『黄昏の園』
Update:2001.04.28





1月30日(土)

 カーテンの開け放たれたままの窓からは、街灯か、それとも月明かりなのかは分からなかったけれど、柔らかな光が射し込んできていた。
 見開いた俺の瞳が最初に映し出したのは、そんな光景だった。
「…………」
 しばらくの間、自らの置かれた状況を確かめるようにぼんやりとその様をながめ続ける。
 ここは――
 自分がいま、どこにいるのかを理解するために、記憶をさぐるように目を細める俺。
 やがて意識の片隅に、ぼんやりと浮かび上がってくる映像。
 そう、俺は学校に行っていたのだ。
 香里に会うために。
 熱で朦朧とした意識のまま、それでもどうにか目指す場所にたどり着き、そして俺は……。
 その時、不意に傍らに気配を感じた。
 人の発する気配。
 すぐ側に誰かがいる。
 でも、誰だろう。
 名雪?
 それとも、秋子さん?
 可能性の一番高い相手の顔を思い浮かべながら、天井に向けたままだった視線を動かす。
 手を伸ばせば届くくらいの距離に、その誰かはいた。
 窓の外から射し込む光もそこまでは届かないのか、暗がりの中、宵闇のベールをまといながらじっと佇む姿。
 俺に向けられているらしいふたつの瞳が発する微かな輝きだけが、そこにいるのが人であるらしいことを、かろうじて主張していた。
「…………」
「…………」
 無言のまま、視線を交わし続ける。
 誰とも知れない、その人影と。
 そうしてどれくらい経った頃だろう、俺は口の端を微かに緩めながら、ゆっくりと口を開く。
「よぅ」
 返事は無かった。
 でもその代わり、俺の声に応えるように影が微かに動く。
「ここまで運んでくるの、大変だったろ」
 その呟きで、冷え切った室内の空気が微かに揺れ動くのを肌で感じながら、更に言葉を続ける。
 そう、俺は既に気付いていた。
 目の前に佇むその影が誰なのかを。
 名雪でもなければ秋子さんでもない、ずっと俺の側にいてくれたその誰かの、彼女の名は――
「……重かったわ」
 一瞬の間を置いて、返答が戻ってくる。
 予想していた通りの声が、小さな、囁くような呟きと共に。
「だろうな」
「明日はきっと、筋肉痛よ」
「それは……悪いことをした」
 悪びれた風もなく、それだけを口にする。
「本当に」
 俺の言葉に心底同意するように、小さくため息を漏らしながら彼女は頷いた。
 すっと、影が動く。
 伸ばされた手。
 まるで闇の中から抜け出てきたように視界に飛び込んできたそれは、俺の額の上で動きを止める。
 不意に額を襲ったその冷たさに、わずかに目を細めてしまうおれ。
「まだ……起きない方がよさそうね」
 彼女の言葉に俺は、ただ「そっか」とだけ答えた。
 それきり、再びの沈黙が訪れる。
 暗がりに覆われた室内で、黙りこくったまま佇み続ける俺たち。
 傍目には、かなり奇妙に思える光景に違いなかった。
 目が暗がりに慣れてきたのだろう、闇を透かすように浮かび上がる彼女――香里に向かって訊ねかける。
「そう言えば、名雪は?」
 当然の疑問だった。
 ここが俺の部屋で、どうやったのかは分からないが香里がここまで俺を運んできてくれたのだとしたら、そのことを名雪が知らないはずがない。
 もしかしたら、いまにも名雪がドアを勢いよく開いて部屋の中に飛び込んでくるんじゃないか……そんなことを思ったりもしてしまう。
「寝てるわ」
 でも間髪入れずに香里の口から戻ってきたのは、俺のそんな想像をあっさりと覆してくれるものだった。
「相沢君が目を覚ますまでは寝ないで頑張るんだって、少し前まで起きてたんだけど、ね」
「……いま、何時なんだ?」
「世界が一番深い眠りについている頃、かしら」
「名雪にしては……頑張った方か」
「そうね」
 抽象的な言い回しだったけど、要はじき夜が明ける頃合いってことか――俺はそう判断した。
 額に当てられていた彼女の手が離れる。
 それと共に潮が引くように失われた温もりに俺は、喪失感にも似た何かを覚えそうになる。
 多分その思いが、顔にも出てしまったのだろう。
 宵闇を通して、床に座り直した香里が小首を傾げながら、
「なに?」
 小声で問いかけてきた。
 まるで全てを見透かしたような、そんな色を浮かべながら。
 一瞬、返答に詰まる。
 そしてしばらくの間、熱のせいで未だに朦朧としたままの頭で思考を巡らせた俺は、
「ひとつ、頼みがある」
 まっすぐに彼女の目を見据えながら、口を開いた。
「あたしに出来ることだったら」
「多分、香里にしか出来ないし、香里にしてもらわないと意味がない」
「……そう。で、なに?」
 俺が何を言い出そうとしているのか予想がつかないのか、どことなく不思議そうな様子を浮かべる香里。
 そんな彼女に向かって俺が紡いだのは――
「祐一」
 自分の名前だった。
「……?」
「だから……祐一」
 それきり、言葉が途切れる。
 我ながら間抜けなことを口にしてるよなと思いつつ、それでも俺は彼女から目をそらすことなく反応を待ち続ける。
 いくらなんでも、言葉をはしょりすぎただろうか。
 熱でぼーっとする頭で、微かな後悔と共にそんなことを思う。
 でも聡い彼女なら、俺が言わんとするところをきっと理解してくれると……同時にそう確信もしていた。
 どれくらい経った頃だろう、じっと俺の心を探るようにこちらを見つめ返してきていた香里の瞳が、不意に揺れ動く。
 まるで、何かに気付いたかのように。
 気づいたな。
 そう思うと同時に、おれの心の中には安堵と不安がない混ぜなった、そんな言葉にし難い思いがよぎる。
 次の瞬間、すっと目を細めてみせた香里は、
「あたしは……遠慮しておくわ」
 ぽつりと、それだけを呟いた。
 聞き覚えのある台詞。
 それは俺たちが初めて会った時、彼女が口にした台詞だった。
 凛とした表情の裡に、翳りにも似た何かを潜ませながら、俺からの申し出を拒絶した時と全く同じ眼差し。
「そぅ……か」
 小さく嘆息しながら、視線を外す。
 予感はしていた。
 正確には、半ばそうなることを予想していたと、そう言うべきだったかもしれない。
「なぁ……香里。お前、もしかして俺の名前、嫌いだろ?」
「そんなこと……ないわ」
 力のない返事。
 口では否定していたけど、でもその言葉の力のなさこそが、俺の問いかけが事実であることを雄弁に物語っていた。
「じゃあ質問を変えよう。俺のこと、嫌いか?」
「…………」
 今度は否定でも肯定でもない、沈黙が戻ってくる。
 もしいま、端で俺たちの会話を聞いている人間がいるとしたら、俺の台詞はさぞ思い上がった風に聞こえたに違いない。
 言葉尻だけとらえれば、それはまるで俺が彼女の気持ちを知った上で、それを言わせようとしている風に取れなくもなかった。
 でも、違うのだ。
 俺が知りたかったのはそんなことじゃなかったし、ましてや思い上がってるつもりなんて毛頭なかった。
 だって俺は……既に一度、彼女に振られているのだから。
 彼女から戻ってきた、沈黙と言う名の返答。
 それは俺にとって、十分すぎるほど求める回答になっていた。
 初めて出会った時、「名前で呼んでくれ」という俺の申し出をすげなく断った香里を前に、内心かすかな疑念を抱いてしまった俺。
 その答え。
 理由は未だに分からなかったけれど、彼女の中で「祐一」という単語は避けるべき存在となっているのだ。
 でもそれは、少なくともいまの俺を対象としている訳ではない。
 俺ではない誰か、同じ名を持つ誰かが、彼女の中にひとつの禁忌を作り出しているのだ。
 確信があるわけじゃない。
 全ては俺の熱に浮かされた思考が生み出した、愚にもつかない妄想という可能性も高かった。
 でも……
「……の?」
 かすれるように紡がれた香里の声が、俺の思考を断ち切る。
 意識を現実に引き戻す。
 そして改めて、彼女に顔を向ける。
「相沢君……あなたは、何を知ってるの?」
「いや、何も」
「…………」
「俺は……何も知らない。そう、何にも。だってそれは……香里、お前の中にしか存在しないんだから」
「…………」
「だからお前が話してくれない限り、俺は何も知ることはできない」
 黙ったままの彼女に、俺は一方的に話しかけた。
 そして最後の一言を口にしたきり、無言のまま微かに揺れ動く香里の瞳を見つめ続ける。
 何かを求めるように。
 何かを促すように。
 長い長い時間。
 永遠とも思えるくらいの静寂。
 無言で互いに視線を交わすばかりだった俺たちの、その均衡を崩したのは香里の方だった。
 目をわずかに伏せながら口から漏れる、小さなため息。
 その口の動きに合わせて微かに震えた頬は、部屋の三分の一ほどを月明かりの下にさらけ出している光を受け、鈍い艶光りを発していた。

                  §

「いまから話すのは、昔話……ひとりの小さな女の子がある日、野原で出会った見知らぬ男の子との間にあった、ほんの些細な出来事」
 微かに空気を震わせながら、俺の耳に届く声。
 囁くように小さな音色だったそれは、でもすぐ耳元で紡がれていたお陰で、問題なく聞き取ることができた。
 ちらりと、天井に向けていた視線を傍らに向ける。
 するとそこには、布団の上で腕組みをしながら頭を横たわらせている、香里の姿を間近に見て取れた。
「ああ……」
 先を促すように小さく頷きながら、視線を暗がりに覆われた天井に戻す。
「女の子が男の子と出会ったのは、野原の中。空を真っ赤に染める夕焼けと、舞い落ちてくる粉雪を背景に、風に揺れる薄がきらきらと黄金色に輝くその場所で、ふたりは出会った」
 穏やかな声音。
 それはまるで、寝付けない子供の横でお伽噺を聞かせる母親の如き、そんな柔らかな語り口だった。
 ふと、自分の小さかった頃を思い出す。
 時の流れの中に霧散して、もう殆ど残っていない記憶の残滓。
 その中にいつしか俺は、寝物語にお伽噺を聞かせてくれた母親の姿を思い出していた。
「その野原は、町から少し離れていたせいで、普段は子供もあまり足を踏み入れることのない場所だった。でも女の子はその日、そこにひとりで来ていた」
「どうして?」
「ひとりになりたかったから。誰にも邪魔されれずに、ひとりで……泣きたかったから」
 そこで言葉が途切れる。
 でもそれはほんの一瞬のことで、すぐに物語は再開された。
「女の子には、妹がいたの。ひとつ歳下の、両親と姉の愛情を一身に受けて育った、可愛い妹が。そしてその妹のことが、女の子は大好きだった。妹が女の子のことを『おねえちゃん』って、少し舌足らずな声で呼んでくれた時、彼女は本当に幸せだった」
「…………」
「でも、女の子の妹は……生まれつき身体が弱かった。少しでも無理をするとすぐに体調を崩して、いっぱい熱を出して、いつだって痛みと苦しさでぽろぽろと涙をこぼし続けていた。でも女の子は、そんな妹の前では決して泣かなかった。妹の苦しむ姿を見て、本当は女の子も一緒に泣きたかったけれど……でも、自分まで泣いちゃったら誰も妹を笑わせてあげることができないって、ただそれだけを考えて、布団の上の小さな手を握り締めながら、女の子は一生懸命に妹を励まし続けてた」
「……いい姉さんだな」
 自然と、そんな言葉が口から漏れていた。
 そして脳裏に思い描く。
 恐らくは年端もいかない少女だったろう女の子が、病床に伏す妹の傍らで涙を懸命に堪えながら、妹を励ます姿を。
 思うにそれは、女の子が過ごしてきた日常の、殆ど全てを占める思い出なのかもしれなかった。
 春の日も。
 夏の日も。
 秋の日も。
 冬の日も。
 熱で火照った妹の小さな手を握りながら、妹の苦しみを和らげてやることの出来ない無力さを噛み締めながら、でもそれでも自らの思いの丈を込めて、女の子は励まし続けたのだ。
 頑張れ、頑張れ……と。
「そうね。女の子が『いい姉』であろうとしたことは、確かだわ」
「ああ」
「女の子は頑張ったわ。妹に少しでも笑顔が戻るなら、妹の為に何か少しでもしてあげられることがあるならって」
 空気が揺れる。
 どうやら香里が、僅かに身じろぎをしたらしい。
「家から殆ど外に出られない妹に代わって、女の子は色んなものをその両手に一杯にして持っていってあげた。春には桜の花びら。夏には生い茂った野原の草葉。秋には舞い散る落ち葉。そして冬には、降り積もった雪」
 流れる空気に乗ってふわりと、彼女の髪が発する柔らかな芳香が、俺の鼻先を微かにくすぐる。
 その感触に、つい目を細めてしまう俺。
「いつだって、妹は喜んでくれた。おねえちゃん、ありがとう――布団の中から顔だけを覗かせながら、でもとても嬉しそうに微笑んでくれた。女の子は言ったわ。『いつか元気になったら、ふたりでいっぱい遊ぼうね』って。その言葉に妹は……くすぐったそうに目を細めながら『うんっ』って、そう答えてくれた」
 紡がれる言葉の語尾が、微かに声が震えているような、そんな気がした。
 気のせいだろうか。
 内心でそんなことを思いながら、再び視線を傍らに向ける。
 でもそこに俺の目が見出したのは、ベッドの上で花開くように広がる緩く波打つ長い髪だけで、彼女の表情を捉えることはできなかった。
「でも……」
 ややあってから、香里の声が再び俺の耳朶を打つ。
 静かな調子。
 たったいま感じた、彼女の声の変調が気のせいだったかと思えてしまう、穏やかで、静かで、でも平板な口調。
「ある日、女の子は知ってしまった。現実というものの冷たさを、どうしようもないくらいの絶望と共に」
「…………」
「だから女の子はその日、ひとりで野原に行った。ずっと我慢していた涙を、妹の前では見せないと心に誓った涙を、人知れず流す為に」
 無数の人が行き来する往来。
 その中を悄然とした様子で、視線を足下に落としながら無言で歩き続けるひとりの少女。
 周囲を覆っていた人波は、徐々にその数を減じてゆき、やがて誰ひとりとして彼女の姿を認めることのない場所にたどり着く。
 野原に。
 薄が一面に生い茂る、その場所に。
「そこで女の子は、ひとりの男の子と出会った」
 声の調子が、少しだけ生気を取り戻す。
「話をしたのはほんの少しの間だけ。どこの誰なのかも知らない、その男の子と言葉を交わした女の子は、小さな希望の灯火をその胸に抱くことができるようになった」
「どんな話を……したんだ?」
 でもその問いかけに、返答はなかった。
 代わりに返ってきたのは、緩やかに波打つ長い髪を揺らしながら振られる、首の動きだけ。
「覚えてない、ってことか?」
「違うわ。忘れたの、自分の意志でその女の子は。何年か経って、ようやく気付くことができた自分が裏切られたんだって思いを認めたくなかったから、騙されただけなんだって事実を信じたくなかったから」
「…………」
「だから、女の子は忘れたの。その男の子の顔も、声も、交わした言葉も……全部全部心の奥底に閉じこめて、二度と思い出すことのないように、鍵を掛けてしまった」
「でも……」
 後を継ぐように不意に口を開いた俺は、ちらりと彼女に視線を向ける。
 でも、香里からの反応は何もなかった。
 だから俺は、そのまま言葉を続けた。
「……全てを忘れたはずの女の子は、でもたったひとつだけ忘れ損なったんだろ。そいつの……名前だけを」
 ずっと長い間、欠けたままだったパズルのピースが、ようやくひとつ埋まった思いだった。
 忘れ得なかった名前。
 だからこそ、香里はそれを自ら口にすることを忌み続けていた。
 俺と同じ名前、「ゆういち」というその一言を。
 沈黙が俺たちの間を押し包む。
 室内を覆う宵闇の中に、全てを包み込んでゆくかのように。
「これで、あたしの話は終わり」
 紡ぎ出された言葉の裡に、後悔ともつかない微かな音色を漂わせながら、ぽつりと口を開いた。
 そんな彼女を前に俺は、少しだけ思案した後、
「そう言えば、この話のタイトルを聞いてなかったな」
「…………」
「あるんだろ、タイトル?」
 返事はない。
 これで何度目になるか分からない、静寂だけが世界を支配する。
 長い長い間。
 そして永遠に続くかと思えるほどの沈黙の後、微塵も感情を感じさせない声音を伴わせながら、
「……『初恋』」
「え?」
「タイトルよ。この物語の――」
 そう言いながら、何を思ってかそっと俺の髪を撫でてゆく。
 優しく、そして穏やかに。
 眼前に佇む彼女を前に俺は、胸の奥に微かな痛みを覚えながら「そっか」と、ようやくそれだけを口にする。
「……ええ」
 目を伏せながら、呟く香里。
 その様を、言葉を失ったように無言で見据え続ける俺。
 次の瞬間、すっと影が動いた。
「…………」
 その動きに合わせるように俺は、ベッドに横たわったまま視線だけを動かしてそれを追う。
 香里が立ち上がっていた。
 暗闇に包まれた室内の中で、俺と彼女の視線が、まるで言葉に代わるように交錯する。
 刹那の沈黙。
 聞きたいことは、まだ幾つもあった。
 でも……。
 結局俺は口を閉ざしたまま、ただ彼女を見つめ続けていた。
 世界の全てが動きを止めてしまったかのような、痛みすら伴う凍てついた空気の中に存在する、そんな静けさ。
 その中にどれくらい佇み続けていたのか、しわぶきひとつ立つことのなかった水面に、不意に一石が投じられる。
「さんきゅ」
 俺の口から広がる、小さなさざ波。
 ゆっくりと輪を広げていったそれは、やがて彼女の鼓膜を震わせる。
 微かに揺れる、香里の瞳。
 でもそれを目の当たりにしたのは一瞬のことで、次の瞬間くるりとその場で身を翻して見せると、
「……もう、帰るわね」
 ぽつりと、それだけを口にする。
 そしてドアに向かって動き出す彼女の背中を見据えながら俺は、
「行くのか。今日も」
「…………」
 返事はなかった。
 でも俺には、それで十分だった。
 そう、彼女は行くのだ。
 今日も。
 あの場所に。
 かちゃりと、ドアの開かれる音がする。
 香里は一度だけ肩越しに俺のいる背後を振り返ると、でも無言のまま廊下へと姿を消した。
 床を踏む、微かな足音だけを残して。

                  §

「ん……っ」
 目覚めた途端、光に満ちた世界が目の前に現出した。
 溢れ返る光に抗するように、開いたばかりの目をわずかに細める俺。
 しばらくの間、そのまま周囲の明るさに目が慣れるのを待ってから、ゆっくりと身体を動かす。
 昨日までの状態が嘘だったかのように、身体はその命に素直に従って、半身をベッドの上に起きあがらせてくれた。
 窓を通して、晴れ渡った空が見えていた。
 冬の、凛とした雰囲気をその身に漂わせている、真っ青な空が。
 床に足を下ろす。
 素足に触れる床板の微かな痛みを伴った冷たさが、目の前にある現実が夢でも幻でもないことを、物言わず俺に語りかけてきていた。
 ずっと寝たきりで過ごしていたせいだろう、どことなく身体が重い。
「よっ……と」
 小声で合いの手を入れながら、準備体操よろしく首や身体のあちこちを捻り、淀み溜まっていた気怠さを体内から振り払った俺は、それで改めて自らの体調が回復していることを自覚する。
 うん、大丈夫だな。
 ひとりごち頷きながら室内を見渡した俺の目が、壁に掛けられた制服のところで止まる。
 二日前、降りしきる氷雨に打たれてしとどに濡れていたはずのそれ。
 でもいま目の前にある制服は――多分秋子さんがアイロンをかけておいてくれたのだろう、新品同様の状態でそこにあった。
 手を伸ばし、制服を取る。
 そして着替えを済ませるべく、随分長い間着続けていたように思える寝間着を脱いでゆく。
 別段、制服を着る必要はないはずだった。
 窓から射し込む陽射しの傾き具合からして、恐らく午後も結構いい時間になっているだろう今から学校に行ったところで、それこそHRに顔を出して終わりになる可能性が大だった。
 それならば今日一日はゆっくり静養して、明日から行けば……脳裏の片隅をそんな思いがよぎる。
 それは多分、正しい意見に違いなかった。
 でも……。
 頭でそう考えながらも、俺は手を止めることなく無言で制服に袖を通した。
 学校に行くために。
 行って、そして彼女に会うために。
 世界が一番深い眠りについている頃、俺の前から去っていった彼女がいるだろう場所に、赴くために。
 ――自惚れかな。
 内心で、自嘲気味にそんな呟きを漏らしてしまう。
 約束をした訳でも無かった。
 来てくれと頼まれた訳でもなかった。
 もし俺がその場に訪れたとしても、多分彼女は顔色ひとつ変えることはないだろう。
 ただ無言で。
 いつものように、窓の向こうに広がる黄昏を網膜に焼き付かせながら、俺の来訪を事実として受け入れるだけ。
 端から見れば、何の意味もない行為に見えるかもしれない。
 ただの自己満足に過ぎない、と。
 でも……それでも俺は、彼女の許に赴かなければならなかった。
 何故なら、そうすべきだと決めたから。
 香里が見ているもの、見ようとしているものをこの目で、そしてこの肌で感じ続けようと決めていたから。
 それに、果たして何の意味があるのかは分からない。
 それでも構わなかった。
 ただ彼女の側にいてやりたい……その思いだけが、理屈抜きでいまの俺を突き動かしていた。
 着替えを済ませた俺は、そのまま部屋を後にしようとドアに手をかける。
 その時ふと、壁に掛けられたカレンダーに目がゆく。
 無味乾燥なデザインに満たされた、何の変哲もない一月の日付だけが羅列されている紙片。
 無言のまま手を伸ばし、その表面をなぞるように指先を動かしてゆく。
 描かれた数字の上を指が触れる度、それが記憶のスイッチだったかのように、過ぎ去った過去の出来事が脳裏に思い起こされた。
 七年ぶりに戻って来た、雪に包まれた北の街。
 そこで出会った少女たち。
 名雪。
 あゆ。
 香里。
 そして……栞。
 まだ一ヶ月と経っていないはずなのに、でもどうしてなのか、俺の中でそれはまるで遠い昔の出来事のようにも思えてしまう。
 一日、二日――。
 一週間、二週間――。
 やがて指先は今日の日付、一月三十日の上でその動きを一旦止める。
 あと二日。
 一年の最初の月が、それで終わる。
 そしてその翌日には過去のものとなった月が破り捨てられたカレンダーは、新しい月の到来を物言わずに告げるのだ。
 でも、俺は知っていた。
 誰もがそれが当然だと思う途切れることのない時の流れを、何の苦もなく越えられるはずの月の狭間を、越えることの出来ない少女がいることを。
 あと二日。
 それだけの時を経た後……次の誕生日を迎えることが出来ないと医者に宣告された、少女の誕生日がやってくる。
 苦しみと、悲しみのプレゼントを伴いながら。
 心のどこかに耐え難いものを感じてしまった俺は、大きく頭を振って体内に巣くう暗い情念を振り払う。
 そしてその場で身を翻すと、今度こそ部屋を後にした。
 廊下は、しんと静まり返っていた。
 今日は土曜日だったから、授業は半日で終わっているはず。
 でも恐らくは部活に精を出してるのだろう、名雪はまだ帰ってきていないようだった。
 薄暗がりに包まれた廊下を抜け、階段を下りる。
 辿り着いたリビングにも、人の姿は無かった。
 てっきり秋子さんはいるだろうと思っていたのだが、どうやら仕事か買い物にでも出かけてしまっているらしい。
 静まり帰るリビングの前で、何とはなしに立ち尽くしてしまう俺。
 レース地のカーテンを通してこぼれ落ちてくる陽射しが、俺の足下を柔らかく包み、暖かな温もりを床に広げていた。
 ……ぐーっ。
 腹が鳴る。
 その音で、どことなく感傷に浸っていた俺の意識は、否応なしに現実に引き戻された。
「ったく」
 現金な自分の身体に悪態を付きながら、リビングに足を踏み入れた俺は、そのまま自らの生理的欲求を満たすべく、台所へと向かう。
 冷蔵庫を開けた俺は、そこにラップで封をされた鍋があるのを見出す。
 取り出して中を覗いてみると、どうやらシチューらしかった。
「昨日の……残り物か?」
 小首を傾げながら呟いた俺だったが、疑問は疑問としてとりあえずすぐに食べられそうなものが見つかったとばかりに、電子レンジに放り込んで、再加熱を加える。
 待つこと五分、盛大に湯気を立ち昇らせる鍋を手にテーブルへと向かった俺は、スプーン片手に、何日かぶりのまともな食事にありつくべく席に着く。
 その時だった。
 テーブルの上に、布巾の被せられた何かがあることに気付いたのは。
「…………」
 鍋に向かって振り下ろすべく掲げられた右手はそのままに、一瞬動きを止めてしまう俺。
 そして握り締めたままだったスプーンを、一旦テーブルに戻す。
 布巾をどけてみる。
 そこには、シチュー皿にナイフとスプーン、そして籐籠に乗せられたクロワッサンの山があった。
「何で……?」
 少しの間、それを前に思案に暮れてしまう俺。
 そして程なく、結論に達する。
 秋子さんに違いなかった。
 恐らく目を覚ましてから空腹に襲わた俺が、冷蔵庫の中にあるシチューを見つけだすだろうことを予め予想して、わざわざ用意しておいてくれたものに違いなかった。
 つまり秋子さんは、俺が鍋ごとシチューをかっくらおうとするだろうことまで、見越していた訳だ。
「お見通し、って訳か」
 相変わらず凄いと言うか、何というか……。
 鈍い光沢を放つ皿を前に俺は、秋子さんの偉大さを改めて噛み締めながら、シチューを器に盛る。
 そして食事の挨拶もそこそこに、今度こそマナーもへったくれもない食いっぷりで、皿の中身を口の中へと流し込み始めた。

                  §

 賑やかなはずの商店街を、どこかもの悲しい雰囲気が覆っていた。
 空を仰ぎ見る。
 赤い空。
 赤い雲。
 全てが、世界の全てが赤一色に染め尽くされていた。
 黄昏時。
 昼夜の境界を為す、昼でも夜でも無いそんな曖昧な時が、いま俺の前に広がっていた。
 腹ごしらえを済まし、家を後にした俺。
 降り積もった雪道を踏み締めながら学校へと続く道を辿っていた俺は、本来の道筋から外れるように途中の角を曲がる。
 家を出てから、自分が手ぶらだということに気付いたからだ。
 そう……黄昏の中にひとり佇んでいるだろう香里へ渡すべき手みやげを、どこかで調達しなければならなかった。
 それはいまの彼女に、俺がしてやれる数少ない行為であり、同時に自らに課した義務でもあったから。
「今日は……どうするかな」
 財布の中身を確かめ、何を買っていこうかとぼんやりと思案に暮れながら、人混みに溢れているだろうアーケードの中へ足を踏み入れた。
 そして俺は、目の前の光景にふと違和感にも似た思いを抱く。
 なんだろう。
 答えはすぐに見出された。
 そう……立ち並ぶ店の前に広がる道のどこからも、不思議なくらいに人気が失われていたのだ。
 買い物帰りの主婦も。
 放課後を楽しむ学生も。
 仕事帰りのサラリーマンも。
 いつもなら、そんな様々な人の流れに満ちているはずの場所が、まるでうち捨てられたかのように閑散としていた。
 誰もいない、という訳じゃない。
 道の最中で立ち尽くす視界の中には、道を行き来する人影はぽつりぽつりと散見される。
 でも、それだけ。
 いまがとても夕暮れ時とは思えない、そんな寂しげな光景が、瞳に映し出されるばかりだった。
 その時ふっと、頭の片隅から記憶の欠片が浮かび上がってくる。
『女の子が男の子と出会ったのは、野原の中』
 香里の声。
『空を真っ赤に染める夕焼けと、舞い落ちてくる粉雪を背景に、風に揺れる薄がきらきらと黄金色に輝くその場所で、ふたりは出会った』
 問わず語りに、穏やかな口調で紡がれた……昔話。
 出会った男の子。
 俺と同じ名を持っているらしい、俺じゃない誰か。
 彼女の初恋の相手。
 一度きりの刹那の邂逅を経て、彼女の心の中に残された、騙され裏切られたという思い。
 それは誰なのか。
 もしかして、俺なのだろうか……それは彼女の話を聞いてから、何度となく内心に浮かび上がってきていた疑問。
 でも俺は、その問いかけに明確な答えを返すことができなかった。
 あちこちが抜け落ち、穴を空けている俺の中の記憶。
 どんなに思いだそうとしても、まるで霞がかかったかのようにそれは、白日の下に曝け出される頑なに拒み続けていた。
 そこにあるのだろうか。
 俺ではない誰かの……同時に、俺自身のものかもしれない記憶が。
 少女を傷つけ、悲しみの淵に佇ませた思い出が。
「……祐一君」
 その時だった。
 ぼんやりと足を動かし続けていた俺の意識を、現実に引き戻すように傍らからかけられた声。
 聞き覚えのある声。
 女の子の声。
「……祐一君」
 俺からの返事を待つことなく、もう一度紡がれる言葉。
 目を凝らす。
 赤く染まった世界の中から、滲み出てくるように浮かび上がる人影。
 そこに俺が見出したのは、この場で巡り会うのがすっかりお馴染みと化した少女だった。
「なんだ、あゆか」
 声の主が誰なのかを確かめて、安堵の吐息混じりに口を開く。
 頭の中を漂い続けていた思考の欠片を一旦心の奥底に押しやり、改めてあゆに意識を振り向ける。
「…………」
「久しぶりだな。元気だったか?」
 一歩、彼女に向かって歩み寄る。
 どうしてだろう、普段から小柄な少女の身体が、今日は一層小さく見えるような気がした。
 そのことに、かすかな疑念を抱く。
 何だろう……。
 でもそれが明瞭な形を取る前に、ぽつりとあゆが言葉を紡ぐ。
「祐一君、あのね……」
 髪も。
 顔も。
 服も。
 そして背中の羽も……全てが黄昏の、寂しげな色に染まっていた。
 ぱたぱたと、白かったはずの羽が赤と黄色の折り混ざった色にその身をやつしながら、弱々しく揺れ動く。
「探し物、見つかったんだよ……」
 探し物。
 ずっと彼女が探していたもの。
 それが何なのか、俺には未だに知る機会の与えられていない何か。
「良かったじゃないか」
「……うん」
「大切な物だったんだろ?」
「……うん」
「大切な……本当に大切な物……」
 どうしてだろう、本来ならもっと喜んでいいはずなの、でもあゆはどこか寂しげな色を浮かべ続けていた。
 切れ切れな声。
 沈鬱な表情。
 それはまるで、本当は見つからない方が良かったと、そう言いたげに思えてしまうような、そんな様子だった。
「見つかって良かったな、あゆ」
 笑顔を浮かべながら、俺は言う。
 そうすれば、彼女も笑顔を浮かべてくれるのではないかと思って。
 いつも見せてくれる、あの屈託のない笑みを俺に向けてくれることを、心のどこかで期待して。
 でも、彼女は無言だった。
 じっと俺の顔を見据えながら、次の言葉を探しているかのように。
 雲の影が、ゆっくりと赤く染まった地面の上を流れてゆく。
 その雲の流れに合わせるように、あゆの口から言葉がぽつりぽつりと紡ぎ出される。
「あのね……探していた物が見つかったから……ボク、もうこの辺りには来ないと思うんだ……。だから……祐一君とも、もうあんまり会えなくなるね……」
「……そう、なのか?」
 意外すぎる一言。
 だから俺は、そう返すだけで精一杯だった。
 刹那の沈黙。
 そして小さく頷いてみせたあゆは、
「ボクは、この街にいる理由が無くなっちゃったから……」
 消え入るような小さな声で、それだけを口にする。
 俯きがちに視線を足下に落としながら、まるで別れの言葉を告げようとしているかのように。
 だからだろう。
 そんな彼女の言葉の中に含まれる、別離の匂いを振り払うかのように、俺は笑顔を浮かべながら、
「だったら、今度は俺の方からあゆの街に遊びに行ってやる」
「……祐一君」
「あゆの足で来れるんだから、そんなに遠くないんだろ?」
「…………」
「また、嫌っていうくらい会えるさ」
「……そう……だね」
 消え入るように小さなその声は、ふたりの間にある空気を震わせて、かろうじて俺の耳に届いた。
 赤く染まった世界。
 赤く染まったあゆ。
 赤く染まった俺。
 そして俯かせたままだった顔をゆっくりと上げたあゆは、ふにゃっと表情を緩ませると、
「ボク……そろそろ行くね……」
 そう言って、ゆっくりと黄昏に包まれた世界に向かって小走りに駆け出す。
 少しずつ小さくなってゆく、彼女の肢体。
 長く伸びる影。
 そして影の先から、風に乗って漏れ聞こえてくる言葉。
「……ばいばい、祐一君」
 そんな彼女に掛ける言葉さえ見出すことの出来ないまま、俺はあゆの背中が見えなくなってゆくのを、見つめ続けていた。
 ただ、呆然と。
 そうしてどれくらい経った頃だろう、ふと気がつけばいつの間にか途絶えていたはずの人波が蘇っていた。
 行き来する、顔も名前も知らない無数の人々。
 ざわめきが冬の空気を通して、俺の身体を揺さぶり動かす。
 黄昏は、いよいよその色合いを濃くしながら俺と、そして世界の全てを単色に染め上げてゆく。
 その中を無言で立ち尽くしながら俺は、無意識に呟きを漏らしていた。
「今日は、鯛焼き……だな」
1月31日(日)に続く

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