DVD化決定!機動戦士Vガンダム
| 2004年新春にDVDボックス発売! ばら売りも開始予定だ。 | |
| データコレクション12「機動戦士Vガンダム」(メディアワークス刊)発売中! | |
| 出演スパロボ 「新スーパーロボット大戦」…シュラク隊を自在に使えるのはこれだけ。 「スーパーロボット大戦α」…カイラスギリーやハイランドの話がないです。 「スーパーロボット大戦α外伝」…え? カテジナさんが? 「スーパーロボット大戦D」…(別の意味で)え? カテジナさんが? | |
| 「第2次スーパーロボット大戦α」には結局Vガン出ませんでした。ブレンは出たのに残念。 |
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親の気持ちがわかった子供
(アニメの一言かVガンの記事に移動予定)
Vガンダムとブレンパワードが「不幸な親子関係」を描いた2作とするなら、
ブレンパワードのほうが主人公である子供たちが親のことを理解することができた、
つまり、親というものが完璧な存在ではなく、愚かさをも
もった存在であることを認められる、そのことが許せるようになる、という作品であり、
時系列的にも「子供」の側の成長が伺える作品でもあります。
(Vガンでの救いは擬似家族が機能していること、でしょう)
ということを以前もVガンやブレンの記事で書いたのですけど、
最近CSでVガンダムの放映をしていてふと気がついたことがひとつ、
「Vガンにも親のことが理解できたやつがいるじゃん」
ウッソやシャクティはもちろん違いますし、
トマーシュたちハイランドの子供たちは最初から
理想的な親子関係を描いているので違います。
オデロのことです。
彼の散り際の台詞は父や母を理解したものでした。
最終回における彼の死は悲劇を上塗りするだけの
ものではありましたが、ほんのわずかな救いと、
親子関係の物語としての意味を求めるなら、そこにあるのではないかと思います。
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ビデオを再び見た感想
第1巻
第一話「白いモビルスーツ」
事実上の第四話なのだけれど、第一話として主役モビルスーツVガンダムを見せる
ということから考えると合格ラインかな?
物語よりもアクション重視で、いきなりエピソードの途中からはじまるという視聴者の
混乱を招く展開も、息もつかせぬアクションで映像を見せようとしているのだと思う。
最初にウッソがシャッコーを操縦する事でウッソがMS操縦能力があり、その戦いぶり
と脱出の際の動きでウッソが見た目(年端もいかない子供)以上にヴァイタリティのある
少年である事も示している。
そしてVガンダムの特徴であるコアブロックシステムの合体を見せるのは当然として、
ブーツを一機破壊することでVガンダムのパーツが量産性であることをさりげなく示唆
している。
とりあえず、映像的なお披露目フィルムではある。
で、事実上の1stエピソード、第二話「マシンとあった日」…ウッソのパラグライダーシーン
とそれを見守るシャクティ、そこに白い戦闘機とベスパのMSシャッコーがあらわれる、
というシーン。
…うーん、今見ると何か物足りない気がする。
時間(フィルムの尺)的な問題なのだろうけど、ウッソとシャクティのキャラクターを見せる
ためにはもう少し(小説の描写の半分くらいは)欲しいし、それとは別のシーンでコアファ
イターとクロノクルのシャッコーの登場も見せて欲しかったと思う。
あとカサレリアには何故かウッソとシャクティ以外の人がいないように錯覚してしまうくらい
人が出てこないのも気になるところではある。
ただ、ウッソ少年のキャラクターはいきなり絶体絶命の状況下におかないとMSに乗せる
チャンスを失ってしまうのは確か。クロノクルとの攻防で彼のスタミナも見せ、戦いの状況
の連続にする事で彼に考える暇を与えない、そうしないと彼にMSにのせる必然性が
ないのである。ウッソ自身も理由がなければ興味だけで乗るにはいかないだろうし。
二回目にMSに乗った時も憧れのカテジナさんのいるウーイッグが空襲に遭っている
様子を見ていてもたってもいられなくなりMSを駆り出してしまうのである。
三回目以降は彼の「スペシャルな」素質を見抜いたリガ・ミリティアの老人達が彼をMS
に乗せようとするだろうし、すでに知り合った人達を守る為に彼は動いてしまうであろう。
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エヴァンゲリオンに見るVガン的要素。
「まごころを、君に」の「結局、シンジ君の母親にはなれなかったわね。」
のセリフ。これはVガンに出てきた多くの女性キャラはウッソを相互補完的な「子供」
として取り込もうとしていた(シュラク隊、ルペ・シノ、ファラ含む)という庵野監督の分析
から来ているのだろうと思う。多分、シンジとミサトの設定というものにそういうものを匂
わせたかったのかもしれない。
と、なるとシンジの母親になることを積極的に拒否した女性キャラ、アスカが最終話で
大きなウェイトを占めたのも当然の帰結かもしれない。
(ちなみに、TV版のミサトの「(男が)仕事に逃げていくのね」というセリフは多分、三石
嬢や幾原氏との雑誌での対談中に出た、三石嬢のセリフからでしょう。
Vガンダムに見る過去の富野作品のエッセンス(設定面)
老人たちの若者に未来を託すための特攻(ザンボット3)
鋭いセンスを持った子供たち(ガンダム)、
赤ん坊と母に宿る胎児がキーとなる物語(イデオン)
人類の意思統一を図る機械、エンジェルハィロウ(AH)は下手するとイデに
なりうるし…。
敵の持つ憎しみ、怨念と戦わなければならない最終決戦(ダンバイン等)
兵器を戦場から排除するように働く、AHのリングもダンバインの浄化を連想する。
(そのうち記事にまとめるかもしれません)
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戦争をモニターでしか知らない少年
ウッソ・エヴィンは地球の不法居住者の少年であったが、ハンゲルグのおかげで
外界の情報は受信することはできていた。ザンスカールとかリガ・ミリティアとかの抗争
はまったく知らないわけではないのである。この状況は日本に居ながら、世界の紛争
の情報がニュースとして入ってくる我々と非常に似通っていると思える。
ウッソはまた、近所との生きていくために必要な最低限の付き合いしかしておらず、しかも
それほど多くの人々と接していたことはない。
この状況は、多くの人の住まう都市に居ながら、親から与えられた教育環境以外の世界
と接することのない子供たちの現状を表しているのではないだろうか?
現に、小説版の第一巻ではニュング伯爵と討論を行うまでの知能を有しながら、ウッソは
人と対話することへの不慣れから来る違和感を感じている。
ある意味現在の日本の子供が与えられている状況下を類推できる少年が、「本物の」
戦争、ゲリラ活動に巻き込まれていく様子を描くことがこの作品の一つのねらいである
というのは言うまでもないことであろう。
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因果な話
「V」が因果だと思ったのは、初期ガンダムの主人公達の境遇に似ているカテジナが
憎しみの戦士に育ってしまい、親の期待を受けすぎた不幸を持つウッソの敵になった
という部分ですね。
「F91」のときのインタビューではニュータイプ達は良くも悪くも親子の情があるから
生まれるのであってコミュニケーションの断絶した世代からは生まれてこない、
というような
ことを言われていたので、本当はアムロやカミーユにも両親の情を受けて
育った時期がある ハズなんですけどね。
多分、カテジナもそうであったのでしょうけど…。
血のつながりというより、コミュニケーションの問題なのでしょう、きっと。
富野作品の子供たちの団結力というのは彼らの中できちんとコミュニケーションのとれて
いる証でしょう。
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地球産のニュータイプであること
他のガンダム主人公全てがコロニーで育ったNTであるのに対し、ウッソは地球育ち
なんですよね。
過去のNTはまだ地球に住む人々が多くコロニーに住まう人の方が多く
ウッソの時代になってようやくコロニーで育つことの方が普通になってきたから?
でしょうか?
地球に意志があって人間に進化を求めて、宇宙を中心に住まう時代に対応できる
ようにスペースノイドの中に人の革新の可能性を与えたのだ、
(地球を巣立つため?)と考えると、
ミューラたちの説、地球でNTが育つという考え方はおかしいのですよね。
明らかに逆行している。
すると、スペースノイド中心の時代になっても過去と変わらず戦争を繰り返す人類
たちに警鐘を与えるために、逆に地球の意志がウッソやシャクティのような子供たち
を生んだのでしょうかね?
人類にとって特殊な状況下で革新の可能性があるというだけかもしれませんが。
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少年という「器」
ウッソという少年は「ファンタジー」だからこそ、わたし的には好きなんですけどね。
辛く評価するとそれだけの「スペシャル」でありながら、また、「スペシャル」であるが故に
彼より能力、精神の面で劣る存在であるカテジナ、クロノクルをああいう形でしか救う事
ができなかったのは悲しいことですね。
自分の可能性の限界が見え始めた頃の年代にとっては、未だ無限の可能性を有して
いる子供
たちに苛立ちを感じるのは仕方のないことではあるのですが…。
「子供」であるからこそ、大人たちは無限の可能性を信じ、それがウッソの重圧になって
い
くというウッソなりの不幸もあるのですが、それを理解されることもなかったのでしょうし。
少年という「器」には多いに余る経験につぶされないためには、
人も殺せる高い戦闘能力が必要
であった、それもわかるのですね。
その上で彼に少年としての純粋さを持ち合わせさせた
富野監督は鬼ですね(笑)。
ウッソはあの能力と年齢に見合った感情との間では、戦いの中で彼の精神は壊れて
いくだけだったでしょうね。
オデロたちやマーベット、シュラク隊が精神的な面を支えてくれたとも言えます。
そして、ウッソが「カサレリアのウッソ」としての面を維持していけたのはシャクティが
いたからでしょう。カテジナは「シャクティを守る事がウッソの使命」といいましたが、
ウッソの根本的なアイデンティティを支えている部分であるという点でそれは事実だと
思います。これがなければ、ウッソの持っていたセンスは失われていたでしょう。
ただの一少年兵になっていた、という事です。
彼くらいの年齢が女性(カテジナ)に自らの理想を望む事も罪とは言えないかも知れま
せん。 ただ、カテジナにはそれが重荷に感じただけの事です。
彼女くらいの年齢では少年の思いを受け止められるだけの「器」はないでしょうから。
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ウッソの両親
彼は両親に「カサレリアでの親らしさ」を子供の感情の部分で望んでいたのでしょうね。
高い理解力を持つウッソはそれが難しい事を理屈では分かっていながら、
彼の「子供としての感情」ではそれが受け入れられない。
高い知性と子供らしい感情、この二つを内包している事というのがウッソの悲劇という事
で、あの両親の罪深い部分でしょうね。
ミューラと再開したとき、親としてはかなりとんでもない事をいっている感じがするの
ですが、ウッソは母の抱擁という物理的な母の力に屈しています(安心を感じた事)し。
(あの人、子供を育てるというのも実験でしかないような感じらしいです)
ハンゲルグ
この人は個人的には、インテリであるがゆえに自らの理想におぼれるタイプと見ました。
自分のいっているレベルの事が正しいと思っているが故に、望んだ状況にするために
自ら動く。性質が悪いのはこの人間に行動力がある事でしょうね。
(インテリは机の上で文句たれていればいいのに。私見)
自らの思想を理解できないタイプは愚かだと思い、
自らの予想通りに動かない人間には苛立ちを感じる、そんなタイプでしょう。
(予想以下も、予想を越える働きをした場合も)
目的に対し不確定な要素があるのを好まない、だから最終決戦で最大の不確定要素で
ある
シャクティは(AHの動きはどうなるか分からない場合、それに干渉する事のできる
シャ
クティは明らかに不確定要素)排除したいと「理性」で結論づけられる。
ウッソの両親とウッソの最大の違いは、両親はインテリであるがゆえに感情面を容易に
捨て去る事ができ、ウッソは理屈では理解できても、少年としての感性はそれを納得で
きない。
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「成長」できない主人公ウッソ
ウッソははじめから能力が高く、素直でいい子という優等生的キャラクターであったため
物語中に大きく成長するということができなかった気がします。
ついでにいうと子供らしい純粋さを守るために、可能性を狭めていく過程でもある
「大人の男」への成長は(年齢的にも)させてもらえてない気がします。
最後まで、この戦争の持つ意義、戦うことへの大義ははっきりとはもっていなかったの
ですね。(個人レベルで持ち合わせていたが、個人レベルで止まっていた)
「女を守る男」としての意識的成長をしたのはオデロであって、ウッソは最初からそうで
あったともいえますし、女を守る男になろうとしても逆に「子供」としてシュラク隊に守
られつづけるという、「母」に取り込まれそうな形になっています。
シュラク隊が散るたびに「僕がもっと強ければ」と悔やむのを「素人(子供)の増長」と
お姉さんたちにたしなめられてしまってますし。(ま、これはいいですが)
そんな女たちの抱擁から「男」になるためもがいているレベルで止められていた感じですね。
多くの人の死に出会い成長するには、年齢的な物が足りない
(成長のための器ができてない)
逆に言えば、それが故に純粋でありつづけられ、
多くの人を殺しうる高い能力を(親によって)持ちながらも、
それに対し「?」を持ち続けるセンスを持ち続けられたとも言えます。
年齢と精神は子供、能力は大人のそれというアンバランスさが彼の不幸なのですけどね。
大人のやることに疑問を持つ年齢(第二反抗期)になってから戦い始めたアムロ、
カミーユ
たちは成長する(年齢的な意味での)下地はできていたのですが、
ウッソはそれができる前に戦いの状況に置かれてしまった。
(最近の子供が親の意図的に反抗期になれないような状況に置かれている気もしますが)
「男」になるにしても今回の物語は「母」が強すぎて男どもは「子供」でしかなかった。
(クロノクルの情けなさがいい例、彼がしっかりしていれば対としてウッソの成長もあり
えたかも)
母の物語であったことの限界かも知れませんね。
もちろん、「成長できない」といっているけど、それは物語中のことであって
「可能性を無限の状態に残したまま」でありつづけたということも意味しています。
物語以降、ウッソがこの経験を下にどのような大人になるのか期待しつづけることが
できます。
物語中でその方向性の何らかを描いてしまってはいけないのですね。
ターンAのコクピットが子宮の位置にあるということ
ヴィクトリーとV2のコクピットの位置は
胸の位置ですね。心臓の音が聞こえる位置だから赤ん坊は落ち着くのですよね。
(きれいなお姉さん好きのウッソが女の人の胸に甘えているという取り方もありますが)
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Vはガンダム潰し(失敗したけど)がねらいだった。
「Zガンダム」以降の富野ガンダムは「機動戦士ガンダム」の築き上げたイメージに
挑戦するかのごとくそれを崩すように新たなイメージを作ろうとしている。
Vガンダムもその一つであるといえる。
ファンの抱いていた「リアルなロボットアニメ」像を
大きな「タイヤ」を抱えたメカニックを出すことで
「ロボットアニメなんてこんなものだ」とし、
量産された主役メカ(しかもよく壊れる)で
そのロボットアニメとしての常識も意味を薄め、
翼を駆るロボット、
超能力者など神がかった能力を持つものたちの奇跡をおこしたりして
ますね。
主人公の名前から、これは「虚構(=嘘…ウッソ)の物語」と主張しているようですし。
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Vガンダムと新世紀エヴァンゲリオン
富野監督がエヴァともののけで復活したというのは、作品に影響を受けたというより
作品を世に出したい欲求をうずうずさせてくれたからだ、というのが強いと思います。
ブレンも見出しましたけど、人類が遺伝子レベルでも残ればいいやというオルファン側の
考え方は、「あんたカガチかい」と突っ込みたくなりましたが。
エヴァがVガンダムの影響を受けているなと思う部分は、
「結局、シンジ君の母親にはなれなかったわね」(劇場版)
の一言につきると思います。
子を産み育てるはずの女性が、戦いの場にいるために満たせない
「母」の役割を行うという欲求、
それをその場に存在する少年に「子供」の役を行わせることで満たそうとする、
そしてその相手を取り込もうとする、狂暴な母。
(昔のアニメ誌で庵野氏がVガンの感想で同様なことをいっていたのですけどね)
(注)「狂暴な母」の言葉の解釈は、
「母親というのは子供を守るためなら獰猛に敵と戦うことのできる生き物である」
という意 味もすこーし、含めているつもりです。
で、ただ一人、少年の母になるのを拒んだ少女が最終話で大きなウェイトを占めている
という点(注2)で共通しているのは…
そうなった理由は違うでしょうけど。
(注2)
少年(ウッソ)の能力の高さと、一方的な相手への要望が少女(カテジナ)を苦しめて
狂わせた話としてみると、
エヴァの劇場版って面白いんですよ、あの補完前のシンジとアスカ。
「盗み撮りをしてる僕を馬鹿にしてくれていればよかったんですよ!!
ウーイッグのカテジナさんはっ」
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最初の書き込み
Vを見て感じたのは、
ウッソたち「子供」、その世代に対する大人たちの態度の違いでしょうか
女たちは、ウッソという「子供」を守るために死んでいくシュラク隊に対し、
ウッソという「子供」を取り込もうとするルペ・シノや、ファラ。
老人の場合、未来の世代に託すために特攻を行うリガミリティアの老人たちに
カガチのように後の世代を信じられず、自らの手で行おうとする性急な老人。
親は、ミューラやハンゲルグが理想の環境で計画的にウッソを育てたのに対し、
マチス=ワーカーのように自分の子供をそのような恵まれた環境に住まわせたいと
思い、それを手に入れるために戦う戦士がいたり。
あと、細かい要素がかつてのトミノ作品の集大成的な場面が多いですよね。
見ていた当時は光の翼の美しさにひかれたものですが。
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