少女は、そこにひとり立ち尽くしていた。
吹き抜ける風に長い髪を弄ばせるに任せ、まるで何か物思いに耽るかのように瞳を伏せながら。
見知った姿。
これまでに何度となく、瞳に映し出してきたはずの顔。
でも俺は、彼女の名前を未だに知らない。
何も……知らない。
夢。
そう、これは夢なのだ。
何日かぶりに目の当たりにする、久しぶりの夢だった。
一週間ほど前から何の前触れもなく始まった、断続的に続く夢。
暗闇の中、俺の前に姿を見せる少女。
最初は彼女に声をかけることすら出来なかった。
何故なら少女は、ブラウン管の挟んだ向こうにある、俺のいるどことも知れない場所とは全く異なる世界に、その身を置いていたから。
それ故なのか、俺の方から彼女の姿を見ることはできても、逆に彼女が俺の存在に気付くことは無かった。
でも、夢は日を追って少しずつ変化を見せていった。
四周の切り欠けた画面の向こうでひとり、芝居を続ける少女。
何かに耐えるように口をぎゅっと固く閉ざし、意志の強そうな眼差しを真っ直ぐに向ける彼女は、やがてその瞳から一粒の涙をこぼす。
悲しみの雫を。
それを、ただ見続けることしか出来なかった俺。
手を伸ばしても、その指先が彼女の肌に触れることはない。
声を発しても、それが彼女の鼓膜を震わせることはない。
仮に少女が役者としての責を果たしているのだとしたら、一方の俺は観客としての役割を求められているに過ぎなかった。
でも次に夢を見た時、その状況に変化が訪れていた。
彼女は、俺の前に存在していた。
細くしなやかなその二本の足で地を踏み締め、画面を通してではなく、虚空だけを間に挟んだその先から俺のことをじっと、言葉無く見据えていた。
どうしてなのかは分からない。
それに、そんなことを考えたところで意味がなかった。
だってこれは夢なのだから。
夢とはいつだって、不条理なもの。
不可解で意味深で理不尽で、でも時に考えようによっては何かを示唆しているかのような、そんな出来事が映し出されるばかりのものなのだから。
「……奇跡」
初めて耳にした、少女の声。
「……嘘つき」
最後に耳にした、少女の声。
夢の中で俺の鼓膜を震わた彼女の声音は、その二言に過ぎなかった。
たったそれだけのこと。
語られる言葉が少ないからこそ意味ありげで、でもいまの俺にはそれが何を意味しているのかすら判然としない、そんな台詞。
そしていま、俺は少女と都合四度目になるだろう邂逅を果たしていた。
墨を流したような、どこまでも続く暗闇。
四周を直線で区切られ、微かに走査線のノイズを走らせる空間の中に、少女は佇んでいた。
……元に戻ってしまったのか。
前回の夢で、ようやく直接言葉を交わすことができたことを思い出し、少しだけ残念な思いを抱く。
ここからじゃ、俺の声は届かない。
何を言っても。
何を叫んでも。
全ては俺の周囲の空気を震わせるだけで、少女の耳朶を打つことはない。
多分風が吹いているからなのだろう、画面の奥で緩く波打つ少女の髪は暗闇の中、右に左にとゆらゆら揺れ動いていた。
瞳を伏せてしいるせいで、少女の表情の半分が前髪に隠れてしまい、そこにどんな感情が宿されているかを知ることはできなかった。
俺の目に映るのは、固く結ばれたままの彼女の口元だけ。
その時だった。
画面がぱっと、まるで爆発でもしたかのように、溢れんばかりの光の奔流に包まれたのは。
「……っ!」
思わず目を瞑ってしまう。
まぶたの上に、ちりちりと無数の光の粒が跳ね返ってゆくのを、痛みにも似た感覚と共に実感する。
しばらくの間、俺はじっとその場に立ちつくしていた。
突然に押し寄せてきた波が、落ち着きを取り戻すのを待って。
俺の瞳が再び視覚を取り戻したのは、それからどれくらいの時が経ってからだろうか――恐る恐るとった感じで目を見開いてゆく。
そして俺は、そこに先刻までとは全く異なる情景を見出した。
黄昏。
夕暮れ時の太陽が生み出す、紅に染め尽くされた光景。
全てが単色の世界と化していた。
天も。
地も。
人も。
その場に存在する全てのものが、昼と夜の刹那の合間にだけ生み出される色彩の海の中に、その身を浸していた。
そんな中を、ひとり佇み続ける少女。
かさかさ……。
ふと、そんな音が聞こえたような気がした。
そして気がつく。
いつの間にか、彼女の周囲を取り囲むように生い茂る無数の薄の存在に。
少女の胸の高さあたりまで伸びた薄は、彼女の髪の動きに合わせるように左右に揺れ続けていた。
それは、不思議な光景だった。
目に映る情景がどうこうという訳じゃない。
むしろそれを目の当たりにした俺が、内心で抱いてしまった思いこそが不思議なのだった。
そう、俺は懐かしさを覚えてしまったのだ。
黄昏の下、無数の薄に囲まれた少女の立ちつくす、その光景に。
見たこともない風景。
名前すら知らない少女。
まるで壁に掛けられた一枚のポートレートを眺めているかのように、俺は言葉を失ったまま、いつまでもそれを見つめ続けた。
§
「……寒いって」
足元から聞こえてくる雪の音を耳にしながら俺は、誰に言うでもなしに呟きを漏らす。
人気の絶えた中庭は、相変わらずの寒気に包まれながら、俺たちの来訪を無言で迎えてくれた。
「寒いよ〜、祐一〜」
俺の呟きを追いかけてくるように、耳朶を打つその声。
更に数歩行ったところで足を止めた俺は、その場で肩越しに背後を振り返りながら、
「だから、先に教室に戻ってろって言っただろ」
ため息混じりに、言葉を返す。
昼休み。
いつも通り学食で昼飯を済ませた俺は、その足で中庭に赴いた。
誰もいない、そこだけが時の流れから置き去りにされてしまったような、そんな寂しい光景。
「だって祐一がお散歩に行くって言うから、わたしついて来たんだよ」
「そんなこと言ってない」
「言ったよ〜。中庭に寄ってくから、って」
なおも食い下がる名雪。
視線を戻した俺は、再び雪の上に足跡を残しながら、目の前にそびえ立つ旧校舎に向かって歩み寄って行く。
そして彼女に背中を向けたまま、
「寄ってくだけだ。散歩じゃない」
「お昼ご飯食べた後の寄り道なんだから、食後のお散歩だよ」
何だかよく分からないが、どうやら名雪は「散歩」という部分にかなりこだわりがあるらしい。
そう言えば、前に散歩が好きだとか言ってたな。
もう随分と昔のことのように思えてしまう記憶を、無意識のうちに脳裏で反芻してしまう。
「お散歩、お散歩〜」
結局俺の意見を完全に無視した挙げ句、いつの間にやらひとり納得した様子で謎の歌を口ずさみだした名雪は、さくさくと雪を踏みしめながら俺の後をついてきていた。
やれやれ。
半ば呆れながらも、とりあえず害はないので突っ込むのは止めておく。
「お散歩、楽しいね」
「楽しくない」
「わっ。少しくらい考えてよ〜」
吐き出される息は白かった。
この場所が、未だ冬の季節に支配されていることを、これみよがしに示そうとするかのように。
凍てつく空気。
弱々しい陽光。
白く輝く雪原。
それが、この場所にあるものの全てだった。
校舎の先から射し込んでくる陽光を受け、吐息の中に含まれる水分がきらきらと無数の小さな輝きを発していた。
美しい光景。
でも、だからこそ寂しくも思える光景。
「ここも、いまはこんなに寂しい場所だけれど、春になったらお日さまぽかぽかで、とっても気持ちいい場所になるんだよ」
穏やかな声音。
背中を向けていたから、名雪がどんな顔をしているかまでは分からなかったけれど、きっと穏やかな笑みを浮かべているに違いなかった。
だから俺も、小さく頷きながら返事を口にする。
「……そっか」
「うん。春になったら、お弁当を食べに来る生徒で一杯になるしね」
春。
大地を覆う雪が全て解け去り、新たな季節がこの地に訪れる時。
目の前の寂しいばかりの光景を見る限り、とても彼女が言うような出来事が繰り広げられるとは思えなかった。
でも、それは本当のことなのだろう。
春の暖かな陽射しの下、芝生の上やベンチといった思い思いの場所を占座しながら、憩いの一時を過ごす生徒たち。
それはきっと、この学校では毎年のように繰り広げられる光景なのだ。
でも……。
内心で紡がれた言葉は、そのまま形を取ることなく消えてゆく。
足跡のひとつとして無い新雪を踏み分け、俺が目指す場所にたどり着いたのはそれからすぐだった。
木造の校舎。
かつて生徒たちの姿で賑わい、いまではその果たすべき本来の役割から開放されてしまった建物。
雪の中を静かに佇むそれを前に、しばらくの間俺はじっと立ちつくしていた。
「祐一……?」
すぐ後ろにいるらしい名雪の声。
でも俺は、無言のまま旧校舎を見据え続けた。
やがて、建物に沿ってゆっくりと歩き出す。
さくさくと、凍てついた空気を震わせる足音がふたつ。
……確か、この辺だったよな。
校舎の端からの位置で歩いた距離を確かめるように、何度か背後を振り返りつつ歩いていた俺だったが、やがて行き足を止める。
そして再度、建物と向き合う。
そこには、何の変哲もないごくごく普通の窓がひとつ、陽光にガラスを鈍く輝かせながら存在していた。
校舎のちょうど中程のある教室に穿たれた、木枠の中にはめ込まれた一組の窓ガラス。
のぞき込むように、その中に視線を送る。
板張りの床と壁と天井、そして建物に合わせたような木製の机と椅子が点々と立ち並ぶ光景。
それは昨日、俺が目の当たりにしたのと全く同じ景色だった。
「何か探してるの?」
いつの間にか俺の横に立った名雪が、身長の関係だろう少し背を伸ばし気味に中をのぞき込んでいた。
「なぁ、名雪。お前、この中に入ったことあるか?」
質問に質問で答える俺。
「うん。あるよ」
「それって、資料室に荷物を運ばされたとかか?」
「そうだよ。よく知ってるね、祐一」
少しだけ意外そうな色を浮かべながら、こくりと頷く名雪。
横目で視線だけを送った俺は、
「昨日、俺もやらされた」
「え。じゃああの後、石橋に捕まったんだ」
あっさりそんな反応が返ってきたと言うことは、かつて名雪がここに入った時も多分同じシチュエーションでだったのだろう。
「災難だったね」
「まあな」
小さく頷きながら、ガラスに手を伸ばした俺はその表面を軽くこんこんと叩いてみる。
固い感触。
間違いなくそれは、ガラスそのものだった。
マジックミラーになってる訳でもなければ、スクリーンになっている訳でもない、正真正銘の窓ガラス。
だとしたら……あれは夢だったのだろうか。
ふと、そんな思いが脳裏をよぎる。
でもあの時見た光景は、間違いなく現実のものだった。
黄昏に包まれた世界。
目に映る全てが紅に染め尽くされた中で、無数の薄が風に流されるまま左右に揺れ動いていた。
その様を、一枚のガラスを通して目の当たりにしたはずの俺。
でも、幻影とも思えるその情景を描き出したはずのガラスは、何の異常も伺わせることなく、俺の目に古ぼけた教室の姿を映し出すばかりだった。
「……戻るか」
そろそろ、予鈴が鳴る頃合いだ。
そう思った途端、校舎の壁面に据えられたスピーカーから放たれるチャイムの金属質な音色が、俺たちを包む冬の空気を揺るがす。
まるで水面が波立つように、空気を伝ってきた音の波が、頬に微かな刺激を伝えてきていた。
「あ、予鈴」
窓の向こうをのぞき込んでいた視線を泳がせるように俺に向けながら、名雪が呟く。
「そろそろ戻らないと、祐一」
「ああ」
頷きながら、その場から一歩離れる。
そしてその場でくるりと身を翻すと、元来た道を戻るべく雪を踏みしめる。
点々と、足元まで一本の線を描くように伸びる足跡。
俯きがちにそれを見下ろす俺の背中を追ってくるように、少しだけ残念そうな名雪の声が聞こえてきた。
「今日のお散歩、お終い」
§
財布の中身を確かめる。
見れば小銭が、ちゃらりと小さな音を立てながら何枚か、財布の底で出番の時を待っていた。
「何とか……足りるな」
ひのふのみのと内心で枚数を数えながら、小さく頷いた俺は勇躍目の前にある屋台に乗り込む。
「おっちゃん、これで買えるだけの鯛焼きをくれ」
プレートの上で香ばしい匂いを放つ鯛焼きの群れを視界に収めながら、手にした小銭を差し出す。
はいよ、と威勢のいい返事を耳に待つこと十秒、めでたく四個の袋詰めにされた鯛焼きが、俺の手の中のものとなった。
袋を通して、焼きたての温もりが伝わってくる。
うむ、やはり鯛焼きは焼きたてが一番。
まるであゆみたいなことを内心で呟きながら、俺は店を後にした。
放課後の商店街は、いつも通りの賑わいに満ちていた。
行き交う人の群れの中を縫うようにすり抜けながら、程なく道ばたの人波の絶えた場所に腰を落ち着けた俺は、そこで袋の中から鯛焼きをひとつ取り出す。
目の前に掲げられたそれを前に、少しだけ思案する。
果たしてどこから食べるべきかを。
頭から?
尻尾から?
それとも、腹から?
別に決められた作法がある訳でなし、鯛焼きをどこから食べようと一向に構わない気がしなくはなかったが、何だかんだで思案の末に導き出された結論は、しごくまっとうなものだった。
「やっぱり、男なら痛快丸かじりだよな」
あんぐりと口を開け、頭から鯛焼きにかぶりつく。
途端、和菓子特有のあんこの控えめな甘さと、ほど良い塩気を伴った皮の両者が織りなす味の旋律が、口の中一杯に広がる。
「うむ……美味い」
ひとりごち頷きながら、はぐはぐと残りの部分を口に押し込んでゆく。
結局、一匹を食べるのにものの一分もかからなかった。
でも思いの外身が詰まっていたせいで、一匹だけでも結構腹にたまったような気がする。
もぐもぐと、咀嚼を続けながら手許の袋をのぞき見る。
するとそこには三匹の鯛焼きが、俺の胃袋に収められるのをいまやいまかと待ち構えていた。
「ちょっと……無理かも」
思わず口から漏れてしまう呟き。
実際問題、甘いものがあまり得意とは言えない俺にとって、三匹の鯛焼きは手に余る存在だった。
何で、こんなに買ってしまったのだろう。
後悔の念が押し寄せてくる。
鯛焼きというと、いつもあゆの奴が底なしのペースで食べているのを目の当たりにしてるから、ついこれくらい大丈夫だろうと早合点してしまったのが間違いだったのかもしれない。
俺と同い年だとは到底思えない、あんななりをしていても、あゆだって一応は女だ。
となれば、いわゆる女性たる存在共通のテーゼとも言える『甘いものは別腹』が適用されているに違いなかった。
『一応じゃなくて、ボクはれっきとした女の子だよっ!』
もしこの場にあゆがいれば、そんな抗議の声を発したに違いない。
何とはなしにその情景を脳裏に思い描くうち、自然と口許が緩んでくるのを抑えることができなかった。
「ん……?」
そうか、その手があったか。
名案を思いついた俺は、早速釣りの餌よろしく封を開けたままの紙袋を、中から流れ出す鯛焼きの匂いを周囲に流すべく、左右に揺り動かす。
途端、焼きたての鯛焼きの香ばしい匂いが、ふんわりと辺りに漂う。
前の道を歩く通行人が皆、俺のその行動に一様に不思議そうな眼差しを送ってきていたが、とりあえず気にしないことにする。
五分。
状況に変化は無い。
人波は相変わらず多かったが、求める姿はどこからも現れなかった。
十分。
心なし、周囲から注がれていた好奇の眼差しが減ったような気がする。
もしかしなくても、いまの俺って目を合わせるのも危険と思われるほどヤバイ奴に見えているのだろうか。
いや、多分そうなのだろう。
壊れた機械のように、手にした袋を左右に振り続ける傍目にも間抜けな動作を俺が止めたのは、それから更に五分の時が経ってからだった。
「はぁ……」
少しだけ、自己嫌悪の混じったため息。
呼びもしなくても、現れる時はいつだってどこからともなく姿を見せるくせに、珍しく俺があゆを必要とした時は影ひとつみせやしない。
身勝手と思いつつも、そのことに腹立たしさを感じた俺だったが、腹を立てたところで仕方がない。
とりあえずどうするか。
改めて、湯気を立てる鯛焼きを前に思案する。
もう一度、懲りずにあゆをおびき寄せることに努力を傾けるか。
いっそ、このまま家に持って帰って名雪と秋子さんへの土産にするというのも手だった。
それとも……。
落としていた視線を上げ、何気なくアーケードの屋根の向こうに見える空を見た時だった。
ぱちんと、俺の中で何かが弾ける。
視界の過半を覆う雪雲の、破れ目のように細長く穿たれた隙間から垣間見える冬の空。
それは微かに、青から紫色へと変化を遂げ始めていた。
夕暮れの始まり。
その様を瞳に焼き付けながら、俺の中で言葉にし難い何かが、ゆっくりと頭をもたげる。
それは予感、とでも言うべきものかもしれなかった。
座り込んでいたコンクリートブロックから腰を上げ、もう一度だけ西の空を見上げる。
一日に二度だけ訪れる、空がその身にまとった装いを変える時。
「…………」
どれくらいそうしていただろうか、やがてひとりごち小さく頷いた俺は、その場から離れるべく歩き出す。
そう、それは誰かの為なんかじゃ無かった。
自分自身の為。
その為だけに、元来た道を俺は引き返してゆく。
片手に未だ冷えることなく、袋を通してほのかな温もりを伝えてくる鯛焼きを抱えながら。
§
建物の入り口に、鍵はかかっていなかった。
昨日もそうだったように木製の古びたドアは、軽く押しただけで微かなきしみを発しながら、俺を建物の中へと迎え入れてくれた。
廊下をゆっくりとした足取りで進む。
奥へ、奥へと。
出来るだけ足音を立てないよう、靴の裏に神経を張り巡らせるように細心の注意を払いながら。
少しずつ、目的地へと近づいてゆく。
余計なことに気を回していたせいだろうか、そこに俺が辿り着くまでに思った以上の時間がかかっていた。
戸は開け放たれていた。
そして教室の中からは、昨日と同じく黄昏の水面がその輝きを惜しげなく廊下にまで広げていた。
壁面に穿たれた、複数の窓。
輝きを発していたのは、その中のひとつだけだった。
昨日と全く同じ光景。
でも、昨日と少しだけ違う光景。
そこには、既に先客がいた。
黄昏に包まれた窓辺から、数メートルほど離れた位置に置かれた椅子に腰を下ろす人影。
夕陽を浴びたその全身が、紅に染め尽くされていた。
緩やかなウェーブを描く長い髪。
制服姿らしいそのシルエットに、でも俺の目はどこか違和感にも似た思いを抱いてしまう。
「……?」
それが何なのかに気付くのに、さして時間は必要としなかった。
彼女の両肩を覆うように包み込む、大きな布。
違和感の正体は、それだった。
そして俺は、彼女が羽織っているのだろうそれが一体何なのかを、誰よりもよく知っていた。
幻想的、とでも称すべき光景。
でもそれは、俺に寂しさばかりを覚えさせる光景に他ならなかった。
何故なら俺には、まるでそのまま彼女の姿が消えてしまうように、そんな風に思えてしまったから。
黄昏の中に溶け入るように、こことは違う別の世界に旅立ってしまうのではないかと、そんな思いを抱いてしまったから。
教室の中に一歩、足を踏み入れる。
床が微かに軋む音がする。
でも彼女は足音に全く気付いた風もなく、身じろぎひとつせずに、窓の向こうの風景へと目を向け続けていた。
もう一歩、近づく。
視界の中で、彼女の背中が少しずつ大きくなってゆく。
そのことを意識の片隅で自覚しながら、なおも俺はゆっくりとした足取りで彼女の許へと近づいていった。
そして、俺は辿り着く。
彼女が座る椅子の、その傍らに。
身体は黄昏に満たされた窓へと向けたまま、視線だけをすぐ横の彼女の方へと向ける。
上から見下ろす俺の位置からでは、前髪に隠れてその表情を窺うことは出来なかった。
でも俺には分かっていた。
いま、彼女がどんな顔をしているのか。
いま、彼女がなんな思いを抱いているのか。
だから何度かの躊躇いの後、俺はようやくその重くなった口を開く。
「綺麗だな」
それだけの言葉を。
言葉にならない思いを、その中に込めて。
沈黙が、俺たちの間を包む。
柔らかな夕日が射し込む中、その光の波を全身に浴びながら無言の時を過ごすばかりの俺たち。
沈黙が破られたのは、永遠とも思える一瞬が過ぎ去ってからだった。
「ええ。そうね……」
かすれるような声音で紡がれた、その一言。
穏やかで。
静かで。
でも、だからこそ悲しみに満ちていると感じられる声。
「とても……綺麗」
「ああ」
頷く俺。
そして彼女から視線を外し、改めて目の前に広がる黄昏を見つめやる。
窓の外に広がっているのは、文字通りの別世界だった。
どこまでも広がる大地。
人気の失われたそこには無数の薄が生い茂り、吹き抜けてゆく風に身を預けるようにさわさわと、その身を軽やかに揺れ動かしていた。
その身を、紅に染め尽くしながら。
「どうして……」
そして今度は、彼女の方が先に口を開く。
「ん?」
「どうして……来たの?」
「どうしてって、それってどうしてこの場所に来たのかってことか?」
小首を傾げながら問い返す俺。
こくりと、小さく頷く彼女。
羽織ったショールを胸元で握り締めるように押さえながら、視線は相変わらず窓辺へと向けたままに。
「知ってたの? あたしが、ここに居ること」
「何となく、そんな気がしてた」
「…………」
それきり再び、沈黙が戻ってくる。
まだピークには達していないのだろうか、窓の向こうの空は紅の色合いを更に濃くしながら、刻一刻とその身を変化させ続けていた。
その様をぼんやりと眺め続ける俺。
「あたしは、あなたを振ったのよ……相沢君」
穏やかな声音。
その声には、先刻より少しだけ感情の色合いが濃く感じられた。
まるで黄昏が濃くなってゆくのに合わせているかのように。
ちくりと、胸が痛む。
未だ癒える気配すら見せることなく、じくじくと膿を生じさせながら痛みを発し続けている、俺の心の傷。
でも俺は、顔色ひとつ変えずに答えて見せた。
精一杯の見栄を張りながら。
「ああ。確かに、俺はお前に振られたよな……香里」
「…………」
「でもな、そんなことは関係ないんだ。俺が今日ここに来たのは、ただ……この窓に興味があったから。この景色を見たかったから。ただ、それだけだ」
「……そう」
微かに視線を落としながら、呟く香里。
そんな彼女に俺は、まるでいま思い出したかのように小脇に抱えたままだった鯛焼き入りの袋を掲げながら、
「そういやここに来る途中、鯛焼きを買ってきてたんだったな。よかったらひとつやるけど、食うか?」
「…………」
当然ながら、返事はない。
でも沈黙は肯定だと勝手な解釈を下した俺は、袋から鯛焼きをひとつ取り出すと、そのまま彼女の前にそれを差し出した。
「……いらない」
静寂の後に帰ってきたのは、そんな拒絶の一言だった。
でも俺は別段落胆するわけでもなく、差し出した鯛焼きを引っ込めるとそれに頭からかぶりつく。
二口三口、咀嚼を繰り返す。
買ってから既にそれなりの時間が経ってしまっていたから、鯛焼きは若干冷め始めていたが、あんこと皮が微妙にマッチングした絶妙の味わいは、それでも相変わらずだった。
「うん。美味い」
正直、甘いものが苦手の俺にとって二匹目の鯛焼きの味は、ちょっと食傷気味でもあったけれど、口では一応好意的な反応を紡いでおく。
「少し冷えてるけど、それでもまだ十分美味い」
「…………」
「あー美味い。美味いなぁ」
「…………」
「まったく、このあんこの甘さと皮の微妙な塩加減のハーモニーが、口の中で何とも言えない味の……」
途中から、自分で言っていて恥ずかしさを覚えなくもなかったけれど、でもここまで来たら後に引く訳にはいかなかった。
そう、男の意地だ。
だから俺は、なおも言葉を続けようとする。
「味の……」
「味の……なに?」
気がつくと、視線だけを俺の方に向けた香里が、じっと俺の次の言葉を待っていた。
感情の存在を感じ取ることのできない、無機質な眼差し。
その視線に、たったいままで俺の中を大半を占めていたはずの意地は、余りにも呆気なく力を失ってしまう。
「いや、俺にも何を言おうとしたのか分からない」
「……そう」
視線を落としながら、小さく呟く。
失敗したかな……内心で悔悟の念と共にそう思った、次の瞬間だった。
ストールを押さえ続けていた彼女の手がすっと持ち上がり、そして俺の前でその動きを止める。
「……?」
「あたしにも、ひとつくれる?」
意外な言葉だった。
だから俺は、咄嗟に次の反応を示すことができず、ぼんやりと差し出された手を瞳に映し続けるばかりだった。
「相沢君?」
「え。あ、ああ……鯛焼きだよな」
その声に、ようやく我を取り戻した俺は慌てて袋の中から鯛焼きを取り出し、差し出されたままの彼女の掌にそれを置く。
そのまま手を引いた香里は、何か物思うように胸の前で鯛焼きをじっと見つめていた。
無言のまま、その様を見据える俺。
俺たちふたりを包む世界は、いまもなお黄昏に覆われていた。
その中で手にした鯛焼きをちょうど真ん中でふたつに割った彼女は、そのうちのひとつを丁寧な仕草でぱくりと口に含んで見せた。
なるほど、こういう食い方もあったか。
その場の雰囲気に似つかわしくない、妙な感心をしてしまう俺。
「……美味しい」
でも俺は、次に彼女が口にしたその言葉を聞いた瞬間、全てに満足してしまっていた。
「そっか、美味いか」
「ええ」
小さく頷く。
もしかするといま彼女が口にした鯛焼きは、何日かぶりに喉を通る食物なのかもしれなかった。
根拠も何もなかったけれど、どうしてか俺にはそんな気がしていた。
だから嬉しかった。
彼女が食べ物を口にしてくれたことが。
そうすることで、生きるという意志を示してくれたことが。
まるで、このまま黄昏の中に溶けて消えていってしまうんじゃないかと思えるくらい儚く見えてい香里の姿。
それが、ほんの少しだけ現実感を取り戻したような、そんな気にすら俺はなっていた。
「ここの屋台の鯛焼きはさ、あゆお勧めの自慢の鯛焼きなんだぜ」
「あゆ……さん?」
「香里も前に一度会ったことあるよな、確か」
もう一週間以上前になる出来事だったけれど、どうやら香里はあゆのことを覚えてくれていたらしい、視線は鯛焼きに落としたまま、
「そう……ね」
同意の言葉を口にする。
「でも……」
「でも?」
「鯛焼きは、温かいうちに食べないと勿体ないわ」
そして小さく、本当に小さな声でくすりと笑みをこぼす。
「まぁ、俺だってそうは思うけどさ。だから今度は、ちゃんと温かいまま持ってくるから」
「今度……?」
「そ。今度」
それきり、何度目になるか分からない沈黙。
お互いの瞳を見つめながら、押し黙り続ける俺たち。
「…………」
「…………」
「……そうね」
すっと視線を逸らしながら、でも口の端に微かな笑みを浮かべながら香里はそう答えてくれた。
内心で安堵の吐息を漏らす俺。
そして再び視線を窓辺に移した時、俺は気がついた。
室内が薄暗闇に覆われていることを。
いつの間にか、窓の向こうに広がっていた黄昏時が、終わりを告げてしまっていたのだった。
つい先刻まで、輝きに満ちていたはずの窓は光を失い、他の窓と同じ暗がりの中に浮かび上がる校舎を映し出していた。
すっと、空気が動く。
見れば香里が、椅子から立ち上がっていた。
「…………」
一瞬だけ窓辺に顔を向けた彼女は、次の瞬間その場でくるりと身を翻すと、そのまま廊下に向かって歩き出す。
一瞬だけ垣間見えた香里の横顔。
そこからは、ついさっき浮かべて見せてくれたはずの微笑みは、そのどこからも失われていた。
別れの挨拶は無かった。
床を打つ、靴音だけが俺の耳に響く。
こつこつ……少しずつ、その足音が小さくなってゆく。
やがて大きくため息をついた俺は、ついさっきまで彼女が座っていた椅子にどっかりと腰を下ろした。
訪れた夜の帳に覆われた教室。
そして気が付くといつしか俺の周囲には、黄昏に代わって夜空に浮かぶ星々の発する光が、微かに流れ込んできていた。