何気なく見上げた空は、少し前まで飽きるほど見続けていたはずの、突き抜けるような青さとは異なる装いを見せていた。
霞むような、そんな曖昧模糊とした青さ。
それが、俺の頭上に広がっている空の色だった。
春。
長かった冬が終わりを告げた後、ようやくにして訪れた新たな季節。
見渡す限り広がる空の色は、一年のうちで春だけが現出させることが可能な穏やかな色合いに満ちていた。
目の前を何人もの、顔も名前も知らない人々が行き交う。
その誰もが訪れた春の温もりを満喫しているように、どこか穏やかで楽しげな表情を見え隠れさせていた。
確かに、彼女の言った通りだったな……
かつて同じこの場所で聞かされた言葉を思い出しながら、俺はいつしか内心で同意の呟きを漏らしていた。
目の前をひらりと、桜の花びらが舞い落ちてゆく。
新しい季節の到来を何よりも象徴するそれは、右に左にそよ風に流されるまま俺の前を横切り、去っていった。
いつか見た、風花のように。
その時だった。
「相沢君、きっとびっくりするわよ。あの子の絵を見たら」
横から急に話しかけられる。
くすくすと小さな笑みと共に届いた声に、眼前で展開されていた舞踏会の鑑賞を中断する。
振り向けば、そこには見知った少女の笑顔。
上辺だけじゃないってことが一目見ただけで分かる、そんな心からの笑みを前に、俺は鼓動が少しだけ高鳴るのを自覚する。
「そんなにすごいのか?」
内緒話でもするように、彼女の方に顔を寄せて小声で問い返す。
でも彼女――香里は、何を思ってか口許に人差し指を当てながら悪戯っぽい笑みを浮かべてみせると、
「秘密」
「何だよ、それ」
呆れたように俺は答える。
でもそう思うと同時に、やっぱりな……そんな言葉が、心の片隅に浮かんできてもいた。
いまの仕草なんかを見ていると、やっぱりふたりが姉妹なんだってことを、改めて再認識できたような気がした。
いや彼女のことだから、全てを承知の上でわざとやっている可能性は否定できなかったけれども。
「結果は見てのお楽しみ、よ」
「あのさ、香里」
「なぁに?」
たおやかな仕草で、小首を傾げてみせる。
「お前の話を聞いてると……すごいヤな予感がするのは、気のせいか?」
その問いかけに、返事はなかった。
そして言葉以上に何ごとかを語るように楽しげに目を細めては、くすくすとまた小さな笑みをこぼすばかり。
「あーもう、お姉ちゃんも祐一さんも、動かないでくださーい!」
唐突に、俺たちの会話に割って入ってくる声。
内心で「しまった」と思いながら、首をすくめてしまう。
そして恐る恐る視線を向けた先には、肩口まで伸びる髪を春風に揺らす小柄な少女が、こちらをじっと睨んでいた。
ぷっと頬をが膨らんでる様子からして、どうやらかなり本気で怒っているみたいだ。
ただそうは言ったものの――少女の容貌がそう思わせるのか、腰に手を当ててこちらを睨み付ける仕草は、恐さよりも可愛らしさをより強く感じさせてくれるものだった。
「ほら、怒られた」
「ほら……って。あのな」
誰のせいだよ――そう、喉まで出かかった言葉をどうにか飲み込む。
代わりに俺は、呆れたようにため息を漏らしてみせた。
見ればぷんすかと、相変わらず頬を膨らませ続ける少女――栞は、それでも絵筆片手に再びスケッチブックとの格闘を再開していた。
「あの子、絵のことになると人が変わるから」
さすがに本人には聞かれたくないのか、俺にだけ聞こえるくらいの、ささやくような小さな声でぽつりと呟く香里。
何となく、話をはぐらされたような気がしなくもなかった。
まぁ……いいか。
自分を納得させるようにひとりごち小さく頷き、そしてベンチの前で組んでいた足の上で頬杖をつく。
少し離れた場所から、また「祐一さんっ!」と非難の声が聞こえてきたが、それを完全に無視した俺は頭上に広がる空へと目を向けた。
新しい季節を迎え、装いを新たにした公園は、かつての閑散とした佇まいが嘘だったかのように、散策を楽しむ人々で賑わっていた。
それが、俺たちのたどり着いた場所。
いつかきっとかなう日が来ると彼女が願い、信じた続けた世界。
数え切れないほどの僥倖と幸運を必要としていたはずの、わずかばかりの可能性しかないはずだった世界。
でも、彼女はそれを手に入れた。
その身に降りかかった悲しみと苦しみ、絶望のすべてを乗り越えて。
最後まで諦めず、頑張り続けたその果てに。
そう……かつて交わした約束を彼女は、長い長い回り道を経て、ようやく果たすことができたのだ。
そしていま俺は、そんな彼女たちの笑顔に眩しさにも似た思いを抱きながら、同じ時の中を歩いている。
今日という日の出来事が、もしあの宵闇の中で語られた物語のエピローグなのだとしたら、いまこの場に俺という役者がいるのはミスキャスト以外の何ものでもなかったかもしれない。
ならもし、与えられた配役が台詞もない脇役や通行人Aだったとしたら?
答えは決まっていた。
それでも俺は何の不満を抱くことなく、喜んでこの舞台に上がることを望んでいたに違いなかった。
理由は簡単。
ふたりの姉妹の、心からの笑顔を見ることができたから。
互いに望み、願った世界が夢でも幻でもない現実であることを何よりも示す証が、そこにあったから。
それさえあれば、他には何もいらなかった。
あれから二ヶ月。
俺も香里も、あの日を最後に二度と旧校舎に足を踏み入れていなかった。
もしかすると夕暮れ時にはいまでも、窓の向こうにはあの黄昏の園が広がっているのかもしれない。
校舎の見る夢……いつだったか窓の向こうに広がる黄昏を前に、香里はそう言った。
長い歳月をその場に存在し続けてきた建物が、言葉なく静かに見守り続けてきた、幸せだったと思えた頃の記憶。
でもいま、俺たちに振り返り、懐かしむべき過去は必要なかった。
進むべき未来があるから。
昨日。
今日。
明日。
偽りじゃない心からの笑顔を浮かべることのできる、連綿と続いていくだろう毎日がそこにあったから。
そして俺も、彼女たちの歩みに合わせるように、穏やかで平凡で……だからこそ幸せなんだと思うことのできる日々の中を歩いてゆく。
「……ん、相沢君っ!」
俺の名を呼ぶ声が聞こえてくると同時に、頬を誰かにつねられているような痛みを覚える。
「いひゃい」
「呼んでるんだから、返事くらいしないさいよね」
ようやくのことで我に返った俺に、ようやく頬を摘んだ手を離してくれた香里が、困ったように眉根を寄せながら口を開く。
俺はつねられた頬を掌で撫でながら、
「急に何すんだ。痛いだろ」
「なに言ってるの。さっきからずっと呼んでたんだから、あたし」
「え? あ、悪ぃ」
どうやら気付かないうちにいつの間にか、自身の思考にとらわれてしまっていたらしい。
いかんいかん。
照れ隠しをするように小さく咳払いをしてから俺は、改めて口を開く。
「で、何?」
「休憩にするそうよ。相沢君が、何度言ってもちっともあの子の言うこと聞いてあげないから」
そう言えば、いつの間にか栞の姿が消えていた。
周囲をきょろきょろと見回してみたけれど、目に映る範囲の中に彼女の姿を見出すことはできなかった。
「あの子なら、あそこよ」
促されるように、香里が指差す先に目を向ける。
すると、俺たちがいる噴水近くのベンチからずっと離れた場所にあるらしい屋台が目に止まる。
「アイスクリーム買ってくるって」
「はぁ? アイスだ?」
「それも三人分」
「もしかしなくても……それって、俺たちの分も込みってことか?」
「たぶん、そう」
「ぐはっ」
思わず天を仰いでしまう。
そして幾つもの雲を従えながら広がる霞む空を前に、ふと気がつく。
よく考えたらもう春なんだから……別にアイスのひとつやふたくくらい、全然平気だよな。
肌に触れる空気は暖かく、日を重ねる毎に俺たちを取り囲む世界は、春の装いを徐々に深めつつあった。
こんな日は、鯛焼きよりはアイスの方が似つかわしいかもしれないな。
うん……そうだよな。
いつしか俺は、そんなことを思ったりもしていた。
ふと、視線を感じる。
見れば何を思ってか、香里が俺の顔をじっと見据えていた。
表情は相変わらず穏やかなものだったけれど、でも瞳はどこか真剣な色合いを帯びている。
「……?」
思わず小首を傾げてしまう。
「ね、相沢君」
「ん?」
「あの日のこと、まだ覚えてる?」
「あの日?」
何のことか分からず問い返す俺に、香里は口許だけをほんの少しだけ緩めてみせると、
「薄野原の中で、女の子と出会った日のこと」
「そりゃ忘れないさ。ああ、ちゃんと覚えてるぞ」
うんうんと、大きく頷く俺。
あれから二ヶ月の時が経っていたけれど、だからといってそう簡単に忘れられるものじゃなかった。
もちろんそれは俺だけじゃなく、香里にとってもそうなのだろう。
でも、いまになって急にどうしたのだろう。
「じゃあ……」
表情を一変、急に悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女は、くすくすと忍び笑いを漏らしながら口を開いた。
「いたいけな少女を傷つけた責任、取ってくれるんでしょうね?」
「は? いたいけ? 誰のことだ、それ」
正直、何がなんだかさっぱりだった。
俺がいつ、あの少女を傷つけたというのだろう。
たぶんその思いが表情にも出てしまったのだろう、軽く腕組みをして俺を睥睨するように目を細めた彼女は、
「ふーん……」
と、言外に何か匂わせるようにそれだけを口にする。
やましいことをした覚えは全くないのに、でも俺は彼女のその態度に思わず身構えてしまう。
「な、なんだよ」
「別に」
「…………」
「…………」
不意に訪れた沈黙に、先に根負けしたのは俺の方が先だった。
「あーもう、分かったよ。なんで振られたはずの女に、こんなこと言われなきゃいけないんだよ、俺は」
半ば自棄に、拗ねたようにそっぽを向きながら言葉を吐き出す。
なにがおかしいのか、そんな俺の反応に再び口許を押さえながら笑みをこぼした香里は、目の前に指を立てながら、
「ふふっ。でもね、それはお互い様よ」
「……?」
「相沢君だって、前に一度あたしを振ってるんだから」
それは意外というか、完全に想像の埒外の言葉だった。
俺が香里を振った?
いつ、どこで?
記憶を浚うように、頭の中で思考が目まぐるしく回転するが、当然のことながら全く思い当たる節は無かった。
「香里。頼むから、俺にも分かるように話してくれ」
「分からない?」
「ああ。全然さっぱりちっとも皆目」
「そう……」
何か考え込むように、香里はつっと視線を足元に落とす。
でもそれは一瞬のこと。
すぐに顔を上げた彼女は、何を思ってか微かに揺れる瞳を真っ直ぐ俺に向けながら、
「だって――」
「だって?」
オウム返しに問い返すばかりの俺。
その瞬間。
ベンチの隣で肩を並べて座っていた香里が、すっと流れるような動作で俺に顔を寄せてくる。
そして唇に感じる、ほのかな温もり。
「…………」
「…………」
静寂。
俺の心臓が、ややリズムを早めながら何度目かの鼓動を刻んだ後、重ねた唇がゆっくりと離れてゆく。
一瞬、なにが起こったのか理解できず、頭が真っ白になってしまう。
そしてはっと、我に返る。
いま、俺たち……
確かめるように視線を落とせばそこにあった香里の頬は、恥ずかしげにかすかに赤く染まっていた。
でも次の瞬間、本当に幸せそうな満面の笑顔がそこに宿る。
そして言いかけたままだった言葉の続きを、向けられた瞳の中に俺の姿を映しながら、紡ぎ出した。
「あたしの初恋は……あの日、たった一度しか会うことのなかった相沢君、あなただったんだから!」