東長崎といえば、大学4年生の後半を過した土地である。西武池袋線の池袋から2つめの、典型的な私鉄沿線のたたづまいを見せている。西武線沿線では人気度は江古田と勝るとも劣らずかなり高いと思われる。そのため、中村橋に住んでいたときも憧れの目で見ていた。特にこれといった思い出もそういわれればないが、無難な場所であった。このころの特筆すべき事項としては、この頃に朝食の原形というかそのままの形が固まった。納豆+ヨーグルトである。なぜ、ヨーグルトを食するようになったかは思い出せないが、毎朝ご飯に納豆をかけてというのが定番になった。そして、ポテトサラダなどの類が腹持ちのよいことを知り、日曜日の朝はこれだった。また一部続いている年賀状の大学のみんなとのやりとりもこの頃始めた。思うところがあったのか。みんな別々の進路ということでしんみりとした内容だったんだな。また、このときまでに一番重圧から開放されたと感じる時間を味わったのも、試験が全て終わったときだった。意識はしなかったが、テス
トなどに追われない空白の時間が何か雰囲気が新鮮でこういう気分もあったのだなあというのが本当のところである。特に「フィールド・オブ・ドリームズ」をベッドに横たわりながら、午前中の光が部屋に射し込んだ中で落ち着いてみていたのが非常に印象に残っている。このような暮らしを2週間ほど続けたのだろうか。例の香港からの国際電話がかかってきたのもこの時期である。短い間だったが、少しゆらいだのも確かだった。しかし、もう少し内容を吟味していればなあと思った。それくらいT・Iが直接の言葉で言ってくれても良かったが。そして、積極的にAVビデオを鑑賞していたのではないか。望月未来の表情がM・H(失礼!)にそっくりと思ったのもこの頃である。彼女とはたまに学校で出くわすことが多かった。そして、彼女のある一面(自分が勝手に想像している面であはあるが)をいとおしく思った時期もあった。こうして見てくると東長崎の風景にまつわる強烈な思い出はなくても自分史を語る上でかなり重要なおおげさにいえば成長の材料を提供している時代であることがわかる。
2Fである。環境的にはまあまあだった。堅固な雨戸があるが、線路の音が確かにうるさかった。そして、まわりには、 消防署や保健所があったね。まあ、そうもう少し北側の閑静な住宅街という所ではなかった。そして、今日歩いて、 思ったより駅から遠かったというのを感じた。住宅街だから遠く感じたのかは不明。 部屋の間取りは6+4.5畳キッチン・トイレつきで確か家賃43,000円/月であった。 6畳の部屋には床の間が付いており、かなり広く使える構造になっているが、今から思えばもっと工夫のしがいがあった。 たたみにじゅたんはやはり基本である。まあ当時は金が自由でなかったから発想も限られていたというところだろうか。
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