大宋人のくらし

「清明上河図」は朝日新聞日曜版の「世界名画の旅」を利用しました   宋(北宋960-1126)は、北方の遼や西夏と和睦して以来、社会が安定し発展しました。
  農業技術の発展により生産性が高まり、商品としての農産物が出現します。 道路や水路などのインフラも整備され、流通が便利になります。
  酒、茶、陶器、漆器、絹、紙などの特産物が都市で取引されます。 日本や、南海との貿易も盛んになります。 南海から輸入した香料も市場に出回ります。
  一方、都市を中心に人口が増加し、中国史上はじめて1億人を突破しました。
  ますます消費が増え、貨幣経済が発達します。 右は、当時の都市景観を写実した有名な「清明上河図」の一部です。





●貨幣の種類
  もちろん貨幣の基本は銅銭でしたが、それだけではありませんでした。
銅銭、鉄銭基本的には、1文銭と2文銭の2種類の銅銭が主体です。 鉄銭も一部では発行されています。
唐時代は年30万貫くらいの発行高だったのに対し、銅の産出が増大したこともあって、真宗時代には年100万貫、
神宗時代にはなんと年500万貫も鋳造しました。 すべてを1文銭とすると50億枚です。
銀錠(ぎんじょう)銀の塊です。
交子(こうし)、
会子(かいし)
四川省で発生した紙幣で、当初は手形として使われていたものです。
交引(こういん)貴金属、薬、塩、茶などの交換手形ですが、貨幣としても十分機能しました。
度諜(どちょう)僧侶の身分証明書ですが、通行に便宜を与えられたり、免税の特典があったため重宝され、これも貨幣として使われることがありました。


●庶民の生活
  当時の都会生活では、米の他、柴、油、塩、醤、酢、茶の6品目が必需品だったそうです。
  都市での1人の生活費は、およそ
    主食 米1升 = 10文 (1升=日本の5合)
    副食費 = 10文
    その他住居衣服費など = 20文
で、計40文くらい必要でした。 5人家族だと、1日で200文必要になります。
  単純労働者の賃金は、1日150文〜300文でした。 ただし、農村ではぐっと少なく30文くらいのところもあったそうです。


●役人の給料
 
  下級兵士の給料は年50〜70貫でしたが、これは1日150文になります。 これでは少なすぎます。  副収入があったことと思われます。 アルバイトや家族の内職もあったことでしょう。
  宋の初期、やっと官吏になれた呂夷簡は、月俸5800文でした。 彼は毎日の生活費を100文までとし、残りを母と妻に渡しました。 呂夷簡はその後栄進し、1029年に宰相となりました。
  1079年、黄州に左遷された蘇軾は、毎日の生活費を150文とし、毎月初めに150文の束30個を梁の上に置き、毎朝ひとつずつ使用したそうです。
  別な記録によると、下級官僚の給料は年240貫文ありましたが、このころの官吏は20人以上の一族を養うのが通例だったそうです。


●短陌、省陌という習慣
使う場所100文あたりの枚数
公定  77枚
市中  75枚
魚、肉、野菜  72枚
貴金属  74枚
宝石  68枚
女中の賃金  68枚
  56枚
  銭は1枚1枚ばらして使うこともありますが、大量になると、穴に紐をとおして使いました。 不思議な習慣ですが、100文は100枚ではありません。 少し少ないのです。 しかも、使う場所によってその枚数が異なりました。 右の表のとおりです。 この習慣を『短陌(たんはく)』または『省陌(しょうはく)』といいます。
  100文の税金を納めるときは、77枚の銅銭を一差しにして納めればいいのです。
  この不思議な習慣がどうして発生したかは不明ですが、どうも高金額を扱うことの多い、大商人に有利なようです。 女中さんが賃金を100文もらっても、ばらして使うと68文にしかならないのです。
  この習慣は日本にも伝わりました。 ただし日本では、品物によらず96枚でした。


●『東京夢華録(とうけいむかろく)』

  孟元老という人が、北宋の都に住んでいましたが、1127年、北宋が金に滅ぼされたとき、都を脱出して江南に避難しました。
  その後1147年、古き良き時代の都を回想してこの本を書いたそうです。
  東京とは汴京(べんけい)=現在の開封のことで、西京=洛陽に対しての呼び方です。
  上の「短陌」の話も、この本で紹介されていることです。
  文章は、参考文献Aより抜粋しました。

 朱雀門通りの西まで来て橋を渡ると、すぐ西へ進む大通りになって、麯院街と呼ばれる。その通りの南は遇仙正店という酒店である。・・・この店こそは第一等の酒店であって、銀瓶酒が一本七十二文、羊羔酒が一本八十一文もする。[巻二]

 朱雀門を出ると、まっすぐ竜津橋まで来る。まず州橋から南行すると、町並みには水飯、蒸し焼き肉、乾し肉が並んでいる。王楼の前には、あなぐまと野狐の肉、乾し雞肉、梅家と鹿家の鵞鳥・鴨・雞・兎の臓物、うなぎの包子(パオズ)、雞の皮と腎臓の叩き肉がある。それぞれ十五文たらずのもの。[巻二]

 そのほかの小さな酒店でも、揚げた魚と鴨・炒めた雞肉と兎肉・揚げたり蒸し焼きにした羊肉・梅汁・血羹・粉羹などの下酒(さかな)を売っているが、一品十五銭足らずである。[巻二]

 毎日五更(午前四時ごろ)になると、諸寺院では行者(あんじゃ)が鉄の札か木魚を叩いて、門ごとに夜明けを知らせて廻る。・・・居酒屋はたいてい灯をともして商売しているが、一人前せいぜい二十文である。また粥・飯・点心の店も開かれる。あるいは洗面の水や湯茶・煎薬を売るみせもあって、ずっと夜明けまでひきつづく。[巻三]

 われわれが店に入ると、例の瑠璃の浅稜の椀なるものを用いるが、それは「碧椀」といい、また「造羹」ともいう。料理は洗練されたもので、それを「造虀」という。一椀が十文で、うどんと肉が半々に入っているものを「合羹」という。[巻四]

清明上河図の中の担銭人
 また雞頭(おにはす)の実が市に出るが、これは梁門外の李和の店が最も繁昌しており、奥向きの宦官や天子の外戚たちはこれを買い求めて、宮中の臨時のお買い上げに供するので、ひっきりなしに金の盒(ふたもの)に入れて持ってゆく。士民がこれを買うときは一包み十文で、小さな新しい蓮の葉でくるみ、麝香をまぶして、赤い細紐でくくってある。[巻八]

 冬季には、黄河べりの遠隔地から積み送ってくる魚が入る。それを「車魚」といい、一斤百文を出ることはない。(1斤=約600g)[巻四]


●宋代の物価(歴史資料から)
  歴史統計資料から、宋代の物価を眺めてみましょう。
  すべて単位は銀の両(37g)です。
  当時の米1石は、95リットルです。1126年の「靖康の難」のときに高騰しています。
  かなりかなりアバウトに見ると、金0.1両=絹1匹=米1石=銭1貫(1000文)=銀1両 です。



●平和の代償
銭1緡
  宋が平和であったのは、北からの侵略者に対して、毎年貢物をしていたからです。
相手貢 物
1004年(壇淵の盟)〜 遼毎年、銀10万両、絹20万匹
1042年ころ〜 遼毎年、銀20万両、絹30万匹に増額
1044年〜西夏毎年、銀5万両、絹13万匹、茶2万斤
後、銀7.2万両、絹15.3万匹、茶3万斤に増額
1122年 金銭100万緡、兵餉20万石
(遼を滅ぼしたときに協力してくれた礼金)
1126年 金金500万両、銀500万両


  銀1両、絹1匹はおよそ銭1000文くらいでした。 また、銭1緡=銭1000文です。
  銀10万両、絹20匹は合計すると銭3億枚に相当します。


  禁軍兵士の給与明細
  禁軍は、40万人からなる皇帝直属の正規軍です。 兵士の平均的な給料は次の通りでした。
    ○ 毎月   料銭 0.5貫、 糧米 1.5石
    ○ 春と秋  紬絹 6疋、 綿 12両、 衣 3貫
    ○ 賞与(3年に1回) 銭15貫
  石、疋、両をすべて貫と同一価値とすると、年50貫となります。 禁軍全体では、年2000万貫になります。

参考文献:
  @伊原弘他、世界の歴史7「宋と中央ユーラシア」、中央公論社、1997
  A孟元老著、入矢義高・梅原郁訳注、『東京夢華録』、平凡社・東洋文庫・No598、1996
  B岡本不二明他、宋銭の世界、『アジア遊学』No.18、勉誠出版、2000
  C長井千秋、「南宋軍兵の給与」、1993
  DProf.Chuan Han Shen " The Study of the Chinese Historical Economy "

2002.4.27  2002.12.5『東京夢華録』を追加  2003.7.26改訂  2007.7.13改訂  2008.4.9改訂