幕末の雄藩

  幕末、日本には200余の藩がありましたが、どの藩も家計は苦しかったようです。
  あの手この手で収入を増やそうとしましたが、貨幣発行もその一つです。
  藩独自の貨幣には大きく次の種類があります。

藩  札藩内でのみ通用する紙幣。
 大きな藩ならだいたいどの藩でも発行しています。
寛永通宝盛岡藩、仙台藩などが大量に発行しています。
幕末になると鉄の4文銭が中心になりました。
天保通宝一文銭10枚を鋳潰すと、100文の天保通宝を作れます。
水戸藩、高知藩などが大量に作ったようです。
その他藩独自の貨幣銀や銅で、藩独自の銘を持つ貨幣です。

  それらの中からいくつかの藩の代表的な貨幣を紹介します。 (藩札以外はほぼ実寸です)


(1)出羽 秋田藩 佐竹氏21万石
秋田波銭  44.0mm 40.0g

秋田藩は、阿仁銅山など鉱山に恵まれています。
文久2〜3年(1862〜63)、藩独自の銅銭・銀銭を何種類も発行しました。
左のコインは秋田波銭と呼ばれているものです。 阿仁銅山独特の赤みの強い銅色です。 背に「秋」の字があります。

(2)陸奥 盛岡藩 南部氏20万石
寛永通宝 当四銅銭 背盛  28.6mm 6.0g

盛岡藩も南部鉄で有名なように、鉱山は豊富でした。
藩で発行する寛永通宝には裏に「盛」の字をつけるよう、幕府からの指導でした。
普通は鉄銭ですが、掲載の品は銅の通用銭です。 慶応3年(1867)の二戸郡浄法寺での密鋳品といわれています。

(3)陸奥 仙台藩 伊達氏63万石
仙台通宝 鉄銭  22.9mm 3.3g

天明4年(1784)からの発行です。
このころ大量に発行されていた鉄の1文銭が江戸の銭相場が下落させたため、このような特異な形状しか許可されなかったそうです。
天明の飢饉以降、寛永通宝の鉄銭や、この「仙台通宝」の大量発行で経済が混乱し、庶民の暮らしは大変だったでしょう。

(4)陸奥 会津藩 松平(保科)氏23万石
寛永通宝 当四鉄銭 背ノ  28.0mm 3.9g

会津藩ほど損な役割だった藩はありません。 藩主が京都守護職になって以来、働き、戦い、そして敗れてわずか3万石に減封されました。
掲載の寛永通宝は、慶応2年(1866)、江戸深川の会津藩邸内で鋳造したそうです。
背の字はノではなく、波と合わせて会津の「ア」だという説があります。

(5)常陸 水戸藩 御三家35万石
水戸虎銭  33.2mm 8.0g

水戸藩は、桜田門外の変、天狗党の乱など幕末の事件をいくつか起こしておきながら、藩論が統一されず、明治維新そのものには大きな役割を果せませんでした。
寛永通宝や天保通宝もたくさん作っていますが、この虎銭は慶応3年(1867)、その銭座の職人への支払い用に100文として発行し、その後市中で50文として使用させたそうです。 背の文字は「富国強兵」です。

(6)加賀 金沢藩 前田氏102万石
加越能通用 三百 (イミテーション)  58.5×39.1mm 31.9g

金沢藩の領域、加賀、越中、能登で通用させようとしたらしいです。 他に五百と七百があります。
掲載の品は、イミテーションです。 本物にはおめにかかったことがありません。

(7)越前 福井藩 松平氏32万石
藩札 銀百匁  174×55mm

藩札を最初に発行したのはこの福井藩で、寛文元年(1661)のことです。 福井の大目札として有名です。
掲載の品は、元治1年(1864)の発行のものですが、寛文元年のものとデザインは良く似ています。 藩札の元祖を誇るような風格です。
(画像の縮尺60%です)

(8)土佐 高知藩 山内氏24万石
藩札 金一分  164×48mm

高知藩では、大量の藩札と天保通宝を発行しています。
通常、領内で使うのなら銀札か銭札です。 金札にしたのは、軍資金が目当てだったためでしょう。
裏面の「通用限戊辰」の文字は、激動の時代を感じさせます。
(画像の縮尺60%です)

(9)長門 萩藩 毛利氏27万石
天保通宝 山口曳尾  49.7×32.9mm 26.3g

この天保通宝、通の字の最後が長いので、「曳尾」と呼ばれています。
20年くらい前までこの天保通宝は佐渡鋳造とされていたのですが、母銭が山口県から発見されたことと、銅色や文字の変化具合が古寛永の長門銭と似ているからと山口に転籍されました。 それだけに、長州藩のものと確定しているわけではありません。

(10)薩摩 鹿児島藩 島津氏77万石
琉球通宝 当半朱  42.9mm 29.2g

琉球通宝はこの円形のものと、天保通宝と同じ型のものの二種類あります。 円形の半朱銭は32枚で1両、天保銭型のは70枚で1両としたそうです。
文久2年(1862)、「琉球国に多年英仏人が滞留し、これに対する価費少なからず」との理由で、幕府より許可を得て鋳造を開始しました。 慶応3年(1867)ころまで鋳造されたそうです。
上部の小さな穴は後世のものです。



2002.3.10 2002.8.25実寸表示に改訂