていい。もう少し、じっとしてろ」
 でも栞は、俺の制止を無視して言葉を続ける。
「お願いが……ひとつあります。私……今日は、そのために祐一さん……に会いに来たんです」
 そう言って俺に寄りかかったまま、顔だけを上目遣いに持ち上げた栞は、微かに口元を緩めてみせる。
 そして何を思ったか、肩に掛けていたストールをおもむろに外し始める。
「祐一さん。これを……お姉ちゃんに渡して……欲しいんです」
 切れ切れに紡がれる言葉と共に差し出される、チェック地の見た目にも暖かそうなストール。
「これを……」
「はい」
「どうして俺に?」
「祐一さんにお願いするのが……一番だと思いました……から」
 そして未だ苦しそうな様子を浮かべる表情のまま、口許だけを微かに緩めて見せる。
 微笑み。
 その笑みに、栞のどんな思いが込められているのか。
 俺は多分、その答えを知っていた。
 そして、だからこそ俺の口から放たれたのは、その思いとは全く関係のない言葉だった。
「自分で渡せばいいだろ。香里とは姉妹なんだから、家に帰れば幾らだって渡す機会は……」
 でもそこまで言いかけてたところで、俺は言い淀んでしまう。
 俺のその思いを敏感に察したのだろう、口許の笑みはそのままに瞳を微かに揺らした栞は、
「私じゃ、きっと受け取って……もらえないと思いますから。ですから……お願い……します、祐一さん」
「…………」
「…………」
「分かった」
 時間にして何秒かの躊躇いの後、俺はこくりと頷きながら差し出されたストールを受け取る。
 それで安心したのだろう、表情を穏やかなものに変えた栞は、
「あと……伝えてください。お姉ちゃ……ありが……とうって。それから……ごめ……なさ……って……」
「栞? おい、栞っ!」
 消え入るような語尾を残して、目を閉じてしまう栞。
 彼女の名を呼びながら何度も肩を揺するが、でも意識を取り戻す様子は全く無かった。
 一刻の猶予もなかった。
 片手で栞の身体を支えながら脱いだコートを彼女に羽織らせると、そのまま抱きかかえるように持ち上げる。
 そして俺は、正門に向かって駆けだした。
「いま病院に連れていってやるからな、栞。だから頑張れっ」
 正門を抜け、道に出てからも俺は勢いを緩めることなく走り続けた。
 腕の中で眠り続ける少女は、苦しいのか時折眉根を寄せるように、微妙に表情を歪めてみせる。
 余りにも軽すぎる、肢体の重さ。
 そして、この寒さにも関わらず額に浮かび上がる汗が、俺の目にはどうしようもなく痛々しく……悲しげに見えた。
1月23日(土)に続く

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