どこからか、雀のさえずりが聞こえてくる。
やや高めのソプラノの声。
寒気を通して耳朶を打つそれは、今日一日の始まりを告げるに相応しい、穏やかで軽やかな音色だった。
空は蒼かった。
突き抜けるような紺碧の色彩を惜しげなく晒すそれは、世界の全てを覆い尽くすかのように、どこまでも深い蒼さに満たされていた。
その蒼空と対を為すように大地を覆う、白い雪。
降り積もった雪の上には、新聞配達の自転車だろうか、緩やかな曲線を描きながら延びてゆく一本の轍が穿たれていた。
真っ白なキャンパスに引かれた線。
その跡を辿るように、足下を見据えながら歩き続ける俺。
無言のまま、ただ黙々と。
右足を前に踏み出し、そして今度は左足を更に前に踏み出す。
機械の如き、単調な動き。
いや、実際のところそうだったのかもしれない。
もう随分と前から頭の中は、さながら買ったばかりのまっさらのノートのように、ずっと空っぽのままだった。
眠い訳じゃなかった。
むしろ意識そのものは、痛みすら覚える外気の冷たさに促されるように、ぴんと張りつめていた。
ただ、何も考えないだけ。
何も……思い出したくないだけ。
俺の心が、そして俺の身体が。
だからこそ俺は我が身を機械の一部と化して、ただ歩き続けることだけを目的に、雪上に数え切れないほどの足跡を作り続けてきたのだった。
どれくらい経った頃だろう、不意に足を止める俺。
やがて視界に入ってきた一軒の家の前で、足を止める。
落としたままだった視線を上げたその先には、俺にとっての特別な場所でもある一軒の家があった。
門を潜る。
ドアの鍵は、かけられていなかった。
チェーンどころか、施錠すらされていない。
でもそのことにさしたる感慨を抱くこともなくノブを回した俺は、ゆっくりと閉ざされていたドアを開く。
途端、外気とは明らかに異なった――人の温もり、とでも称すべき空気が中から堰を切ったように溢れ出し、ノブを握ったままその場に佇む俺を優しく包み込んできた。
その感触にくすぐったさを感じ、反射的に目を細めてしまう。
靴を脱ぎ、家に上がる。
床を通して足の裏に伝わってくる痛みにも似た冷たさが、いまの俺にはどうしてか心地よく感じられて仕方がなかった。
夜は、とうの昔に明けていた。
でもいつ朝日が地平線の先から顔を覗かせたのか、俺の意識は全く覚えていなかった。
ふと気がつけば、視界を覆い尽くしていたはずの黒のベールが失われ、代わって透き通るような陽光が世界を照らし出していたのだ。
秋子さんは、もう起きているのだろうか。
家の中の空気に触れたせいだろうか、止まったままだった思考が微かに頭をもたげ、そんな言葉を浮かび上がらせる。
正確な時間は分からなかった。
でも何となく、この家の住人たちが目を覚ますにはまだ時間はあるような、そんな気がしてした。
リビングから光が漏れていることに俺が気がついたのは、部屋に戻るべく階段に足をかけた、その時だった。
陽光とは明らかに異なった、どこか硬質な感じのする人工の光の色。
「…………」
一瞬、身体の動きを止めてしまう。
そして次の瞬間、俺は階段にかけていた足を外すと、床を鳴らさないよう気をつけながらリビングへと向かった。
ドアのガラス越しに、そっと中を窺う。
カーテンが下ろされたままなのだろう、そこは未だ夜の空気をその身にまとい続けていた。
「……?」
そして視界の奥に見出した何かに、微かに首を傾げる。
何だろう、あれは。
胸中から浮かび上がったその疑問は、程なく俺の口から漏れた小さなため息と共に霧散する。
ドアを開いた俺は、リビングへと足を踏み入れた。
数歩進んだところでようやく、その「何か」がどうやら「誰か」であったらしいことに思い至る。
テーブルに突っ伏すように上半身を預け、静かに寝息を立てる姿。
いまではすっかり見慣れてしまった――ネコ柄の半纏。
「……名雪」
そこで一晩中、俺の帰りと……そして香里の来訪を待っていたのだろう名雪の寝顔が、目の前にあった。
彼女の傍らには、蛍光灯の光を受けて鈍く輝くティーセットが据えられていた。
カップは三つ。
果たしてそれが何を、誰の為に用意されていたものだったかについては、考えるまでもなかった。
何故ならそれは、俺が求めたものだったから。
俺のその求めに応じて、名雪が用意してくれたものに違いなかった。
そっと手を伸ばし、カップのひとつに触れてみる。
多分、何時間か前だったら温もりを伝えてきただろう器に指先は、ただひんやりとした感触を覚えるばかりだった。
その事実が、ちくりと小さな痛みを胸に覚えさせた。
眠いのをずっと我慢して……そして結局、我慢しきれずに寝入ってしまったのだろう名雪。
でも彼女は、ここで待ってくれていた。
俺を、俺の言葉を信じて。
「ごめん……名雪」
それは、約束を果たせなかったことに対する謝罪。
ずっとここで待ってくれていたことに対する謝辞。
未だ夢の中の世界を旅しているだろう彼女には、決して届くことはないだろう俺の声。
両腕を枕に眠り続ける名雪の口元浮かぶ、微かな微笑み。
もしかするとそれは、俺の呟きが彼女の許に届いたが故の笑みなのかもしれなかった。
それとも……。
現実で果たせなった望みを――香里に会うという願望を、夢の中で果たしているが故の笑みなのだろうか。
分からなかった。
そしていまの俺に、それを知る資格は……無かった。
しばらくの間、彼女のそんな安らかな寝顔を見下ろしていた俺だったが、やおら来ていたコートを脱ぐと、彼女を起こさないよう気を付けながら、そっと肩に掛けてやる。
いまの俺に出来る、精一杯のこと。
名雪にしてあげられる、小さな罪滅ぼし。
「ん……」
微かに身じろぎを見せる名雪。
一瞬目を覚ましたのかと、どきりとしてしまうが、でも彼女はそれ以上の反応を見せることなく、再び小さな寝息を立て始めた。
ほっと、内心で安堵の吐息を漏らす。
そして俺は、来た時と同様足音を立てないようそっと床を踏み締めながら、リビングを後にした。
§
夢。
夢を見ていた。
いつか……どこかで見た覚えのある光景。
全ての音と、そして全ての色が欠け落ちてしまった、漆黒の緞帳と永遠の静寂に支配された世界。
孤独。
寂寥。
悲嘆。
心の中からそんな漠とした思いが、明瞭な形を取ることなく浮かび上がっては消えてゆく。
俺は知っていた。
ここがどこなのかを。
そしてこれから……何が起こるのかを。
じじっと、音にならない音を伴いながら、少し離れたところに浮かび上がるひとつの影。
少女の姿。
それは何日かぶりに見る、彼女の姿だった。
でもいま目の前にいる彼女は、いつもとどこかが違うように俺には感じられてしまう。
何が違うのだろう。
そんなことを思ううち、ようやく答えに突き当たる。
そっか……。
納得するようにひとりごち頷きながら、俺は改めて少女の姿に目を向けた。
彼女は、そこに佇んでいた。
そう、間違いなく彼女自身の足で。
ブラウン管を通してではなく、手を伸ばせば届きそうなその場所から、俺を見つめていた。
「こんにちは」
我ながら間抜けだと思いながら、そんな言葉が口を突いて出てくる。
何故なら、彼女と直接に言葉を交わすのは初めてだったから。
どこかで見たような、会ったような気ずっとしていたが、でも恐らくはこれが初めての出会いだろうから。
ふたりの間を占める空気を震わせながら、俺が紡いだ言葉は彼女の耳に届く。
届いたはずだった。
でも……少女は無言だった。
ぎゅっと固く閉ざされた口元はそのままに、何を思ってかじっと俺のことを見据えるばかり。
聞こえなかったのだろうか。
それとも、口がきけないのだろうか。
心の片隅でそんなことを思いつつ、改めて問いかけを言葉に乗せようとした、その時だった。
少女の瞳が、微かに揺らぐ。
まるで予想もしていなかった現実――夢の中にいる俺たちにとって、これは紛う方なき現実だった――を前に、驚きを表現するように。
そして閉ざされたままだった少女の口が、ゆっくりと開く。
「……奇跡」
初めて聞いた、彼女の声。
それは見た目に相応しい、少し低めの柔らかい感じの声。
でも彼女の口から紡がれたその言葉は、俺にはどう理解したものか困ってしまうものだった。
奇蹟。
実際に起こるとは考えられないほど、不思議な出来事。
辞書の文句を読み上げるように、そんな声が俺の内心から聞こえてくる。
彼女は何が言いたいのだろう。
そして、俺に何を伝えたいのだろう。
でも少女はそれきり口を閉ざし、再び黙り込んだまま、じっと俺の姿を見据え続けるばかりだった。
その姿を前に、不意に胸がちくりと痛む。
どうしてなのか分からなかった。
ただ何ごとかを訴えかけてくるようなその真摯な眼差しに、俺は気圧されるような思いを抱きながら、胸の奥から発する小さな痛みを感じ続けていた。
口を開きかける。
でもそれは、少女が見せた次なる変化によって、永遠に紡がれることなく終わってしまった。
瞳からこぼれる、一粒の涙。
陶器のように滑らかな肌を伝い、あごの先にまで達したそれは、涙滴となって彼女の足下へと落ちていった。
開きかけた口はそのままに、半ば呆然とその様を見つめやる俺。
そして、再び彼女の口から紡がれる言葉。
「……嘘つき」
「え?」
そう言ったきり軽やかな動きでくるりと身を翻し、俺に背中を向けてた少女は、闇の中を何処かへと向かって走り出す。
「お、おいっ」
声をかける暇もなく、その姿は急速に視界の中で小さくなってゆき、やがて全てが闇の中へと没してしまった。
為すことを知らず、たたその場に立ちすくむばかりの俺。
そして、闇の中にひとり取り残された形になってしまった俺の胸を、少女が最後に紡いだ言葉がよぎっていた。
§
目覚めは、最悪だった。
まるで悪い夢でも見た後のように、瞳に映し出される天井を前に俺は、全身に気怠さと嫌悪感を感じていた。
夢。
そう、俺は夢を見ていた。
でもそれがどんな夢だったのか、思い出すことができなかった。
悪夢?
いや……違う。
そんなものじゃなかったような気がする。
悲しくて、寂しくて――そんな曖昧な言葉ばかりが頭の中を浮かび上がっては、消えてゆく。
夢を見ていたときは、それを夢だと自覚することのが出来たのに。
明晰夢。
何かの本で読んだ、そんな言葉がふと思い出される。
でも目が覚めた途端、現実と変わらぬリアリティを持って描かれていたはずのもうひとつの現実は、塵となって消えていってしまった。
俺の中に、僅かばかりの断片だけを残して。
身体を起こす。
カーテンの隙間から射し込む陽射しの傾きから、どうやら午後も結構な時間になっているらしいことに気付く。
あれから部屋に戻って、ベッドに倒れ込むように寝入ってしまった俺はそのまま……眠る前の記憶がぼんやりと浮かび上がり、いつしか俺は口元に自嘲気味な笑みを口元に浮かべていた。
学校、サボっちまったな。
ベッドを抜け出し、窓際に歩み寄った俺はカーテンを開く。
途端、冬の穏やかな陽射しが部屋一杯に広がる。
その陽光の下で俺は、窓際に据えられた机の上に、何か文字らしいものが書き込まれた紙片を見出す。
手にとって見ると、それは名雪が俺宛に残したメッセージだった。
『祐一へ。
疲れてるみたいだったから、起こさないで行くね。
ふぁいとっ、だよ。
名雪』
くすりと、笑みが漏れる。
そしてこれを書き残していった彼女が、どんな思いを胸に抱いていたかを考え、ちくりと胸が痛む。
約束したのに。
でも、それでも名雪は微笑みを浮かべてくれる。
俺のことを気遣って。
愚痴も繰り言も言うことなく、彼女らしい言葉で「ふぁいとっ」ただそれだけを書き残して。
時計を見る。
午後三時を少し回ったところ。
青かった空が少しずつ紅に包まれ始めるだろう、そんな時間。
手にしていた紙片にもう一度だけ目を落とした俺は、それを机に戻すとそのまま部屋を後にする。
着替える必要はなかった。
何故なら、外から帰ってきた時の服装のまま寝てしまっていたから。
とんとんと、階段を小さく踏みならしながら階下に下りる。
リビングを覗くと、そこは無住の地だった。
秋子さんの姿も無い。
仕事か、それとも買い物にでも出かけているのだろう。
人気の絶えた室内をゆっくりと見渡しながら、俺は小さくため息をつく。
まるでそれを待っていたかのように、俺の腹が空腹を訴えて何とも情けない声を発した。
「落ち込んでても……腹は減るってか」
自嘲気味にそう呟きながら、何か食べるものを探すべく台所へ足を向けかけたその時だった。
プルルルルル――。
静寂に満たされた空気を破るように、突然の電話の呼び出し音が鳴る。
「電話?」
動かしかけた足を止め、背後を振り返る。
軽やかな電子音と、そして受信を知らせる赤いランプを呼び出し音に合わせて明滅させながら、電話機は俺の来訪を待ち続けていた。
「はいはい……」
いい加減な返事をしながら、受話器の前に立つ俺。
「えっと、水瀬だったよな……」
ここは名雪と秋子さんの家であり、俺はあくまで居候の身であることを呟きと共に確認しながら、そして取り上げた受話器の着信ボタンを押す。
「はい、水瀬です」
『…………』
空電音。
さーっと、微かなノイズだけが俺の耳に返ってくる。
「もしもし?」
間違い電話か、それともただの悪戯電話だろうか……そんなことを思いながらもう一度、受話器の相手に向かって呼びかける。
すると何秒かの空白を置いて、
『……相沢……君?』
ぽそぽそと呟くような声が、ようやく返ってきた。
それは、ともすれば電話の雑音にかき消されてしまいそうなほどに弱々しく、か細い声。
でも俺にとっては、それだけで十分だった。
確信と共に、俺は相手の名を口にする。
「香里か?」
『……うん』
さっきより、余程はっきりとした声が耳朶を打つ。
予想通り、受話器を挟んだ先にいるのは、昨日から俺が探し求めていた美坂香里その人に間違いなかった。
言いたいことは山ほどあった。
いままで何をしていたのか。
どうして学校に休んだのか。
そして舞踏会の日、約束の時間に来ることなく俺たちの前から姿を消したのは何故なのか。
「どうしたんだ?」
でも俺はその全てを胸の奥に抑え込んで、代わりにそんなどうにもありふれた言葉を放った。
その疑問をいま、口にすべきじゃないと思ったから。
ようやく手にした、香里の所在と安否を確かめることのできる、絹糸のように細い手がかり。
それを失うわけにはいかなかった。
『学校、行ってなかったのね……』
「ああ。俺は優秀な生徒だからな。一日や二日サボっても、問題はない」
『優秀ね……』
言い淀むような、そんな口調。
奥歯に物が挟まったような……そう言い換えた方が良さそうな、そんな感じの声音。
「で、なんの用なんだ? まさかそんなことを確認するために、電話してきた訳じゃないんだろ?」
『あたしは、そんなに暇じゃないわよ』
受話器の向こう側から、明らかに彼女のものとは異なる声が混ざるように聞こえてくる。
楽しげに笑いささめく、子供のものとおぼしき声。
公衆電話からかけているのだろうか。
「だったら、一体何の用なんだ?」
『ちょっと話があるんだけど……いまから出てこれない?』
「誰が?」
『相沢君が』
「寒いから嫌だ……」
『…………』
無言の反応が返ってくる。
そして彼女が次の言葉を紡ぐ前に、俺は口の端を少しだけ緩めながら言葉を続ける。
「と、思ったけど……まあいいや」
『そう……』
「何時に、どこに行けばいいんだ?」
再びの空電音。
恐らくは電話の向こうで思案を巡らせているのだろう、幾ばくかの空隙の後、
『公園のこと……覚えてる?』
「公園? ああ、前に賞味期限切れのパンを食わされた、あそこだな」
『……そこでどう?』
「分かった」
頷く俺。
『じゃあ、待ってるから』
その一言を残して、がちゃりと受話器の戻される音が響く。
少しの間、そのままの姿勢でつーつーと鳴り響く発信音を聞いていた俺だったが、やがて手にしていた受話器を戻した俺は、リビングを抜け出した。
階段を一気に駆け上がり、自分の部屋に飛び込む。
きょろきょろと辺りを見渡し、壁際に掛けられていたコートを見出した俺は、それに袖を通す。
多分、名雪が掛けておいてくれたのだろう。
それと、もうひとつ……。
内心で呟きながら、椅子の上に折り畳まれて置かれていたストール――栞から託された――を、俺は手にする。
そしてそのまま、取るものもとりあえず部屋を後にした。
§
「はぁ、はぁ……」
家を出てからここまで、ずっと走り詰めだったせいか、さすがに息が切れそうだった。
商店街を抜け、常緑樹が立ち並ぶ遊歩道を駆け抜ける。
目的地は、その先だった。
視界一杯に広がる、雲ひとつない空はいまが黄昏時を象徴するように、一面の紅に覆われていた。
鉄を溶かしたような赤。
バラの花びらのような赤。
そして、血のような赤。
その中に、ぽつりと佇む影がひとつ。
照り返しを受けて、俺の位置からだと顔までは判別がつかない。
陰影をくっきりと際立たせるように、柔らかな曲線を描きながらその姿を象るシルエット。
吹き付ける北風に煽られるようにはためく、長い髪。
間違いなかった。
その影の手前まで辿り着いたところで一旦膝に手をつき、乱れる呼吸が整うのを待って顔を上げる。
「…………」
言葉なく、じっと俺のことを見据える双瞳。
口を閉ざしたままその視線を受け止めた俺は、頭の隅で痺れるような何かを自覚していた。
ようやく会えた。
いま目の前にある、求め続けた姿。
でも、声が出ない。
意識の奥底から浮かび上がってきた幾つもの言葉は、言葉として空気を震わせることもなく、ただ俺の中で澱み続けるばかりだった。
「……遅かったわね」
ぽつりと、紡がれた言葉。
何日かぶりに俺の鼓膜を震わせる、香里の声。
「全力で走ってきたんだけどな」
「そう……みたいね」
身じろぎひとつせず、俺の姿を見据えたままに彼女は呟く。
そこにあった表情は、感情と名の付くものの全てが失われてしまったかのように冷たく、重いものだった。
かすかな違和感。
彼女は――香里は、こんな声だったろうか。
こんな、どうしようもなく悲しさと寂しさを漂わせるような、そんな声の持ち主だったろうか。
そして思い起こす。
彼女と出会ってからの、何週間かの記憶を。
「ここは……寒いわ」
自身を抱き締めるように両腕を身体に回しながら、すっと俺から視線を外した彼女は、物憂げな表情で辺りを見渡す。
雪に覆われた世界。
真っ白なはずのそれが、夕陽を受けてまるで血を流したように、ただひたすらの紅に埋め尽くされている世界。
その先ある噴水から放たれる水流も、やはり赤く染まっていた。
「そりゃまぁ、冬だからな」
「ええ、そうね」
答える俺と、頷く香里。
「なぁ、香里」
刹那の沈黙の後、彼女の名を口にする俺。
そして香里の反応を待つことなく俺は、思いきって体内に澱み続けていた疑問を口にしてみた。
「学校にも来ないで、何してたんだ?」
時間にして数秒、言葉を捜すように目を閉じた彼女は、やがてぽつりと答えにならない答えを口にする。
「……分からないわ」
その表情が、俺の中で別の少女のそれと重なった。
諦観……とでも言うのだろうか、現実に絶望して、でもその絶望さえも受け入れながら生を享受し続ける姿。
外見がどうこうというのではなく、その肢体から放たれる空気が似ているのかもしれなかった。
一歩、彼女の側に歩み寄る。
何も言わず、俺のその動きを見つめるばかりの香里。
少しずつ、縮んでゆく距離。
でも……彼女の心は、未だ俺の手には届かない。
何を考えているのか。
何を思っているのか。
何を願っているのか。
何を信じているのか。
そのひとつとして理解することの出来ない、俺の心。
やがて手を伸ばせば届きそうな距離にまで近づいたところで俺は、ここに来るまでずっと握り締めていたストールを、彼女の肩に掛けてやる。
「これは……?」
半身を覆う薄い生地を見下ろしながら香里は、ぽつりと疑問を口にする。
「預かりものだ、栞からの」
「…………」
「これを、お前に渡してくれって」
「栞って……誰……?」
チェック地の見た目にも暖かそうなストールの裾を握り締め、視線は相変わらず落としたままの香里。
全く同じ台詞を、いつか聞いた覚えがあった。
そして次に放たれた言葉も、やはり聞き覚えのあるものだった。
「……あたしに妹なんていないわ」
「俺は一言も、妹だなんて言ってないけどな」
くすりと、その場には相応しくない笑みをこぼして見せる俺。
でも香里は、その声に何の反応も見せることなく、ただじっとストールを見据え続けていた。
「相沢君は知らないと思うけど……」
何の前触れもなくその場で身を翻した香里が、ゆっくりとした足取りで噴水に向かって歩き出す。
しゃりっ、と靴底が雪を踏み締める音がした。
「この場所って、今の時期はこんなに寂れてるけど……雪が溶けて、そして暖かくなったら……行き交うたくさんの人たちの姿で賑わうのよ」
そこまで言ったところで、記憶の中に残る何かを辿るように顔を伏せる。
「楽しげな様子で駆け回る子供たち。幼い赤子を前に、微笑みを浮かべる夫婦連れ。そしてそんな穏やかな世界の在りように満足そうに目を細める老人。ここは、そんな人たちの集う場所」
「…………」
「いま、そんなこと言っても、全く説得力がないけどね」
肩越しにこちらを振り返りながら、微かに口元を緩める。
儚げな笑み。
まるでどこかに消えてしまうのではないかと、そんな風に思えてたりもしてしまう、いまにも壊れそうな表情。
ちくり、とまた胸が痛む。
でもその痛みを無視した俺は、
「だったら、暖かくなるのが楽しみだな」
出来るだけの笑みを宿しながら、言葉を返した。
「その頃、あたしたちは三年生ね……」
「もう一回、二年生って可能性もあるけどな」
「あたしはないわよ。こう見えても、品行方正で通ってるから」
品行方正な生徒が、学校を二日もサボるのか……思わずそんな悪態をつきそうにになるが、どうにか喉の奥でそれを踏みとどまらせる。
その代わりに、
「だったら、揃って三年だな。俺と名雪と香里と、ついでに北川も入れたみんなで」
「あたしがその時、この学校にいたら……ね」
それは、意外な一言だった。
どう反応したものか一瞬困ってしまった俺の目に、冗談めかすように微かな笑みを浮かばせる彼女の口元が映し出される。
次の瞬間、聞き慣れた「冗談よ」そんな言葉が紡がれるだろう、面影。
でも、それが演技なのだということはすぐに分かった。
何故なら、目が笑っていなかったから。
彼女の本心を語るように、夕陽に照らされて赤く染まる両の瞳がかすかに揺れていることに、気付いてしまったから。
「転校でもするのか?」
「……そうね」
曖昧に首を動かす。
「この街は、悲しいことが多かったから……」
「…………」
「中庭、食堂、商店街。そして、この公園。暖かくなったら……春になったら、一緒に遊びに行こうって約束したこと……そして、そんな些細な約束をあの子が楽しみにしていたこと……」
一度、そこで言葉を切る。
そして落としたままだった視線をすっと、流れるような動きで頭上に広がる黄金色の空へと向けると、
「全部全部……悲しい思い出」
思いの丈を込めるように、最後の台詞を囁いた。
風が吹く。
俺の目の前で彼女の緩やかなウェーブを描く長い髪と、そして肩を覆うストールの生地が、ふわふわと揺れ動いていた。
§
「ちょうど……二週間ね」
どれくらい経っただろう。
言葉が失われて久しかった世界に、香里の声が流れる。
日は既に、その半ば以上を地平線の向こうへと隠れさせ、空も徐々に紅から深い紫へとその身をやつしつつあった。
「何が?」
問い返す俺。
でも戻ってきた言葉は、曖昧なばかりの一言だった。
「……色々と」
「頼むから、俺に分かるように説明してくれ」
そう言いながら、噴水の前で俺に背中を向けたままの香里に向かって一歩、歩み寄る。
足下に覚える、雪の存在感。
日没と共に急速に温度を下げ始めた外気の影響か、それは雪というよりシャーベットに近い感触を、靴底を通して俺の意識に伝えてきていた。
「二週間……色んなことがあったわ」
「そう……だな」
二週間。
彼女が口にしたとおり、思い起こしてみれば確かに色々なことがあった二週間だった。
七年ぶりに、この北の街の雪を踏み締めてから。
従姉妹の名雪との再会から。
新しい学校に通い始めてから。
香里と初めて顔を合わせてから。
そして、栞と出会ってから……。
全てが、今日までのたった二週間で起きた出来事だとは思えないほど、様々なことがあったように思えてしまう。
「それで、話ってなんだ?」
「…………」
「栞のことか?」
「……妹のこと」
「…………」
「あたしの、たったひとりの妹のこと」
「……続けてくれ」
妹。
理由こそ分からないものの、いままで頑なにその存在を拒絶し続けていた香里の口から出た言葉。
紡がれたその言葉の、重さ。
そして、そこに込められた意味。
急速に闇の帳に覆われ始めた人気の絶えた公園の中で、俺は彼女の次の言葉を待ち続けていた。
「あの子、生まれつき身体が弱いのよ」
「それは知ってる。だから、ずっと学校に来ることができなかったんだろ?」
いつか廊下で、栞のクラスメイトの女の子から聞かされた事実。
そして昨晩、栞自身の口から聞かされた事実。
栞はいま、どうしているだろう。
命の灯火の弱々しさを象徴するように、悲しいくらい軽い彼女の肢体を抱きかかえながら、病院を求めて走り続けた俺。
でも俺は彼女の家どころか、彼女のかかりつけの病院すら知らなかった。
そしてあてもなく彷徨ううちに辿り着いた病院の受付で、俺の腕の中にいる栞の姿を看護婦が認めた途端、その場は大騒ぎとなってしまった。
俺の腕の中で、どこか苦しげな様子で浅い呼吸を繰り返しながら眠る少女の顔を覗き込み、そして彼女の名を何の疑問もなく連呼する看護婦を前に、俺は初めて気がつく。
どうやら、一発で当たりを引き当てたらしいことを。
でもそのことを、素直に喜ぶことはできなかった。
何故なら、俺は知ってしまったから。
真実を。
奪い取られるように俺の腕から栞の姿が失われた後、ともすれば言葉を濁そうとする看護婦の口から語られた事実。
三日前から、栞がここに入院していたこと。
病状は予断を許さず、本当なら外を出歩くどころか、立ち上がることさえ困難な状態だということ。
そして夜になって、病室から突然姿を消してしまったこと。
無論のこと俺は、栞の側についていてやることを望んだ。
でもその希望は叶えられることなく、病院側からの丁重にお断りの言葉を共に、俺は帰宅を余儀なくされたのだった。
当然だろう。
家族でもなければ夫婦という訳でもない俺は、詰まるところ偶然にも彼女を見かけ、ここまで運んできた部外者に過ぎなかった。
そして俺は、彼女から香里に渡されるよう託されたストールを手に、帰り道を忘れた子供のように一晩中、街中を彷徨いながら家路を辿ったのだった。
「あの子、楽しみにしてたのよ……」
紡がれた香里のその言葉に、現実へと引き戻される。
見ればいつの間にか身を翻していた彼女は、真っ直ぐに俺の目を見つめながら言葉を紡ぎ続けていた。
悲しげな様子で。
妹から託されたストールを、ぎゅっと握り締めながら。
「あたしと一緒に、あたしと同じ学校に通って……そして、一緒にお昼ご飯を食べる……そんな、本当に些細なことを……あの子は、ずっと切望していたの」
「…………」
「そう言われた時、あたしはこう答えたわ。『安上がりな夢だ』って。でもこの世界は……あの子の、そんな安上がりなはずの夢さえ叶えることを許してくれないほどに、冷たかった」
いかなる夢という存在の前にも、恐らくは冷たく立ちはだかるだろう現実という名の高く、厚い壁。
それはこの世界で生きていく限り、誰しもが向き合わなくてはならないだろう存在に違いなかった。
無論それは俺にも、そして香里にあるだろうものだった。
でも……。
栞が抱いた夢は、そんなに大それたものだったのだろうか。
大抵の人間なら意識すらすることのない、当然の事として傍らにあるべきものだったのではないだろうか。
でも栞にとってそれは、遙か空の高みにあるものだったのだ。
望んでも望んでも、決して手に入れることのできない、儚い幻。
「あと一週間で、あの子の誕生日」
間を置いて、ゆっくりと紡がれる言葉。
「次の誕生日まで生きられないだろうと言われた、あの子の誕生日」
残照に照らされて、顔の陰影をくっきりと際立たせながら、まるで天気の話題を口にでもするような、さりげない口調。
だからだろう。
刹那の合間、俺には彼女の言葉の真意が掴めず、反応が遅れてしまった。
「……どういうことだ」
「言葉通りよ」
俺の言葉を待っていたように、呟く。
「あの子は、このままでは医者に次の誕生日までは生きられないだろう、って言われているのよ」
脳裏に浮かび上がる、栞の明るい表情。
雪と戯れる、元気な仕草。
そして、透き通るように白い肌……。
「でも、最近は体調も少しだけ持ち直していた。だから、次の誕生日は越えられるかもしれない……」
「…………」
「でも、それだけ」
すっと俺から視線を逸らし、星の瞬きが見え始めた空を見上げる。
はーっと彼女の口から吐き出された息が、その煌めきに重なるように白いベールを形作っては、消えてゆく。
「何も変わらないのよ。あの子が、もうすぐ消えてなくなるという事実は」
「そのことを、栞は知ってるのか?」
「知ってるわ」
微かに頷いてみせる香里。
空を見上げたまま。
「……いつから知ってたんだ……栞は」
「もう、ずっと前。去年のクリスマスの日に、あたしが教えたのよ」
「どうして、栞に本当のことを教えたんだ?」
それは当然の疑問だった。
真実を知ることが、必ずしもその人にとって幸せとは限らない。
少なくとも栞にとって、それを知ってしまうことが良いことだと、俺には思えなかった。
でも香里は、感情を全く感じさせない声で、淡々と答えを口にする。
「あの子が訊いてきたから」
「だったら、どうして栞のことを拒絶したんだ?」
「…………」
「…………」
沈黙。
長い長い、沈黙。
そして彼女は、頭上に向けていた視線を戻す。
ゆっくりと開かれる口。
「あたし……」
そして次の瞬間、俺が知っているはずの――いつだって朗らかで、気丈にふるまっていたはずの香里の姿が、そこから失われていた。
ずっと心の奥底に抑え込んでいたのだろう感情が、まるで溢れるようにその口から流れ出る。
「あたし、あの子のこと見ないようにしてた……」
一歩、俺に向かって足を踏み出す。
視界の中の彼女の顔が、間近に迫ってくる。
「日に日に弱っていくあの子を、これ以上見ていたくなかった……」
コートの襟が、ぎゅっと彼女の手で握られる。
まるで、何かに縋るように。
内心から溢れ出てくる思いに押し流されまいと、必死にその場に踏みとどまろうとするように。
「いなくなるって……もうすぐあたしの前からいなくなるんだって、分かってるから……」
掴まれた上着を通して伝わってくる、彼女の両手の震え。
「普通に接することなんて、あたしにはできなかった……だから……あの子のこと避けて……妹なんか最初からいなかったらって……」
俺の胸に、頭が押し当てられる。
両手で服をぎゅっと握り締め、かすれがちになる声を隠そうともせずに、ただひたすら彼女は話し続ける。
「こんなに辛いのなら……最初から……」
震える肩。
その姿を見下ろしながら思う。
こんな時、俺はどうするべきなのだろうかと。
彼女が胸の裡にため込んでいるものの全てを吐き出すまで、じっと耳を傾け続けてやるべきなのか。
それとも、下ろしたままの両腕を彼女の背中に回し、強く抱き締めてやった方が良いのか。
「最初からいなかったら、こんなに悲しい思いをすることもなかったのに……こんなに辛い思いをすることもなかったのに……」
震える声――もしかして、泣いているのだろうか。
でも、いまの俺にそれを確かめる術はなかった。
縋り付くように彼女の頭は俺の胸に押し当てられ、その顔は足下の雪の上に向けられてしまっている。
もしこれが映画のワンシーンだったなら、顎に手を当ててヒロインの顔を上げさせた主人公は熱い口づけをもって、彼女のこれ以上の言葉を塞いでしまうのかもしれない。
その悲しみに満ちた心を、幾らかでも和らげてやる為に。
痛みに震える身体を、少しでも支えてやる為に。
でも……これは現実。
夢物語でもなければ、ご都合主義に満ちた恋愛小説でもない、誰もが求める全てを手に入れることなど不可能な、冷たい一個の現実。
だから俺は、何もできなかった。
胸に押し当てられた香里の存在感を、その場に立ち尽くしながら感じ続けるばかりだった。
「ねぇ……相沢君」
震える声と共に紡がれる、香里の声。
その声が、返事を求めている訳じゃないことを知っている俺は、無言のまま彼女の次の言葉を待つ。
一瞬の静寂。
そして、俺たちの間を吹き抜けてゆく冬の夜風と共に紡がれた言葉は……何より重く、痛かった。
「あの子、何の為に生まれてきたの……」
§
変化は突然だった。
長い長い沈黙。
気がつけば、辺りは完全に夜の支配する世界と化していた。
点々と灯される街灯の明かりと、そして噴水を照らし出す照明だけが、公園の光景を浮かび上がらせる全てだった。
時が止まったかのような、そんな錯覚すら覚えてしまう。
凍り付いたようにその場に立ち尽くすばかりの俺と、そんな俺に縋り付いたまま微動だにしない香里。
周囲には、誰の姿も見出すことはできなかった。
凍てつかんばかりの寒気に包まれた夜の帳の中、ひとつに重なったままのふたり分の影。
その時だった。
何の前触れもなく、噴水から高々と幾重もの水流が吹き上がったのは。
池を囲むように据えられた複数のライトの光を受け、きらきらと硝子細工のように瞬きを繰り返す、無数の水滴。
幻想的な光景だった。
そして同時に、止まったままだった時が再び流れ始める。
ふっと、胸に覚えていた圧力が失われる。
意識を噴水からそちらに移すと、俺の服から手を離し、ゆっくりとした動きで一歩後ずさった香里の姿がそこにあった。
視線は、自らの半身を覆っているストールに向けられている。
下ろされていた手がショールの裾を掴み、そして寂しげな色を浮かべたまま目を閉じた彼女は、
「これはね……あたしがプレゼントしたものなの」
かすれがちな声で、そう告げる。
「一昨年の、あの子の誕生日に」
「…………」
「とっても喜んでくれたわ、あの子。大事そうにこれを抱き締めながら、『一生大事にするね』って、そう言ってくれた」
記憶を呼び覚ますように、ぽつりぽつりと紡がれる言葉。
それは、彼女の悲しい記憶。
嬉しければ嬉しいほどに、楽しければ楽しいほどに、失われたものがどれほどかけがえのないものだったかを思い知らされる、悲しく辛い記憶。
「馬鹿よね、あたし。ベッドの上から、あたしを見上げながらあの子がそう言ってくれた時、本当に嬉しかった」
嬉しかった思い出を語っているはずなのに、でもそれを語る彼女の口調は沈鬱だった。
一瞬の間。
そして閉じていた目を、うっすらと見開いた香里は、
「あの子の『一生』が……いつまで続くのかを知ってたはずなのに。気付いていたはずなのに」
そう言ってくすりと、自嘲気味に笑みをこぼす。
口元には、いつしか微笑みが浮かんでいた。
でも彼女が浮かべてみせるその笑みは、俺の目には少しも嬉しそうには見えなかった。
悲しくて。
辛くて。
寂しくて。
そんな全ての思いを込めながら――涙の代わりに宿されたような、痛々しいばかりの笑み。
「栞から……伝言を頼まれてる」
「あたしに?」
無言で頷く俺。
そして月の輝きの下、苦しそうに表情を歪める中で訥々と言葉を紡ぎ出した栞の姿を思い浮かべながら、俺は言葉を続けた。
「そのストールと一緒に、香里に伝えてくれって。『お姉ちゃん、ありがとう。それから、ごめんなさい』って」
「……そう」
彼女からの返答は、それだけだった。
真っ直ぐに俺の瞳を見つめながら、でもまるでその先にある何かに向けられているかのような、そんな眼差し。
多分香里は、俺の中にある栞の姿を見ているのだろう。
そして俺の言葉を通して、栞の声を聞いているのだろう。
「あたしは……卑怯な女」
「え?」
「自分の弱さを棚に上げて、この世でたったひとりの――大好きな妹が差し出してきた手を、冷たく振り払ったのよ」
「…………」
「そんなもの……無かったって。妹なんて存在、あたしには最初からいなかったんだって……そう思い込んで、現実から目を逸らして、それで少しでも悲しみから……辛さから……」
かさり、と雪を踏み締める音。
それは香里がさらに一歩、俺から後ずさったことを示す音色だった。
「妹を孤独の淵に追いやって、悲しませて……でもそんな馬鹿な姉に、あの子はそれでも『ありがとう』って言ってくれる」
「……香里」
呟くように、俺の口から彼女の名が放たれる。
でもその声は、香里の耳には届いていないようだった。
俺に向けられているはずの眼差し。
それは、どこまでも寂しげで。
どこまでも悲しげで
でもだからこそ、それは語られる言葉以上に頑なに、俺という存在を冷たく拒絶し続けていた。
「あたしは、償わなくてはならないの。妹を――あの子を悲しみと、そして孤独の淵に追いやったその咎を。いままでも。そして……これからも」
一度そこで言葉を切った彼女は、同時に口元に宿されていた微かな微笑みも消してしまう。
能面のような表情。
感情と名の付く存在全てを、俺はそこから感じることができなかった。
「だから……相沢君」
「…………」
「あたしは応えられない。あなたの気持ちに……ごめんなさい」
消え入るような小声で紡がれたその言葉を最後に、再び悲しげな色を表情に宿しながら目を伏せた香里は、その場でくるりと身を翻す。
空気が微かに揺れる。
そして羽織ったストールを夜風に微かに揺らしながら、さくさくと小さな足音を立てながら、彼女は俺の前から去っていった。
視界の中で、少しずつ小さくなってゆく姿。
「香里っ!」
無意識のうちに俺は、その背中に向かって叫んでいた。
でも、香里は立ち止まらない。
街灯の光を浴びて長く延びる影を従えながら、一度としてこちらを振り返ることなく、歩み去っていった。
視界の中の彼女が、夜の闇の中に溶け入るように消え去った刹那、俺は初めて気が付く。
自分が……振られたのだということを。