『黄昏の園』
Update:2001.03.16





1月27日(水)

「おい相沢。移動だぞ」
 そんな声と共に、ぽんと叩かれる肩。
 振り返れば席から立ち上がりかけた北川が、俺の肩を掴んだままいくいと顎でドアの方を指し示していた。
「移動?」
「次の授業、特別教室だよ」
「あれ、そうだっけ」
 呟きながら改めて教室の中を見渡すと、確かに北川の言うとおりクラスの連中の殆どが、既にこの場から姿を消していた。
 慌てて机から必要な教材を取り出し、席を立つ。
 どうやら俺たちが最後だったらしい。
 廊下の先を、三々五々移動先に向かって歩いてゆくクラスメートの背中を見ながら、俺も北川と肩を並べてだらだらと足を動かし続けた。
「それでね〜」
 聞き慣れた声。
 耳に流れ込んできたその声に、窓の外へと向けられていた視線を戻すと、少し離れたところに臙脂色の制服の塊があるのが見出される。
 名雪たちだった。
 四、五人で小さな輪を作り、まるで小鳥がさえずるような賑わいを周囲に惜しげもなく放ちながら、ゆっくりと俺が歩くのと同じ方向へ動いてゆく。
 楽しげな声。
 ある意味それは、毎日のように繰り広げられる穏やかな日常の一断片。
 どうということのない話に一喜一憂し、内容より会話という行為そのものを楽しんでいるのだろう、そんな泡沫の時。
 時折漏れ聞こえてくる笑い声の中で、微妙にタイミングがずれているのは、名雪に違いなかった。
 あの輪の中に、香里もいるのだろうか。
 名雪がいるのだから多分そうなのだろうと、何とはなしに目でその姿を探してしまう。
 案の定というか、やはり彼女はそこにいた。
 名雪の横で、話しかけてくる彼女の言葉に時折相づちを打ちながら、談笑の輪に加わっていた。
 そのことにどうしてか安堵にも似た思いを抱きつつ、しばらくの間俺は、肩越しに見え隠れする彼女の横顔を見つめる。
「相沢。何見てるんだ?」
 横を歩く北川が、つまらなそうな声で訊ねてくる。
 でも俺は、耳朶を打つそれを意識的に聞き流して、ただじっと香里の横顔を見続けた。
「…………」
 そして、気がついてしまう。
 彼女の口許が一度として緩んでいないという、その事実に。
 談笑の輪、皆が笑いさわめく中で香里は、ただ相づちを打ちながら会話に耳を傾けるだけの存在と化していた。
 いや、あの様子では耳を傾けているかどうかすら怪しかった。
 多分いまの彼女にとって周囲の会話の内容など、恐らくはどうでもいいことなのかもしれなかった。
 そこに何の意味も見出せず。
 そこに何の価値も見出せず。
 そこに何の必要も見出せず。
 まるで他人事のように彼女はその場から一歩身を引いて、傍観者としての立場に望んでその身を置いているかのようだった。
 それは、とても悲しい光景だった。
 これが彼女が言っていた罪であり罰であり、咎なのか。
 大切な妹が差し出してきた手を冷たく振り払い、悲しみと孤独の淵に追いやった償いをしなければならないと、世界が黄昏から宵闇へと変貌を遂げてゆく公園の中で彼女は言った。
 全てを拒み、全てを諦め……長く続く時の中を香里は、そうして生き続けてゆくつもりなのだろうか。
 妹のいなくなった世界を。
 たったひとりで。
「なぁ北川。ひとつ、頼みがある」
 視線は前を歩く香里に向けたまま、口を開く。
「なんだ?」
「単刀直入に言おう。金を貸してくれ」
「……幾らだ?」
 ぴっとVサインを掲げて見せる。
 とりあえず二枚、の意思表示のつもりだった。
 無論のこと、諭吉さんではなく漱石さんを二枚、だ。
 北川は少しだけ思案するような表情を浮かべていたが、やがて何を思ってか口の端をふっと緩めると、
「お前、それだけでいいのか?」
 表情と調和の取れた軽やかな声で、訊ね返してくる。
「は?」
「でもな、自分を安売りするのはあまり感心しないぞ。俺的には、正直安上がりで嬉しいが」
「待て。お前、一体何の話をしてるんだ」
 どうにも要領を得ない、北川からの返答。
 でも当の北川は、そんな俺の反応に少しも頓着した様子もなく、しれっとした顔つきで、
「だから、お前が俺の下僕になる話だろ?」
「違う!」
 返ってきた返答の余りの的外れ加減に、思わず叫んでしまっていた。
「じゃあ、下僕じゃなく奴隷」
「それも違うっ」
「だったら、パシリ」
「同じだろうが!」
 金を貸してくれと言っただけなのに、どうしてそれが人身売買にまで飛躍してしまうのだろう。
 それに漱石さん二枚じゃ、幾らなんでも安すぎる。
 心外な話だった。
 同時に、そんな発想を抱くことができたこいつの頭の中を、無理矢理こじ開けて覗いてみたくなる誘惑に思わず駆られてしまう。
 すんでのところでその欲求を抑え込んだ俺は、ため息混じりに北川に顔を向けながら、
「俺はただ、金を貸してくれと言っただけだ」
「なんだ、そうだったのか」
「……最初からそう言ってるだろうが」
 俺のその言葉に、あてが外れたとばかりに今度は失望の色を浮かべて見せた北川は、
「お前に貸す金はない」
 きっぱりと、そう言い返してきた。
「何だと。この俺が、ここまで腰を低くして頼んでいると言うのに」
「俺には全然低く見えないぞ」
「気のせいだ。俺はさっきから平身低頭三顧九礼で頼んでるぞ。それが見えないお前の目は……節穴だな」
「嘘つけ」
 北川との交渉は、全くの平行線を辿るばかりだった。
 どうやら俺たちの会話は周囲にも筒抜けだったらしい、前を行く女生徒たちが俺たちの方を興味深そうな眼差しを浮かべながら、ちらちらと伺っているのが分かった。
 全く気にした風もなく、背中を向けて歩き続ける香里を除いて。
「つまり……貸す気は無いわけだな」
「無い。それどころか、俺の方が貸して欲しいくらいだ。月末で懐が苦しいのは、何もお前だけじゃない」
 胸を張って、北川は偉そうにそう言ってのける。
「この……役立たずめ」
「役立たずは、お互い様だろ」
 それきり俺たちは、まるでお互いに牽制しあうかのように相手の肘をげしげしと小突き始める。
 気がつけば、特別教室はもう目の前。
 俺は、作戦の失敗を悟った。

                  §

 と言うことで、二回戦。
「名雪。俺の頼み、ひとつ聞いてくれないか」
 今度の金策相手は、恐らくは北川よりは懐に余裕があるのではないかと考えられる、名雪だった。
 前回の失敗に鑑みて、今回はもう少し慎重に事を運ぶことにする。
 俺が話を切り出したのは、名雪との校舎を出るまでの帰り道、その階段を下りて昇降口まであと少しといった辺りでだった。
 それも会話が切れた頃合いを見計らって、出来るだけ自然な口ぶりで。
「なにかな〜?」
 一瞬の間を置いて戻ってくる、おっとりとした声音。
 よし、とりあえずいい感じだ。
 これなら、首尾良く目的を達成できるかも。
 名雪に余計な警戒心を抱かせずに話を進められたことに、内心でほくそ笑みながら言葉を続ける。
「金、貸してくれ」
「え〜っ」
 途端、困惑気味な色を浮かべる名雪。
 ある意味当然と言えば当然の反応だったが、しかしそうであるが故にここからが正念場だと、俺は気を引き締め直す。
「出世払いでいいから頼む。な、それでいいだろ?」
「ちっとも良くないよ〜」
 少しも納得した様子のない、名雪。
 人が、せっかく最大限の譲歩をしてやっているというのに。
 仕方がない。
 ここはひとつ、理性的な話し合いから路線を転換して、情に訴える作戦に出てみるとしよう。
「実はだな……俺の財布の中はいま、この有様なのだ」
 少しだけ声のトーンを落としながら、ポケットから取り出した財布の中身を名雪に向かって広げて見せる。
 相変わらず困惑気味な表情を浮かべつつ、それでも財布を覗き込むように身を乗り出してくる名雪。
「わ、空っぽ」
 彼女の言葉通り、俺の財布の中は空だった。
 正確には十円玉がまだ何枚か残っているはずだったが、駄菓子屋に通う小学生じゃあるまいに、今時の高校生にとってそれは文字通り何の意味もない存在に過ぎなかった。
「でも祐一。今日のお昼ご飯、わたしと一緒に食堂で食べてたよね。よくお金足りたね?」
「だから、昼飯代を払ったらすっからかんになってしまった」
 今日は二十七日。
 あと五日この貧困を耐え凌げば、めでたく秋子さんから翌月の小遣いが貰えるはずなのだが、いずれにしてもそれはまだ先のこと。
 さしあたっては、目先をどう凌ぐかが問題だった。
「じゃあ、祐一は明日からお昼食べられないんだ」
「そういうことになるな」
 頷く俺。
 よし、名雪の表情が困惑から同情混じりのものに変わってきた。
 あと一押しだ。
 だから金を……畳みかけるようにそう言おうとした俺だったけれど、でもその台詞を最後まで口にすることはできなかった。
 何故なら名雪が、俺より先に口を開いたから。
「じゃあわたし、明日からお弁当作ってあげるよ」
「え?」
「それでお昼代が浮くから、後は毎日寄り道しないで真っ直ぐ家に帰れば、お小遣いの日までお金が無くても平気だよね」
 にっこりと、笑顔を浮かべる名雪。
 ぐはっ、そう来たか。
 まるでヘビー級のボクサーに不意打ちのストレートを食らったような、そんな衝撃を内心に覚えてしまう俺。
 だがしかし、ここで負ける訳にはいかなかった。
「いや、そうじゃなくて……」
「ん?」
 にこにこと目を細める名雪が、小首を傾げてみせる。
 どう説明したものかと思考を巡らせてみた俺だったが、だからといってそう簡単に名案など浮かぶ道理もなく、結局口を突いて出てくるのは要領を得ない言葉ばかりだった。
「財布に金がないと……俺的には困るわけで、そこで名雪さんには是非ご融資をお願いいたしたく」
 自分でも、段々何を言ってるのか分からなくなってきている。
「ね、祐一。どうしてお金がいるの?」
「それは……」
 核心をつくその問いかけに、俺は口ごもるばかり。
 当然だった。
 何故なら俺は、ただ単に買い食いをする為の金を工面しようとしていただけに過ぎなかったから。
 自分ではない、誰かの為に。
 一日で唯一食べ物を口にするだろう機会を――当人がそれを望んでいるかどうかはともかく――作るために。
 午前中の授業が終わり、昼飯を食べにいこうと席を立った時、彼女の席はすでにもぬけの空だった。
 昨日も、一昨日もそうだった。
 彼女が、決して食事を取るために席を外した訳じゃないだろうことを、俺は確信していた。
 見てしまったから、俺は。
 学食へ向かう廊下の窓から垣間見えた中庭に、まるで捨て置かれたかのように寂しげな空気を漂わせながら、ぽつんと佇む影があることを。
 昨日の昼、名雪の言うところの「食後のお散歩」で中庭に俺が赴いたのは、そこで見た香里とおぼしき人影の有無を確かめるためだった。
 あの様子だと、多分家に帰っても彼女がろくに物を口にしていないだろうことは、容易に想像がついた。
 それ故に俺は、香里の為に食物を持っていってやろうと思ったのだ。
 昨日、黄昏に包まれた教室の中で、彼女は確かに俺が差し出した鯛焼きを食べてくれた。
 なら今日だって……。
 冷静に考えればそれは、希望や願望といった類なのかもしれない。
 でもいまの俺は、一縷の望みがあるならばそれに賭けてみたかった。
 その為には金がいる。
 だから俺は、何としても買い食いが出来るだけの資金を工面しなくてはならなかった。
「わたしには言えないの?」
「…………」
「…………」
「スマン。いまは……まだ言えない」
 そうとしか答えられない自分が、歯がゆかった。
 本当は、名雪にも話しておくべきことなのかもしれない。
 事情を話せば、きっとこいつのことだから金なんて幾らでも貸してくれるような、そんな気もしていた。
 でも……。
 話せなかった。
 少なくとも、いまはまだそうすべきじゃないと思ったから。
 もしそのことを知ってしまったら、名雪の顔から笑顔が失われてしまうに違いなかったから。
 香里をこの学校に引き留めている、唯一かもしれない理由すら失われてしまうから。
 だから話せなかった。
 その結果、いま名雪に悲しい思いをさせてしまうのだとしても。
「いつか……教えてくれるよね」
「え?」
「じゃあ、はい。わたしも今月のお小遣いあんまり残ってないから、これしか貸してあげられないけれど」
 俺の前に差し出された、二枚の千円札。
 そしてその先にある、名雪の穏やかな微笑み。
「さんきゅ」
 感謝の言葉を共にそれを受け取り、財布の中にしまう。
「来月の小遣いが入ったら、利子を付けて返してやるからな」
「ううん。お金を返してくれるのは、別に祐一の好きな時でいいよ。でも、その代わり……」
 すっと、俺の前に掲げられる名雪の右手。
 握り締められた指の中で、小指だけが何かを訴えかけてくるかのように真っ直ぐに伸ばされている。
「……?」
 それが何を意味するのかが分からず、小首を傾げてしまう俺。
「指切りしよ、祐一」
「指切りって、ここでか?」
「うん。指切り」
 にっこりと笑顔を浮かべながら、小さく頷く名雪。
「どうしてもそのお金がいるんだよね、祐一は。だったらわたし、いまは何も聞かない。でも、いつか必ず教えて欲しいから……だから指切り」
「それでいいのか?」
「うんっ」
 こんな人が行き交う場所で年甲斐もなく指切りをするなんて、正直面映ゆい心地だった。
 少なくとも、いい年をした男女がすることじゃないだろう。
 でも俺は、刹那の合間だけ躊躇いの中に身を置いた後、ゆっくりと伸ばした指を名雪の小指に絡める。
 約束。
 いつか、笑顔で話せる日が来ることを信じての約束。
「ゆ〜びき〜りげ〜んまん――」
 まるで童女のように楽しげな様子で、緩やかなリズムに乗せて誓約の唄を口ずさむ名雪。
 その声に、小さな声で唱和する俺。
 通りすがりの見知らぬ生徒たちが、俺たちのその様をくすくすと忍び笑いを漏らしながら歩いてゆく。
 でも名雪は、そんな周りの反応に少しも頓着した様子もなく、唄い続けた。
「う〜そつ〜いたらは〜りせ〜んぼんの〜ますっ。ゆ〜びきった」
 そして、離れる指。
 絡まる指を通して伝わってきていた名雪の肌の温もりが、微かな名残と共に失われてゆく。
「約束だよ、祐一」
「ああ、分かってる。約束だ」
 ゆっくりと頷き返す俺。
 その言葉に満足したように目を細めた名雪は、そして部活に赴くべく「じゃあね」と、それだけを言い置いて俺の前から去っていった。
 ぱたぱたと、廊下を駆けてゆくその背中を見つめながら、俺は思った。
 いつか、約束が果たせる日が来ればいいな……と。

                  §

 教室に辿り着いた時、それは既に始まっていた。
 紅の世界。
 立ち並ぶ窓の中の一枚だけが発する輝きに満たされた室内に、ひとり静かに佇む見知った姿。
「…………」
 香里は、昨日俺がここに来た時と全く同じ椅子の上で、全く同じ佇まいを見せていた。
 黄昏に染まる窓を、真っ直ぐに見据えながら。
 その半身を包む、ストールと共に。
 教室の入り口でそれを確かめた俺は、口を閉ざしたまま彼女の許に歩み寄っていった。
 ちらりと、視線が向けられる。
 夕焼けに染まる前髪の奥から、瞳の輝きが見て取れた。
 でもそれは一瞬のことで、すぐにその眼差しは黄昏に包まれた世界へと戻っていってしまう。
「今日も買ってきたぜ」
 袋を掲げ見せながら、口を開く。
 できるだけ、いつも通りの風を装って。
 返事がないだろうことは先刻承知だったので、そのままがさがさと手にした袋から得物を取り出し、彼女の前に差し出す。
「……鯛焼きじゃないのね、今日は」
 わずかに視線を落として、目の前のそれが何であるのかを確かめた香里は、あまり興味のなさそうな様子でそう言った。
「ああ。残念ながら、今日は鯛焼き屋が休みだった」
「そう」
 納得したのかしていないのか、どうとでも取れる曖昧な返事を口にしながら、俺が差し出したそれを手にする。
 それから俺は、改めて今度は自分の分を袋から取り出す。
「どうして、これなの?」
「もしかして嫌いだったか、それ?」
 早速とばかりに手にしたそれを一口頬ばった俺は、口の中でほこほことその欠片を転がしながら、問い返す。
 少し考えるような間。
 そして、程なく戻ってくる答え。
「女の子でこれが嫌いな子は……多分、いないと思うわ」
「そうだろうな。俺もそう思う」
 同意の頷きをしながら、鯛焼きの代替品として入手してきた今日の手みやげに目を向ける。
 ほこほこと湯気を立てているそれは……焼き芋だった。
 実際、それを買ったのはほんの偶然からだった。
 学校からダッシュで目指した鯛焼き屋の前には、何の因果か「臨時休業」の札が掲げられていた。
 一瞬、どうしたものかと途方に暮れてしまう俺。
 でも世の中、捨てる神あれば拾う神あり。
 半ば呆然と立ち尽くすそんな俺の前を、聞き慣れたメロディと共にリヤカーがゆっくりと横切っていったのだ。
 あの、万国共通な香しい薫りと共に。
 つまりはそういうことだった。
「ちゃんとした、石焼き芋なのね」
 熱くないのだろうか、掌に乗せられたままのそれに視線を向けながら、彼女の口からぽつりと呟きが漏れる。
「ああ。店のオヤジが、確か『うちは創業百二十年の老舗だ』とか何とか豪語してたから、そうだろうと思う」
「伝統の一品……ね」
「そう言うことになるのか? ま、俺は美味けりゃ何でもいいけど」
「……そうね」
 小さく頷きながら香里は、両手で包み込むようにして持ち上げたそれを、一口含む。
 その姿を見て、俺は心の中で安堵の吐息を漏らす。
 とりあえず、今日も食べてくれた。
 恐らくは彼女にとって、今日最初で最後の食事になるのだろうそれを。
 香里のペースに合わせるように、俺もふーふーと芋に息を吹きかけながらもう一口食べる。
「うん、美味い。でも贅沢を言えば、バターと牛乳が欲しいところだな」
 調子に乗ってそんな軽口すら口を突いて出てきた俺だったが、でもその言葉に彼女からのリアクションは無かった。
 視線を向ける。
 ストールを羽織ったまま椅子に座っている香里は、ゆっくりと何かを噛み締めているような様子で、焼き芋を口にし続けていた。
 その脳裏にはいま、何が思い描かれているのだろう。
 もしかしたらそこには、栞との焼き芋に関わる思い出がよぎっているのかもしれなかった。
 平気な顔して、真冬にアイスを食う奴だからな。
 もしかしたら焼き芋を真夏に食いたいとか言い出して、香里を困らせたことがあったのかもしれない。
 十分、ありそうな話だった。
「祐一さん。焼き芋、美味しいです」
 はむはむと自分の拳より大きい芋を食べながら、真夏の陽射しの下で汗ひとつ見せることなくそう言ってのける栞。
 頭の片隅に、その情景と彼女の声が響いた。
 思わず口の端を緩めかけてしまった俺だったけれど、でも不意にちくりと痛んだ胸が、その行為を俺に押し止まらせる。
 思い出と、そして想像の中でしか語ることのできない存在。
 悲しい過去の記憶。
 そして香里にとって、かけがえのない存在であるはずの妹――栞は、いまそうなろうとしているのだった。
 緩みかけた口が、元の形を取り戻す。
 もう一口、焼き芋をかじる。
 しばらくの間、俺たちは黙々とその行為を繰り返し続けた。
「でも……」
 どれくらい経った頃だろう。
 彼女の口からその言葉が紡ぎ出された時、俺の手の中にあった芋は既にその八割方が胃の中に収められていた。
「んが……?」
 塊から破片へとその身をやつした芋から口を離し、香里に顔を向ける。
 彼女は俺と視線を交わすことなく、手元にある焼き芋をじっと見据えたままの姿勢で、
「……ちょっと、ムードに欠けるわね」
「ムードって、焼き芋がか?」
「普通、男の子が女の子に持ってくる物じゃ無いわ。これは女の子同士で、こっそり食べるから風情があるのよ」
 そう言われれば、そうなのかもしれない。
 思わず納得しかけてしまった俺だったが、それでも困ったように頭をぼりぼりとかきながら、
「でもなぁ、買い食いにムードを求める方が間違っていると思うぜ」
「そうかしら?」
「だって考えてみろよ。放課後に買い食いできそうな店のどこに、ムード満点のフランス料理なんか置いてあるってんだよ」
 そんな買い食い、少なくとも俺は嫌だった。
 と言うか、そうなった時点で最早それは買い食いですらなくなってしまっているような気がした。
 多分、俺の言葉通りのイメージを思い描いたのだろう、
「それも……そうね」
 少し躊躇いがちな様子で、でもほんの少しだけ口の端を緩めながら香里が小さく頷いて見せた。
 香里の微笑み。
 それは丸一日ぶりに俺が見ることのできた、彼女の生気ある表情だった。
 授業中も休み時間も、香里はまるでそうすることが当たり前のようにポーカーフェイスを保ち続けていた。
 たとえ周囲が、どれだけ笑顔に包まれていようとも。
 彼女だけは口の端ひとつ緩めることなく、ただ穏やかな物腰でその様を見つめているだけだった。
 まるで他人事のように。
 だからこそ、俺は嬉しかった。
 彼女の微笑みを、目にすることができたことを。
 俺との会話の中で――それがほんの一瞬のことだったとしても――香里の瞳の中に、微笑みを浮かべるに足るだけの思いを抱かせることができたことを。
 もしかしたら、この黄昏のお陰なのかもしれない。
 ふと、そんな奇妙な思いに駆られそうになってしまう。
 でもそれは、本当のことなのかもしれない。
 この夕焼けが広がるの空の下でだけ、香里は失ったはずの笑顔を取り戻すことができるのかもしれない。
 どうしてか、いまの俺にはそう思えて仕方がなかった。

                  §

「綺麗よね……」
 静かに紡がれた一言。
 周囲の空気を微かに震わせながら、かろうじて俺にまで達したその声は、消え入るような弱々しいものだった。
「え……?」
 どうやら俺の声は彼女の許に届かなかったらしく、香里は無言のまま、じっと窓外に広がる世界に顔を向け続けていた。
 でも彼女が言わんとするところは、すぐに理解できた。
 空。
 黄とも赤とも表現しかねる、昼と夜の狭間に姿を現す黄昏の空。
 それしか考えられなかった。
 焼き芋を綺麗に平らげてしまい、何となく手持ちぶさたを覚えてしまったこともあって、程なく手近にあった机の上に座り込んだ俺。
 距離にして数メートル。
 そこから香里と、黄昏が広がる窓を視界に収めながら、俺はぼんやりと時が流れるままにその身を任せ続けた。
 無理に、会話を続ける必要はなかった。
 何故なら少なくとも、あの窓が紅の輝きを発し続けている間は、彼女がここからいなくなることは無かったから。
 輝きは、時を追ってその強さを増していった。
 多分いまがピークなのだろう、無数の光の粒が窓ガラスを通して室内に流れ込んでくる。
 それは一種、幻想的な光景だった。
 全てが、赤に染まっていた。
 床も、壁も、天井も。
 椅子も、机も、そして……人も。
 光の帯が現出する赤と、その届かない場所に闇が生み出す黒の二色だけが支配する、強いコントラストに満たされた世界。
 そしてその狭間に佇む、俺たち。
「この黄昏の向こうに……あるのかも」
「何が?」
 今度は、さっきより少しだけ声音を大きくして問い返す。
「…………」
 窓辺に視線を向け、黙り込んだままの香里。
 もしかして、また聞こえなかったのだろうか。
 そんなことを思ってしまった俺は、もう一度同じ質問を口にしようと言葉を紡ぎかける。
 でも俺の口が声を発するより早く、香里の声が耳朶を叩く。
「……奇跡」
 それは、意外な言葉だった。
 というより、俺には彼女が何を言おうとしているのか分からなかった。
 黄昏。
 奇跡。
 この両者に、一体どんな関係があるというのか。
「相沢君」
「ん?」
 不意に紡がれる、俺の名。
 その声に内心のとりとめのない思考を一時中断し、香里に方に意識を振り向ける俺。
「覚えてる? ずっと前、あたしと奇跡の話をしたことを」
「……奇跡の話?」
「ええ」
 香里と、そんな話をしたことがあっただろうか。
 すぐには思い出すことができず、小首を傾げながらしばらくの間記憶の底を浚うように探し回す俺だったが、やがて求めるものをそこに見出す。
 俺は小さく頷きながら、
「ああ、そう言えばそんなこともあったな。確か校門の前で、名雪と三人でいた時のことだろ」
 思い出した。
 それはいつのことだったか。
 俺の記憶が間違っていなければ、多分もう何週間も前の出来事。
 通学路の途中で香里と出会い、そのまま何となく歩くうちに思いの外早い時間に着いてしまった時、特に深い考えもなしに口にしたはずの言葉だった。
 朝日に包まれた正門前。
 そこに佇む、俺と名雪と香里の三人。
 予想だにしなかった現実に、驚きの声を発しながら傍らの名雪へと顔を向けながら訊ねかける。
『名雪、時間は?』
『えっと……わ、まだ十分もあるよ』
 腕時計に目を落としながら、表情は少しも驚いた様子もなく驚きの言葉を口にする名雪。
 そしてそんな彼女に向かって俺は――。
「奇跡だな」
 ゆっくりと、俺はその一言を口にする。
 まるで俺のその呟きを待っていたのかのように、ゆっくりと顔をこちらに向けた香里は、
「奇跡ってね……そんな簡単に起こるものじゃないのよ」
 あの日、俺たちに向かって口にしたのと同じ台詞を、一字一句違えることなく紡いで見せた。
 そして刹那の沈黙の後、言葉を重ねる。
「起きないから、奇跡って言うのよ……」
 ちくりと、痛みを覚えさせながら胸に突き刺さる一言。
 俺は彼女が紡いだその言葉を脳裏で反芻しながら、そして幾ばくかの躊躇いの後に、
「ああ、そうだな」
 視線を落としながら、頷く。
 確かに、彼女の言う通りだった。
 奇跡は起きない。
 何故ならもしそれが起きていれば彼女は……こんな場所で悲しみに沈んでいる必要はないのだから。
 大切な妹と、穏やかで幸せな日々を送れていたはずなのだから。
 でも、どうしてだろう。
 心のどこかが……まるで俺のその思いに異議を呈するかのように、微かな引っかかりを覚えていた。
 何だろう、これは。
 そんな俺の思いをよそに、香里はなおも言葉を継ぐ。
「だから、奇跡はあの空の向こうにあるのかも」
「……空」
 落としていた視線を上げる。
 そこには、相変わらず一面を紅に覆う黄昏空があった。
 黄金色に輝きながら、さながら一枚の絨毯のように揺れ動く薄野を従えながら、圧倒的な存在感と共に俺たちの前にその身を晒す空。
 それは文字通り、誰の手も届かないだろう世界だった。
 衣擦れの音。
 ふと見れば、椅子から立ち上がった香里が一歩、窓辺へと向かって歩み寄っていた。
 ふわりと、身体の動きに合わせるように長い髪が揺れる。
「もし、そこに辿り着くことができたなら……」
 また一歩。
 全身に夕日を浴びて赤と黒の強いコントラストを放つその姿は、まるで現実のものとは思えない存在だった、
 いまにも消え入ってしまうそうな、そんな儚げな印象。
 どきりと、鼓動が高鳴るのが分かった。
「あたしにも手に入るのかしら……奇跡が」
 そして香里は、ストールの生地の上に当てていた右手を、ゆっくりとガラスに向かって伸ばす。
 次の瞬間、俺の身体は殆ど無意識のうちに動いていた。
 座り込んでいた机から飛び降りる俺。
 後を追うように黄昏に映える窓辺へと脱兎の如く駆け寄り、そして伸ばされた彼女の手を掴みながら口を開く。
「……本気か?」
 ぴくりと、香里の身体が震えるのが分かった。
 掴んだ腕を通して。
 でもそれきり石にでもなったように動きを止めてしまった彼女は、じっとガラスの先にある世界を見据え続ける。
 それからぽつりと、
「冗談よ」
 視線を少しだけ落としながら、そう呟いてみせた。
 見ている方が痛々しさを覚えてしまう、そんな諦めにも似た表情。
 伏せられた瞳を覆う睫毛が、彼女の内面で揺れ動く心を表出させるかのように微かに震えている。
 何か気の利いた言葉でも口にしようとした俺は……でも、結局何も言うことができなかった。
 そして香里の口が再び開かれる。
「あたしは……知ってるから。奇跡なんて、起きないことを。そんなものを信じたって、無駄だってことを」
 信じる?
 紡がれたその言葉に、どうしてか俺は微かな疑問を抱いてしまう。
 奇跡を否定する香里。
 それを俺は、てっきり彼女の持つ冷静かつ合理的な思考から導き出されたものなのだとばかり思っていた。
 でも、それはどうやら少し違ったらしい。
 かつては、香里も信じていたのだ。
 奇跡を。
 そして……裏切られたのだ。
 だから彼女は、奇跡という言葉にあれほどの拒否反応を示していたのだ。
 誰に、何に裏切られたのかまでは分からない。
 それを香里に訊ねたところで、多分答えは返ってこないだろう。
 でも俺には、自分の想像がそう間違ったものではないような、そんな気がしていた。
 無言の時が流れる。
 やがて紅の装束にその身を包んでいた彼女の肢体が、元通りの色彩を取り戻してゆく。
 夜の訪れ。
 急速に色あせてゆくガラスの先の世界は、まるで宵闇の中にその身を溶け込ませてゆくように輪郭を失い、やがてその全てが消え去る。
 まるで手品でも見ているかのような心地で、俺は眼前のその変化を、時を忘れたかのようにじっと見据え続けていた。
「……君。相沢君」
 そして俺の名を呼ぶその声で、我に返る。
 見れば香里が、両の瞳を微かに細めながら俺を見据えていた。
「痛いわ」
「え?」
「腕……痛いわ」
 そう言いながら首を巡らせて視線を、ゆっくりと未だ俺が掴んだままの自分の右手へと向ける。
「あ……っと。す、済まん」
 握り締めていた手を離しながら、慌てて一歩後ずさる俺。
 咄嗟の行動だったから、もしかしたら結構強い力で握ってしまっていたのかもしれなかった。
 掴まれた場所を撫でさする香里を前に、そんなことを思ってしまう。
 でも彼女は、そのことについてこれ以上何も口にすることなく、俺に目を向けてくる。
 それは一瞬のことだった。
 でも俺は、そこに見出してしまっていた。
 たとえようもないほどの悲しみに満たされた、瞳の色を。
 そしてその瞳の奥から、言葉にならない声で「さようなら」と、別れの言葉を彼女が紡ぐのを。
 ゆっくりと瞳を伏せ、そして香里は踵を返す。
 こつこつ――床を打つ足音。
 それきり俺の方を一度として振り返ることなく、彼女は静かにこの場所から歩み去っていった。
 ひとり、取り残された俺。
 その場に立ち尽くしたまま、やがてゆっくりと右手を目の前に掲げる。
 たったいままで、香里の腕を掴んでいた手。
 その掌からは、未だ残る肌の温もりと共に、彼女の残り香か微かに香ってくるような……そんな気がした。
1月28日(木)に続く

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