『黄昏の園』
Update:2001.04.14





1月29日(金)

 夢と現。
 その狭間をあてもなくさまよっていた意識が唐突に、水面にできた泡が弾けるように現実へと放り出される。
 ――寒い。
 目を覚まして最初に思ったのは、それだった。
 寒空の下、着の身着のままで一夜を明かした後のように、全身に寒気を覚えてしまう。
 意識が混濁していた。
 自分がいま、どこにいるのかすら把握できない。
 錆び付いてしまったように動きの鈍い思考を巡らせつつ、自らの置かれた状況を懸命に思い出そうとする。
 瞳に映るのは、白一色に塗り込められた天井だけだった。
 見覚えのあるような、でも同時に全く知らない場所に放り出されたような、そんな感覚。
 そしてようやく、自分がどこにいるのかに思い至る。
『朝〜、朝だよ〜』
 頭上から流れてくる、おっとりとした印象の声。
 ここは俺の部屋だった。
 そして俺はいま、布団の中で目覚めの時を迎えようとしている。
 朝だ。
 起きなければ。
『朝ご飯食べて学校行くよ〜』
 そう思う間も目覚まし時計は、なおも耳慣れた従姉妹の声を部屋中に響かせ続けていた。
 スイッチを止めようと、手を伸ばす。
「…………」
 腕が重かった。
 正確には、腕を含めた全身が重く、気怠さに満たされていた。
 いつもだったら何の苦もなくできるはずのその行動が、今日に限って何故かひどく辛い。
『朝〜、朝だ――』
 かちり。
 ようやくのことで、目的を遂げる。
 そして気を取り直すようにため息をひとつついた俺は、今度はベッドから抜け出そうと身体を起こしかけた。
 でも……。
 まるで俺の意志に抗うかのように、身体が言うことを聞かなかった。
 鉛のように重い手足。
 そしてそれが何故なのかを考えようとする度に、頭の奥底から発せられる断続的な鈍痛が、俺のその行為を邪魔してきた。
「ぐっ……」
 両肘に力を入れ、その反動で何とか半身を起こす。
 でも、それが限界だった。
 全身を覆う気怠さ。
 断続的な頭痛。
 猛烈な悪寒。
 さすがの俺も事ここにいたっては、自らの身体に起こった変調に気付かざるを得なかった。
 心当たりはあった。
 昨日の雨だ。
 雪になり損ねた氷雨が降りしきる中、傘もささずに学校から家までの道のりを帰った俺。
 家にたどり着いてから、すぐさま冷え切った身体を温めるべく風呂に入ったけれど、どうやら時既に遅かったらしい。
 自覚は無かったが、熱もかなりあるのかもしれない。
 金槌で殴られるように痛む頭を押さえながら、室内を見渡す。
 カーテンが下ろされたままの室内は薄暗く、わずかに漏れ入る陽光だけが朝の訪れを、静かに告げていた。
 ドアがノックされたのはその時だった。
「…………」
 無言。
 そして、しばしの静寂。
 わざと無視した訳じゃなかった。
 返事をしなかったと言うよりは、できなかったと言うべきだった。
 頭痛と悪寒のせいで、返事をすることさえ億劫だったのだ。
 ややあって再びドアが叩かれ、今度はどうにか「はい」とだけ返事をする。
 静まり返った室内に、小さな音色を響かせながら開かれたドアの隙間から、従姉妹の見慣れた顔がにゅっと伸び出てきた。
「祐一。そろそろ起きないと、学校に遅れちゃうよ」
 名雪の穏やかな声。
 ほんの数メートル先から紡がれているはずのその声は、でもいまの俺に耳には遠く波打つように聞こえてくるばかりだった。
 制服に着替え、すっかり出かける支度の整っているらしい名雪は、未だベッドの中にいる俺の姿を見て少し驚いたように、
「わ。まだ着替えてなかったんだ? 急がないと、ご飯食べてる時間がなくなっちゃうよ」
「ああ。すぐ……着替える」
 頭を締めつける頭痛の中、それだけを口にする。
 多分名雪も、俺の様子がおかしいことに気付いたのだろう、宿していた笑顔を表情から消し去る。
 そのまま近寄ってくると、俺の顔を覗き込むように、
「祐一。もしかして、調子悪いの?」
「何でもない。平気……だ」
 でも俺のその言葉を無言で聞き流した名雪は、その場に膝を付くと額に自分の手を当ててきた。
 ひんやりとした手の感触。
 その心地よさに、無意識のうちに目を細めてしまった俺だったが、驚いたようにぱっと手を引っ込めた名雪は、
「すごい熱だよ、祐一っ!」
「気のせい、だろ。俺は……いたって健康だ」
「嘘だよ」
 名雪にしては珍しいくらいの断定口調できっぱりそう言うと、じっと俺の顔を見つめ返してきた。
 そんな彼女を横目に俺は、ベッドから抜け出そうと身体を動かす。
「学校、行かないと。走ればまだ……間に合うよな」
「駄目だよっ」
 ぼふっ――腕を上げることすらままならない俺の身体は、あまりにもあっけなく名雪に押し返されてしまっていた。
 ようやく起きあがれたというのに、またベッドへ逆戻りだった。
「俺を押し倒して……どうするつもりだ、名雪?」
 頭の中を破鐘のように鳴り響く頭痛を堪えようと眉をひそめながら、精一杯の冗談を俺は口にしてみせる。
「もう、冗談言ってる場合じゃないよ」
 天井が映し出されていた視界に、困ったような声音を響かせながら名雪の顔がにゅっと割り込んできた。
 かすかに揺れる、不安そうな眼差し。
 本気で、俺のことを心配してくれているみたいだった。
「…………」
「…………」
 数秒間、無言で視線を交わす。
 先に目を逸らしたのは、俺の方だった。
 小さくため息を漏らしながら視線を天井に向けた俺は、そのままゆっくりと瞳を閉じる。
 すっと、傍らの空気が揺れる。
 布団が掛けられる感触。
「いまお母さん呼んでくるから、待っててね」
 どうやらその場から立ち上がったらしい名雪は、ぱたぱたと足音を響かせながら部屋を後にする。
「お母さ〜ん。祐一が大変大変〜っ」
 台所で朝食の支度をしているのだろう、秋子さんに向かって叫ぶ名雪の声を耳にしながら、俺はゆっくりと眠りに落ちていった。
 悪寒と頭痛、そして気怠さの三者を従えながら。

                  §

 墓標。
 見渡す限り一面の雪に覆われた白い大地から、突き出すように姿をさらす無数のそれが目の前にあった。
 空は、どこまでも続く雲に覆われている。
 白い大地と、黒い雲の狭間を占める空気は冷たく、刺すような微かな痛みを絶え間なく肌に伝えてきていた。
「…………」
 静かだった。
 耳に届くのは、吹き抜ける寒風が奏でる音色だけ。
 人の営みが織りなす日常の騒音は、微塵もこの場には存在していなかった。
 一歩、足を踏み出す。
 足跡のひとつとしてない無垢なる雪原に、雪が発する小さな悲鳴と共にくっきりと俺の靴跡が刻まれる。
 足を動かすたび、立ち並ぶ誰のものとも知れぬ墓標が視界の後方へと流れ去ってゆく。
 歩いても歩いても、目に映るのは雪と雲と、そして墓標ばかりだった。
 どれくらい歩き続けただろう。
 足を止めた俺は、そこにある墓標のひとつへと向き直る。
「…………」
 無言のまま、瞳に映る光景を脳裏に焼き付ける。
 墓石の前には、既に先客がいた。
 黒一色の喪服で身を固め、背中を覆い隠す長い髪を風に流されるまま、その場にひざまづいている。
 視線を上げ、墓石の上に穿たれた文字を確かめる。
 小さく頷く。
 彼女が誰なのか、俺は知っていた。
 そして彼女が一体何のために、誰のために、この場にいるのかも知っていた。
 ここに、彼女のかけがえのない存在が眠っているのだ。
「…………」
 俺の存在に全く気付いていないように、彼女――香里は祈り続けていた。
 何かを願うように。
 何かを語るように。
 何かを悔やむように。
 その姿を俺は、かける言葉すら見出すことのできないまま、ただじっと見下ろすばかりだった。
「奇跡なんて……」
 ぽつりと、囁くように紡がれた小さな声。
 でもそれは風に流される空気に乗って、確かに俺の耳朶を打った。
 沈鬱な声。
 いまにも泣き出してしまいそうな、そんな悲しみに満ちた声。
 奇跡は起きなかった。
 起きなかったのだ。
 何故ならその果てに辿り着いた先こそが、いま眼前に現出している光景なのだから。
 起きないから奇跡なのだ……いつだったか、彼女はそう言った。
 そして彼女の言葉通り、奇跡が俺たちの前に姿を見せることはなく、冷たい現実だけが静かに時計の針を前に進めていった。
 声をかけようと、口を開きかける俺。
 でも、俺の口からはなんの言葉も紡ぎ出されることもなく、吐き出された息が周囲の空気を白く濁らせただけだった。
 風の音だけが耳を打つ、静かな世界。
 瞳に映るのは雲と雪と墓標……ただ、それだけ。
 その時だった。
 目の前に映し出されていた香里の姿が、まるで周囲の空気に溶け込んでゆくように、薄らぎ始めたのは。
 ゆっくりゆっくりと、輪郭を失ってゆく肢体。
 その様を、驚きのあまり半ば呆然と見つめるばかりの俺。
 どれくらいの時が経っただろう、ふと気がつけばこの場に存在するのは、俺ひとりきりだった。
 香里も行ってしまった。
 俺の手には決して届くことのない、空の高みにへと。
 妹の栞が佇んでいるだろう、その場所に。
 なんの脈絡もなく唐突に、そんな思いが心の奥底からわき起こってくる。
「これが……お前の償いなのか」
 視線を足元に落としながら、吐き出すように言葉を紡ぐ。
 答えは無い。
 そんなことは分かっていた。
 何故なら、ここにいるのは俺ひとりなのだから。
 最早俺の言葉は、誰の耳に届くこともなければ、誰かからの返答を受け取ることもないのだ。
 でも、俺は続けずにはいられなかった。
「死は死をもってしか償えない……そういうことなのか、香里」
 それは予感。
 圧倒的な存在感と共に、俺の中で一度として消えることなく横たわり続けていた、黒く淀んだ感情だった。
 去りゆく者の悲しみ。
 残される者の悲しみ。
 それはコインの表裏を為すように、別離の訪れに至るまでの過程が緩慢であればあるほど両者の心を、そして肉体を苛み続けたはずだった。
 いや、違うな。
 自嘲気味に口許を歪めながら、小さく首を振る。
 悲しみの程度に、違いなんて無いのだ。
 突然の死。
 緩慢な死。
 去りゆく者にとっての死。
 残される者にとっての死。
 全ては等価であり、同時にそれを目の当たりにした者を等しく絶望と悲嘆の淵へと追いやってゆくのだ。
 俺は知っていた。
 その悲しみの深さを。
 心が押し潰されてしまいそうになるほどの悲しみと、絶望の存在を。
 知っているはずだった。
「……祐一君」
 横から声がしたのは、その時だった。
 声がした方に首を巡らせる。
 すると少し離れた場所に、俺のよく見知った姿がぽつんと、どこか悲しげな空気を身にまといながら佇んでいるのを瞳がとらえる。
「あゆ……?」
 間違いない。
 そこにいたのは、あゆだった。
 どうして彼女がこんな場所に――最初に思ったのは、そんな当然とも言える疑問だった。
 あゆの眼差しは、俺に向けられていた。
 商店街で出会っている時と、全く同じ格好で。
 リュックの羽が風に吹かれてぱたぱたと、まるで鳥が羽ばたきでもしているかのように、小さく揺れ動く様が見て取れた。
 久しぶりだな……ふとそんな軽口が口を突いて出てきそうになる。
 でも、それが言葉として形を為すことは無かった。
 何故だかは分からない。
 その答えを求めるように俺は、気がつくと彼女の許に歩み寄るべく一歩、足を踏み出す。
 ぱたぱた。
 俺の動きに合わせるように、羽は動き続ける。
 そして気がつく。
 吹き続けていたはずの寒風が、いつの間にか吹き止んでいることに。
 ぱたぱた。
 でも、あゆの背中に生えている羽は、なおも羽ばたきを続けていた。
 風の存在など最初から関係無かったように、自らの意志をもって羽ばたいているように。
 距離にして五、六メートル、変化はその瞬間に起こった。
 可愛らしい小さなオブジェに過ぎなかったはずの背中の羽が、透き通るように色を失った後、左右に大きく膨れ上がったのだ。
 天を目指すが如く、高く大きく伸び上がる二枚の羽。
「……!」
 歩みを止め、その様に見入ってしまう俺。
 そこにあったのは、たったいままで目の当たりにしていたはずの、作り物然としたものじゃない、文字通りの鳥の羽だった。
 無数の羽毛から成る、純白の翼。
 天使の翼。
 目の前のその光景に、俺の脳裏をそんな言葉がよぎる。
 そう……そこにいたのは月宮あゆという俺のよく知る名を持つ、ひとりの聖白天使だった。
「あゆ。お前……」
 俺の言葉に、でも返答は無かった。
 身じろぎひとつすることなく、あゆはその場に佇み続けていた。
 じっと、俺の瞳を見据えながら。
 幸福の使者たる天使には似つかわしくない、どこか悲しげで寂しげな色を、その表情に貼り付かせながら。
 遠くどこかから、鐘の音が聞こえてくる。
 それを合図にしたかのように、目の前のあゆを含めた世界の全てが徐々に輪郭を失ってゆく。
 先刻、香里が俺の前から姿を消した時のように。
 俺ひとりを残して。
 全てが消えてゆく。
 そして全てが消え失せた後、代わって一面の虚無の白さが俺の視界の全てを覆い尽くした。

                  §

 次の瞬間、俺の意識は夢幻から現実へと引き戻されていた。
 目に映る光景。
 空調でほどよく温められた空気を通して映し出される見慣れた天井と、そして見慣れた顔。
「わ」
 声の主は、驚いた雰囲気を微塵も感じさせない様子で驚きの声を上げ、少しだけ後ずさる。
 名雪だった。
 その姿を前に、俺の中の別の部分が呟きを漏らす。
 夢。
 全ては、夢が生み出した幻想だったのだ。
「…………」
 栞。
 香里。
 そして……あゆ。
 いま見た夢は、果たして何を意味しているのだろう。
 そもそも香里と栞は分かるとして、どうしてあゆが夢の中に?
 目の前の名雪を捨て置いたまま俺は、熱で愚鈍な動きしか示さない思考を弄びながら、当然とも言える疑問を抱く。
 答えはすぐに見つかった。
 簡単なことだった。
 そう、夢とはいつだって不条理で不可解なものなのだから。
 つまるところいま見た夢は、俺の心のうちに存在する不安と記憶が混濁した結果現れた、ただそれだけのものに過ぎないのだ。
 そうに決まっている。
 でなければ、あんなたちの悪い夢なんて見るはずがなかった。
「祐一……?」
 いつまでも俺が無反応だったので不安になったのだろう、目の前で手をひらひらと振りながら名雪が口を開く。
「ん? ああ、悪い」
 ゆっくりと思考を現実に戻し、改めて名雪に顔を向ける。
 気にしてないよ、口許を微かに緩めながら表情で俺にそう語るように、小さく頷く名雪。
「祐一。調子はどう?」
「ぼちぼち……だな」
「それって、よくなってるのかな?」
 小首を傾げる名雪から、窓へと視線を移す。
 朝、意識を失うように寝入ってしまってから、どれくらいの時間が経っているのだろう。
 一、二時間という訳じゃなさそうだ。
 ガラス窓を通して部屋に射し込んでくる陽射しは、日暮れが近づきつつあるのか、やや赤みが差した色合いに変化しつつあった。
 どうやら俺は、半日近くずっと眠り続けていたらしかった。
 吐き出す息が、熱っぽい。
 この様子だと熱は、ほとんど下がっていないに違いない。
 それでも、朝に比べれば多少なりとも物を考えられるようになってる分、回復はしているようだった。
「そういえば、名雪。今日は部活じゃないのか?」
 陸上部が休みなのは、確か木曜日のはず。
「うん、今日はお休みしちゃった」
「何で?」
「祐一が心配だったから」
「つまり……サボりか」
 布団から首だけをのぞかせながら、ぽつりと呟いてみせる。
 俺のその言葉に、名雪はさも心外だと言わんばかりの表情を浮かべながら、
「違うよ〜。わたし、部のみんなにはちゃんと断ってきたよ」
「ほぅ」
「家族が病気で心配だって言ったら、みんな『じゃあ、今日は早く帰ってあげなきゃね』って、そう言ってくれたんだよ」
「そっか」
 いつもの俺なら、もう少し軽口を叩いているところだった。
 でも今日に限っては、それだけの体力と気力が残っていなかった。
 いや、一番足りないのは時間かも。
 目に映る、赤の度合いを強くし始めた陽光を前に、そんなことを思う。
 行かないと。
 たとえ歩くのが困難なほど調子が悪くても、あいつがひとり佇んでいるだろう、その場所に。
 日が没し切る前に。
 別に、待ってくれてるとは思わなかった。
 そもそも俺と香里はそんな関係じゃなかったし、彼女は自分の為にその場に居続けてるにすぎない。
 だから……。
 彼女が彼女自身の為にそこにいるように、俺は俺自身の為にそこに行かなければならなかった。
 布団から身体を起こす。
 気怠さに満たされたその動きは鈍く、頭を万力で締め付けてくるような頭痛は相変わらずだった。
 それでもどうにか、半身を起こす。
「わ。まだ起きちゃ駄目だよ、祐一」
 慌てたように名雪が、俺の動きを制止するように肩を押さえる。
 一瞬、朝の出来事が脳裏を蘇る。
 俺なんかよりよほど非力なはずの名雪に、起きあがりかけた身体を押し倒されてしまった記憶。
 でも今度は、何とか持ちこたえることができた。
 そして肩に置かれた彼女の手を掴みながら、俺は口を開く。
「……行かないと」
「え?」
 何のことか分からないようにきょとんと、視線を返してくる名雪。
 久しぶりに掴んだ従姉妹の手は、熱のせいもあってひんやりとした感触を掌に伝えてきていた。
「もうじき、日が暮れる。だから行かないと……俺は」
 静まり返った部屋の中で聞こえてくるのは、俺と名雪のかすかな息づかいの音色だけだった。
 沈黙を先に破ったのは、名雪だった。
 駄々をこねる子供を前にするかのように困った表情を浮かべ、小さく首を振りながら、
「そんな身体で、どこへ行くつもりなの?」
 当然の疑問だった。
 何かうまい言い訳はないものだろうか……そんなことを思うが、熱に浮かされたこの状況でそれを望むのは、さすがに無理だった。
 仕方なく俺は、本当のことをそのまま口にする。
「……学校」
「学校? でも今日の授業、もう全部終わっちゃってるよ」
「そうだな」
「だったら――」
 何か言いかけた名雪を目で制し、更に言葉を継ぐ。
「それでも俺は……行かなきゃ駄目なんだ」
「どうして?」
「そうするって、自分で決めたから。それにそうしないと……さっき見た夢みたいに、どこかに消えちまうような……そんな気がするから」
 今日も、香里はあの場所にいるのだろう。
 ひとりきりで。
 誰もいない教室の中、身じろぎひとつすることなく窓から射し込む夕日を身体に受けながら、流れゆく時に身を任せているのだ。
 思い出を見ている。
 昨日の別れ際、彼女はそう言った。
 そして、無数の薄が風に揺れる黄昏の向こうにある奇跡……いつだったか、そんなことも言っていた。
 思い出と奇跡。
 それが何を意味しているのか。
 誰にとっての、何のための思い出であり奇跡なのか、俺には分からない。
 でもだからこそ、俺は今日もあの場所に行かなければならないのだ。
 それを知るために。
 同時に夕日の中、いまにも消えてしまいそうな儚さを漂わせる彼女を失わないために。
「わたしには、祐一の言ってることが分からないよ」
 ぽつりと、視線を落としながら呟く名雪。
 どこか寂しげな声だった。
「そうだろうな。分からないように、言ってるんだから」
「意地悪だよ」
「その方が、俺らしいだろ」
 名雪の手をどけて、立ち上がる俺。
 熱のせいだろう、まるで地に足がついていない感じだった。
 ふらふらと左右に身体を揺らしながら、壁際に向かって歩いてゆく。
 そして未だ治まることのない悪寒と頭痛が、一歩足を動かすたびに俺の身体を苛んできていた。
 こりゃ……かなりやばいかも。
 立ち上がってから、改めて自身の体調の悪さに内心舌打ちをする。
 求めるものは、壁に掛けられていた。
 制服。
 この時間だと、まだ教師や生徒が残っているだろう学校に赴くためには、これを着て行かなくてはならない。
 その時だった。
「祐一っ」
 ずっと黙り込んだままだった名雪の声が、背中を叩いたのは。
 手を壁につきながら、振り返る。
 ベッドの傍らに座り込んだまま、上目遣いに俺の方を見上げてきていた名雪は、真っ直ぐに俺の顔を見つめながら、
「それってきっと、祐一にとっては大切なことなんだよね」
 大切なこと。
 単なる自己満足なのかもしれなかったけれど、でもそれが俺にとってとても大切なことだというのは間違いなかった。
「ああ」
 だから俺は、ためらうことなく頷く。
「うん、分かったよ」
 次の瞬間、口許に微かな笑みを浮かべてみせた名雪は小さく頷きながら、その場から立ち上がる。
「約束してるから、祐一とは。だからわたし、いまはこれ以上聞かない」
 すっと、差し出される小指。
 そして思い出す。
 二日前、名雪から金を借りた時に交わした指切りのことを。
「そういや、そうだったな」
「うん」
 にっこりと微笑む名雪。
 そこにあったのは、俺と交わした約束が果たされることになんの疑いを抱いていない、俺のよく知る彼女の笑みだった。
 それが嬉しかった。
 そして……少しだけ悲しかった。
 いくらか固さを含んでいた部屋の空気が、穏やかなものに変わる。
「あ、そうだ」
 立ち上がった名雪が、思い出したように口を開く。
「ね、祐一。わたしにも、何か手伝えることないかな?」
「手伝うってもなぁ……」
 いくら何でも着替えを手伝ってもらう訳にもいかないだろうし、さてどうしたものかと思いながら部屋の中を見渡した時だった。
 机の上にあった、その存在に気付いたのは。
「名雪、あれは?」
「え?」
 俺の視線を追うように顔を机に向けた名雪が、そこにあったものを見出して、くすりと笑みをこぼす。
「あれは……祐一のお弁当だよ」
「弁当?」
「うん。もし調子が良くなってたらお昼に食べるかなって思って、置いておいたんだよ」
「…………」
 そのまま少し考え込む。
 ややあってから考えをまとめた俺は、改めて名雪へと視線を向けると、
「名雪。あれ、温め直せるか?」
「え? う、うん。もちろんできるけど……」
 突然の問いかけに、少し面食らった様子で頷く名雪。
「じゃあ俺が着替えてる間に、急いでそうしてくれ」
「どうするの?」
「持っていく」
「持っていくって、学校に?」
「ああ」
 俺の言葉に未だ合点の行ってないらしい名雪は、小首を傾げながらなおも訊ね返してくる。
「祐一が食べるの?」
「もしかしたら、そうなるかもしれないけど……多分違うと思う」
「……?」
「とにかく、頼む」
 最後は有無を言わせぬ感じで、頭の上に「?」を踊らせている名雪を押し切り、俺は会話をうち切った。
 少し困ったような色を浮かべながら、それでも名雪は、
「うん、分かったよ。じゃあ、急いで温め直してくるね」
 そう言って弁当の包みを手に、ぱたぱたと気忙しげな足音を立てながら台所へ向かうべく部屋を出ていった。
 小さくため息をつく俺。
 そして汗を吸った寝間着を着替えるべく俺は、ハンガーに掛けられた制服へと手を伸ばした。

                  §

 正門前で一旦歩みを止めた俺は、疲労で乱れた呼吸を整え直してから、再び歩き出す。
「……行くか」
 時間が時間だけに、校舎やグラウンドに人影はほとんどなかった。
 昇降口を横目に、そのまま校舎に沿って奥に歩き続ける。
 さくさくと、除雪もされずに降り積もったままの雪を踏み締めるうち、やがて見慣れた光景が視界に映し出される。
 中庭。
 そしてふたつの校舎を結ぶ、渡り廊下。
 閉ざされていたドアを押し開き、中に足を踏み入れる。
 きしみを上げる廊下の床を、壁に手をついてふらつく身体を支えながら進んでゆき、目的地まであと一歩というところで足を止める。
 壁から手を離す。
 そして心を落ち着かせるように大きく一度深呼吸をしてから、教室の中に乗り込んだ。
 今日は、全ての窓が紅に埋め尽くされていた。
 その輝きを受けて室内にある全てが、微妙なコントラストの差異を垣間見せながら、紅に染まっていた。
 そこにいる人影も含めて。
 ゆっくりと近づく。
 そして、彼女のすぐ傍らで足を止めた俺は、
「よぅ」
「…………」
 返事はすぐに返ってこなかった。
 でも数秒の合間を置いて、窓辺に向けられていた視線をゆっくりと俺の方に向けた香里は、
「今日は……遅かったのね」
 血のように赤く染まった唇を動かし、静かにそれだけを口にする。
 俺は悪びれた風も無く、口元を緩めながら言葉を返す。
「遅刻ってか?」
「そうね」
 いつもと同じ反応。
 まるで感情をどこかに置き忘れてきたしまったかのような、そんな香里の声が鼓膜を震わせる。
 でも俺は、そのことに多少の安堵の思いを抱いていた。
 いまの彼女なら、俺の体調を心配するような発言はきっとしないだろうと、そう思えたから。
 多分授業には出ていただろう香里は、俺が今日学校を休んでいることを知っているはずだった。
 でも、彼女は何も言わない。
 香里にとっては、この場に俺がいようがいまいが、取るに足らない事実に過ぎないだろうから。
「ほれ、今日の差し入れ」
 話題を切り替えるように俺は、ここまでずっと手にしたままだった包みを膝の上に置いてやる。
 俺に向けられた香里の瞳が、微かに揺れる。
「今日は商店街に行ってる余裕が無かったから、これで勘弁な」
 口を閉ざしたまま視線を膝元に落とした香里は、ストールに当てたままだった手を包みに伸ばし、結び目を紐解いてゆく。
 ほどなく中から姿を現す、可愛らしいデザインの弁当箱。
「念のために言っておくけど、俺が作った訳じゃないからな。だから、安心して食べてくれ」
 それだけを言ってすぐ側にあった椅子に座り込んだ俺は、そのまま背もたれに寄りかかる。
 正直、自力で立ってるのが辛かった。
 ここに辿り着くまでにかなり体力を消耗していたし、なにより一度は治まりかけた頭痛と悪寒がぶり返して来ていた。
 苦痛のせいで、気を抜くと表情を歪めそうになってしまう。
 でもそのことを気取られないよう視線外した俺は、夕暮れ時の薄野原へと目を向けた。
 微かに空気が揺れる。
 香里が、弁当箱の蓋を開いたのだろう。
「……美味しい」
 いくらかの時を置いて、微かに空気を震わせながら届く呟き。
「あいつ、見かけによらず料理とか上手いんだよな」
「そうね」
「知ってるんだ?」
「ええ。前に何度か……食べたことあるから」
 小さく頷きながら弁当箱に箸を伸ばした香里は、それをそのまま俺の目へと差し出してくる。
 箸につままれたミートボールがひとつ、目の前にあった。
「食べないの?」
「俺がか?」
「あたしひとりじゃ、全部は食べきれないわ」
 何となく、無言で目の前にそれを見入ってしまう。
 当然ながら、食欲なんて無かった。
 でもこの状況で、それを正直に口にする訳にもいかなかった。
 紅に包まれた世界の中、ミートボールを挟んでお見合い状態の俺たち。
 何というか……幻想的とでも言うべき光景の最中で、そこだけが無意味に日常の空気を醸し出していた。
 どれくらい経っただろう、諦め半分に小さくため息を漏らした俺は、差し出されたそれを口に含む。
 温め直してあったとはいえ、ここに来るまでに冷めてしまったらしいそれは、それでも芯の方にかすかな温もりを残していた。
「美味しい?」
「ああ……そうだな」
 頷いてはみたものの、味なんて分からなかった。
 何度か咀嚼した後、とっとと胃に流し込む。
 そしてそれを待っていたかのように、また差し出される箸。
 今度は林檎だった。
 女の子が作ったものらしく、うさぎ剥きにされているそれは、本来白いはずの身の部分も夕日を受けて皮同様に赤く染まっていた。
「いきなりデザートか」
「不満?」
 差し出した箸はそのままに、真顔で訊ねてくる。
「いや、有り難い」
 そのまま目の前の林檎を一口、かじる。
 しゃりっと水気を含んだ湿った音色と共に、林檎の一部が口の中のものとなる。
 呑み込むと同時に、大きなため息が意図せず口から漏れる。
 普段より余程熱を含んだ、吐息。
 マズイな……内心で舌打ちをしながら、俺は体調がかなり危険なレベルまで悪化していることを俺は自覚した。
 絶え間ない頭痛と悪寒。
 それに加えて、目眩までし始めていた。
 視界が、ゆらゆらとまるで風に揺れる水面の如く、不定型に波打つ。
 目の前にあるはずの林檎が、遠く近く前後するように視界の中でその大きさを変えていた。
 いや、動いているのは俺の方なのだ。
 何とか姿勢を維持しようと、身体に力を入れる。
 でもそんな俺の努力を嘲笑うかのように、肝心の身体は全く言うことを聞かずに、なおも揺れ続けた。
「……ん……っ!」
 香里が何か言ってる気がした。
 でも俺の耳は、既にそれを聞き取ることができなくなっていた。
 徐々に大きくなる振幅。
 そしてそれがピークに達した瞬間、ぐるりと円を描くように俺を覆う世界の全てが回転した。

                  §

 柔らかな感触。
 後頭部を覆う、温もりを伴ったこれは何だろう。
 枕……?
 ふと、そんなしごくもっともな答えが浮かんでくるが、でも枕にしては少し形が変な気がしなくもなかった。
 無意識に手を伸ばし、それが何なのかを確かめようとする。
「……わ」
 声がした。
 俺の声じゃない。
「……たいわ」
 多少の合間を置いて、再度紡がれる声。
 その声に心を揺さぶらるように目を見開くと、黒と赤の二色に染め分けられた世界が瞳に飛び込んできた。
「くすぐったいわ……相沢君」
 長い髪の間からのぞく、ふたつの瞳。
 香里だった。
 一瞬の混乱の後、正常な思考を取り戻す。
 頭上から覗き込んでくる、視界の中で逆さまに映し出される彼女の顔。
 そして後頭部に感じる、柔らかで暖かな感触。
 と言うことは……知覚したその光景を前に改めて俺は、指先が捉える柔らかな感触の存在を確かめる。
 それは、枕なんかじゃなかった。
 ゆっくりと、伸ばしていた手を引っ込める俺。
「香里」
「なに?」
「もしかして……いま、すごい恥ずかしいことしてないか?」
 言わずもがなのことだったが、どうやらいま俺は香里に膝枕をされているらしかった。
 彼女は多分、先刻の目眩で椅子から転げ落ちた俺のことを、こうして介抱してくれていたのだ。
 映し出される香里の顔の先には、天井があった。
 赤く染まる視界。
 でもその色合いは、気を失う前に見ていたはずのそれよりも黒の度合いを強くしているように思えた。
 黄昏時の終わり。
 夜の訪れ。
 どうやら意識を失ってから、そう長い時間は経っていないようだった。
 見れば、香里が掛けてくれたらしいストールが、緩やかな曲線を描きながら俺の上半身を覆っていた。
 俺の両頬を押さえながら、香里が呟く。
「誰も見てないから、平気よ」
 そういう問題だろうか……心の片隅でそんなことを思った俺は、でもそれも熱のせいで未だ混濁しがちな意識に中断を余儀なくされる。
 それきり黙り込んでしまう。
 頬に当てられた手の冷たさが、そして肌を通して伝わる彼女の膝の温もりが心地よかった。
 目を閉じる。
 そのまま眠りに落ちていってしまいそうな、そんなたゆたうような感覚。
「もうじき、終わりだな」
 閉じていた目を見開きながら、時を追って急速に宵闇に覆われてゆく室内を前に、それだけを言う。
 何が、はあえて口にしなかった。
 でもそれだけで彼女には、俺の意志は十分伝わっていた。
「そうね。今日も、思い出の時が……終わるわ」
 落としていた視線を窓辺に向けながら、呟く香里。
「なぁ香里。思い出って、何のことなんだ?」
「…………」
「それって誰の思い出なんだ?」
「…………」
 俺の言葉を聞き流すように、窓辺に視線を向けるばかりの香里。
 ただ、時折俺の頬の感触を確かめるように微かに動く指先だけが、彼女が生ある存在だということを弱々しく主張してきていた。
 全身を襲う悪寒に耐えながら、じっと彼女の返答を待つ。
 香里の口が開かれたのは、室内の八割方が宵闇に覆われた頃だった。
「物にも……心はあるのよ」
「……?」
「長い長い歳月を経るうちに、無機的な存在であるはずの物にも、心が宿ることがあるわ。そして心を持った物にも……記憶は存在する」
「それが、思い出?」
 乱れそうになる息を整えながら、問い返す。
 俺のその言葉に、小さく頷いた香里は、
「相沢君は知らないと思うけど……この窓の向こうに見える風景は、確かに存在していたのよ。ずっとずっと昔、この校舎が校舎としてその本来の役割を果たしていた頃」
「…………」
「あたしはね、その中でずっと思い出していたの。この建物の――」
 そこで一度言葉を切り、すっと頭上を見上げる。
 夜の帳に覆われた建物。
 物言わぬ、無機なる存在。
「――幸せな思い出を前に、あたしの中にある幸せな思い出を」
「香里の……思い出?」
「そう。まだあたしが幸せの存在を信じることができた頃の、いつかあの子と一緒に笑って過ごせるようになるんだって、そう信じることができた……何も知らない幼かった頃の思い出を」
 そう言って膝元に横たわる俺に視線を落としてきた香里は、ふっと口元を緩めると、
「この黄昏の中でだけ、あたしは戻ることができるの。奇跡なんてものを信じる必要のなかった、その言葉の意味すら知る必要の無かった頃に」
 全てを諦めたような、穏やかな笑みを浮かべてみせる。
 悲しげな微笑み。
 それは、閉ざされた未来。
 彼女が歩いてゆく先に待っているのが、悲嘆と絶望と悔悟ばかりなのだということを知っている、そんな儚げな表情。
「でも……あたしは知ってしまった。奇跡の意味を。そして、奇跡なんて起こらないことを。起こらないから……奇跡なんだってことを」
 そこで言葉を切り、瞳を伏せる。
 刹那の静寂。
「俺は……」
 言いかけた言葉。
 心の片隅に浮かんだ漠たる思いは、でもそれきり形を為すことなく俺の中に消えていってしまった。
 何だろう。
 俺は、何を言おうとしたのだろう。
 それは、とても大切なことのような気がした。
「……?」
「いや、何でもない」
「そう」
 瞳を閉じる香里。
 物憂げに。
 いまにも涙がこぼれ落ちるのではないかと、そう思えてしまうくらい悲しげな色を浮かべて見せながら。
 同じ……だな。
 脳裏にふと、名雪が時折浮かべる似たような表情が思い出され、そんなことを思ったりもしてしまう。
 もしかすると、俺もそうなのかもしれない。
 自分で気付かないだけで。
「ひとつ……聞いてもいいか?」
 しばしの静寂の後、口を開く。
 教室の中は、既に夜の世界と化していた。
 夕日に代わって射し込んでくる星と、そして月の光だけが、闇の中で俺たちの姿をうっすらと浮かび上がらせていた。
「俺は……邪魔者か?」
「…………」
「思い出と巡り会うために来ているお前にとって、俺がここに来ることはそれを邪魔しているだけなのか?」
 閉ざされたままの瞳。
 閉ざされたままの口許。
 そして長い時を置いて、沈んだ声が耳を打つ。
「そうね。邪魔……かも」
「……そっか」
 半ば予想していたこととはいえ、やはり面と向かってそう言われると辛いものがあった。
 俺がしていたことは所詮自己満足に過ぎず、彼女の足を引っ張るだけだったのだと、そう言われたも同然だったから。
 仕方ないか……小さくため息をつこうとした、その時だった。
「でも……不快じゃないわ」
「え?」
 囁くように紡がれたその声は、でも確かに俺の耳に届いた。
 安堵の思い。
 それは俺にもまだ、香里のためにしてやれることがあるかもしれないという、そんな思いだった。
 そんな思いとは裏腹に、口からは苦しげな吐息が漏れる。
 一瞬のことだったけれど、張り詰めていたはずの気を抜いてしまったのがまずかったのかもしれない。
 いままで辛うじて保たれていた意識が、再び混濁し始める。
「相沢君、大丈夫?」
「難しい……ところだな」
 懸命に苦笑いの表情を作りながら、ようやくそれだけを答える。
 実際、言葉を発するのも辛くなってきていた。
「でも……この膝枕があれば平気……かも」
 それは、精一杯の強がり。
 この状況下で、今更強がりを言ったところで説得力も何もなかったが、それでも俺は強がってみせた。
 そうすべきだと思ったから。
 いつだって俺が俺であること……それが、いまの彼女にしてやれることの全てだったから。
 そんな俺に向かって香里が口にしたのは、ただ一言だった。
「……馬鹿」
1月30日(土)に続く

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