くすぐるように鼻先をかすめてゆく消毒液の匂いが、ツンとくる刺激臭と共にかすかな不快感を俺に中に生じさせていた。
からからと、廊下の先から聞こえてくる車輪の音。
誰に聞かれるのを気にしているのか、ひそひそと小声でささやきながら俺の横を通り過ぎてゆく看護婦たち。
とんでもなく場違いな所に来てしまった気分だった。
いや、実際そうなのかもしれない。
病院。
俺がすごす日常の中で、そこはどこよりも縁遠いはずの場所だった。
でもいま、俺はそこにいる。
ただひとつの目的を果たすために。
廊下を病棟の奥へと進んでゆく、その足取りは重かった。
傍目には、重くて仕方がない足を無理矢理動かしている風に見えているかもしれない。
一歩進んでは足を止め、そしてまた一歩……そんなことを繰り返しながら、目指す場所に向かい続ける。
どうしてこんなに足取りが重いのか。
分かっていた。
それは俺の中にある、互いに相反するふたつの思いのせい。
前に進み続け、その先にある現実をこの目で直視しなくてはならないのだという思い。
そして現実から目を背け、この場から逃げ出してしまえ訴えかけてくる、もうひとつの思い。
前者が足を動かし、後者がそれを掣肘する――その結果、俺の歩みは自分でも腹立たしくなるほどに鈍く、重いものになっていた。
それでも着実に、目的地に向かって進み続ける俺の足。
ゆっくり、ゆっくりと。
どれくらいそんなことを繰り返しただろう、やがて白一色に染められていた廊下の壁の一方が、切り欠いたようにその色を失う。
ぽっかりと、そこだけ穴が空いているように中を見通すことができた。
もちろん本当に吹き抜けになってる訳じゃなく、壁に代わってそこには分厚いガラスがはめ込まれていた。
ここが、俺の目指していた場所。
月明かりの射し込む、夜の部屋で紡がれた物語。
その中に登場する少女――生まれつき身体が弱く、少しでも無理をするとすぐに体調を崩し、いっぱい熱を出して、いつだって痛みと苦しさでぽろぽろと涙をこぼし続けていた――が、今という時を過ごしている場所。
ガラスの壁のほぼ中央、そこだけ出入りが可能なように自動ドアになっているらしい場所に、俺は大きく書かれた文字を見出す。
『ICU(集中治療室)――それがあの子の行き先』
同時に、脳裏を香里の言葉がよぎった。
感情を心の奥底に押し込めるように淡々と、ただ事実だけを語る静かな口調。
『家族の看病の手すら届かない、ガラスに覆われた小さな部屋の中で、あの子はいまもひとり苦しみ続けているわ』
ここに居るのだ。
栞が。
中の様子をのぞき見ることはできるのに、でも決して手は届かない場所。
その有り様は彼女が俺の手の届かない、遠い空の彼方に旅立ってしまったかのような錯覚を覚えさせてくれもした。
錯覚?
そう思った次の瞬間、俺は心の中で嘲笑する。
それは錯覚なんかじゃない。
まぎれもない現実なのだ。
ガラスの向こうで苦しみ続けることと、空の彼方に度だってしまうこと、それは結局等価なのだ。
何故なら、どちらにしても俺の手が届かない場所なのだから。
見ることもできない。
触れることもできない。
声を聞くこともできない。
そして……笑みを交わすこともできない。
それが現実。
ひとりの少女に、どうしようもないほどの絶望をもたらした、辛く悲しいばかりの現実。
その階にいま、俺はたたずんでいた。
「あの……すんません」
横を通り過ぎようとしていた看護婦に声をかける。
カルテを束ねているらしいクリップボードを小脇に抱えた彼女は、俺の呼びかけに足を止め、振り返る。
「はい?」
「俺、知り合いの見舞いに来たんですけど……」
「そうなんですか」
営業スマイル――看護婦にもそんなものがあるのかどうか俺は知らなかったけれど――を保ったまま、相づちを打つ。
でも、それきり俺が次の言葉を探しあぐねるように黙り込んでしまうと、それをどう受け取ったのか看護婦は、
「あ、もしかしてお知り合いがどこにいらっしゃるのか分からないのかしら?」
「え。あ、いや……」
「病室の番号か、患者さんのお名前を教えてもらえますか? この辺りの病棟でしたら、内科か小児科ですね」
どうしよう――屈託ない様子で話し続ける看護婦を前に、頭の片隅をちらりとそんな思いがよぎる。
だって俺は、既に知っていたから。
教えられるまでもなく、彼女がいまどこにいるのかを。
「名前は……美坂栞。受付で、ここにいるって……」
言いながら、ちらりとガラス越しに見える風景に目を向ける。
その途端、看護婦の表情がわずかに硬くなった。
そう、俺にだって分かっていた。
いかにも清潔を旨とする病院らしく曇りひとつなく磨き上げられた、このガラスを挟んだ向こう側にある世界が、どんな場所なのかってことくらいは。
そこは、たぶん空に一番近い場所。
同時に、人の手の一番届かないだろう場所。
「……そう」
ぽつりと、看護婦が呟く。
ついさっきまでのほがらかな口調を一変させ、どこか後ろめたさでも覚えているみたいな、そんな沈んだ声。
「中には、入れないのかな?」
ゆっくりと身体を、ガラスに向か直らせながら俺は訊ねる。
幾ばくかの沈黙。
そして、再び開かれる口。
「この中には、担当の医師と私たち看護婦しか入れないの。ここは……そういう場所だから」
「親族は? 家族でも入れないのか?」
「たとえ患者さんの家族でも、基本的にこの中には入れないわ。そういう決まりだから」
「でも基本的ってことは、例外もあるんだろ?」
その例外がどんな状況で起こり得るものなのか、内心で察しながらも俺は更に看護婦を問い詰める。
今度の反応は早かった。
「ええ。患者さんに……よほどのことが起こった時だけは」
「そっか」
「ごめんなさい」
ぺこりとお辞儀をしてみせた看護婦は、そのままこちらの返事も待たずに去っていった。
つまりは、そういうことか。
これが現実なのだ。
どうしてか、笑いがこみ上げてきた。
眼前に存在する冷たい現実と、遠からぬ未来に確実に訪れるはずの悲劇。
そのどちらに対してもなんら為す術を持たない我が身の矮小さが、どうしようもなく滑稽に思えてしまったのだ。
本当に声を出して笑い出しそうになった俺だったけれど、自分のいる場所がどこなのかをとっさに思い出し、すんでの所でこらえる。
こらえた笑いと入れ替わるように、今度はどうしようもない無力感と、そんな自分に対するやり場のない憤りがわき起こってきた。
怒りに任せて、ガラスに拳を叩きつけたくなる。
その衝動を意思の力でかろうじて抑え込んだ俺は、代わりに伸ばした腕の先にある掌で、ガラスの表面にそっと触れた。
「冷て……」
ややあってから、ぽつりと口を開く。
指先に覚えた硬質な感触と冷たい肌触りは、それがまるで現実の冷たさと厳しさを伝えてくるように……俺には思えた。
§
目の前をなにかが、ふわりと流れるように横切っていった。
「ん?」
周囲を見渡してみたけれど、何もない。
虫……だろうか。
暖房の効いた屋内ならともかく、真冬のこんな場所に虫なんか飛ぶものだろうかと、ふとそんなことを思ったりもする。
周囲は、おだやかな喧噪に包まれていた。
傾き始めた陽光に合わせて、少しずつ紅に染まってゆく街並み。
店々の立ち並ぶアーケードは、週末ということもあってか性別も年齢もまちまちなたくさんの人たちで賑わっていた。
空は晴れ渡っていた。
遠く彼方にたなびくように雲が浮かぶばかりの、一面の青空。
何となく、その空を見上げ続ける俺。
その時だった。
粒のようななにかが、またすっと視界の中に入り込んでくる。
ふわふわと中空を踊るように上下左右しながら、そのままいずこかへと去っていったと思うと間もなく、別の粒が俺の前に踊り出る。
「雪……か」
ようやく合点がいったように、俺は小さく呟いた。
そう、それは雪だった。
たぶん山の方から風に乗って飛んできたのだろう、粉のような白く小さなつぶてが、青と赤の入り交じった空に無数の点描を描き出していた。
風花。
頭の片隅に、そんな言葉がふっと思い浮かぶ。
少し離れた場所から、小学生くらいの子供たちが両手を空に掲げながら嬉しそうに「わぁっ、風花だよーっ!」そうはしゃぐ声が聞こえてもきた。
背中を打つその声に口元をゆるめながら、俺は本来の目的地へと向かって歩き続けた。
アーケードの少し奥まった場所にある、何の変哲もない小さな屋台。
「おっちゃん、鯛焼き三つ」
ポケットから小銭を取り出しながら、屋台の中にいる見るからに人の良さそうなオヤジに向かってオーダーを口にした。
景気のいい返事と共に、袋に詰められた鯛焼きが差し出される。
金と引き替えにそれを受け取ると、袋からもうもうと湯気を立てているそれを両手で抱えながらその場を後にした。
「これでよし、と」
袋越しに伝わってくる鯛焼きの温もりを肌に感じながら、小さく頷く。
自覚は無かったけれど、いつの間にか結構冷えてしまっていたらしい俺の身体に、その温もりは結構心地良かった。
思わずその場で一匹、かぶりつきたい衝動にかられてしまう。
が、それをどうにかこらえる。
いま食べてしまったら、向こうで俺の食う分が無くなっちまうから……と、そこまで思ったところで、ふと奇妙な事実に気が付く。
「なんで三匹も買ったんだ、俺?」
袋の中をのぞき込むと、そこには相も変わらず白い湯気を立てている鯛焼きが三匹。
ふたり分しか必要ないはずなのに。
なのに、どうして……。
風花が舞い散る中、小首を傾げてしまう俺。
もしかすると、鯛焼きということで無意識のうちにあゆの分も買ってしまったのだろうか。
そう考えれば納得がいく気もしたけれど、でも同時にどこか釈然としない部分も残っていた。
昨日の今頃。
やはり買い食いのネタを求めて商店街を訪れた俺の前に、いつもと同じくなんの前触れもなく姿を見せたあゆ。
夕日で赤く染まった彼女の顔には、どこか所在なげな、寂しげな色が見え隠れしていた。
捜し物が見つかったと、彼女はそう告げた。
つぶやくような、小さな声で。
そして捜し物が見つかったから、この街に来ることも余りなくなるだろうと、そう付け加えもした。
『……ばいばい、祐一君』
最後に耳にした、あゆの言葉。
それは、別れの言葉。
もう、二度と会うことがないみたいに……瞳をかすかに揺らしながら紡がれた言葉
徐々に小さくなってゆくそんな彼女の背中を、俺はただ無言で見送ることしかできなかった。
どうしてなのか。
俺はどうして、あの時「またな」そう言ってやることができなかったのか。
そうしてさえいれば、もしかしたらその場でくるりと身を翻したあゆは、俺に向かってぶんぶんと大きく手を振りながら、
「うん、またねっ。祐一君っ!」
満面の笑顔と共に、そう言ってくれたかもしれないのに。
でもそれも、いまとなっては俺の中にだけ存在する、実現することのなかった過去の可能性。
黄昏の中を、溶けるように消えていったあゆ。
その背中を無言で見つめながら、またいつかきっと会えるさ……そう思っていた俺は、でも同時に内心でその正反対のことを思ってもいた。
あゆとはもう二度と会えないんじゃないかという、そんな予感が。
代償。
唐突に、そんな言葉が心の片隅をよぎる。
なにかを手に入れるために払う、犠牲。
俺がなにかを手に入れてしまったせいで、その代わりにあゆが俺の前から姿を消したのではないか。
それがなんなのか、俺には分からない。
でもそう考えれば、あの突然の別れの意味が、少しだけ理解できるような気がした。
「馬鹿馬鹿しい……」
そこまで考えたところで、俺は吐き捨てるように口を開く。
なにをそんなにナーバスになってるんだろう、俺は。
大丈夫、あいつのことだから、きっと何日かしたらまたいつもの調子で、突然に俺の前に姿を現すに決まってる。
そして、きっとこう言うのだ。
「うぐぅ。またぶつかっちゃたよー、祐一君」
きっとそう。
そうに決まってる。
ひとりごち小さく頷き、頭の中から余計な考えを振り払った俺は、紙袋に手を突っ込むと鯛焼きをひとつ取り出す。
そして口の端を少しだけ緩めながら、
「せっかくひとつ余計に買っといてやったのに、姿を見せないお前が悪いんだからな……あゆ」
呟きながら、ぱくりと頭から鯛焼きにかぶりついた。
熱いくらいの舌触りと共に、ほど良い塩加減の衣とあんこの甘さが、口の中一杯に広がる。
「ん……美味い」
鯛焼きをくわえたまま、その場から駆け出す俺。
残る二匹の鯛焼きを抱えながら。
無数の風花が、なおも世界を彩らんとするかのように舞い続ける中、香里がいる学校へと向かうために。
§
校門にたどり着いた時、空は夕焼けの赤一色に埋め尽くされていた。
ここまで走り通しだったせいで少し息が切れていたけれど、でも俺は立ち止まることなく校門を駆け抜けた。
日曜日の夕方という時間のせいなのかもしれない、いつもより幾分影を濃くしながらそびえ立つ校舎に、どことなく寂しげななにかを覚えてしまう。
校庭には、誰の姿も認めることができなかった。
部活の生徒のひとりやふたりはいるんじゃないかと思っていたのに、どうやら俺が思っていた以上に、休日の夕暮れ時まで練習するような熱心な生徒は少ないらしかった。。
みんな、貴重な日曜を学校以外のどこかで有意義に過ごしてるってことか。
頭の片隅でそんなことを思いながら俺は、校舎に沿うように敷地の奥に向かって歩を進めてゆく。
やがて中庭と、その先でもの言わずに佇む木造校舎が見えたところでスピードを落とし、人気の無い昇降口に辿り着いたところで、
「はぁっ。到着……っと」
息継ぎをするように大きく息を吐きながら、呟きを漏らす。
光の失われた廊下は、薄暗がりを伴いながらぼんやりとした輪郭と共に、奥へと続く道を示していた。
この先に彼女が――香里がいるのだ。
いつも通りに。
見慣れた制服の上にチェック地のストールを羽織りながら、言葉無く窓の向こうに広がる黄昏の園を見つめ続けているのだ。
中に入る前に、一度だけ背後を振り返り、庇の先にある空を仰ぎ見る。
紫雲。
紅に包まれた空のただ中を薄くたなびく雲が、白いはずのその身を赤と黒、そして紫の複雑な色合いにその身を染めながら、どこか所在なげな様子で浮かんでいた。
未だ降り続けている、無数の風花の中を。
「…………」
風に押されてゆっくりと視界の中を横切ってゆくそれを、しばらくの間ぼんやりと眺め続ける。
どれくらいそうしていただろう、抱えていた紙袋が発したかさりという音に我を取り戻した俺は、踵を返して旧校舎の中に踏み入った。
暗がりの中、ぎしぎしと立て付けの悪い音色を立てる廊下を奥へ奥へと進み、幾つかの教室を横目に通り過ぎた後、その先で行き足を止める。
そこにあったのは、いまではすっかり見慣れたはずの光景だった。
真っ赤に染まった教室。
壁も。
机も。
椅子も。
黒板も。
そして、その場に存在する人間すらも。
窓から射し込む夕日が、暴力的とも言える強制力をもって全てを赤一色に染め尽くしていた。
求める姿を見出した俺は、内心少しだけほっとする。
長く緩やかなウェーブを描く髪で背中を覆い隠す少女は、周囲の風景に溶け込むように静かに、その場に佇んでいた。
「よぅ、かお――」
挨拶を途中まで口にしかけた、その時だった。
心のどこかが、かすかな違和感を覚える。
――何だ?
わずかな間、その違和感の理由を求めて思考を巡らせた俺は、やがてその答えを見出す。
そう、確かに違っていた。
この一週間、すっかり見慣れてしまったはずの光景が、今日に限ってほんのわずかではあったけれど、変化を見せていた。
ひとつは、窓の外の光景。
壁面に穿たれた窓の全てが、今日は黄昏に包まれていた。
見慣れた中庭を映し出す幾つかの窓と、一枚だけ全く違った世界を現出させている窓。
それらが、まるでひと続きの風景を映し出しているかのように、降りしきる風花に彩られていた。
そんな馬鹿な。
思わず内心で、悪態をついてしまう。
実はあの薄野原は書き割りの風景で、本当は全てが中庭を映し出しているとでも言うのか。
あり得なかった。
何故なら、俺は見てきていたのだから。
他の窓が雲に覆われ、夕陽を映し出すことができない時も、その窓だけは何ごともなかったように、黄昏を現出させていた日のことを。
風に揺れる、無数の薄たちと共に。
俺のそんな混乱をよそに、窓の向こうでは何ごともなかったかのように、夕焼け空を背景になおも風花が舞い続けていた。
どうにか平静を保ち続け、窓から目を逸らした俺は、より現実的なもうひとつの違和感の元へと視線を向ける。
そこにいた、ひとりの少女。
ここにいる時は、いつだって椅子に座って窓の風景を見据えていたはずの彼女が、今日に限って何故かその場に立ち尽くしていた。
椅子がないわけじゃない。
それは彼女の傍らに、いつも通りの場所に存在していた。
にも関わらず、香里はまるで目に映る風景に心を奪われているかのように、身じろぎひとつすることなく立ち尽くしていた。
たったそれだけのこと。
普通なら、取るに足らない変化で済ましてしまうだろう光景。
でも、俺には何かが引っかかった。
窓辺に顔を向けているせいで、俺がいる位置からでは背中しか見ることができなかったから、いま彼女がどんな表情を浮かべているかは分からない。
逆にだからこそ、それが俺の内心の不安を否応なしにかき立てていった。
「…………」
時間にしてほんの数秒、無言で彼女の背中を見つめていた俺は、小さく頷くと教室の前で止めていた足を再び動かす。
彼女の許へ歩み寄り、そして言葉をかけるために。
かける言葉は何だって良かった。
「よぅ」
軽く手を上げながらそう言えば、彼女はきっといつも通りにちらりと視線だけをこちらに向け、そして再び窓辺へと視線を戻す。
それで、いつもと同じ時が訪れるのだ。
たったそれだけで。
ぎぃ……床を踏み締める度、油の切れた板が小さな悲鳴を上げる。
ずっと抱えたままの、鯛焼き入りの紙袋が妙に重く感じられた。
一歩、また一歩足を動かすごとに、視界の中の香里の背中が大きくなる。
そしてあと数歩で、彼女のすぐ横に辿り着けそうな所で、俺の耳は鼓膜をかすかに震わせる音色を捉えた。
「あたし……知ってる……」
それは彼女の呟き。
他でもない自分自身に言い聞かせるように、低く小さく紡がれた声。
「この……空」
「香里?」
おもねるように、俺は彼女の名を口にする。
でもその声は、彼女の耳には全く届いていないようだった。
そして彼女の独白は続く。
「あの日も……そう、こんな天気だった。夕焼けで真っ赤だった空の中を……雪が降っていた」
「あの日?」
俺には、香里の言ってることがひとつとして理解できなかった。
彼女の言葉通り窓の向こうには、黄昏を背景にいつ終わるとも知れずに降り続ける風花――粉雪が、赤黒い点描を織り成していた。
不思議な光景。
目の前の窓ガラスだけが映し出す、黄昏の薄野原。
それに降りしきる風花という要素が加わったいま、ガラス越しに広がる光景は幻想的とでも称すべき世界へと変化を遂げていた。
それが香里の中に、何かを想起させている。
俺が未だ知り得ない、彼女だけが知っているだろう何かを。
「行かなきゃ……」
不意に紡がれた言葉。
明らかに声の調子が変わっていた。
平板だった声音に、かすかな感情の因子が含まれ始めていた。
次の瞬間、いままで微動だにすることなく立ち尽くしていた肢体が、突然その動きを取り戻す。
視線は窓に向けたまま、まるで手の先に目が付いてるかのように香里は、すぐ横にあった椅子の背を掴む。
そして勢いをつけるように、掴んだ椅子ごと上半身を捻る。
「うわっ!」
危ういところで背後に飛び退き、椅子との衝突を避ける俺。
そして身体の動きに合わせて揺れ動く、長く艶やかな髪の隙間から見て取れた彼女の横顔に、俺の心臓はどきりと大きく高鳴った。
それはかつて、俺や名雪と馬鹿話をしていた時に浮かべていた悪戯っぽい瞳でもなければ、この一週間ずっと見続けていた、絶望と諦観に満ち満ちた瞳とも異なる……初めて見る色。
まるで何かに取り憑かれているような、そんなどこか妖しげとも言える輝きを宿した瞳。
何が彼女を、そんな思いに駆り立てているのか。
目の前を長い影を引きながら通り過ぎていった椅子が、一瞬静止する。
その次の瞬間、俺が声を上げる間もなく小さな風切り音を発しながら、椅子は再びわずかな残像を残しながら走り抜けていった。
一体彼女のどこにそんな力が、と思えるほどの勢いを与えられたそれは香里の手を離れ、そのまま宙を舞った。
その先にあったのは……。
木が折れる湿った音色と、ガラスが割り砕ける硬質な音色のハーモニーが俺の鼓膜を荒っぽく叩くと同時に、視界一杯に粉々に砕け散ったガラスの破片がきらきらと夕陽を受けながら降り注いできた。
咄嗟に、両手を顔の前で庇うように交錯させる。
ぎぃと床がきしむ音。
同時に、両腕の隙間でかろうじて確保されていた視界の中、黒い影がさっと動く様が見て取れた。
それが何を意味しているかは、考えるまでもなかった。
「香里っ!」
未だ降りしきる、ガラスの雨に構うことなく顔を覆っていた腕をはね除けた俺は、周囲を見渡す。
彼女の姿を求めて。
まだこの場に居続けてくれることを――それが望み薄なことを心の片隅で確信しながらも、一縷の望みを託すように。
でも……教室の中に佇む生ある存在は、俺ひとりきりだった。
「くそっ!」
吐き出すように自らの愚かさに対する呪詛を口にしながら、俺はたったいま割り破られたばかりの窓へと駆け寄った。
§
風が吹いていた。
ガラス越しじゃなく、初めてひと続きの世界として繋がった窓の向こうから、冷たい風が吹き込んでくていた。
真っ赤な空。
降りしきる粉雪。
黄金色に照り輝く薄穂。
全てが圧倒的なまでの現実感を伴いながら、いま間違いなく俺の目の前に存在していた。
窓枠に手を付き、外界に向かって身を乗り出す。
ちくりと、掌に針を刺したような鋭い痛みを覚える。
窓枠の棘かガラスの破片で切ったのかもしれない。
でも俺は、その痛みを完全に無視した。
いまの俺には、たかだか切り傷程度の、そんな些末な出来事に構っていられるだけの心の余裕はなかったから。
「そう遠くには行ってないはずだ……」
内心の不安を誤魔化すように、呟く俺。
正面。
右。
左。
意識の全てを両の眼に集中して、香里の姿を探し求める。
でもどこに姿をくらましてしまったのか、俺は眼前に広がる風景のどこからも求める姿を見出すことはできなかった。
俺の目に映るのは、黄昏に映える無数の薄だけ。
俺の耳に届くのは、揺れ動く薄が立てるかすかな擦過音だけ。
俺の肌が感じるのは、流れてゆく風の感触だけ。
その現実を前に軽く舌打ちをした俺は窓枠に足をかけ、そのまま勢いを付けて窓の向こうに飛び降りた。
一瞬の浮遊感の後、両足が大地を踏みしめる。
膝で着地の衝撃を受け止めた俺は、群れ茂る薄をかき分けながら、早足にその中を歩き始めた。
まるで刈り揃えられでもしたかのように、薄はちょうど俺の胸の辺りの高さに生い茂っていた。
お陰で、視界を遮られることはない。
でもそれは、この薄野のどこかにいるはずの香里にしても同じはずだった。
この薄の高さなら、彼女の姿の全てが覆い隠されてしまうとは思えなかったけれど、でも俺はその姿をどこにも見出すことができなかった。
『あたし……知ってる』
あの時、香里は確かにそう言った。
一面の薄に覆われた、黄昏の園を前にして。
『行かなきゃ……』
彼女は、そうも言った。
窓が割り破られた刹那に垣間見た彼女の横顔は、まるで何かに取り憑かれたような切迫した表情だった。
でも紡がれた言葉から察するに彼女は、明らかに自らが抱く何か明確な意志をもって、この地に足を踏み入れたようにも思えた。
明確な意志。
それは一体何なのか。
頭の片隅で何かが、ちくちくとかすかな刺激を与えてくる。
何かが思い出せそうな気がした。
でもそれは、あと一息というところで俺の中に明瞭な形を取れないまま、違和感ともつかない刺激を与えて来るばかりだった。
「くそっ。一体、どこに行っちまったんだよ……香里」
内心のいらつきをぶつけるように、乱暴な仕草で周囲の薄をかき分け、なおも歩き続ける。
空を見上げれば、普段の三割増で大きく見える太陽が、地平線に向かって着実にその身を躍らせ続けていた。
日没まで、あと一時間くらいだろうか。
それまでに何とか香里を見つけて、連れ戻さないと……そんなことを考えれば考える程に、内心の焦燥は高まるばかりだった。
その時だった。
さっきまで薄の擦れる音しか聞き取ることのなかった耳が、明らかにそれとは異なる音色を捉えたのは。
一瞬、空耳かと思ってしまう。
でも足を止め、改めて耳を澄ましてみると、かすかにではあったけれど確かにそれは聞こえてきていた。
もしかしたら香里かも……一縷の望みを託す思いで、俺はその音が聞こえてくる方に足を向ける。
無駄に音を立ててその音色を聞き逃したりしないよう、歩調を落とす。
少し行ったところで俺は初めて、それが誰かの声らしいことに気付いた。
時折しゃくり上げるような感じで、こもりがちに切れ切れに聞こえてくる小さな音色。
それは……嗚咽だった。
生い茂る薄のたもとで、誰かが泣いているらしい声。
そのことに気付いた途端、俺はその場で足を止めてしまう。
でも、それは一瞬のこと。
すぐに気を取り直した俺は、再び声がする方に向かってゆっくりと、でも着実に近づいていった。
何故なら、迷っている時間はなかったから。
もしそこにいるのが香里なら、一刻も早くこの場から連れ出さなくてはならなかった。
仮にそこにいたのが別の誰かだったとしても、ならその誰かに香里の姿を見かけたかどうかを訊ねるだけのことだったから。
身勝手な理屈だとは思ったけれど、でもいまの俺にはそれしか考えることができなかった。
最後の薄のひと房をかき分ける。
そして、ようやくのことで辿り着いた声の源を前に俺の瞳が見出したのは、抱え込んだ膝の間に顔を埋めるようにしながらその場に座り込み、小さな嗚咽を上げ続ける……ひとりの少女だった。
小学生くらいの背格好をした、肩より少し長いくらいのやや波打つ感じの髪をまとった少女。
一瞬、既視感にも似た何かを覚えてしまう。
既視感?
こんな夢か現かも判然としない場所で見かけた少女に、どうして俺は既視感なんてものを抱くのか。
分からなかった。
たぶん気配を察してだろう、伏せていた顔をぱっと上げた少女が、目の前に佇む俺の姿を認めて「……あ」と、小さな声を上げる。
どうやら、少女は泣いていたようだった。
頬には涙が伝い、泣き腫らしたらしい双瞳は――夕陽を受けて赤く染まる肌とは明らかに異なった色合いで、真っ赤に染まっていた。
凍りついたように、互いに視線を交わすばかりの俺と少女。
ほんの少し前まで、そこにいるのが香里でなければ彼女の行き先を聞くだけだと思っていたのに、いざそれが現実になってみると一体どんな反応を示せばいいのか分からなかった。
しばらくの間、ぐるぐると空回りし続ける頭で思考を弄び続けていた俺は、やがて半ば開き直った態度で、
「よぅ」
と、軽く手を上げながら少女に向かって話しかけた。
その途端、止まっていた時間が再び流れ始める。
膝を抱えていた右手を上げた少女は、その袖口で泣きはらした目をごしごしと擦り、慌てて涙をふき取る。
そして瞳を再度俺の方に向けながら、少し困惑気味な声で、
「……誰?」
そう、訊ね返してきた。
その声を耳にした瞬間俺は、まるで背中に電気を流したかのような、そんな衝撃を覚えてしまう。
聞き覚えのある声。
間違いなく、どこかで聞いたことがあるはずの声なのに……でもはっきりとそれがいつ、どこでだったのかを俺は思い出すことができなかった。
幾つもの記憶の断片が、頭の中をかすめる。
でもそれらは全て、もやもやとした曖昧模糊とした形を見せるばかりで、はっきりとした答えにはならない。
どうして思い出せないのか。
いや、あと少しで何かが思い出せそうな……そんな気がする。
「あなた……誰?」
俺が黙り込んだままだったからだろう、再び少女の口から誰何の言葉が紡ぎ出される。
さっきより、やや強い口調。
どうやら彼女の中で、突然現れた俺に対する判断が困惑から警戒へと変化を遂げつつあるようだった。
確かに少女の立場からすれば、いきなり目の前に見ず知らずの男が現れ、眉をひそめながら立ち尽くしているのを見れば、その様を訝しむのは当然と言えば当然の反応だった。
一体、どう反応したものだろう。
何秒かの間、更なる思案を巡らせた俺は、
「俺は……祐一。祐一だよ」
我ながら芸が無いと思えるくらいの、そんなごくありふれた反応しか返すことができなかった。
§
「誰も来ないと……思ったのに」
少女の口からぽつりと、呟きが漏れる。
それはどちらかと言えば、突然に闖入者である俺に向けられたと言うよりは、自分自身に向けた言葉のようだった。
「悪かったな、邪魔して」
俺の言葉に、少女はふるふると小さく首を振る。
涙は止まっていた。
でもその表情は、すぐにでも泣き出してしまいそうなくらいの悲しみに、未だ縁取られたままだった。
本当なら、すぐにでもこの場を離れるべきだった。
彼女にとって俺という存在は、所詮招かれざる来訪者であり、同時に邪魔者以外の何者でもないはずだったから。
いますぐにでも身を翻して彼女に背を向け、生い茂る薄の中にその身を溶け込ませれば、それで全てが終わるはずだった。
俺は香里を探していた。
少女はたぶん、誰にも邪魔されずに泣きたかった。
そう、それだけのことで互いの利害は一致するはずだった。
でも……
しばらくの間、無言で立ち尽くしていた俺はゆっくりと足を踏み出し、座り込んだ薄の上から俺を見上げる少女の許に近づいてゆく。
向けられた彼女の視線が、痛いほどに感じられた。
でもその一切を無視して少女の傍らにまで辿り着いた俺は、立ち並ぶ薄を折り倒しながらその場に座り込んだ。
間を取るように一度目を閉じ、内心で小さく頷くとすぐに見開く。
そして頭上に広がる空を見上げながら、
「変な天気だよな。晴れてるのに、雪が降ってるなんて」
「…………」
返事は無かった。
真っ赤に染まった空と、黄金色に輝く薄、そしていまなお降りしきる小雪だけが、俺の目に映るものの全てだった。
「知ってるか? こういうの『風花』って言うんだってさ」
ちらりと横目で少女を見やりながら口を開いた俺だったが、でも肝心の少女はいつしか俺に向けていた視線を逸らし、ぼんやりと足下に視線を向けてしまっていた。
……外したか。
小さくため息をつく俺。
でもすぐに気を取り直し、改めて傍らの少女の姿に目を向ける。
いまだ世界の大半を覆う黄昏は、彼女の上にも等しくそのベールを投げかけてきていた。
真っ赤に染まる、小さな身体。
厚手のコートに包まれた細く華奢な感じの身体は、いまの彼女の心の中を大半を占めているだろう悲しみのせいで、より一層小さく見えた。
でもその横顔は、どこか大人びた印象を強く与えるものだった。
そして彼女の背中を覆う、長い髪。
肩胛骨の少し下辺りで切り揃えられた髪は、元々そういう癖なのか、柔らかなウェーブを描きながら、吹き抜けてゆく風に弄ばれるようにゆらゆらと揺れ動いていた。
その姿を見るにつけ、俺の中で膨らみ続けていた疑問は、徐々に確信へとその姿を変えていっていた。
さっきまで曖昧な形しか結ぶことのなかった記憶の断片が、ひとつの像を結び始める。
そう、彼女は――
「何も……聞かないんだ」
不意に紡がれた言葉。
視線は相変わらず足下に向けたまま、でもそれは明らかに俺に向かって放たれたものだった。
口を閉ざしたまま、俺は彼女の次の言葉を待つ。
刹那の沈黙。
そして数秒の時を置いて、少女の声が周囲の空気を再び震わせる。
「なんでこんな所にいたのかも、なんで泣いていたのかも、あたしがどこの誰なのかも……聞かないんだ」
「聞いて欲しいのか?」
「…………」
少女は、それきり再び黙り込んでしまった。
内心では色々な思いが浮かんでは消えていっているのだろう、その心の機微を表すように瞳がかすかに揺れ動いているのが見て取れた。
どうして何も聞かないのか。
それは当然ともいえる疑問に違いなかった。
でも、答えは簡単だった。
何故なら、それを問いただす必要が俺には無かったから。
俺は彼女を知っていた。
こうして直接会うのは今日が初めてだったけれど、でもずっと以前から俺は彼女のことを知っていた。
そう、夢の中で。
ここしばらく、何度となく見続けてきた夢。
顔も名前も知らないはずの少女が、時には暗闇の中に浮かぶ銀幕を通して、時には目の前にその身を晒し続ける夢。
それがどうしてなのかは分からない。
多分その理由を求めたところで、答えはどこからも得られないに違いない。
でも俺が見続けてきたあの夢は、過去の出来事じゃなくて未来に属するはずのいまこの時を象徴するものだったことに、俺はようやく気付いていた。
そう、全てはいまこの時の訪れを示唆していたのだ。
予知夢。
俗な言い方をすればそうなるのだろうが、でも同時に俺はそれだけではないなにか感じていた。
たとえればそれは、穴の空いたままだったパズルにピースが埋められてゆくような、そんな感覚。
ひとつひとつが、それだけでは何の意味も為さないはずの小さな断片。
でも実は、その全てが何らかの関連性を有していたのだ。
夢の中の少女。
語られたひとつの物語。
忌避される名前。
幾つもの、俺の中で絡まったままの糸が解きほぐされてゆく。
そう……いまの俺は彼女が何故この場所にいて、何故泣いているのか、その理由を全て知っていた。
だって俺は、そのことを聞かされていたから。
それは夢でも幻でもない、現実の中で起こった出来事。
脳裏に、彼女の問わず語りの言葉が蘇る。
『女の子が男の子と出会ったのは、野原の中』
それは夜の帳に包まれた部屋の中、静かな口調で紡がれた昔語り。
まるで寝物語をせがむ子供に聞かせるような、そんな穏やかな口調と共に紡ぎ出された言葉。
『空を真っ赤に染める夕焼けと、舞い落ちてくる粉雪を背景に、風に揺れる薄がきらきらと黄金色に輝くその場所で、ふたりは出会った』
夕焼け。
粉雪。
薄。
そして、ひとりの少女。
全てがいま、俺の目の前にあった。
同時に気付く。
遠い過去の話だったはずの物語の舞台で、果たすべきどんな役柄が俺に割り振られているのかも。
そういうことなのか。
それに気付いた途端、思わず笑い出しそうになってしまう。
観客に過ぎないとばかり思っていたはずの自らが、気が付けばいつの間にか舞台の上に立たされているという現実が、余りに可笑しくて。
演ずべき役柄。
果たすべき役目。
でも俺には、その役を演じきるために必要不可欠なはずの台本を、渡されていなかった。
俺が知っているのは、少女と出会った男は彼女の胸に小さな希望の光を点してやらなければならないという、ただそれだけ。
それ以外のことを、俺は何も聞かされていなかった。
つまりはそういうことか。
頭の片隅で、そんな自嘲的な呟きが漏れる。
要するにここから先の筋書きは、俺自身で考え、そして自らの言葉をもって彼女に伝えなければならないということなのだ。
果たして俺に、そんなことができるのだろうか。
不安にも似た思いが胸中をよぎる。
でも俺は、それを果たさなければならなかった。
その先に続くだろう、彼女にとっての未来のために。
そして、俺自身の未来のために。
「ねぇ……」
その声に、意識を現実に引き戻される。
見ればいつの間にか少女は、かすかに震える瞳をまっすぐ俺へと向けていた。
「……あなたは、信じる?」
一語一語、噛みしめるように放たれる声。
「何を?」
「奇跡……を」
夢の中で耳にした言葉。
そして現実の中で、やはり耳にした言葉。
朝の通学路で。
『奇跡ってね……そんな簡単に起こるものじゃないのよ』
黄昏に包まれた教室の中で。
『あたしは……知ってるから。奇跡なんて、起きないことを。そんなものを信じたって、無駄だってことを』
そんな幾つもの、現実と虚構とが入り交じった記憶が脳裏を駆けめぐり、俺の中でひとつの答えを作り出そうとしてゆく。
「奇跡か」
「……うん」
小さく頷く少女。
その姿を横目で見ながら俺は、
「キミは信じてるのか? 奇跡を」
「あたし?」
問い返された少女は、その表情に希望と絶望とがない交ぜになった、複雑な色を浮かべて見せた。
でも次の瞬間、瞳の全てを悲しみの色で染め尽くすと、
「信じてたよ……今日まで、ずっと。いつかきっと奇跡が起こって、元気になるんだって」
「信じてたってことは、いまはもう信じてないのか」
「だって……」
なにかを言いかけたまま、少女は再び視線を落としてしまった。
彼女の信じた奇跡。
それは、決して自分のために信じたものなんかじゃなかった。
血を分けた妹――生まれつき病弱で、いつだってベッドの中で弱々しく微笑むばかりだった妹のためだけに、それを信じたのだ。
いつかきっと奇跡が起こって、妹は元気になるんだと。
そしてふたり一緒に、外で遊ぶんだと。
満面の笑顔と共に。
でもいま、彼女の願いは無惨にうち砕かれていた。
それが医者の口からだったのか、それとも両親の口から告げられたものだったのかは分からない。
いずれにせよ、すがるべき最後の希望をうち砕かれた彼女は、いままでずっと我慢していた涙を流すために、訪れる者など誰もいないはずのこの薄野に足を踏み入れたのだ。
そして少女は、ひとりの男と出会う。
黄昏の下、誰もいないはずの場所でひとり泣いていたはずの少女と、偶然に出会ってしまった男と。
なら、俺は何を伝えるべきなのか。
たとえそれがその場限りの言葉であったとしても、どうやって少女に希望の火を点してやればいいのか。
必死に考える。
幾つもの言葉が浮かんでは、消えていった。
そして最後に浮かんだ言葉。
『……嘘つき』
それは夢の中に出てきた、いま目の前にいるのと全く同じ姿をした少女が最後に口にした言葉だった。
そっか……そうだよな。
内心、俺は小さく頷く。
どれくらい経った頃だろう、傍らの少女に目を向けながら、俺はゆっくりと口を開いた。
「奇跡は、起きないよ」
「…………」
少女の表情は、全く変化しなかった。
ただ無言で、そして瞳だけを悲しみと絶望の色に染めながら、じっと足下の一点を見据え続ける。
「だって奇跡は、最初からそこにあるんだから」
「え?」
「奇跡は、いつだって俺たちの周りにある。そう、奇跡は何もないところから生まれてくるんじゃない。それを現実にするのは、きっと……人の心の中にある、『願い』や『祈り』なんだよ」
その瞬間、伏せたままだった少女の顔がぱっと俺に向けられる。
もの言いたげな、でも語るべき言葉が上手く見つからないといった、そんなもどかしさを感じさせる眼差し。
そんな少女に、俺はできる限りの微笑みを宿しながら、
「奇跡は起きるものじゃない。起こすものなんだ。そしてキミが信じる奇跡を起こすことができるのは……キミの『願い』だけだ」
自分でも、詭弁だと思った。
願い、信じ、祈るだけで奇跡が起こるなら、そんなに簡単なことはない。
それこそ世界中は奇跡のオンパレードだ。
でもだからといって、人が胸に抱くその思いや願いを頭から否定することも、俺にはできなかった。
何もないところから、奇跡は生まれないから。
たとえどんなに可能性が低くたって、それがゼロで無い限り最後まで努力することを止めずに願い、信じ続けていられたなら、大多数の人々が考えていたのとは違う結末に至ることだって必ずあるはずだった。
起きないから奇跡なんじゃない。
起きるからこそ、そうして現実のものとなった光景を前にして初めて、人はそれを奇跡と称することができるのだ。
そして起きてしまった奇跡は、最早奇跡でも何でもない。
たとえどれほどの偶然と僥倖に満ちたものであっても、それは起こるべくして起こった……ただの必然に過ぎないのだ。
幾ばくかの時を置いて、俺の言葉を反芻するように呟く少女。
「あたしの……願い」
「そうだ」
「信じ続けたら……願い続けたら、本当にかなうのかな?」
「ああ。だから、諦めるな。頑張れ」
頷き、そっと伸ばした手で少女の頭を撫でる。
柔らかな髪の感触が掌いっぱいに広がるのを覚えながら、ゆっくりと俺は撫で続けた。
かすかに、目を細める少女。
どうやら俺は、果たすべき役割を無事に演じきれたらしい。
舞台は、終幕を迎えつつあった。
彼女の表情を見つめながらそんなことを思った俺は、髪を撫でる手を止め、そして今度は少女の背中を軽くぽんと叩く。
「さぁ、子供はもう家に帰る時間だ。日が暮れる前に家に帰ってやらないと、妹が心配するぜ」
「え? どうして……」
立ち上がりながら、俺の言葉に不思議そうな色を浮かべる少女。
でも俺は、そんな彼女にこれ以上の言葉をかけることなく、その代わり一度だけ小さく頷き返した。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間、何かを悟ったように頷き返してきた少女は、泣き腫らした目はそのままに、小声で「うん」と頷きながらかすかに口許を緩めてみせた。
泣き笑い。
ひどく大人びたその表情に、一瞬どきりとしてしまう。
「ばいばい」
小さな声で別離の言葉を告げ、くるりと軽やかな仕草で身を翻した少女は、紅から宵闇へとその装いを変えつつある空の方へと、薄をかき分けながら駆け去っていった。
かさかさ――少女の存在の在処を示す音色が、少しずつ遠ざかってゆく。
ため息を漏らしながら、俺はその場から立ち上がった。
見上げれば、いつの間にか雪は止んでいた。
赤よりも藍の因子を濃くし始めた空の最中には、気の早い幾つかの星が瞬き始めていた。
マズイな。
思ったよりも時間を喰ってしまったことに気付いた俺は、再びこの地に足を踏み入れた本来の目的を果たすべく、歩き出しかける。
その時だった。
背中を、不意に叩いた言葉。
感情の存在を微塵も感じさせない、どこまでも冷たい声。
「……嘘つき」
それは、間違いなく彼女の――香里の声だった。
§
ゆっくりと振り返る。
夜の帳に包まれ始め、急速にその輝きを失ってゆく薄の中、彼女は立ち尽くしていた。
射抜くような鋭い眼差しで、真っ直ぐに俺を見据えながら。
「嘘つき」
もう一度、同じ言葉が香里の口から放たれる。
眼差しは険しかった。
憎悪――そう称してもいいくらいの暗い輝きに、瞳は満ちていた。
たぶん、それは事実だった。
いま彼女の中に去来しているだろう心の動きが、俺には手に取るように分かってしまったから。
かつて、薄野の中で出会った男。
その口から聞かされた、慰めとも偽りともつかぬ言葉。
でもその言葉が彼女にとって価値あるものであり続けたのは、ほんの数年の間だけだった。
悪い魔法使いにかけられたまやかしの魔法は、やがてその効力を失い、そして彼女は気がつく。
自らが、欺かれたのだということを。
だから彼女は、忘れようとした。
その時の思い出の全てを。
たったひとつ、忘れそこなったその男の名前だけを残して。
そしていま、奇妙としか言い様のない運命の変転を経て、彼女はあの時の男と相対している。
この俺と。
ゆっくりと足を踏み出す。
かさりと、踏みしだかれた薄が小さな悲鳴をあげる。
その音色が耳を打つ度、視界の中で睨み付けるように俺に視線を向けながら佇む香里の姿が、少しずつ大きくなっていった。
やがて手を伸ばせば届くくらいの距離で、足を止める。
無言のまま、紡がれるべき言葉の代わりに視線を交わす俺たち。
どれくらいそうしていただろう、先に静寂を破ったのは香里の方だった。
「本気で……言ってたの」
何が、とは問い返さなかった。
その必要は無かった。
恐らく彼女は、先刻まで交わしていた俺と少女との会話の、その全てを聞いていたのだ。
だから俺は、代わりに「さぁ、どうかな」と曖昧な返事だけを口にする。
「詭弁ね」
「ああ。そうだな、多分」
そう言いながら小さく頷いた瞬間、目の前を何かが通り過ぎてゆくのを認めると同時に、乾いた音が周囲に響き渡った。
一瞬遅れて頬に広がる、じんわりと熱を伴った痛み。
振り抜いた腕の向こうに、口をぎゅっと固く閉じ、瞳を震わせる香里の顔が見て取ることができた。
痛みを覚えそうになるくらいの、鋭い眼差しが俺を見据えていた。
その視線を、たじろぐことなく正面から受け止める俺。
沈黙。
薄を揺らし、雪を舞い散らせる風の音だけが、耳を打つ。
その沈黙に耐えきれない何かを覚えた俺が口を開きかけた刹那、くるりと身を翻した香里が逃げ出すように何処かへと向かって駆け出した。
「香里!」
咄嗟に手を伸ばし、彼女の腕を掴む。
「離してっ!」
掴まれた腕を振り解こうとする彼女と、掴んだ手に力を込めてそれを阻止しようと抵抗する俺。
俺は、叩きつけるように声を放った。
「どこに行くんだよっ」
「相沢君には関係ないわ。あたしのことなんか、放っておいてっ!」
「馬鹿野郎!」
思わずそう叫んだ俺は、掴んだ彼女の腕を強く引く。
と同時に、再び身を翻した――多分、空いた手で俺の頬を叩こうとして――香里の動きのベクトルとが、偶然一致した。
「うわ!」
「きゃっ!」
唱和するように互いの口から小さな悲鳴が漏れ、バランスを崩した俺と彼女はそのまま折り重なるように地面に倒れ込んだ。
薄がクッションになってくれたのだろう、背中に感じた衝撃は大したことはなかった。
目の前には、紅と藍の入り交じった複雑な色合いを見せる空と、香里の顔が大きく映し出されていた。
その中を、舞い散る雪が流れ消えてゆく。
やっと捕まえることができた。
俺の身体の上で俯せのまま相対するその存在を前に俺は、安堵と歓喜がない交ぜになったため息を小さく漏らす。
そしてゆっくりと息を吸い、言葉を吐き出す。
「結構、痛かったぜ」
一瞬の間。
そして開かれた口から流れ出た言葉は、俺が思っていた以上に穏やかで、静かなものだった。
「当たり前……よ。痛くなかったら……こっちが困るわ」
「そっか」
小さく頷く俺。
そして、次なる言葉を放とうと口を開きかけた俺の機先を制するように、ふわりと目の前にあった彼女の長い髪が揺れたと思った刹那、彼女の頭が俺の胸元に押し当てられていた。
予想もしなかったその行動に面食らってしまう。
でもそんな俺の思いをよそに、声のトーンを落とした香里は、震えを伴うくぐもった声音で、
「嘘つき……嘘つき……大嘘……つき……」
非難の言葉は、何度となく繰り返された。
その声は、たったいままで聞かされていた静かで穏やかだけれど、でもだからこそ冷たさを強く感じさせるそれとは、明らかに異なっていた。
彼女の心、感情がそこにはあった。
「か……」
「あなたに――」
口を開きかけた俺を遮るように、紡がれる言葉。
悲嘆と哀切に色濃く染まった、痛々しさを覚えるほどの声。
「――あなたになにが分かるっていうの。いつの日か、あの子がいなくなることを知ってからのあたしの悲しみも、辛さも、痛みも……」
声は、途中からますます震えを強くしていった。
それはいままで誰の目にも触れることなく、ずっと彼女の裡に押し込められたままだった存在。
真綿で首を絞められるような、緩慢に心の中を満たしてゆく絶望を前に全てを拒絶し、諦めた存在。
自らに咎を課し、思い出だけを供に孤独の淵に身を置くことを望んだ感情。
「あなたに、なにひとつ分かるわけ無いじゃないっ!」
ぽつりと頬に、何かが当たった。
涙。
大好きな妹のために、ずっと我慢し続けてきただろう姉がこぼした、何年かぶりの涙。
「なのに……どうして……」
最後の言葉は、消え入るように小さく、かすれていた。
俺の服を掴む彼女の手に、ぎゅっと力が入る。
それきり俺の耳に聞こえてくるのは、周囲を駆け抜けてゆく風の音と、そしてすぐ間近から届く小さな嗚咽だけだった。
「なぁ、香里」
長い間、震える彼女の肩を見つめていた俺は、囁くような小声で慎重に言葉を選びながらゆっくりと口を開く。
「俺があんなことを言ったのは、香里……お前が抱き続けてきた、悲しみも苦しみも何も分かってなかったからなんだと思う」
「…………」
「確かに、無責任だとは思う。でもさ、俺はこうも思うんだ。もしお前のその悲しみをみんなが同じように知っちゃったら、じゃあ一体誰がその悲しみを癒してやればいいんだろうって」
そこで一度言葉を切る。
そして目の前で、未だ顔を背けたままの彼女に視線を落とす。
反応は無かった。
文字通り身じろぎひとつ見せることなく香里は、俺の胸に頭を押し当てたままだった。
「知らないからこそできることがある、知らないからこそつける嘘だってあるんじゃないかって、俺はそう思う」
「勝手な……理屈ね」
「だろうな。でも、いまの俺にはそれくらいしか思いつかない」
「そう……」
納得したようなしてないような、そんな曖昧な返事だった。
俺は次に用意しておいた言葉を口にしたものかどうか、少しの間迷った後、結局それを口にする。
「それに香里、お前は『嘘つき』って言うけど、あの時の言葉の全部が嘘って訳じゃないぜ」
「どういう……こと?」
「俺、あんまり頭良くないから上手く説明できないけど……こう思うんだ。奇跡だって、それこそ数え切れないほどある可能性のひとつなんじゃないかって。そうなることが当然に思えることだって、ほとんどあり得ないことだって、どちらも可能性としては等しく存在する訳だろ」
そこで一度言葉を切り、一瞬だけ間を取ってから再び口を開く。
「じゃあ、その可能性を作るのは誰なんだ。神様か? 世界か? 違うよな、それを作るのは人だ。人の願い、求める心の中から可能性は生まれてくるんだよ。そして人の意志のないところに、可能性は生まれない」
「人の作る……可能性」
「ああ、そうだ。でも、だからこそ諦めちゃ駄目なんだ。その人が信じる必然を求めて、たとえそれがほんのわずかな可能性だったとしても最後の最後まで頑張るべきなんだ。だってそうだろ? 諦めた瞬間、その時まで確かに存在していた可能性は、本当にゼロになってしまうんだから」
口を閉じ、視線を逸らす。
すると視界一杯に、気の早い幾つかの星がちらちらと瞬き始める空が飛び込んできた。
もう間もなく終わりを告げるだろう、昼と夜の邂逅の刻。
日没と供に陽光が失われてしまったせいか、空気が急速に冷え始めているのが分かった。
吸い込んだ息の冷たさに、喉と肺がちくちくと刺すような小さな痛みを絶え間なく伝えてくる。
「あとさ……嘘つきは、お互い様だと思うぜ」
ゆっくりと、できる限りの穏やかな口調と供に紡いだ言葉。
でもその言葉を耳にした瞬間、上着を掴んだままの香里の手に、更に力が込められた。
「なんで……そう思うの?」
「勘、かな」
あっさり答える俺。
そして、ほんの少しだけ口の端を緩めながら、
「俺だって、いくらなんでもそこまで馬鹿じゃないって……別れ際のあの子の表情、俺の言葉なんて端から信じてないって感じだったぜ」
「……え?」
「違ってても怒るなよ。俺はさ……香里、あの時のお前が本当に欲しかったのは、慰めでもなければ気休めでもでもなかったと思う」
「…………」
「誰かに『頑張れ』って、そう言って欲しかっただけなんじゃないかな」
香里にとってはもう何年も前の、でも俺にとってはほんの少し前に、別れ際に交わした少女との無言のやりとり。
その時、俺は気付いていた。
彼女の瞳の裡に宿された、言葉にならない言葉の存在を。
昔語りの中で香里は、男の言葉に少女は「小さな希望の灯火」を受け取ったと語った。
でも本当は、少しだけ違っていた。
あの時の彼女が欲していたのは、悲しみと絶望にともすれば立ちすくみそうになってしまう背中をそっと押してくれる、誰かの存在だったのだ。
いつの日か果たされるべきその約定は、姉妹の間で交わされたものだったのだから。
頑張り続けなければならないのは、他の誰でもない物語の主人公たる姉であり、そして妹なのだから。
知らされた現実の余りの冷たさに、その場に立ちすくんでしまった姉。
だから俺は、彼女の背中を押してあげた。
「誰にも言わず、妹のためだけにひとりでずっと頑張ってきたんだろ、お前。そんなこと何年も続けてたら、誰だって疲れちまうに決まってる。あの時も、そしていまのお前もそうなんだよ」
「…………」
「いまだって俺はなにも知らないだろうし、なんの手助けもしてやれないかもしれない。でもな……それでも必要なら、いつだってお前の側にいてやることくらいはできる」
何年か経って、姉は再び立ちすくんでしまった。
再び思い知らされた現実の悲しさと、冷たさのせいで。
そしていま、俺は彼女の前にいる。
迷いはなかった。
だってそんな彼女に、俺がしてやれることはたったひとつ――あの日と同じように、背中を押してやることだけだったから。
脇に投げ出したままだった腕を持ち上げ、それを彼女の背中に回し、ぎゅっと抱き締める。
そのまま鼻がつき合うくらいの距離まで顔を寄せ、真っ直ぐに彼女の瞳を見据えた俺は、
「諦めるな。あいつは――栞はお前と交わした約束を果たすために、いまも家族すら中に入れないガラス張りの部屋の中で頑張ってるんだ。だったら香里、お前も最後まで……本当に最後の瞬間が来るまで諦めるな」
彼女の澄んだ瞳の中に、俺が居た。
夜の帳が降りつつある中、真剣な眼差しを浮かべる俺自身が。
「諦めなければ……どんなに少なくたって可能性はゼロにはならない。ならいつかきっと、奇跡じゃない必然に辿り着ける。だから……頑張れ」
「…………」
「お前が必要なら、何度でも言ってやるよ。頑張れ、頑張れ……香里」
小さな声で、でもはっきりとした発音でそう言葉を紡ぎながら、俺は彼女を抱き締める腕に力を入れた。
それがいまの俺にできる、全て。
悔しかった。
こうして言葉で励ますくらいのことしかしてやれることのない、自分自身の無力さが。
運命を変えるべき術を何ら持ち合わせていない、自らの矮小さが。
でも……
それでも、俺は信じていたかった。
最後まで諦めなかったその先に、幸せな未来が訪れることを。
ふたりの姉妹の、心からの笑顔をこの目で見ることができる、そんな日が来ることを。
「相沢君」
耳元で囁かれる言葉。
どこか弱々しい、縋るような声。
「もう一度、あの時の言葉……聞かせて」
俺は頷く。
そして、間違いなくそれが彼女の耳を通して心の中にまで届くよう、はっきりとした口調で言葉を紡ぎだした。
何年も前、この黄昏の園で彼女が聞かされたはずの言葉を。
つい先刻、この黄昏の園で俺が話して聞かせたその言葉を。
「奇跡は、いつだって俺たちの周りにある。そう、奇跡は何もないところから生まれてくるんじゃない」
「…………」
「それを現実にするのは、きっと……人の心の中にある、『願い』や『祈り』なんだよ」
「…………」
「奇跡は起きるものじゃない。起こすものなんだ。そしてキミが信じる奇跡を起こすことができるのは……キミの『願い』だけだ」
「…………」
「だから……諦めるな。頑張れ」
全てを言い終えた後に訪れた、沈黙。
でもそれは、本当に一瞬のこと。
未だ俺に抱き締められたままの格好の香里は、瞳を伏せたまま全ての言葉を聞き終えた後、
「うん」
ゆっくりと目を開くと、それだけを口にした。
腕の力を抜いて彼女を戒めから解き放ち、そしてゆっくりと半身を起こす。
顔を上げる。
既にその身の殆どを地平線下に没させてしまった太陽は、僅かばかりの残照を空に残すだけの存在と化していた。
視線を戻した俺は、ゆっくりとその場から立ち上がりながら、
「もう日が暮れる。そろそろ、戻ろうぜ」
そう、俺たちは戻らなければならなかった。
俺たちが本当にいるべき場所は、他にあったから。
いま周囲に広がる世界は、夢でもなければ幻でもないかもしれない。
でも少なくともここは、いまの俺たちの居場所じゃなかった。
そう……彼女が微笑みを浮かべて俺たちを迎えてくれるだろう世界こそ、帰るべき本当の場所だったから。
一歩、足を踏み出す。
そして振り返りながら、傍らで絨毯の如く折り敷かれた薄の上に座り込んだままの香里に向かって、右手を伸ばす。
一瞬、戸惑うように瞳を揺らす香里。
差し出された俺の手を、握り返していいものかどうか逡巡するような、そんな迷いの表情。
でも次の瞬間、固く結ばれたままだった彼女の口許がふっと緩み、久方ぶりの微笑みがそこに宿された。
数え切れないほどの星々が瞬き始めた空。
ゆくべき道を指し示すように輝く無数の光の下を俺と香里は、手を取り合ってゆっくりと歩き始めた。