・本論
<トゥーンレンダリングの「誤算」>
「誤算」で詳しく述べたので、ここで改めて述べることはしないが、ときメモ2は音声合成システムEVS
を開発することによって、発売前の宣伝やプロモーションを成功させた。乱暴な表現かもしれないが、その「二匹目のドジョウ」を狙って開発されたのが、ポリゴンキャラのキャプチャー技術トゥーンレンダリングである。ところが、コナミ自身は盛んに宣伝したにもかかわらず、トゥーンレンダリングはEVSのときほど注目を浴びることはなく、結局2のときのように事前のプロモーションは成功しなかった。
もちろん事前のプロモーションに「こうすれば成功する」といった必勝法などはないのだが、成功しなかった理由はいくつか考えられる。まずは第一の理由としては、トゥーンレンダリングのキャラの「写真写りの悪さ」が挙げられる。現在ゲームに関する情報の多くはゲーム「雑誌」を通して提供されている。すなわち、実際に消費者がゲームを購入するか否かは、雑誌の画面写真や情報を元にして決めることが多い。ところが、トゥーンレンダリングは「キャラが動いてこその技術」である。実際プレイしてみると、違和感はあまりないが、静止画像にするとどうしても平面的で薄っぺらな印象を受けてしまう。実際、発売前の評判でも、キャラの画像については否定的な意見が多く、このことが「食わず嫌い」を生じた背景の一つとなっているのである。ゲームは決して安い買い物ではない上に、現行の制度上では音楽のように「試聴」してから購入することもできない。すなわち、一旦購入に対する「食わず嫌い」が生じてしまうと挽回するのは決して簡単ではないのである。
そして第二の理由は、EVSとトゥーンレンダリングの生み出された背景の違いにある。EVSは恋愛ゲーム界における積年の課題であった、プレイヤー名発声の問題に対する一つの回答であると言う面が存在する。いや、むしろそうであったからこそ、発売前に注目を集めることに成功したのであるし、40万本の売り上げにも影響したのである。しかし、トゥーンレンダリングにはそういった「背景」そのものが存在しない。すなわち、ユーザーにとって「キャラに名前を呼んでもらう」事はかねてよりの望みであったが、「ポリゴンキャラが動く」事は別に望んでいた訳でも何でもない。ただ単に「新技術を開発したから買え」と言っているようなものなのである。(それどころか現在においても恋愛ゲームでは3Dキャラは「イロモノ」とみなされる事が多い)「誤算」でも言ったことだが、ここでもあえて繰り返し言っておく。「ゲームは学会や技術展示会ではない。」新技術だけでは注目を集めることも売り上げを伸ばすこともできないのである。5年以上前と基本的には変わらないシステムを用いても、ヒット作は出るときは出る。新技術の開発そのものは否定しないどころか積極的に進めるべきことではあるが、それだけでは作品を成功させることはできないのである。
<荒さの目立つゲーム本編>
ときメモ3を実際プレイしてみて私が持った印象は「最低限の事はこなしている」である。そう、あくまでも「最低限」なのだ。確かに途中でフリーズして動かなくなるとか特定のキャラがクリアできないなどの致命的な欠陥はないものの、随所で細かいアラだとかゲームバランスの悪さ、シナリオの不備が目立つのは否定できない。もし私がときメモ3のプロデューサーだったら、仮に発売日を延期してもこの状態では発売させないと言っても良い。いくつか具体例を挙げておく。
(なお多少のネタバレを含むため、この先を読む方は自己責任でお願いします)
1. 重く片寄ったシナリオ
ときメモ3の攻略対象キャラは8人である。しかし実際プレイしてみると、ヒロインが8人しかいないにもかかわらずやたらとそのシナリオが「かぶって」いるのが目につくのである。例えば、4人(牧原・河合・渡井・和泉)のヒロインが「死」や「命」に関連するシナリオを持ち、ヒロインのうち2人(橘・和泉)が入院する。そして、家族に何らかの問題を抱えているヒロインが4人(御田・相沢・神条・渡井)いる。
別に、登場キャラに重い背景を背負わせる事自体は否定されるべきことではない。例えばKanonのように「奇跡」をテーマにした作品であるならヒロイン全てに死や命が関わってきても然るべきであるし、AIRのように「家族」をテーマで描くのであれば全てのヒロインの家族に問題があっても当たり前である。しかし、ときメモ3は別に作品全体のテーマが「死」や「命」や「家族」である訳ではない。
また「死」に関するシナリオは比較的人を「泣かせやすい」と言う一面がある。しかし、そうであるがゆえに「死」に関するシナリオはよほど慎重に扱わないと「安易」「安直」とみなされると言う一面もまた存在する。Kanonのように非常に完成度の高いシナリオでも一部で「安易に人死にを使うな」と言った批判があがるほどであるのだ。
ときメモ全体のコンセプトは「高校生活のシミュレーション」「笑いの中に涙あり」だったはずである。「高校生活のシミュレーション」に「死」や「家族問題」が必須であるとは私は到底思えない。それらを扱うなとまでは言わないが、基本が「高校生活」である以上、扱うとしてもワンポイントのアクセント程度が限度であろう。例えば、ときメモ2で登場キャラ全員が八重さんと同じような背景を背負っているとしたら、それは「ときメモ」としては重すぎるのではないだろうか。
2. シナリオの練り込み不足
-いきなり「私は魔物退治屋だ」って…:神条シナリオの場合-
神条シナリオのクライマックス、街で会った神条の態度にいつもと違うものを感じた主人公は、その後を追って校舎の屋上に辿り着く。そこで見たものは、神条と魔物の戦闘であった。神条はピンチに陥るものの、主人公と協力して魔物を打ち倒す。戦闘の後、彼女の口から事の真相が語られる。自分は両親の行方を探しながら国の命令で学校に巣食う魔物を退治する魔物退治屋であると。
…って、ちょっと待て!「何の前置きもなく」そんな非現実的なシチュエーションを持ち出されて、すんなりと受け入れろと言う方がどうかしている。あらかじめ断っておくが、ときメモ3は決してベースがファンタジー作品ではない。主人公達はその前日まで「普通」の学校生活を送っている。別に、ときメモにファンタジー要素を入れるなと言う訳ではないが、普通の学校生活に非現実的要素を入れるからには、相応の「伏線」がなくてはストーリー自体が理不尽なものとなってしまう。例えば、ときメモ1の世界征服ロボにしても、その前に修学旅行で宇宙人と戦ったり、戦闘衛星をハッキングしたりするような紐緒さんのキャラと言う伏線があってこそ、はじめて生きてくるのである。もしときメモ1で如月さんが卒業式の前日に世界征服ロボで戦闘を仕掛けてきたら、まず引くのではないだろうか?(ギャグとしては成り立つだろうけど)
確かに、学校が荒らされていたり、怪我をして学校に来たりした「伏線」は存在する。しかしこの程度では「現実的」に十分起こりうることであり、神条がときメモ3の「番長」だとか学校を内偵調査しているとか言うのならまだしも、いきなり「魔物退治」に結び付けるのは無理がある。七不思議にしても、学校では「よくある」話だし、何より神条シナリオの中では魔物も七不思議もクライマックスまで全く触れられることがない。要するに、神条と魔物退治を結び付ける伏線が決定的に不足しているのである。少なくともクライマックスの前に主人公が怪現象に襲われて、何者かに助けられると言った程度の伏線は必要だったであろう。ストーリーには意外性は必要ではあるが、意外性と理不尽は異なることは知っておいた方が良い。
-伏線を張るだけ張って、オチなしかい!:和泉シナリオの場合-
和泉穂多琉と主人公の出会いはインターネットのホームページ「月の雫」で「月夜見」と「かるかん」(主人公のHNは複数の中から選択可能だがここでは便宜的に「かるかん」を用いる)としてである。しばらくはお互いの正体を知らないまま、学校では和泉穂多琉と主人公として、インターネットでは「月夜見」と「かるかん」として、二重の関係を続けることになる。やがて、過去に遭った事故のことなど、和泉=月夜見の共通点が明らかになっていき、「月の雫」で流れている「月夜見」のオリジナル曲を和泉がピアノで演奏している場面に主人公が遭遇すると言う決定的イベントが起きる。結局その場ではそのことに言及する機会を逸してしまうが、その後の再入院イベントでは和泉も主人公が「かるかん」であることを知っているかのように接してくる。
…と、実は和泉シナリオはここで「終わり」なのである。その後のエンディングではインターネットのこと「月の雫」のこと「月夜見」のことには一切言及されない。要するに散々伏線を張ってきた、「月夜見」と「かるかん」の関係は全く収束されないままエンディングを迎えてしまうのである。
はっきり言ってこれでは「消化不良」を起こす。確かにシナリオ制作においては、伏線のうちいくつかをわざと明らかにしないで余韻を残す(例えばときメモ2の光が髪を切った理由とか)と言う手法も存在するが、シナリオの軸となる伏線を明かさないのは不親切を通り越して、シナリオが未完成であると言われても仕方がない。例えばときメモ2の一文字シナリオで、茜と総番長の関係が最後まで明かされず、「ないしょないしょ」のエンディングしか存在しなかったとしたら、それは明らかに「消化不良」であろう。
(自分が確かめた訳ではないが、和泉シナリオにはいわく付きの話がある。実は和泉シナリオには自分が「月夜見」であることを明かす「トゥルーエンディング」が「内部的」に存在していると言う。改造コードを用いてフラグを立てれば、そのエンディングを見ることはできるが、通常プレイではなぜかそのフラグが立つことは絶対になく、そうでないエンディングの方しか見られないとのこと。もし、それが真実なら「バグでトゥルーエンディングが見られない」とみなすのが自然な流れである。もっとも、コナミがそれを認めることは決してないと言えるが…)
確かに今日の恋愛ゲームにおけるシナリオ重視の流れの中では、もともとキャラと世界感に重きを置いていたときメモにも何らかのシナリオ要素が導入されてもそれは当然の流れである。ただし、シナリオ要素を入れることについては否定されることではないが、入れるなら中途半端なものは入れるべきではない。
コナミにシナリオ制作のノウハウがないとは言わせない。ときメモ1ドラマシリーズのときはvol.1〜
3まで「人死にを使わずここまで感動できるシナリオはめったにない」とまで言われるほど完成度の高いシナリオを世に送りだしている。確かにときメモ本編における育成SLGのゲームシステムは長大なシナリオを描くには不向きであるが、それならば「放課後モード」での短めのシナリオを用いればいいはずである。それすらしなかったと言うのは「シナリオに関して手を抜いた」と邪推されても致し方ないのではないだろうか。
3. 理不尽な進路決定
1〜3どころかGSでも受け継がれているときメモの基本は「高校生活シミュレーター」である。当然3でも体育祭/定期試験/文化祭/修学旅行と言った高校生活における定番行事は網羅されているし、勉強を頑張れば試験で良い成績が取れるし、体を鍛えれば体育祭や練習試合で活躍できると言うのは育成SLGであるときメモにあって他のゲームにはない特徴でもある。
しかし、言わば育成SLGパートにおける締めとも言える主人公の進路決定についてときメモ3では大ポカをしてしまっている。以下私のプレイ記録を参照してもらいたい。
初回 文系35 理系45 芸術35 試験では常に10位前後→一流大学不合格
2回目 文系42 理系42 芸術42 試験では常にトップかそれに準ずる成績→一流大学不合格
3回目 文系50 理系50 芸術50 試験では毎回トップ→一流大学不合格
特に3回目の一流大学チャレンジのときはなぜか成績では中位の牧原さんが一流大学に進学している。もはやこれではお手上げと攻略系サイトを覗いてみると、余りにも意外な情報を発見する。
実は一流大学合格はときメモ3でも最も難易度が高く、仮に条件を満たしていても、確実に合格できる手段は存在せず、結局「運に依存する所が大きい(確率は低い)」。ただし「別のキャラが同じ大学を受験している(試験会場で出会う)と主人公は絶対に合格しない」また、学力レベルは35程度でも受かるときは受かるが、「高すぎる(45以上)場合は合格できないようである」
手違いで合格条件がおかしくなってしまったか、それとも学力以外の理不尽な合格条件が存在するのかは分からないが、これでは育成SLGとして破綻していると思うのは私だけだろうか?特に「別のキャラが同じ大学を受験している(試験会場で出会う)と主人公は絶対に合格しない」と言うのはバグだと言われても仕方ないだろう。また女の子の進路にしても、どうやら一定の範囲内においてランダムで決定しているようである。なので、先ほどの牧原さんの例のように成績的にあり得ないような進路に進むことも出てきてしまう。女の子の進路はときメモ1では固定であったし、2では変動進路だったが女の子自身のパラメータの変化が定期試験の結果などに反映されるようになっている。そうなると、少なくとも3では2と同等以上の進路決定のシステムを採用するべきだったはずなのに、見方によっては1よりも理不尽なシステムになってしまっているのはさすがにいただけない。職種を増やして(そのために女の子がゲーム中では全く言及されない囲碁の棋士やプロ雀士になるのもどうかと思うが)もその決定の仕方が理不尽では元も子もないのである。
<ときメモファンド3重の「破産」>
前の項目でときメモ3の事前のプロモーションは成功しなかったと書いたが、実はときメモ3は「別の意味」で注目を集めていた。それが、ゲームファンドときめきメモリアル(以後ときメモファンド)の発売である。
1つ目の「破産」:発売前の「逆宣伝」
先にときメモ3は別の意味で注目を集めていたと書いたが、実は「注目」していたのは証券業界やゲームメーカーであり、肝心のファンはときメモファンドに冷ややかどころかむしろ嫌悪感を含んだ視線を送っていた。
実はときメモは2が発売された後くらいからファンの間では「3が出ても成功しない」と囁かれていた。「栄光と挫折」「誤算」で論じてあるので、ここではあえて詳しく述べないでおくが、グッズの乱売、ユーザーの声を聞こうとしない体質、利益再優先の金満体質、お粗末なサブストーリーズなど、ユーザーのコナミに対する不満や嫌悪感、失望の感情はピークに達していたからである。
もちろんそれでもあえて「ときメモ」本編の続編を出してその成果を世に問おうと言うのであるならば、それはクリエーターの「武士道」として一定の評価はできるし、出来次第では逆転ホームランも起こらないとは言い切れない。(過去にはもうアペンドディスクがないから、売れないことは確実な情勢でもあえて発売した、Hibikino
Watcher vol.4の例がある。)しかし、そこで浮上したのがときメモファンド発売の話である。しかも10口でスタッフロールに氏名掲載、20口で限定版進呈とあからさまに1や2のファンをターゲットにしている。ユーザーは馬鹿ではない。少し考えれば、ときメモファンドを「グッズ」として発売することによって、ときメモ3が失敗したときのリスクをユーザーに被ってもらおうと言う魂胆が嫌でも目に付いてくる。しかも発売前の下馬評でも「成功しないだろう」と言われている。さらにもう少し考えるなら、内部事情に疎い一般投資家(恋愛ゲームとあまり関わりがない人たちにとって、「ときメモ」はいまだに1のままである)にも社会現象を引き起こした「ときメモ」のネームバリューで出資させようと言う目論見も見えてくる。
すなわち、ただでさえ利益再優先の金満体質で不評を買っているのに、さらに露骨にユーザーどころか一般投資家からも「直接」開発費をせびろうと言うのである。その上、表向きは「ファンドで皆様と一緒にゲームを作っていく」と言っておきながら、「皆様」の意見や要望に耳を貸そうともしないのは、ある程度古参のファンなら周知の事実。だったら、せめて自分の資金で作るのが最低限のマナーであろう。
これでは「反感を持つな」と言う方がどうかしている。ときメモ3自身には何の責任もないことは確かだが、そこまで理性的に割り切って作品を評価できる人間は決して多数派ではない。(不祥事を起こしたアーティストのCDが店頭から撤去されるのがいい例である)その結果多くの「食わず嫌い」を生じたことは明らかであろう。
2つ目の「破産」:開発の「足かせ」
前の項目で私は「もし私がときメモ3のプロデューサーだったら、仮に発売日を延期してもこの状態では発売させないと言っても良い。」と書いたが、これはある意味「意地悪」であると言うことは承知の上で書いている。
実は前の項目で述べたシナリオの不備やゲームバランスの悪さは、テストプレイを数回すれば誰でも気付く内容である。決して数十時間やり込んで、初めて見つかるような不具合ではない。すなわち、普通だったら「発売される前に修正されていて然るべき」なのである。
しかし、ここで思わぬ形でファンドが足を引っ張る形になる。ファンド発売時にときメモ3は「2001年中に発売する」と言うことを約束している。もしこれを反古にしてしまうようであるのなら、出資者に対してファンドどころかコナミの企業としての信用も失墜させてしまうことになるし、発売を極端に遅らせると、出資者に対して賠償の義務が生じてくる。つまり「未完成だろうが見切り発車だろうが2001年中に発売させなくてはいけない」と言うことでもあるのだ。
ゲームに多少通じていれば当たり前だが「ゲーム発売予定日の延期」は実は日常茶飯事のように行われている。発売日が発表されても数カ月程度は延びるだろうと言うことは、ゲーマーからすれば暗黙の了解のようなものである。なぜなら、仮に綿密な計画があったとしてもゲームと言うものは「出来てみないと分からない」と言う面も多い。一通り完成させても思わぬ所でバグが発生したり、操作性やゲームバランスが悪かったりして、それを修正する作業が必要になってくるし、さらに厄介なことに仮に修正したとしても、修正したことによる別の問題が出てきたりするので、修正作業自体いつまでかかるか未知数であると言う面も強い。もちろん予定日通りに発売されるのならそれに越したことはなく、やたらと発売日を延期すれば、ユーザーからの期待や信頼は徐々に低下していく(2年も3年も延期して、ほとんど見放されてしまったようなケースもある)が、発売日きっかりにバランスが悪い作品を出されるよりはマシということでもあるのだ。
ときメモ3の発売日は2001年12月20日。もはやタイムリミットギリギリである。これだけでも本来あと3か月程度は開発期間が必要であったのに、ファンドの発売期限のために未完成に近いような状態で発売せざるを得なかっただろうと言うことが推察できる。私はときメモ3発売前に「ファンドの期限に間に合わせるために中途半端なものを出すようなことはして欲しくない」と言ったことがあるが、まさにその通りになってしまったのだ。
私個人の感想として、3は「原石」としては非常に良いものを持っていたような印象を受ける。トゥーンレンダリングだって実際やってみればさほど違和感はないし、ゲームシステムも世界観もおまけやお遊び要素もきちんと仕上げられていれば、変に1を否定した臭いが目立つ2よりも、1からのテイストを良い意味で忠実に反映させていたものになっていただろうと思われる。「食わず嫌い」はあくまでも「食わず嫌い」、「事前の逆風」はあくまでも「事前の逆風」である。ドラマシリーズだって事前に「ときメモに固定シナリオを入れるな」とか「ときメモにADVは適当ではない」とか言われていたし、ときめきの放課後だって事前に「クイズゲームなんて何を考えているのか分からない」とも言われていた。しかし、実際発売されてみれば「中身」の力で逆風を跳ね返し、非常に高い評価を得てきている。ときメモ3にしても「きちんと仕上げられていれば」「中身」で「逆風」も「食わず嫌い」も跳ね返せていたような気がしてならない。こうなるとファンドでゲーム開発を援助するどころか、むしろファンドがゲームそのものの足を引っ張ってしまったと言っても過言ではないだろう。
3つ目の「破産」:発売後の「帳尻あわせ」
1つ目の「破産」でも書いたが、ゲームファンド発売はゲーム界では初めての試みである。本来注目を集めたいはずの一般ユーザーからは注目を集められず、証券業界や投資家や他のゲームメーカーからの注目ばかりを集める結果となってしまった。もしそのような状態で仮にファンドが失敗(額面割れ)しようものならばコナミ自身どころかゲーム界全体の信用問題ともなってしまう可能性が出てきたのである。つまりファンドと言うゲーム界初の試みを行ったがために、「引くに引けない」「失敗させることができない」状況になってしまったのである。
ときメモ3の初回(初週)販売本数はおよそ7万本である。実はこの段階ではときメモファンドの額面割れは確実と言われていた。なぜなら、最終的なゲームの売り上げ本数は多くとも初回販売本数の2倍程度が相場(記録的ヒットで初回の出荷が間に合わない場合やマイナーすぎて初回本数が少なすぎる場合を除く。そういった点ではときメモ1は本当に例外中の例外である)であり、そこから判断するとときメモ3の最終販売本数は15万本程度。3とGSを合わせて出荷本数20万〜30万が額面割れのデッドラインと言われていたので、もはや絶望とまで言われていたのである。
ところが、ファンドの償還額は「出荷本数」で決定される。実際発売後ときメモ3の値崩れは早めに起きてきている。これ以上はあえて触れないが、賢明な読者諸氏ならもうどのようなことが行われたかは想像に難くないであろう。
そのような事情とGSが予想外のヒットとなったことが重なり、ときメモファンドの償還額は10088円と何とか額面割れだけは避けることができた。コナミは漫画雑誌でのパロディ表現にすら噛み付くほど、盛んに0.88%の利益を「成果」として強調する。しかし、たかが0.88%を「成果」として強調するなら、こちらも言うことがある。「ときメモファンドは投機的にはマイナスである。」額面割れではないが元本は確実に割れている。なぜなら、ときメモファンドは証券会社に一口当たり315円の手数料を払って購入する。しかも、利益分には20%の税金がかかる。すなわち、償還額が10394円以上にならないと投機的にはプラスにならない。要するに額面割れだけは避けて体裁だけ整えたと言う態度が見え見えなのである。
しかし、これで満足したのはコナミ「だけ」である。周囲の人間は馬鹿ではない。ときメモファンドを実質的には「失敗」とみなす。結局、ときメモ3の名前を巻き込んでファンドは周囲の人間を失望させただけの結果に終わる。現にときメモ以降ゲームファンド発売の話は聞かない。それでもあえて言うなら、ゲームファンドのシステム自体は決して悪いものではない。「ファンドで皆様と一緒にゲームを作っていく」という理念をきちんと額面通りに実行できるのなら、仮に結果が額面割れになっても、ユーザーとメーカーが手を組む有効な手段であると思う。ただ、あまりにも前例が悪すぎた。一体何のためのファンドだったのだろうか。
<後書き>
確かに一部ではときメモ3はおよそ20万本の売り上げを達成しており、KanonやTo
Heartの売り上げ本数(両者とも10万本前後)を遥かに上回っており、失敗どころかむしろ成功であると評価する向きもある。
「誤算」でも述べたことだが、確かに本数だけを見るならば一応は「失敗はしていない」程度の売り上げ本数である。しかしながら、ときメモ3はあくまでも「ときメモ」3である。一時期はゲーム界を席巻し、社会現象まで引き起こした「ときメモ」のタイトルを冠する作品の売り上げ本数が20万本で本当に胸を張って「成功」であると言えるのだろうか?例えば、ゲーム不況と言われる現在では売り上げ本数が50万を超えればまず「大成功」であると言って良い。しかし、もし「ドラゴンクエスト」の次回作の売り上げが50万本だとしたら、それは確実に「大失敗」である。そういった意味では、ときメモ3は決して「新作」ではない。「ときメモ」のネームバリューや旧作からのファンと言った土壌を引き継いでいるのである。
それに、ゲームの評価は決して売り上げ本数のみでするべきではない。売り上げ本数は確かに手がかりの一つだが、「作品」の評価はその後の商品展開・ファン活動のあり方・社会やゲーム界に与えた影響などを総合的に考えてするべきだろう。100万本以上を売り上げても1年後にはほとんど人々の記憶から忘れ去られてしまったような作品もあれば、10万本程度の売り上げでもその後のゲームに大きな影響を与えた作品も存在するのである。歴史的に考えてどちらが重要な作品かは言わずもがなであろう。
それでは、ときメモ3が1と同等とは言わないまでも、その半分でもその後のゲーム界に対しての「影響力」があったといえるのだろうか?「最後に出た3が最初に終わる」とまで言われる現状では残念ながらそれはノーと言わざるを得ない。
ときメモシリーズ全般に言えることだが、ときメモ3はあまりにもコナミ自身に足を引っ張られ、「破産」させられてしまったと言う面が大きい。ドラマシリーズのとき以上に外的要因に蹂躙されてしまったのであり、「ときメモの最大の不幸はコナミから出てしまったことである」と言う意見も聞かれるほどである。しかし、ときメモ1〜3そしておそらくはGSも「救い」は決してゲーム本編は基本的に悪くはないと言うことである。3も確かに作り込みは荒かったが基本と言う原石は決して悪いものではなかったはずである。私個人的にも決して3は嫌いではない。むしろキャラの完成度はそれなりに高いと思う。
しかし「救い」はあっても「次」があるかと言われれば、残念ながらその可能性は極めて低いと言わざるを得ない。コナミ自身に仮に採算が取れなくとも表現者として「4」を出そうと言う姿勢があるとは到底思えないからだ。だからこそ「破産」と言う名称を用いたのである。むしろ女性向け恋愛ゲームとしては空前のヒットとなったGSの方が、「次」が出る可能性は高いだろう。
私自身1〜3全てを含めて、ときメモのファンであるしこれから先もそうであろう。理性的には「破産」の判断は下せても、「奇跡」が起きることを心では願っている。ときメモはこの先良い思い出になることは確かだが、内心どこか煮え切らない所があると言うのもまた確かである。これが、現在私自身がときメモ自身に持っている感想であるし、また多くの人も近いものではないだろうか。
-完-
Received:2004.04.29 Accepted:2004.04.29
Published on the DeW:2004.04.29 Republished on the
DROP:2004.12.30
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