『黄昏の園』
Update:2001.02.10





1月25日(月)

 下ろされたカーテンの生地を通して朝を迎えたらしい外界の光が、暗闇に覆われる室内を微かに浮かび上がらせている。
 見開かれた瞳に最初に映し出された、薄明かりに包まれた天井。
 それがいま、目の前に広がっていた。
 ここは……どこだろう。
 唐突にそんな疑問が胸中をよぎり、そして次の瞬間当然ともいえる答えをやはり胸中に見出す。
 ここは俺の部屋だった。
 親戚である水瀬家の一角に与えられた、居候たる俺の居場所。
 遠い昔に過ごした記憶のある街に戻ってきた俺の、新しい日々を過ごすための場所。
 眠りと目覚めが交錯するその狭間の中、そんなとりとめのない思いを何度となく反芻するうち、徐々に意識が覚醒を遂げてゆく。
 微かに覚える、気怠さにも似た気分。
 寝不足だろうか。
 そう言えば昨晩はどうしてかあまり寝付けず、夜中に何度となく目を覚ました記憶がある。
 微睡みと目覚め。
 その繰り返しの果てに迎えた、今日という日の始まり。
 室内は、静寂に包まれていた。
 いつもなら窓越しに聞こえてくるはずの小鳥のさえずりも、どうしてか聞こえてこない。
 水を打ったような、静謐。
 規則正しく刻まれる時計の針の音色だけが、鼓膜を微かに震わせていた。
 かちかちと、文字盤にはめ込まれた秒針が六度分動くたび、輪切りにされた世界が、目には見えないはずの微かな変化を着実に遂げてゆく。
 ただ、それだけのこと。
 いつしか目はすっかり覚めていた。
「さて、と……」
 口中で小さな呟きを漏らしながら半身を起こし、ベッドの傍らに置かれていた目覚まし時計のスイッチをゆっくりと止める。
 鳴ることのなかった時報。
 一瞬、それに視線を落としたまま身体の動きを止めてしまう。
 時が止まってしまったかのような、そんな錯覚すら覚えさせてくれるような静けさだった。
 でも、時は流れ続ける。
 刻一刻と。
 目を覚まし、いつも通り学校に行くことを促すかのように。
 のろのろとベッドから抜け出し、制服に着替える。
 意識してそれをする必要は無かった。
 何故なら一連の行動は、いつしか身体が全て覚えていたから。
 この街に来て、この部屋で過ごすようになってから一ヶ月と経たないのに、そんな生活にすっかり同化してしまっている自分。
「ふぅ……」
 着替え終わったところで、そんなため息にも似た声が漏れる。
 ちらりと、カーテンの下ろされたままの窓に目を向ける。
 でもすぐに視線を戻した俺は、椅子の上に放り出したままだった鞄を手に取ると、そのまま部屋を後にした。
 廊下を挟んだすぐ先にあるドア。
 名雪の部屋。
 いつもの習性でドアを叩こうとした俺は、でも拳がドアに触れる直前でその動きを止めてしまう。
「…………」
 無言のまま、じっとドアを見つめ続ける俺。
 逡巡。
 躊躇。
 困惑。
 そんな幾つもの感情がない交ぜになりながら、俺の中でそうするべきなのだと言葉にならない声で語りかけてくる。
 どうしてなのだろう。
 何が俺に、そんな思いを抱かせているのだろうか。
 そう思った瞬間、脳裏にひとつの情景が浮かび上がってくる。
 黄昏。
 その中を、悄然と佇む姿。
 見知った顔。
 悲しげな微笑み。
 ゆっくりと、俺の前から歩み去ってゆく背中。
 そして俺は理解する。
 いま目の前にあるのが、変わらぬ日常へと続く道なのだということに。
 名雪の部屋へと続くこのドアを叩くと同時に、俺はいつもと同じ時の流れの中にその身を置くことになる。
 起きろ、ドアを叩きながら叫ぶ俺。
 開かれたドアの向こうから姿を見せる、眠たげな様子の名雪。
 階段を下りる足音。
 台所から香ってくる、朝食の匂い。
 秋子さんの微笑み。
 玄関のドアを開けた途端流れ込んでくる、凍てつかんばかりの寒気。
 空の青さと、雪の白さに染め分けられた通学路。
 ようやく「馴染みの」と言える程度には、顔と名前を一致させることができるようになってきたクラスメートたち。
 そんな生活の中に、俺は戻ってゆけるのだ。
 でも……。
 ゆっくりと手を引いた俺は、そして叩かれることのなかったドアを拳と交互に見比べた後、踵を返す。
 いまは、誰にも会いたくない気分だった。
 俺を知る誰かに。
 相沢祐一という名の存在を、そうあるべき存在として認知してくれるだろう全ての人たちと。
 名雪にも。
 秋子さんにも。
 それが何故なのか、俺は分かっているつもりだった。
 でも同時に、そのことを考える気もなかった。
 考えれば立ち止まってしまうから。
 そして立ちはだかる高く厚い壁を前に、より暖かで穏やかな世界へ引き返すべく回れ右をしてしまいそうだったから。
 俺が下した選択。
 それが正しいことなのか、それとも間違っているのかは分からない。
 でもいまは、前に進み続けるしかなかった。
 だから、俺は階段を下りる。
 台所で三人分の朝食の準備をしているだろう秋子さんに気付かれないよう、出来るだけ足音を立てずにゆっくりと。
 玄関を抜け、そのまま学校へと向かうべく。
 そして学校の教室という世界の中で、集団の孤独とでもいうべき存在の中にその身を置くために。

                  §

 黒板を叩く、チョークの軽やかな音色。
 いつもならそれを子守歌に居眠りを決め込むところだったが、今日の俺はその板書をきちんとノートに書き留めていた。
 我ながら珍しいことだと思いつつ、同時にそんなことを思ってしまう自分にふと可笑しさを覚えてしまう。
 つまり、いつものペースに戻って来てるってことか。
 ひとりごち小さく頷きながら、何気なく視線を横の席に巡らせる。
 これまた珍しいことに、いつもなら「くー」と気持ちよさそうに寝息を立てているはずの名雪が、起きていた。
 しかも、あろうことか俺と同様真面目にノートまで取っている。
 これは……きっと今日は雪だな。
「…………」
 そこまで考えたところで、己の思考の間抜けさに気がつく。
 雪は既に降っていた。
 一時間目が始まって間もなく、朝日を遮るようにわき出してきた雲が空を覆い、程なく雪片をその身からふるい落として来たのだ。
 大地を多う降り積もった雪を更に嵩上げするようにはらはらと、止めどなく。
 その時、ノートと黒板の間を気忙しげに往復するばかりだった名雪の首の動きが止まる。
 そしてちらりと、何かを窺うような素振りで顔を向けてくる。
 どうやら俺の視線に気付いたらしい。
 何か話しかけようと、口を開きかける。
 でも俺の口から言葉が紡ぎ出されるのを待つことなく、ぷっと一瞬だけ頬を膨らませてから視線を逸らした名雪は、そのまま板書を再開してしまった。
 ……まだ怒ってるのか。
 思わず、内心で苦笑を漏らしてしまう。
 朝、名雪を起こすことなくそのまま学校に来てしまった俺。
 彼女が教室に姿を現したのは、HRが終わってすぐに始まる一時間目の直前のことだった。
 どうやら家からここまで、かなり本気で走ってきたらしい。
 俺と一緒に通学しているときは普段と少しも変わることのなかった息が、少しだけ乱れていた。
 名雪が教室に足を踏み入れると同時に、教師も姿を現してしまったため、言葉を交わすことはできなかった。
 でも席に着くとき、俺の方に向けられた眼差しが少しだけ恨めしそうに感じられたのは、多分気のせいじゃないだろう。
 そして一時間目も間もなく終わろうとするいまになっても、名雪のご機嫌は相変わらず斜めのようだった。
 きっと休み時間になったら開口一番、
「わたしを置いて行っちゃうなんて酷いよ、祐一」
 少し上目遣いな視線を俺に向けながら、そう口を開くに違いない。
 いや、違うか。
 こいつのことだ、俺に捨て置かれたことなんかより、そのせいで朝飯を食えなかったことを恨んでいる可能性は大だった。
 食い物の恨みは恐ろしい。
 これは放課後に何か奢らされるな……自らの蒔いた種とはいえ、ただでさえ軽い財布が更に軽くなってしまうのは、正直辛いところだった。
 小さくため息をつきながら、正面に向き直ろうとしたその時だった。
 視界の端に、その姿が捉えられたのは。
 俺の斜め後ろ、そして名雪の真後ろの席――何日も穴が空いたままだったそこには、香里の姿があった。
 何ごとも無かったように、普通の装いを見せながら。
 俺がいつもより少し早い時間に教室に着いたとき、香里の席はまだ空席のままだった。
 そしてHRが始まった時、彼女はいつの間にか自らのあるべき場所にその身を収めていた。
 そのことに気付いたのは、背後にいる北川が発した声でだった。
「よぅ、美坂。久しぶりだな」
「……そうね」
「風邪でも引いてたのか?」
「ええ、そんなところ」
 そんな、何気ない会話が耳朶を打つ。
 香里の声。
 どうしてだろう、胸の奥が微かな痛みを覚える。
 いや、俺はその理由を知っていた。
 これは未だ傷口の塞がっていない、心の傷。
 絶え間なく血を流し続けている、俺の心が発する痛み。
 昼から夜へと世界が変貌を遂げる刹那の合間、公園の噴水の側で交わした彼女との会話。
『だから……相沢君』
 伏せられる瞳。
 一瞬の沈黙。
 そして紡がれた重く、悲しい一言。
『あたしは応えられない。あなたの気持ちに……ごめんなさい』
 それだけのことだった。
 届かなかった思い。
 たとえ俺が香里のことが好きで、そして彼女がそれを拒んだとしても、俺と彼女がクラスメートであるという事実は変わらない。
 だから彼女は、学校に来る。
 俺の斜め後ろの席に、いつも通りに座る。
 そして一日が始まる。
「…………」
 そこまで思考を巡らせたところで、ふと思う。
 我ながら、こんなに女々しい奴だとは思いもしなかった、と。
 そして自らを嘲るかのように、無意識のうちに口の端を緩めてしまう。
 俺の視界の端に留まり続ける香里。
 ノートを取るでもなく、黒板を見ているわけでもなく、ただぼんやりと窓に向けられた眼差し。
 俺の視線に気付いているのかいないのか、周囲の様子に全く頓着した素振りを見せることなく香里は、ただじっと窓の外を眺めていた。
 その先にあるものを確かめようと、俺はゆっくりと首を巡らす。
 視界から彼女の姿が失われ、そして代わりに窓枠と、ガラスを通して映し出される世界が映し出される。
 雪降る街並み。
 無数の冬の欠片に覆われた世界は、どこまでも冷たく、そして寂しげな色を浮かべていた。
 まるで彼女の心の色を描き出しているかのように。
 悲嘆。
 罪。
 悔恨。
 罰。
 寂寥。
 咎。
 俺は知っていた。
 香里の胸の裡にあるだろう、そんな様々な感情の存在を。
 そして、そんな彼女の為に俺がしてやれることが、何ひとつ無いのだということを。

                  §

「祐一、お昼だよっ」
 昼のチャイムと同時に、名雪がすっかり聞き飽きた台詞を口にする。
「ああ……昼だな」
「うん。お昼休みだよ」
 何が楽しいのか、嬉しそうに目を細めながら頷く。
 とりあえず、朝の一件で斜めだったはずの機嫌はすっかり元に戻っているようだった。
「ああ……昼休みだ」
「祐一?」
 気のない返事をするばかりだったからだろう、少し訝しげな色を浮かべながら名雪が俺の名を口にする。
「ん?」
 身体ごと、名雪の方に向き直る。
「ごはん……食べにいこうよ」
「学食か?」
「うん。朝ご飯食べれなかったから……わたし、お腹ぺこぺこ」
「それは自業自得と言うものだ。お前が朝、ちゃんと起きられれば何の問題もないんだから」
 正論を指摘する。
 少しだけ困ったような色を浮かべた名雪だったけれど、すぐに気を取り直したように俺の目を真っ直ぐに見据えると、
「それはそうだけど……でも、今日は祐一のせいでもあると思うよ」
「なんで?」
「わたしを置いて、先に学校に行っちゃった」
「…………」
「お母さんに起こしてもらって、下に行ったら祐一はもういなくて……わたし、少しだけ寂しかったよ」
「…………」
「学校まで一生懸命走ったけど、でも久しぶりにひとりで走った通学路はね、何だか空がいつもより高い気が……したよ」
 そこで言葉を切る名雪。
 微かに揺れる瞳。
 その奥に俺は何かを見出したような、そんな気がした。
 だからだろう。
「分かった」
 彼女に次の言葉を口にさせることなく、席を立った俺は目の前にある長い髪に覆われた頭をぽんぽんと軽く叩くと、
「今日は一日、俺の奢りだ」
「え。本当に?」
「ああ。とりあえずは昼飯だ。好きなもの、たらふく食っていいぞ」
 廊下に向かって歩きながら、言葉を紡ぐ。
「何だったら、学食のメニュー全部頼んでもいい」
「そんなに沢山、わたしひとりじゃ食べきれないよ〜」
 ぱたぱたと、先にゆく俺を追いかけてくる足音。
 その音は、俺と肩を並べたところでトーンを低くし、周囲の喧噪に覆い隠されるように俺の耳には聞こえなくなる。
 その代わり、声はより明瞭に聞き取れるようになった。
「わたし、Aランチだけでいいよ」
「またか……」
「うん。好きだもん、Aランチ」
 そう言って、屈託ない笑みを浮かべて見せる名雪。
 その様に、ほんの少しだけ俺の心が穏やかな何かを取り戻す。
 もう何日も癒されることなく開いたままだった傷口が、微かに癒されたような、そんな気がした。
「さんきゅ」
「ん?」
 呟くように紡いだその一言は、名雪の耳には届かなかったのだろう、笑顔のまま俺に小首を傾げてみせる。
 そんな彼女の気を逸らす目的もあって俺は、
「そう言えば、北川はどうした? いつもなら何も言わなくても勝手に付いてくる癖に」
「北川君? そう言えば、授業が終わったらすぐに教室を出て行っちゃったよ。
もしかして今日はパンなんじゃないかな」
「なるほど」
 以前見た、パン売場の阿鼻叫喚な地獄絵図を思い出す。
 確かにあそこで望むものを手に入れようと思うなら、寸刻を争って学食に赴くべきに違いなかった。
「で……香里は?」
 その名を口にするのに、少しだけ躊躇があった。
 胸が、少しだけ痛かった。
 でも名雪は、そんな俺の様子に気付いた風もなく、
「あれ、そう言えば香里もいないね。うーん、どこ行っちゃったんだろ」
 きょろきょろと、教室の中を見渡しながら小首を傾げてみせる。
「もしかして先に行って、席を取ってくれてるのかも」
 それはないだろう……内心で紡がれ、言葉とならずに消えてゆく言葉。
 何故なら、名雪の横には俺がいるから。
 いまの彼女にとって、俺が望んで会いたい存在だとは、どう考えても思うことが出来なかった。
 会って何を話せばいいのか。
 いつも通りに馬鹿話をして、軽口をたたきあって、笑顔を浮かべる……そんな当たり前のことだと思っていた日常。
 栞と出会わなければ。
 香里との関係を知ってしまわなければ。
 そして、俺が自分の気持ちを口になんてしなければ、これからも続いていっただろう平凡な日々。
 でも、俺たちは出会ってしまった。
 俺は知ってしまった。
 そして俺は、告げてしまった。
 だからそれは、もう帰ってはこない。
 時計の針を巻き戻すことは誰にも出来ず、そして積み重ねられてゆく時の中を、俺たちは歩いてゆくしかないから。
 その先に何があるのか、誰にも分からない。
 それでも歩いてゆくしかない。
 一歩ずつ。
「祐一、早く行こっ」
「ああ」
 廊下に出た俺は、半歩前を歩く名雪の促しに小さく頷き返しながら、床を踏み続ける。
 前に向かって。
 見知らぬ……未来に向かって。

                  §

 学食は、相変わらずの賑わいだった。
 まるで建物に塗り込められていたかのように思えるほどの数の生徒が、食事の場所を求めて右往左往している。
 予想通り、その中に香里の姿は無かった。
「香里……いないね」
 ぽつりと、呟く名雪。
「そうだな。もしかして、もう食べて行っちゃったんじゃないか?」
「……うん」
 少し残念そうな様子の名雪をよそに、とりあえず座れる場所はないかと辺りを見渡す。
「あ、祐一。あそこ」
 おあつらえ向きに、向かい合わせに座っていた一年とおぼしき生徒が席を立ったところだった。
「わたし、あそこの席取っておくね」
「じゃあ買い出しは俺に任せろ」
「うん。Aランチ、お願い」
「了解」
 席取りを名雪に任せ、生徒が列を為すカウンターに向かう。
 名雪のとふたり分の食券を買ってから、「ランチ」と書かれた札のぶら下がっている前に出来ている列の後ろに並ぶ。
 この程度の列なら、俺の順番はすぐに来るだろう。
 何気なく、視線を周囲に向ける。
 ふと、パン売場を取り巻いているらしい人の群が目に入る。
 その中に北川らしい生徒の姿を見出し、組んずほぐれつの闘いを繰り広げている様に、ほんの少しだけ可笑しくなってしまう。
「頑張れよ」
 思わず、そんな台詞が口を突いて出ていた。
 そうこうするうちに俺の番が回ってきた。
「はい。Aランチふたつね」
 割烹着姿のまかないのおばちゃんに食券を差し出し、代わってトレイに載せられたAランチ一式を受け取って、足早に名雪の許に戻る。
「あれ、祐一もAランチ?」
 同じメニューの載せられたトレイをふたつ持って帰ってきた俺に、名雪が訊ねかけてくる。
 トレイのひとつを名雪の前に置きながら、
「とりあえず、学食のメニューは一通り試してみようと思ってるからな。で、今日はAランチに挑戦と言うわけだ」
「Aランチ、美味しいよ」
「まぁここのメシはどれも結構いい感じだから、外れはないと思うが」
「うん。でもAランチは、その中でも一番」
「お前の場合、単にイチゴムースに目がないだけだろ」
 苦笑を浮かべながら、席に着く。
 そして始まる食事。
 幸せそうな色を浮かべながらのんびりしたペースで箸を動かす名雪と、さくさくと皿の上のものを胃袋に詰め込んでゆく俺。
「しっかしお前、つくづく思うけど食うの遅いな」
「そんなことないよ」
 箸の手を止め、俺に顔を上げる名雪。
「祐一が早すぎるだけ。美味しいものは、ゆっくり味わってあげないと食べ物が可哀想だよ」
「胃に入っちまえば、同じだろ」
「う〜」
 食い物の気持ちまでいちいち考えていた日には、きりがないだろうに……ため息混じりにそんなことを思ってしまう。
 でも名雪は、そんな俺の反応をよそに表情を穏やかなものに戻すと、まるで何かを思い出しているかのようにくすくすと、笑みをこぼす。
「……何だ?」
「うん。あのね、祐一がいま言った台詞、前に香里にも言われたことがあったから」
「香里に?」
 箸でつまんだ卵焼きを口に放り込みながら、訊ねる。
「いまみたいに香里と向かい合わせでお昼を食べていた時にね、『あんた、ホントに食べるの遅いわよね』って」
「ふむ」
「だからわたし、こう答えたんだ。美味しいものは、ゆっくり味わって食べないと勿体ないよ、って」
「それで?」
 先を促す俺に、名雪はくすくすと笑いながら、
「そしたら香里ね、『何バカ言ってるの。食べ物なんて、お腹に入れちゃったら同じでしょ』って。ほら、祐一と同じ」
 何となく「バカ」が入ってる分、俺より余程辛辣な言いような気もしなくもなかったが、とりあえず黙っておく。
 それきり俺は、何もコメントを口にしないまま、箸を動かし続けた。
 俺の無反応だったので、名雪も食事を再開する。
 周囲の喧噪をよそに、無言で箸を動かし続ける俺たち。
「ね、祐一」
 名雪が口を開いたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
 顔を上げる。
 するとそこには、さっきまでの微笑みを消し去り、どこか不安げな様子を見せる名雪の顔があった。
「祐一は……今日、香里と話とかした?」
「んにゃ」
 口中に食べかけのコロッケを残したまま、出来るだけぶっきらぼうな風を装っていい加減な返事をする俺。
 そう、出来るわけがなかった。
 いまの香里と――心の裡にどんな重荷を抱えているのか、それを知ってしまった俺が、彼女に何を話しかければいいのか。
 分からなかった。
 だから朝からいままで、俺は香里を一言として言葉を交わしていなかった。
「名雪は話したんだろ」
「……うん」
 手にした箸で、まだ半分以上残ってる皿の上のコロッケをつんつんとつつきながら、口を開く名雪。
「いつもと同じ香里だった。学校を休んだことも、ちょっと気が乗らなかったらサボってただけだって」
「そっか」
「でもね、気が乗らなかっただけで香里が学校に来なくなるなんて、ちょっと変だと思った」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって香里……学校が好きだったから」
 ぽつりと、何かを思い出すようにぽつりと言葉を紡ぐ名雪。
 そう言えば前に、そんな話を聞かされた覚えがある。
 俺なんかにはとても理解できなかったが、学校に来ることが楽しみだったらしい香里。
 それは、何故なのだろう。
 何が香里に学校を楽しいと思わせていたのか。
 何が香里に学校に来ようと思わせていたのか。
「それに今日の香里、笑っていてもどこか寂しそうな笑いだった。時々見せてた寂しそうな顔、今日も浮かべてた……」
 微笑む名雪。
 いつしか彼女の手は、止まっていた。
 それに歩調を合わせるように、俺の箸もその動きを止める。
 寂しげな笑み。
 誰かがとんと、軽く彼女の背中を押しただけで泣き出してしまうんじゃないかと、そんな風に思える痛々しげな微笑み。
「食わないならそのコロッケ、俺がもらうぞ」
 だからだろう。
 名雪のその表情をこれ以上見ていたくなかった俺は、冗談めかした口調でそう言うと、素早く名雪の皿の上にあったコロッケを箸で摘み、口の中にぽいと放り込んでしまう。
「あ……わたしのコロッケ」
 驚きと、そして困惑の入り交じった表情。
「喜べ名雪。これであとは、待望のデザートを残すのみだ」
「う〜。意地悪だよ、祐一」
 空になってしまった皿と俺を見比べながら、上目遣いに非難めいた視線を送ってくる名雪。
「分かった分かった。じゃあ俺のこれやるから、それでおあいこだ」
 そう言って俺は、苦笑を浮かべながらトレイの上に残っていた俺の分のイチゴのムースを手渡してやる。
「え、いいの?」
「ああ。どうせ俺は、甘いもの苦手だからな」
「嬉しいよ〜」
 自分の分のムースと並べ置き、さっきまでの態度はどこへやらにこにこと相好を崩している名雪。
「ムース、ムース、イチゴムースがふたつっ」
 あまつさえ、訳の分からない歌まで口ずさみ始める始末。
 でも俺は、テーブルを挟んだ先にある名雪のそんな姿に口元を緩めながら、言葉なく見つめていた。
 そして内心で呟く。
 なぁ名雪、お前は気付いてないんだろうな。
 香里がどうして学校が好きなのか。
 何となくだけど……俺には想像がついたよ。
「イチゴムース、美味しい」
 見るからに幸せそうな微笑みを浮かべながら、手にしたイチゴムースに舌鼓を打つ名雪。
 お前がいるからだよ。
 学校に行けばお前に会うことができるから、だから香里は学校に来ることが楽しかったんだよ。
 お前のその笑顔があったから、たとえその先に悲しい未来が待っているんだとしても、香里は笑顔を浮かべ続けることができたんだよ。
 だからだと思う。
 香里が、お前に何も話そうとしないのは。
 それを知ってしまったお前の笑顔が曇ってしまうのが、恐かったから。
 学校を楽しいと思わせてくれる彼女にとって大切なものが、自分のせいで失われてしまうのが。
「名雪」
 何となく、声をかけてしまう。
 匙を口に含んだまま、名雪が俺の方に目を向ける。
「ん?」
「美味いか」
「うんっ」
 たとえそれが、叶わぬ夢が残された場所だったとしても。
 たったひとりの妹と過ごせるはずの、でも決して現実になることのない夢の残滓が漂っているのだとしても、それでも楽しかったんだよ。
 そして気がつく。
 俺はいまこの場に名雪と共にいることで、そんな彼女の楽しみさえ奪おうとしているのだということに。
 香里が学校に居るべき最後の理由すら、無くしてしまおうとしている。
 それが……少しだけ悲しかった。
 ちくりと胸が痛む。
 でも名雪は、そんな俺の思いに気付くことなく、目を細めながらデザートを食べ続けていた。
 名雪にしか浮かべられないだろう、微笑みを宿しながら。

                  §

 ようやくのことで、今日最後の授業が終わりを告げる。
 相変わらず適当なHRも滞りなく幕を下ろし、クラスメートたちは三々五々その場を後にしていった。
「祐一、帰ろっ」
 すっかり帰り支度を整えた名雪が、声をかけてくる。
「でもお前、今日も部活だろ?」
「うん。だから昇降口まで」
「……そうだな」
 席を立つ。
 そして机の間をすり抜け、ドアに向かって歩き出す。
 香里の席は、既に空席となっていた。
 多分HRが終わると同時に、教室を後にしたのだろう。
 ぱらぱらと撒き散らしたようにしか人影の残っていない教室の光景を目に映しながら、そんなことを思う。
 廊下を抜け、階段を下り、その合間に名雪と二言三言言葉を交わすうちに、昇降口に辿り着く。
「じゃあね、祐一」
「ああ、また明日な」
「違うよ……」
 俺の返答に少しだけ不満そうな色を浮かべながら、でも時間を気にしたように名雪は早足で俺の前から去っていった。
 ひとり、その場に残された俺。
「さて……」
 廊下の向こうに名雪の姿が消えていったのを確かめてから俺は、小さく呟きながらさして長くないだろう放課後をどう過ごしたものか思案する。
 このまま真っ直ぐ家に帰るか。
 それとも商店街にでも繰り出してみるか。
 商店街に行けば、もしかしたらあゆにでも会えるかもしれない。
 ここはひとつあいつをからかって気分転換を図るというのも、考えようによってはひとつの手だった。
 しばらく会ってない気もするけど……まぁあいつのことだから、相変わらず無意味に元気にしているに違いない。
 よし、決定。
 今日は商店街に寄り道。
 ひとりごち小さく頷きながら、靴を履き替えようと下駄箱に向かおうとしたその時だった。
「お、ちょうど良いところに」
 背中から聞こえる、聞き慣れない声。
 振り返るとそこには、どこかで見た覚えのある教師の顔があった。
 って、どこかどころじゃない。
 そこにいたのは、ついさっきHRで会ったはずの石橋だった。
 担任の教師の顔くらい、いい加減覚えろって……思わず内心で、そんなツッコミを入れてしまう。
 そんな俺をよそに、石橋は俺の腕をむんずと掴むとずるずると何処かへ連れていこうとする。
「ちょ、ちょっ!」
 事の成り行きがさっぱり理解できないまま、しかし抵抗虚しく俺は元来た廊下を引きずり戻されていった。
 行き違う生徒たちの視線が、少し痛かった。
 これじゃ俺、まるで悪事を見つかった下手人みたいだな。
 そんな情けない想像をするうち、大きくついて出てきため息の向こうから、石橋の声が聞こえる。
「あー。すまんが、少し手伝ってくれ」
「だから何を?」
「授業に使うために資料室から持ってきたものを、元の場所に戻しておいてくれないか」
「何で俺が?」
「だからすまんと言ってるだろう。これから急な会議で身体が空かなくてな、代わりにやっておいてくれ」
 つまり、俺は運悪く捕まってしまった犠牲者な訳だ。
 目的地に着くまでの間に交わされた石橋とのそんな会話で、ようやく自らの置かれた立場を理解する。
 そして俺に、その依頼を断るに足るだけの理由はなかった。
 部活をやっている訳でもない俺が暇を持て余しているだろうことは、担任たる石橋にとっては周知の事実だろうから。
 俺はため息混じりに承諾の返事を返し、それでようやく手を離してくれた石橋の後について目的地にへと向かう。
 予想通り、石橋は職員室の中へと入っていった。
 少しだけ気後れにも似た思いを抱きながら、足を踏み入れる。
 別に説教をされる為に来た訳じゃなかったけれど、生徒にとってここが足の踏み入れにくい場所であることに変わりはなかった。
「あー、これこれ」
 ぽんとその「これ」を叩く石橋を前に、俺は思わずやっぱり逃げればよかったと後悔の思いを新たにする。
 そこにあったのは、うず高く積み上げられた本の山だった。
 高さにして、俺の腰くらいまではあるだろうか。
 無理をすればひとりで運べないこともなかったけれど、軽々と抱えてみせるにはちょっと……いや、かなり無理のある量。
 だから俺は、素直に質問を口にする。
「これを、どこまで?」
「資料室は、あー旧校舎にある」
「旧校舎……」
 ちらりと、視線を窓の向こうにある建物へと向ける。
 どこか古ぼけた――実際かなりの年代ものなんだろう――印象の拭えない、木造の校舎。
 ここからだと……脳裏にそこに辿り着くまでの道のりを描き出し、同時にため息をつきたくなってしまう。
「これを俺ひとりで? はぁ、目眩がしてきた」
 でも俺の予想に反して、石橋の口からは意外な言葉が紡がれた。
「んあー、他にも頼んでいる生徒がいるから、大丈夫だろう。お、ちょうど来たみたいだな」
 言いながら、視線を俺の背後へと向ける。
 石橋のその動きに促されるように、俺もゆっくりと後ろを振り返る。
「…………」
 思わず思考が停止してしまう。
 それくらい、瞳に映し出された人物は俺にとって意外……いや、この場で出会うことなんて微塵も想像しかった相手だった。
「じゃあすまんが頼んだぞ、相沢。あー、それと――」
 俺がその名を口にしたのは、石橋が言葉を紡ぐのと同時だった。
 長く、緩やかに波打つ髪。
 凛とした立ち居振る舞い。
 意志の強さを感じさせる眼差し。
 そして、まるで一切の感情を持たないだろう人形の如き表情。
「……香里」

                  §

 床がぎしぎしと、嫌な音を立てていた。
 普通に歩いていてでさえ床が抜けそうに思えるのに、いま両腕で抱えている荷物のことを考えたら、その危険は尚更だった。
「……ととっ」
 ぐらつく床のせいで、ともすればバランスを崩しそうになる姿勢をどうにか維持しながら、廊下を歩く。
 そして前には、嫌でも視界に入ってきてしまう、ゆらゆらと長い髪を揺らしながら歩く女生徒の後ろ姿。
 香里だった。
 職員室からここにくるまで、俺たちの間に一切の会話はなかった。
 資料室の場所を俺は知らなかったから、当然のことながら香里が前に立って歩いていた。
 頭より高く積み上げられた荷物を抱えながら、職員室を後にした俺。
「…………」
 そこには先に行っていたはずの香里が、俺の方に顔を向けながら静かに佇んでいた。
 声は聞こえてこない。
 だたじっと、口を固く閉ざしたまま、まるで俺が来るのを待ってくれていたのかように、その場に立ち尽くしていた。
「……?」
 視界を遮る本の横合いから顔を覗かせながら、そんな香里の態度に小首を傾げる俺。
 でも彼女は、俺が何か言葉を口にする再び前に向き直ると、ゆっくりとした足取りで廊下を進み始めた。
 スピードを出せないだろう、俺の歩みに合わせてくれるかのように。
 廊下の突き当たり、そこには鉄製の大きな扉があった。
 未だ記憶の中に明瞭に残っているその場所。
 そう、この扉の向こうには、白い世界が広がっている。
 雪の中、寒さを少しも気にした風もなくアイスクリームを嬉しそうに食べていた少女。
 宵闇の中、苦しそうに息を乱しながら、それでも俺に向かって自分のストールを差し出してきた少女。
 栞と過ごした、ほんの数日間の出来事。
 数歩前を言っていた香里が、扉をゆっくりと押し開いてゆく。
 そして開かれた扉を押さえたまま、俺がそこを通り抜けるのを黙って待ってくれている。
「さんきゅ」
 ドアを抜けたとき、俺は彼女に向かって礼を口にしたけれど、でも香里は何も返事を口にすることなく、その場を離れた。
 やっぱり、俺とは口をききたくないってか。
 当然とも言える話だったけれど、少しだけ胸が痛んだ。
 さくさく――。
 降り積もった雪を踏み締めながら、視界の中で少しずつ大きくなってゆく旧校舎を首を傾げつつ見据え続ける。
 校舎への入り口は、中庭から少し離れたところにあった。
 閉ざされていた木製の扉は鍵がかかっていなかったのか、香里が押すと何の抵抗もなくすっと開かれた。
 そして先刻と同様、俺が通り過ぎるのを待つようにその場で足を止める。
「…………」
「…………」
 今度は俺も、何も言わなかった。
 無駄だってことが分かっていたから。
 そう、俺たちは望んでこの場に一緒にいる訳じゃない。
 たまたま石橋に捕まってしまい、益体もない用事を頼まれたから、その勤めを果たすために同じ道を歩いているに過ぎないのだから。
 ぎぃと、板張りの床が軋む。
 普段からあまりきちんとした手入れがされていないのだろう、あちこちに埃がたまっているそこは凍てついた空気と、そして木の匂いに満ちていた。
 香里が歩き出す。
 その後をついてゆく俺。
 まるで外界から隔絶されたかのように、人気の無い校舎の中は静謐に満ち溢れていた。
 時折重みに絶えかねるように悲鳴を上げる床の音だけが、俺の耳に届くものの全てだった。
 立ち並ぶ教室の窓からは、外界の光が射し込んできていた。
 午後になって雪は止んだものの、それでも雲が切れることはなく、空は薄暗がりに覆われたままだった。
 だから光といっても、陽射しを実感できるほど強いものじゃなかった。
 とりあえず暗闇の中を歩くことだけは避けられるだろう、その程度のものが教室と廊下を隔てる壁に穿たれた窓から、流れてくるばかりだった。
 その中を歩き続ける俺たち。
 無言で。
 ゆっくりと。
 まるで葬儀の列を織りなすように。
 嫌な想像だった。
 自分で思っておいて、そんな嫌悪感を抱いてしまう。
 死の予感。
 いつの日か、誰にでも公平に訪れるだろう現実。
 でも……いまの俺たちにとってそれは、決して遠い未来の出来事なんかじゃなかった。
 遠からず訪れる、別離。
 望まざる別れ。
 それを直視せざるを得ないからこそ、俺たちはいま同じ時を過ごしていながら終始無言のままだった。
 窓からの明かりだけを頼りに、俺たちは薄暗がりの中を歩き続けた。
 変化は、突然だった。
 がらんとした、隙間だらけの空間を晒すばかりの教室を横目に歩き続け、そろそろ校舎の中程に達したかとおぼしき辺り。
「…………」
 いつの間にか、前を歩いていたはずの香里の足が止まっていた。
 俺の半分ほどの量の本を抱えたまま、首から上だけ教室の中へと向けながら、その先にあるのだろう何かに目を向けている。
「香里、どうし――」
 でもその問いかけを俺は、最後まで口にすることはできなかった。
 何故なら、彼女の視線を追いかけるように教室の中へと向けた視線のその先に、見出してしまったから。
 立ち並ぶ幾つかの窓の中、そのひとつだけが光に満ちていた。
 橙色に染まったその輝きは、間違いなく夕陽だった。
 でも、どうして。
 それは当然ともいえる疑問だった。
 確かに時間的には、そろそろ冬の早い日暮れが訪れる刻限だった。
 でも、外は曇のはず。
 雪こそ降り止んでいたものの、窓から夕陽が射し込んでくるなんてことは、どう考えてもあり得ないはずだった。
 もしかすると、雲間から太陽が顔を覗かせているのだろうか。
 でもそれにしても、一カ所の窓にだけ光が射し込んできているというのは、やはり変だった。
 香里の足が動き出す。
 廊下を離れ、その一角だけが黄昏に包まれた教室の中へと。
「お、おい。香里っ」
 慌てて後を追う俺。
 教室の中には、建物に合わせたように木製の机や椅子が幾つか、無造作に置かれていた。
 その中を、窓辺に向かってゆっくりと歩み寄ってゆく香里。
 程なく、その動きが止まる。
 俺も彼女から少し離れた場所で足を止め、改めてその姿を見る。
 ガラスを通して射し込んでくる夕日を受けて、香里の全身は黄昏色に染め尽くされていた。
 髪も。
 顔も。
 手も。
 足も。
 綺麗だと思った。
 それは嘘偽りのない、その時の俺の本心だった。
 でも……。
 俺がその思いを抱けたのは、彼女を紅に照らし出す窓の先にある風景が目に留まる瞬間までだった。
「な、なんだよ……これ」
 そう言ったきり、絶句してしまう俺。
 立ち並ぶ窓からは雪に覆われた中庭と、そして普段俺たちが過ごしているはずの校舎が見て取れた。
 ただひとつ、夕陽の射し込む目の前の窓を除いて。
 そこだけがまるで、自分だけは違うのだと自己主張するかのように、他の窓とは全く異なる情景を映し出していた。
 窓枠を通して、ぽっかりと穴が空いたように広がる空間。
 たとえて言えば、電気屋の店先に並べられた同じ画面を映し出すテレビのうち、一台だけが別の番組を映しているような、そんな感覚。
 この先にあるのが現実の光景ではなく、窓ガラスに映し出された虚構の存在に過ぎないのではないか、ふとそんな馬鹿げた想像をしてしまう。
 でも、いま目の前にあるのは間違いなく現実の光景だった。
「ただの……薄野原よ」
 不意に誰かの声が耳朶を打つ。
 香里だった。
 数日ぶりに聞く、俺に向かって紡がれた彼女の言葉。
 その声はひどく穏やかで、いま目の前で展開している非現実的な光景にも何の感慨も抱いた様子はなかった。
 穏やかに。
 静かに。
 無機質に。
 紡がれた言葉は俺の鼓膜を震わせ、そして意識の奈辺へと辿り着く。
 どさっ。
 抱えたままだった本が、床に落ちる。
 でも俺は、そのことにすら気付くことなく窓の向こうに広がる光景と、そして夕焼けに染まる香里の姿を魅入るように見つめ続けた。
 ただ、呆然と。
1月26日(火)に続く

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