『黄昏の園』
Update:2001.03.28





1月28日(木)

 冬特有の凛とした装いを身にまとった空が、視界を覆い尽くしていた。
 雲はない。
 吐き出された息は、その青一色のキャンバスの上に一瞬だけ異なる色合いを描き出し、そして消えてゆく。
 今日もいい天気だった。
「寒ぃ……」
 でも俺の口から突いて出てきた言葉は、そんな感慨とは何の関係もない、ひどく直裁的なもの。
 寒いのは否定しがたい事実なのだから、こればかりは仕方がなかった。
 傍らでは俺と同様、雲ひとつない空を見上げている名雪が、はーっはーっと息を吐き出しながら、楽しげに表情を緩めている。
「ほら、祐一。はーって、楽しいよ」
「お前はガキか」
 まったく何が楽しいのやら……横目にその姿を見つめやりながら、ため息と共に悪態が口を突いて出てくる。
「ね、祐一も一緒にやろ。どっちがたくさん白くできるか、競争しようよ」
 しかし案の定というか名雪は、俺の言葉を全く聞いていなかった。
 だから今度こそ彼女の耳に届くよう、肩越しに振り返りながらきっぱりと、
「やだ」
「うー、楽しいのに」
「楽しくない」
 それきり歩調を早めた俺は、名雪を置き去りに先に行ってしまう。
「あ、祐一。待って待って」
 ぱたぱたと、雪を踏み締めながら後を追ってくる足音。
 大して速度を上げた訳でもなかったので、待つほどもなく俺と肩を並べた名雪は、少し不満そうな眼差しを浮かべていた。
「ところで、時間は?」
 その言外の主張を軽く受け流しながら、訊ねる。
 俺からの問いかけに視線を腕時計をはめた右手に移した名雪は、すぐににっこりと微笑みを浮かべると、
「まだ、十五分以上あるよ。今日は余裕だね」
 時間に余裕があるだろうことは、俺も先刻承知だった。
 朝、いつも通りに名雪の部屋のドアを叩いた俺。
 そして中からの返答を待っていた俺だったが、でも今日に限ってどれだけ待っても名雪の声は聞こえてこなかった。
 仕方なく一声かけてからドアを開けた俺の目に映し出されたのは、既にもぬけの空と化した部屋だった。
「……名雪?」
 もしかして俺を驚かすために部屋のどこかに隠れているのではないかと、ベッドの下やベランダを覗いたりしたものの、やはり彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
 結局俺がその場で見出すことができたのは、主の失われたベッドの上で未だ安らかな眠りについているらしいけろぴーだけ。
 階下から声がしたのは、その時だった。
「ゆういち〜。ご飯の用意ができたよ〜」
「なにっ?」
 間違いなくそれは、名雪その人の声だった。
 そんな馬鹿な……一瞬だったが我を忘れてしまった俺は、でも次の瞬間脱兎の如き勢いで階段を駆け下りる。
「あ、祐一。おはよう」
 信じ難いことに、名雪は既に起きていた。
 見慣れた制服の上にエプロンをつけ、台所で朝食の支度をしている秋子さんと肩を並べて家事に勤しんでいた。
「お……おはよう」
「お母さん。祐一、やっと起きてきたよ〜」
「そう? じゃあ、朝食にしましょうか」
「うん」
 眼前で展開する、予想だにしなかった光景に呆然とする俺をよそに、何ごともなかった風のふたりは、ぱたぱたと忙しそうに朝食の配膳を続けていた。
 一体、どういう風の吹き回しなのか。
 間違いなく、俺がこの家にやっかいになるようになってから初めて見る、朝の光景だった。
「どしたの、祐一? ぼ〜っとして」
 お盆の上に三人分のハムエッグを載せた名雪が、どこか不思議そうな様子で小首を傾げてみせる。
 そんな彼女の頬へ手を伸ばした俺は、親指と人差し指に力を入れる。
「いひゃいよ〜、ゆういひ〜」
「あ、ゴメン」
 素直に謝りながら、手を離す。
 でも、これではっきりした。
 どうやらいま、俺が目の当たりにしているこの光景は夢でも幻でも無い、紛う方なき現実らしかった。
「急に頬をつねるなんて、ひどいよ〜」
「いや……まさか名雪が、自力で俺より早く起きてるなんて思いもしなかったから、つい頬をつねってしまった」
「そう言う時は普通、自分の頬をつねると思う……」
 お盆で両手がふさがれていたから頬を押さえることもできないのだろう、少し赤くなった頬はそのままに、どこか情けなさそうな表情を浮かべる名雪。
「まあそう言うなって。ちょっとした手違いなんだから」
「祐一のその日本語、変だよ」
 でも俺は彼女の反論を完全に無視して、うーむと腕組みをしながら、
「それにしても、名雪が早起きするなんて……」
 そこまで口にしたところで俺は、ぷっと吹き出すと、
「……きっと、今日は槍が降るな」
 紡がれた言葉は、吐き出された白い息と共に雲ひとつなく晴れ渡った蒼空へと消えていった。
「あ、また言ってる」
 さくっと足音を響かせながら一歩前に出た名雪は、そしてくるりとその場で身を翻して俺に向き直る。
 そして少しだけ眉根を寄せながら、
「わたしだって、たまには早起きくらいするんだからね」
「それで槍が降って困る人たちのことを考えたことがあるのか、お前は。少しは反省しろ」
「そんなの降らないよ〜」
 それは、変わらぬ朝の情景だった。
 俺がいて。
 名雪がいて。
 いつ終わるともしれない馬鹿話を交わしながら、学校へと続く通学路を歩いてゆく。
 俺がこの街に来てから、そろそろ三週間。
 気がつけばそんな日々を過ごすことに、何の疑問も違和感も感じることが無くなっていた。
 こうして何ごともなく時が過ぎてゆけば、やがて厚く降り積もった雪も溶け、暖かな春の季節がやってくる。
 でも……。
 それが叶わぬ夢であることを、俺は知っていた。
 一月も、残すところ四日。
 五日後には二月の最初の日が――生きて迎えることは無いだろうと告げられた、栞の誕生日を迎える。
 知っていながら、でもどうすることもできない現実。
 否応なしに変わってゆく、世界。
 その中で俺は……彼女の為に何をしてやれるのだろうか。
「あ」
 名雪が不意に声を上げたのは、その時だった。
「どうした?」
「そう言えば、降るって」
「降るって……もしかして、槍がか?」
 いくらなんでも、それは無いだろう。
 漫才や落語じゃあるまいに、空から本当に槍が降ってきた日にはおちおち道も歩けやしない。
「違うよ」
 でも名雪は、真顔でふるふると首を振ると、
「雪。午後から降るって。天気予報で言ってたよ」
 そう言いながら、頭上を見上げる。
 つられるように同じく空を見てしまった俺だったが、そこにあったのは突き抜けるような青空だけだった。
「この天気でか?」
「うん」
「あ、祐一。もしかして、信じてない?」
「全く」
 視線を戻しながら、その勢いで大きく頷く俺。
「うー、いいもん。もし雪が降っても、祐一には傘貸してあげないから」
 拗ねたように、それだけを言う。
 傘、ねぇ……。
 何となく、名雪が持っていそうな傘を想像してみる。
 こいつのことだ、どうせ猫やらカエルやらの柄付きの傘を「わたしのお気に入りなんだよ」とでも言って、嬉しそうに差し出してくるに違いない。
 その傘をさして歩く自らを想像しようとして……あまりに恥ずかしすぎるその姿に、思わず背筋が寒くなってしまう。
「祐一、どうしたの? 変な顔して」
「いや……何でもない」
 それだけは、是が非でも願い下げにしたいところだった。

                  §

 四時間目終了のチャイムと同時に、水を打ったように静まり返っていた教室にも賑わいが戻ってくる。
 教科書とノートを閉じながら、大きく伸びをする俺。
 そして窓外に広がる、空に目を向ける。
 相変わらずの冬晴れの空が、そこにあった。
「祐一、お昼だよっ」
 不意に横合いから飛び込んできたその声に、意識を現実へと引き戻す。
 見れば名雪が、ようやく訪れた昼休みを喜ぶように相好を崩しながら、俺の反応を待っていた。
「今日はどうする。いつも通り、学食か?」
「うん。それなんだけど、今日は……」
 でも何を思ってか、微かに目を細めながらそこで言葉を切ってしまう名雪。
「……?」
「これ、持ってきたんだ」
 朗らかな笑みと共に差し出された、ふたつの包み。
「…………」
「…………」
「……何だ、これ?」
 布に覆われているせいでぱっと見内容が判然としないそれを、しげしげと前後左右から眺め渡した後、改めて訊ねる。
 名雪からの返答は、疑問の余地のない簡潔なものだった。
「お弁当だよ」
「誰の?」
「わたしと祐一の」
「何で?」
「お昼代を浮かせるため」
 何でそんなことを……そんな疑問を口にしかけたところで、俺はようやく思い出す。
 昨日、名雪から金を借りようとした時に交わした会話を。
 どうやら名雪は、昨日の「明日からお弁当作ってあげるよ」なる提案を、本当に実行したらしい。
 なるほど、それでようやく合点がいった。
 どうして今朝、名雪が俺より早く起きていたのかが。
 つまり、いま目の前にあるふたり分の弁当を作るために、わざわざ苦手な早起きまでしていたのだ。
 そう言えばと、出がけに秋子さんが言っていた言葉を思い出す。
「祐一さん」
 先に表に出ていった名雪の後を追おうと、鞄を手に玄関を抜けかけた俺の背中にかけられる声。
 足を止めて振り返るとそこには、いつもと変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべる秋子さんの姿があった。
「なんですか、秋子さん?」
「あとで……あの子を、褒めてあげてくださいね」
「え? あ、はぁ」
 その時は秋子さんが何を言おうとしていたのか、俺にはさっぱり分からなかった。
 でもいま、その謎がようやく解けた。
「なぁ、名雪」
「ん?」
 一瞬、会話が途切れる。
 そしてしばしの逡巡の後、
「ありがとな」
 ようやくのことで俺は、それだけを口にした。
 端で聞いてる分には、恐らく何のことかさっぱり分からないに違いないだろう一言。
 でも名雪には、それだけで十分だったのだろう。
 俺のその言葉に反応するように浮かべた、はにかむような微笑みで、俺はそれを理解することができた。
 小遣いの支給日まで、あと四日。
 相変わらず懐に余裕がないのは事実だったし、何であれ昼飯代が浮くのは歓迎すべき事実だった。
 差し出された包みを、俺は有り難く受け取った。
 その時だった。
 かたん……教室内の喧噪に混じって、右手から小さな音がしたのは。
 見れば、自席から立ち上がった香里が俺たちに背中を向け、無言のまま何処かへと立ち去ろうとしていた。
「あ、香里」
 その背中に声をかける名雪。
「なに?」
 足を止め、上半身をこちらに捻りながら返ってきた声は、いつも通りの彼女の声だった。
 でも、俺は気付いていた。
 普段と少しと変わらぬ態度を装う彼女の瞳の色が、どこか生気を失った、色褪せた印象を色濃くしていることに。
 それは多分、彼女が背負おうとしている咎の重み。
 自らの意思で全てを捨て去ろうとしている彼女の、心の澱みが生み出したものに違いなかった。
 罪と罰。
 咎と償い。
 その全てを、自らに課した結果としての変化。
 声をかけた名雪にしても、多分香里のその変調に関しては既に気付いているに違いなかった。
 でも表情には、そんな素振りを少しも見せることなく、
「ね、香里もわたし達と一緒に食べようよ。ご飯は、みんなで食べた方が美味しいと思うんだ」
「…………」
 沈黙。
 笑顔を宿し続ける名雪の顔をじっと見据えつつ、微かに瞳を震わせる香里。
 彼女の心の中で果たしてどんな葛藤が渦巻いているのか、いまの俺にそれを知る術は無い。
 でも、俺は願った。
 ここで彼女が「そうね」と、その一言を口にしてくれることを。
 北川を入れれば四人になるいつものメンツで、とりとめもない話題で賑やかに昼の一時を過ごすことができれば、と。
 時間にして数秒のことだったろう、やがてすっと瞳を伏せた香里は、
「ごめんね、名雪。今日は食欲が無いの」
 寂しげな笑みを口許に宿しながら、謝絶の言葉を口にした。
「そっか……じゃあ、仕方ないね」
 半ばその返答を予想していたからだろう、目を細めながら香里に向かって笑みを浮かべてみせる名雪。
 殆どの人間は気付かないだろう、寂しさの色を微かに伴わせながら。
 親友のことで思い悩む名雪が、時折見せる翳り。
 それを俺は、今日までに何度となく見てきた。
 だからこそ理解する。
 わざわざ超が付くほど苦手な早起きまでして作ったこの弁当が、俺の為だけに作られたものでないことを。
 そう、名雪はきっかけを作ろうとしていたのだ。
 香里と同じ時を過ごすための。
 彼女に元気になってもらうために、自分が出来ることを一生懸命に考えた結果として。
 名雪は名雪なりに頑張っているのだ。
 それなら……。
 だからだろう、名雪が次の言葉を口にする前に、出来るだけ明るい風を装って茶々を入れてしまったのは。
「ダイエットか?」
「……そうね」
「そんな風には見えないけどな。俺なんかからすれば、いまでも十分すぎるほどスタイルいいと思うぜ」
「祐一。何かエッチな言い方だよ、それって」
 狙ってなのか、それとも天然なのか――多分後者だろう――横から名雪のツッコミが入る。
「なんでやねん」
「だったら……セクハラだね」
 ぽかっ。
「イタイよ〜」
 叩かれた頭を押さえながら名雪は、恨めしそうな眼差しを俺に送ってくる。
 その視線を無視して、俺は改めて香里に向き直る。
 でも彼女は、会話の中心が自分から離れたことを幸いとばかりに再び背中を向けると、今度こそ教室の外へと歩み去ってしまった。
「あ。香里……行っちゃった」
 叩かれた頭を押さえた格好のまま名雪は、香里が姿を消してしまった廊下に目を向ける。
 瞳に、言葉にはならない感情の片鱗を漂わせながら。
「時間がもったいない。そろそろ食べるぞ」
「え? う、うん」
 言いながら、包みの封を解く。
 すると中からは、野郎が使うにはかなり抵抗を感じるだろう、カラフルな色彩に満ちた弁当箱が姿を見せた。
 あちこちに丸々と肥え太った猫の絵がプリントされているのは、間違いなく名雪の趣味だ。
「このお弁当箱ね、わたしのお気に入りなんだよ」
「……だろうな」
「うん。猫さん、可愛いよね」
 箸を手に、まるで同意を求めるかのように名雪は目を細めてみせる。
 そんな彼女の言葉を完全に無視して、腹を膨らませるべく俺は、弁当箱の中身との格闘を開始した。
「猫さん猫さん」
 謎の歌を口ずさむ、名雪の声を耳にしながら。

                  §

「なぁ香里。お前、家にはちゃんと帰ってるのか?」
 問いかけを口にしながら、手にしたそれにかぶりつく。
 殆ど何の抵抗もなく噛み切られたそれは、咀嚼を繰り返すうちに口の中で遠慮呵責のない甘味を発していった。
「……甘い」
 思わず顔をしかめてしまう。
 甘い物が苦手な俺に、これを食いきるのは一苦労かもしれなかった。
 噛み切られた場所だけが不定型な断面を見せる、扇状の形を為す手の中のそれに改めて視線を落とす。
 クレープ。
 それが今日、商店街に寄って手に入れてきた買い食いのネタだった。
 別段クレープであることに、深い意味はない。
 一昨日が鯛焼きで、昨日が焼き芋だったから、何とはなしにそれとは別のものを買ってみたかっただけのこと。
 卵黄と小麦粉を混ぜて作られた皮の中には、生クリームやら苺やらが渾然一体となって俺の胃袋に収められる時を、いまや遅しと待ち構えていた。
 うーむ、見るからに甘そうだ。
 見た目だけでなく、実際甘いのだけれど。
「…………」
 ふと、視線を感じる。
 視線を手元から視線がした方へと転じればそこには、首から上だけを俺に向ける、香里の顔があった。
 表情には、全く感情が見られない。
「相沢君。甘いのは……苦手?」
「ああ。俺は男だからな」
「男の人でも、甘いものが好きな人はたくさんいるわよ」
 そう言われれば、そうかもしれない。
 世の中には――俺には理解し難かったが――女性以上に甘いものを好んで食べる輩も、確かに存在していた。
 彼女の言葉に正しさを認めた俺は、発言を訂正する。
「男の中でも、俺は甘いのが苦手な部類だ」
「……そう。正反対ね」
 頷きながら彼女は、小さくそれだけを呟くと視線を元に戻した。
 黄昏が広がる、窓の向こうの薄野に。
 何が……そう問い返しかけた俺の口から、でも結局言葉が発せられることは無かった。
 何故なら、途中で気付いてしまったから。
 主語を欠いたままに語られたそれが、果たして俺と誰を比較して紡がれたものだったのかを。
 いま香里が思いを馳せる相手は、たったひとりしかいなかった。
 だから俺は口を閉ざしたまま、視線を彼女から、彼女を取り囲む周囲の風景へと移す。
 紅を発する一枚を除く全ての窓からこの教室に、光は全く射し込んでは来ていなかった。
 空は、いまにも降り出しそうな雪雲に覆われていた。
 名雪が言った通り時計が放課後の訪れを告げる頃、青一色だったはずの空はいつの間にか見渡す限りの曇天と化していた。
 多分、あの時真っ直ぐ家に帰っていれば、何ごともなく一日を終えることができたに違いなかった。
 でも俺は、そうしなかった。
 いつものように商店街へと赴き、そこでふたり分のクレープを買い込むと、そのまま学校へと引き返した。
 香里のいる、旧校舎へと。
 どうしてなのか。
 はっきりと約束を交わしている訳でもない。
 たとえそこに行ったとしても、それで楽しい一時を過ごせる訳でもない。
 でも……それでも俺は、そこに行かなければならなかった。
 そう決めたから。
 香里がこの場所に居続ける限りは、最後まで俺もそれにつき合い続けてようと決めたから。
 それがいまの俺に出来る、彼女にしてやれることの全てなのだから。
 二口目のクレープを口にする。
「やっぱり……甘いって」
 再度紡がれる、悪態にも似た呟き。
「…………」
 香里がこちらを見ていた。
 今度は、瞳に微かではあったけれど感情の存在を窺うことができた。
 でもそれは決して好意的なものではなく、どちらかと言えば呆れているといった感じの色だった。
 口を開きかける。
 その動きを制するように、片手をあげた俺は、
「皆まで言うな。この店は、前に名雪に教えられて知っていたんだ」
 多分俺のその返答が求める答えだったのだろう、納得したように手元の自分のクレープを見据えた香里は、
「……だから、イチゴクレープなの?」
「仕方ないだろ。食べたことのない俺には、どれが美味いのか全然分からなかったんだから」
「でも、相沢君。よく買えたわね」
「それは俺の懐具合のことを言ってるのか? それとも、買うまでの過程のことを言ってるのか?」
「両方……でも、どちらかと言えば後者ね」
 その問いに、俺は思わずため息をついてしまう。
 同時にクレープを買うときに享受した、幾つもの艱難辛苦を脳裏に思い起こしながら、
「もちろん、恥ずかしかったに決まってる。何しろ野郎で並んでるのは、後にも先にも俺ひとりなんだから」
「やっぱり」
 くすりと、恐らくは今日初めてだろう小さな笑みをこぼす香里。
 そしてあむと、手にしたクレープを口にする。
「美味しいわ」
「それは何より。苦労した甲斐があったってもんだ」
 これでもう少し甘くなければ……そう思わなくもなかったけれど、今更言ってもせんのない話だった。
 明日はもう少し食べやすいものを買ってこよう、内心で決意を新たにしながら、残るクレープの半分ほどを一気に食べる。
 舌が感じ取るべた甘な個人的にはかなり耐え難い味覚に耐えながら、俺はどうにかそれを呑み込んでみせた。
「ふぁいとっ、だよ」
 口元を微かに緩めながら、誰のものかすぐに分かってしまう口まねを香里がしてみせる。
「キャラクター違うぞ」
「冗談よ」
 そして、それきり黙り込んでしまう。
 窓から射し込む夕焼けは、俺と香里の姿を紅に染めていた。
 黄色に近い赤。
 紫に近い赤。
 黒に近い赤。
 そして、文字通りの赤。
「帰ってるわよ」
 不意に紡がれた一言。
 一瞬、俺はそれが何を意味してるのかを理解できなかった。
 多分香里にも俺のその感情が伝わったのだろう、さっきよりも言葉多くに語ってくれる。
「家には……帰ってるわ」
「そっか」
 心の片隅で、ほっと安堵の思いを抱く。
 何となくだったけれど俺は、香里が家にも帰っていないんじゃないかと、そう思っていたからだった。
 でも俺のその安堵は、次に紡がれた一言でうち砕かれてしまう。
「誰もいない家にね」
「……誰も?」
「ええ。もうずっと、家にいるのはあたしひとりよ」
「どうして?」
 そう問わずにはいられなかった。
 だって家には両親も、そして妹の栞だっているんじゃないのか。
 当然とも言える疑問。
 その思いが言葉以上に顔に出てしまっていたのかもしれない、香里はすっと視線を逸らすと、
「だって、あの子は……ずっと病院にいるから」
「え?」
「覚えてる、相沢君。先週の……舞踏会の日のこと?」
「ああ」
 頷く俺。
 忘れるはずが無かった。
 それは俺たちの中で、そうあることが当たり前に思われていた何かが、決定的に変わってしまった日。
「じゃあ、あたしがどうして約束を破ったか、分かる?」
「…………」
 今度の質問に、俺は頷き返すことができなかった。
 何故なら、俺は何も知らなかったから。
 あの日、俺は香里に自分の思いを告げ、そして彼女は「……馬鹿」その一言を残して去っていった。
 そして二日後……呼び出された夕暮れ時の公園でに再び相見えた時、彼女はいま俺の前に佇んでいるのと同じ彼女になってしまっていた。
 望んで世界を拒み、孤独を積極的に首肯する、そんな存在に。
 何が彼女を変えてしまったのか。
 俺という存在が、その原因の一翼を担っているのは間違いなかった。
 でも、それだけじゃない……穏やかな口調で紡がれた彼女の問いかけに、俺はそのことを感じ取っていた。
「あの日、あの子の容態が急変したの」
「栞の?」
「相沢君と別れた後あたしは、電話に出た母の口からそれを聞かされた。そして母は、そのままあの子のいる病院に行ったきり」
「…………」
 そこでクレープの切れ端を口に含んだ香里は、しばしの時を置いてから再び口を開く。
「ICU(集中治療室)――それがあの子の行き先。家族の看病の手すら届かない、ガラスに覆われた小さな部屋の中で、あの子はいまもひとり苦しみ続けているわ」
 淡々とした口調。
「何もできないと分かっていて、それでもあの子の側に……病院に居続けている母。あの子の治療費を賄う為、顔を会わすこともなく朝早く仕事に出かけ、夜遅くに寝るためだけに帰ってくる父」
 まるでそれは、他人の出来事を話すかのように静かだった。
 淡々と。
 語られる内容の深刻さとは不釣り合いに、表情ひとつ変えることなく。
「そしてあたしは……誰もいない家の中で、明かりもつけない部屋の中で、あたしには妹なんて最初からいないんだって……」
 微かに瞳が揺れる。
 それはようやく見せた、香里の心の機微。
「だから、悲しいことなんてひとつもないんだって……ただそれだけを考えながら、夜が明けるまでの長い長い時を過ごし続けていたわ」
 逸らした視線が、俺の方に戻る。
「金曜日、あの子が病院から抜け出したと聞かされても、あたしは少しも驚かなかった。だってあの子は、他人なんだから。赤の他人が何をしようがあたしには関係ないって、そう思った」
「…………」
「でも次の日、相沢君からこれを渡されて……」
 紡ぎかけた言葉をそこで一度切って、ゆっくりと半身を覆うストールへと視線を落とす。
 そして空いた手で、その裾をぎゅっと握り締める。
「あの子からの言葉を聞かされた時、もう駄目だった。あの子は……妹の栞は、あんなにひどい仕打ちをしたあたしのことを、それでも姉と思ってくれているんだって……必要としてくれているんだって、そう思ったら……」
 途切れる声。
 そしてどれだけ待っても、次の言葉は聞こえて来なかった。
 いつしか再び窓辺へと向けられた彼女の表情は、俺の位置からでは窺うことができない。
 もしかしたら、泣いているのかもしれない。
 でもその時俺の瞳に映し出されたのは、射し込む無数の光の粒を受け、紅に映える彼女の背中だけだった。

                  §

 窓から射し込んでくる黄昏が姿を消し、室内が暗闇に覆われると同時に、香里は席を立った。
 そしていつものように、無言のまま廊下へ向かって歩き出す。
 目の前を通り過ぎてゆくその姿を、俺は声ひとつかけることができないまま、虚しく見送るばかりだった。
 でも……。
「相沢君」
 見れば教室のドアの前で足を止めた香里が、肩越しに振り返りながら俺に視線を向けていた。
「なんだ?」
 刹那の後、口を開く俺。
「教えてあげる。ここであたしは……思い出を見ているのよ」
「思い出?」
「そう。思い出」
 小さく頷く香里。
 突然、どうしたのだろう。
 彼女が何を語ろうとしているのか、俺にはよく分からなかった。
 返すべき言葉をどこからも見出すことのできなかった俺は、彼女の次の言葉を待つように黙り込むばかり。
 でも彼女の口から紡がれた言葉は、それきりだった。
 それきりきびすを返した香里は、微かに床の音を響かせながら去っていってしまった。
 それから二十分後。
 旧校舎の出入り口、その軒下に立ちつくしながら俺は、闇に覆われた空を見上げていた。
「冗談……だろ?」
 差し出した手に降り落ちてきたそれは、雪じゃなかった。
 そこにあったのは雪になり損ねた、いまにも凍り付くのではないかと思えるほどの冷たさに満ち溢れた雨滴――霙(みぞれ)だった。
 一月のこの時期に、どうして?
 そんな俺の疑問をよそに、闇の中を無数の軌跡を残しながら、止めどなく降り続けるそれ。
 俺は、大きなため息をついた。
 吐き出された吐息が、白く視界を遮る。
 これなら、まだ雪が降ってくれた方がマシだっかも。
 傘が無い以上、走って家に帰る以外選択の余地がない点は、降ってくるものが雪だろうが雹だろうが霰だろうが関係なかった。
 でも、それがよりによって霙とは……。
 救いの手を求めるように、俺はきょろきょろと周囲をひとしきり見渡す。
 でも日も暮れて、夜の帳にすっぽりと覆われてしまった校内に人の気配は感じられず、いつかのように誰かの傘に入れてもらうという僥倖を望むのは、どうやら無理らしかった。
 もう一度、空を見上げる。
 黒一色に塗り込められた虚空から落ちてくる氷雨は、なおも勢いを緩めることなく大地を覆う雪面に無数の小穴を穿ちながら、降り止む様子を微塵も見せることなく降り続けていた。
 仕方ない……ひとりごち頷いた俺は、傘代わりの鞄を頭上に掲げながら庇から飛び出す。
 途端、痛みすら覚えるほどの凍てついた涙滴が肌を叩く。
 氷雨。
 文字通りそれは、氷の雨だった。
 頬に、どこか礫が当たるような感触を覚えるのは、雨滴が半ば凍っているからに違いなかった。
 中庭を抜け、ようやく校門にたどり着く。
 ここから家まで、全力で走って十五分の距離。
 この調子だと、帰り着くまでに全身濡れねずみになってしまうだろうことは必定だった。
 帰ったら真っ先に風呂だな。
 その時はまだ、そんなことを考えるだけの余裕があった。
 でも駆け出してから数分も経たないうちに、俺は自らの考えの浅はかさに気付かされる。
 寒いのだ。
 猛烈に。
 いや、痛いと言った方が正しいかもしれない。
 既に頭からつま先まで全身がずぶ濡れで、放っておいても歯が、勝手にがちがちと下手くそなリズムを刻み始める。
 濡れた制服が肌にへばりついて気持ち悪く、吹き抜ける風は冷えた身体から急速に体温を奪ってゆく。
 いつしか俺は走るのを止め、降りしきる霙の中をとぼとぼと歩いていた。
 今更走ったところで、何の意味もないことに――風を切って走る分、体温と体力の両方を無駄に費やすだけだということに気付いたから。
 周囲に人影はなく、街灯の光を背景に描かれる雨滴の軌跡だけが、俺の目に映る動きあるものの全てだった。
 そして俺は、肌を叩く雨滴の存在を忘れようとするかのように、自身の思考に没頭していた。
 別れ際、香里が紡いだ言葉の意味を。
 思い出。
 彼女は思い出を見るためにここにいると、そう言った。
 でも、その思い出とは何のことなのか。
 誰の思い出なのか。
 素直に考えれば、香里自身の思い出なのだろう。
 でも彼女はどうしてそれを、あの場――黄昏に包まれた、薄野原が広がる窓辺で思い起こさなければならないのか。
 あの風景と、香里の間には何か繋がりがあるのか?
 仮にそうだとして、何が彼女との接点となっているのか、俺には皆目見当も付かなかった。
「結局……俺は何も知らないんだな」
 雪道を踏み締める足取りは、ひどく重かった。
 それはまるで、俺の心中を占める重苦しさを象徴するかのように、一歩足を動かすたびに言葉にし難い疲労を感じさせてくれた。
 でも、原因はそれだけじゃなかった。
 実際に、重かったのだ。
 漆黒の空から降り落ちてくる、氷の如く凍てついた無数の雨滴のせいで。
 膨らんでゆくばかりの無力感。
 足を動かす度、靴底が踏みしめる濡れた路面がぱしゃっと、湿った音色を耳に響かせる。
 でもいまの俺にはその音が、まるで俺の不甲斐なさを嘲笑する声のように思えて仕方がなかった。
「…………」
 足元を見据えながら、無言で歩き続ける俺。
 いつ止まぬとも知れずに降りしきる氷雨は、結局俺が家に帰り着くまでの間ずっと、この身を叩き続けた。
1月29日(金)に続く

[ ← | Top | → ]

[戻る]