| 住所 | 竹田市竹田 |
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再訪。今回散策したのは御客屋敷と旧竹田荘。
御客屋敷は各藩使者の宿泊所。1810年(文化7年)には伊納忠敬一行も宿泊。大火により3回焼失。裏手には江戸期の小さな庭園。粗い白砂のスペースに奥に岩肌の斜面が屹立している。供回りの者が濡れないように軒を長くしてある事もあり、白砂のスペース迄出て見上げないと、斜面全体が見えない。岩肌は緑色がかった部分のある黒。カーテンのように凸凹しており、右側には柱状節理が見える。稜線には草木が茂り、上部は蔦状の草が這い、凸凹の山と谷の部分には苔が生している。南画風の庭園との事だが、この部分を指しているのだろう。
斜面中央手前には紅葉の潅木、その右側に萩、右端にサルスベリが配され、岩肌の緊迫感を少し和らげている。紅葉の潅木の前に直方体、サルスベリの右側に鍵形の立石。何の意匠かは不明。願成院の遠見灯籠を借景としているとの事だが、見当たらない。そもそも斜面とその稜線上の草木に遮られ、借りる景色がない。庭園左側の竹林の中に少し苔生した灯籠が配されていたが、それの事だろうか?
旧竹田荘は田能村竹田の旧宅。母屋の北側には小さな庭園。細長い瓢箪型の池を中心としたレイアウト。対岸から右端にかけてツツジの刈り込みと松が散らされている。池岸は護岸石組に縁取られているが、池は枯れ、左半分が土に埋もれている為、左側の護岸石組は、最初、二手に分かれた飛び石と見間違えた程だった。拝観の栞にある当時の見取図では、池の右側に橋が架かっているが、現在は残っていない。池が枯れているせいか、庭園跡に近い印象。草際吟舎(そうさいぎんしゃ)の奥の庭園は、織部灯籠の手前に円形に石を組み、右側にL字形の飛び石が配した土の小さなスペース。当時の見取図では五葉松等の植栽が配されている程度。玄関(?)には禅寺の法堂のように平瓦が斜め45度に敷き詰められていた。
歴史の道は花水木(温泉)、竹田駅から観音堂、御客屋敷、殿町等を通り、岡城に至る観光コース。散策したのは観音寺、円通閣、愛染堂、殿町。
観音寺はNTTの裏側。石段の右脇、高さ5m程の岩の上に像高80cm程の十六羅漢像が安置されていた。解説に拠れば、文化年間、後藤郷兵衛(現犬飼町長谷の石工?)の作と伝えられ、どの像が誰なのかは不明との事。黄色がかった白に変色している部分があり、手首から先が欠落している像もあったが、トータルの状態はまあまあ。基本的なバリエーションは壮年と老年像の2種類。何れも太い眉、三角の鼻の人間的な素朴な像だった。
観音寺本堂には観音菩薩等が安置されているらしいが、扉が閉まっており、外観のみ。本堂の向い、石段の左奥は円通閣。円通閣は中国蘇州寒山寺の楼門を模したもので、長屋門様式に唐様の扉を配したものとの事だが、長屋門=長屋の一部に門を配したものというよりは、門の上に長屋を配したような形だった。
石段の右奥には愛染堂(願成就院本堂)。縁側には上れるが、扉は閉まっており、外観のみ。軒下の天邪鬼の彫刻は左甚五郎作と伝えられるもの。白くなっており(彩色が滲んだ?)、表情等の詳細は良く解らなかった。堂内には愛染明王が安置され、内法上に極彩色の天人像や模様があるとの事。

殿町
殿町武家屋敷通りの土塀の通りは120mとの事だが、どう見ても80~90m。黄色い三和土のような地面。土塀や門は古そうだが、その奥は普通の現代住宅。入口付近の創生館は岡藩時代の中級武士の屋敷。古い建物であり、一休みするには丁度良いが(入館無料)、江戸時代を偲ばせるようなものはなかった。その隣の蔵も同様。創生館の斜向いは中間長屋門の吉田家。長屋門があるのはそこだけだった。
追記(2009/09/10)2009/09/05再訪。120mは往時の長さの模様。道路は黄色い舗装道。土、白壁、黒板の塀のある家屋は10軒、古い・古そうな家屋は3軒程(創生館を含む)。
通りの終り付近を脇に入り、山裾の竹林に少し入ると、キリシタン洞窟礼拝堂。竹林が密集しており、傘が要らない。洞窟は幅3m×奥行き3m×高さ3.5m。格子の扉がはまっている。正面の壁に掘り込み祭壇があるとの事。それらしきものが見えたが、暗くて詳細は解らなかった。